饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:16580 字 更新时间:2026-6-23 06:49

 ピータアは立派だった。気に入る奴だった。常吉が、ドゥミトゥリイという自分の名を打明かして、友達になってもいいと、そんなことを思った程の青年だった。若い主人として仕えたっていいと、そんなことさえ思った程の、青年だったのだ。だがピータアは、絶大の尊敬を抱いている林作とは、ちがうのだ。父親のイワノフを救けて貰った、恩義のある、自分も、十七歳の時から仕えていて、寵愛を受けている、林作とは、違うのだ。ピータアは、自分と同じ年頃の、ライヴァルで、あった。しかも美貌の青年だ。自分を視たピータアの眼にも、奥底深く隠された嫉妬が、あったのだ。常吉は、ピータアを見に来たことは、自分の苦しみを増しに来たのに過ぎなかったのを、知った。

 その日から常吉の額は、暗い海から来た、光という光を除《と》り去ってしまう、魔のようなものがとり憑きでもしたように、大抵の時、暗い藻を纏いつけているように、なった。

 モイラは、その常吉の額の暗い、苦しげな翳《かげ》りを、みていて、そんな常吉の顔を窃かに偸《ぬす》みみていた。この頃、彼女の「ドゥミトゥリ」と呼ぶ声の中には、特別の響きが加わるようになっていた。専横な、極度に我儘な、声である。モイラが「ドゥミトゥリ」と呼ぶ、その声の中には、この馬丁は、自分の言うことならどんなことでも聴いて呉れるのだ。若し此処《ここ》が石沼で、私《あたし》が、濃緑の家に行ってピータアを呼んで来て、と言えば、ドゥミトゥリはどんなに厭でも、苦しくても、行って来て呉れるのだ。と、強引に信じ切っている、モイラの心の響きがある。常吉はそんな時、モイラを見て、暗い額の翳りをその儘、例の、胡桃を歯で割る人のような口つきで、白い歯を見せて、微笑った。するとモイラは、その常吉の顔を凝と見て、脣の端を一寸窪ませる微笑いを見せる。モイラは常吉の、白い歯を見せて、噛みつくように微笑う顔を好いていた。モイラは、林作の微笑いに続いて、常吉の微笑いを、好いていた。モイラは、林作の微笑いと、常吉のそれとの、二つの中で育ったようなものだ。子供が大きくなるのには、愛の微笑が必要だが、モイラの場合は、それが少し過剰だったようだ。その好きでならない常吉の、胡桃を歯で割る微笑いに、この頃では、自分を深く、どれ程深いのかわからない程、愛していて、その愛の苦しみが、隠されているのだ。愛の苦しみは、モイラの生餌《いきえ》である。モイラが脣の端に窪みを慥えた、小さな微笑いを見せると、常吉の顔はひき締る。愛の苦しみを耐えるのか? 意地悪の自分を怒るのか? モイラは脣の窪みをその儘残して、微笑いの影を消し、満足の面持を潜めて、何か言いに来たのも忘れたように、一寸の間その儘立っていた。その顔の中には、林作もみているように、絶対の専横政治を布いている我儘な王のような表情がある。その癖、そんな顔をして、ヨオクに切り替えのあるだけの、帯《バンド》のない、時によっては薔薇色であったり、紅無地や、格子縞《チエツク》だったりする普段着の下に、日に、日に、眼立ってくる胸や、腰の線を見せて、立っているモイラの、全体の姿の中には未だ未熟な、稚い精神が歴然《ありあり》と露《あら》われていて、王のような表情の裏にぴったりと張りついているのは、未だ子供の顔である。常吉は、石沼で自分が手首を捉まえた時には、幼児のように怯えて、父親か兄貴に、悪いところを見られて、捉まえられた小娘のようだったことを、まるで忘れ去っているモイラの、王のように驕り、魔の眼を光らせる様子に、殆ど耐えられぬほどの可哀らしさを覚えるのだ。常吉はそんな時、精神の何処かが、痺れるようなのを、覚えた。

 モイラの胸の中には、ピータアにもう一度出会って見たいという願望が、動いている。それというのは、モイラは、もう一度、ピータアに近づいて、自分のために豊饒《たつぷり》、貯蔵されている愛情の蜜を、舐《な》めて見たい願望を潜めているのだ。もっとむさぼり食って見たい、興味を伴った願望が、潜んでいる。もう一度、ピータアの部屋に行って、ピータアが持っている、父親林作の愛情によく似たところのある愛情の甘い蜜を、むさぼりたい。常吉を怖れたために、味わい残したピータアの蜜を、モイラは食い残した生肉のある場所へ戻って行きたがる獣の仔のような貪婪で、追憶している。一時の愕きと恐怖は、既《も》う薄れている。ピータアの部屋で、はじめて打《ぶ》つかった時には、極度の恐怖だったピータアの恐しい嫉妬も、今ではむしろ誘惑的な気分の中で、思い返されている。

