饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:15913 字 更新时间:2026-6-23 06:49

 まだ葉の青い葉鶏頭の手入をしているらしい伊作の日除帽を、玄関を出た時から認めていたモイラは、彼を無視してその傍を通り過ぎた。伊作は起ち上がって日除帽を取り、小腰を屈《かが》めてモイラにともなく、ヱセルにともなく頭を下げた。ヱセルは軽く会釈をして通り過ぎたが、モイラの態度にひどく、愕いた。

(モイィラ・天上はあの園丁を嫌っているようだ。そうしてあの男もモイィラを……)

 と、ヱセルは思った。介田の様子にも、それとなく、モイラを無視していることが窺われるのだ。その日モイラと別れて帰る途で、ヱセルは、モイラと園丁との確執ともいえる仲の悪い様子を、思い浮べた。そうして、その原因を思い巡らせる内に、モイラの魔力が天上を、溶《とろ》かしているようなところが多分、モイラの来ぬ前からこの家にいて、生真面目らしい園丁を不快にしているのだろうと、思った。それにしても園丁の眼にあった、見せまいとはしているが、異様な憎悪は、ヱセルの胸に、残った。それはヱセルを不安にし、自分の憶測以上のものがモイラと彼との間にあるのだろうと思わぬわけには行かなかった。

「この薔薇が、コンフィダンス。彼方《あつち》のが薄紅色の紫陽花」

「まあ!! 綺麗だこと。モイィラ・天上のような肌目《きめ》の細かい花弁《はなびら》ですね……紫陽花は私は水色のの方が好きです。あれは寂しいような、美しさを持った花ですから」

「うん、私《あたし》は花は好きじゃない。でもこの花にはへんな想い出があるの」

 ヱセルは度々モイラを訪れるようになったが、彼女がモイラと話をする機会が度重なり、それが半月程も続いた或日、モイラは例のように、黒革の肱掛椅子に、だらりとなって沈み込んでいた時、不意に、言った。心にあったものが、ふと滾《こぼ》れた、というような言い方である。

「ヱセル、恋人、ある?」

「今は、いいえ」

「ある……」

「え?」

「でも会わない」

 モイラの眼が光っている。脣の辺りに狡猾な微笑いとも取れるものが浮んでいる。

 ヱセルは黙った。黙ってモイラを見た。

 ヱセルは先刻《さつき》から、会い始めた時から知っているモイラの、どうかした時に漂う植物性の、その癖酷くセクシュアルな香気が、強くするのを感じながら、モイラを、何をもってしても、律し難い、仕様のない人物なのだという、不思議な想いに捉えられている。それと同時にモイラの言う恋人というのが、それが、既に会ったか、或は近い将来に会うようになる男なのだ、ということを、彼女は戦慄と一緒に、感じとったのである。ヱセルのこの想いを、モイラは知ったようだ。

 長い間ヱセルは、黙っていた。モイラも黙って、この新しく出来た、どういう時にも、どこかで心持が通じ合っているような女をなんとなく見ている。白い下着が透いている薄黄色の衣《きもの》の下で、モイラは汗を滲ませている。

 二人の間にある檸檬曹達《レモンソオダ》の中の氷が殆ど溶《と》けていて、扇風機が微かなうなりをたてている。不思議なことにモイラは、この友だちの前では何も蔽わずに、自分というものをさらけ出していることが出来る。そこでモイラの魔力がいやが上に香気をたてる。天上は会社である。モイラに馴染まぬ、というより、モイラに反感を抱いている雇人達も、ヱセルを気に入っていて、この居間からは遠い部屋にいる彼らも、気分よく静かにしているのが感ぜられる。伊作さえもが彼の部屋で、天上のいない時間のこの家で、比較的機嫌よくしている。それが二人には感ぜられている。そういう静けさなのだ。

 いつもの癖で、弛く拳固にした右掌を脣にあて、しゃぶっているような感じで眼を陶酔《うつとり》とさせ、酒でも呑んでだらけ切った男のような様子で椅子に凭れこんでいるモイラに、深い眼をあて、ヱセルが言った。

