饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:15367 字 更新时间:2026-6-23 06:49

 モイラは、ピータアの火には烈しい新鮮な記憶を残している。海岸《うみぎし》にたった時も、部屋の中で、椅子から起ち上がって来た時にも、ピータアには切り立っているような形があった。海岸にいた時には空を、部屋にいた時には部屋に澱む空気を、切りとって立っているようなところがあった。なんでもが要領を得ない、朦朧としたもののあるモイラ自身の内部にも、自分をモイラの神だとしているピータアの、自信のある、嫩《わか》い、自負のある姿勢はどこかで、映っていた。生れて最初の、あの出来事のあった後《あと》で、自分に薄紫《モオヴ》の襯衣《シヤツ》を着せた時、熱い紅茶を飲ませた時の、ピータアの柔《やさ》しさに、林作と同じものを感じとってもいる。だからといって、そのピータアの火に、少しでも早く再び近寄りたいという熱い気持はない。モイラは、何に向っても、活気をもって遣《や》ろうという意慾がないのである。何に、といって考えるということのないモイラである。

 モイラは、夕闇の中で見たピータアに、一昨年《おととし》のピータアと違ったピータアを見ていた。そうして、その違ったピータアに微かな不安を抱いている。前とは異《ちが》ったピータアの烈しさを、垣根の向うを通り過ぎた短い間にモイラはどこかで、感じ取ったのだ。たしかにピータアの烈しさは、もう一つ奥に入っていた。ピータアの慾望そのものが鍛《きた》えられ、練りもののように練られた、緻密なものになっていたのだ。

 ピータアは、モイラを捉まえた、と思った烈しい歓びの頂点で、不意に、横からモイラを持って行かれた。住所《ところ》を確かめずに、ピータアはモイラの鳥を放して遣《や》ったのだ。馬丁がもう来ている、それで帰る、とモイラが言うのをきいて放して遣《や》った時、ピータアは、まだ半ば痺れたような頭の中で、又直ぐにつれて来られるような気がしていた。問い詰める自分の眼から逃れようとして仰向いたモイラに飛びかかって贄卓《にえづくえ》の上にのせた。そうして、モイラが部屋に入った時から頭を奪《と》られていた懶《ものう》い香気の中で、熟するのには間のあるところで|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取った果実を、短い時間で貪り尽したピータアは、一気に脅やかすことを恐れて、再び燃え上がろうとしたものを抑えて、モイラに熱い茶を飲ませ、襯衣《シヤツ》を着せて遣《や》って、劬った。ピータアは、〈ピータアの矜恃《ほこり》〉に賭けて、立派に遣《や》ったつもりだった。だがモイラがもう此処に、一日か二日より居ないのだと言ったのにも係らず住所《ところ》を訊かずにしまったのだ。斑《まだら》のある鳶色の、太った鳥のようなモイラが飛び立った時、モイラが下男が来るので帰ると言ったその男を、見られれば見て遣ろう、それが、それだけがピータアの頭を占領した。そうして二階に駆け上がって、モイラの家を一望に収める小窗に取り附いたのだ。

 狂気のまだ去らぬ状態で絶望に陥ったピータアは、懊悩の中で、耐えた。父親の訓えを守って、毎日疲れるまで泳いだ。ものを考える時間を、滅茶滅茶な、絶え間のない読書で阻《はば》もうとした。だがどう遣《や》っても消し去ることの出来ぬモイラの体の誘惑が、ピータアの精神と肉体とを嘖《さいな》んで熄《や》まなかった。未だ熟し切らぬ、だが誘惑して止まない強い香気に既に果実の成りを見せていた、贄卓の上の処女《おとめ》。怖れていながら、どこかに自分の肉体《からだ》の魔を、知り抜いている女のしぶとさを隠し持っていたモイラの、懶げな、弛い悶え。逃れようとする緩慢な動作。逃れようとするのを抑えつけた体の、脣の下にしぶとい挑みを突きつけた皮膚である。皮膚と脣の間に、もやもやとした薄い、なにかがあった。どこまで触れても完全に触れることの出来ぬ、というような、そういうものが、圧しつける逼《せま》りを持っている皮膚である。体全体に一つの気孔もないような、息苦しい皮膚だ。そこやここの谷間近く、水蜜桃に似た産毛を残していた、まだ稚さのある、モイラという名の恐ろしい誘惑物の記憶は、衰えぬ火のように朝に、昼に、夜に、ピータアの精神を鈍くし、ピータアの体を灼《や》いた。モイラの肉体《からだ》の持つ、恐ろしい火は抜き手を切って何丁も泳いで疲れた肉体の、その疲労の下からむく、むくと持ち上がって来た。書物の中に埋め尽そうとしている頭の芯に、それは絡みついて来た。秋の終りまでピータアは一人、石沼《いわぬま》の青い家に残っていた。