 モイラのピータアに対する願望は、危険な玩具を弄びたい幼児の願望と大して変りがない。その慾望の中には、幾らかの本能的なものが添加されているがそれは、微量である。林作が既に早くから視ているように、モイラの肉体の眼醒めは未だほんとうには、なされていない。ピータアとの情事とは言えない、一つの出来事《アクシダン》、ピータアの一方的な情事の中では、モイラの肉体の内部の殻は破られたとは、言えない。モイラの願望の中には、まだ好奇心が多くの場所を占めていて、そのモイラの願望が、強いものだとするなら、それは、モイラの、愛情への貪婪が、強力だからだ。

    *    *

 ピータアは、モイラへの慾望の火が、完全に燃えさかった状態で、秋の気配が、既にどこかに感ぜられる海際《うみぎわ》の家に、とり残された。

 父親のセルゲイと、母親のタマァラとは、ピータアの希むままに、ピータアを残して引上げて行った。ピータアは、父親のセルゲイの顔も、母親のタマァラの顔も、見ないで済むなら見たくないと、希ったのだ。セルゲイも、タマァラも、ピータアの上に起った事件を、大凡《おおよそ》は察している。石沼の海浜に散在している、百姓を兼ねた漁師たちの間にある噂話は知らなかったが、恋の出来事《アクシダン》であることは、ピータアの様子を見て明らかであった。相手の娘もわかっている。石沼のこの辺で、ピータアの相手の娘と言えば、もう一軒の別荘の娘以外にない。セルゲイとタマァラとは娘を見ていない。それで不安も、不倖《ふしあわせ》も大きかった。二人は石沼に帰った日の夜、二人だけになると、言葉もなく、頷き合ったのだ。少間《しばらく》して父親が、

「恋の狂気だ」

 と言い、母親は黙って頷き返した。二人が発った前の日だ。セルゲイが、平常《へいぜい》は勝手にさせておいて、上がって来たことのなかったピータアの部屋に上がって来て、葉巻を一服|遣《や》って、下りて行ったが、ピータアに何か一言《ひとこと》、慰めの言葉をかけようとして来たのは、ピータアには判っていた。寝台《ベツド》で、片脚を高く、胸の辺りまで上げて、上靴を履いていたピータアは、ちらとセルゲイを見た切りで眼を落し、履き終ると立ち上がって、書棚から厚い書物を引抜いて又、寝台《ベツド》に腰かけ、何か挟んである所を開けた。ひどく不自然だが、それよりも、俯向いた横顔の、固く結んだ脣じりから、顎にかけて、平常《いつも》はない影が出来ていて、息子の様子全体に、眼をあてるのが辛いような、寂寥がある。(何の本だね)と、セルゲイは言おうとして、動かしかけた脣に、葉巻を喞《くわ》えた。何の書物だってよかったのだ。自分に顔を見せないためなのだ。セルゲイは、

「夕飯《ゆうめし》は一緒に食おう。下りてお出で」

 そう言って、下りて行った。母親のタマァラの不安と不倖《ふしあわせ》は大きくて、彼女に何もさせず、何も言わせぬようにしているようだった。彼女は朝の挨拶の時、寝に行く前の挨拶の時などに、ただ黙って、息子を固く抱いた。それがピータアには何よりも応えた。避けられるものなら、ピータアはそれを逃げていたかったのだ。

 セルゲイとタマァラとが発つ日、ピータアは駅に送りに行って、父親と母親との掌を握り、

「直ぐ、元気になって帰るよ」

 とだけ、言った。セルゲイは、物珍しげに見守る、百姓たちの前で、窗から大きな上半身を乗り出すようにして、息子の肩を捉まえ、

「本をお読み。好きな本でいい。それから海で、疲れるまで泳ぐのだ。神様が必ずいい日をわたし達に返して下さる。いいか」

 と言った。タマァラは涙を眼の中に光らせてそれを凝と見ていたが、今度は自分の番と、いうように息子を自分の胸に迎え、抱いて、幼い子供にするように、ピータアの頬を、男の掌のような大きな掌で、いとしげに撫で擦《さす》ったのだ。口を開けた顔のもいて、好奇と、侮蔑を現してその様を見ていた、百姓たちの中には噂を詳しく知っているのもいる様子で、ひそひそと、囁いては、頷いている者も、あった。

 村の者たちは四十八《よそはち》と女房、それに息子の四方吉《よもきち》との三人を例外として皆、別荘の噂をしていた。彼らにとっては、驚天動地の出来事であったからだ。林作父娘とピータアとが歩いていた時に、浜で出会った漁師の話から、ひそかな評判は起っていたが、モイラがピータアの家を出たのを、町から浜伝いに帰って来た男が、見ていたのである。噂は無論、林作方の肩を持った話である。ピータアが、二三度、地引網の魚を分けて貰ったことのある漁師の一人に、林作の家のことを訊ねた時、林作の東京の住所は知らぬらしかったが、林作の名も、職業も、決して語ろうと、しなかった。平常《ふだん》交渉が薄かったという理由だけではなく、彼らは外国人というものに不馴れである上に、ことに露西亜人には警戒心を持っていた。彼らは、青い西洋館の人だというだけで、気持よく話をしたがらない空気を、持っていた。

