饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:15393 字 更新时间:2026-6-23 06:49

(こいつを俺のものにしないではおかない)

 その時ピータアは、心に呟いたのだ。

 ピータアは十年か、或はそれ以上になるかも知れない長い間、愛用して来た、というよりも、伴侶にして来たといった方がいいような、濃緑の毛布を折り畳んで敷いた寝台《ベツド》に寝そべり、モイラという娘の持っている魔について、考えた。

(あの娘には不思議なものがある。見ていると、どこかに不機嫌のようなものがある。不機嫌なのではないかと疑われるようなものだ。もやもやとした、厚みのある、それがあの娘の表情から、動作、すべての、あのモイラという娘全体を蔽っている。それは藻のようなものだ。曇りのある眼。動作はすべて遅《のろ》い。それが藻だ。あの娘のどこを見ても、硝子のような不透明が、覗いている。感情の不透明だ。それが藻だ。まだ子供で、何も知らない、世間知らずな甘え放題な娘だ。それは一目でわかるのだ。だが不思議なものを持っていて、まるでsexを経験した女のふてぶてしさのようなもので俺を唆《け》しかける。それはあの体だ。もう熟している。だが未だ樹にあって、樹の養分を吸っている果実のような肉体《からだ》。接吻を強要している肩、胸、腹から脚、そうして腰。何かを考えるらしい時、怖れる時、半ば開けている脣。あの娘は自分では意識せずに、自分の実った体をふてぶてしく投げ出している。俺が近寄って行ったことを怖れている体が、どこかで、言いようのないものを出して俺に挑んでいる。未経験な、今、熟したばかりで、男だけではない、空気の中のなにかを、怖れているような体に、倦怠の色がある。なげやりな色がある。知らずに遣《や》っている、みせびらかしがある。そいつが俺を火にする。俺の腕に、胸に、腰に、灼《や》けた火の棒を走らせる。そうして無理やりに俺の掌に、サドゥ侯爵の鞭を持たせる。それが藻だ。曇りのある大きな眼で、俺を視たのが最初だが、あの眼の中には最初から、俺を唆《け》しかけるものがあった。モイラの持つ藻のようなものが、それを遣らせているのだ。獲物をめがけて舞い下りる鷹の爪の下で、死んだように動かない筈の小動物が、ふと抵抗を現すのだ。抗《あらが》い得ない媚態だ)

 ピータアは濃緑の毛布の上に腹匍いになった儘、肱を突いた右手の親指を下脣に爪の痕がつく程強く押し当て、モイラを解体していた。ピータアの顔はストイックな、嫩《わか》い神父のように見えているかと思うと、ふと獲物を啄む禿鷹のようにも、なった。ピータアはまだ生々しい記憶の中にあるモイラの眼を、取り出して瞶《みつ》め、その眼に誘発されるようにして、モイラの体の、誘惑して止《や》まない断片を、想い浮べ、その断片の一つ、一つに、鋭い官能の牙を、あてた。抑制の絆《ともづな》を解いたピータアの眼の前に浮び上がったモイラの断片は、一つ一つが生きたもののように、ピータアの想念に跳びかかる。友だちが言う〈牧師のピータア〉は今、兇猛な一羽の禿鷹に、化《な》っていた。

 だが狂気の一刻《ひととき》が過ぎた時、ピータアの胸の中に、澱《おり》のようになって残ったのは、モイラの、ピータアを擒《とりこ》にした、という、可哀らしい歓喜に、馴れがあったことだ。

(あの小さな悪魔が捉まえたのは、たしかに俺が初めてではない。ここは日本で、あの娘はまだ十六にもなっていない。父親は実業家らしいが、堅気に育っている。万一何かがあったとしても、精神だけのものなのは、わかっている)

 と、ピータアは思った。だがそれらの、気休めになる筈のものを幾つ並べてみても、ピータアの心に残った澱のようなものはとり除かれない。

(完全に、精神だけの恋愛なんというものが、第一あり得ないものだ。ことにあの娘の場合……。若し犯さなかったにしても、俺以外の何者かが、あの、俺の前に、舞い下りる鷹の爪の下に動かなくなる兎のように竦《すく》んでいながら、意識せぬところでふてぶてしいものを出して俺に挑んだモイラの、熟し肇《はじ》めの体を、何分か? 何時間か? 瞶《みつ》めつづけていたというのか? 可哀らしい、魔のようなモイラの眼を、その眼の中に吸い入れるようにして見詰めたというのか? 恐怖して、半ば開けているあの薄紅の脣を既《も》う、奪った奴がいるとでも、言うのか……)

