* *
玄関から食堂を抜けて、モイラは開き扉《ど》で続いている応接間に入って行った。
六月の末の気温の低い日である。入って行くと、扉口に背を向けていた女客は微《かす》かに体を固くしたように見えた。女客は、モイラの来る前に、天上の許婚だったことのある片山園子である。天上は林作を二度目に訪問した時に、片山園子のことを打ち明かしていたので、呼ばれて、茶を運んで行ったやよもすぐに、片山園子だと覚っていたのである。天上に言い附かって、胸騒ぎを抑えながらモイラを呼びに行ったやよは、モイラが動揺する気配もないのにおどろいたが直ぐに、
(モイラ様はそうだっけ、自信がおありになるし、私《わたし》のようにすぐにお愕きにはならないのだ)
と思い、モイラの髪を丁寧に梳かし、着替えを出そうとしたが、モイラは、
「これでいい」
と言って白い、四角く襟を開けた、肩を蔽うだけの短い袖の普段着の儘で、降りて行った。
片山園子は、黒い髪を真中から分けて、襟足のところに小さく纏《まと》め、弛やかに襞《ひだ》を取った長袖の、裾の拡がった午後の服を着ている。二十二にしかなっていないが思慮深く見え、二つ三つは老けてみえる。細いが聡明な眼に稍《やや》しっぺいになった眉、鼻も脣元も小さく尋常な、乾性の皮膚をした、年上の天上に対しても、母性的な優しさを持っている娘である。白に金をあしらった、小さな革のハンドバッグが恭《つつ》ましげに卓子《テエブル》の端に載せてある。窗の外に眼を外《そ》らしていた天上の眼がゆっくりと動いて、園子の後《うしろ》を廻り、窗を背にして二人の間に立ったモイラを視た。モイラは弛く拳固にした右の掌を、脣の上にあて、指を脣に入れようとするような掌つきをして突立ち、園子を見た。目礼の真似ごとのように心持頸を動かしただけで、ただ凝と見ている。自分は愛されているのだ、という自信が、体の内側から膨れ上がったように、一杯になっていて、こんな女なんか、と思っているように見える。だがその意識は、あるといえばある、という程度に過ぎない。あるのは普通よく見ることのある、詰まらない女を見る、漫然とした興味である。何かを食いながら、自分とは異《ちが》う、妙な仲間を横に立って見ている子供、とでもいう様子である。自分自身でもなにか判らない、何かの自信の据った顔がどこかむっくり膨らんだようになって、相手を睨むようにしている。前の冬に腎臓病が出て、幾らかむくみのある、脣も膨らんだ顔が、憎たらしいほど可哀い。天上の眼は我にもなく、そのモイラの様子に釘づけになった。園子は(無礼な)と思うことさえ忘れたように、この恐るべく可哀い女を見た。猛獣の仔のような、可哀らしさだ。その顔の中には優越感もある、蔑みもある、意地の悪さもあるが、それは女のものではない。強いて言えば悪童のそれである。稚《おさな》いが、耳の辺りまで裂けた|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》で無心に相手を咥えて振り廻す、猛獣の仔の顔だ。二つの眼はふてぶてしい無関心を現して、
(ふうん。この人か……)
と、呟いている。園子は気を呑まれて、相手を観察する余裕はない。ただ酷《ひど》く長いように思われた一刻の間に、これだけのものを感じ取ったのである。
強い相手に突然抑えつけられた、弱い獣のような園子は力無く顔を伏せた。羞しい、居たたまれない屈辱感が園子を襲っている。
「お掛け」
天上が言ったが、モイラは立った儘で、
「あたし、モイラ」
と、言った。モイラは天上を一寸見て、椅子に掛けた。天上と園子とから出て、空気を固くしているものに関係なく、モイラは自由である。天上が、改めて、モイラの持っているものに迷い込んだ具合で、モイラに眼をあてているのを、園子は額で感じ取っている。モイラはそんな天上の眼を承知し切った顔で、ふと園子から眼を離したが扉のノックに其方《そつち》を見た。
やよがカステイラに冷い紅茶を添えて持って出て、三人の前に配った。やよは体を固くして、気を遣《つか》っている。
「あたしは先刻《さつき》たべたからもう要らない」