「モイラはほんとうに綺麗で、そうして、ほんとうに仕様のないひとですね」

 モイラは陶酔《うつとり》した儘の眼の色で、いよいよ椅子の中に沈みこんだ。

「だから、会わない。……」

 その癖モイラの眼は、ヱセルが自分を解る、自分の味方の一人になるだろう、という絶対の自信を持って、ヱセルを見ている。

 それを言うモイラの眼は、彼女のその言葉が、モイラの中の何処からも出てはいない、空《くう》なものだということを、ヱセルに知らせていた。

    *    *

 八月に入ると蒸されるような暑い日が続いて、モイラはぐったりと、弱っていた。

 そんな或日林作が、天上家を訪問した。天上の都合を問い合せて来たドゥミトゥリイの電話を、やよから聴いたモイラは、

「パァパが?」

 と、言った。いつものモイラとは違う弾んだ声だ。

 モイラは現在《いま》では、林作と自分とが入っている愛情の密室、甘い蜜の部屋をたしかに、探りあてている。モイラと林作との間にあるものは、父親と娘との間の親しみであって、そこに危険がある筈はない。だが何かの、不思議なものがあって、その何かが、父と娘との親愛の中に微かに危険の苦《にが》みを添加している。その微かな苦みの中に、在るとも、無いとも、わからぬ混沌の中に、陶酔がある。その現実には無い筈の危険が、あるかも知れぬように思われる、意識の狭間《はざま》に、陶酔がある。モイラは林作のように、そこまでは、わかっていない。だがモイラは、林作と自分との親愛が封じこめられている甘い蜜の壺をどこかで探りあてていて、その蜜の壺に触《さ》わったような気がしている。「パァパが?」と言った時、モイラの眼が、異様に潤むのを、やよは見た。やよの胸にも慕わしい、懐しい心が、奥深いところで音をたてているようである。天上は夕食の用意をするように言い、献立ては林作の好みを主にして立てるようにすること、食後の果物のことなぞも細々《こまごま》と、言い附けた。天上は林作が、モイラを早く天上にも、天上の家にも懐かせようという気持から、結婚以来一度来た切りで、訪問を控えているのを見て、深く感ずる心持がある。モイラの部屋の電話で話してはいるようだが、それも長くは話さないらしい。やよは忙し気に応接間を出入りして、扇風機をかけ、卓子《テエブル》掛けを新しく替えたりしている。伊作ですら林作には尊敬を抱いている。他の雇人達も皆、林作の威と柔かな様子を好もしく思っている。本間いしも、憎たらしいモイラの父親だとは思うものの、畏《おそ》れのようなものを抱かざるを得ない男だと、思っている。

 林作は今年五十四歳になった。アレキサンドゥル・デュボワが嫉みをもって眺めた、焦茶の紗の夏羽織を着て、夏袴を着け、涼しげに現れた。

 エンミイの事については、林作が既に手紙で、丁重に詫びて来ているので、天上もそれは忘れ去ったようにしている。暑さ見舞いの挨拶が済んで、今年伊作が咲かせたコンフィダンスの話から、牟礼の家でもドゥミトゥリイが作りはじめた、朝顔の話になった。

「全くの素人で……それでも花は毎朝開くのです。種の袋にあったのと花の色が違うなぞと、ドゥミトゥリイは言っています」

 林作はそう言って楽しげに笑った。

 林作は、モイラがいなくなったからといってアンネット・カウフマンの所に通う度数を多くした訳ではない。アンネットが彼にとって必要以上のものではなかったからで、それまでは家に母親の無い娘がいるからだと、取っていたアンネットの不満を容れて、一月《ひとつき》程前から週に三度通うことにしている。それでドゥミトゥリイが林作を慰めようとして種を蒔き、どうやら朝顔を咲かせたことには、いい知れぬ歓びを覚えたのだ。天上も共に歓び、声を和して笑った。

「この頃は朝顔の顔を見てから会社に出る。今までは娘ではあっても若い女の顔を見て出かけたのですから、急に隠居になったような具合です」

 天上は英文、林作は独法を出ているが二人とも外国文学をよく読むので話はいつも其方《そつち》に行くのだが、林作は天上が詩ならエリオットゥ、ワァズワァス、キイツなぞを読んでいて、紀行文、エッセイなぞも好いていることを既に知っている。林作の歓んで読むものというと、小説なら小説の中に粋《いき》なものの入っているものであって、粋を解せない作者のものには興味がないというように好みが偏《へん》している。天上は品のいいロマンティシズムが好みで、鴎外の『舞姫』なぞを愛読している。文章の調子が高くて清貴でなくてはいけないという点では二人は一致していた。二人は互いに気を遣《つか》って話をしていたが、偶然、モイラがホオムズを読んでいるという話から、ホオムズの話になった。モイラは林作が、