 停車場でセルゲイの言った言葉は、その儘ピータアの考えていた、精神の療法に一致していた。ピータアは自分を信頼して、黙って発って行った両親たちに、感謝を持っていた。ピータアは殆ど終日、部屋に閉じ籠って、何か読んだ。読んだ書物はだが不幸にして、ピエェル・ルイの『女とパンタン』だった。マテオという男の手紙の形の小説だが、マテオは自分が飜弄された女の魔力に、同じように捉まった、巴里の男に、手紙を書く。自分が飜弄され尽した、経緯を悉く打ち明かして、自分は二年間飜弄せられて、漸く女の魔から逃れたが、あの女には近づかぬ方がいいと巴里の男に警告する手紙である。手紙を受取った巴里の男が、女の部屋で女を待つ間に給仕の男が持って来た紙切れを奪って読むと、(何時《いつ》もの家で待っている。マテオ)と書いてある。という箇所《ところ》で終っている。何度でも知らぬ間に姿を消し、ようよう会ったと思うとその度に、傍まで引きつけておいては体を与えないで突き放す、コンチタというセヴィラの女の話である。『女とパンタン』は、ピータアの抑えている熱いものを、掴み出しておいて、火を点ける小説である。ピータアは西班牙《スペイン》の熱い砂と、白い家の、鉄の格子の嵌まった窗を見、その鉄格子の間から、窗の下の男に与えられるコンチタの腕を見た。マテオは女の腕に脣をあてながら、心に呟いている。≪これがコンチタの肉だ。肉の香気だ≫と。早朝と、夕方薄暗くなってからとの二度、海に飛び込んで、疲れるまで泳ぐ、という日課を自分に課しているピータアは、比較的冷静だったが、モイラといた、短い時間の、火のような記憶は時折不意打ちに、ピータアを襲った。

 モイラの、まだ実ろうとしている固い熟《う》れを、自分の脣から滾《こぼ》れ、溢れた二つの胸の甘い果実……。蜜の艶をくり延べていた、モイラの皮膚。脣の下に、死んだように、おかれていた、蜜を塗りつけた肩、腕、胴中。まだ何処かに、青い固さを残していて、そのために却って襲うようなもののあった、それらのモイラの断片。そうして、緻密な皮膚に、隙間なく蔽われた腹から腰、二つの脚の、内部から持ち上がってくる、十六歳未満のようではなかった肉づきのふてぶてしいヴォリュプテ。前夜の雨の水蒸気がまだ残っていた、ピータアの部屋の中で、濃緑の毛布の敷かれた、ピータアの神聖な寝台《ベツド》、の上に、横たえられた処女の体の饗宴に酔い、狂気の接吻でそれらを蔽ったピータアは、紅い百合の、いいようのない、懶い香気の中で、花弁のような皮膚に埋もれ、魔力の花粉に塗《まみ》れた、一匹の蜂であった。しかも愕きと恐怖との為に空白になっていたモイラの、無心な肢体は、むしろ、ふてぶてしく体を投げ出した、成熟した女の媚態に通ずるものが、あった。だがピータアは、目の眩むような処女の体の饗宴の後《あと》、無心の媚態に抗《あらが》って、何度か、燃え上がるものを、抑えたのだ。それがピータアの火の記憶を、一層苦しいものにしている。

 ピータアは、花の香気と蜜とに蔽われた追憶に、精神も体も、熱くなった儘、野獣のように光る眼を据え、ほっと、切ない息を吐いた。

(……処女の饗宴だ。……神の祭壇の贄卓《にえづくえ》の上の、生贄《いけにえ》だ。香油《においあぶら》の代りに甘い蜜が塗られた、処女の生贄……)

 火のようになったピータアは外に出た。空は曇っていた。空も、砂も暗い、重い空間を、ピータアは走った。ピータアはモイラが、近づいて行く自分に半ば怯え、その癖、自分の擒《とりこ》を見るような眼を見開いて立ちすくんでいた地点を覚えていた。ピータアはその地点に足を止《と》め、海に向って立った。

 空は灰を吹きつけたように薄暗い。空一面に横に靡《なび》いた薄白い雲が、湧き出たままの形で凝《じつ》と、動かずにいる。海はその下に重く、動いていた。暗い海はピータアの火をいよいよ掻き立てる。砂の上に蹲《うずく》まっていた、馬丁だと判っている男が、ピータアの頭に浮び上がった。その逞《たくま》しい体と、蹲まった体全体に燻《くすぶ》っていた、恋の火と哀しみ……。そうして、モイラの父親の顔が浮び上がってくる。散歩の間に自分を見る父親の顔の中に、ピータアは不思議な微笑いを視たのだ。

(この男を擒にしたのだな)

 と、そう言っているような、モイラへの甘い愛情と、揶揄《からか》いの混り合った微笑いである。どこか残酷な、底に、エロティックなものの影さえあった、蜜に塗《まみ》れた微笑いである。その二つの黒い記憶が、払い除《の》けようとしても執拗に、モイラといた時間の、切ないが甘美な記憶の中に絡みついてくるのだ。その二人の男は今、どこかで、モイラと一つ家にいる。モイラはその二人の男の、どっちにも、魔の眼を凝とさせて見上げ、甘え切っているのだ。父親には、絡みつきもするだろう。ピータアの胸に朦朧とした不快《いや》な幻が見えてくる。