モイラは言って、椅子の背に凭れかかった。天上と園子とが向い合っていると、そこにはひどく静かなものが流れている。救いようのない、白けた場面の空気とは別に、曾つてあった、今も、そこに余韻のようにある、その静かさを、モイラは部屋に入るなり、感じ取ったのだ。その静かな、自分の介入し得ない一つの世界を、モイラは探りあてていて、天上と園子と、介田とが、この家に暮している様子を想像すると、微かな嫌厭を覚える。一方で、そんな家の中の空気を、哀れな、惨めなものに考えてはいるが、自分が入ることの出来ぬ静かさを感ずる不愉快の方が勝《まさ》っているのだ。
「モイラは父親に大事にされていたので、挨拶もろくに知らないのです。失礼は許して遣《や》って下さい」
天上が言って、菓子を勧めた。モイラはむっと、罩《こも》ったような眼を又、園子に向けた。
園子は苦いものを呑み込み、座に耐えないようになっている。それを天上も、強い痛みと一緒に感じ取っているが、どうして遣ることも出来ない。
園子は、天上が自分を招かなくなったのが急で、天上との間にあった親しみのある交際が、突然立ち消えになったことが理解出来なかった。遠廻しな言葉で婚約の破棄を伝えた仲人の舟越《ふなこし》夫人の様子もひどく曖昧である。結婚した噂もきいてはいたが、柔《やさ》しく、温かで、自分との家庭生活に期待を持っていた天上の愛情、天上の従姉の磯子の慈しみ深かったとりなしも、まだ記憶がまざまざとしている。雇人たちとも心が通い合っていた。ことに介田の好意に満ちた態度も、忘れられないのだ。園子はもう一度天上に会って、その眼の中に、残っていない筈のない、愛情を、残り火ではあったとしても、確かめたいと、思ったのだ。それで母親にも、仲人の夫人にも、又誰よりも気持の通じ合っていて、舟越夫人の訪問の後は固い沈黙に陥っている兄の俊夫にも言わずに決行した今日の訪問であった。人々が何かを知っているらしく思われる中で、兄の俊夫は訊けば話してくれそうに思われたが、訊いてみることが不安であった。園子が天上の眼の中にたしかめたかったものは、あった。だがそれはあった、というだけのことである。愛《いと》しみは憐れみに変っていて、しかも全く色褪せていた。そこにモイラが現れたのだ。自分への愛情が冷め切った天上に、それとない労《いたわ》りがあることもむしろ園子の哀しみをひどくするものでしかない。諦めが、水のように園子を浸した。
園子はようようのことで紅茶に脣をつけ、カステイラには手をつけず、
「それでは……」
と言って、起ち上がった。
ほっと、救われた天上が椅子を退《ひ》いた。
「では、体に気をつけて下さい……お母上にも……よろしく……と言うのはどうも、却って失礼のようだが……」
園子は、恋人のように思っていた天上と、モイラという名の女との間に見る、自分には想像もつかぬ厚みを持った、愛慾というものの、充分に含まれた雰囲気に、打ち負かされ、屈辱に塗《まみ》れた自分を鋭く、意識した。へどもどして起ち上がる自分の醜い様子が、自分自身にわかっていて、比較的温度は低い日であったのにも拘らず、頸すじから背中、脇の下に、冷たい汗がじっとりと滲んでいる。
天上はモイラに居間に行くように言って、せめて自分だけで見送って遣りたい気持を抑えて、二人で玄関に送って行った。彼はモイラの、ほんの僅かな不機嫌を、無論視ていたからだ。不機嫌の理由も、朧気にではあるが、判っている。天上は今日、園子が門を入った時に偶然、窗から庭を見ていたので、一人で出迎えたが、帰る時にも、召使い達の見送りは園子を苦しめるだろうと、園子を応接間に通すと廊下に出て、やよが茶を運んで来るのを待って、帰りにはやよだけで門まで送るように、言い附けて置いたのである。天上が部屋を出て行った様子などで、園子は天上の気遣《きづか》いを知ったが、天上の気遣いをうれしいと思いながら、その天上の気遣いさえ、敗北した自分を追い討ちにする鞭のように、感ずるのだ。
やよに附添われて、園子が花畑の間を遠ざかって行く。園子が先刻《さつき》門を入った時、小屋に近い花畑の隅にいた介田が目聡く園子を見つけて、どこかに哀しみの籠った眼で一瞬園子を見、肩をすぼめるようにして礼をしたが、今は部屋に入っているらしい。
(あの時に、もうわかっていたのだったのに、何故あの時に帰らなかったのだろう……)
園子は背中に天上とモイラの眼を意識し、気持悪く乾いてゆく体の汗を感じながら、縺れるような足を運んだ。
