そのモイラの、逃げたいような様子は又、ピータアを刺戟した。
「好きなんだろう? さあ。言って御覧」
モイラは微かに体をくねらせ、返事をしない。モイラはピータアの厳しい問い方に会って初めて、林作と自分との間に深いものがあることを明瞭に意識したのだ。
ピータアも、モイラも、予期しなかった、危険な空気は、二人の間に膨れ上がって、妙に呼吸《いき》が詰まるようなものが部屋の中に満ちて来る。
モイラがやよの眼を胡魔化そうとして、朝から水着でいて、その儘で来たことが、一層ピータアを容易《たやす》く燃え上がらせたのでもあったが、だがそれは衣《きもの》を着ていたとしても同じことだったろう。
ピータアは自分を抑えつけようとするが、抑えられない。
ピータアは眼の底に、炎のようなものを潜めて、モイラを見た。
一つの雰囲気が二人を捉まえて押し流した。モイラはなんとも知れず呼吸《いき》が詰まって、体を固くした。モイラは右に、左に、顔をそ向けて、ピータアの眼を逃れようとするが、ピータアの眼は隼《はやぶさ》の眼のように鋭く、どうやっても追って来る。モイラは終《つい》に仰向いた。天井に救いの神がいるとでも思ったかのように仰向き、眼を宙に迷わせている。
ピータアは頭が火のように熱くなり、生贄を見るようにして、モイラを見た。
何秒かが、経った。
「さあ。言って御覧。パパは恋人だと」
モイラは眼を白くなる程上目遣いにして、ピータアを見た。悪いことをしていて、それを隠しているような、稚い、だがそれでいてどこか恐しい魔のような眼が、本能的な恐怖を潜めて、ピータアを窺っている。
ピータアは起ち上がってモイラに近づくと、モイラの肩を捉まえた。モイラは半ば脣を開け、逃げようともせずに、じっとしている。それがピータアを煽った。
ピータアは眼の下に薄い薔薇色の脣を、見た。奥へ行って薔薇色の濃い脣が、今咲いた花のようなのを、見た。しかも全く無防備に半ば開《あ》いている。
ピータアはモイラの肩を捉まえた掌に力を入れ、呼吸遣《いきづか》いを荒くして、少間《しばらく》の間、モイラを見下ろしていたが、やにわに頸を抱きこみ、顎に掌をかけてモイラを仰向かせ、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》く間もなく黒い、精悍な鷹のようなピータアはモイラの上に顔を伏せた。モイラの清潔な、だが紅《べに》百合のような懶い香いが、モイラの後《うしろ》に立った時から、ピータアを唆かして、いたのだ。
モイラは夢の中でピータアの烈しい接吻をうけ、夢の中で飲みこみ、ピータアの腕が頸を締めつけ、片方の腕は背中を固く巻いて、脇に廻っているのを、火のように熱く、感じとっていた。
モイラはふと、気づいたように烈しく、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き始めた。ピータアの腕に爪を立て、ピータアを除《の》けようとする。だがピータアの姿勢はその儘、動かない。ピータアは長い、烈しい接吻を終ると、体の平衡を失ってよろめいたモイラの体を抱え上げて寝台《ベツド》の上に横たえた。モイラはピータアが突然な烈しい行動を悔いて、優しく労《いたわ》ろうとしているのを混乱の中にも読みとると、衝撃の収まらない顔でうつつにピータアを見上げた。頭の何処かが働いていて、
(ドゥミトゥリはもう来ただろうか?)