(あれは正常の父娘ではない。あれは令嬢と馬丁との関係ではない……)

 ピータアは殆ど全く、理性を失っていた。理性はどこかで蓋をされていて、眼を覚ますことがない。ピータアは知らずに、モイラの家の、林作が醸し出している一種の空気に巻き込まれている。ピータアは林作と常吉とに対《むか》って、烈しい嫉妬を燃やしていた。

 ピータアの父親のセルゲイと、母親のタマァラは、一日か二日の、それも恋人たちが二人でいたのはわずかの間に違いない、そのわずかの間に、息子をすっかり変えてしまった娘に対して、或る不信の念を抱いていた。セルゲイとタマァラとは、唯時間が、息子の熱病を冷ましてくれるのを希って、待っていた。タマァラは、息子と、生理的なもので繋がっているという観念が、いつも根柢にある母親である。タマァラの不信と怒りは、深かった。タマァラの、仏像のような、二重瞼の眼の中に、烈しい怒りが潜んでいるのを、ピータアは知っていた。ふと横を向いている時などの、母親の顔の中の、烈しい怒りが抑えつけている、歎きの啜泣《すすりな》きを、ピータアは見ていた。

 ピータアが誇っていた、ピータアの理性は、モイラの蜜で曇っている。

 暗い海岸《うみきし》に立って、ピータアは、何処にも救いのない自分を、感じた。

    *    *

 脣の鬱血も消えて、薔薇色の、無垢《むく》な処女《おとめ》のような脣を取り戻したモイラの日々は、聖母学園の始業式の日の或一事件を除いては、甘えと、贅沢と、悪魔の満足とで充分に、みち足りていた。

 その日は始業式があると言うので、林作の指示通り、レエスの少い、簡単な白い衣《きもの》で、常吉と車で学園に行った。

 校庭の、教室の入口近くに、蔓薔薇の巻きついた石の円柱がある。モイラはその円柱を久しぶりに見たので、柱に一寸触ってみると、円蓋形になった入口へ近づいた。洞窟のように黒く口を開いている入口の、右側の廻廊の柱の間を此方へ来る、ロザリンダを見たので、モイラの足は鈍ったが、引返すことは出来ない。モイラとロザリンダとは入口で、向き合った。

 ロザリンダの、不健康な淡黄色の顔が、後《うしろ》の闇の中から浮び上がって、モイラを見た。モイラがロザリンダの顔の中に、思いがけない異常なものを見たのと、ロザリンダがモイラの中に、何かを経験した娘を見たのと、孰方《どつち》が先だったか判らぬ速さで、二人は見合った。白い部分が大きく出る程、上目遣いに大きく見開いたモイラの眼は、曇りをおびて光り、モイラというものが二つの眼になったように、ロザリンダには見えた。何を言われるのか、という不安な眼である。

 平常《ふだん》から浮腫《むく》んでいる、ロザリンダの顔の皮膚が、無気味に弛んで、眼の下に厚ぼったい垂みが出来ている。顎を突き上げ、モイラを見下ろしたロザリンダの顔は、鼻が上向《うわむ》き、脣じりが厭味に下がっている。眉を吊り上げ、下目遣いにした眼は、黄ばんだ、鈍い光を出して、モイラに凝と、あてられている。

「ご挨拶は? モイィラ」

「……ボンジュウル、マ、スウル」

「何処かへ行きましたか? 休暇に」

「いわぬま」

「何処です」

「…………」

「そこに別荘があるのですね」

 モイラの眼はロザリンダの眼に射竦《いすく》められて、凝と動かずにいる。たしかに、休暇前より柔かみを加えたと、ロザリンダが視た脣が、心持弛んでいる。

 モイラの頭に電光のように、ピータアとの事が判ったのではないか、という奇妙な想いが、走った。

 ロザリンダの眼が光った。

「お友達が出来ましたか?」

 二秒、三秒、モイラの眼に恐怖が走って、瞬いた。

 ロザリンダの眼が或満足を現して、歪んだ儘の脣が微笑ったように結ばれた。

「ずっとそこに居たんですね。モイィラの怠け癖が一層ついたでしょう」

 そう言い捨てると、ロザリンダは立ち去った。腰に下げた数珠《じゆず》の揺れる音と、固い、厳しい、靴の音が、暈《ぼんや》りと立っているモイラの耳に、恐しげに、鳴った。

 モイラはその日、林作が帰るのを待ち兼ねて、二階へ蹤《つ》いて、上がった。

 長椅子に腰を下ろした林作は、モイラが、額を肩におしつけて訴える話を聴くと、モイラの頭を胸に寄りかからせ、肩にふりかかる豊かな髪を撫でて遣りながら、言った。

「ああいう尼さんのような人はね、時々若い娘をみると、そんなことを言って苛めたくなるような、そんな病気に罹《かか》っているのだ。今にモイラにもわかる。今日だけだろう。又そんなことを言うようなことはすまい。大丈夫だ。厭なら二三日休んで、気分を直してから又お出で。体が悪いことにして、届けを出しておこう。そうするか?」

