と、その眼は語った。
忠実な、だが口を利くことの出来ぬ犬の、主人の哀しみを悟って、主人を仰ぐ目。そんな目である。そこで四日の間、胸に蔵《しま》っていた天上の憂いが、堰《せき》を破って出たのである。そうして天上自身、思っていたよりも深い哀しみが明瞭《はつきり》とした形をとり、それが自分のものとなって、固定したのを覚えた。自分の苦悩を、聡《さと》くも先取りした伊作の顔を見た瞬間から、天上の憂いは決定した、抜き難いものになったのだ。伊作が素早くも、天上の憂いを先取りしたということは、彼が林作の別荘に、何かの、モイラの過去が隠れているのではないか、という邪推とも言える憶測をしていたことを、意味していた。家まで来る道程の半ばから、空が再び曇っていた。哭《な》くより酷《ひど》い哀しみを底に湛えた柔《やさ》しさで、モイラの肩を抱き、天上は両側に続く、花々がひっそりと息づいている花畑の間を、ゆっくりと歩いて、家に入った。モイラが注文した薄紅い紫陽花《あじさい》は色|褪《あ》せ、薄藍色の萼は薄紫の色を帯びて、薄暗い空の下に、翅を伏せた夜の蛾のように群っている。伊作は天上が、モイラの上に傾け、擦り寄せるようにしている、哀しげな顔をチラと窺い、その眼を伏せ、ドゥミトゥリイと分け合った荷物を提げて、天上の後《あと》に従った。伊作はドゥミトゥリイとやよの様子にある不安なものにも眼をあて、天上の不倖《ふしあわせ》に繋がるに違いない、その不安に対してどのようにすることも出来ぬ自分の無力を、感ずる。伊作はドゥミトゥリイとやよとに茶の支度が出来ていることを告げて、彼等に別れ、自分の部屋に帰った。先刻《さつき》まで、主人を迎える、彼の静かな歓びを現わしていた椅子、その上に置かれた日除け帽が、今はふと湧いた、そこはかとない彼の不安を吸い取っている。
天上守安も、顔の動く方ではない。眼が何かを語っている時でも、頬から脣の辺りは固く、動かない、そんな顔である。モイラは、又固い顔をした人たちのいる家に帰って来た、と思い、幾らか不機嫌になって、やよに直ぐ来るように言い附けると、自分の居間に上がった。そうして、古びた白絹のような薄黄色い薄地木綿に、ドゥロンウォオクをほどこした夏服も脱がずに、寝台《ベツド》の中に転がりこんだ。モイラがこの家に来るや否やモイラを抱きこみ、モイラの悪の温床、罪の培養器となった筐形《はこがた》の寝台《ベツド》は、今日、本間いしによって整備されていた。寝台は敷布に蔽われた、洗ったばかりの白キャラコの蒲団を底に、ふかぶかと盛り上げて、モイラの体を、受け止める。やがてモイラが身じろぎをするにつれて強い紅百合の茎の香気が、木の筐ごとモイラを、包みこんだ。
モイラは石沼を発つ日に、ドゥミトゥリイからピータアの住所《ところ》と電話とを書いた紙切れを、受とった。直ぐにものを失くする自分を知っているモイラは、それをやよに持たせておこうと思い、階段の下でやよと擦れ違った時、拳《こぶし》の中に握っていた紙切れを黙って、やよの懐に押しこんだのだ。
(やよは見て、直ぐにわかっただろう……)
と、モイラは思った。
(ピータアのところへ行く時にはドゥミトゥリイに遣る手紙をやよに出させなくっては。そうしてドゥミトゥリイをやよに家《うち》に呼ばせて、ドゥミトゥリイから返事をきいたら、その日はパァパのところに行くことにして貰えばいい。いつものようにドゥミトゥリイが迎えに来るから、うまく行く……)
これだけのことをモイラは、かなり長くかかって、ようよう考え出すようにして、思った。目は陶酔《うつとり》として、あらぬ方を見ている。ふと、石沼の、夕闇の中で見たピータアの横に向けた顔が浮んで来ると、モイラは我にもなく目瞬《まばた》きをした。
(ピータアは私《あたし》があの時の後、ずっと、ピータアの東京の家《うち》の番地をわかろうとしないでいて、それで結婚したから、それで怒っているんだ。あたしが一昨年《おととし》の時より綺麗になっていたから、そのことでもあんな、顔をしたんだ。あたしが傍に行けば直ぐに一昨年《おととし》の時のようなピータアになるんだ……)