 ピータアは先刻《さつき》、砂の中から襲いかかった太陽の余炎が、まだ脚の先に生きているのを、俄かに意識した。

 だがピータアの疑問は、モイラ自身にもわかってはいない。父親の林作も、全部を知ってはいない。林作とモイラとが共通して知っているのは馬丁の常吉の、抑えていて表面には出すことのない、モイラへの暗い熱情と、既に過去になった、一時期の、アレキサンドゥルの狂気、との二つだが、常吉の部屋で、壁際に立て膝で蹲《うずく》まっていた常吉の仲間の男の倉太が、モイラを見て、不意に異常な慾望を漲《みなぎ》らせ、兇暴な眼でモイラを射すくめた小事件がある。それに気づいた常吉が直ぐにモイラを、その眼の前から外へ伴れ出したが、倉太は間もなく常吉の部屋から姿を消したので、この小事件は二度と起きなかったが、これはモイラと常吉とだけの間の秘密になっている。常吉は倉太がモイラに対して何か、不始末をしたのだったら、自分から進んで、林作に言っただろうが、単に異常な慾情を起しただけのことであったし、倉太は常吉を頼って来たのだが、境遇が悪くて、兇暴になっている男で、林作も金を遣《や》って返すよりなかった。それで常吉は倉太への哀れみで、モイラに林作に言わないでくれるように頼んだのだ。その時七歳だったモイラは、常吉が黙っていてくれと言ったので、黙っていたのだ。モイラは倉太の烈しい慾情を判然《はつきり》と把握していたわけではなかった。ただ漠然と理解したのである。これはモイラの最初の経験といっていいものだ。又、家庭教師の御包と、家政婦の柴田との二人の、抑制された性が曲って出て来た、異常な憎悪と、サジスティックな挙動が、一方にあって、これもモイラに根強いサジスティックな、肉慾的なものを抱いている聖母学園のロザリンダが首領格になっているこれらの、道徳の皮を被ってモイラを追い廻している、すさまじい女の群は、モイラの捉えたものというのはおかしいが、モイラの中に何かを育てたものではある訳で、これもモイラの経験の中に入っている。

 それらの女たちの群の、慾望の変形した、醜い行動は、それは暗闇の中の醜い亡霊たちである。その上にモイラには、父親の林作との日々の歴史が、ある。そこには狂気はないが、モイラとの繋りはどれよりも深いところにあるだろう。林作は、知らされていない倉太との小事件についても、或はそんなこともあろうという、推察は持っていたと言えるのだし、彼はモイラの周囲をとり巻いて起きることは、出来事《アクシダン》とも言えぬ微妙なことも、確かな推察で把握している。林作は、モイラの周囲に現れる男たちについては心理の、微細な切れはしまでを、どこかで、捉えている。林作はこの場合、巧みを極めた鵜匠で、あった。

 若しピータアが、モイラの家に寄宿でもしていて、モイラを赤子の時から見ていたのだったら、これらの出来事《アクシダン》ともいい難いのも混った、幾つかの出来事《アクシダン》はすべて、ピータアの眼に明瞭《はつきり》と、捕えられたに違いないが、すべてがピータアの眼から隠されているので、モイラに心を奪われたピータアにとって、それらの明瞭でない群像の存在は、彼をモイラの魔力の深みにひき入れる、強い曳綱になっていた。もっともピータアが、それらの人々や事件をすべて知悉していると仮定してみると、それらはピータアにとって一層ひどい刺戟物だったかも知れない。だが、眼に見えぬものの脅《おびやか》しに、今ピータアは無慚にひしがれて、いた。

    *    *

 ピータアが、そのモイラの捉まえたものの中の一人について眼を開かせられたのは、次の日の朝だった。ピータアが朝、まだ薄暗い内にひと泳ぎして、坂道を上って行くと、モイラが父親らしい男と来るのを見た。白へ灰色と黒の繊《ほそ》い線が、小魚の骨か、寒暖計のように見える、ピータアの眼にひどく綺麗に映った単衣物を着た、五十年配の男は、モイラに何か微笑いかけながら歩いて来た。

 父親らしい男は、既にピータアについて知っているらしく、直ぐにピータアに気附いたらしいが、気にしている様子もない。熱い眼をモイラにあてた儘進んで行ったピータアとの距離が狭まった時、父親らしい男はまだ微笑いを残した顔で、ピータアを見て立止った。モイラは朝の明るさの中で見ると却って一層魔ものじみて見える眼を、大きく開いてピータアを視ると、肩の辺りを微かにくねらせるようにして、父親に寄りかかった。ピータアはそれを見て、モイラの擒《とりこ》の一人がモイラの父親なのを知った。モイラの肩は、今日は淡黄色のロォンに隠されている。林作がモイラの肩に軽く掌を遣《や》って、言った。