という怖れが暈《ぼんや》りと浮んだ。モイラには長い時間が経ったような錯覚がある。
(もう来たかも知れない)
モイラの眼がピータアの顔から外《そ》れ、先刻《さつき》やったように、救いを求めるような眼になって、瞳が上瞼に張りついたようになる。そのモイラの何かに怯えた眼が、再びピータアを熱くした。それと、モイラを寝台《ベツド》においた瞬間、ピータアが思わず出血したのではないかと愕いた、モイラの下脣の小さな鬱血の痕《あと》が更にピータアを煽る。少間《しばらく》の間そっとして、看取って遣ろうとしていたピータアは再び火になった。半ば開《あ》いた、傷ついた脣の上に再びピータアの攻撃が加えられた。何刻かが経った。烈しい接吻に次第に深さが加わり、ピータアの掌はうつつの間にモイラの水着の肩の釦《ボタン》を外していた。小さく持ち上がって、その上に薔薇色の乳頭をおいていた、林作の記憶に残っているモイラの乳房は、円く、高く、ラズベリイのような乳頭をのせ、未だ熟し切る前の固さだ。刺戟のある、花の香いが、果実を剥《む》いた瞬間のように漂う二つの丘は、ピータアを狂気にするのに充分な力を備えて上《うわ》向いている。ピータアの頭が瞬間空洞になり、女の体を既に経験しているピータアだったが、衝撃のためにあまり※[#「足+宛」、unicode8e20]きもせずに投げ出されたモイラの体が、嫩《わか》い、濡れた烏のようなピータアの体の下に、圧し伏せられるのに長い時間は経《かか》らなかった。
やがて哀れみに搏たれたピータアは、ピータアを狂気にし、樹の葉蔭に果実を啄む、飢えた鳥のようにし、そうして深い、無明の闇に引きこんだ、成熟した下半身も露《あら》わに、真裸で、まだ何が起きたか明瞭《はつきり》とはわからぬ、邪気のない体を、横たえ、痛むのか眉を顰めているモイラを見ると、その足元の辺の、寝台《ベツド》の下に膝まずき、汗ばんだ、小鳥のような足を固く抱いて、その上に顔を伏せた。
(俺をこんなにしたモイラの眼はモイラの知らない、モイラの中の〈魔〉ではなかったか。モイラの知らぬ間に悪魔が塗りこんだ、魔の餌ではなかったか。だが恐るべき魔だ……緻密な皮膚と、花のような香いが、魔を強めている。ペテログラッドの教会で触った、大理石のマリアの像の手触りより他に、この皮膚のようなものに、触れたことがない)
ピータアは紅い百合の花蕊《かずい》のような香いが、汗ばんで、熱くなった体温の中に溶け、燻《くゆ》っている小さな足に頬ずりをし、脣をあてると、再び燃え上がるものを抑えた。その時モイラが弱々しく※[#「足+宛」、unicode8e20]いて、腕を上げ、眼の辺りを隠すような仕科《しぐさ》をした。ピータアはモイラの足の汗が冷たくなったのに気附いて、柱からタオルを|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎとり、体を拭いて遣ると、モイラは後向きに寝返った。モイラの仕種はどれも、稚い羞恥である。ピータアは、モイラの裸の腰を、視た。まだ枝から樹の養分を摂りつづけている、だが既に実った果実だ。ピータアは拭いて遣るタオルの下に、厚みのある、重い抵抗を、感じた。
拭き終ると、毛布を掛けて遣り、ピータアはモイラの横に寄り添って横になって、労《いたわ》るように、時折撫でさすって遣りながら、長い間、看取っていたが、その間終始、ピータアの顔には愛憐と、渇望とが、闘うさまが、見えていた。伏し眼にした瞼の辺りにも、脣の端の窪みの影にも、耐えている男の苦しみが、あった。
ピータアの顔は彼の友達の言う、牧師のピータアの顔に、なっていた。時折は、苦患僧のようにも、見えた。
少間《しばらく》してピータアは、毛布を除《の》け、モイラに水着を着せて遣《や》った。モイラは水着を着ると顎を仰向け、疲れた、というように、体をくねらせた。衝撃が、全くおさまったようだ。
危険が全く去ったのに気附いたモイラの中には、再び、無限に愛情をむさぼろうとする肉食獣が起き上がったようだ。モイラは今、自分が、自分の可哀らしい顔や、綺麗な体の外観だけではなくて、自分の光沢《つや》のある、形のいい、そうして花のような香いのする体で、ピータアを擒にしたことを、知っている。モイラは、ピータアと、自分の体との関係を、明瞭《はつきり》した形で、意識していたのではない。だが、最初の日に、窗の下へ来たピータアが、どこか恐しい顔で、自分を見上げた瞬間から、既に漠然とした形で、それを予覚していたのでは、あったのだ。モイラはピータアの部屋に来て、その予覚していたものが、俄《にわ》かに、怒濤のような、大きなものになって、自分に打《ぶ》つかって来たのを知ったのだ。
モイラの眼は、可哀らしい怪物のように光って、ピータアを窺う。
(獲物を視る女の眼だ)
ピータアは心の中に、言った。
ピータアは先刻《さつき》から、自分が、父親のセルゲイに聴いた、厳しい宗教の坊主がその宗教の掟に従って、自分で自分を鞭打ったり、仲間の修道士と互に背中を露わにして輪になって鞭で打ち合うという、そんな修道士の境遇に陥ちているような、気がしている。
「寒くない?」
ピータアが、言った。