 東京に帰ったピータアは、疲れるまで街を歩いた。小旅行をした。ピータアは互いに黙契を持つ友達を一人、持っていたが、モイラについては打ち明かす気はなかった。だらしのない話だからではない。ピータアは必ず或日、モイラに自分を慕わせて見せると、信じている。ピータアはまだモイラをわかり切っていない。旅行は一人だった。平常《ふだん》は出来るだけ、友達の中にいるようにした。父親の家にいる方が紛れると思うこともあったが、父親と母親に自分の懊悩を見せて、胸をいためさせてはならなかった。やがて二年が経って、モイラの記憶が幾らか薄らぎ、どうかすると火の矢になって体を突き抜けた肉慾の火がわずかではあるが衰えて、モイラに会わぬ前の自分の日々が、〈ピータアの日々〉が、還って来そうに思われる日が、稀にはあるようにも、なった。英訳で『タイィス』を読む、画を見に行く、サッカアをやる。夜の珈琲店で閉店まで友達と駄弁《だべ》る。そんな日々が少しずつ還って来ていた。アルバイトも始めた。モイラを乗り越えた後《あと》に来た、ひどく透明に思われる日々である。〈矜恃《ほこり》を持つピータア〉の日がもう直ぐそこに手を延ばせば届くところに来ていた。ピータアは想った。そうなったら、そうなってから何年かしたら、素直な娘と結婚して母親のタマァラにピータアの子を抱かせる。そうして更に何年か経てば、今もなお体を疼《うず》かせるモイラの記憶も、神の救いで薄くなるだろう。どうかしてそれに何かが触れる時に、鋭い痛みを覚える、その位のところになるだろう。モイラの記憶はやがて一つの、固い、乾いた、小さな傷痕《きずあと》になるだろう、と、ピータアは想い、それを信ずるようになっていた。そこまで自分を持って来ていたところで、ピータアはドゥミトゥリイのノックを聴いたのだ。そこで再び火を点けられて、ピータアは燃え上がったが、その時ピータアは自分の烈しさが、いつか知らぬ間《ま》に練り上げ、鍛えられていることに気づいた。ピータアはたしかに、二年前のピータアとは違っていたのである。

 モイラは一瞬垣根の向うを通り過ぎるピータアを、素早く眼に汲《すく》い入れた。そうしてすぐに横顔を見せたピータアの顔が、人間の外《そと》のもの、とでもいうような恐ろしさを持っているのを見た。砥《と》いだような眼。閉じた貝のような脣の尖端《さき》に、煙のように纏《まつ》わったというか、くぐもったというか、そんな恐ろしい表情が、あったのだ。その表情にあったものがモイラに、変ったものを感じさせたのだ。そのピータアの顔を想い浮べる時、モイラはふと怯《ひる》むのだが、その怯みを押戻すようにして、想った。

(ピータアの心臓は私《あたし》のものだ。ピータアの心臓の中の、女の人を愛する心はみんな、私《あたし》のものだ。ピータアの血だらけになった心臓は私のものだ。血だらけにしたのは私だ。ドゥミトゥリイの心臓も、アレキサンドゥル先生の心臓も。いつかドゥミトゥリイの部屋にいたユダのような男の心臓だって……)

 モイラは林作が自分の乞いに応えて、独逸語の訛りのある仏蘭西語で読みながら、丁寧に訳して聴かせてくれた一つの詩を、想い出していた。"Y, avait une fois un pauv gas" で始まる、南部地方の方言の、それも俗語ばかりで書かれた詩である。自分を愛していない女から、「お前のおっかさんの心臓を取っといで、あたしの犬にやるんだから」と言われた若者が、母親の心臓を切り取り、それを持って走って行く途中で転ぶ。心臓が道を転がりながら「怪我はなかったかい、お前」と言う、というところで終る詩である。それを聴いた時モイラは、自分はその若者が母親の心臓を切り取ったようにして、男の心臓を幾つだって取ることが出来る、と心に想ったのだ。林作はモイラの心に浮んだものを素早く見て、軽く微笑い、モイラは見抜かれた者の眼でその林作の顔を凝と、見返したのだ。

