饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

文章简介

作者:日-森茉莉 当前章节:15372 字 更新时间:2026-6-23 06:49



甘い蜜の部屋

森 茉莉

目 次

 第一部 甘い蜜の部屋

 第二部 甘い蜜の歓び

 第三部 再び甘い蜜の部屋へ

 後 記

[#改ページ]

 第一部 甘い蜜の部屋

 藻羅《モイラ》という女には不思議な、心の中の部屋がある。

 その部屋は半透明で、曇り硝子《ガラス》のような鈍い、厚みのあるもので出来ていて、モイラの場合、外《そと》から入って来る感情はみな、その硝子を透して、モイラの中へ入って来る。うれしいのも、哀しいのも、感情はみなその硝子の壁を通って入って来るのだが、その硝子は、どこかに曇りのある、あの本物の硝子そっくりのものであるから、その厚みの中を透して入って来る感情はひどく要領を得ないものになってくるのだ。

 入って来る感情は、硝子の中を通り抜けると同時にどことなく薄くなり、暈《ぼんや》りとしたものになっている。その通り抜ける時の変化は、考えると、眼に見えている辺りのものがうすぼやけて、遠くへ行き、頭の中が霞《かす》んでくるような、妙な作用である。というのは、考えている内に、眼に見えるものもだんだんとその心の中の硝子を透《す》き徹《とお》ってくるかのような、妙な気がしてくるからで、そのためか、モイラは眼に見えるもの、例えば人間、花、風景、それらの、他人がはっきりと認識している「現実の世界」というものを、どこか、薄暈《うすぼんや》りとしたものとして眺めている。

 眼に見えている花が、硝子の壜が、卓《つくえ》が、紅茶茶碗、銀の匙、又空も、塀の上に出ている他人《ひと》の家の樹々も、小石、赤犬、又は卓子《テエブル》を距てて微笑《わら》う親しい人、すべてのこの世の現実が、ほんとうにそこにあるのか、ないのか、そこの境界が明瞭《はつきり》しない。この世界がこんなに、明瞭《はつきり》しないのだから、死んだあとの世界の方が却ってほんとうに、はっきりとあるのではないだろうか、と、そんなことを想ってどこかにある、もう一つの世界を空想してみる瞬間さえある。

 その世界は、現実にあるような、曇った硝子ではない、完全に透明な、極度に薄い透明の向うにあって、紅《あか》い色でも、緑の色でも、みな上に綺麗な透明を、被《かぶ》っている。ちょうど自動車や自転車に附いている反射鏡《バツク・ミラア》に映る草原や紅い煉瓦《れんが》の街のように、世にも綺麗で、夢かと思うように恍惚《うつとり》とするものなのだ。

 ところで、モイラの方で抱く感情、それはこっちから外へ出て行く感情の方なのだが、それも硝子の壁を出る辺りでどこかうすぼやけ、要領を得ない曇り色の中で、どこへともなく暈《ぼや》けていってしまうようすだ。それだから、感情を抱《いだ》かれた相手の方も、冷淡というのではないが、どこか朦朧としたものとして、それを受けとる。それは受けとっても、なんとなく乗って行きにくい、感情である。それだからモイラが或日、感動してくれても、その感動を貰った人間も、それを受けとめることは難しい。まして、一緒になって感動するということは難しいことである。

 小さな子供の時からモイラと遊んでいる、野原野枝実《のばらノエミ》だけが、その変なものを、モイラの感情としてうけとっているもようである。だが野原ノエミといえども、うけとるにはうけとるのだが、それがやっぱりへんな具合である。或日、いかにも真実を持っている友だちらしいことを言ってくれているかと思うと、それがよくみると、どこかへらへらとしたものであって、その場で思いついたもののような、疑わしい匂いを持ったものだということに気づくのだ。そこでモイラを見ると、へんに空虚《うつろ》な顔をしているのだから、やっぱり妙な、空漠としたものをうけとらないわけにはいかない。

「いいのよ。モイラは感情がないんだから。わかっているわ」

 野原ノエミという偉大なるモイラの知己は、言うのである。

 するとモイラは忽ち反撥を覚える。そうして、

(あたしだって感情あるわ)

 と、そう言って、反抗する。だがそうやって一応はあらがって見たところで、それを説明する瞬間から、モイラの心の中には、はかない空洞が感ぜられ、心細さの漣《さざなみ》のようなものが波立ってくるのがどうせ、知れているのだ。