モイラは黙って首を横に振った。
「熱いお茶を造って遣ろう」
ピータアは立ち上がって隅の食卓の方に行って、茶の用意を始めた。
モイラは寝たまま、ピータアの動作を眼で追っていたが、湯気の昇っている茶碗を持ったピータアが近づくと起きようとした。ピータアは抱くようにして、モイラを起して遣り、そのまま腕に寄りかからせて、茶碗を渡して遣《や》った。そうしてモイラが茶碗の縁《へり》にしゃぶりつくようにして一口、一口飲むのを横から、見守った。
茶碗を持って階下へ下りて行ったピータアは、薄紫の襯衣《シヤツ》を手に持って帰って来た。自分も格子縞の襯衣《シヤツ》をパンティの上に着ている。
ピータアはそれをモイラに着せて遣ると、言った。
「酷く似合う。君に遣《や》ってもいいがなあ」
モイラはひどく欲しいようすで、俯向き、しきりに襟《カラ》や釦《ボタン》に触っていたが、薄紫の襯衣《シヤツ》を家に持って行きたいと思ったと同時に、留守の家が頭に浮び、俄かに不安に襲われた。
「もう帰る」
「何故?」
ピータアが思わず襯衣《シヤツ》ごと抱きかかえると、モイラは釦を持って、俯向いている。ピータアの掌《て》が稍《やや》、邪慳に顎を持って上向《うわむ》かせ、再び烈しい接吻の下にモイラの脣を閉じこめた。モイラは、鈍い痛みに愕いて、逃れようとしたが、ピータアの強い、意志のようなものの下に抑えられていた。ピータアの顔の影になっているだけではなくて、暗い。そうして深い世界がある。その世界のどこかに、誘惑のようなものが感ぜられる。そんな中で、モイラの稚い頭はめまぐるしく働いた。
(ドゥミトゥリのことがわかると又、先刻《さつき》のように聞かれる)
モイラはピータアの脣が離れると、言った。
「……パァパが馬丁を呼んだの。その人パァパの代りに来るの。それに私《あたし》腎臓だから見張りにくるの。海に入ってはいけないから……」
少間《しばらく》してピータアが言った。
「そう。じゃあもうお帰り」
ピータアはモイラを再び抱き締め、何処か青ざめた顔でモイラの眼に見入ると、その眼を脣に移し、鬱血の痕の出来た脣を再び、短いが、烈しい接吻の下に閉じ罩《こ》めた。ピータアには既《も》う、モイラが男を擒にした、というような表情をする原因が、略《ほぼ》掴めたようだ。
(父親も、馬丁も、皆擒にしているのだな)
ピータアは心に呟いた。
ピータアは寝台《ベツド》に腰をかけて、襯衣《シヤツ》を脱ぐモイラに眼を遣《や》っていたが、
「君に上げるものがあるんだ。待ってい給え」
そう言って立ち上がると、ピータアは、洋燈《ランプ》の載った卓《つくえ》の抽出しから銀の台の指環を出して来て、モイラの掌を取り、中指に嵌めて遣《や》った。古い露西亜のデザインだろう。淡黄の、琥珀のような色のオパアルの林檎を、銀の葉が二枚で囲んでいる。モイラは、不安はどこかへ消え去った顔になり、獲物を視る眼でピータアを凝と見上げると、その眼を落し、美しい指環に魂を奪われたように、見入った。
「ママので、僕が貰ったんだが、モイラが嵌めると誰よりも似合うよ」
ピータアはなんとなく自分が、自分でない奴の行動を遣《や》っているような気がしている。ピータアの中にはつい先刻の、恐しい嵐の余波があって、それがピータアの内側に、荒れ廻っている。
モイラは脣の端に窪みを造って、うれしげな微笑いの影を見せ、その淡黄に鈍く光る林檎に、脣をあてた。
ピータアは大きな掌でモイラの頬を、軽く愛撫するように搏《はた》き、モイラが可怕く思った程鋭い、大きな眼で、モイラを見てから、苦しげに微笑った。
ピータアの理性はピータアに、稚いモイラをこの上愕かさずに、疲れぬようにして、この儘帰すことを、命じている。だがもう一人のピータアはピータアに、叫んでいる。モイラをもう一度所有したって、何処が悪い。俺の烈しさに汚れなどは微塵もない筈だ。俺はモイラの神なんだ。と。
ピータアが言った。
「立てる?」
ピータアはモイラを寝台《ベツド》から下ろして遣り、階段を自分が先に下りて、手を支えて遣り、扉口の土間に下りると、ピータアはモイラの肩を確《しつか》りと捉まえて、額に接吻をして扉を開けた。
モイラはピータアを何処までも魅する眼で、もう一度見上げると、背を向けて駆け出した。
ピータアは大跨に階段を上がると、正面奥と、左側の書棚の隙間にある小窗を開けた。モイラと林作とだけが気づいている窗で、ピータアはそこから時折、モイラの行動を見ていたのだ。
遠く、小さな庭の開き戸を開けて常吉が立っているのを、ピータアも、モイラも、認めた。
モイラはその儘駆けて行くより、なかった。モイラが帰り着くと、不安の塊のように立っていた常吉がやにわにモイラの手首を鷲掴みにした。モイラは体を固くし、渾身の力で逃げようとする。常吉の太く逞しい腕はモイラの手首を痕《あと》のつく程握り締め、誠実が恐しい気魄になって漲る顔は骨の形がその儘現れた額に凝集したように見える。モイラは常吉の額に、そのような骨の形があったことに初めて気附いたのだ。怯えて見上げるモイラの心に、常吉の心が電流のように、伝った。常吉は無言で聞いている。
(どうかされたのではないか?)
