「きみらは苦労が足らんよ。ガキのころから手とり足とりママにめんどうをみてもらって育ったから」
五つ六つ上の団塊世代の先輩たちから、堀井たちはよくいわれたものだった。
団塊世代の社員からみると、堀井たちもけっこうたよりなかったらしい。それでも課長に遠慮する神経はもっていた。にらまれないよう、課長の顔色をうかがって暮した。
ところが新人類の連中ときたら、まったく上を気にしない。マイペースである。公私をはかりにかける場合、平気で私を優先する。自主性があるのかと思うと、仕事の面ではまるでちがう。自分の判断ではなにもできない。一々指示をもとめる。こまかく教えてやらないと、子供の使いもできない。
まったくわけのわからぬ連中である。五十代の社員からみれば、堀井たちだって相当にふしぎな感性をしているのだろうが、新人類ほどかけはなれてはいないはずだ。この十年間で、日本の若者は大きく変った。ファッション商品の移り変りよりも、人の心の移り変りのほうがはげしいくらいである。
「堀井さーん、おさきにバイバイでーす」
これも入社二年目の女の子だった。
うたうように声をかけて、呑気《のんき》な足どりで去ってゆく。堀井たちの多忙ぶりがまったく気にならないらしい。
堀井浩介は胸がムカムカしてきた。怒鳴りつけて、気合をいれてやりたい。
堀井さーん。気らくに呼ばれるのが、そもそもおもしろくなかった。堀井は株式会社和幸産業、大阪支店の営業第二課長である。名刺にはそう書いてある。十二名の課員を指揮し、管理職手当ももらっている。
だが、社内で堀井を課長と呼ぶ者はいない。堀井さんである。ほかの部課長も重役もみんな“さん”づけで呼ばれている。社長の岡本雄一も“岡本さん”である。
二年まえからこうなった。いいだしっぺは岡本社長自身だった。
和幸産業はボディファッション(女性用下着)メーカーである。ファンデーション(ブラジャー、ガードル、ボディスーツなど)やランジェリー(スリップ、ブラスリップ、ランジェ、ショーツなど)を主力製品にしている。社員は仕事のうえで、若々しい時代感覚をつねに要求される。社内には自由な、クリエーティブな雰囲気がなければならない。
そのためにはいかめしい役職呼称をやめたほうがいいと社長は考えたのだ。××部長、××課長と呼ぶだけで、下は近づきにくい感じを抱いてしまう。柔軟な感性をもったマルチ人間であるよりも、会社人間であることを強要されている感じになる。これでは時代の流れに乗りおくれる。思いきって役職呼称をやめようということだった。
それがきまったとき、堀井浩介は課長になったばかりだった。堀井課長、と呼ばれることに馴れた矢先に、堀井さん、に逆もどりした。三十三歳でみごと課長になったのに、格さげされたような気がしたものだ。
とくに、きのうきょう入ったばかりの新米に気やすく「堀井さん」とやられると、どうもおもしろくない。さっきみたいなおニャン子から「堀井さーん」などと呼ばれると、胸がムカつく。入社十年のキャリアを、まるで尊重されていない気分になる。
こんなことで腹が立つのは老化現象なのだろうか。冗談じゃない。おれはまだ三十五になったばかりなのに。胸のうちで堀井は自問自答した。書類をもちなおした。締切りまぎわである。よけいなことを考えているひまに、一ページでも作業を進行させなければならない。
堀井浩介は仕事に没頭した。気がつくと、もうすぐ午後七時だった。三百名あまりが働いているオフィスに、のこっているのはもう三十名程度である。営業二課では、彼のほかに二名が残業しているだけだった。
堀井はかえることにした。身支度をして、二人の課員に声をかけてオフィスをでた。ビルの三階にオフィスはある。窓からみえる街の灯が、甘くやさしい感じで目に映《うつ》った。
朝から目いっぱい働いた。疲れている。だから街の灯がやさしくみえるのだ。
「堀井課長、いまおかえりですか」
さわやかな女の声が、がらんとしたエレベーターホールにひびきわたった。
営業所長付の名村あゆみが廊下のほうから出てきた。いそぎ足で近づいてくる。