「やあ、昨日《きのう》はモイラが君と話をしたそうで」

 ピータアは眼の中の熱いものを消す間もなく眼を上げて、林作を見た。浅黒い中に白い歯がわずかに覗いた林作の顔に、善意を認めるとピータアは、脣の端に微笑いを見せて、応えた。林作の顔にはたしかに善意というか、親しみのようなものが、あった。自分を小さい頃、見たことがある、とでもいうような、親しみである。それはあり得るだろう、とピータアは、思った。或は、特別に魅力のある男で、敵でない限り、そんなようにして微笑う男なのかも、知れないとも、思われた。だがピータアは、日本武士の顔が洒脱な味に崩れた、というような林作の表情に、一目《ひとめ》で尊敬と、親しみとを抱くと同時に、言いようのない嫉妬を、覚えた。

 ピータアは林作|父娘《おやこ》と三十分程散歩をして、別れたが、別れ際に、「遊びに来給え」と、林作が言ったこともピータアを幸福にはしなかった。それはピータアはモイラを、ピータアの城に浚って来ることに、眼の眩むような慾望を覚えているからだ。慾望を覚えているというより、ピータアにはそれ以外にない。ピータアは、男友達《ボオイフレンド》として、モイラの家に現れるなぞということが、精神が弛緩するほど、莫迦げて、退屈な気がするばかりでなく、ピータアはそんなことは自分のすることではないと、信じている。モイラにも、そんな場面は似合わないと、信じている。立派な婚約者などより、そんなものより以上に、立派な恋人なのだと、ピータアは自分を評価している。だがモイラを掠奪したい慾望を、抑えられない。モイラも、掠奪される娘に生れているのだと、ピータアは信じている。掠奪して来て、どうするか? ピータアはモイラを、ピータアの城に閉じ籠め、逃げぬようにしておいて、モイラがこれまでに捉まえた奴の名を吐かせたい。何時《いつ》、何処で、どう遣《や》って擒《とりこ》にしたかを。どういう関り合いの男だったかを、吐かせたい。そうして其奴と自分とを比べて、孰方《どつち》が心を奪われたか、真実《ほんとう》の恋人か? それを吐かせたいのだ。現実には、モイラが自分の城に来れば、自分は唯黙って瞶めているだけかも知れない。と、ピータアは思っていた。だが今、ピータアの空想は湿っていて、執拗で、たしかにそこまで、走っていた。

 ピータアはモイラを、永遠に、自分のものにして置きたい。そうして何故か? それが何故かはわかっているのだ。何故か、何から何までして遣りたい。読んだものの話をして遣《や》って、モイラを教育をして遣りたい。そうして光沢《つや》のいい猫族のようなあの体を、愛撫して遣りたい。ピータアは熱くなった心《しん》の臓《ぞう》で、想うのだ。モイラの欲しいと言うものなら、どんなことをしてでも、手に入れて遣ろう。だが俺を裏切ったら、一《ひと》突きだ。今度は俺が虫を捕る子供になって、モイラを標本にする蝶と同じに刺し貫いて遣ろう。と。

 そういうピータアは林作に、嫉妬をしている。今日モイラの着ていた薄い檸檬《レモン》色の衣《きもの》が、ピータアの眼には、モイラの裸を自分の眼から隠そうとする林作の策略が着せたもののように思われた。林作が今日一緒にいたことも、ピータアには林作が故意にしたことのように、思われるのだ。そうして、薄い檸檬色のロォンの下に、透《す》いていたモイラの肩を、軽く抑えていた林作の掌は、ピータアをひどく苛立たせた。

 その日、モイラに檸檬《レモン》色の衣《きもの》を着せてあったのは、前の日に少し長く海に浸かり過ぎたというので、その日は水着を着ることを林作が、禁じたのだ。林作が一緒だったのは、やよでは、モイラが靴下を脱いで海に入るといえば、止《や》めさせることが出来ないだろう。そう思って林作が、自分の朝の散歩の時間にモイラを伴れ出したのだ。林作はピータアを見て、ピータアの望む恋愛の種類、その形態が、どんなものかは、大体察しがついている。まして林作は古い記憶だが、たしかにコオカサスの男だろうと思われる、ピータアの父親を見ていた。