「何か面白いと思うものでいいから本をお読み、その内パァパが何か考えて贈るから。又馬を遣《や》ってもいいし、天上君と話をして何か他のものを考えてもいいのだ」

 と言ったのを守って、天上の書棚から手当り次第に易《やさ》しそうなものを引き抜いたのが偶然、ホオムズで、ひどく興味を持ち、木の筐の中で何か読む時には本は定《き》まってホオムズであった。林作はモイラが、小さい頃から罪悪、殺人なぞに異常な興味を持っていることを知っているので、ホオムズについては話を端折り、ピエェル・ロチの『アルジェリア紀行』の中にある、ロチがドオデに送った手紙に話をもって行った。幼いモイラはよく、林作の膝に凭れかかって絵入りの小説類や、外国の大辞典を拡げて、説明をせがんだ。林作は小さなモイラが、不気味な絵を見つける度に説明をせがむのに興味を持ち、肉をせがむ小動物に肉片を投げ与えるようにして、モイラが飽くことなく要求する、自分からの愛情の肉片と一緒にそんな小説の話、絵の説明をも、与えていたのだ。ロチの紀行は天上は読んでいなかったが、そこからリヴィングストンの探険記の話が出、探険ものに興味の一致点を見出したことが話を弾《はず》ませ、二人の話は和《なご》やかに流れて、冷えた紅茶を運ぶやよも、可憐な、肥えた胸を和《なご》ませている。気に入りの薄紅色の木綿の普段着のモイラが、入って来るなり「パァパ」と言って、肱掛椅子に掛けた林作の背後《うしろ》に廻って肩に飛びついた様子に、耐えられぬ程の嫉妬を覚えた以外には、天上は林作の訪問を心から歓ばしく思ったのである。モイラが後から飛びついた時林作が、低く俯向けた顔で微笑い、モイラの掌を後手《うしろで》に軽く叩いた様子にはそれとないたしなめがあって、その二人の姿には妬心に胸を刺された天上も清潔な画面を感ぜぬ訳には行かなかった。その林作の様子には、どこか恋人とも見紛う、一種の気配がありながら、天上に嫉妬の心を恥じさせるほどの清潔《きれい》な、父と娘との楽しげな馴れ合いが、あったのだ。だが、それだからといって天上の妬心が消え去ったのではない。天上の嫉妬を最も刺戟したのは林作が瞬間上半身を前に伏せて、深く顔を俯向けて微笑ったことである。林作の顔は殆ど影になっていて、ひどく粋にみえた美しい微笑いが辛《から》くも見てとれた。その様子が父娘の画面を秘密ありげにした。モイラの掌を、触れたか触れぬかのように叩いた掌にも、天上は憎悪を感ずるほどの愛情が、見えた。モイラは直ぐに離れた。

 モイラは林作の袴の膝に凭れて、膝に頬を擦りつけながら二人の話に聴き入りたい慾望を抑えられない。それを知り過ぎている筈の林作の顔にはそれを知っているということの、微かな影さえもない。時折、結婚した娘への愛情に満ち溢れた微笑いをモイラにあてるが、その度に林作は脣を膨らませ、凝と自分を見ているモイラの眼に行き会う。林作は自分とモイラとの甘い蜜の部屋を、モイラよりも先に探りあてていて、モイラより深いところで、適確にその情緒を突き止め、現実と、ある筈のないものとの微妙な狭間《はざま》を、現実と、或感覚との間にある魔を、余裕のある微笑いの底で噛みしめている男である。だが林作は、モイラの夫となった天上の前では、膝に寄りかからせるのは控えようと思ったのだ。林作は可哀くてならぬモイラの不満な顔を見る度にほとほと、困り果てていた。林作はモイラが膝へ来て、凭れかかりかねぬのを見て抑えたことが、天上を刺戟したことにも、気附いていた。

 不満に脣を膨らませて、あらぬところを見ているモイラの耳に、林作の静かな声が入った。

「千葉の家にモイラを伴《つ》れてお出でになりませんか。新しい魚と野菜に、後《うしろ》の川でとれる蜆《しじみ》位な饗応《おもてなし》しか出来ないが」

 天上はモイラの、林作を迎えた様子を見てからというもの、妬心の獣を抑えかねていたが、歓んで応じる旨を答えた。この時天上の心には一つの考えが、浮んでいた。モイラというものが幼時から林作の、父親の愛と、恋心を抑圧して仕えているドゥミトゥリイの忠実な愛との、二つの男の愛情に育まれていたことは判っていたが、モイラのこれまでの生活の中にまだ何かが、ありはせぬかと、これまでも想わぬではなかった。それが今、それが若しあるとすれば林作の別荘の周辺にありはすまいかと、ふと思ったのだ。この想念が、林作の招待に応じた天上の胸の奥に湧いた。

 モイラは、天上の林作の招待を受けている顔を見ていたがふと眼を伏せた。モイラの胸にも同時に一つの考えが生れたのだ。天上の掌によって、一人の女としての情緒に目覚めたモイラは、エンミイに害を加えて天上と伊作とを愕かせ哀しませようという悪戯に心を集中している状態の中で、一方どこかに心を動かすなにかを感じていた。その心の動きがピータアに繋がっているということが明瞭《はつきり》して来たのはつい数日前である。木の筐という培養器の中で、モイラはピータアに会おうという企らみをわだかまらせていた。エンミイの事件も大したことも無く終り、ヱセルが来た日を除《の》けては片山園子、磯子と、不愉快な、退屈極まる訪問が続いて、モイラのピータアとの密会の企らみは木の筐の中で温められ、膨らんで、孵化しようとしていた。ドゥミトゥリイにピータアの東京の住所を訊かせにやろう。そうしてそれが、ピータアの心をもっと烈しくし、同時にドゥミトゥリイの心臓に苦しみを与えて、もっと灼くようなものにして遣ろう。と、モイラは想ったのだ。そこへ林作の招待があった。林作に隠れてピータアの、あの海の家に行かせるのには、林作が客の接待《もてなし》をしていて、やよとドゥミトゥリイとが忙しく働いている時がいい。その考えが、暈《ぼんや》りとし勝ちなモイラの心に閃いたのである。モイラは心の中に笑った。