 モイラは諦め、黙り、怒りのようなものを抑えて、ノエミから理解という、薄温かなものを、うけとるよりない。

 この、世間では「友情」とか、「理解」とか呼ばれている重みのある、薄ら温かなものは、全くもって貴重なものである。モイラは瞬間それを知るのだが、その感情さえも又、忽ちの内にうすぼやけ、どこへともなく暈《ぼや》け去る。その暈《ぼや》け去って行く煙のようなものの脚を眺めながら、モイラはなんとなくがっかりして、ノエミを偸《ぬす》みみる。そういう時のモイラの眼はどこか悪事を犯した人間の偸み見のようで、あった。これは人生の貴重な一瞬にはちがいないのだが、なんといううす暈《ぼや》けた、曇り硝子の向うにあるもののような光景なのだろうか。

(あたしはほんとうに生きているのだろうか?)(あたしはひょっとしたら、冷酷無比な悪人なのではないのだろうか? 世の中の悪人というのは、こういう胸の構造と仕掛けとを持っている人間のことなのではないだろうか?)

 モイラは時折、空漠とした眼になって、呟くのだ。

 その奇妙な、うす暈《ぼや》けた瞬間が去ると、モイラとノエミとは忽ち嬉々として、共通の友だちの百合楓《ゆりかえで》に、海泡石《かるいし》を呉《く》れたことについての手紙を出していないとか、母露生犀川《もろうさいせん》の昔の友だちの家に行ってみようかとか、二三の会話を交し、その後では疣山痣子《いぼやまあざこ》の肝臓の腫物《ぶつぶつ》が悪化したら、祝盃をあげようとか、蛭谷《ひるたに》海鼠《なまこ》と、濁川蚯引《だみがわきゆういん》、その細君の蛇魔子《だまこ》が、モイラに仕掛けた罠《わな》と窃盗行為、モイラに甘い、陶酔の管《くだ》を通しておいて、その細い管《くだ》からモイラの財産を吸い上げて行った彼らの行為に向って、呪いの護摩《ごま》を焚《た》こうかとか、そういう二人の平常《ふだん》の会話に、とりかかるのだ。そういう時の二人のようすは、二人の持っている似通った、大きな沼のようにも見える眼のせいか、どこか薄気味が悪く、ロオルシャハが実験に使う、インクの滲《し》みの中によく出てくる、燃える火を中に向い合って踊る魔女の姿にも似ていて、互に見合って笑う四つの眼は、奇妙なものを出してらんらんと、光った。

 モイラが可哀らしい、皮膚の滑らかな、円《まる》みのある背中をした、幼い娘だったころから、モイラのこの、硝子の部屋はあったのだが、本人が第一に気づかなかったし、もとより他の誰にもわかるはずは、なかった。

    *    *

 モイラは大正初年の十二月の、ごく寒い日に生れた。生れたのは午後五時三十五分で、電燈の点る少し前である。モイラは蝋燭《ろうそく》の光の中で、生れた。

 満六歳の誕生日が近づいた頃、モイラは一人の、異様に可哀らしい娘に成長した。黒褐色の大きな眼は、見開く時瞼を重く見ひらくような、感じがある。その大きな眼を凝《じつ》と開《あ》いて、モイラはよく人を視ているが、モイラの眼は、見られている大人にとってなんとなく気になるものを出していて、それはモイラを太い、油断のならない小娘のようにも、見せるのだ。

 モイラの眼が、大人の眼を脅す、妙な力のようなものを持っているように見えるのは、長くて厚い睫毛《まつげ》のせいや、沼のような光を持っているせいでは勿論ない。モイラの胸の中にある、例の硝子が原因である。モイラの見るものや、感じ取るものがすべて、どんなものでも、曇り硝子の向うにあるもののようになって、モイラの心に映《うつ》っていて、そのもやもやとした要領を得ない感覚が、モイラの胸の中に低迷している。モイラの眼はその低迷を、そのまま映し出している窗《まど》のようなものだからだ。中に何があるかわからない、為体の知れない、くぐもった光が、モイラの眼に、あるからだ。

 まだものを考える力もない筈の、小さな娘のモイラの眼が、

[#この行1字下げ]――モイラに大した思考力がないことは、大人になった現在《いま》も、同じことである。感覚だけで辺りを見、感覚だけで生きていて、それで自分は素晴しく生きているのだと、信じている。感覚だけで、自分は生きているのだと信じているのは、モイラだけに限ったことではなくて、虫や蛇や猫、女、なぞがそういうものである。彼らは例外はあってもみな美しい。思考力を持っているように見える女はそれを観念として、上皮《うわかわ》からくっつけているか、又は感覚的に思考を捉《とら》えているのに過ぎない。――