堀井はあゆみの笑顔が胸に甘くしみこんでくるような気がした。以前から、堀井はあゆみに会うと、胸さわぎがして体が熱くなる。久しぶりで課長と呼ばれた快感もあった。
「きみもいままで残業か。所長も人づかいがあらいんだな」
「この時期やから仕方ないんです。久しぶりですね課長。こうしてお話しするのは」
エレベーターの扉があいた。二人はいっしょに一階へおりる。外へ出た。
名村あゆみは四年まえに入社した。二年あまり営業二課で堀井と机をならべていた。堀井が課長になってまもなく、営業所長の秘書係になって移っていった。当時からのくせで、いまだに堀井を課長と呼んでいる。
三月の中旬だった。昼間はあたたかかったが、夜はまだ冷えこむ。コートを着てこなかったのを堀井は後悔した。あゆみもコートなしである。さむそうに肩をすくめていた。夜風で髪が揺れている気配がある。
「さむいな。熱燗で一杯やっていこうか」
「わあ、うれしい。じつはおさそいを待ってたんです。お話したいこともあるし」
「それはよかった。じゃ梅田へでよう」
通りがかりのタクシーを堀井はとめた。梅田へ向かって走りだした。
和幸産業大阪支店は新大阪駅の近くにある。五分もあるけば地下鉄に乗れる。だが、いまは電車を利用したくなかった。あたたかい個室へ二人きりでこもりたい欲望が、心の底で働いていたらしい。
クルマ専用の新御堂筋へ乗りいれた。二人の体がときおりぶつかりあった。そのたびに甘い衝撃で体がしびれる。ほっそりしたあゆみの体には、こうしてみると意外にゆたかな弾力があった。堀井はうっとりした。あゆみと二人きりでクルマに乗るのは、考えてみると、これがはじめてである。
「私ね、会社をやめるんです。四月いっぱいで——」
とつぜん、あゆみはつぶやいた。クルマの前方にまっすぐ目をやっている。
「なんだって。やめる。ほんとか」
堀井は頭から水をあびせられた思いだった。息をのんであゆみをみつめた。
結婚するのか。彼は訊いた。だまってあゆみはうなずいた。無表情だった。
「そうか。それはおめでとう。知らなかったよ。全然知らなかった——」
すこしもめでたくなかった。冷たい夜風が堀井の胸のうちに流れこんだ。
三月いっぱいであゆみは退職するつもりだった。営業所長に申しでると、四月末までいてほしいとたのまれた。あゆみの後任には新入社員の女の子をいれたい。だが、四月早々からではまだ使いものにならない。一ヵ月そばにいて、秘書業務を教えこんでから退職してほしいという。
もっともな要望だった。あゆみは退職の予定を一ヵ月のばすことにした。式をあげるのは九月になるだろうという。
「きみがいなくなるのか。さびしくなるなあ。いつかこんな日がくると思っていたけど」
茫然と堀井はつぶやいた。
クルマは新御堂筋をおりた。梅田|界隈《かいわい》のネオンの森のなかへすべりこんだ。
2
平凡な小料理屋へ、堀井は名村あゆみをつれていった。
ほんとうはフグかなにかを奢《おご》るつもりだった。だが、あゆみが結婚するときいて、浮き立った気分が消えてしまった。
現金なほどケチになった。他人のものになる女の子に高価な料理をごちそうする必要はない。とつぜんそんな気がおこった。失意が大きかったぶん、経済観念がふくらんだ。こうしてみると、ケチな男はさびしい男だということになる。
小料理屋のすみのテーブルで、カキ鍋を突っついた。日本酒が胃にしみた。二人はおもに思い出話をした。あかるくふるまおうとしても、堀井は言葉がすくなくなった。
あゆみの相手は大きな化学会社につとめるバイオ技術者だということだった。年齢は二十八。あゆみより四つ年上である。バイオ技術者はこれからの時代の花形である。いい結婚だといわなければならないだろう。
十年間のサラリーマン生活のあいだ、いろんな女の子が結婚退職していった。べつにどうということのない女の子でも、やめるといわれると、さびしい気がするものだった。大事なものをもち去られるような気分になる。ひょっとしたらあの女の子と仲よくなれるのではないか——漠然としたそんな期待を奪いとられるさびしさだった。
男心とはそんなものだ。まして、ひそかに想いを寄せていた女の子に去られるのはつらい。どんなにあゆみが好きだったか、いまになって堀井は思い知った。