(パァパは何でも遣《や》ってくれる。だがはじめからパァパには頼めない)

 モイラが再び眼を上げた時、林作がモイラを見た。

「モイラ。伊作君に薄紅い紫陽花を注文したのか?」

 林作の微笑いは揶揄いを帯びている。天上の、モイラの稚い好みを微笑い気味な眼が、同時に向けられていた。アレキサンドゥルとの、最終の稽古日の出来事が逐一林作に報らされていたのは言うまでもない。その場面にあった薄紅い紫陽花は林作とモイラとの記憶の中で今も、その五十五歳のピアノ教師と十一歳のモイラとの、不思議な恋の場面の全体を蔽って、雫をつけて咲いているのだ。暈《かさ》を被《かむ》った天体のように暈《ぼんや》りとしたモイラの眼が林作を見、天上に移った。

 小さいが黒鱚《くろぎす》があったのでそれを林作の好む淡味な塩焼きにし、李がとったコオンの肉汁《スウプ》と、やよが懸命に味をみた独活《うど》と柱の酢の物、これも李がロオストした近江の産地から取り寄せた牛肉、等の夕食が整うと、やよの案内で三人は食堂に入った。李が、食後の西瓜を運びがてら、挨拶に出た。林作は李の係りであったらしい肉のロオストについて、焼き具合がいいと褒めて、ねぎらった。

「李は日本橋の中華亭に下働きをしていたのですが、西洋のものも直ぐに勉強してかなり巧くなりました。日本料理はやよと交換教授をやっているようです」

 天上が言った。やよは歓ばしげに、それを耳に入れる様子で、退《さが》って行った。李はコックの仕事着の新しいのを着ている。彼は新しい仕事着を常に用意していて、客の前に出る時も、外出する時もそれを着け、冬にはそれにオオヴァアを羽織るだけで、コックの仕事に徹底している男である。やよは彼に教えを乞い、しきりに何かと料理を手伝いながら、いろいろと覚えようとしているのである。

 林作が夏の風のように爽やかに現れ、辞して行った後では天上も、自分を無為に苦しめる嫉妬心を殆ど、鎮めてはいた。

    *    *

 八月も末近く、千葉の石沼《いわぬま》の林作の別荘は、天上達が来てから四日続いた快晴が崩れて、空が昏《くら》くなっていた。やよは今日の夕食の為の茄子、胡瓜、冬瓜《とうがん》、鰈《かれい》、小海老なぞを、近くの農家や漁師のところに分けて貰いに行くことを、四方吉《よもきち》に頼もうと思っていたが、ドゥミトゥリイが自分が行くと言って出て行った。四十八《よそはち》は松葉を集めて、焜炉《こんろ》を外に持ち出し、飯を炊く用意をしておいて一旦《いつたん》帰って行った。やよは昨日《きのう》四方吉がとって来た蜆で味噌汁を作るための出し汁を、丁寧にとりながら、先刻からピータアのことをなんとなく気にかけていた。買い出しの使いを自分ですると言って出て行ったドゥミトゥリイの様子がやよの胸に微かな不安の影を落としたのだ。ドゥミトゥリイは林作が天上家を訪問した翌々日に、モイラに呼ばれて、モイラからピータアの家に、東京の住所を訊きに行くことを頼まれていた。モイラが凝と、眼を自分の眼に据えている間、ドゥミトゥリイは、(自分はそれを必ずやるだろう)という自責の念と苦痛とを全身で、耐えていた。ドゥミトゥリイは、モイラの傍にいると何かに縛られている自分を感ずる。未だ開き切るのには幾らか間《ま》のある薔薇の花がつい傍にある。肌目《きめ》の細かな花弁《はなびら》だ。花蕊を捩れながら取り巻く、花弁の固まりの辺りから香気を吐き出している薔薇である。その香気はモイラの性格が映るのか、生《なま》ではなく、なにかの不透明に包まれている。自分には手折ることは許されていない。それが永遠に手に取れない、という痛みがむしろこの頃では苦痛の歓びのようなものになって来ている。苦痛に耐える歓びである。苦痛を受け止める病人の智恵のようなものだ。悪事に加担をするのだという苦痛が、モイラの薔薇の香気と一つになって頭を締め木で締めつける。既《も》うその秘密の使いを遣《や》ってしまったかのような、暗い隈のようなものが眼の周囲《まわり》に出ているドゥミトゥリイの顔を、モイラは眼《ま》じろぎもせずに視ていた。自分の望み通りの生《い》き餌《え》を食っている、肉食獣の眼だ。ドゥミトゥリイは眼を伏せ、脣を少し開いて吐息をついた。そうして返事の代りに頭を低く下げ、黙って部屋を出て来たのだ。一昨年《おととし》の夏に半ば開いた薔薇は、今は開き切る時期に近づいている。しかも苦痛に耐えている自分の顔が恐ろしく見えたのか、一瞬、微かに怯えを見せ、自分の眼の中を探るような目遣《めづか》いをした時、ドゥミトゥリイは胸を掻き|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》られる甘い苦痛に頬を歪めた。ドゥミトゥリイは林作にたしなめられて愕いて泣き、自分の小屋へ驀《まつしぐら》に駆けて来て、自分の眼の中を、温かな慰めを探すようにして覗きこんだ、遠い昔のモイラの、乳首を探す赤子のような眼遣いを、想起した。それはドゥミトゥリイの胸の奥に永遠に蔵われている、甘く切ない場面である。