園子の姿が見えなくなると、凱歌を上げる顔つきをするでもなく、凝と、園子の去った門の辺りを見ているモイラの顎に、天上は拳固にした指の腹をあてて仰向かせ、改めて新しいモイラを見るようにして、モイラに見入った。今日、更に搦め捕られた自分を、充分に知り抜いた眼を瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけて、モイラは見返している。モイラは、天上の掌を押しのけ、先に立って食堂に入った。小寒いので庭に向いた硝子窗は月桂樹の葉で囲まれた薔薇の模様の浮いた白い透かしの窗掛《カアテン》が引かれ、薄い光を透している。玄関から入って左側の壁には、ナプキン、卓子《テエブル》掛け、客用のナイフ、フォオク、なぞの入った丁抹《デンマルク》風の低い整理箪笥があり、同じく丁抹《デンマルク》の花壜が置かれている。伊作の丹精した花が、丁抹の花壜に香《にお》い高く挿されていた昼食の食堂の静かさは、伊作の予感通り、消え去っている。やよが、モイラの注文した野菜|清汁《スウプ》を、扉口まで運んで来た李の手から受け取っていた。青豆を豊饒《たつぷり》附け合せた挽肉料理、パセリを散らした馬鈴薯のサラドゥを次々に運んでくる李の様子に、召使い達の間に起きている一種の空気が見える。それが片山園子の訪問と、そこにモイラが出て、園子を不必要に打ちのめしたことにあるらしいことを天上も、モイラも、感じ取った。何か秘密にしているらしいやよの様子に、台所にいて気附いた本間いしが、玄関に送りに出るやよを透き見をしていたのだ。天上がモイラを同席させたのはモイラの位置に対しても、モイラへの愛情から言っても当然のことである。園子をいためつけたのはモイラの持っている不思議なものであって、モイラ自身は自分の持っている魅力を見せつけようと意識して、客間に出て行ったわけではない。だが召使い達の間では天上も劬《いた》わりがない、という見方がある。運転手の木村をはじめ、男の召使い達はわざわざ話もしないが、女たちの口から今日の園子の打ちのめされた帰り際の模様は伊作の耳に入るだろう。やよが平常《ふだん》食卓の世話を自分に任せられているのを幸い、今日も自分だけが部屋に入るようにしていたが、そういう場合のモイラの様子は、誰からきかないでも伊作には判るのだ。その空気を一人で浴びているのはやよである。モイラの附添いで天上の家に行くことになった時、林作が与えた、繁世の衣類の中にあった、繁世が若い頃普段に締めていた、地紋のある白茶地に褪紅色《たいこうしよく》と銀の露芝《つゆしば》を織り出した帯を大きな、固太《かたぶと》りの背中に高めにきちんと締めている後姿に、モイラの眼が止まった。相当に根性の悪い本間いしにしろ、やよの、誠実が何一つするにも滲み出ている様子にはお手あげの具合だし、他の連中は言うまでもない。やよは独りで気に病んでいる傾向があった。やよにはモイラの専横、ふてぶてしさ、それらが苦労というものに無関係に育ったモイラの稚さの中にくぐもっているのだ、という風に考えていて、自分に対する時の横柄な態度や、時には突然背中を向けてしまうような様子の中にもまだ大人になっていない幼稚さを感じている。みずみずしい艶のある若い女の体の中に、太い神経の傲然とした男が棲んでいるのではないかと疑われるような、モイラの生来のふてぶてしさも、やよの心には(旦那様も、会社にいらしって、お仕事をなさっている時には太々しさをお持ちだろう。それがモイラ様の中にも生れつきおありになるのだ)と、いうように受けとられている。(千葉の別荘での、お隣の人との間違いも、今の旦那様が甘くていらっしゃるのも、それはモイラ様のお顔もお体も、女の自分でさえ惹きこまれるようなのだから、モイラ様がお悪いのではない。どんな女でも、モイラ様のように生れついていたら、何も可怕いものなしの振舞いに出るのにきまっているのだ)と、やよは思っている。(モイラ様はお偉いのだ。十三四におなりになっても庭の梅の実をドミトリさんに取らせて、押入れに隠していらしったり、ほんとうに子供のようでいらしって、学校の方も怠けてばかりいらっしゃったのに、いいお成績でお卒業なさったし、お頭《つむ》がよくていらっしゃるのだ)と、やよは心に呟いている。やよは、モイラの為にも、又それより以上に崇《あが》めている林作の為に、自分なぞはどんなに辛い思いをしても、辛いなぞと思ってはならないのだ、とその肥え太った、幼いモイラが熱いと思った程の胸の中に誓っている。