 平常《いつも》より一層執拗になっている、だが自分の家でないことで抑えているらしい天上の愛撫の中で、モイラが暑苦しさに耐えていたその日の夜、ピータアは二階の居間で、寝台《ベツド》の上にいた。鎮《しず》めようとして鎮められない不快な想像の夢魔におそわれたピータアは、燃え上がろうとする体を、狭い鉄製の寝台の上に横たえていた。モイラの処女をその上に抑えつけ、獲物を捕えた鷹のように羽を伏せ、荒々しく啄《ついば》んだ、寝台だ。そうしてその後《あと》で傷ついたモイラを、まだ熄まない慾望の火に耐えて看《みと》った、新鮮な屠《ほふ》りの記憶のある鉄の寝台である。俯伏《うつぶ》せに、長くなったピータアは、曲げた右|肱《ひじ》に顔を埋《うず》めていた。額際から一本、一本生え上がったような、黒く太い髪が乱れ、汗を滲《にじ》ませた白い額が、曲げた肱から出ていて、荒い呼吸をしているピータアの苦悩を電燈の下に露わにしている。嫩者の悪習を自分に禁じているピータアは、まだ入院したばかりの苦患僧のように悶え、反転し、仰向けになり、又再び曲げた肱の間に顔を埋めて突伏《つつぷ》した。二年前の、モイラを逃がした当時の苦患が、還って来たのだ。モイラを得た歓びの頂点で奪い去られた苦しみが、何倍かのものになって重来したのだ。

    *    *

 モイラは、海を見渡す砂丘に続く砂地の庭に籐椅子に掛けていた。脚を開き気味に懶げに投げ出し、先刻《さつき》からむっと黙っている。ピータアを見た日の翌日の午《ひる》である。

 二日前から、一丁程離れた裏の川に舟を出して四十八《よそはち》に釣をさせようということに、なっていた。そうして捕れた魚で夕食の食卓《テエブル》を賑わそう、ということになっていたのを、今になって行かないと言い出したのだ。林作の家や疎《まばら》な松林のある砂地が中洲になっているので、石沼川というこの川には海水が混入していて、夜なぞ舟を出すと小さな鰺が水面に跳ることがある。捕れたてのを生姜《しようが》を薄く刻み入れ、酒を利《き》かせて煮附けたものを林作は好んでいる。モイラも、林作かやよが毟《むし》ったものなら、魚もよく食うのだ。もう翌《あく》る日は帰ることになってもいるし、林作はこの川遊びを天上へのもてなしとして最初から考えていたのである。この日は朝の地引網でいい海老を分けて貰えたし、昼前に川で蜆《しじみ》を捕って来ていた。冬瓜《とうがん》もあったのでやよは海老を塩の鬼殻焼きにし、蜆の味噌汁と、冬瓜を小さ目の海老と薄い葛《くず》びきにして煮、早い枝豆の塩|茹《ゆ》でなぞで夕食の献立てを考え、林作にも相談していた。最後の夕食であるし、そこへ鰺の煮たものも加えようと、林作は思ったのだ。

 モイラがこういう風に、むっと黙ってしまうと、最低四十分は誰の手にも負えない。このモイラの状態は、十三歳の初夏、朝食の時に突然に起きた。これが三度目で、結婚してからは最初である。最初の時には十三歳だったので、林作は少女期の、体の変化が原因なのではないかと思っていたが、次の日になってやよがモイラに初潮のあったことを報らせに来たので、やはり原因はそれだろうと思った。そうして、やよの様子を見て、やよが母親の心でモイラに附いていて、そんな場合の気遣《きづか》いも深い心でしていたことを、改めて林作は知った。辻堂の百姓の娘であるやよは、語彙を多く知らぬので、妙な俗語しか知らぬらしく、(旦那様にどう申上げたらよいだろう)と思ったようだ。林作は必要上、モイラの母親の役もせなくてはならぬのではあったし、林作の場合、彼はモイラとの間に特別なものがあったので、その朝ノックをして入って来たやよを見た時、直ぐに、それではないかと思ったのだ。やよは恭《つつ》ましく立ち、俯向いて一寸口籠り、唯、

