律子がシャワーをあびる音がきこえる。体と柚木は相談してみた。欲望はなかった。いまから律子を抱くなど、考えただけでわずらわしくなる。
律子がバスルームから出てきた。柚木は目をとじ、寝息を立てる。律子が柚木のとなりに横たわった。下着を身につけてしまったようだ。寝息を立てながら、胸のうちで柚木は苦笑していた。家庭ではときたまこのような状況におかれる。これでは律子は妻と同じになってしまう。
律子はじっと柚木の寝顔をみつめている。やさしいまなざしなのがわかる。柚木の胸や腕をそっとさすった。そのあたりが律子は妻とちがっている。律子に申しわけない気持で柚木はいっぱいになった。
妻、律子、あゆみ。大事な女である順番にこちらの欲望は稀薄になる。ふっと思った。
3
柚木克彦の勤務している会社では、年度はじめに社員の集団検診が行われる。
ここ数年、柚木は検査をうけずにきた。時間が惜しかったせいもある。いちばんの原因は恐怖心だった。調べられると、なにか致命的な病気が発見されそうな気がする。
検査をうけるかうけまいか、迷っているうちに検診の期間がすぎてしまう。うけなかったことがこんどは心配になる。二、三ヵ月してなんの症状も出ないのをたしかめてから、やっと安心する。そのくり返しだった。
ことしは柚木も検査をうけた。たわいのない話だが、浜松で不能に終ったのが引金になった。日常の暮しにおいても、疲れやすくなったような気がする。柚木としては蛮勇をふるって医務室の扉をひらいた。
数日後に結果が出た。病気というほどの状態ではなかった。だが、血糖値が平均よりもかなり高いということだった。肝臓も少々くたびれているらしい。
「肝臓は週に一日か二日、休ませてやれば充分です。血糖値のほうは、糖尿病につながる恐れがある。まじめに運動とカロリー制限にとり組んでください」
ほぼ予想どおりのことを医師にいわれた。柚木は忠告にしたがう気になった。
カロリー制限のほうは妻に協力を依頼した。妻はひきうけたが、あまり真剣ではなかった。休日をのぞくと、柚木は毎日のように夕食を外でとっている。家でとるぶんだけカロリーをおさえても仕方がないのだ。なるべく家で夕食をとることにしよう。柚木は空《むな》しい誓いを立てざるを得なかった。
問題は運動だった。最近、出勤まえにオーボエの練習をしている。朝、ジョギングをやる時間はなかった。帰宅はたいていおそいうえに、酒が入っている。夜、近所を走るというわけにもいかない。
ある晩、あゆみの店で柚木はなにげなくなやみを打ちあけた。
「ホテルのアスレチッククラブへ入ったらいいわ。このへんのホテルにもジムがあるのよ。一汗かいて飲みにきてちょうだい」
あゆみが教えてくれた。クラブの会員が客のなかにいるらしい。
さっそく柚木は入会の手続きを問いあわせた。入会金と保証金で百五十万円ときいて、ためらった。だが、この話には妻が積極的だった。すすんで銀行へ連絡し、百五十万円を振りこんだ。
会社が終ってから、柚木はホテルのアスレチッククラブへ足を運ぶようになった。おもにジョギングと水泳をやった。ホテルはキタの酒場街の近くにある。一汗かくと、耐えがたいほどビールが飲みたくなる。接待などの約束のある日は、そのまま酒場へ出向いた。そうでない夜は、つとめて帰宅した。社の車と運転手を待たせておくと、帰りやすかった。期待ほど柚木が店へ顔を出さないので、あゆみはがっかりしていた。
三週間ばかりジム通いをすると、目にみえて体調がよくなった。体重が二キロ減った。食事にも気をつかった成果である。柚木は期待をもって医務室へ足を向けた。血糖値はかなり改善されていた。この調子で努力をつづけなさい。医師も満足そうだった。
このことを柚木は電話で律子に報告した。
「次回はひきしまった体でお会いできますよ。ベルトが孔二つぶん短くなった」
柚木は身長百七十六センチ、体重はいま七十五キロである。海水パンツをはくと、ゴムひもが腰まわりに食いこむ恰好になる。まもなくそれも解消するだろう。
「そんなにスマートになったの。大変。私もダイエットしなくては。恥ずかしくて柚木さんに会えなくなる」