「やよはいい。俺のところには君のような女はいない。来て貰ってよかったと思っている」
と、やよへの哀憐をひそめた顔で天上が言ったことがある。その言葉をやよは、身に染《し》みて聴いていたが、林作とモイラとの方に熱い味方の心を抱き締め、温めているのはやはり、林作への抜き難《がた》い忠誠である。やよは伊作とモイラとの間のことについても、天上と同じ程心を痛めていた。
「やよもモイラのことでは、食うものから何からいろいろ気を遣うこともあるだろう。大した我儘ものだからなあ」
やよが、モイラの嫌いな漬物の鉢を運んで来て、自分の前に置くのを見ながら天上が、言った。
「いいえ、わたくしなど……ただ一生懸命にいたしておりますばかりでございます。旦那様」
「うむ。モイラも君のことはよく解っているようだ」
そう言って初茄子《はつなす》に花胡瓜と漬菜《つけな》の糠漬けを小皿に取っている天上の顔には寂しさというよりもむしろ苦しげなものがあり、やよもそれを視ている。
(モイラ様がもう少し守安様をお好きだと……)
と、やよは常に、心に呟いていた。だが、そう思いながらも、やよはモイラの、自分を愛する男の心を確りと掴まえ、自分のものにしていることに限りない満足を覚える気持を、次第に理解して来ている。
(モイラ様では仕方がないのだ)
と、彼女は思うのだ。
まだ不機嫌の残っているモイラは無言で、食っている。扉が開いて、李が持って来た盆の上に、五粒|宛《ずつ》の苺を見出した時だけは満足げに、脣の端をなめ、眼を大きくした。
「もう出たか、綺麗だ」
モイラは牛乳をかけるのを好むので、天上はそう言いながら牛乳を壺からかけて遣り、自分の分のコンデンスミルクの容れ物を掌に取った。
* *
モイラは、天上守安は自分がこの家にいるということだけで、希《ねが》っても得られぬ倖《しあわせ》を得ているのだ、と思っている。天上もそれを知らぬ訳ではない。天上はモイラを自分のものにはしたが、モイラを完全に自分のものだ、と思うことの出来る瞬間は殆ど無い。それに、気附かずにいる訳ではない。天上はモイラを自分のものにすると同時に、身近な一団の人々の、憐れみを含んだ軽侮の感情を、背負《しよ》いこんだ。モイラの父親の林作をはじめ、ドゥミトゥリイ、伊作、やよ、の三人の雇い人を例外とする双方の雇人たちの感情である。質《たち》のいい軽侮と、そうでないのとがあるだけである。軽侮は皆、持っている。林作は軽薄な軽侮を抱いてはいない。だがモイラのピアノの教師だったアレキサンドゥル、又、モイラの最初の相手になったピータアと同様、林作にとって守安は一つの獲物であることは確かである。モイラと自分との続柄《リエエゾン》にある、或ものを、言ってみれば二人がいる甘い蜜の部屋を、その不思議な愛を秘めた蜜の壺の手触りを繰り返して確かめさせ、窃《ひそ》かな歓びを齎《もたら》してくれる、一つの獲物である。天上はそれにも気附いていない訳ではない。だが天上にとって抗し得ないのは、モイラの精神と体との中にある、味わっても味わい尽すことの出来得ぬ、甘い木の実である。女の肉体《からだ》の果実ではない。精神も肉体も一つにした、モイラというもののもつ、或ものである。モイラが知らずにいて発する、精神を鈍らせずにはいない力である。〈モイラの蜜〉の力である。その甘みの上にモイラの皮膚の内部から絶え間なく燻り出る、紅《あか》い百合の茎の香気が添加される。それが天上を惑溺の淵にひきこむ。
天上の従姉の磯子は、天上の半ば知っていて陥った境遇に、深い哀れみを抱いていた。磯子は亡夫と住んでいた横浜の家に住んでいる都合だけではなく、外出をあまりしない女で、天上の結婚前も現在《いま》も、天上とは折にふれて書く長い手紙と、三月《みつき》に一度訪問する程度の附き合いであるが、彼女は天上の唯一人の肉親であると同時に、常に遠くから見護っている、天上の唯一人の知己である。親兄弟を早く亡くして、磯子一人と互いに頼り合って来た境遇から、天上の伊作との、主従というのには深過ぎる親しみも、生れていた。これも又、弟と二人切りという境遇を持つ伊作を、天上は口に出しては言わないが、磯子の死後も頼り合うことが出来る相手であると、いつからか思うようになっていた。そうして、やがては優しい細君を娶って、自分に適した、静かな日々を送りたいと、希っていた。