 父親らしい男が、濃緑色の家を出入りするのを、此方《こつち》から見ていた時にも、その男の、軍隊|洋袴《ズボン》は眼に入っていたが、林作が或日、薄暗くなった頃、家の脇の坂道で、彼らの親子三人と擦れちがった時、彼が黒羅紗の、いかにも露西亜軍人のものらしい洋袴《ズボン》を履いているのを見たのだ。黒羅紗の上に白い、ゆるやかな襯衣《シヤツ》を着ている、父親は、書物で見るコザックの隊長と言った風貌で、ピータアも眼と眼の間が狭いが、眼頭《めがしら》の逼《せま》った大きな濃青《ブルウ》の眼をしていて、濃い口髭の下の脣は厚く、大きかった。その男は葉巻を手に、ゆっくり歩いていたが、父親に寄り添って歩いていた、父親に負けずに大きな、威厳のある母親にも、二人の間を後先《あとさき》になって歩いていた少年にも、薄暗い中だったからばかりではなく、どことなく寂しげなところがあって、亡命している軍人の家族が、しっかり団結していると、いったような感じが、あった。コザックだろうと思ったのは、小説《ロマン》好きな林作の想像であったとしても、亡命軍人だということは確かだった。モイラが生れた年だったから丁度十五年余り昔のことだが、夕暮れの薄暗い中で見た、ピータア一家は、林作の頭に、たしかにそんな印象で、残っていた。ピータアの印象にも、何処かに、「愉快なコザック」や「ペチカ」を歌い、ウオトカを飲む、コザック兵の感じが、ないでもない。コザック兵の息子らしい、烈しさが、見えるのだ。林作はピータアにせよ、他の誰にもせよ、モイラの青春について、むやみに間違いを恐れる気持はない。〈アクシダン・ダムウル(恋の遺児)〉さえ出来なければいいと、林作は考えている。自分がモイラをそんなように、育てたのだ。自由でなくては、モイラが幸福でないと、そう考えて、そんなように育てたのだ。モイラを奪《と》られるのを、歓びはしないが、そんなことがあっても仕方がないと、考えていて、それはモイラの幼い時からのことだ。林作は自分自身を、困った人間とは思っていない。その自分が育てたモイラにも、自信を持っている。モイラは放っておいても心配はない。むやみな男に自分を与えるような事はないと、林作は思っている。

 林作はモイラの中に、ピータアという青年を擒《とりこ》にした、という、子供の邪悪に似た歓びを、はっきり視て取っている。又現在以上に擒にして遣りたい誘惑に唆《そその》かされて、危く、いつものムウディイな気分の中に陥《お》ちこみそうになっているモイラの、一種甘美な気分に、いち速く感応している林作には、ピータアの接近を妨害しようなどという気はない。モイラはピータアとの間に何かがあれば、林作に対して罪悪感のようなものを抱くだろう。だがそれは悪い悪戯《いたずら》をした子供が、それを父親に知られた可怕《こわ》さのようなものだ。林作とモイラとの、父と娘との愛情の後《うしろ》には何かがあるが、その何かを林作は人間の持つ自然な本能だと思っている。林作はその自然な本能に従って動いているので、世間の父親のように、とくにまともな、道徳的なものを誇示しようとしないだけである。林作は自分の恋愛をピータアに対して後暗いことだとは思わぬし、ピータアとモイラとの間に何かがあったとしても、それを間違いが起きた、とは思わない。林作には〈間違い〉はないのである。ピータアはそういう林作の考えを知らない。ピータアの父親のセルゲイと、母親のタマァラとは、三日の予定で、ピータアがモイラを窗の中に見た日の朝東京に発ったのだ。機会は直ぐに一日か、二日で、逃げ去るだろう。ピータアはどう遣《や》って抑えていいかわからない、不条理な怒りを胸に燃え上がらせた状態で濃緑の家に辿りつき、板戸を明けて、〈ピータアの城〉に、帰った。

    *    *

 林作とモイラとがピータアと別れて家に着くと、やよが電報を手に持って、待っていた。取引先の独逸人が来て、ホテルから連絡して来た、という、会社からの電報である。まだ一月《ひとつき》は先の筈だった話が、変ったらしい。林作はやよを伴れて、二階に上がった。

 モイラも直ぐに後《あと》から上がって行ったが、暗い階段を半ばまで登った時、ふと、自分に凝と視入るピータアの眼が、暗やみの中に浮んだ。つづいて濃緑のピータアの家が、ピータアの眼と重なるようにして、浮び上がった。同時に階段の中途の暗やみが、微かに濃さを増して、空気が重くなった。それはモイラの予感《プレサンチマン》である。林作が居なくなるかも知れぬと思ったモイラの頭に、ピータアの眼と、濃緑の家とが、見えたのだ。モイラは、何《ど》うしてかわからぬが、ピータアと会うのは、昨日《きのう》のように海でなくてはならないと、思っている。二人だけでなくてはならないと、思っている。二人が会うことは、二人だけのもので、それは秘密のものだ、と、モイラは何処かで、思っているのだ。