「課長になって最初の日、出勤してすぐきみに堀井課長って呼ばれた。あのときは感激したな。バカみたいにうれしかった」
堀井はその日の思い出話をした。
朝、二課へ出勤した。机の配置が変っていた。堀井の席は、部下を管理する向きに設《もう》けられていた。椅子も肘掛《ひじか》けのついたやつに変っていた。腰をおろすと、オフィスの風景が一変したように映った。出勤してきたきのうまでの同僚が、つぎつぎに会釈《えしやく》して席についた。堀井の顔色をうかがっていた。
「堀井課長、おはようございます」
書類をみていると、声がきこえた。
あゆみだった。お茶をはこんできてくれたのだ。にこにこして机に湯呑みをおいてくれた。あゆみは目鼻立ちのすっきりした日本的な顔立ちだが、笑うと目のあたりがくしゃくしゃになる。抱きしめてやりたいほど、無邪気な表情である。その笑顔が純粋な祝福をこめてそばにあった。いい香りがした。
堀井は背中から尻にかけて、心地よい電流が走った気分だった。ゾクゾクした。課長、と呼ばれる快感が、これほど大きいとは思ってもみなかった。あまりにうれしくて、自分自身の他愛なさに失望するくらいだった。
「そんなことがありましたねえ。私、ほんまにうれしかったんです。堀井課長が昇進されるように以前から祈ってましたから」
あゆみの目のあたりがくしゃくしゃになった。あの日とおなじ笑顔だった。
「いまはだれも課長と呼んでくれなくなった。きみだけだった。最後の人であるきみがいなくなるんだな。がっかりだよ」
「私にとって、堀井課長はいつまでたっても堀井課長です。結婚しても、ずっと——」
「あまり親しみを感じられないということか。おれの下にいるとき、窮屈だったのか」
「反対です。だれよりも私、課長のファンやったんですよ。それからみんなが“さん”づけで呼ぶようになってからも、私は課長で通したの。あえて規定に反したんです」
あゆみはふっと目をふせた。ずっと営業二課にいたかったわ。独り言のようにいった。すぐに盃を干した。
「おれもきみをそばにおいておきたかったよ。でも、営業所長がどうしてもというもんだから。新米課長はことわりきれなかった」
「私、あのとき悲しかったわ。会社をやめようかと思いました」
「ほんとうか。そんなにショックだったのか。事情はよく説明したのに」
「耳に入りませんでした。課長、私の気持なんかわかってないんやと思いました。けど、そのほうがいいと考えなおして——」
「どうしてそのほうがよかったんだ」
「そうかて、課長のそばにいるのがつらくなっていたから。課長には奥さんがいてはるし、私なんかに関心がないし」
あゆみはまっすぐ堀井をみつめた。
泣き笑いの表情だった。あゆみのそんな顔を堀井ははじめてみた。よろこびと狼狽《ろうばい》と未練がいっしょになってこみあげてくる。しばらくなにをいっていいかわからなかった。あわてて堀井は酒を飲んだ。
「そんな——。いまになってそんなことをいうなんてひどいぞ。あのころは全然そんなそぶりもみせなかったくせに」
「みせてましたよ毎日。課長は鈍感なんやから。食事にもさそってくれへんかった」
かえす言葉が堀井にはなかった。あゆみをさそう勇気がなかったのだ。
課長になれるかなれないかのせとぎわに堀井はいた。毎日ピリピリして働いていた。課長になってからは、なお緊張して暮した。一度あゆみをさそおうと思いながら、いそがしさもあってはたせなかった。そのうちそのうちと思いながら日をおくった。
結局、臆病だったのだ。あゆみに近づいて拒まれるのが恐かった。スキャンダルも恐かった。
「ばかだったな、おれ。恐かったんだ。冒険できなかったんだ。恥ずかしいよ。きみの気持にうすうす感づいていながら——」
「いいんです。私、お話してすっきりしました。わかってもらえたらそれで充分。たまには私のこと思いだしてくださいね」
盃にあゆみは酒を注いだ。
一息に飲みほした。目から涙がこぼれた。ハンカチであゆみは拭きとった。堀井をみて、また愛らしい笑顔になった。
「ばかだな、おれ。まったく自分に愛想がつきる。会社人間になってしまって。自分の気持をないがしろにして」