「旦那様……モイラ様が今朝から……」

 と言って黙り、林作を見た。林作は、

「ああ、有難う。よく気をつけて遣《や》っておくれ」

 と、応えた。

 林作もやよに、それについて言おう言おうと思ってはいたが、やよは心得ていてくれると、信じてもいたし、やよのような娘には言い難《にく》くも、あった。林作はそれより前に、少女期の体の変化については医学書を購《か》って来て、それを見せながら、女の体の変化について、その理由についても、モイラによく話して遣《や》っていた。林作は自分より他にモイラに対《むか》って、危険なものなしに、過不足のない、清潔《きれい》な情緒の中で sex について話して遣れる人間はないと、信じていた。友達の中に、偉い医学者につて[#「つて」に傍点]を持っているのもいたが、自分が遣るのが適役だと、林作は信じたのである。モイラは林作の膝に凭《もた》れ、眼を一杯に開《あ》いて聴いていたが、話が深いところに行った時、愕《おどろ》きと恐れを現わしはしたが、それは特に顕著なものではなかった。予知していて愕かぬのでもない、鈍いのでもない、どこかで、何かを予感していると言うか、大体にモイラはおどろかぬ子供である。林作は改めてモイラの中にあるものに、眼をあてた。又モイラは赤ん坊というものに興味がない。興味がないという以上に、それについて一種の拒絶反応を示しているのを林作は見た。自分が持ってみないでも、なんとなく面倒だ、うるさい、と思って嫌うのでもない。そういう所が、よくある子供嫌いの女とは違っている。赤ん坊とモイラというものが、全く無縁のものであった。そんなモイラはピータアの部屋で、恐ろしい眼で見据えられ、林作との間にあるものを問い詰められて、嫉妬の狂暴で飛びかかられ、殆ど犯された、一昨年《おととし》の夏の出来事の後でも、或は子供が、という頭は全く無かった。不安を持ったのは林作とドゥミトゥリイと、やよであった。

 だがモイラのその状態はその後《あと》にも又起きた。最初の時に林作が、不機嫌というより、中に籠ったものが蒸し出された一種の状態の可哀らしさに負けて、会社を休んでまで機嫌を取ったので、それが癖になったところもある。林作はそれをモイラの、常時の甘えがふと、どうかした時に抑えられなくなるのだと見ていて、つまり甘えの爆発というか、甘えの急な奔流、モイラの場合は奔流というより濁流だが、そんなものと見て、心配する程のものでもないようなので放って来た。だが、一方で、モイラの様子はひょっとすると、軽微ではあるが医学的に何かの名のつく症状なのではあるまいかと、思う気持がないでもなかった。その疑いは最初の時にも、林作の頭に萌してはいた。そういう時のモイラの眼が、陶酔《うつとり》となったようになるからである。それは、亡くなった繁世の話も原因していた。繁世の母親のあきに、稀にだが一二秒意識を失くすることがあったと、繁世が、林作に打ち明かしていたのだ。モイラを姙娠した時のことである。あきのその状態が来るのはごく稀であって、軽微なので、夫であった重臣《しげおみ》と、あきの実家から附いて来た彼女の乳母と、それとひどく鋭いカン[#「カン」に傍点]を持っていた一人の小間使いとが、気附いていただけで、生涯誰も、彼女が異常だということを知る人間はなかった。小間使いのりんには口止めをしたが、それは殆ど不必要だった。りんはあきと気が合っていて、二人は主従というより友だちになっていた。りんは嫁に行くので暇を取った時に重臣が、ひと重ねの外出《そとで》着の他に箪笥を購《か》い与えた時にも、ひどく困惑を現わし、身をすぼめるようにして幾度も辞退をした。郷田の家では嫁入りが理由で暇を取る召使いには外出《そと》着をひと重ね与えることが習いになっていることを、りんは知っていたからだ。あきは人と話していて、時に小一秒、長い時には一秒を越すこともあった。そんな時、ふと心がそこにないような眼差しをすることがあって、それを重臣は傍《そば》にいて見ることがあったが、相手は瞬間おや? という顔はしたが、不審を起こす間《ま》もなかった。それも年に数える程の回数であった。それを繁世が林作に話したのである。林作はそれで、誰かに訊いてみなくてはなるまいと思っていたが、心を許している友達の米内《よない》が、家族ぐるみ親しくしている本田という神経医のいるのを思い出して、米内を通じて本田に訊いて貰った。本田の言うところによると、繁世の母のはごく軽い癲癇《てんかん》らしいがモイラのは、見たのではないので明言は避けるが、単なるヒステリィだろうというのであった。だがその後も又起きた時の様子を見て林作は、或は、と思わぬでもない。そうであったとしてもあきより軽微である。遺伝だとすればかなりの劣性遺伝だろうと、林作は思った。酷《ひど》くなるようなら、天上には言っておかなくてはなるまいと、林作は思っていた。天上はモイラを溺愛しているということを別にしても、それをきいて一も二もなく、モイラを病人であるとしてどうこうというような考えを持つ人物ではないということを、林作は知っていたからだ。

 モイラは黙った儘だ。二つの大きな眼は熱のある子供の眼のように陶酔《うつとり》と、据えられている。いつもの癖で右掌を弛い拳固《げんこ》にして脣にあて、しゃぶりついているように見えるのが、ひどく可哀らしい。