(あの頃は蕾の薔薇だった)

 と、その時ドゥミトゥリイは心に呟いたのだ。

 やよから明日は皆様お発ちらしいときいたドゥミトゥリイは、今日はやらなくてはならぬと想い、落つかぬ様子を人に見せぬようにしていた。その日の朝、大原へ西瓜を買いに行った行きがけに海岸に出てみたが、ピータアは居なかった。ピータアは、モイラが夫らしい男と来ているのを小窗から見て知っていた。今日は朝早く泳いで後、居間に閉じ籠もっていたのだ。買い出しの帰り、ドゥミトゥリイはピータアの家の裏に廻ったが、林作の家の窗と向い合った小窗のある側の裏には扉口がない。荷物をそこに置き、急いで扉口に廻って、別荘の方に振り返ってから軽くノックをした。二階から下りて来る跫音がして扉を開けたピータアは、ドゥミトゥリイを見ると身を退《ひ》いてドゥミトゥリイを入れ、素早く扉を閉めた。暗い階段の下で二人の男は、一瞬眼を見合って立った。砂の上に蹲まって Moila[#i はウムラウト付き] と書いていた、一昨年の夏のドゥミトゥリイと、その傍を黙って通り過ぎたピータアとは、その遠い場面にあった一種の感動を再び、感じ取った。ピータアはドゥミトゥリイのモイラへの内に隠し、抑えつけている恋を見、ドゥミトゥリイは自分が雇人として仕えてもいいと思う程の一人の嫩者《わかもの》、いい奴を、見たのだ。泳いで来てその儘なのだろう。黒いパンティの上に灰色のブルウズを着ているピータアは潮の香いがし、砂をつけて、逞しい、嫩い馬のようだが、その二つの眼には分別と、灼くような恋とがせめぎ合い、その二つともが疲れ切って醸し出された静かなものが潜んでいて、二つ三つ年を取ったように見え、ドゥミトゥリイを惹きつけた。ピータアを前にして、恋が生《なま》で燃え上がっているのを気配にも見せずに隠し持っているドゥミトゥリイは暗い色を塗った額越しに、ピータアを見た。

「モイラ様が、貴君《あなた》様の東京のお住所《ところ》をと……」

「僕は現在《いま》父母と別に、アパルトマンにいます。農学部の裏で弥生町七十二、古在荘、古い、駐在の在、古在荘です。部屋は二階の12、明日はそっちへ帰ります」

 言葉の半ばからピータアの、衰え切っていた恋の火が忽ち盛り返して熱くなって来るのを、ドゥミトゥリイは見た。

 ピータアは凝と、ドゥミトゥリイを視た。

「君の名は?」

「ドゥミトゥリイ、と申します」

 ドゥミトゥリイ、と言った発音の中にピータアは紛れもない祖国の声を香いだ。ドゥミトゥリイは父親のイワノフについて、密かに祖国の言葉を習い覚えていて、それは決して忘れまいとして、独りでいる時には暗誦を怠らぬようにしていたのである。それは父親のセルゲイの発音である。

(そうか、そんな気がしていた)

 と、ピータアは一種の懐しみを潜めて、ドゥミトゥリイを見た。

「では、失礼いたします」

 ピータアが、階段の下の土間が狭いので後手《うしろで》に開けた階下の部屋の板の間が、午前《ひるまえ》の薄陽に静まり、砂がざらついているのを目に入れながら、ドゥミトゥリイは言い、深く顔を伏せた。

 ピータアは素早くドゥミトゥリイと入れ代って扉を細く開け、林作の家の方を確かめると再び体を退《ひ》いて、ドゥミトゥリイを送り出した。

 ピータアは二階に駆け上がると、鋼鉄製の椅子に逆に腰かけ、椅子の背を囲むようにして腕を重ね、その上に顎をのせて、前方を見詰めた儘、少間《しばらく》の間、動かずにいた。ドゥミトゥリイを寄越したモイラの意図が、ピータアの頭には明瞭《はつきり》と映っている。