 何か知れぬが恐怖が走って、モイラは急いで階段を上り詰め、俄かに重く、湿った廊下を走った。書斎に入ると、スタンドが点いていて、やよが卓子《テエブル》の上に大きな、肥え太った背を屈《かが》めて、紙切れを手に持って、熱心に見入っている。長椅子の林作が鉛筆で、紙の上に書いた字を辿っている。

「此方《こつち》は、コンヤ、タツ、でいい。この間に一角《いつかく》残して書くのだ。それから此方は、いいか。リンサク、ジョウキョウ、コチラ、ルスニナル、スグコイ。この間は皆|一角宛《いつかくずつ》明けるのだ。判るね」

「はい。では行ってまいります」

 モイラは凝と立って、それを見ていた。

 やよが急いで出て行くと、林作は長椅子の背に寄りかかって、モイラを見た。

「モイラは大人しく留守居が出来るか?」

 モイラは、スタンドの火影に自分を見詰めている林作を見ると、その肩に飛びついて、行った。

「パァパ。段々も、廊下も、とても暗い」

 林作は、確《しつか》りと捉まり、自分の項《うなじ》に頬を寄せて、窗の暗い空に眼を遣《や》っているモイラの肩の辺りを、後手《うしろで》で軽く叩いた。

「何時《なんじ》に発つの?」

「何時《いつ》、帰る?」

 モイラはいつものように林作の片膝に凭れかかり、何処かに秘密のある眼で、林作を見上げた。

 モイラは、林作がいなくなったらピータアに会いに行こうと、明瞭《はつきり》考えている訳ではない。モイラというものの深奥に、自分を愛している、と見た人間をさえ見れば、その愛情を食いたがる肉食獣がいて、それがピータアを見て慾望を起している。それが、電報が来たのを知って、父親がいなくなるかも知れないと、思った時、モイラの頭にふと、暈《ぼんや》りとした予感が起きたのに過ぎない。階段の暗がりで見た、ピータアの眼と、濃緑の家との幻は、そんなモイラの予感の現れである。

 擒《とりこ》にしたピータアに、モイラはもう一度出会ってみたい。モイラは海へ行けば、ピータアに会えると、思っている。十間程離れた、ピータアの家の、丁度、モイラがピータアを初めて見た窗と向い合った辺りに、同じような小窗がある。モイラはその窗を見附けていて、ピータアが最初の日、自分が一人になった時に出て来たのは、そこから見ていたからに違いないと、思っていた。だが慾望の向うには恐怖が、あった。モイラはピータアが、林作や常吉とは違うことを、知っている。そうしてそれが、どう違うか、ということも、朧気にわかっていた。

 林作が、モイラの頭の中の機械《からくり》の動きを、皆見ているような微笑いを浮べて、モイラを見た。林作独特の、何ということもない時でも、エロティックなものの霧《き》らう、微笑いである。林作も、モイラの寝室の小窗と向い合ったところにある、ピータアの窗を、知っているのだ。

「今夜発つが、明後日《あさつて》は帰って来る。夜は大丈夫か? 寂しかったらやよに、寝台《ベツド》の下に寝て貰え」

 モイラは林作の膝に横顔を押しつけるようにしながら、頷いた、甘えの中に、何処かに、林作に秘密を持ったような気がしているらしいところがある。

 モイラの肩においた林作の掌が、幼い時にしたように、軽く背中へ、撫で下ろされた。思わず知らずのように、そうしている林作の顔には、微妙なものが出ている。優しい微笑いを含んだ頬から脣の辺りに苦みがある。父親にしては幾らか濃密に思われる愛の蜜が、窪みを造っている頬と、固く結ばれた脣との間で表情の均衡《バランス》が破れている。蜜の塗られた微笑のどこやらに、苦い影さえあって、裏切りを企てている、あどけない情人を知っていて見ている、訳知りの男の顔のようにも、見える。

 電報を受け取った時から林作は、車が東京の家を出る時に覚えた、淡い予感が、濃い、生《なま》なものになって、蘇るのを、感じとっていた。

 モイラの背中は長い間触れずにいた間に、背筋に窪みが出来ていて、その窪みを中心に緻密な豊饒を、くり延べているようだ。アムステルダムの教会で、手を触れたことのある、聖典の表革《おもてがわ》の羊革の触感が、ふと、林作の掌に蘇ってくる。林作は、微かに触れる豊饒の中で、ロォンの薄い布地が隔てているだけではない、何かに、隔てられた、微妙なエロティシズムを、覚えた。

 それはどこか空虚で、また、豊饒で、あった。

    *    *

 モイラ父娘《おやこ》とピータアとが別れた頃から、空が暗くなり、湿り気を帯びて重くなって来ていたが、その夜は酷い蒸暑さが来て、雨になった。雨は外房州の砂地全体を湿らして、降り続けた。