と。常吉は口が利けないのだ。怒張したような鼻の周囲も、固く結んだ脣も、それはモイラへの怒りではなくて、不安と、モイラの相手への、怒りなのだ。モイラは常吉の意気込みが恐しくて、口が利けない。熱い湯のようなものをうけ止めかねてモイラは唯眼の中を恐怖で一杯にして、常吉を見上げている。わずかに気がついたように腕の力を弛め、尚もモイラの顔に怒号のような問いを打《ぶ》つけていた常吉は、モイラがかわいそうになったのか幾らか表情を弛めたが、その時不幸な常吉は、恐怖のために半ば開いた脣にある、小さな鬱血の痕を、見てしまった。常吉はモイラの腕を離し、力無く俯向くと、黙ってモイラを離れ、裏口の方に去った。
モイラは誰も見てはいぬのに、慌てたように指環を嵌めた指を片手の指で隠すように握り締め、そうして、そうしたままで家に駆け込み、寝台《ベツド》に上った。
ピータアは、馬丁らしい男がモイラを捉まえ、モイラが必死に逃れようとしているのを、小さな遠景の中に捉《とら》え、眼を離さずにいて、直ぐ男とモイラとの間にある陰影《ニユアンス》を的確に、掴んだ。だが、馬丁の方には、隠された恋の苦悩があるらしいことも、覚った。そうして、たしかに外国人か、混血児らしく思われる、それも、自分と同国人らしく思われる男の、遠くから見たのでもわかる素朴な、しかも侮り難い魅力を持った様子と、力強さとはピータアの胸に、又新たな嫉妬の火を点した。
ピータアはモイラが、指環を嵌めた掌を片方の掌で抑えて、家に駆けて入ったのを見て、その後姿を、もう二度と再び見ることの出来ない幻影のように、最後まで見届けると、ほっと、苦しい吐息をした。
ピータアは、モイラと、馬丁らしい男の揉み合う様子に眼を凝らした、その頃から、自分が重大なことを忘れたことに、気附いていたからだ。モイラの一家が明日にも居なくなった場合、モイラの居る場所は永遠に、わからないことになる。ピータアはモイラの住所《ところ》を知らないのだ。ピータアは、絶望した。モイラの父親が帰って来て、モイラの一家が後《あと》四五日も此処にいて、その上モイラをもう一度捉まえることが出来るという保証は、何処にもない。モイラに海で出会うことは出来るとしても、それだって確実ではない。モイラの東京の住所を、誰か、此辺の者に聞こうにも、石沼《いわぬま》附近の漁師たちに、自分たち一家が好意を持たれていないのを、ピータアは知っていた。彼らはピータア一家に対してはむしろ偏見と嫌悪を、持っていた。
(俺の中に恋の余炎が荒れ廻っていて、俺はモイラをもう一度所有したいと、思っていた。もう一度モイラを圧し伏せて、そうして、もう一度、俺のものにしたいと、思っていた。ロオデンバッハの危いところで賢さを失わぬ接吻。それは俺のものの筈だ。と。俺には愚かさも、卑しさも、芥子粒《けしつぶ》程もない。そう俺は、思っていた。それを無理に抑えたからだ。だが抑えなくては、いけなかったのだ。俺は今日のような強引な、残酷なことの出来る人間ではなかった筈だ。こんな執拗な人間では、なかった筈だ。あの可憐な、稚い処女《むすめ》の中に、抵抗出来ない魔が棲んでいたのだ……)
ピータアは心の中に低く、溜息のように、呟いた。
* *
翌朝十一時に眼を醒したモイラは、枕の下から林檎の指環を出して、飽きることなく眺めた。林作が、結婚するまでに金剛石《ダイアモンド》の指環を買い与える約束をしているが、林作は、「余程いいものでなくてはいけない」と言っていて、会う人毎に頼んで、探して貰っているらしいので、モイラはまだ宝石の入った指環というものを、持っていない。モイラは指環を右手の中指に嵌めると、その掌を窓の光の方にかざし、白い、裾長の寝衣の体を楽しげに、寝返りを打った。
つい昨日《きのう》まで、予感《プレサンチマン》のようなものでくねっていたモイラの体が明らかに媚をひそめてくねっている。それは、蜜のような、甘い媚態だ。それは昨日《きのう》ピータアが、死んだように、裸の体を横たえたモイラの上に、窃《ひそ》かに、飽かず眺めたものだ。残酷を怖れて、何度か、燃え上がるものを抑えたピータアは、その苦痛の中で、モイラの不思議な変化を、みていた。