(俺と向い合わせることによって、ドゥミトゥリイの胸の火をあおり、一方、ドゥミトゥリイを自分の前に立たせることで、俺の胸の中に疑惑の一滴を滴らせようとしている。モイラはドゥミトゥリイと俺が一度、海で会っていることを知らない。だが俺が一目あの男を見れば、彼の胸の中にも自分が居ることが俺にわかると知っているのだ。遠眼だがあの、夫らしい男は、顔は立派だが妙に宗教の匂いがある、退屈そうな男だ。それでモイラは俺を想い出したのだな。ようようのことで俺は俺の行く手に、透明な世界を見るようになって来ていた。昨日《きのう》の夕方までは……、俺の胸を灼く苦しみを越えて、肉慾の火を越えて、俺はそいつを捉まえることが出来そうに思っていた。俺の透明な世界は、だが既うお終《しま》いだ。どうにか、その世界に行き着いて、そこに住みつくことも出来ないことではなさそうに思えていたのだ。今、既う俺は駄目になっている。モイラの試練を除《よ》けるのには俺は若過ぎる。精神も。肉体も。……今、俺の胸の中にはもう、あの男の掌によって熟したに違いない、モイラの体への好奇心と慾望が燃え上がっている)

 ピータアは眼を一点に据えた儘、胸を探り、赤銅の十字架を鎖ごと手繰り出して掌の中に固く握り締めた。

(モイラの思い通り、あの男を見たことによってモイラの誘惑は、麻薬の十ミリ瓦《グラム》位は強められた。だが……)

 ピータアの十字架を握り締めた掌が無意識に、弛んだ。

(密かに男を寄越しているが、いざとなればあの父親が手を貸すのは知れている。アリバイは堅牢だ。手抜かりのある筈はない。ことを始めるのに、父親が加担する筈がないのを知っているので、今のところは秘密にしているだけのことだ。モイラをあの父親から掠奪することが出来ないのはあの宗教の匂いのする男だけではない。胸の奥に火を点けられて、燃え上がって、狂い廻っているこの俺は何なのだ。モイラの父親の、あの微笑い。あの微笑いには、何かがある。清潔《きれい》な、父親の微笑いだが、それだけではない。あの男の奥底には何かがある。深い、不思議がある。永遠に交接のない父と娘との間柄。その中にあるもの。魔の影……清澄な蜜を容れた壺)

 ピータアの掌は再び固く十字架を握り締め、無意識のように脣に持って行き、歯の間に挟んで、噛み締めるようにした。ピータアは眉根を顰め、眼を床の辺りに落した儘、凝となった。精神が眼に集中したように、両頬から脣元の辺りは弛緩して幾つか年を取ったように、見える。恐ろしい眼だ。モイラがそこにいたなら、体も表情も、なにかに縛りつけられたように動けなくなるに違いない、恐ろしい眼だ。やがて気持が鎮まってくると、ピータアの頭には暗い土間に立っていた、ドゥミトゥリイの姿だけが、残った。ドゥミトゥリイが、モイラへの火を抑えて来て、今も、これからも、抑えて行く男だということを、ピータアは一昨年の夏、海で出会った時に、悟っていた。彼が蹲《うずく》まるようにしゃがんで、砂の上に何かを書いている姿を見た瞬間から、わかっていたのである。

(モイラ……あの魔は父親のものだ。……)

 ピータアは凝としていた。長い間。厳しくひき締まった脣の辺りに殆どサジスティックなものが窺える肉情の影が、内側から滲み出て、貝のように閉じた脣の辺りにくぐもったように、出ている。

 その日、今少しで陽の落ちる頃、ピータアは、砂を蹴って海に出た。沖へ出て長い間、抜き手を切っている内に水を切る脚が重く、腕も疲れて来た。遠く、もう父親と母親とが帰っている筈の家と、林作の家の二階の窗に燈火《ひ》が見え、林作の家の砂丘には人影のようなものが動いている。幾らか危険を感じたピータアはゆっくりと仰向きになり、弛く手脚を動かして少時の間体を浮かしていた後《あと》、注意深く岸に向って泳ぎ、ようよう岸にまで辿りついた。砂を匍うようにして、岩の影に俯伏せになった。その岩に腰を下ろしていて、そこで始めてモイラを見た岩だ。心臓の鼓動が速くなっている。少間経って横向けに伏せていた頬に砂をつけた儘、ピータアは立ち上がって、暗い砂の上を林作の家に行く坂道へ、歩いた。砂がまだ熱い、掌で頬の砂を払いながら俯向き勝ちにピータアが、四つ目垣のある別荘の脇に差しかかった時、砂の上に卓子《テエブル》を出して夕食を摂っている林作達が、薄暗い中に鮮やかに、眼に入った。額の辺りが眩しい。それは此方《こつち》へ来るやよの掌の洋燈《ランプ》の光だった。ピータアに背を向けているモイラの夫らしい男は気附かぬようだったが此方に向いていた林作と、横向きのモイラが、ピータアに気附いた。モイラはピータアが気附かぬ先に見ていたようだ。脣を両端が窪むほど結び、魔のような眼をした顔が洗ったばかりらしい、波打った髪を厚く被《かぶ》ってピータアを見た。ちらと眼に入った、白い透いた洋服を着たモイラの露出《むきだ》しの腕が、一昨年の夏と異《ちが》っているのをピータアは眼に入れた。まだ固いなりに熟した香いがある。此方の肉情に絡みついてくるものが強くなっている。胸から腰、脚の肉附きが忽ち空想の中で、ピータアの火を煽《あお》った。