 ピータアは前の日の夜と同じに、モイラに関する悩みの中に、いた。熱帯地方の陽の下で、乾燥したばかりの胡椒や、カリイを載せた舌のように、燃え上がるものを覚える一刻さえあった、長い、暑い夜を、過した。

 同じ夜、モイラは寝台《ベツド》の中で、いつもの湿った、不機嫌《ムウデイイ》な気分の中に、陥っていた。その夜《よる》、モイラは生れて初めて、林作と離れて睡ったのだ。現在もモイラは、気分の悪い日、重苦しい、雷の来そうな夜、なぞには、林作の寝室の長椅子寝台《ソフアア・ベツド》に寝ていたのである。モイラは当る相手がないことに苛立って、何度か、寝返りを打った。林作が傍にいれば、起して、レモネエドが飲みたい、とでも、氷が欲しい、とでも言えただろう。林作は頼まないでも、モイラの寝入るまで、起きていてくれるのだ。その林作が、忽然として、何里も離れたところに、去《い》ってしまったのだ、そのことがモイラを、どう遣《や》っていいかわからない状態にしている。林作が出て行った後も、寝台《ベツド》に入るまでは、それ程にも思わずにいた。林作から、どうしても会わなくてはいけない客と会うので、それが会社の大切な仕事なのだと、言いきかされているので、モイラは不平は言わぬ積りでいた。それが一人で寝室に入って、寝台《ベツド》に横になってみると、林作がいないということが、どうにも我慢が出来ないのだ。しかも蒸暑く、降り続く雨に、空も、海も、家も砂地も、閉じ籠められたようだ。モイラは呼鈴を押してやよを呼び、氷を入れたレモネエドを持って来させたが、やよでは当る張合いがない。林作が傍にい、甘えを潜めて飲むのでなくてはレモネエドを飲む気もしないのである。やよはひたすら、モイラを慰めようとしたが、モイラは「もう行っていい」と言って、退《さが》らせた。モイラはレモネエドの氷が溶けて行くのを、凝と見ているだけで、飲もうとはしないで、何度も寝返りを、打った。林作が居れば、何度でも着せかけて呉れる筈の白いタオルの掛布《かけぬの》を踏み脱いで、モイラは白い裾長の寝衣に包《くる》まれた体を、不機嫌にくねらせた。やよが暗くして行った電燈の下で、蜂蜜の色をした足首が、言いようのない、光沢《つや》を見せて、汗ばんでいた。

    *    *

 翌朝は気温が急に下がり、海も砂丘も冷え冷えと、冷やされているような気配が、ピータアの部屋にも、モイラの寝室にも、満ちていた。ピータアはひどく疲れて寝入り、何度か眼を開《あ》いたが、明瞭《はつきり》眼が醒めたのは、午後になってからである。時計を見ると、二時半を過ぎている。幾らか冷静を取り戻したピータアは、寝台《ベツド》を下りた。

(泳いで来よう。少間《しばらく》、柔かな海に抱かれていよう。静かな海は母親だ。子供の頃のマァミンカだ)

 と、ピータアは想った。

 浴室に飛び込んでシャワアを浴び、幾らか疲れて見えるが底に火のある眼と、鏡の中で瞶《みつ》め合いながら、髪を拭くと、ピータアは白い革のバンドの附いたパンティを着けて、海に飛び出して行った。毎日、新しく生れるもののような、力のある海は新鮮な匂いをたて、脈を打つような重い響きで、鳴っていた。

 抜き手を切って沖まで泳いで行ったピータアが、今度はゆっくりと、泳ぎ戻って来ると、小さく、遠く、坂道の上にモイラが立っている。一人だ。ピータアが手を上げて合図をすると、こっちへ走って来る。ピータアは忽ち、全身に海の力をつけた男のようになった。モイラはゆっくり走って来て、波打際の大分手前で立ち止った。ピータアが海から上がって一歩、一歩、モイラに近づき、手を腰において見下ろすと、又もや藻のようなあやかしの纏う眼が、ピータアを見上げている。(この人を私《あたし》は絡めとって遣《や》った)、そんな眼だ。絡めとって遣《や》ったと思っていて、それを対手が知らないと思っている、そんな眼だ。その絡めとったというのが、明瞭《はつきり》した意識をもって遣《や》った、というよりも、本能に押されてやったというような、ところがある。それが却って重苦しい、迫る力になっている。思わずピータアの掌《て》が、モイラの肩を軽く捉まえた。眼は凝《じつ》と、ピータアの眼に据えたままで、モイラは撓《たお》やかな腕を上げて、ピータアの掌を除《の》けようとする。遅《のろ》い動作だ。力を籠めているのがわかるのにも拘らず、殆ど力が無い。その力の無い抵抗と、湿ったような指とが、ピータアを惑わし、力を入れているので膨んだようになった脣が、ピータアを火にした。