「律子さんは必要ないですよ。理想的な体型じゃないですか」
「からかわないでください。私も水泳をはじめるわ。食事制限もきびしくする」
律子は焦燥《しようそう》にかられていた。さきを越されたと感じているらしい。
律子の夫はめずらしく東京に腰をすえている。おかげで律子は家を空《あ》けられない。浜松でコンサート、というようなチャンスはあれ以来なかった。柚木のほうも最近東京出張の口実が見つからずにいる。その意味でも律子は苛立《いらだ》っていた。
「いま、不動産の会社にたのんで、浜名湖のあたりにマンションをさがしているの。ちょうどいいのがあればいいんだけど」
別の日の電話で律子は打ちあけた。
柚木は気を呑まれた。本気で律子が物件をさがしているとは思っていなかった。話の様子では、律子は賃貸ではなく、売り物を希望している。投資の意味もあるのだという。
「買うとなると、相当の金額でしょう。大丈夫ですか。ご主人にたいして」
「私にだって、その程度のお金を自由にする権利はあるんです。いつまでも忍従だけでは済まされないんだから」
律子の声が歪《ゆが》んだ感じになった。
柚木は話題を変えた。律子と夫のあいだの問題にまでふみこむ気にはなれなかった。そこへ足を突っこむと、泥沼へひきこまれそうな予感がする。柚木自身と妻とのあいだも、似たような不気味な状態にあった。柚木に愛人がいることに妻は感づいている。へたに事実をさぐりだすと、自分が傷つくので、顔をそむけているだけのようだ。
数日後、とつぜん東京へゆく用事ができた。恒例《こうれい》の経営会議が次回は東京支社で行われることになったのだ。月曜の午前十時に会議ははじまる。前日上京すれば、律子とゆっくり会うことができる。
「日曜日の夕方ホテルでお会いできるのね。わかりました。かならずいきます。六時半には着くと思います」
電話で連絡すると、律子はそうこたえた。期待が高まると、彼女は切口上になる。
日曜の午後、柚木は新幹線で上京した。六時にホテルへ入った。フロントテーブルへゆくと、係の男に伝言メモを手わたされた。
「申し訳ありません。急用でそちらへいけなくなりました。あすご連絡します」
メモにはそう書いてあった。一時間まえに電話が入ったらしい。
柚木は落胆した。腹立たしくもあった。重い気分で部屋へ入った。ダブルベッドに体を投げだして、三十分も動かなかった。
律子といっしょに夕食をとる気で、腹を空《す》かせて列車に揺られてきた。ビールも飲まなかった。前回に懲《こ》りて、入念に体調をととのえた。肝臓薬、スタミナドリンク、ダブルベッド。すべてお笑い草となった。いい年齢《とし》をして、いったいなにをしているのか。
むかし立ち消えになった恋愛を成就させる気で、律子と逢《お》う瀬《せ》をかさねてきた。若かった時代をよみがえらせるつもりだった。じっさいに経験した人生よりも、もっと良い人生があったはずだという思いが、そんな気持の裏にはあったようだ。
結果、得たものは、なによりも老いの実感だった。律子との逢う瀬は、老いとの逢う瀬でもあった。おまけにきょうは、孤独と対面する羽目になった。経験しそこなった人生も、じっさいにつかまえてみると、期待ほどのものではなかった。実物と五十歩百歩のもののようだ。律子との仲も、そろそろ切りあげどきではないのか。
ゆっくりと柚木は起きあがった。夜をどうすごすか、きめなければならない。日曜だから酒場街は休んでいる。以前とちがって、若い女の肌をもとめて風俗産業をたずねる気にもなれなかった。あてもなく柚木はホテルを出た。夜の街をぶらついた。
提灯《ちようちん》をかかげた屋台があった。おでんを売っている。柚木はそこの客になった。律子といっしょなら、高価なレストランの食事でなければ気がすまない。一人のときは、柚木は倹約家であった。日本酒一本と、おでん二皿で夕食を終えた。本を読みたい意欲に柚木はかられた。律子との恋愛よりも屋台のほうに青春時代の名残りがあった。
部屋のチャイムの音で、翌朝、柚木は目をさました。七時半だった。舌打ちして、浴衣《ゆかた》をひっかけてベッドを離れた。