 春の昏い空か、恐ろしげな樹の梢か、或は又、薄暗い中に蹲《うずくま》る犬か、そんなものを眼に映しているような表情が殆ど、動かない。尖らせ気味に膨らんだ脣が弛く結ばれている。執念深い怒りをひそめ、何を呉れようと、誰がなんと言おうときかない、と言っているような眼を据えたモイラを重い、もやもやとしたものが包《くる》みこんでいる。見ていると、モイラの体の内部から何ものかが、もち上がっているようだ。その不透明な、どうにもならぬものが辺りに滲みでている。モイラの体から発する香気も強くなっているのではないかと、思われるところがある。皮膚の艶も、女の薬指ほどになった蚕のように潤《うる》みを出して来ているようにも、思われる。我儘と甘えの固まりが急激に膨れ上がって来て、モイラ自身にもどうにもならなくなっている、それだけのことだろうと、そう思ってみても、どうもそれだけではないような気がしないでもない。林作はそんな時のモイラの、その状態のために強くなる、惹き込むような力に、眼を止めていた。それは太り切った蚕の、内側から発してくる鈍い光のようなものだ、その不思議な惹く力にさり気なく眼をあてていながら、微かな不安が、まだあった。

「モイラ。どうしても厭か? 四十八《よそはち》は畑の仕事を休んで来てくれるのだから、止《や》めるなら早く断りに遣《や》った方がいいが。四方吉《よもきち》は他所《よそ》の畑に手伝いに行っているのだ。モイラは舟に乗りたいと言っていたろう?」

 その時、底で何かが動いた水の表面のように、モイラの眼がどこか動いたように見え、幾らか哀愁のようなものの混りこんだ表情が暈《ぼんや》りと、出て来た。膨らんでいた脣が引き締って、両頬に窪みを造ったのを林作は見た。微かだが気分は好転している。モイラの様子が大分前の時とは異《ちが》って、柔らぎ易いようなのを見て林作は、あきの異常の遺伝ではあるまいかという、日頃の不安が薄らぐのを覚えた。

 林作はモイラの、幼い時から見ていてなお、その度に逼るものを出してくる可哀らしさに眼をあてていた。

(可哀い奴だが……亜米利加《アメリカ》の、誰のだったか、あの『悪い種』だな。モイラはあの娘よりは上等だが……生来魔を持っている。それは俺の……だが俺の場合は常識に従っていることが出来るが。……俺は見合いで繁世を貰ったが、愛していたとは言えない。愛していると、言って遣《や》ったのは劬わりだが欺いたのだ。モイラが生れて、少し大きくなってからというもの、俺はモイラのものになった。俺とモイラとの間に、想いもしなかった関係《リエエゾン》が生れた。モイラを生むと同時に死んだのはあれの倖《しあわせ》だった。俺の恋人に乳を遣《や》って醜くなって行くのがあれの役割だったのだ。だが俺とモイラの倖は同時に、他の男の不倖《ふしあわせ》に繋がった。ドゥミトゥリイが最初だ。ピアノの教師、ロシアの青年、そうして天上君……どれも稀な秀れた男たちだが。魔がないのだなあ……)

 林作は心の中に呟いた。

 天上は先刻《さつき》からモイラを見ていて、常にモイラの、気分と体との中にある解明出来ぬものに絡めとられている自分の、モイラへの心持が、今又一段、深みに嵌ったのを感じた。立っていた足元の砂地が、突然柔かくなって、一歩足を深く踏み入れた……そんな、これまでに覚えたことのない心もとない感覚の中で、天上はこれまでにも、胸のどこかに閊《つか》えていた黒いもの、林作とモイラとの間にあるものが、胸一杯に雨雲のように、ひろがってくるのを覚えた。

(林作氏とモイラとは眼には見えぬところで密着している。……この俺の胸の中にあるものは、この俺の胸の中に閊えているものは、何時になっても消えることはあるまい……)

 天上は暗い気分に陥って行くのを強いて、耐《こら》えようとした。

「あんなになるのは殆ど稀なのです。家にいる間に二度、あったのです」

 はじめてそういうモイラを見たらしい天上に、林作が言った。

 大体モイラは、平常《ふだん》からあまりものを言わぬ娘である。モイラには明瞭《はつきり》したところがなくて、機嫌のいい時でも、不機嫌かと思うような様子をしている娘で、こんな風になっている時と、そうでない時との境界があまり明瞭《はつきり》しないところがある。

 林作は、モイラを少間《しばらく》放っておいた方がいいだろうというように、海に眼を遣《や》った。充分に晴れてはいないが、海は深い青に凪《な》いでいる。

 天上は眼を上げ、海に眼を遣り、低く言った。

「海は深さが色に出るような気がしますね。モイラの色です。モイラは海だ、といってもいいでしょう。こういうものを、……こういう不思議なものを、それがだんだんに育つのを、貴方は傍にいて……深いところで、見ていられた。今からでも、それは……羨ましいような気がします……」