モイラはその日は終日、寝台《ベツド》にいた。食事も、やよに、小さな卓子《テエブル》で運ばせた。やよには風邪だと言ったが、事実、夜になって少し寒気がしたのだ。モイラは、やよも、常吉も、自分に対して彼らなりの深い理解と、労りとを持っていて、昨日の出来事があった前より以上に、献身して仕えているのを知っていたが、彼らの心の中に、昨日の出来事を過ちが起きた、として歎いているのが、不愉快である。過ちが起きたとすることは、モイラが稚くて、莫迦な娘だったということになるのだ。それをモイラは漠然と、感じとっている。モイラはピータアに害を受けたとは、思っていない。自分が過ちを犯した、とは思っていない。何故かわからぬが、悪いことだと、思えぬのだ。何か言えば、舌足らずな会話しかしないモイラだが、モイラは何処かで、自分というものを信じている。頼りない、無意識のような信じ方ではあるが、自分というものを何処かで、信じていた。それは或は、信じることの過剰であるかも知れなかったが、モイラはそんなように、育っていた。ピータアを野放図だとするなら、モイラは、ピータアと同じような、野放図な娘なのだと、言えるだろう。精神が半分幼児のモイラは、常吉の眼を、ひどく怖れてもいた。やよの方は、絶対服従であるから問題はないのだ。
やよは、一度ピータアを見ているので、ピータアというものに対する理解度は、常吉よりは上で、やよは、昨日の出来事が起った後《あと》でも、ピータアを不良だとは信じ切れずにいる。だが、昨日の出来事では、ピータアを見かけのようにない青年であったと思い、絶望に陥っていた。だがやよは次の夜、ようよう決心をして、常吉に、ピータアの印象が悪くなかったことを話していた。やよは常吉の苦悩を、単純に受けとっていることもあったが、彼の力を落した様子を見ていられなかったのだ。それに彼女はモイラのためにも、幾分の弁護をしたいと思ったのだ。
翌日の夕飯前の六時頃、不機嫌に疲れて睡ったモイラが、ざわざわする階下の気配に眼を開《あ》いた時、林作が入って来た。
「どうした」
林作の、何も彼も解っていて、モイラというもの全体を包みこむような、甘やかしの微笑いを見ると、ピータアの家であった、生れて初めての出来事も、帰ってからの訳のわからない不愉快も、モイラの哀しみはみな、翳りのある、甘い、その眼の中に吸い込まれて行くようである。
三四日は会社に出ないといけないようになったので、石沼の滞在を切り上げることにして、林作は車で帰って来たのだが、階下で出迎えた常吉とやよとの様子を見て、何が起きたかの大凡《おおよそ》を林作は、察している。林作はかなりの衝撃《シヨツク》を受けたが、林作にとっては起きるかも知れぬ、と思っていたことが、起きたのである。唯これ程突然な、大きな形で来ようとは予想していなかったのだ。林作はモイラの寝室に入り、大きな眼で自分を見るモイラに平常《へいぜい》の、愛情の溢れる眼で応えて、寝台に近づいた。
そこで林作は燈の下に、モイラの可哀らしい脣につけられた、紅紫色《べにむらさきいろ》をした鬱血の痕を見た。処女《むすめ》としての異常な体験をしたモイラが、大きな眼をして、自分を子供のように見入るのを、見た。
火影のせいか、モイラの眼は、魔のような曇りが一際《ひときわ》加わっている。そうしてモイラは微妙に、変っていた。何処かに、つい二日前には無かった、濃い、甘えの蜜がある。そのモイラの姿態に眼を遣《や》った林作は、傷ついた獣《けもの》を見るような、深い哀れみを感ずると同時に、何処かわからぬ、闇の世界へ、自分が、これまでにも、幾度《いくたび》か、見ていた筈の或る世界へ、惹き入れられようとする、危なさをも、覚えた。凝と、自分を視るモイラの眼には、自分に対する、幾らかの罪の意識が、奥深く潜んでいるのだ。悪戯《いたずら》に火遊びを遣《や》った子供が、思いがけない痛い傷を負った。そんな眼だ。だが勿論、許されると、信じている眼だ。
「風邪をひいたそうだな」
林作はモイラの額に、掌をあてた。
「熱はないが、今夜は此処で、湯に酒精《アルコオル》を入れて拭いて貰え。昨夜《ゆうべ》一人で、温《ぬる》いシャワアを浴びたろう。それがいけなかったのだ」
いとしげな、林作の掌が、胸の下まで剥《は》いでいた掛布を引き上げて遣り、モイラの頬を軽く撫でた時、モイラは自分の頬の皮膚に、これまでにない鋭敏な感覚を、覚えたが、その時、モイラの中の肉食獣は、新たに擒にした林作を捉まえた、確実に捉まえた歓びを、覚えたようだ。モイラの中の肉食獣は、痺れるような幸福の中に、手も、脚も、思うさま伸ばして寝そべり、体をくねらせて、林作の中から溢れ出る愛情の蜜を、咽喉を鳴らして、呑みこんだ。