なにかの迫るようなものを出してくるのは、モイラが持って生れた、一種奇妙な感情地帯のせいである。だが考えてみると、底に何か持っている、腹の知れない人間の内部というものが大体、そんなものなのだから、モイラを、何ものかを蔵している、底の知れない奴であると、そう言ったところで大した間違いではないかも知れない。その方がモイラの気には入るだろう。

 だがなんといっても、モイラはこの十二月の二日で満六歳になったばかりの、幼い娘である。何かを凝《じつ》と視るのを止《や》めて、人形や絵本に見入ったり、ぼんやりどこかを見ている時のモイラの眼は、やはり罪のない、天使にそっくりの眼であった。

 浅い襞《ひだ》のある脣《くち》は、薄紅《あか》くて、まだ父親の林作の頬や額、それから掌《て》の甲、なぞにしか接吻をしたことがない。それらの接吻は林作が自分にして呉れるのを真似て、するのである。産毛《うぶげ》のある頬と顎とに囲まれた薄紅《あか》い脣は柔かい。林作はモイラの口へ、チョコレエトなぞを一つ一つ入れてやったり、食事の時には、自分の皿から細かく切った肉、果実《くだもの》、なぞを入れてやったりする習慣を、モイラが六歳になった今も、止めようとはしない。そんなことをする時林作は、モイラの脣を軽く突いて、

「マシュマロォのようだ」

 と、言うのである。そうしてモイラが大きな眼を自分から離さず、自分の掌《て》の、皮を除《の》けた果実《くだもの》に、舌を巻きつけて乳を吸う赤子のような口つきをしてしゃぶりつくのに、眼を当てた。いつも何かしらんに気を奪《と》られているようなモイラの顔の中で、薄紅《うすあか》い柔かな脣は、これも何かに憧憬したようにうっとりと、弛《ゆる》んでいる。

 だが、モイラが何かの遊びとか、いたずらをすることを思いついて、いざそれにとりかかろうとする時、又は家政婦の柴田や、家庭教師の御包《みくるみ》に、何かを隠そうとしているような時、モイラは脣を固く結ぶ癖があるが、そんな時には脣の両端《りようはし》が頬に深い窪みをつくって、吊り上がる。

 父親の林作はモイラの、結ぶと両端が吊り上がる脣の形を賞讃していて、モイラの頬を指で突いては、こう言うのだ。

「女の脣《くち》の端が平らなのはいけない。両端に窪みが出来て吊り上がる、こういうモイラのようなのがいいのだ」

 モイラの、可哀らしい顔や、円みのある背中、腕、脚、気孔が全く無いのではないかと思われるような、夏などは呼吸《いき》が出来ないように思われてモイラ自身苦しく感ずることがある、そういう緻密な皮膚、なぞの体の特徴と一緒に、妙な子供であるところも、すべての点をひきくるめて、林作はモイラの礼讃者である。

「モイラは上等な子供だ。どこにもこんな子供はいない」

 林作はモイラを膝に乗せ、軽く背中を叩いて揺するようにしながら、繰り返して、言った。それは何かの呪文のように、モイラの耳に入って来る。

 京都にいる林作の弟の達二《たつじ》が、東京に滞在中、林作の家に宿《とま》っていた時のことだ。モイラは、モイラを生んだ直《す》ぐ後《あと》、子癇で死んだモイラの母親の繁世《しげよ》が林作|等《ら》の母親の倫音《ともね》の気に入らぬ後妻だったために、モイラに愛情の薄い達二が、モイラの欲しがる京都の干菓子を故意に充分与えなかったのに稚い反抗をして、達二の留守にその部屋に忍びこみ、棚にあった缶から、掌《て》に一杯の菓子を盗み出したことがある。

 そんな時にも林作は、それを告げに来た達二が部屋を出て行くと、モイラを膝に乗せ、家政婦の柴田から菓子を取り上げられて、まだ砂糖の附着《つ》いているモイラの小さな掌《て》に軽く接吻をして、言った。

「モイラは上等。モイラは上等。泥棒もモイラがやれば上等だ」

 そんな時、林作の胸にはウェストミンスタアの香《にお》いがした。ウェストミンスタアの香いの滲《し》みこんでいる、羅紗《ウウル》の背広の胸の中で、夏は寒暖計の中心にある目盛《めも》りに似た縞柄《しまがら》の浴衣《ゆかた》を着た林作の、ざらざらとした縮みの布地の胸に頬を寄せていて、モイラはこれらの言葉を、聴いた。安楽で、どこかで父親を征服したような気持のする、甘い歓喜《よろこび》をモイラは、それらの言葉から感じとっていた。