昨夜、食事のあと書店でビジネス書と文学書を買って部屋へもどった。テレビを見物したあと、読書にとりかかった。文学書にひきこまれて、一気に最後まで文章をたどった。眠ったのは午前二時半である。八時半まで眠って、さわやかに起きる予定だった。
柚木は顔をしかめて部屋の扉をあけた。朝食のルームサービス係が時間をまちがったのだろうと思ったのだ。律子の顔が目にとびこんできた。柚木は茫然となった。
「ごめんなさい。やっぱり起してしまったみたいね」
気づかわしげに律子は柚木をみあげる。
突発的に柚木は笑顔になった。いそいで律子を招きいれた。
肩をすくめるようにして律子は窓ぎわの椅子に腰をおろした。カーテンをしめわすれたので部屋は明るい。律子はピンク色のスーツを着ている。ブラウスは白だった。部屋が朝の空気でいっぱいになった。
「ゆうべ来られなかったから、いそいで出てきたの。柚木さん、きょう大阪へお帰りなんでしょう。いまを逃したらまた当分会えないと思って」
きのう取引先のフランス人夫婦を夕食に招待することが急にきまった。
夕方から律子は支度にかかりきった。ホテルへ電話する気でいたが、客がきてみると、その余裕もなかった。けさは六時に起きて朝食の支度をした。友人とゴルフだといいわけして、家を出てきたという。
柚木はベッドに寝て話を聞いた。
「さ、ここへおいで。早く」
ベッドの端をたたいた。律子はやってきてそこへ腰をおろした。
上体を起して柚木は律子を抱きしめた。くちづけすると、律子はあえぎはじめた。いい香りのする律子の体を抱きしめて、柚木は安堵《あんど》にひたった。むかし得られなかったものを手にいれた実感が湧いてくる。
「きょうは酔ってないのね。よかった」
さぐりにきて、律子は笑った。
柚木は、律子の上衣をぬがせにかかった。律子は立ちあがった。部屋のすみのクロゼットのそばで服を脱ぎはじめる。肩と腕、背中があらわになった。ひそかに柚木は狼狽《ろうばい》した。朝の陽光のなかでみると、律子の肌にはやはり光沢がなかった。
柚木はベッドをおりて、窓の厚いカーテンをひいた。夜がもどってきた。スタンドの豆電球をともした。浴衣をきて律子がベッドへやってくる。タイムマシンが作動《さどう》しはじめたのを柚木は感じた。律子の姿が、薄明のなかでみるみる若いころにもどってゆく。
「ああ疲れた。いまから一日眠りたいわ」
ベッドに律子は乗ってきた。
両ひざを折って脚を立てた。脚をのばしながら毛布のなかへ入ってくる。
柚木に抱きついてきた。あらためて二人はくちづけをかわした。柚木はすでに裸になっている。律子のおびを解きにかかった。
「ダイエット、はじめたばかりなの。まだ効果が出ていないわ」
律子は裸になった。両脚をからませてくる。ふとももの肉がやわらかい。
部屋は暗い。律子の顔も体も、ぼんやりとしかみえない。彼女の体をまさぐりながら、高校時代の律子を柚木は脳裡に描きだした。晴れやかな笑顔が目のまえにあらわれる。均整のとれた、しなやかな裸身が、その笑顔につながっていた。むかし柚木がじっさいに見た笑顔である。体のほうは想像の産物だった。だからこそ、好きなように思い描くことができる。
考えてみると、高校時代の柚木も、何度となく律子の裸を脳裡に描きだしていた。裸身にすがりつく自分を想像しながら、自慰をくり返した。その意味では柚木は、想像力の旺盛なあの時代にもどったことになる。
両手で柚木は律子の体をさぐっていた。弾力のない、鈍重な中年女の裸身の感触が掌にあった。だが、脳裡には若々しい律子の全身が映っている。映像があまりにはっきりしているので、現実の掌の感触も、イメージの律子の裸身をまさぐる感触に変質していた。若い律子を柚木は愛撫していた。現実は、どこかに消え去ってしまった。
柚木は上体をおこした。均整のとれた裸身にくちびるで奉仕するつもりだった。
「だめ。だめよ。私にさせて。ゆうべ約束をやぶったあとなんだから」
律子が起きあがった。たかぶって、息をはずませている。
律子はベッドからおりた。柚木の体に手をそえてベッドに腰かけさせる。脚のあいだにうずくまった。顔を寄せてくる。柚木の体に快感が流れこんできた。