堀井も酒をあおった。生きかたをあゆみに問いなおされたような気がした。
しばらく二人は飲みつづけた。鍋が煮つまった。小料理屋にもう用はなかった。
「でよう。もっとムードのある店へいくんだ。徹底的にわかれを惜しもう」
二人は腰をあげてその店をでた。
外は路地だった。点々と淡い電飾がならぶだけで、道は暗い。ほかに人影はなかった。
あるきながら堀井は、あゆみの肩に腕をまわした。脆《もろ》そうな感触が腕に食いこんでくる。堀井は足をとめた。あゆみをこちらに向かせてのぞきこんだ。仄《ほの》かに瞳が光っている。
「課長、私のこと好きやというて。お愛想でもいいから、一度だけいうて」
「ものすごく好きだ。あゆみがいない会社なんて意味ないよ。お愛想なんかじゃない。結婚なんか、やめてしまえ、あゆみ」
抱きよせてくちづけにいった。泣きながらあゆみはむしゃぶりついてきた。
3
二人はくちづけをかわした。
堀井浩介は力いっぱいあゆみを抱きしめる。舌であゆみの舌をさぐりにゆく。
じっとしてあゆみはうけいれる。唾液にかすかな甘味があった。あゆみの口のなかはあたたかい。そして、やわらかい。やさしい気持があふれている。
さらに奥がさぐりたかった。堀井はあゆみの後頭部に手をあてて、ひきよせる。これ以上ないくらい、二人の顔は密着しあった。あゆみの鼻が堀井の頬にさわった。固くてすこし冷たい鼻である。美しいそのかたちを、頬で堀井は味わっていた。
生あたたかいしずくが堀井の顔にこぼれた。あゆみが泣いている。堀井はキスをやめてあゆみをみつめた。泣いたままであゆみは微笑みかける。目のあたりが、はんぶんだけくしゃくしゃになった。恥ずかしそうだ。
ネオンの余光でその表情をたしかめて、堀井は気持を揺さぶられた。あらためてあゆみを抱きしめた。あゆみの髪が堀井の頬をなでにくる。彼女のほそい体が弓のようにしなった。二人の腹とふとももが密着しあう。意外な重みがそのあたりにあった。
堀井はたかぶった。後悔とさびしさがやや鎮静すると、肉体が甘い熱をはらむ番だった。あゆみの肌にふれたい。体のすみずみまでキスしてやりたい。堀井はじっとしていられなくなった。両掌をあゆみのヒップにおいて、ひきよせる。
「二人きりになれるところへいこう。わかれを惜しみたいんだ。どんなにきみを愛しているか、わからせてやりたい」
耳もとでささやいた。
息をつめて返事を待った。あゆみの頭の動くのが恐い。きっと横に動くだろう。
だが、あゆみはじっとしていた。考えこんでいるように頭が動かない。苛立《いらだ》って堀井はまた彼女のヒップを抱きよせる。いこう。もうまわり道したくないんだ。堀井はささやいた。呼吸が苦しくなっている。
あゆみの頭が動いた。予想に反して、それは後方にひかれた。あゆみは正面から堀井をみつめていた。何秒かして、とびつくようにくちづけにきた。舌をねじこんでくる。すぐにはなれて、また正面からみつめる。
歓喜に堀井はつらぬかれた。あゆみは承諾してくれたのだ。彼女の肩を抱いて堀井はあるきだした。どこへいこうか。懸命に思案をめぐらせる。近くにラブホテルが何軒かあった。だが、どぎついネオンをこれみよがしにかかげたそれらのホテルへ、あゆみをつれていく気にはなれなかった。
新御堂筋にそって北へあるいた。三百メートルばかりさきに都市ホテルがある。そこを利用するつもりだった。一言も発せずに二人はあるいた。なにかいうと、せっかく成立した合意がくずれてしまいそうである。あゆみの背中にまわした手で、彼女の肩を堀井はしっかりつかんでいた。
ホテルのロビーに入った。ピオニーパープルを基調とした内装のロビーだった。あかるすぎて面映《おもは》ゆい。ボーイたちの「いらっしゃいませ」がそれに輪をかける。ソファにあゆみを待たせて堀井はカウンターへいった。目をふせて、ダブルベッドの部屋をたのんだ。
キーを上衣のポケットにいれて、堀井はあゆみのそばへもどった。ボーイの案内をことわって、エレベーターに乗る。七階へのぼった。二人は手をとりあっていた。