 モイラは深く頷き、顔を上げて林作を凝とみると、花型のレエスに包まれた肩を林作の胸に寄せかけた。

 林作はふと、モイラの母親の繁世《しげよ》との場合にも、カウフマンとの場合にも、モイラに寄りかかられる時のような、甘い歓びを覚えたことがないのを、想った。下目遣いにモイラを見遣る林作の眼に甘いものが宿り、殆ど恍惚《うつとり》として、林作の掌がモイラの肩を軽く、叩いた。

 そんな日々の中で、モイラは、モイラの歩き方のような緩慢な度合いで成長した。日に何度か、顔を合せる常吉が、その厚地木綿の襯衣《シヤツ》の胸の中に、ひた隠しにしている、熱いものを感ずると、モイラはその隠しているものを引き摺り出して遣ろうとして、履いている靴の塵埃《ほこり》を拭いて呉れと、常吉に命令する。そうして常吉が、命令しながら、自分を見ているモイラに、烈しく起きて来る慾情を抑え、苦汁の滲んだ微笑いを見せて、モイラをいとしげに見下ろすのを見ると、モイラは脣の端を一寸窪ませる。そうして常吉の熱い愛情が、いつも変ることなく、常吉の中に燃えているのを確かめた歓びの微笑いを、浮べるのだ。そんなことを遣《や》っていて、モイラは常吉と、恋の対話をすることを、覚えていた。

 モイラの眼は、言った。

(ドゥミトゥリ。ドゥミトゥリは、いくら隠したって私《あたし》を愛しているんだ)

 そうして常吉の眼は、言うのだ。

(又そう遣《や》って私を苦しめる。悪いモイラ様だ)と。

 モイラは寝台《ベツド》にいて、ピータアの、火のような眼を、脣の上にのせるようにして、味わっている刻《とき》がある。ピータアが、現在は東京の何処かにいる、ということは知っている。だが、ピータアを想い浮べると、モイラの頭には石沼の蒼い、重い、いつもだぶだぶと動いていて、白い泡になっては、裸の自分に飛びかかって来た海が出て来る。モイラは足の先に、貝殻が刺さりそうになる、水を豊饒《たつぷり》含んだ砂を感ずる。その足の上を泡立った波が、引いてゆく。沈みかけた夕陽が、砂地全体を薄明るくしている中に、ゆっくり近づいて来るピータアが、見えて来る。新鮮な果実のような、ピータアの愛情が、自分にものを言う顔や、大きな掌、胸から背中を、捻子《ねじ》のように締めつけた腕の力の記憶に、蘇ってくる。そうして、恐しかった、濃緑色の毛布で包んだ寝台《ベツド》、ピータアの城。黒い、光った翼の鳥が、やにわに飛びかかったような恐怖と愕きとで、何も聴えず、何も見えなくなったような時間。夢の中でのような、熱い嵐。嵐の間々に、熱い花のような、時には嘴のようなピータアの接吻が、肩に、胸の上に、感ぜられていた、暑い、息苦しい、時間。

 モイラは常吉との間にある、心理の行き交い。ピータアの部屋での記憶。そうしてピータアに、恐しい嫉妬をひそめて詰問されるようにして聞かれた時から、明瞭《はつきり》、意識をしはじめた、林作との間の、愛の深み。愛の闇。林作の愛情は、そうして愛撫は、淡泊で、軽い。だがそれでいて、そこには深いものが感ぜられる。無意識の間に、モイラは林作の愛情に、覗いても底の見えない、深い淵のようなものを、視ている。それともう一つ、ロザリンダの異様な執念。

 それらのものが、モイラの周囲にあって、モイラを取り巻き、それらのものたち同士、不思議に絡みあいながら、モイラというものの成長を促している。不思議な、雲霞《うんか》のような大群の、蛾か、蝶のようなものが、翅を摩し合い、交え合い、粉に塗《まみ》れながら、モイラの周囲を隙間なく埋めて飛び交い、モイラの孵化《メタモルフオオズ》を促しているようである。モイラの成長は、モイラの中の魔の成長である。モイラの中の魔は、それらの、モイラを取り巻くものたちから養分を吸いとり、少し宛《ずつ》大きくなっていた。母親の臍《ほぞ》の緒を管《くだ》にして、猛々しく養分を吸う、大きな、強い赤子のように、モイラの魔は、それらの取り巻くものの養分を強く吸っているのだ。そうして、モイラの魔は、モイラの胸や腰の発育と一緒に、モイラの中で、大きくなって行くようで、あった。

 そのような、何処かの、見知らぬ場所で行われているような、不思議な、魔の成長を、モイラ自身も何処かで、わかっていた。林作は、モイラの惚れ惚れするような、美の実りが、日に、夜に、なされているのに眼を遣りながら、一方で、モイラの魔の成長に気附いていて、いよいよ、ひき入れられるものを、感じとっている。モイラと常吉との間に交される残酷な対話も、林作は見て取っている。モイラは、身近に来る男たちを自分の擒にすることに、邪悪な歓びを、覚えている。そのモイラの、神にか? 悪魔にか? 何ものかに押されてする、陶酔的な歓びは、だんだんに習慣のようになって来るようだ。モイラは何ものかに引っ張られて、知らず、知らずに、微笑い、知らず、知らずの間に、魔の眼を凝と、据えるのだ。そうしてそのモイラの魔が、モイラの持っている本来の、常吉への信頼と愛情も、やよに対するいたわりも、どこかへ埋《うず》めてしまっている時間は、多くなって来ている。まだ小さくて、可哀らしかった、モイラの魔は、ピータアの、火のような嵐を導火線にして俄かに大きくなったことも事実だが、ともかく、モイラの周囲を取り巻く人間や事態が、その意志は無くても、悪魔のように互の体を擦《す》り合せながら、モイラを少し宛《ずつ》、成長させたことは事実のようで、あった。