しばらく柚木は快感に酔った。だが、酔いきれなかった。居心地がわるい。ひどく僭越なことをしている気分だった。スタンドの淡いあかりで律子の姿がみえる。柚木の両脚のあいだで、律子の頭が動きつづけている。こんなことをさせていいのかと柚木は思う。律子はあこがれの対象でなければならないのだ。
「ありがとう。もういいよ。さ、こっちへおいで。きみはお姫さまなんだから」
柚木は律子の腕をとった。立たせて、ベッドにひきあげようとする。
「だめよ。じっとしていて。私がしてあげる。私にさせて」
律子は柚木をベッドに押し倒した。
柚木の両脚のあいだに正座した。もてあそびはじめる。快感を送りこんできた。指も用いる。じっと柚木の顔を見おろしている。
あおむけになると、柚木はすべてを律子のもとへ投げだした気持だった。すると、安楽になった。律子の手の動きにあわせてややおおげさに悶《もだ》える。大の男が美少女に手さきでもてあそばれる実感が湧いてくる。快感が急に濃くなった。柚木は狼狽した。二人の位置が変るだけで、こんなに快感の質が変るとは、思ってもみなかったからだ。
柚木は呻き声をあげた。おおげさに悶えた。すると、いっそう快感は濃厚になった。愛撫を中止させようとする。律子はやめなかった。終りがきてしまった。
「なんだ。もう終ったの。いじわる。どうして私をおいていくのよう」
中年になった律子の声がきこえた。
律子は柚木の右手をとって自分の体に誘導した。柚木は愛撫にとりかかった。
枕もとの時計に目をやった。もうすぐ八時である。カーテンの隙間から流れこむ陽光がまぶしかった。陽光は椅子のそばにきちんとぬいであるハイヒールを照らしていた。
4
およそ二週間後、律子から会社へ電話が入った。はずんだ声だった。
「柚木さん、いま私がどこにいるかわかる。当ててごらんなさい。びっくりするわ」
「当てるって。いま仕事中なんだ。そんなに急に頭が回転しないよ」
柚木は苦笑した。大がかりなプロジェクトの稟議書《りんぎしよ》を見ているところだった。
大阪へきているんですか。柚木は訊いた。近くから電話しているのかもしれない。
「ちがいました。浜名湖のそばにいるの。いいマンションが見つかったのよ」
「マンション——。浜名湖のそばに。律子さん、本気だったんですか」
柚木は声が高くなった。
ほんとうに律子は隠れ家をつくるかもしれない。半分、柚木は予想していた。実現してみると、衝撃は大きかった。
湖畔というわけではない。それでもさほど遠くない場所にマンションがあった。業者から連絡をうけて、律子はすぐ駈けつけたのだ。2LDKだという。その一室からいま電話している。業者といっしょらしい。律子は声をひそめていた。契約して東京へかえる。保証人を柚木にたのむということである。
「ちょっと待って。その物件はいくらなの。二、三千万はするんだろう」
いそいで柚木は制止した。
律子には天馬|空《くう》をゆく傾向がある。保証人の意味を正確に理解しているとは思えない。
「まさか。その一割よ。保証金三百万円。買うのではなくて借りるの」
売り物の物件がなかった。賃貸でとりあえず間にあわせることにする。契約をすませ、小切手で支払いをする。保証人の印はこちらへきたとき捺《お》してくれればよいという。
律子の知合いの不動産業者が物件を仲介したらしい。なにも問題はなかった。柚木は保証人の件を承諾した。
「最高よ。窓から湖が見えるの。きっと柚木さんも気にいってくれるわ。内装の業者の人にもいまからきてもらうの」
律子は昂奮していた。
夕刻までに内装と家具の手配をして帰京する気でいる。朝、東京を出てきたらしい。
「残念だな。きょうそちらへいければいいんだが、時間がない」
「いいの。ちゃんとかたづいてからお迎えするわ。いまはまだきてほしくない」
「すまないな。きみにだけ負担をかけて」
「水くさいことをいわないで。それより月に一度か二度はかならずここへきてね。せっかくスイートホームができたんだから」
そんな話をして電話を切った。