部屋へ入った。もどかしくて、窓から夜景をながめるひまもなかった。ベッドのそばで二人は抱きあった。あらためてくちづけをかわした。さっきとちがって、あゆみはみだれた。息づかいがはやくなる。ぐったりして堀井に体をあずけた。あゆみのほうも感情のたかぶりがやわらいで、欲望に揺さぶられているのがわかった。くちづけのあと、二人は抱きあったままじっとしていた。
「ほんとうに道草を食ってしまったな。残念で仕方がないよ。おれに勇気があれば、いい思い出がたくさんできていたのに」
「けど、そうなったら私、課長からはなれられんようになっていたわ。これでいいの。すごくうれしい。思いのこすことなしに会社をやめられます」
「人生ってふしぎだな。あのときエレベーターのまえできみと会わなかったら、おれたちのあいだには永久になにもなかったかもしれない」
「あそこでお会いしたとき、私、神さまのおひきあわせやと思いました。なにかがおこる予感がした。そのとおりになった。夢みたいです。まだ私、信じられへん」
ああ課長。ぎゅっと抱いて。あえぎながらあゆみはささやいた。
息のつまるほど堀井は抱きしめる。腹とふとももが密着しあった。あゆみの乳房が堀井の胸板でおしつぶされる。ほっそりした体のわりにゆたかな乳房である。
シャワーをあびておいで。堀井はささやいた。あゆみの着ている、コート兼用のゆったりした黒のカーディガンをぬがせにかかる。下には白のワンピースを着ていた。はじめて堀井は彼女の服装に目がいった。
「私、あとにします。課長、さきにつかってきてください」
あゆみはあとじさった。夢からさめた面持《おももち》で、ベッドに腰をおろした。
箪笥《たんす》のなかに浴衣《ゆかた》があった。それを手に堀井はバスルームのそばへいった。服をぬいでパンツ一枚になる。バスルームへ入った。手ばやくシャワーをあびた。腰にバスタオルを巻き、パンツをもって外へでた。
いれかわりにあゆみがバスルームへ消えた。彼女は浴衣に着替えていた。
扉のそばの小さなテーブルをみて、堀井は微笑んだ。彼のぬぎすてたワイシャツ、ランニングシャツ、短いズボン下がきちんとたたんで積んである。靴下とネクタイもたたんであった。スーツはクロゼットに吊されている。
彼の下着とならんで、あゆみのそれもたたんでおいてあった。スリップ、パンスト、ブラジャーである。ショーツはなかった。堀井はブラジャーを手にとってみた。自社製品である。「きもちE」という愛称のやつだ。
ブラジャーは乳房のかたちを美しくみせるためのファンデーションである。カップの下にワイヤーを配して乳房がもちあげられるようにできている。「きもちE」では、そのワイヤーに形状記憶合金が使ってある。これまでの製品では、洗濯でワイヤーが曲ってしまい、もとにもどりにくい欠点があった。
だが、形状記憶合金は、ある温度でもとにもどる性質がある。ワイヤーが歪《ゆが》んでも、身につけると、体温に反応してもとどおりのかたちになおるのである。研究所のスタッフが考案した大ヒット商品だった。和幸産業の女の子は全員が愛用者であるはずだ。
しかし、さっきあゆみの乳房が大きく感じられたのは、このブラジャーのせいではなかった。彼女のブラジャーのカップはCだった。A、B、Cのランクのうち、最大のやつである。あのほそい体にそれほど大きな乳房がついていたのか。考えるだけで、堀井はたかぶって体がふるえてくる。
ブラジャーをもって堀井はベッドにいった。横になった。ブラジャーを鼻にあててみる。かすかな肌の香りとぬくもりを感じた。「きもちE」とはよく名づけたものだ。女の下着をあつめて悦に入る男の気持が、はじめて理解できたような気がした。
あゆみがバスルームからでてきた。堀井は体からバスタオルを剥《は》ぎとり、ブラジャーとともにサイドボードの棚においた。腰から下を毛布で覆《おお》った。あゆみは浴衣姿である。髪をととのえながら、伏目になってベッドへ近づいてきた。
4
ストップ。堀井は声をかけた。ベッドから二メートルにあゆみは近づいていた。
あゆみは足をとめた。とまどって微笑んだ。愛くるしい笑顔になった。
「浴衣をぬぎなさい。きみのヌードがみたい。一生の思い出にしたいんだ」
あゆみは泣き笑いの表情になった。