そこに深い歓びを抱きさえしていた。その天上にとってモイラの出現は、不倖を裏に潜めた歓びに過ぎない。天上は、モイラとの愛情の日々を希いながら、一方でモイラとの生活は、自分の真実《ほんとう》の倖《しあわせ》ではないのではあるまいか、モイラによって、自分の倖は破壊せられるのではあるまいか、という危惧を、モイラの虜《とりこ》になった瞬間から、天上は胸に持っていた。モイラを歓ばせた木の筐の寝台《ベツド》が、モイラの怠惰を昴じさせ、そこから生じる、モイラの妄念を温め、発酵させて、何かの邪悪なものの方向に、モイラを伴って行くだろうという予感も、林作より一足遅くではあったが天上にも生じていた。この予感は当然、磯子も持っていた。磯子は自分を律することの出来る、又|年齢《とし》にしては老成したところのある守安であるから、何とか切り抜けるのではないだろうかと、それを頼みに、モイラには彼女の持ち前の慈愛を注いでいた。磯子はモイラを好きな娘だとは思わぬまでも、モイラの内側にあるものも、大体は理解の出来る女である。モイラも磯子には親しんでいたが、片山園子を見て、磯子と園子とが同質の女であるのを見てからは、磯子がどれ程、園子と親しんでいたかを推察し、そういう二人の場面を、空想の絵の中に描き上げていて、そこにもモイラの、伊作、天上、園子なぞの一統を包《くる》みこんでいる静謐への不機嫌があったのだ。林作も磯子を訪ねて、彼女を見ていて、その辺の雲行きと、モイラの不機嫌との関係を知悉していた。だが林作は、自分とモイラと、世間との関係、又、天上、磯子、伊作への配慮とは別のところで、モイラの持っている特質を面白い、愛すべきものに思っている。自分が育てたモイラであることを、想い、そこに愉快を覚えている。モイラがモイラであることを、モイラが、モイラ以外の何ものでもないことを、面白く思っている。そうして、深いところで惑溺の微笑いを微笑い、惑溺の味覚を噛みしめている。
片山園子の訪問以来、モイラの天上に対する理由のない反抗は昴進した。そこへ、片山園子の訪問から三日と置かぬ日曜日に、磯子が訪ねて来たことは、たしかに、天上の不運に繋がった。磯子は東京に買物に出たが、時間が余ったので急に思い立って立ち寄ったので、珍しく不意打ちの訪問であった。磯子は出迎えた守安が、そんな時、十年一日のように、自分に見せる、懐しみに満ち溢れた表情を、その日もいつに変らず浮べてはいたが、その表情が、どこか平常《へいぜい》とは違っているのに、磯子は、気附いた。磯子は多分、モイラとの間に何かあったのであろうとは思ったが、電話をせずに来たことを悔いた。天上が片山園子の訪問について書いた手紙を、磯子はまだ見ていなかったので、園子の訪ねて来たことは、知らずにいた。その日も園子の来た日のように曇った、気温の低い日で、モイラは電燈を点けた居間で、不機嫌な顔で木の筐に入っていた。
そこにやよが、磯子が来たことを報らせに来た。
階下の天上の書斎の革の長椅子《ソフア》に、天上と向い合った磯子は、涼しいので黒のクレェプ・ドゥ・シィヌの午後の服を着ている。飾りの無い洒落た服だが、形が七八年古いばかりではなく、彼女が着ていると粋《いき》には見えずに、慈善事業に寄附をしている敬虔な奥さんに見える。磯子も天上に似て老けた質《たち》で、三十の半ばであるのにしては眼の縁《へり》にも頬にも皺があるが、未《ま》だ処女であるとも見紛う鳩のような可哀らしさが、その円い眼にはあった。天上との会話を止めて、自分に振り向いた磯子の、静かな微笑いに眼をあて、モイラは凝と睨み据えるような目礼をすると、書物卓《かきものづくえ》に肱を突いている天上の廻転椅子の後に回って、甘えるように凭れかかった。
(片山園子のようにお前さんに気に入らなくたって、守安は私《あたし》の方が好きなんだよ、私《あたし》はどっちだっていいんだ)
凝と磯子を見るモイラの眼が、言うのだ。
モイラは客の前で天上に、こんな様子をすることがない。天上は傷つき、それにこだわっていた。
「モイラはこんなようなの、お好き?」
磯子は亡夫の小野亮三が倫敦《ロンドン》で購《か》ったという茶革のバッグの中から、レエスで縁取りした白リネンの手巾《ハンカチ》を一枚、取り出した。
半分は守安に、
「この間納戸の古い箪笥を片附けていましたらね。二枚出て来ましたの。古いけど綺麗になっていて、白耳義《ベルギイ》のですの。それでマリイとモイラさんに……」