柚木ののどの奥に苦い液がたまっていた。不機嫌になっている自分に柚木は気づいた。一つはもちろん、律子に経済的な負担をかけた負い目である。勝手に律子がやったことでも、「スイートホーム」である以上、経済に頬かむりをするわけにはいかない。
わだかまりの原因はほかにもあった。分譲ではなく賃貸の物件で律子が折合ったことに柚木は不満を感じていた。二人の仲を律子が軽視しはじめた証拠のような気がしたのだ。愛を永遠のものにしたいなら、あくまで分譲にこだわったはずである。理屈もなにもなく柚木はそう感じた。胸をしぼられるように、律子に会いたくなってくる。
仕事を終えてから、柚木は北新地の近くのホテルのアスレチッククラブへ出かけた。ダンベルと水泳で汗をかいた。最初のころのように毎日は通えない。よくて一日おきのペースになっている。体重はほとんど減っていない。腰まわりはひきしまってきた。近いうち、また血糖値をチェックするつもりだ。
ジムを出て、柚木は小林あゆみの店を覗いた。午後八時だった。四人づれの客が一組、カラオケであそんでいる。三人いた手伝いの女の子が二人になっていた。
カウンター席に柚木は腰をおろした。冷たいビールを飲んで息をついた。しばらくしてあゆみがとなりにやってきた。客の入りがわるくなったと愚痴をいう。柚木の部下数人の勘定がたまっている。柚木からそれとなく催促してほしい。そんなことをいいだした。
「よせよ。社員をつれてこいというから案内したんだぞ。おれが催促なんかしたら、彼らは二度とこなくなる。それでもいいのか」
「そこをなんとか上手にいうてよ。おねがい。私、柚木さんだけが頼り。ほんまよ」
「頼る相手がちがうだろう。少々赤字を出しても、酒屋の社長は我慢するさ。あゆみの体にさわるだけで、その値打がある」
「もういや。関口さんのことはだまってて。私がどんな気持でつきあってるか、柚木さん、よう知ってるやないの」
カウンターにあゆみは両肘をついた。苦悩のポーズをとって顔をふせた。
こんどの土曜、デートして。うつむいたままあゆみはささやいた。そっと柚木のふとももに手をおいた。
大胆なVネックの服をあゆみは着ている。胸もとと背中から肌の香りが立ちのぼった。柚木はしなやかなあゆみの裸身の抱きごこちを思いだした。恋愛などではない。それでも抱きたい。病気のようなものだ。
柚木は承諾した。午後三時にアスレチッククラブのあるホテルのロビーで待ちあわせることになった。
土曜日になった。休日出勤と称して、柚木は午後一時ごろ家を出た。妻のこわばった表情を強引に無視した。タクシーで午後二時にホテルへ着いた。ジムで汗を流したあと、あゆみと落ちあうつもりだった。
ロビーへ入って柚木は顔をしかめた。家族づれでごったがえしている。謝恩会はないようだが、結婚式、講習会なども何ヵ所かで行われているらしい。若い男女の二人づれや、外人の姿も目についた。以前東京のホテルで部屋をとれなかったときと同じ状況である。
フロントテーブルに柚木はいってみた。全館満室だといわれた。前日、予約しなかったのが失敗だった。大阪のホテル事情は東京ほどではあるまいと高をくくっていた。
ともかく部屋を確保しなければならない。公衆電話のコーナーへ柚木はいった。大阪の主要なホテルに片端から当ってみた。ミナミの新しいホテルにやっと空室を見つけた。
柚木はアスレチッククラブのジムへいった。ダンベルとジョギングで体をいじめた。シャワーをあびると、午後三時まえだった。
柚木はロビーへもどった。あゆみはまだきていない。混雑のすみに立って柚木は待った。運動のあとで体が火照《ほて》っている。じっとしていても、汗が出てくる。ビールが飲みたい。あゆみがきたら、すぐにバーで一杯やるつもりだった。
三時十五分になった。あゆみはまだあらわれない。柚木はいやな予感がした。もともと時間にだらしのない女だった。体の関係ができてから、二度柚木はすっぽかされたことがある。他人でない相手だから失礼がゆるされるだろう。あゆみはそんな考えをする。
スナックバーのママになってからは、時間や約束の大切さを知ったようだった。だらしのない面が消えていた。きょうは地金《じがね》が出たのかもしれない。