しばらくしてから、うつむいた。おびを解きはじめた。堀井をみつめる。体をかるく右に向けた。肩から浴衣が下に落ちた。白い裸身がぱっとかがやいてあらわになる。部屋が一気にあかるくなった。
「はい。これでいいですかあ」
陽気に彼女はいった。努力している。
左肩をあげ、左手を腰にあてた。わずかに左ひざを折っている。顔をややあおむけてポーズをとった。下腹部をかくしている。
輪郭《りんかく》のはっきりした横顔がこちらを向いている。あわただしく堀井は、あゆみの全身に目を走らせた。乳房をみつめ、腰をみつめ、ヒップをみつめ、脚をみつめた。それから念入りに顔をみつめた。これがほんとうにあの名村あゆみなのか。夢をみているのではないか。そんな思いにとらわれていた。
乳房は大きく上向きに張っていた。対照的に肩や背中は脆《もろ》そうな肉づきだった。腰は細すぎるくらいである。ヒップはあまり大きくない。たてに短い。合せ目がひきしまって一本の線にみえる。色気がみなぎっている。
身長のわりに脚がながい。ふとももはちょうどよく充実していた。ひざと足首がひきしまり、ふくらはぎが張っている。大事な部分だけが発達して、あとは弱々しい感じの裸身だった。清潔で、しかも淫《みだ》らである。
「すばらしいよあゆみ。こんなきれいなヌードははじめてみた。目がくらみそうだ」
堀井は息苦しくなった。とびかかって抱きしめたい衝動にかられる。
あゆみは愛くるしい笑顔になった。こちらを向いて上体を折った。下腹を堀井の視線にさらすまいとしている。そのまま駈けよってきた。堀井の体におおいかぶさってくる。二人は抱きあった。堀井は毛布をわきへどける。二人は息をはずませて、たがいの体をおしつけあう。あゆみの下腹部の草むらが、堀井の下腹部にこすりつけられる。二人の腰骨がふれあった。すぐにあゆみの双つのふとももが、堀井のふとももをはさみつけた。
堀井は体の位置を変えた。白い裸身におおいかぶさった。あらっぽくふるまいたいのを懸命に抑制する。あゆみの耳にやさしく息を吐きかけた。あゆみは身をちぢめる。目をとじて、神経を張りつめて愛撫を待っていた。
あゆみの耳にくちづけした。耳たぶをかるく、ていねいに噛んだ。首すじから肩へキスを這わせた。ゆっくり、何度もくりかえした。右脚があゆみの両脚にはさみつけられている。キスをつづけながら、堀井は右ひざで彼女のふともものあいだへ切りこんだ。草むらと、やわらかな部分がひざにふれる。かるくひざを動かしてそこを刺戟してやる。
脇と横腹にキスを這わせた。すべすべした、やさしい感触を堀井のほうもたのしんだ。あとは待望の乳房である。ふくらみが大きく、乳首や乳暈は小さな乳房だった。それを口にふくむ。乳首を舌でくすぐる。かたほうの手で空いているほうの乳房を揉《も》んだ。右ひざで女の部分をやさしく刺戟しつづける。
「ああ、すごく感じる。堀井課長、私、感じていい。軽蔑しない」
「軽蔑なんかしないよ。うれしいよ。うんと感じてくれ。なんでもしてやる」
また乳房へのキスを再開する。
あゆみは甘い声をもらしはじめる。さっきより脚がひらいていた。やわらかな、あたたかい肉が堀井のひざに吸いついている。濡れているのがわかった。昂奮で堀井は頭がぼんやりしてくる。ひたすら愛撫をつづける。
乳房がやがて唾液にまみれた。これ以上ないほど丹念に堀井はそれを可愛がった。
下腹部に快感をおぼえた。あゆみが右手で男性をさぐりにきている。ためらいながらそれを握った。あゆみはため息をついた。
「ああ、堀井課長。うれしい」
じんわり指に力をこめてくる。
堀井のそれの手ざわりを記憶に灼《や》きつけようとしていた。さっき堀井があゆみの裸身をながめたのとおなじ心境なのだろう。
「おれもうれしいよ。夢がかなったんだ。あゆみのこと、わすれないぞ。つらいことがあったら、今夜のことを思いだすよ」
「私もよ。毎日思いだすわ。ほんまよ。体ぜんたいで課長のこと、思いだす」
「もっといい気持にしてやろうか。うんと感じさせてやる。泣かせてやる」
「泣かせて。泣かせて。どんなにいじめられても、私、うれしい」
堀井はもうあゆみの腹や脚にキスを這わせる余裕がなくなった。