「トゥウ、フェ、タ、ラ、マンという奴ですね。これは綺麗だ」
モイラは直ぐに掌を出して受けとり、振り返って見上げる天上に脣の端で一寸微笑い、磯子を見た。
「お礼は?」
「ありがとう……」
モイラは手巾《ハンカチ》を小さくして掌の中に持つと、部屋を出て行った。
「気に入ったものは直ぐに蔵いこむのです」
天上の顔の上を、小動物の習性を話す人のような、甘い微笑いが掠めた。
「気に入ってよかったこと。私《わたくし》は今日はモイラの機嫌を悪くしに来た悪い天使でしたからねえ……」
既に先刻、片山園子の訪問のことを報らされている磯子が、言った。
「モイラの方が悪い天使ですよ」
「モイラは故意《わざ》と子供っぽくしているのではないけれど、ああ見えて大層大人なところもあるのですね、自覚しているのではないけれど」
「ええ、なかなかの奴です。だが大人になったのはついこの頃です」
磯子はモイラが自分の家に来た時の、モイラの眼を想起して言ったのである。
「私《わたくし》は他《ほか》の方《かた》には誰にでもよくして上げますの。それは、誰でも倖《しあわせ》にならなくては、ほんとうにそうでなくては、と思うからです」
と言ったのに対してモイラが黙って自分の眼に凝と眼をあてて、少間《しばらく》いた時の、モイラの眼だ。モイラの眼はその時、
(どうして他人《ひと》によくするの?)
と、言っていたのだ。そうしてその眼の中には何かが、所謂悪魔主義なぞというものではないなにかが、ふてぶてしい、ものの考え方が居据っていた。そのふてぶてしい居据りはモイラの、曇りのある眼で強調されていた。又、モイラが半ば無意識的であることも、強く迫るものをそこに、附加していた。これは或は自分の、人道的といったような言葉を人々が嵌めている考え方よりも、もっと深いところを衝いた、考え方なのかも知れない。磯子は思わず胸の中で、たじろいだ。磯子にとっては恐ろしい考えではあるが、だがどこかの世界では、或種の人間の間では、肯定されている真実なのかも知れぬと、磯子に思わせぬでもないものが、そこにはあったのだ。
「牟礼《むれ》さんという人が、大変に立派で当りの柔かい、弁《わき》まえのある人です。僕は敬服していますが、どこか、欧羅巴の男のようなところがある」
「そうですね。あの方の持っていらっしゃるものが、モイラの中にあるのです。あの可哀らしい、稚い女《ひと》の中に、出て来たのです。……」
「可哀らしい、魔ものです」
そう言って、自分に向けた守安の眼の、苦しみを抑えている優しさに、磯子は黙って眼をあてた。守安が彼女をみて、少女だった頃から評していた、聖母《マリア》の傍にいる天使たちに似ている、恭《つつ》ましい、優しい眼だ。
少間《しばらく》して磯子は、ふと気を変えるように、伊作の花作りの話を始め、仲のいい従姉弟の間に再び明るい、静かな刻《とき》が流れた。まだモイラがこの家に来て、僅かの日日《ひにち》より経っていない。だが一度、この応接間で林作と落合い、林作とモイラとが一緒にいるのを見たことのある磯子は、林作とモイラとの間にあるものを、見ていた。恭ましい、善意の女で、恋愛の森ともいうものの中には、とばくち[#「とばくち」に傍点]に足を踏み入れたばかりといっていい女の中にも女の直感はある。天上は、この磯子と、伊作との、慧い眼の中に折にふれてふと、湛えられる優しい劬りに支えられて生きているような、自分を感ずることがある。そうして自分の弱って来ている心を感ずるのだ。やよの眼の中にも、ドゥミトゥリイの眼の中にも、それがある。だがそれは天上を傷つけた。二人の眼の中にあるものは伊作や磯子のものと同じだが、彼らには林作に附き従う、熱い僕《しもべ》の心があって、ふと天上に見せる劬りの色は淡く、消極的である。彼らはモイラを愛する者たちである。彼らはモイラを深く劬る者たちで、あった。