三時半になっても、あゆみはこなかった。もうあいつはこないだろう。柚木は自分にいいきかせた。だが、まだ思い切れない。約束をやぶらざるを得ない事情ができたのかもしれない。それにしても、柚木を電話で呼びだして違約を詫《わ》びることができないわけはない。なにをあの女は考えているのだろう。
結局、柚木は一時間待った。本人も電話もこなかった。妻の不機嫌をおして出てきただけ、柚木は怒りにかられた。あの女とはこれきりにする。愛してもいない女と関係をつづけるのがまちがいだった。
公衆電話で柚木はせっかくとった部屋をキャンセルした。ロビーの玄関のほうへ歩きかけて、思いなおした。受話器をとって、東京の南部律子の家を呼びだした。土曜日である。律子の夫が家にいるかもしれない。それでも律子の声をきかずにはいられなかった。
お手伝いらしい女が電話に出た。柚木は名乗った。偽名など使うと、律子がかえってとまどうだろう。律子が電話に出た。
「例のマンション、その後どうなりましたか。つぎの週末にでも使いたいけど」
必要もないのに柚木は声をひそめていた。
「私のほうからお電話しようと思っていたの。つぎの土曜日、どうかしら。泊るのは無理だけど、日がえりなら」
律子は元気な話しかただった。
夫は外出しているらしい。マンションはいつでも使える状態になったという。業者がすべて整えてくれたようだ。
来週の土曜日の正午、浜松駅で待ちあわせる約束をした。やっと柚木は胸が晴れた。どこへも寄らずに家路についた。
月曜日の昼まえ、あゆみから詫びと弁解の電話が入った。土曜日、あゆみはゴルフにいっていた。不義理のきかない客に、前夜おそく約束させられてしまったのだ。
ゴルフ場からホテルへ電話するつもりだった。だが、プレーと社交にとりまぎれて時機をうしなった。ずっと気にはかけていた。
「ゴルフをはじめたのか。若いのに、あゆみも偉くなったものだな」
柚木は砂を噛む思いだった。
ソアラとゴルフ。みんな後援者の関口の趣味なのだろう。
「ごめん。ほんまに済みませんでした。かならず埋めあわせします。ね、夕方Zホテルへきて。私、部屋で待ってる」
「いや、きょうは予定がある。あそんでいるひまはないんだ」
「水泳しにいくんでしょう。帰りに店へ寄って。終ってから私のマンションへいってもいい。きょうがだめなら、明日でも」
柚木はとりあわずに電話を切った。
夕刻、柚木はクラブに出向いた。一泳ぎして出てくると、ジムの出入口にあゆみが立っていた。店へつれてゆくつもりなのだ。
苦笑して柚木はかぶりをふった。駐車場にいる社の車を電話で呼ぼうとする。あゆみがとりすがった。社の車は帰してほしい。私が家まで送ってゆくという。
「でも、きみはいまから店じゃないか」
「いいの。送らせて。私、柚木さんを失いたくないもん。せめてそのぐらいさせて」
柚木は折れざるを得なかった。帰宅してもよいと社の運転手に告げた。
付近の有料駐車場にあゆみのソアラがおいてあった。柚木は助手席に乗った。すぐに出発した。道路はまだ混んでいる。自宅まで一時間近くかかりそうだった。
あまり話をしなかった。ソウル・ミュージックがカーステレオから流れていた。途中、新しい造りのモーテルのそばを通った。あゆみは流し目で柚木を見て笑った。また苦笑して柚木はかぶりをふってみせる。
自宅の百メートル手前で柚木は車をおりることにした。停まると、あゆみは柚木の首を抱いて顔を寄せてくる。丹念なくちづけになってしまった。柚木は不本意なことに若々しくたかぶった。かろうじて車のドアをひらいた。
律子との約束の日になった。柚木は正午すこしまえに浜松へ着いた。改札口の外に律子が立っていた。
モスグリーンを基調に濃淡で縞《しま》をつけた服を着ている。しっかりと胴をひきしめ、肩やスカートはゆとりのあるデザインである。見るからに良家の夫人だった。スーツケースと紙の買物袋を律子はさげている。近くのデパートで、食料品を買いこんできたらしい。
「レンタカーはもうやめたわ。運転がめんどうだから」
駅前広場のタクシー乗り場へ歩くあいだ、律子は腕を組みにきた。