(だがまだ一寸、無理だ。それに女中が来るかも知れない)

 ピータアは危く接吻を思い止《とどま》って、言った。

「何《ど》うもしない。今日はこの前より長くいられるの?」

 モイラが、眼と脣の端だけで、微かに微笑いの影を見せた。どこで、こんな巧者な微笑いを覚えたのだ。危険が去ると、再び小動物の本能のような、眼の誘惑が始まる。

「パパは?」

「パァパは会社から電報が来て、東京へ行っていない。……」

「それで僕の家へ遊びに来て呉れるの? そうだね?」

 誰かが来るのが気になりながら、ピータアは掠奪への昴奮を抑えて、言った。

 モイラはもう充分、というほど、ピータアの眼の中に自分への真実を見てとったのか、ピータアの掌の下で二つの肩が甘えを見せた。ピータアの掌が、それを感じとっている。

 ピータアが黙って、モイラの肩を優しく押して後を向かせ、一方の肩に掌をかけて、二人は濃緑の木の家へ向って歩き出した。

 やよはモイラが出て行ったのに気附いて愕き、大きな乳房を入れた温かな、厚い懐を、不安で一杯にしたのだが、モイラに遠慮をして海へ追っては来なかったのだ。モイラはやよがそうすることを、知っていた。だがモイラは林作がやよに、電報を読み上げて遣《や》っていたのを傍で聴いていて、常吉が来るのだということを、知っている。モイラは常吉が着いて、自分の外出に気附くことを何よりも、恐れていた。

(ドゥミトゥリは怒るだろう。そうして、許さないだろう)

 と、モイラは思った。やよは常吉に言わない。でも終《しま》いには常吉に聞かれて、言ってしまうのだ。それに常吉は、やよが言わなくても、知ってしまうのだ。林作に対してはモイラは、林作が急に帰って来た、としても、大して怖れはしなかったが、常吉の胸の中の愛情が、ピータアと同じようなのだと、いうことを、モイラは既《も》うよく、知っているのだ。

 濃緑の家に向って歩く途中、ピータアはモイラの掌を捉まえた。二人は掌を繋いで歩き、モイラは二度程、家の方に振り返った。

「モイラ。〈ピータアの城〉を知っている?」

「なに?」

「僕の部屋のことだ。今、見せて遣ろう」

 濃緑の家の板戸を開けると、小さな四角な土間があって、そこから急な階段がついている。上がるとピータアが、大きな扉を開けて、モイラの肩を抱いて中へ入れた。

 入って直ぐ右の隅の壁際に、古びた小卓《こづくえ》があって、ひどく古風な把手のついた抽出しが、卓一杯の大きさに一つだけ、附いている。この一つの抽出しの為だけに慥えたような、妙な卓だ。卓の上には何の飾りもない、時代物の洋燈《ランプ》が一つだけ載っていて、上の壁には、卓と略《ほぼ》同じ幅の額がかかっている。森の中に細い小径が一本、画面の奥へ通じているような絵だ。その上には、狭い板を打ちつけた棚があり、干乾びた土に苔のついた、小さな植木鉢と、怪魚の骨のような形の大きな、白い貝、そこにも洋燈が一つある。額を留めてある鋲も黒い鋼、吊り紐も、渋い茶の打紐で、この部屋のものはすべて、暗く、ひどく地味で、モイラのこれまで見て来た世界とは異なっている。モイラの見たことのない、これらの部屋の道具立てはモイラに、或厳しさを伝えた。モイラは立ち止り、ピータアを見上げた。

「見たことのない部屋だろう?」

 モイラはピータアの部屋にある厳しさの中に、学園の修道女の部屋や、御弥堂《おみどう》の中の様子に通ずるものがあるのを見つけ、なんとなく厳しいものに搏《う》たれ、一寸体をくねらせた。モイラは又、ピータアを見、尚も珍しげに見廻した。

 ピータアの部屋は海に向いた窗のある壁と、入口だけを残して、三方の壁が書棚になっていて、左奥の壁際に狭い一人用の寝台《ベツド》が、濃緑の毛布の折ったので包んだようになっている。枕元には焜炉《こんろ》があって、薬缶《やかん》が掛かっている。左の隅には碁盤縞《チエツク》の布を掛けた卓子《テエブル》と、椅子が二脚。卓子《テエブル》の上には暗い青《ブルウ》のポットと白無地の紅茶茶碗。観葉植物の小さな鉢が載っている。