(千葉に招《よ》ぶこと以外に天上をもてなす遣《や》り方が、一寸なかった。料理屋には一度招んだが、夏は暑い……)

 林作は、明らかに新しく火を点けられたピータアを見て、想った。まだ二十六歳である。恋の苦悩が顔を老けさせてはいたが、ストイックなピータアの体はまだ嫩い。

(癇の立った嫩い馬だ。何かあったのだな……)

 と、林作は思った。林作のその眼も、どこかで掬《すく》い入れ、ピータアは足速に通り過ぎた。モイラはピータアの中に、今までになかったものを見た。自分の遣《や》ったことがピータアをそうしたのだ、とモイラは想った。一瞬の内に顔を背けたピータアの横顔は禿鷹のように恐ろしい眼をしていた。モイラは男というものが、自分を好きになる時、恐ろしい顔になることを、幼い時に既に知っている。ドゥミトゥリイの部屋の壁際に蹲まって、自分を見た男の恐ろしい顔が、自分を女のようにして見た男の、最初の顔なのだということをモイラは、ピアノの教師のアレキサンドゥルの顔を偸《ぬすみ》みた時に、知った。アレキサンドゥルの恐ろしい顔を偸みたモイラは腰をもじもじさせた。帰りたくてならなくなったのだ。するとアレキサンドゥルは厳しい顔になってモイラの指を直し、同じところを幾度も繰り返させて、モイラを傍から離すまいとした。

(男はみんな、そうなんだ)

 ピータアを見たモイラは直ぐに眼を伏せて、平目の腹子《はらご》を煮汁をつけて、脣に入れた。

「モイラは平目なら食うのです」

 林作が天上に言った。洋燈《ランプ》の赤らんだ火影に浮んでいる天上の顔には、何かを悟った色があった。

「そうのようですね。又これはひどく新鮮で結構です」

 天上のモイラを見遣る目には例によって、宗教の匂いのする柔《やさ》しさが、あった。苦しみを抑えている、優しい目だ。天上がモイラを愛しはじめた時から身についている、目遣《めづか》いだ。モイラは匙を取って野菜|清汁《スウプ》を脣に入れたが、呑みこむと眼をあげて、天上を見た。

 辺りが暗くなって洋燈《ランプ》が赤い暈《ぼ》けた光を出し、ジ、ジ、ジ、と油の焦げる匂いがした。

「こういう田舎の家というのは実に、いいものですね。私は伴れてくる者もなかったので……どこかに土地を探そう、探そうと思っていながら。磯子というのが無駄遣いをすべて嫌いで、まあ伴れて来ても喜ばないところがあるので」「幸い別荘も二軒あるだけです。この海岸伝いに二丁ほど行ったところに、佐古という友達の別荘があって、モイラは知らないね、モイラの生れてこぬ前だ。家《うち》で牟礼《むれ》荘なぞと、あんな古い舟板の標札代りの額を出したので向うは佐古荘なぞと言っていましたが。今はありません。佐古が亡くなって、家を渋谷の地所に持って行ってしまった。全く夜などは静すぎるほどです。波が荒いので英吉利《イギリス》の西海岸のようでもある」

 食事が終った頃、やよが食器を下げ、冷たい番茶を持って出て、めいめいの前に置き、袖を片手で抑え、洋燈《ランプ》の芯の具合をみた。

「平目が美味《おい》しかった」

 モイラが味方を見る眼で、やよを見上げた。

 やよは一昨年、ピータアのことがあったので、ここに来ているとそのことが想い出されて不安なのだ。彼女は、午《ひる》からドゥミトゥリイの様子が変ったのに、気附いていた。ところへ今|先刻《さつき》ピータアを見たのだ。ドミトリさんは大変に苦しそうだった。それにあのお隣の人も恐ろしいようだった。やよはどこかに不安を隠して、モイラを見た。