「たしかに面白い子供です。一人娘で、僕も生甲斐にしていました。だがどうにもならぬ我儘者で、貴君にはすまないような気がしています」

 林作は天上の言葉に、胸に応えるものを覚えたがさり気なく応えた。その言葉は、悪い雲行きを避けようとする賢さと劬わりの善意から出たものではある。だが同時に、この男の、こういう場合の言葉の中に、含まれないではいない苦い棘は、あった。そうしてその棘は天上の胸を、刺した。

 モイラの、行きたくないという意志が、空に映ったかのように、疎《まば》らな松の群と砂丘の上に重い雲が見る間《ま》にひろがって、雨が来そうに思われた。

 吸いよせられて、そこから動かぬ天上の眼と、モイラの勝利だな、という揶揄《からか》い気味な気持を含んだ林作の眼とが同時に、モイラを見た。モイラはそれに気づいているのか、気づかぬのか判然しない。天上が感情を抑えられずに洩らした苦い言葉にも、気づいていない。モイラはまだ甘く、暗い情緒の中に入り込んでいる。

 モイラの眼がふと、ピータアの家の二階の方に動こうとして、すぐに元に戻った。モイラはピータアとの近い出会いを思い出したのだ。ピータアの部屋にいた午後が、今のような暗い空で、あったからだ。モイラの眼が、ちらと林作の眼を掠めてから、元に戻ったのを見た天上は、機嫌の直り際の眼の動きが先ず林作に流れたのを知って、暗い眼をモイラにあてた。林作は見ていて、モイラのこんな状態が、モイラを、無意識なエロティシズムに誘いこむものになるのを、知った。

 釣りが三時にかかってはと思って、弁当のサンドウィッチを用意しようと、台所の板の間に膝をついて、胡瓜を洗っていたやよは、頸を捻ねって空を見上げた。チカチカ光っていた空が暗くなっていて、湿った風が吹き入ってくるのに、やよは俄かに心もとないような気になって、昨夕《ゆうべ》、夕食の最中に起きた不安から続いている胸騒ぎを、覚えた。

(モイラ様がなにか……あのお隣の人と……)

    *    *

 天上がモイラとやよとを伴れて招かれていた石沼《いわぬま》の四日間は、天上をモイラの中に又一歩、踏み込ませると同時に、得体の知れぬいやなものを、田園調布の家に持ち帰らせることに、なった。

 砂地の庭に卓子《テエブル》を持ち出し、洋燈《ランプ》を点《とも》した楽しい夕食の最中《さなか》に、林作とモイラとが表した微妙な様子を、天上は忘れることが出来ない。暗い夜の、洋燈《ランプ》の揺れる火影にみた、それは悪い夢のようなものである。二人のそれぞれの微妙な反応は、自分の背後《うしろ》を通ったのが嫩《わか》い男で、モイラの過去に関わりのある人物だということを、示していた。関わりも、肉体にまで絡んでいるものだということを、二人の様子は示していた。林作に現れたものは特に微妙で、何の変った様子はない。その男を見て、林作が何を思ったのか、何を考えたのか、誰にも測り得なかった。その男を明瞭《はつきり》眼に止めたのか、見なかったのかも、判らぬ。だが様子の奥に困惑があったように、天上には感じ取られた。唯林作が、そういう人物と顔を合せる機会のある土地に、自分を招待したということが、天上のような男には理解の出来ぬことである。天上は、モイラが石沼に行ったのが幼い時と、一昨年《おととし》との二度切りであることは、きいて知っている。だが男が隣の家の青年であるとすると、彼は、露西亜の男だ。彼が、露西亜の男であるということが、天上を強く刺戟している。それが嫉妬の針を一層太く、鋭く、耐え難《にく》いものにするのだ。

 それに加えて天上は、モイラの異常な状態を見た。その、我儘という、もや、もや、としたものが凝り固まって、どうにも解けなくなったような状態を具《つぶさ》に見た。そうしてその状態が、ふと崩れて、恢復の萌しが出て来た時、モイラが、その微妙な動きを、まず林作に受けとらせていたのを、天上は見た。林作が、これまでにそんなモイラを何度か見て、馴れていたとはいえ、モイラの感情が一点に凝固したようなのを、ほぐす遣り方といい、モイラの、その状態の中での、林作との間にあった緊密といい、それらも天上を、強く刺戟せずにはいなかった。モイラは自分の家に来て、まだ二年にはなっていない。当然といえばいえるのだが、天上はこの林作とモイラとの緊密を、深く胸の中に受けとり、生来の鬱的な気分を、深めた。