 林作は、モイラの遣ることを、すべて大きな眼で見護っているが、別の観点から、モイラが、ピータアのような、経済的によくない環境にある青年と、深い交渉に入ることを警戒する心が、あった。モイラが、モイラの中の魔の仕業にせよ、ピータアと結婚して見よう、などという心持を起さぬ限り、林作はピータアとモイラとの間が深くなることは避けさせたい気持が、あった。モイラは、あり余る金のある家の中ででなくては、一日はおろか一時間と暮せない、娘である。林作がモイラをそのように、育てていた。ピータアとの結婚は続かぬだろう。離婚は免れないだろう。出来るなら、結婚の遣り直しはいけない、と林作は思っていた。周囲の因襲が、それを大きな過ちだと、するだろう。そうしてモイラは萎縮するだろう。林作はモイラの結婚の相手は、少くとも自分の家と同じ位の財産を持つ男でなくてはならないと、思っている。幸い、モイラはピータアの熱愛に、深い興味を抱いたのに過ぎなかった。その上に加えて、ピータアは、モイラの住所を聞かずにモイラを帰す、という、絶大の失敗をした。不倖《ふしあわせ》なピータアは、モイラとの逢いびきで、何度か燃え上がるものを抑えて、モイラを帰した、恐しい試煉のために、モイラを充分には所有せずにしまった恋の頂点から、絶望の中に落ちたのだ。その辺のようすも、林作は推察していた。モイラから、住所を教えてないことを、聞き出していたからだ。ピータアが、何日経っても東京の家に現れることもなく、手紙も来ないのを見て、林作は今、ピータアについては殆ど心にかかることは、無かった。「恋の遺産」の不安も、十一月を迎えた今、多分大丈夫だろうと、思う気持が強い。モイラには自分というものの他に、常吉というものもある。やよもある。亡くなった細君の繁世の、実家の父の重臣も、いざとなれば力を貸すのである。そうしていいことか悪いことか、金が解決をするだろう。モイラが姙娠をしたとしたところで、人に知れぬように、処置することは出来るのだ。だが林作は、モイラの処女《むすめ》らしい美が失われることを、極端に恐れていた。

    *    *

 モイラが、十六歳に後《あと》一箇月という十一月になった或朝、モイラは寒いので朝の入浴を厭がっていたが、柴田が、林作に告げに行こうとする様子だったので、ようよう、湯殿に入った。林作は化粧のことでは絶対に、モイラの我儘を許さぬのを、モイラは知っているのだ。例によって柴田を困らせ続け、意地の悪い小言を言いながら、入浴を済ませたモイラは、白地に、消炭色《チヤコオル・グレエ》と橄欖《オリイヴ》色との中に、濃い鮭肉色《サアモン・ピンク》が交っている、荒い格子縞《チエツク》のフランネルの普段着に着替えて、食堂に行くと、既《も》う林作はモイラを待ちながら、新聞を見ていた。

「遅いね。モイラ。又やんちゃを言って居たのだろう」

「そんなことしない」

 食堂は点けたばかりの瓦斯ストオヴの、笛のような音がしていて、食卓には、やよが心を籠めた、清汁《コンソメ》が、湯気を上げている。人参の味を濃く出した、鶏の肉汁《スウプ》である。紅葡萄酒を利かせた、犢肉《こうしにく》と野菜のシチュウの他に、やよが石沼で百姓が呉れたのを、大切に、台所の縁の下に貯蔵しておいた南瓜《かぼちや》のバタ焼もある。モイラは、南瓜のない時には、馬鈴薯のバタ入りマッシュか、挽肉をそれで包《くる》んだコロッケを欲しがるので、やよは近くの八百屋に、上等の馬鈴薯をいつも、特約していた。林作はブランディイか、ウィスキイを飲むが、家の食卓では麦酒《ビール》か葡萄酒位で、酒は飲まないので、時折林作にだけ魚がつく位で、大体料理の好みはモイラと同じであったので、その点やよは、楽だった。

 食卓の料理を見ているモイラに、林作が、言った。

「モイラ。今日は銀座へ行くぞ。金剛石《ダイアモンド》の指環が出来たのだ。いい宝石《いし》が見つかったのは一週間前だが、今日出来上がったそうだ。モイラの指の大きさをどう遣《や》って知ったか、判るか?」