「はい……」

「やよは熱心に遣るので上達が早い」

 天上が火影にやよを見返って、言った。

 林作は先刻からそれとなくモイラの様子を見ていたが、この時、情人《おんな》を見る目のようにも見える、細かな劬りの微笑いをやよに、向けた。

 やよは恭《つつ》ましい羞らいを、肥えた浴衣の姿の中に包みこんで、退《さが》って行った。

 天上守安は、さりげなく食事をし、話している間に、たった今降って湧いた不快な気分について、独り密かに思いを巡らさないではいられなかった。

(恐らくモイラの恋人であった若者の一人が……いや、多分今、後《うしろ》を通った男一人だけだろう。モイラは生来の悪魔を持っているが、あまり擦れてはいない。もっともあれは、擦れるということのない質《たち》のようだ。この海岸で知り合ったのだとするとあの、向うに見えている洋館の若者の外にはあるまい。コザックの残党だと言っていた……モイラは憎い程動じなかったが……モイラが平気なのはやはり俺への反抗だ。俺は若い娘には限らないが、女の気に入る男ではない。モイラは恋人のようにしていた父親と、献身的なドゥミトゥリイ……あれも仲々いい男だ。あの二人から離れて俺のところに来て、退屈しているのは明らかだ。だが林作氏は、一寸やそっとのことでは顔色を動かす人ではないが、大分困惑している様子が見える。こんなものが隠れていようとは思わなかった。だが体の関係があったとしても、過去のものとして封じこめられていた事件ではあるのだろう。思慮の深い林作氏のことだ。過去のものとなった関係だからこそ、俺の申込みを受けたのだろう。又過去のものとして葬られた関係だからこそ、詰りモイラが男を捨てた形だからこそ、男は故意《わざ》と通ったのだろうが。いや、そう軽く見てはなるまい。無考えそのものと言っていいモイラのことだ。いつ過去が現在に繋らぬとも限らぬ。しかも父親の困惑は一応の、自分とモイラとの結婚生活の無事を希うところから来るものだ。あの父親自身が、モイラの恋人だ。この父親とモイラとの間柄の方が先刻《さつき》後を通った男とモイラとの関係よりも深いところで繋っているといえるかも知れないのだ。いや、いけない。こういう頭を悪くする問題をこれ以上こね返してはいけない)

 天上は何かを振り落そうとでもするように、心の中で頭を左右に、振った。林作は想った。

(モイラはずっと俺たちの傍にいた。ドゥミトゥリイを遣《や》ったのだな、あの家へ。東京の居所を訊かせたのだろう。ふむ。……)

 林作は心の中に吐息をついた。

 だが林作の困惑の後《うしろ》には、(悪い奴が……)という、今、林作の置かれている位置を離れた、軽い微笑いがある。愛情の揶揄い微笑いである。

    *    *

 モイラは東京に帰りたい様子を見せることもなかった。

 それは、そんな様子を見せれば守安《マリウス》に秘密が露《ば》れるだろうと、思っているというのではないようだ。モイラは、ピータアが垣根の向うを通って行った時、平目の腹子を食ったり、守安を見たりしていたのだが、守安が何かを覚《さと》ったらしいのは感じ取っている。守安はモイラとピータアとの間にあったことも、そうして今から起きようとしていることも、知らぬ。だが、自分の後を、何者かが通った時、モイラの近い過去にあったなにかを、捉《とら》えた。モイラと、後を通った人間との間にあったものを、少なくともその出来事の影のようなものを、守安は捉えた。そうして、その男が、隣の青い家の若者であろうということも、いうに言えない微妙さの中で、覚らざるを得なかった。モイラはその時、

(あんなに莫迦なのに、私《あたし》のことで火になっているからわかったのだ)

 と、想った。

 だがモイラは今、守安のことには何の気も、向けてはいない。この三、四日の間モイラは林作といた。林作が傍にいる、という長い間、味わわずにいた時間を持ったのだ。退屈のない時間だ。その明瞭《はつきり》と充実のある時間がもう終ろうとしている。モイラにとって、林作が傍にいる時間は莫迦げた瞬間のない、充足の時刻《とき》である。林作と一つ家にいて、一緒に飯を食い、顔を見ているという、この制限つきの日々は、一日でも長くなくてはならない満足の時間である。林作の、彼が微笑《わら》っていない時でも、彼の浅黒い頬の上を掠《かす》める、微笑いの影が、モイラの胸の奥底を柔《やさ》しい風のように擦《さす》る。その林作の頬を掠める微笑いの影に、モイラは自分への深い評価を、見る。他の誰よりも深いところにある賞美を見る。肉体《からだ》を貪ろうとする狂気のない、それを別なところに置いている、賞味を見る。情人への賞味とは別なところにある賞味、深い感覚を、見るのだ。天上の、昼も、夜も、自分の肉体《からだ》を貪ろうとし軽い咬み傷をつけ、薔薇の中心の、巻きこんだような花弁の中に、花粉をふり滾《こぼ》して触角を埋める蝶のようになる、賞味より以上のものを、見るのだ。モイラは、明瞭《はつきり》と、その間《かん》にあるものを捉えているのではない。だがモイラはどこかでそれを捉えている。

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