 天上は林作の手からモイラを受けとった時、林作とモイラとの、永い月日の中でモイラをその中に包蔵し、包《くる》みこんでいた、父娘の愛の圏内を越えているかのようにさえ見える、情緒の世界は強いて想わぬようにしていた。そうして、自分とモイラとの間に新しい愛情の日々を築いて見ようとした。それが、何処まで築くことが出来得るか、そうしてそれを何処まで持続させることが出来るものかは未来の、不明なものとはしていながらも、どうにかして、築いてみようとしていた。そうしてその月日の来ることを希《ねが》い、その月日の永いことを希っていた。その月日の永いことを、信じようと、していた。

 だが、石沼から帰る車の中で、平常《いつも》の状態に戻ったモイラが、酔っている男のような、懶げな凭《もた》れ方で寄りかかるのを、肩を抱いて支えながら、その月日はまだ、来ているとはいえぬのだ、という想いに捉えられぬわけには行かなかった。想いたくない。想うことは苦痛だが、そう想わぬ訳には行かない。モイラと自分との間にあるものは仮の愛だ、と、思わぬわけには行かない。その仮の愛の日々ももう、あまり永いことではあるまいと、天上は想わぬ訳には行かない。そうしてその想いは、彼を暗い、厭な場所に引き入れて行くのである。止めることの出来ぬ力で、もう二度と、それを知らずにいた元の自分に戻ることは出来ぬ、という、諦めを、噛み締めねばならぬ場所へ、その想いは彼を伴れて行くのだ。天上の思考は頭のよくない男のそれのように、同じところを堂々めぐりをするのだ。自分の後《うしろ》を通って行った、モイラの恋人にちがいない嫩者《わかもの》を眼に入れながら、全くさり気ない様子をしていた林作の頭に、どんな想いが浮んだのかはわからぬが、その瞬間の林作の眼遣いを今想い浮べて見ると、何故か、その嫩者が秀れていて、美貌であることが感じられた。

(コザックの残党の息子……美貌の露西亜青年……見ないでもわかる)

 天上は心に呟いた。モイラの反応は鈍い、ふてぶてしいものだったが。モイラ自身も知らぬところで、なにかに蒸されたように出てくる魅惑に、自身乗せられた恰好だった。モイラはいつものモイラであったのに過ぎない。だがそれだからこそ、モイラは恐るべき誘惑物なのだ。一度手に入れた者は何度でも、再び手に入れようとして取り返しに来ずには、いまい。

 どこかに夜の蛇性をひそめている、だが温和な眼を、天上は運転台のドゥミトゥリイの背中にあてた。頭蓋骨の前頭部の形がその儘に出ている賢気《かしこげ》な額、小高い眉骨から秀でた鼻梁、苦いものを噛み締めている脣《くち》もと。窃《ひそ》かに、林作とモイラとが視当てているように、恋には疎《うと》い性格だが、鋭い賢明を持っている天上の、古い英国の領主のような貌《かお》は、幾らかの窶《やつ》れを見せてドゥミトゥリイの逞しい背中を見た。ドゥミトゥリイの背中には密かな緊張がある。まだ嫩いからだろう……塩を入れた後《あと》を、充分に煮立たせない肉汁《スウプ》の辛《から》みのように、不安が生《なま》で出ている。(この男もモイラの捕虜《とりこ》だ……)天上は又胸の中で呟いた。ドゥミトゥリイは生な辛味《からみ》のような不安に耐え、それを押し包もうとしている。ドゥミトゥリイも、天上の賢明を、知っているのだ。

(石沼の家で、自分の後《うしろ》を故意《わざ》と通って行った、モイラの恋人らしい嫩者と、モイラとの繋がりについて、疑いを抱いている俺に、この背中は、凶《わる》い想像をさせる。そうして、その俺に取って不快な、過去の繋がりを、現在《プレザン》形に移行させようという意志が青年にも、モイラにも、あるのだという厭な予感を、この背中は俺に受けとらせる。俺に取って黄泉《よみ》の闇の中にあるもののように凶《ま》が凶《ま》がしい、守らなくてはならぬ道徳から言っても凶《わる》い出来事が、近い未来に起きるのだということをさえ、この背中は予知しているようだ……)