 モイラの眼は異様な光を出して、凝と林作にあてられていたが、モイラはその儘で黙って首を横に振った。

 林作の微笑いを含んだ眼が、吸い入れるようにして、モイラの眼の輝きを見入っている。

「モイラが睡っている間にやよに、糸で計らせたのだ」

 モイラの頭の中で急激に、ピータアの指環が光を失っていた。

 林作は、自分の頬の辺りに、モイラの、貪婪な眼が、乳を強く吸う獣の仔のように、がっちりとしゃぶりつくのを覚えながら、続ける。

「いくらか、ほんの微かに、緑色の入った宝石だ。露西亜産の、極《ご》くいいものが、方々を渡り歩いていたのが、銀座のミラノに入ったのだそうだ。……どうだ。うれしいか」

 モイラは微笑った。モイラの両頬が深く窪み、薔薇色の脣は内側の濃い色をみせて解け、声のない微笑いが、甘い蜜を舐めた子供のようなだらしなさで、拡がった。

 林作の眼が、その仇気《あどけ》ない、だが魔のように自分を魅する微笑いに凝と、飽かず、あてられている。

「飯が済んだら、白の羅紗《ウウル》の、この間持って来たやつを着るのだ。靴下は絹の黒でなくてはいけない。パァパがやよに黒い横止めの靴を出させて置こう」

 モイラは、耳の辺りから両頬を、昴奮に薄紅くし、涙でも溜めているかと思うような、潤んだ眼になって、少間《しばらく》、暈《ぼんや》りしていたが、昨夜何かでぐずついて、少ししか食わずに寝たので、腹が空いているらしく、直ぐに肉汁《スウプ》に匙をつけはじめた。

「モイラ。ノエミに指環のことを言ってはいけない。いいか。見せることも絶対に、ならない。わかったか?」

 モイラは、まだ茫とした、潤んだ眼を大きく開《あ》いて、林作を見たが、林作の言ったことが、どうやら判ると、魔のような眼の中に、幾らかの不平を籠め、だが大人しく、頷いた。

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 第三部 再び甘い蜜の部屋へ

 藻羅《モイラ》は林作がミラノに誂えた金剛石《ダイアモンド》の指環を、自分の現在持っているものの中の何よりも上の、どれよりも大切なものにしていた。

 指環は、林作が現代風のデザインではいけないと言って、一八〇〇年代の型に造らせたので、白金《プラチナ》の台は丸くて太く、宝石を咥《くわ》えた爪も大きく、突き出ている。モイラはその指環を独逸製の手鏡《コンパクト》と一緒に、繁世《しげよ》のものだったハンドバッグの中に入れていた。そのハンドバッグは巾着型の、オペラ用にもなる小さなもので、表が黒、裏地が白のどっちもタフタである。銀の止め金には細かな彫刻がある。中には裏地と同じ裂《き》れで造った銀貨入れが入っている。モイラは指環をその銀貨入れの中に入れたので、指環は二重に護られたわけだが、モイラはそれでもまだ気が済まないらしく、そのハンドバッグを更に又、白い貂《てん》のマッフの中に押しこんでいた。モイラの稚《おさな》い時のものだったこの白いマッフは、襟巻と揃いだったもので、毛並は緻密で柔かい。色は、新しかった時にはプチ・スイス・チイズのような色をしていて、イアサント・リゴーの描いた、ルイ十五世の即位姿の絵の、ガウンの裏地にそっくりだったが、現在《いま》では毛並みはもろもろになり、金具との堺や裏地が破れている。

 モイラが、まだ固いが、めっきり肉が附いて来た腕で、このハンドバッグをマッフの中へ一心に押しこんでいるのを脇から見ていると、下目遣いの目はとろんと溶けたようになっていて、脣は睡った赤子のように弛んでいる。肉の附いた固い腕は焦げた小麦色だが、夜の明りの下で見ると暖かな暗い、橙色をしていて、燈火《ひ》の色に似ている。皮膚は、撫でると、掌と皮膚との間に何かあるようなのは、ピータアと最初の経験をした去年の夏と同じだが、現在《いま》では触れると、掌《て》と皮膚との間にもやもやとした薄い滑らかなものの層があるようで、特殊な、透明な練りものが擦り込まれているような手触りになっている。指で押すようにして撫でると、そうしただけでセクシュアルなものに突き動かされる。

 現在満十六になったモイラの夫となっている天上《あまがみ》守安《マリウス》は、その皮膚を知った時、

(天鵞絨《びろうど》の比ではない、鞣《なめ》した山羊の皮よりもしなやかだ。これは何処にもない、特殊なものだ)

 と、心の中で言った。モイラの夫になった天上守安はこの不思議な皮膚の虜《とりこ》であり、その皮膚で隈《くま》なく蔽われたモイラの体全体を、他の男に奪われまいとしている、モイラの体の哀れな番人となり果てた男である。