あゆみの両脚のあいだにうずくまった。艶やかなふとももを左右におしひらく。草むらの下の愛らしい花に顔を近づけた。あゆみは目をとじて、じっとしている。
花びらが二枚、ハートをたてに割ったようにならんでいた。小さなハートだった。花びらもその周辺もあざやかなピンク色である。中央の窓に透明な液がたまって、かすかに光っていた。真珠の粒が上部にある。堀井の視線を意識して花はふるえていた。すべてが小づくりで、愛らしかった。
堀井はそこへくちづけにいった。舌で花びらをなでまわしてみる。あたたかい液がみるみる増えてきた。舌さきをとがらせて、窓のなかへもぐりこませる。ほそい、かん高い声がきこえた。おどろいたような声だった。
舌さきを堀井はくねらせた。夢中である。深くもぐりこませたり、花びらのうえを泳がせたりした。ていねいにつづける。澄んだ声が連続してきこえた。勢いこんで堀井は舌に力をこめる。指でアヌスをかるく掻《か》いてやる。声が大きくなった。あゆみの内ももの腱《けん》が浮いたり消えたりする。
真珠の粒に堀井は舌を移した。上から下へていねいに這わせる。真珠は固くなり、大きくなった。あゆみの声がさらに大きくなる。快感で頭がおかしくなりそう。そんな意味のことを口走った。
堀井は真珠に吸いついた。口をつけたまま、舌でくすぐった。花のまんなかに人差指を、アヌスに小指をすべりこませた。やさしくかきまわすように動かす。くちびると舌をつかいつづける。あゆみの声が切れ切れになった。しばらくつづけるうち、体に力がこもった。あゆみは呻《うめ》いていた。反《そ》りかえってから、ぐったりとなった。
「ああ。なんでこんなに感じるの。こんなんはじめてよ。はじめて——」
息もたえだえの声がきこえた。
体は静止している。無言でもとめていた。
堀井は愛撫を再開した。たちまちあゆみは二度目のオルガスムスにたっした。休息をもとめている。かまわずに堀井はつづけた。あっというまに三度目がきた。下半身は動かさず、上体だけであゆみはのたうちまわった。
「待って。待って。私、おかしくなる。どうにかなってしまうわ。たすけて」
あゆみは上体をおこした。
両手で堀井をおし倒した。のしかかってくる。うしろ向きに馬乗りになった。飢えたように、男性を口にふくんだ。頭を動かしはじめる。堀井の体に快感が流れこんできた。
最初からはげしい愛撫だった。せっせとあゆみの頭は動いた。堀井の顔の正面に、白いヒップが静止している。やや角ばった、たてに短いヒップ。双つの丘の合せ目がかすかにひらいて、アヌスがのぞいている。その下方に桃色の花が咲いていた。さっきより紅味がさしている。愛らしくて、淫らで、誠実で、なまなましいながめだった。
堀井の視覚をよろこばせるため、あゆみはこの姿勢をとったのだ。すべてをさらけだして、堀井の思い出にしようとしている。まわり道したぶん、大いそぎでよろこびを交換しようとしていた。今夜一晩で、すべてをなし終えるつもりのようだ。
異様な快感に堀井は呻いた。あゆみの指がアヌスにもぐりこんできた。さっきおぼえた手段であゆみはおかえしにきたのだ。
何分かその奉仕に耐えて、堀井は自制の限界にきた。起きてあゆみを抱きよせた。
正面からあゆみのなかへ入った。懸命に持続をはかって動く。あゆみは泣きじゃくった。ほんとうに涙をこぼしていた。
5
午後三時すぎ、堀井浩介は外まわりからオフィスへかえった。
五時から課内会議をやる予定だ。それまでにデスクワークをかたづけておかねばならない。堀井はいそぎ足だった。
さっきから雨が降りはじめた。すこし濡れただけで済んだ。道路が混むので、外まわりは電車を利用することが多い。ことしは雨が多くて、営業マンにはつらい日がつづく。
廊下へ入ると、名村あゆみに出会った。あゆみはぱっと赧《あか》くなって微笑んだ。相変らず胸に灼《や》きつくような愛らしい笑顔である。好意と羞恥《しゆうち》心がむきだしになっていた。
付近に人影はない。打合せのチャンスである。堀井は足をとめた。あゆみも立ちどまって堀井をみあげる。さわやかな化粧品の香りが堀井の鼻孔に入ってきた。
「どう、今夜。いつもの場所で」
ふつうの会話の調子で訊いた。