 低い、錆《さ》びのある声で囁かれる林作の、呪文のような言葉は、恍惚《うつとり》とするような甘さで、モイラの精神の奥に吸いこまれて行って、いつの間にかモイラの心の中に理由のない自信のようなものを、植えつけた。自分は善《い》い子なのだ。自分は特別に可哀らしい子なのだ。と、モイラは信ずるようになった。知らず知らずに根を張った、ひどく誘惑的なものの中で育てられた、自信である。自分は善《い》い子で、自分を不愉快にするものはすべて悪だ、とする、|enfant《アンフアン》 |gatee《ガテ》の自信である。

 モイラは又、そういうような環境のせいか、義務が嫌いである。義務がどういうものか、まだわかっていない内から、義務が嫌いである。モイラの心は、義務のようなものはすべて、うけつけない。胃がうけつけない食物と同じである。

 薄くなって入って来るのだろうと、暈《ぼんや》りとだろうと、感情の方はともかく素直に入ってくるが、義務はモイラの硝子の壁が、押し戻した。これはモイラが小学校へ上がってからのことだが、間に合うように学校に行くことだとか、教師の指定した時間通りに、遠足の集合場所へ到着することだとか、そういう、どこか強制されてやる、義務的なことはすべて、モイラの硝子の手前で遮断されて、突き戻される。モイラはそういうものを無意識に嘔吐していて、その後《あと》は忘れている。

 モイラは又、時間で何かをやること、紙の上に真直《まつす》ぐな線をひくこと、紙を真直ぐに折ること、又は截《き》ること、学校の教師がやらせること、家庭教師が傍についていてやらせるものは殆ど、嫌いである。画を描く時にやらせられる、輪郭から外へはみ出さぬようにして、一定の形の中に墨を塗ること。そういう、義務とか、規則、正確、直線、何かの枠の中に嵌《は》め入れて、一分《いちぶ》もはみ出さぬように注意を集中しなくてはならぬことのすべてに、嫌悪がある。

 そういうことが出来ないモイラを、莫迦《ばか》な子供だと判断して、蔭で何か言う親類の女たちもあったが、モイラはそれが出来ないというよりも、定規《じようぎ》で計ったようにものをやることに嫌悪と反感があって、それをやる時には頭がよそへ行っているから、頭脳の正確な命令のない手はうまく動かなかった。

 モイラという子供は真直ぐに立っていることも、嫌いなように、見えた。歩く時も、真直ぐには歩かない。誇張して言うと、蛇のように、うねった線を歩いている。正しく座ることも、嫌いである。勤勉《まめ》に体を動かすことも、絶対にしない。外を歩くモイラを見ていると、父親の林作か、家政婦の手に掴《つか》まって、そっちへ凭《もた》れかかるようになって、歩いている。歩く意志のない子供のように、見える。家の中では絶えずぐったりとなって寝ころび、そうでない時には何かしら傍《そば》にあるものか、人間かに、凭れかかっている。もっともこの、正座をしたくない、ということに関する限り、モイラは家庭内では誰からも、許されていた。何故なら林作はモイラの脚を、西洋の女のように真直ぐな脚に育てようというので、モイラに正座をさせぬように、家の者にも言い附けていたからだ。林作はモイラを、座る時には脚を横へ揃《そろ》えて出すように、躾《しつ》けている。林作の傍《そば》にいる限り、ねころぶことも、黙認されていた。

 又、暈《ぼんや》りと見開いた眼の中に、家族たちの心持や、言葉のニュアンスを、無意識のようにして掬《すく》い入れているモイラは、家庭教師や、家政婦を、林作が重くみていないことも見ているので、この二人の女を甘くみているところがあって、モイラは御包《みくるみ》には態度で、柴田には言葉に出して、反抗した。

 モイラがしなくてはならない義務や日課、などの厭《いや》なものはみな、家庭教師の御包と、御包の真似をしてモイラに厳しく向ってくる家政婦の柴田との二人から発している。それでモイラは、この二人の女に敵意を抱くのだ。

 父親の林作は繁世の死後、モイラの面倒を見る女として柴田を雇い入れたが、モイラが小学校に入る年齢に近づくのにつれて、自分にはモイラの厭がることを教えたり、日課を与えることが、むずかしいのを知って、家庭教師の人選を、友だち仲間に広く頼んでおいたが、なかなか思うような女はなかった。この御包千加《みくるみちか》という四十五になる、小学校の女教師上がりの女と、柴田富枝という、一度嫁に行った女とは二人とも、道徳|面《づら》を造る癖のあるために出来た口元の辺りの醜い皺まで共通の、勿体ぶった、鬱陶《うつとう》しい女であるが、一通りの役目を果たす資格は持っているので、御包が五十円、柴田は台所の方もやって貰うのでその分を含めて三十円という高給で、抱えている。