足がはずんでいる。柚木は目をふせていた。腕を組みあわせて歩くのが似合う年齢ではないと考えてしまう。
高速道路に乗って湖に向かった。運転手をはばかってあまり会話がはずまない。律子はバッグからキーホルダーをとりだした。白い鍵を一つはずして柚木に手わたした。これからゆくマンションの部屋の鍵だった。
「気が向いたら、いつでも使ってください。そのうち住みやすくなると思います」
顔をこちらに向けて律子はささやいた。
昼会うと、律子はなるべく正面の顔を柚木に見せようとする。濃い化粧品を塗った目じりのあたりをかくしたいのだ。
柚木は律子の手をとった。律子はエメラルドの指環をしている。指環一つで全身に凜《りん》とした感じが出ていた。服をぬがせたい衝動に柚木はかられてくる。一分の隙もない律子に会うと、いつもそうなった。
湖の北部のインターチェンジで一般道路へおりた。しばらくゆくと、小さな町の高台に五階建てのマンションがあった。湖岸から百メートルも離れていない。夏、別荘代りに利用する浜松市民が多いということだ。
せまいエレベーターで五階へのぼった。西の端の部屋が二人の隠れ家だった。なかへ入った。柚木は感嘆の声をあげた。家具、壁紙、絨毯《じゆうたん》。すべて整っている。キッチンも冷暖房も最新式であるらしい。あらゆるものが光沢をはなっていた。生活の匂いではなく、新しい品物の匂いが部屋にこもっている。
入ってすぐがダイニングキッチンだった。奥が居間、左手が寝室である。居間へ入ってみて、柚木は声をあげた。右すみのポケットのような箇所にスタンド式のピアノがある。
「すごいな。ピアノを買ったのか」
「すごくないわ。いまはピアノなんて、ごくふつうの家具なんだから。ないほうがむしろ不自然なのよ」
買物袋をキッチンにおいて、律子がやってきた。
ピアノの蓋をあけた。人差指でいくつか鍵盤を突っついた。澄んだするどい音だった。天井と壁が感応してふるえる。柚木の体も一瞬ふるえた。音が外へ洩れないよう、窓のサッシを二重に造り替えさせたという。
「こんどはオーボエをもっていらっしゃいね。合奏しましょう。なんでもいいの。鳩ポッポでもなんでもいいんだから」
二人で窓の外をながめた。ひろびろとした湖が見わたされる。快晴で、湖面が白っぽく光っていた。
律子はキスをもとめてきた。
力いっぱい柚木は抱いて、くちびるをあわせにゆく。律子の体がかなり細くなっていた。ダイエットに成功したらしい。思いきった食事制限をしたにちがいない。
キスが終った。しばらく抱きあったあと、くるりと反転して律子は離れた。若妻のような足どりでキッチンへ入った。冷蔵庫からワインを出して、そばのテーブルにおいた。律子は白いエプロンをした。流し台に向かってなにか料理をはじめる。
「デパートでおいしそうな魚を売っていたの。やはり海が近いのよね」
もう刺身になっている。律子はそれを皿に盛って、野菜をつけあわせた。
「おそれ多いな。お姫さまの料理とは」
「恐縮することはありません。たいしたものがないんだもの。こんどはどこか料亭で、お弁当をつくってもらいます」
サーモンやキャビア、カニの缶詰、サラダ、クロワッサンを律子は用意した。
ワインの栓を柚木はぬいた。フランス産だが安いワインだった。この近所の酒屋に高級品がなかったのだろう。
乾盃して、食事にとりかかった。まぎれもなく新婚家庭の雰囲気になった。途中、律子は立って、カセットデッキにCDをいれる。モーツァルトのディベルトメントが流れた。
「くつろぐと帰るのが面倒になるなあ。今晩、泊ってしまおうかしら」
ため息をついて、律子はつぶやいた。
「まずいよそれは。ご主人を刺戟する。隠れ家がバレてしまうぞ」
「大丈夫。おととい急に出発したの。ローマなんだって。一ヵ月は帰らないみたい」
律子はキャビアをパンにのせて口へはこんだ。ゆっくりと噛んだ。
「柚木さんは帰らなくてはいけないの」
「家になにもいってこなかったからね。でも、なりゆきしだいだ。そのうち、帰るのが面倒になるかもしれない」
ワインのボトルが半分|空《から》になった。
律子はボトルを冷蔵庫にしまった。飲ませてあげない。意味ありげに笑った。