モイラは、肉食獣の持つ魔を、自分の眼の底に潜めて、林作に見入っている。
林作はモイラの様子に、愛情に耐え得ぬように、見えた。
褐色の板壁に囲まれた、モイラの寝室は、林作がいつからか、見ている、或一つの世界に、なっていた。二人だけの、甘い蜜の入った壺のような世界である。モイラは林作の世界を、どこかで捉《とら》えているだけである。
* *
東京へ帰って三日程で、会社の用事が済むと林作は、休暇の追加を取って、石沼から帰って以来寝室に籠っているモイラの傍で、大方の時間を過した。そうして、前よりも一層甘えるようになったモイラに、話をして聴かせたり、辞書の挿絵の説明をして遣《や》ったりしていた。食事も寝室に、運ばせた。林作は、モイラの脣の鬱血が消えるまで、そうしているように、モイラに言って聴かせたのだ。林作はモイラに外へ出ることも、階下《した》へ下りることも、禁じたのだ。
モイラが寝室に籠っている期間中の或日、祖父の郷田重臣《ごうだしげおみ》が訪れた。林作は困惑したが、重臣をモイラに会わせぬという訳には行かなかった。
その日重臣は、丁度玄関前に来かかって、挨拶をした常吉と、玄関に走り出て洋杖《ステツキ》を受け取ったやよとの、二人の様子に、不審を抱いた。重臣はいつもの例で、
「旦那様は居られるか」
と聞いた後直ぐに、
「モイラは?」
と続いて訊ねたが、やよは美しくはないが誠実な顔を、気の毒な程困惑に歪め、
「お二階にいらっしゃいます」
と、要領を得ない返事をした。やよが引っ込んで入れ違いに、林作が迎えに出たが、林作の様子に、たしかに何か、自分に言わずにいることがある。重臣の不審は強くなった。重臣は元から林作の教育の遣り方を気に入っていない。モイラが赤子の頃は、生れると同時に母親を亡くしたモイラを哀れんで、林作と競争のようにして甘やかしていたのだが、林作が、小学校に上がる年になってもモイラを、幼児のように扱い、度を越して溺愛するのを見て、林作の遣り方に強い不満を持つように、なった。林作が、モイラの厭がることは、自分ではさせたくないという、理解出来ぬ理由で、家にいる時間があるのにも拘らず、モイラを、御包のような女に任せ切りでいることが、重臣には不満で、いよいよ、御包が家に来てからは目に見えて、重臣の足は遠のいていた。だがモイラのことについては細大洩らさず、報告を受けていたので、重臣は今年モイラが、石沼に行ったことは知っていた。林作と同様、モイラの腎臓が悪くなりはしないかということを、重臣はひどく心配をしていて、稲本がもう石沼へ来たか、ということを、電報でも遣《や》って、問い合せようと考えている処に、二三日前に林作から、会社の用事で一寸帰ったことと、これから迎えに行って、直ぐに引上げるという電話を貰ったので、久しぶりにモイラの顔を見に来たのだ。
重臣はモイラの寝ている部屋に通り、モイラの様子を見て、何があったかを直感した。重臣は林作に対して深く憤《いきどお》った様子で、モイラの髪を撫で、少間《しばらく》モイラと話していたが、持って来た、モイラの好む東洋軒の、コオルド・ビイフの入った馬鈴薯入りのサラドゥの箱を、林作には手渡さずに脇に置くと、袴を蹴るようにして、部屋を出た。そうして、送って出た林作に一言、
「あれが君の自由な教育か。モイラが悪くなったり、不倖《ふしあわせ》になったらどうする」
と、叩きつけるように言うと、その儘帰った。
そんな事件も間に挟まって、林作とモイラとの〈甘い蜜の部屋〉は、いよいよ密な、孤立した、一組の恋人の世界ででもあるようなものになって行く傾向に、あった。そうしてそこには誰も犯すことの出来ない、永遠の蜜の部屋が、あるように、見えた。