 モイラが宝物にしている白貂《しろてん》のマッフは、薄|汚《よご》れた白兎の尻のように見えた。その薄汚れた白兎の尻は平常《ふだん》、モイラの寝台《ベツド》の上のどこかしらんに転《ころ》がっていて、浅嘉町の家にいた頃には、寝台《ベツド》を直しに入って来る柴田をその度に、悩ました。薄汚れた白い塊は、モイラが起きた後《あと》の捩《よ》じれた敷布と掛布《かけぬの》との間に顔を出しているかと思うと、脱いだ下着や靴下と一緒に、キルティングをした金茶色の掛蒲団の上にこりこりした毛並みをしてしぶとく、蹲《うずくま》っていることもある。柴田はその薄汚れた白い塊を見る度に、苛々した。その中にあるものが、柴田には一生涯|触《さわ》ることさえ出来ぬ金剛石《ダイアモンド》だということもあるが、柴田にはその白い塊がモイラに見えた。妙に小面《こづら》憎い可哀らしさのあるその白兎の尻は、モイラ自身のように無言で柴田を、嘲笑《あざわら》った。モイラの起きた後《あと》の寝台《ベツド》を直すのには敷布や毛布に手を触れぬわけには行かないが、それらの布はモイラの体の香気を繊維の中まで吸い込んでいた。それも柴田を刺戟せずにはおかない。洗濯屋から返って来た時でさえ、その香気はまだ執念深く、繊維の中に残っていた。そこへもって来て、モイラそのもののような朦朧とした白い塊が自分を嘲笑うように出没しているのだ。柴田は子供の頃から入浴をさせていて、成長したモイラの体の隅々までを見ている。その円みのある白い塊の手触りと、彼女がどうかした拍子に触れたことのあるモイラの体の一部とが、毛並みの密なのと、疎《まばら》なのとの違いがあるだけで、ひどく類似《に》ているのを、柴田は感じた。

 柴田は、モイラというものに出会って、彼女の入浴の手伝いをするようになるまで、自分自身の体の一部にも、手術に立会った偶然から柴田が見た、彼女の友達のそれにも、全く関心が無かった。それらは単に、生理の必要に繋がるものであるとしか、柴田には思われなかったのだ。又、人類の繁栄に必要なものでもある醜悪な、女の体の附属物に過ぎないと、柴田は見ていた。白貂《しろてん》のマッフの手触りに似ているモイラの体の一部は、柴田自身のそれとも、柴田の見た友達のそれとも全く異《ちが》っていた。柴田の体が、野卑な男のむくつけな髭のような毛並みの中に埋没していて固く、痩せているのに比べて、素直な、薄い毛並みで疎らに蔽われているモイラの体は、柔かな丘の半ばから割れ、豊かな脚と脚との間に、密度をもって膨らんでいた。皮膚は薄い紅みを帯びている。それは丁度、真中から亀裂した薄紅い、不思議な果実である。胸の二つの隆起も、自分自身のものは形も醜く、ひしゃげていて、それらは単に男の体と女の体とを区別するためにあるもののようにしか、柴田には思われなかった。自分の胸にある貧しい二つの隆起を見て、男が女の胸に魅せられて陶酔する、という、彼女が新聞小説の拾い読みなどから、僅かに空想し得る世界と結びつけることは不可能である。自分の胸を見て男がそれに魅せられ、陶酔するなぞということは柴田の頭に全く、思い浮ばぬことである。柴田は自分の体が男の慾望の対象になるだろうと思ったことは一度もない。短い結婚生活の中で、それは確実に証明されたのである。彼女の夫の手が最初の夜、彼女の胸に擦れるようにして触れた時、彼女も期待してはいなかったが、夫の手は感興なくその儘彼女の背中に廻り、何のためにそういうことをするのかわからぬ、生殖のためにそうするのだと、思うより他にない、性の行動に移っただけである。彼女は夫のそういう動作によって、世間で言うような歓びを受けたことは、短い結婚生活の中で一度も無かった。その彼女が、モイラというものに出会い、毎朝水にオオ・ドゥ・コロオニュを入れたもので体を拭いて遣り、入浴をさせる、という義務が生じて、モイラの体の生長を間近で眺めるに至って、彼女の、女の体というものへの認識は全く変った。彼女はモイラの皮膚の、湿り気のある花弁のような艶を見、皮膚の下から滲み出てくるらしい、気が遠くなるような香気を香《か》いだ。その香気は香《か》いでいると精神がふと空洞になる。精神も体もどこかに無くなったような、懶いようなものが襲ってくる。その香気を出すものはなにか透明な、いい香《にお》いのする垢とでもいうようなものである。モイラの胸は、モイラの体が発育してくるに従って、厚い花弁のような皮膚と、燻《くゆ》り出る香気との集積した、厚みのある小さな丘になった。小さな丘の辺りの皮膚は特に密度のある香気を出して湿っていて、二つの丘の下には常に、香気の強い、濃いクリイムのようなものが塗られている。乳嘴《にゆうし》には水気《みずけ》のある粒子がある。それは柴田が牟礼《むれ》の家に来て始めて見た、フランボワァズの缶詰のラベルにあった紅い果実の粒子を細かにしたようなものだ。タオルを持った柴田の手がそこへ行く時、どうかするとモイラは手で柴田の手を退《の》けようとするような動作をした。モイラの胸は、湯から上がった直後にはことに強い香気を出した。柴田は或日、整え終った寝台《ベツド》をもう一度固い、ざらついた手で大きく撫で廻すと、林作が来た時にそこに掛ける、枕元の肱掛椅子の上に放っておいた白い毛の塊を掴んで下に投げつけたが、忽ち柔かな絨緞からはね返った手応えのなさに苛立って、憎々しげに再びそれを拾い上げて枕の脇に置いた。

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