律子はほとんどたべなかった。ダイエットですか。柚木の問いにだまってうなずいた。
食事が終った。支度をして柚木は風呂に入った。ちょうどよい酔いごこちである。腰にタオルを巻いてバスルームから出た。
戸のそばに青いガウンがおいてある。それをもって柚木は寝室に入った。ダブルベッドがある。窓にカーテンがひいてあって、部屋はうす暗い。ガウンを身につけないで、柚木はベッドに横たわった。
体調はよかった。気持よく酔っている。久しぶりで欲望が体にみなぎった。すべてが新婚にふさわしい。律子がバスルームから出てくるのが待ち遠しかった。
やがて物音がした。律子が寝室へ入ってきた。大きなタオルを体に巻きつけている。柚木は胸をつかれた。律子の脚がたしかに細くなっている。全身がひきしまっていた。
「やせたね、律子さん。すごいよ。まるで二十代のシルエットだ。がんばったんだな」
「そうよ。病院でメニューをつくってもらって、必死で減食したの。柚木さんがジム通いしているのに、私だけおくれをとるわけにいかないわ。きれいになりたかった」
タオルを巻いた自分の体を満足そうに律子は見おろした。表からも裏からもながめた。
窓のカーテンを律子はあけた。寝室中に午後の陽光があふれる。窓辺に立って、律子は外を見わたした。
「どうしたの。暗いほうがいいのに」
背を向けた律子に柚木は声をかけた。
不安が胸にさしこんできた。律子の肩や背中には、光沢がなかった。
「柚木さん、いつも高校時代の私を思いうかべているでしょう。そういうのって、女はつらいのよ。いまの私を愛してほしい」
「いまのきみを愛しているよ。だって、そこにいるのはいまのきみじゃないか」
とっさに柚木はいい逃れた。動揺が声にあらわれていた。
「せいいっぱいなの私。これ以上きれいになれないわ。ベストをつくしたつもり」
こちらに背を向けたまま、律子はバスタオルを体からとりのぞいた。
最初、柚木は美を感じた。律子の体はほんとうに二十代のシルエットをとりもどしていた。肩や背中が脆《もろ》い感じになっている。腰はひきしまっていた。尻はひとまわり小さくなり、脚も細くなった。律子の脚はわずかに曲っている。いまはそれが、かえってエロチックに感じられる。
つぎに柚木は目を覆《おお》いたくなった。何秒か体が鳥肌立った。律子の尻のふくらみの下に深い横じわが走っている。以前にはなかったしわである。脂肪と肉が落ちた結果、まるでナイフをいれたような深いみぞができた。
腰にもしわが刻まれた。尻の上のほうにも横じわがある。律子が頭を動かすと、首にもしわができた。まるで切り刻まれたように、たくさんの黒い横線が走っている。
「かなりバランスが良くなったでしょう。水着をきて歩く自信がついたわ」
律子はこちらを向いた。
乳房のかたちが良くなっている。整形したらしい。若い女ほどではないが、ふくらみが回復している。だが、乳首の色は黒いままだった。そのうえ腹に横じわが刻まれている。脚と胴の継ぎ目もしわに変っていた。
目をそらさぬよう、懸命に柚木は律子の裸身をみつめた。讃嘆の表情をつくった。また体が鳥肌立ってくる。室内のすべての調度が新品だった。建物も新築の部類である。律子の体のおとろえが際立《きわだ》った。律子と柚木だけが、ここでは中古品である。
「やっと私、夢が叶《かな》ったんだわ。柚木さんとこうして新婚生活が送れるんだから」
律子はベッドにのぼってきた。
のしかかってくちづけにくる。精魂をこめて柚木は応じた。律子の体をまさぐる。くちびるを這わせにゆく。だが、目をとじてむかしの律子を思い描くことを禁じられてしまった。エネルギー源を柚木はおさえられた。体は無力のままである。
律子はあえいでいた。柚木を迎えいれたい、という意味のことを口走った。柚木の体をさぐりにくる。腰をひいて、ふれさせなかった。代りに律子をおし倒して、体をひらかせた。くちびると舌と手指をつかって、快感を律子の体へ送りこんだ。
しばらくして律子は声をあげた。悶《もだ》えながら頂上へ駈けのぼった。柚木はさらにしがみついて奉仕をつづける。身動きできないほど律子を疲れさせてしまいたかった。