 モイラは父親の林作に、

「この女《ひと》はこれからモイラの世話をしてくれる、御包《みくるみ》さんという女《ひと》だ。モイラがもっと大きくなったらいろいろなことを教えてくれるのだから、ママのように思って何でもやって貰え」

 と言って、御包を引き合わされたのだが、林作のその時言った、〈ママ〉という口調に含まれていたような、なんとなく甘い、温かなものが、御包からは感ぜられない。モイラは、モイラを生んだ直ぐ後《あと》で、烈しい痙攣の発作が起きてその儘《まま》死んだ母親の繁世を覚えているわけはないが、林作から写真を見せられたり話を聴いたりしていて、優しい〈ママ〉というものを意識していたのだ。

 死んだ繁世が、モイラを懐姙《みごも》ってから生む日まで、モイラに抱いていた、どこか本能の匂いが強くするような、恐るべき

[#この行1字下げ]――恐るべきものだと、林作は当時思ったのだ。林作はその繁世の、生れてくる赤子への愛情に対して、幾らかの嫉妬を抱いたが、そういう女というもの全体の盲目《めくら》で、動物的なものを不快に思う感情があって、自分よりは低い、醜いライバルに嫉妬をしている時に感ずるような技癢《ぎよう》をも、当時味わっていた――

愛情が、林作の胸の隅に残っていて、林作はどうかするとモイラを見ている時、この〈ママ〉という言葉を口に出すのだ。その林作がモイラを見て脣《くち》にのせる、〈ママ〉という音《おん》の中には、繁世と林作との間にあった愛情の残り火の温《ぬく》みというよりもむしろ、繁世がモイラの上に残していった恐るべき想いへの嫌悪と憐れみとが、含まれていた。モイラはその〈ママ〉という短い言葉の音《おん》の中に甘い、ミルクの入ったチョコレエトの香《にお》いを、嗅《か》いだ。

 繁世の死後|他所《よそ》に女を置いていて、家には女を入れず、モイラに溺愛を傾けている林作の胸の中には、既に死んだ、細君だった繁世の、自分に尽してくれた、優しい追憶と、現実に傍《そば》にいるモイラへの、自分自身にも判らぬ烈しい溺愛との、その二つよりない。

 御包《みくるみ》に対して林作は、初等の学校教育の手解《てほど》きを、略《ほぼ》あやまりなくモイラに行なってくれることと、その日、その日の予習と復習とをしてくれること、その面にしか期待をしていない。林作が御包をモイラにひき合わせた時の言葉は、御包という、抑圧された性を中に蔵《しま》っていて、でっぷりと構えている、女僧正のような化け物を、うまく使って行こうとする林作の言葉の綾である。それは六歳のモイラにも、どこかで判るのだ。

(なんでもみてやるよ)

 と、そう言っているように見える大きな眼で、モイラは御包を、横から見ていた。

 モイラの眼に映る御包は、林作の前にいる時と、そうでない時とでは、眼つきも、言葉の調子も、変えている女である。林作の前にいる時の御包は優しい眼をしていて、言葉|遣《づか》いも、やさしい。

 五十円の高給を考えると、御包は林作に気に入られなくてはならないのだ。優しげに眼を細めて、モイラを見、威厳たっぷりに構えている中にも、もの柔かな物腰を見せる。朝なぞはいかにも規則正しい生活をしている人間の持つ、晴れ晴れとしたものを見せようとしているが、それは彼女が若い頃持っていたもので、今はもう失ったものだ。今では彼女の中には、抑圧せられている苦痛から生じている陰鬱が住みこんでいて、自分の部屋では手足を投げ出し放題に寝そべっている。彼女は柴田とは違って、午前と午後とに分けて二回、モイラにわずかばかりの日課を与えるだけの役目で、彼女の得意な行儀を仕込む方は、林作が上にいたのでは糠《ぬか》に釘である。林作は読書も、彼女自身の為の勉学も許しているが、彼女は読書の習慣も、勉学の習慣も既に失くしてしまっている。それで、慾求が達せられない陰鬱の他に、退屈の獣《けもの》も住みついていて、その退屈の獣は絶えず口から涎《よだれ》を流していた。