 天上は、右の掌の中に包みこむようにしているモイラの裸の肩の、まだ固いにも係らず挑むようなしぶとい肉づきが、モイラと、あの嫩者との繋がりへの幻想に生々しいものを加えるのを感ずる。モイラの育て方が異常なほど甘いので、逃亡者の息子である露西亜青年との結婚は林作にとって、思いも寄らぬことだったに違いない。林作は引き離す方に持って行ったのだろう。もっともモイラ自身は、その男がこの世で最初の男だろうと、又、それが美青年であったとしたところで、彼に執着を持ったとは考えられぬ。モイラには、執着というものが無い。モイラの心理というものは、〈女の謎〉なんという諺以前のものだ。不安定極まるものだ。一刻、一刻の気分で、どんな方向にでも行く、意志というものすら無いように見える。言ってみればモイラというものが一種の下等動物のようなものだ。多分、子供が掌に持った玩具を何となく掌から離したようなものだったのだろう。俺の眼を盗んで、あの嫩者と再び会うことを始めたとしてもそれが、悪事だという意識は無いのだ。その、自分の遣《や》ったことが俺に対する精神的な殺人だ、ということも明瞭《はつきり》とは意識はすまい。精神病者が、靄のようなものの向うに、なにかを意識するような、漠然としたものなのだろう。殺人を犯したとしても、罪の意識は無くて、あるのは血の恐怖だけなのだろう。モイラの、ものに動ずるところが無い気質を、天上は最初に教練場で見た頃から見ていたが、最初の夜のモイラにも、それがあった。経験がある体だ、というのとは違っていた。たとえるもののない、微かな湿り気のある温度の低い皮膚と、その香気に自分がつい、烈しさと残虐を現した時、恐怖して逃れようとはした。だが最初に男に抱かれた処女《むすめ》の、不様な羞恥が無かった。痛みは訴えたが、おどろきはしないのである。その時天上は、一度や二度の経験では痛むこともあるのではないかとも考えたが、得難い女を手に入れた男の常で、無意識の内にいい方に考えていたところが、あった。

(ドゥミトゥリイはたしかに、何かを怖れている)

 と、天上は、想った。一昨夜から、彼の眼に常時宿っている暗いものが一際《ひときわ》暗さを増していて、それは暗い、というよりも辛い痛みを感じさせる。ドゥミトゥリイだけではない。ドゥミトゥリイの隣にいるやよの背中にも彼女の、ご主人様の前に乗っているのだ、という平素の固い様子だけではないものがある。帯に挟む布製の芯の隠しの中に、その肥えた紅い掌《て》で、一心に押し込んで来た、モイラから受けとったピータアの住所《ところ》書きが、彼女の緊張の原因である。濃い橄欖《オリイブ》色の、外国《むこう》のものらしい古風な蝙蝠傘《こうもり》と一緒に、やよは大きな風呂敷包みを抱えている。真岡《もおか》縮の単衣に、桔梗の模様を染め出した絽の帯を大きな芯を入れて高々と締めているやよは、それだけが他のものと釣り合わない、モイラの亡母の遺品《かたみ》らしい翡翠の簪《かんざし》を、落してはならぬと思うのか、束髪髷《そくはつまげ》の中に埋めるようにして挿している。その後姿にも、天上は秘密の匂いをかぎあてている。そうして自分の理不尽な怒りをやよに対して気の毒に、思うのだ。

 田園調布の家に着いた天上は、門の外に立っていた伊作の笑顔に迎えられた。平常《つね》には固い、全く動かぬような顔が、天上を見迎える時だけにふと、壊れたようになる、伊作の微笑いである。伊作は固い顔を持っていて、あまりもの喜びをしない男である。喜んでいる時でも固い顔をしていて、よく彼を知った人間でないと、彼の喜んでいるということを気附かずにしまう。伊作が、唯一人の肉親である弟の、末吉というのが訪ねて来て、二人で居るのを見ると、一人の時にはそれ程目立たない石塊《いしころ》のような固さが、二人揃っていると二倍か三倍に拡大される。人々は伊作と末吉とが二人でいて、何かしていたり、話し込んでいたりするのを見ると、到底窺い知れぬ固い世界を覗き見るような思いをする。割り込んで行くことの出来ない、彼ら二人だけの頑《かたくな》な、小さな世界を人々はそこに見た。その固い伊作の顔が、弟の末吉を見る時と、天上の眼を見迎える時との、殆どその時にだけ、石が崩壊《くずれ》たかのように、世にも懐かしげな微笑いを浮べるのである。石のように動かない、固い顔。モイラが伊作を嫌う原因は、そこにもあったのかも知れない。だがモイラは茫漠とした顔の下に鋭いものを潜めている。伊作が牟礼《むれ》家に雇われていて、ドゥミトゥリイの立場に立っていたとしたら、モイラは彼の石の顔、石の鼻、石の顎の中に、深い、自分への慈愛を感じ取ったに違いない。

 伊作はドゥミトゥリイが開けた扉から、先ずモイラが下りるのを輔《たす》けて遣り、後《あと》から下りて来る守安《マリウス》を仰いだ。

「お帰りなさいまし、旦那様」

 だが伊作の懐しげな微笑いはすぐに消えて、鋭い眼がカッチリと天上の上に固定した。そのカッチリと開《あ》いた一重目蓋の眼には、どんなに表情の多い男にもついぞない、といっていいような哀しみと柔《やさ》しさとが湛えられた。

(旦那様、何かおありになったのでございますね。わたくしにはわかります)

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