胸のうちは期待で熱くなっていた。はじめてあゆみとホテルへいって一週間目である。あれから一度デートをした。あと十日ばかりであゆみは会社をやめてしまう。毎日でも会いたい心境で堀井は暮らしている。
「きょうですか。きょうはちょっと——」
あゆみは困惑の表情になった。目を上に向けて、なにか考えている。
堀井はあせった。あすあさっての夜は特約店との会合がある。どうしてもはずせない。きょうを逃すと、三日間、あゆみと会えないことになる。そう思うと、たまらなくあゆみの体がほしくなってくる。
「だめなのか。なんとかならないのか。あと何度も会えないんだぞ」
「さきに約束してしまったの。六時に」
「約束って、フィアンセとか」
堀井は声が高くなった。場所柄を気にしている余裕はなかった。
あゆみはだまって目をふせた。ますます堀井はあゆみを抱きしめたくなる。
「フィアンセとなら、これからいくらでも会えるじゃないか。いやになるほど会える。でも、おれたちは——」
「わかりました。八時にホテルへいきます。部屋で待っててください」
まっすぐあゆみは堀井をみつめた。
婚約者とは六時に梅田の喫茶店で会うことになっている。いま婚約者は神戸へ出張中である。出さきからまっすぐ待ちあわせの場所へ駈けつけるといっていた。だから、電話でキャンセルを申しいれるわけにはいかない。とりあえず彼と会って、食事だけいっしょにしてくるという。
「できるのか。食事だけなんてことが」
「なんとか口実を考えます。ほんま、彼とはいつでも会えるんやから。堀井課長との時間を大切にします」
廊下の奥でだれかの足音がきこえた。
あゆみは目をキラキラさせて近くの湯沸かし室へ消えた。堀井も自分の課へもどった。あゆみの好意で甘く胸がしびれている。婚約者とのデートを途中で打ち切って、堀井に会いにきてくれるのだ。通りいっぺんの好意でできることではなかった。おかえしに、全力投球でかわいがってやらねばならない。
予定どおり五時から会議をはじめた。堀井の裁量でどうにでもなる会議である。七時すぎに打ち切った。デスクワークののこりをかたづけて、堀井はオフィスをでた。雨が本降りになっている。そなえつけのビニール傘をさして、彼は地下鉄の駅へ向かった。
梅田でおりると、空腹をおぼえた。五時半に、カレーライスの出前をとってみんなでたべたのだが、とても足りなかった。ホテルへ向かってあるく途中、終日営業のスーパーでカップラーメンを一つ買った。あゆみはいま婚約者とフランス料理でもたべているのだろうか。対抗してデラックスな食事をしても仕方がなかった。デートの費用がかさんで、小遣いが完全な赤字である。第一、家へかえればちゃんとした食事が待っているのだ。
ホテルの部屋へ堀井は入った。まずシャワーをあびた。気がせいている。体をふいて、浴衣に着がえた。
そなえつけのコーヒー沸かし器から堀井は熱湯をそそいだ。たべようとしたとき、部屋のチャイムが鳴った。あゆみが入ってきた。やはりビニールの傘を手にしている。あるいてきたらしい。青いスーツの腕が濡れていた。
ベッドのそばで、堀井はあゆみを抱き寄せた。思いきり腕に力をこめる。くちづけにいった。あゆみの肩や腕の水滴の冷たさが、かえって刺戟的だった。舌であゆみの舌をさぐった。婚約者とキスをしてきたのだろうか。そんなはずはなかった。あゆみの口のなかはかすかにバニラの香りがした。あたたかく、清潔な感じがした。
「いそいできたんよ。気が気やなかったわ。待たせたらあかん思うて——」
あゆみはもうあえいでいる。大冒険に刺戟されたにちがいない。
抱きあったまま二人はベッドに倒れこんだ。会話は無用である。あゆみのブラウスの下へ堀井は手をいれる。ブラのホックをはずした。肉づきのうすいわき腹と、大きく盛りあがった乳房の対照を掌でたしかめる。あゆみの肌にさわって、堀井はほっと安堵していた。婚約者からとりかえしたと思った。束《つか》の間《ま》でも、あゆみは堀井のものだった。
甘い感覚が堀井の男性にひろがった。あゆみが男性をとらえて手を動かしている。浴衣のほか、堀井はなにも身につけていない。あゆみはあおむけになって、ぎこちなく愛撫をつづけた。