御包と柴田との二人は、林作たちの留守の間、常吉が一人|毅然《きぜん》としていて、自分たちを相手にしない態度をとっていることに対して、負けず劣らず腹を立てていた。御包は自分が既に無駄な存在になっていることも、林作が、モイラの卒業と同時に自分を解雇する積りでいることも覚っていて、常吉が何か林作にきいていて自分を嗤《わら》っていはすまいかという邪推がある。柴田は御包が居なくなった後《あと》の牟礼家に居残る勇気がない。柴田の方はまだ役に立つのだが、御包の尻馬に乗って威張りくさっていた報いで、善良なやよにも、常吉にも愛想をつかされている。二人は共同戦線を張り、虚勢を張って、何かにつけて勿体ぶった態度で対抗していた。彼女たちは常吉が、モイラに憧れを持ち始めた頃から、逸《いち》早くそれを嗅ぎつけていて、どうやって嘲笑して遣ろうかと手ぐすね引いていたが、その頃から常吉に対する林作の信用がますます加わって、どういう訳か常吉のことをドゥミトゥリイと呼ぶことになり、その称号は彼の格上げを意味しているらしいのだ。そんな外側だけ見栄を張って内側はだらけ切って怠惰な、二人の生活の中へ不意に、電報と殆ど同時に林作が一人帰って来た時には、掃除も投げ遣りな生活ぶりを見られて、特に柴田は面目を丸潰しにした。林作が帰ると直ぐ、常吉が慌しく石沼に発ち、煙たい林作は二晩も居残る様子に慌て放題に慌てて、気の故《せい》か不機嫌に見える林作の前に、陣営をたて直す間もなかった。三日いる筈だった林作は一日いただけで石沼へ車で引返して、次の日は又全部が引上げて来た。その間《かん》、林作は用事の口を利くだけで、食事も会社か、外で摂るらしく、運転手の照山も自分たちには行先も言わず、黙《だんま》りである。意地がやけてならない御包と柴田とは、お互同士もむっ[#「むっ」に傍点]とした切りでいた。そこへ帰って来た一同は二人の眼に明らかに常態とは見えなかった。林作一人だった間の不愉快を、一挙に取戻そうという逆恨みの気分から、二人の嗅覚は犬のように鋭く働いたようだ。やよの重大そうな、全くの無言も不思議だが、常吉の平常《ふだん》から暗いものの纏っている顔が、なにか苦悩を隠しているかのようにひき締っていて、眉根が固く、寄ったようで、どこか硬ばっているのだ。これがやよと常吉の、二人に見せた変った様子である。林作は平常《へいぜい》と変らないが、モイラとなると、顔がひどく綺麗になって、莫迦のような、甘える顔を、一皮下に隠しているとは思えない程大人びて来た。途中の車の中で、林作と機嫌よくしていたらしく、憎い程艶を増した脚から先に、いつもの傍若無人な様子で車を下りたが、二人をちらと見ると、顔をそむけ、逃げるように林作の先に立って二階へ上がってしまったのだ。
御包と柴田は異様に光る眼を見合った。それ以後モイラは寝室に閉じ籠っていて姿を見せず、食事もやよが運んで行くのだ。林作の食事も休暇の間は運んで、林作の方も殆どモイラの寝室に入った切りで、本などを持ち込んで行っている。柴田は一度、やよが行かせまいとするのを意地悪く、通い盆を素早く横取りして果物の皿を運んだが、林作は寝台《ベツド》に椅子を近寄せて、石沼に行く前より以上に、モイラを甘やかしているようすが、胸がむかついてくる程である。ちらと見た切りだが、モイラのようすは一層魅するようなものを増したように見える。林作が、皿を受け取ろうとして身を引いた瞬間に覗くと、何故か窗掛《カアテン》が下ろしてあって枕の辺りは暗かったが、柴田は素早く、モイラの脣の鬱血の痕を見てしまった。暈《ぼんや》り、林作の話を聴いていたモイラが、脣を慌てて固く結んだのだが、柴田の眼の方が速かった。林作はさり気なく絵の説明を続けていたが、柴田がモイラの恋の傷痕を見てしまったのを知った。御包も、柴田も、その夜はモイラの脣の幻影に魘《うな》されて睡れない夜を過した。ことに柴田はモイラの脣を眼で見ている。黒みを帯びた紅紫色の傷痕をつけた、前よりも柔かみを加えたように見える薔薇色の脣が、眼の前に、可憐な花のように、幾らか色の濃い内側を見せて開いている幻影を見た。その魅惑に満ちた幻は、追い払おうとしても執拗に、眼の前に出てくるばかりでなく、その傷をつけられた時のモイラの状態までが、恐しい妄想の絵を、柴田の眼の前に映し出したのである。常吉が暗く、固い表情をしている原因についても、二人はさてこそと、了解した。特に莫迦にしたことを言って、常吉から手痛いお面《めん》を一本喰ったことのある柴田は、心に凱歌を挙げた。