モイラは天上や伊作、磯子、などがいる処には必ずある静かさが不愉快である。何故か、善意しか持たぬ人々の傍にある静寂はしん[#「しん」に傍点]として沈んでいる。モイラはもう、その厭な静寂の沈んでいる部屋にはもう行きたくない。林作にも、ピータアにも、ドゥミトゥリイにも静かさはある。だがその静かさはモイラを小犬のように潜《もぐ》りこませる。彼らの静かさはもろもろの不純な微生物を容れていて、モイラをそこで生き生きと泳がせる。モイラをそこに棲まわせる。それは温かな水のようなものだ。モイラは夕食に呼びにくるまで行かないでいようと定《き》めて、手巾《ハンカチ》を下着、靴下なぞを入れる小箪笥に入れると、又もや寝台《ベツド》の中に潜り込んだ。柔かく厚い、敷き詰められた白い蒲団がぬくぬくとした温かさでモイラを受け入れた。そこに腹匍いになったモイラは、何を想ったのかその可哀らしい顔に薄ら笑いを浮べた。天上が磯子を天使のようだと、モイラに言ったことがあるのだ。
(あんな憎らしい天使。へんな、神様のような人たち……)
何かに擽《くすぐ》られるようなのを抑えかね、ぴくぴくする脣の端を隠そうとするように、モイラは片肱を上げて顔を隠し、蒲団の上にその顔を擦りつけ、悶えるように、体を捩《よ》じった。
* *
磯子が来てから間もない或日、やよが来て天上が階下に来るようにと言っている旨を伝えて、言った。
「モイラ様と同じお年位のお嬢様らしいお方がお見えになっております」
「どんな人?」
「外国の方でございます。お洋服を召して、一寸モイラ様に似たようなお方で御座います。お着替えになりますか? モイラ様」
片山園子のような人はもう他にいない筈である。
(私のお友だちになる人を連れて来たのだ)
と、モイラは直感的に、思った。
「これでいい」
応接間に入ると、愕くほど大きな黒い眼を瞠《みは》った、十八九歳の女が椅子から立ち上がった。その眼をモイラに凝と据えている。
「モイラ。ヱセル・カハアネさんだよ。御挨拶をなさい」
モイラとヱセルとは凝と、互いの眼を見合って立っていたが、モイラは仕方がない、というように、ヱセルの向い側の椅子に掛けた。ヱセルを見た瞬間、彼女を直ぐに自分の居間に伴れて行きたいという気持が起きたからだ。
「モイラにお友達がないから、お友達になって戴けそうな方だと思うので、お伴れしたのだよ」
天上は言い、ヱセルの方に向いて続けた。
「この通りの我儘な奥さんです」
「モイィラ・天上、わたくし女学校、日本の学校です。横浜の聖路加学院というミッション・スクウルです。でもパァパは昔から天上さんの会社です。小学校に、上がりました時から日本語習いました」
ヱセルが暗く光る眼を据えるようにして、言った。
モイラは奥深い眼で、ヱセルを見ている。
「あたしは聖母学園」
「ええ、天上さんから伺いました。その学校のお話、伺いたいわ」
「尼様は可怕《こわ》い?」
「ええ、尼様たちの考え方、厳しいです。わたくしに、でもやさしいです」
風邪をひいていて、平温より一分余り高いので乾いて、腫れ気味な脣をにっと、曲げるようにして、モイラは脣元だけで微笑った。あまり機嫌のいい微笑いではない。
彼女の応えには関係なく、完全な、宗教学校の生徒だった、このヱセルという少女の中には、何でもわかる、モイラのような人間を容れる資質がある。それを見て取ったモイラは、野原|野枝実《ノエミ》の代りが出来たと、思った。野枝実は祖母の命令で、自分の意志ではない結婚をして、交際がなくなっていた。モイラは起ち上がって、ヱセルを見下ろし、
「二階へお出でよ」
「モイラ。今やよが何かを持って来るから、もう少し此処においで」
「いいのよ、おじ様、あちらで戴きます」
ヱセルは繊《ほそ》い掌でそっと、天上を抑えるようにして、起ち上がった。
「どちら?」
モイラが先に立って、薄黄色の衣《きもの》と、白の衣《きもの》との二人の若い女は、玄関のホオルに出て、階段を上がった。
寝台《ベツド》と洋服箪笥との合間に置いてある、天上が掛けるための、黒革の肱掛椅子と同じ椅子を、やよを呼んで階下《した》から運ばせ、枕元の小卓を挟んで向い合わせに置かせると、モイラは窗を背にした方の椅子に沈みこんだ。ヱセルは体が弱くて、平常《ふだん》寝台《ベツド》に横たわっていることが多い娘だったが、モイラの寝台《ベツド》が変った形なのにおどろくと同時に、今起きたようになっているのを見て、丈夫に見えるモイラが年中その中に転がっていることを知った。モイラは又やよを呼んで、メロンを持ってくるように、言った。
「はい、モイラ様」