 モイラは自分を見る御包の眼が、時折厭な光を出すのを、見た。

 御包はモイラの持っているものに嫉妬を抱いている。それがモイラにはわかるのだ。「幸福」という呼び名を、モイラはまだ知らない。だが自分の持っている「光」のようなもの、「温かなようなもの」、赤い、熱い、輝いているものを、御包が不快な眼で見ているのが、モイラにはわかるのだ。その赤い、光の輪のようなものの中には、林作のモイラへの溺愛が入っている。横浜に会社を持っている大きな貿易商の林作に金があって、林作に言いさえすればすべて手に入るモイラの境遇が、入っている。もう一つ、モイラの、蜂蜜色をした緻密な、いつも水で拭《ふ》いたあとのように湿り気のある皮膚や、憎たらしいほど可哀らしい、小さな肩や背中、手足の肉附きも、入っている。モイラは彼女が今まで見たことのない蜂蜜色の、異様に可哀らしい娘である。モイラが知らずにやっている無心な媚態が、林作を思う存分に、捕虜《とりこ》にしているのを御包は、無関心を装った眼の端に、ことごとく細かに、捉えていた。

 それらの、御包が多分、生涯味わわずに了《しま》うに相違ない、輝いたもの、甘い蜜のようなものへの、彼女の不快が、彼女のモイラを見る眼の中に現れる。それは紅い洋燈《ランプ》の光の中にある温かな世界を、蚯蚓《みみず》や蛞蝓《なめくじ》、蛆虫《うじむし》なぞの匍《は》い廻る湿った、暗い地帯から偸み見る、嫉妬の眼で、あった。

 御包の、家庭教師の地位を羨んでいて、すべてのことを御包に準じてやっている柴田もその点は、同じである。柴田が横に眼を遣《つか》うと、太い紡錘形をした眼頭《めがしら》に、魚の鰓《えら》のような色をしたものが出ていて、そんな眼をする時の柴田の眼の中には、モイラを不快にする、ひどく厭なものが、あった。夏、林作の食膳に載《の》る小さな鰺の刺身の背にも、モイラはその色を見るのだ。

 彼女の、いつもきっちりと襟元を詰めて着ている着物の胸や、白いゴワゴワ鳴る割烹着を着けた胸を見る時、その厚い、ぼってりとした堆積の中に、モイラは熱い熱気のようなものを、感ずる。彼女がモイラを羽交《はが》い締めにするようにして、モイラが厭がる洋服を頭から被《かぶ》せようとして揉《も》み合うような時、彼女は故意《わざ》とのように一瞬モイラをその厚い胸の堆積に圧《お》しつけることがある。妙な、甘い、不快な匂いのする、火のように熱いものに肱《ひじ》を突き立てて、モイラは必死に、逃れた。

 この柴田の厚い、何か熱いものの詰まっているような胸の中にも、御包と全く同じの、だが御包のそれより色の濃い、モイラへの嫉妬があるのを、モイラはどこかで、感じ取っていた。

 貿易商社の仕事と、交際《つきあい》とで、林作の一週間は殆ど埋まっている。週に一度は、アンネット・カウフマンと午後を過すという、林作にとって退屈とある慾求の達成とが半々のような、時間がある。林作が家にいる時間は、毎日の朝食の時間と、昼過ぎに帰るのが週に一二度、それと日曜日である。後《あと》は誰かと会食する。宴会がある。それで林作はモイラを見れば直《す》ぐに膝にのせる。そうして話をする、独逸《ドイツ》の童話《メルヘン》を話して遣《や》る。モイラの話を聴いてやる。時には会食を断って帰って湯に入れて遣《や》ったり、一緒に飯を食いに行く。親しい友だちの家に伴《つ》れて行くこともある。

 林作はモイラを眺め、そうして愛することより、しない。近頃になって一緒に遊ぶような気持で、仏蘭西《フランス》語の単語と短い会話を教えることだけを、始めた。だが小学校教育の準備は、御包にさせてある。林作は根本はそれでいいと、思っている。自宅にいる限りモイラは自分の生活を見ているだろう。それでいいと、考えている。

 それだから林作にとってモイラは小さな恋人のようなものである。会う時間の誰よりも多い恋人のようなものだ。そうして、十何年か先には他所《よそ》へ遣《や》ってしまわなくてはならない恋人である。事実林作はモイラを、恋人と全く変らぬ、大切なものだと、思っていた。そういう父親の心の、もう一つ下で林作は、モイラが、自分との愛情の繋がりを生涯持ち続けていて、その深い、優しいものからモイラがいつになっても抜け出ることが出来ぬことに、甘い、蜜のような予感を抱いている。

 林作はモイラが赤子の顔を脱して、可哀らしい眼で自分を見るようになり、消毒した匙の尖端《さき》を少しさし入れるようにすると、薔薇色の脣で吸いつき、濃い薔薇色をした舌を絡めるようにして、漉《こ》した野菜|肉汁《スウプ》を飲むようになった時から、少しずつ、何かに惹かれるようにして到着したこの考えを、貴重なもののようにして、持ちつづけて来た。三つになったモイラが、膝の上で自分の胸に顔を埋め、立たせてやると小さな円い腕で自分の頸をとり巻いて、林作が自分にするのを真似て接吻をするようになった頃には、林作は完全に、酷《ひど》く年齢《とし》の違うモイラの恋人に、なっていた。