 部屋の中央には、欧羅巴の田舎にあるような、曲った針金で吊った洋燈《ランプ》が下がっている。書物は寝台《ベツド》の脇のスタンドで読むらしい。右奥にある大きな厚板の卓の上に、肉の厚い青い硝子壜があって、モイラの見たことのない樺色の、細かな襞で出来た花と、蒲《がま》の穂のような、焦茶色の植物とが、挿してあるが、貝殻のように乾いている。その壜の傍に、白い馬の首の玩具があるので、モイラはその卓に近寄った。

 モイラはピータアの眼が、後《うしろ》を向いた自分の水着だけの体にあてられていることを知っているようだが、あまり気になる様子はなく、水着の体で自然に、動いている。

 ピータアは今、モイラの体つきよりも、空気が冷たいので締め切った部屋の中に、ふと、生れたような、清潔《きれい》な、だが刺戟のある、花のような香いに心を奪われている。

(何処まで魔ものに出来ているのだ)

 モイラが傍へ寄って見ると、陶器の馬の首だが、何処かで見たことがある。

 後《うしろ》へ来たピータアを、モイラは振返って、凝と見上げた。凝と見る度に、対手《あいて》の魂を持って行く、眼である。対手の胸の中から愛情を、強引にひき出して行く眼だ。

 ピータアの結んだ脣から頬の辺りに、どこか、弱り、というか、苦笑の刻まれた窪み、というか、手もなく惹きこまれた男の苦い、だが可哀らしさに堪え得ぬ表情が、出ている。それをモイラは見てとっているのが、ピータアに感ぜられるのだ。

(こいつが)

 と、ピータアは心の中に呟いた。

「知らない? 西洋将棋《チエス》の馬だ。王様とか、兵隊とかある、あの動かして遊ぶ奴」

「パァパの本で見た」

 モイラが、卓の上の壁を見上げ、怖れたように、ピータアを見た。

 ピータアはモイラの肩を両掌で優しく、抑え、静かに光る眼をそこに掛かっている絵にあてた。それはベックリンの〈死の島〉である。

 黒い、透明なようにみえる海の、水平線の辺りに白い、滑らかな石を刻んだ島が浮んでいる。石像のような佇立した男を乗せた白い舟が一艘、岸に向って近づこうとしているところで、島の右手の削り立ったような石の側面に、暗い、墓場の入口のような、扉がある。

「〈死の島〉だ。ベックリンという奴の。可怕《こわ》い絵だろう?」

 モイラは絵の説明をして貰うのが好きなのだ。モイラは肩を捻《ひね》って振り向き、林作や常吉に見せるような信頼と甘えのある眼がピータアを仰いだ。ピータアの眼にその時、一瞬永遠が宿ったような、静かな光が点《とも》ったが、抑えているモイラの肩の手触りがピータアを、肉感の世界に引き戻した。可怕さを訴えるように、微かにくねらせる、肩の微かな動きを感ずると、ピータアの肩を抑えた掌に思わず力が入った。

「可怕いの?」

 ピータアは後《うしろ》から、モイラの顔を覗くようにした。ピータアの掌が腕の上部に滑る。ピータアがその掌を脇に差しこんで、胸を抱きたい、灼くような慾望を起した時、モイラはそれを判ったように、ピータアの掌を烈しくふり解《ほど》いて、窗際に逃げた。

 モイラは窗際に立って、又凝と、ピータアを視ている。

 ピータアは腕を組み、苦い微笑いを含んだ眼で、睨むようにモイラを見据えた。脣は微笑いを噛み締めて固く結ばれている。

 怖れをひそめていながら、擒にした男をそっと窺っている、モイラの眼が大きく見開かれていて、ピータアを唆《そその》かした。

 ピータアが、入口の近くにあった籐の肱掛椅子を寝台《ベツド》と向い合せて置き、モイラの肩を抱いてそこに掛けさせ、自分は向い合って、寝台《ベツド》にかけた。肱つき椅子に寄りかかり、膝をくっつけてかけているモイラの体は、近くで見ると、肉感が強く、感ぜられる。紅い水着の体がピータアを燃え上らせようとして、モイラの意志とは別のところで、挑んでいる。ピータアの胸には、抑えようのないものが、膨んでいる。モイラに、未経験な女にしては相当に男を擒にしたことがあるようなところがある。その原因を糺《ただ》して遣りたい、慾望が、もはや抑えられなくなっている。

 ピータアの胸は、モイラが今までに擒にした男について見極めたい慾求と、本能的な、サジスティックなものとが一つになって、燃え上がっている。

「モイラはパパを好き?」

 モイラは不意に起ち上がって、窗際へ行って後向きになったが、気になるように直ぐに又、ピータアの方に向いた。モイラはピータアの言葉の中に詰問口調と嫉妬を、読みとったのだ。

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