やよはモイラに女友達が出来たらしいことを知った。そうしてそれが、モイラの機嫌をことさらによくしているのを見て、いそいそと答えて、退《さが》っていった。モイラが、変った様子はしていないが、底から、深いところで機嫌のいいのが、やよには解るのだ。そのやよの様子は又モイラを、歓ばせている。ヱセルにもそれは感じとられた。始めて訪問した天上の家で、ヱセルは天上の哀しみに触れた。だが彼女はそれで直ぐに、モイラを悪いと思いこむような、単純な考え方をする娘ではなかった。
モイラはヱセルの、黒眼が一杯に滲んで拡がったような、恐ろしいように見える二つの眼の中に、すべてを吸いとる聡さを、最初に顔を見合った瞬間に見て取っていた。
(ノエミも眼は魔ものみたいだったけど、この人のように利巧じゃない。この人の方がいい)
と、モイラは思った。モイラは莫迦ではない。だがものごとがモイラの中で、ただ興味だけで動いている。そのことをモイラは暈《ぼんや》りとではあるが、自覚している。だが、それをそうでないように、変えようとは思ってはいない。ヱセルは最初から、モイラの魔のような魅力に愕いていた。モイラは幾らかの狡猾をひそめた、魔のような眼で、ヱセルを視た。モイラ自身、その魔力を駆使することに溺れていることを、ヱセルは既に見ている。
「ヱセルの眼も大きいね」
自然にウェエヴしている黒い髪が、前髪の真中に王冠をでも戴せて圧し潰《つぶ》されたような凹みのある、つまり、鬢を両側から巻き上げたように高くなっている髪形で、眼ばかり大きい繊い顔の頸を据え、胸も、胴《ウエスト》も繊い体に、薄いセル地の夏服を着ているヱセルは、これも繊い腰で優雅に椅子に掛けている。モイラが、林作の厚い書物の中で見たことのある、ロマノフ皇帝の一族の中にいた皇女の顔を、ヱセルを見て、想い出した程、ヱセルにはどこか現実の、どこにもいる女とは離れた感じがある。宗教的《ルリジユウズ》でもある。その特長が、天上の持っているものと似ていることに、天上も気附いているが、モイラは気附いていない、というよりも、気附こうとしないとも言えるのだ。
(この人は守安のように神様を好きらしい。でもこの人は守安とはちがう。パァパのように私《あたし》を包《くる》みこんでくれる)
モイラはヱセルを見て直ぐに、思ったのだ。天上はモイラにとって、年が十違うためばかりでなく、老成したところがあって、父性的に愛してくれる、林作同様に何でも希《のぞ》みをかなえて呉れる男で、あった。だが宗教的なところも、変に静かなところも、気に入っていない。林作は後《あと》になって、モイラからヱセルのことを聴いた時、いよいよ天上とモイラとの間の疎隔を感ぜずにはいられなかった。
ヱセルは薄い脣で、微笑った。
「ええ。小さかった頃、小学校の頃も、ニンフのようだとか、魔法使いのようだとか、友達が言いました」
「ノエミって人が友だちだった」
「矢張り大きな眼でしたか?」
「うん。……その子は厭なお祖母さんに言われて貧乏な会社員と結婚して、一度も来なくなった。前から貧乏だった。今も……きっと」
「かわいそうですね。貧乏は大変です。私の親類にもいます。人によると、心も悪くなって行きます」
「うん……」
モイラの眼が興味を失って、鳶色の瞳が、重たくなった目蓋の下で無意味に、動いた。
やよの持って来た、冷えたメロンに少間《しばらく》は夢中になっていたモイラが、不意に言った。
「花畑に出てみよう」
座って話していることにも忽ち倦きて、別のことを遣ろうとするモイラに愕きながら、ヱセルには何故か、何でも可哀らしく思われてくる、モイラというものを、感じた。
「ええ、ほんとうに綺麗ですね。あそこにいた園丁が造るのですね?」
モイラは返事をせずに、起ち上がった。
「きのう、蕾が大きくなっていた薔薇が咲いているか、見に行かない? コンフィダンスという薔薇」
「まあ、そんな薔薇を見るのは始めてです」
「私が造らせた薄紅《うすべに》色の紫陽花もある」
二人は伴れ立って階段を下り、庭に出た。それだけのことが何故か、モイラは楽しい。ヱセルも同じである。そのことを二人は感じている。
陽が既《も》う大分|翳《かげ》っているが、庭はまだ暑かった。モイラは陽の強い時に被る麦藁の帽子をやよに二つ出させ、それをヱセルにも被らせ、小径《こみち》も見えぬようになっている花の中を進んだ。まだ啼き止まぬ蝉の声が、二人の耳の中で鳴るようである。書斎に入って書物を見ていた天上は窗から、二人を認めて、気分が安らいだような、同時に又物哀しいような想いに憑かれた。