 モイラの「パァパ」と言う時の、可哀らしい声の中には甘えと自信とが濃く澱《よど》んでいて、その低くて滑らかな声の中には(自分のもの)と、いうような一種のアクセントが強く響いていた。

(俺はモイラだけだ。俺はモイラなしでは生きる意味がない。モイラの無い世界を考えると生きる意味がどこにも見つからぬ)

 林作はこの、誰の前でも公言出来る言葉を、密《ひそ》かな恋の告白のように胸の中に、大切に、蔵っていた。

 アンネット・カウフマンの場合、林作は、まだ何年かの間は必要な女の問題を、清潔で、面倒のない、遣《や》り方で処理しようと考えていた時、アンネットが商社に入って来たのである。丈夫そうな体を持っている。日本人に近いブリュネットで、皮膚の色もあまり白人的に白くはなく、精白されない米のような色をしている、大柄な娘である。会社の事務員の娘で、父親のヨハンネスの素性も確かだという、検《しら》べてくれた取引先のレエゼマンの保証もある。それで、どこかモイラに似たところがないでもない皮膚の色や、髪を持った、眼の大きなアンネットを、週ぎめの女にしたのである。アンネットは慾の無い、善良な女だが愚《おろ》かなところがあって、自分の魅力を実質以上に信じているが、自信過剰も可憐さを壊してはいない、性質のよさがある。横浜の小さな映画会社のエキストラをしていたこともあるが、女優になっても事務員になっても、他人《ひと》をおしのけて遣《や》って行くところのない女なので、林作の与えた境遇には極く適しており、アンネットにとって林作を得たことは、それ以上は希《のぞ》みようのない幸運であった。アンネット自身は、それを幾らか当然のように思いこんでいて、女優志願に見切りをつけて、事務員に就職したのも、父親の強制によるものらしかった。アンネットと林作の関係はそういう訳で、アンネットが信じているような甘いものではない。

 そういう林作はモイラに義務を強いることがない。義務はいつも御包と柴田との二人の女から、彼女たちの重いような、暑苦しい雰囲気と一しょに、モイラの上にのしかかって来た。そのことが一層モイラを義務ぎらいに、させた。

(どうしてもしなくてはならない、なんて、厭だ。モイラはそんなこと、きらいだ)

 この言葉は常にモイラが心の中で言っている言葉である。

(そうだとも。そんなものは放っておけ。そんなものは家政婦の柴田や家庭教師の御包のような奴に任せておけ)

 モイラの中で林作の声が、言うのだ。

「モイラ、何処《どこ》にいる。飯をくいに行くぞ。柴田君に他所《よそ》行きを着せて貰え。新しい帽子も出して貰え」

 御包の午後の日課の後《あと》、玄関脇の応接間の長椅子に腹匍《はらば》いになって、幻想に浸っているモイラの耳に、不意に現実の林作の声がして、玄関のホオルからモイラを探して来たらしい林作が、紙巻煙草を片手に大股《おおまた》に近づいて来ると、御包と柴田との、絶え間ない正しい意見と言葉の騒音は林作の大きな影と、ウェストミンスタアの香《にお》いの中に吸いこまれるようにして、消え去った。

「柴田。……洋服。新しい帽子も」

 モイラは玄関の正面についている階段を裏へ廻って、大きな声を出すのだが、モイラの声は聴きとり難《にく》い声である。胸の中の曇り硝子が声帯の辺りにも何かの曇ったものを置いているのかも、知れない。モイラがじれてもう一度声を張り上げると、階段の奥にある柴田の部屋の扉が開《あ》いて、柴田が出てくる。

「パパ様とですか?」

 柴田は、モイラの歓ぶことをする時の、いつもの不機嫌を現して、執拗《しつこ》いような声を出すのだ。そうして、モイラの手をひいて階段を上がりながらモイラをふり返る。

「新しいお帽子ってパパ様が仰言《おつしや》ったんですね」

 モイラはどの問いにも黙って、答えない。

 掴《つか》まえられている柴田の掌《て》の中で、柴田の掌をじっと、抓《つね》っている。

「おお、痛い、又。モイラ様はよくパパ様が仰言《おつしや》らなくても、いいお洋服なんて、仰言《おつしや》るじゃありませんか。パパ様だって私から申上げれば、そんなことをいいとは仰言いませんよ」