邸の裏手の、廐舎と隣合った自分の部屋に、前と同じように慎《つつま》しく住む常吉は、誠実な生き方も、若いにしては落ちついた様子も、前と変りはなかったが、額の辺りの曇りは深くなって、最早彼の、額を晴れ晴れとさせて微笑う顔は、殆ど見ることが出来なくなっていた。常吉は、モイラへの熱い塊のようなものを抑えつけて、宥《なだ》め、賺《すか》し、懸命に柔げて、彼の本来の優しい感情を、静かな燈火《ひ》のように、胸の中に点していた。その彼の、ようよう鎮めている胸の中を掻き毟《むし》って、底にある熱いものを、抑え難《にく》い、苦しいものにしたのはピータアだが、そのピータアというものが、モイラの周辺から取り除かれた状態になっているのにも拘らず、常吉の胸の中は、もう一度静かには、ならなかった。常吉はピータアが現れるまではモイラを、大切なものとして自分の胸の中に、周囲に何一つ置かずに、据えてあったのだ。そのモイラを、僅かの間《ま》に、ピータアという男の餌食《えじき》にされたという、なんともいえない恨みがある。モイラが四歳の時に十七歳で牟礼家に来て、今年二十八になる常吉の、ピータアと略《ほぼ》同じ地域に故郷と祖先とを持つ、狂気に走り易い、厚い胸の中には、モイラを妹のようにして、汚さずにおきたい、強い願望がある一方、他人《ひと》には見せぬが煮え沸るものが中にあった。彼は慎しい心の中で、その慾望を懸命に抑圧して最小限の夢を慥えて、描いていた。常吉は一生に一度は、モイラの足元に膝まずいて、せめてモイラの足を抱きたい。モイラの小さな足を抱いて、花のような香いの燻《くゆ》っている、モイラの小さな足の上に顔を伏せたい、と、常吉は想っていた。接吻などは思いもよらぬ、と、思っていた。そうしてそんな願望をさえ表には見せぬようにして、抑えていた。林作に聴いた話にあった自分の父親のイワノフが、猛り立って暴れるラアジンを、手綱を取ってひき止めたようにして、抑えていたのだ。その切ない、大切な願望を、ピータアが横から出て、滅茶滅茶にしたことが、常吉は我慢出来ない。そうしてそのことが、モイラの前から持っていた、本能のような甘えるようすを、急に蜜の濃い、見ていると耐えられなくなる、甘美なものに変えてしまったことが、常吉には耐えられない。それは多分、わずかの時間に起きた、出来事《アクシダン》がやった仕業だろう。と常吉は想った。そこにはあったに違いない、眼の眩《くる》めくような、恋の饗宴には、常吉は空想の眼を固く瞶《つむ》っている。唯、モイラの変化にはどう遣《や》っても、眼が行くのだ。変化をしたモイラが、常吉には抑えられない慾望を起させるものに、なった。ピータアの部屋にモイラが入った、という、常吉にとって最大の悪魔の日から以後、常吉のモイラへの願望は変化をしたのである。常吉がモイラの上に抱いていた空想の場面は、それまでにも幾らかは進展して来ていた。常吉の空想はモイラの前に膝まずいて、その腰を抱きかかえ、モイラの腰の外側に頬を寄せる形にまで進んでいた。そうしてモイラの、女の仏像の掌のような、小さな掌を、自分の掌の中に挟み、出来れば騎士《ナイト》の接吻を与えたい。その接吻は騎士《ナイト》の接吻の域を越えるかも知れない。だがそれ位は許されるだろう。それだけで俺はいいのだ。と、常吉は想っていた。それがあの悪魔の日以来、変った。常吉の温かな、主人一家への愛情と、鋼鉄のような誠実が、モイラを見ると消え去った。常吉にとってそれまでは、可哀らしくてならない、例えば自分の子供のようにさえ思われるものであった、モイラが、どうしても捉まえて、一度は接吻で埋めたい、魅惑を潜めた小動物に、なった。慎《つつま》しい常吉の願望は、モイラを自分の胸に抱き竦《すく》め、稚い女を犯す罪の意識に戦《おのの》きながらも、烈しい接吻で遮二無二蔽いたい願望に、変った。しかも常吉は、ピータアを侮蔑して遣ることさえ出来なかった。自分の女神を犯した痴《し》れものだとして侮蔑し、無視して遣ることさえ、出来なかった。常吉はピータアを見たのだ。モイラが石沼の家の二階に閉じ籠っていた間に、常吉はピータアが海へ出たのを確かめ、窃かに蹤《つ》けて行ったのだ。ピータアが海から上がって来た時、常吉は砂に蹲まっていた。何か考えている人のようなふりをして、尖った貝殻で、砂に字を書いていた。ピータアはその Moila[#i はウムラウト付き] と書いた砂の字を判読したかどうか、足を止めた。二人はちらと互に見合っただけだった。