「いいよ。言っても」

 モイラは言い、もう一度強く抓って、放した。

 新しい帽子を被《かぶ》り、黒い護謨紐《ゴムひも》の嵌《は》まった顎を仰向けて、柴田に何か言いながら、白い木綿の、レエスの多い夏服の下から、黒の長靴下の脚を跳ねるようにして、柴田に縺《もつ》れるようにして降りて来ると、

「まだか」

 大きな声で言いながら、もう車に乗っていた林作が靴のまま上がって来て、モイラを見、

「うむ、上等。上等。綺麗な処女《ヴイルジイヌ》だ」

 そう言って、下りて来るモイラを両腕に抱き取り、車までつれて行くのだ。

 モイラの感情は底から動いて来ていない。感情の尻尾は、いつもモイラの胸の中に残っていた。残って、低迷していた。その薄い感情を、もう一人のモイラが、冷やかにみている。自分では知らずに、見ているのではあったが、もう一人のモイラが、それを茫然と、きょとんとした、しかも莫迦にした顔つきでみていることは、たしかなのだ。

 モイラの感動はすぐに消えて、持続性がない。人に愛せられたことも、感動をもって抱き締められたことも、人から何かの贈物を貰ったことも、この歓びはすべて鈍い、曇りのあるものになって、モイラの中に入ってくる。そういう感動だから、すぐに体の外へ抜けて行ってしまう。モイラは、どんな感動も、すぐに抜け出し、忘れ去ってしまうために、一人の軽薄極りない人間になっている他はなく、恩知らずな子供になっているより、ない。

 そういう具合だから、モイラを特別にやさしく扱った人間が、それについてモイラから感謝された、という、充実感を味わうことは、まずない。それどころか、ひどく当ての外《はず》れたような感じを受け取る。彼らは肩すかしをくって前へのめる。扉《と》があると思った所に布が下がっていたような具合で、モイラはその布の向うで笑っているような、癪《しやく》に障る感じなのだ。ところが、モイラを苛《いじ》めてやろうとした人間にとっては、その同じ作用が逆手になって、彼らには充分な満足感がない。何十年かかって、団体でやっつけるような場合になると、さすがのモイラもバラバラになるが、又いつのまにか背鰭《せびれ》を生《は》やし、頭と胴、胴と尾とが繋がり、鱗を生やして、モイラの魚は泳いでいる。その背鰭を生やしたり、胴と尾を繋いだりするのが、モイラの硝子、つまり、モイラの無感情地帯から出る接着剤のようなものらしい。その硝子体の接着剤のようなものは、平常《ふだん》用のない時には溶け出して、皮膚の上を蔽《おお》っているらしく、モイラの皮膚にはたしかに垢《あか》でもなく、脂《あぶら》でもない透明なものが塗りこめられていた。固体ではないが液体でもない、ひどく滑らかなその透明体は、オブラアトよりも薄くモイラの皮膚を蔽い、水で拭《ぬぐ》うと直ぐに溶けて、植物性の清潔《きれい》な、澄んだ香いをたてた。そうしてその透明な香いはモイラの大きくなるのにつれて少しずつ変化して、或時期には懶《ものう》い、睡眠薬のようであり、或時期には東北地方の春の山にある、しんかき(林作が使っている細い筆の名である)のように細くて臙脂《えんじ》色をした細い芽のある枝を折る時のような、清冽な、花よりも澄んだ、鋭い香いに、変った。

 世間にはモイラとは反対に、義務的なことや規則、守るべき時間、そんなものが、好きでならないのではないかと疑われるような人間がいた。モイラの眼から見ると、それらの人々の頭は特殊な構造になっていて、時間や規則のようなものが、スラスラと頭に入ってくるもようである。

 親類の女や、近所の女たちが、だらしのない居ずまいをして、何かを喰いながら喋っている話は、大半は熱苦しいような、愛情の話である。その愛情の話は義務の問題に繋がっている。親の義務、子の義務に、繋がっている。

「親だからねえ」、又は「親子の間で」。そんな間投詞が熱い風のような口調で、必ずといっていい程、出てくる。彼女たちの話は動物的な愛情と、義務との熱気を孕《はら》んでいる。それらの話がモイラには薄々わかるのだ。その話の熱気は、柴田や、御包が、モイラに圧しつけてくる勉強の話に似ていて、それがモイラには重苦しく、不快である。

 家政婦の柴田に、生温《なまぬる》い牛乳とか、胸の悪くなる味を持った水薬を、無理やりに飲ませられる時、モイラの胃壁はそれを突き戻してくるが、義務的なことと、暑苦しい愛情の話の不快もそれと同じである。

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