モイラは情人の眼の下にいる女のように、胸から腰の辺りで甘えるように、かすかに、身じろぎをした。
階下《した》の台所ではやよが、ドゥミトゥリイと向い合い、話もせずに、彼の顔をあまり見ぬようにして紅茶を喫《の》み、サンドウィッチを口に運んでいた。早く、モイラ様のお風呂のお世話をせねば、と、落ち附かない気分もある。無論、そのことは、ドゥミトゥリイも知っている。ドゥミトゥリイは浴室の場面を想像の中に描き出すことを避けている。彼は、暗い額を一層暗ませ、塩漬肉《ハム》を挟んだ麺麭を白い歯で噛み切り、冷たくなった紅茶を、味も無さそうに、飲み込んだ。
天上は寝台《ベツド》の中にいるモイラの傍に行って、石沼の夕闇の中であった、不思議な出来ごとについて問い質し、モイラに事実を吐かせて遣りたい衝動を、圧《おさ》えつけるようにして抑え、一人書斎に、入った。
モイラがドゥミトゥリイに宛てた短い、紙切れのような手紙をやよに渡したのは、石沼から帰った日から四五日経った日である。夕飯の前に、やよに手伝わせて入浴をした時に手渡した。手紙は天上が会社に出た後、寝台の中で書いた。その中に、午後の牛乳を運んで来たやよに、預っている住所《ところ》書きの紙を持って来させて同封した。やよは、急いで退《さ》がって行き、自分に当てられた部屋で、手早く取り出そうとして焦りながら帯の後芯《うしろしん》の中から住所書きを出し、跫音《あし》を忍ばせながらも、足早に上がって来た。そうしてそれをモイラに差し出し、モイラがそれを、モイラらしくない素早い手つきで封筒に入れるのを凝と見ていた。モイラは不安と昴奮とで、まだ顔を耳まで紅くしているやよを窺い見た。そうして、思った。
(この手紙がちゃんと、ドゥミトゥリイに届いたって、その手紙の返事を、ドゥミトゥリイが、私《あたし》に言いに、この部屋に来て、そんな秘密なことをあたしと喋ったことが守安にも、女中たちにもわからずに済んだって、それから後《あと》、パァパとドゥミトゥリイが輔けてくれて、あたしが誰にもわからないように、ピータアと会って、その時もなんともなく済んだって、やよがすっかり、安心する日なんて、なかなか来ないんだ)
と、想った。やよは、この住所《ところ》を書いた紙切れをモイラに無事に渡し、その手紙を、お使いの時に、八百屋の並びにあるポストに入れることが無事に済めば、一応、自分が加担している部分の役目からは釈放せられるのを知っている。だが哀れなやよは、このモイラによって、これから行われる恐ろしいことの達成からも、その、その先どうなって行くか知れぬ、事の推移からも、自分は免れることは出来ぬ。どのような小さな役目だといっても、自分はそのことに加担したのだ。と、思った。やよは、自分が加担した、というより、モイラが住所《ところ》書きの紙切れを自分の懐に押しこんだことによって、加担させられたのではあったが、自分の犯した罪から免れよう、なぞと思ってはいない。浅嘉町の家に奉公に上がって、幼いモイラを始めて抱いた時から、このお可哀らしいモイラ様のためなら、ご立派な旦那様のためなら、と、誠実だけが詰まっている、厚い胸の内に固く誓った時から、やよの忠誠はその胸の中から一刻《ひととき》も去らぬものになって、いたのだ。唯、やよは恐れた。
手紙には、ピータアに会って、次の木曜日に行くことを報らせろ、ということが、書いてあるだけである。モイラを見ていると情緒があって、情緒の塊のような女に見えるが、手紙を書くというようなことは殆どない。天上の家に来てから少間《しばらく》して、林作に宛てて書いた唯《たつた》一度の手紙も、短いもので、日常《ふだん》話す時のような稚い言葉が、切れ切れに書かれていただけである。
ドゥミトゥリイはモイラの手紙を受けとり、哀しみを伴う歓びを、覚えた。嫁入り道具の中にあった小さな用箪笥に、林作が入れて持たせて遣《や》った便箋に、深い藍色《ブルウ》インクで書かれた、落書きのような、用事だけの手紙である。丸善の、薄い水灰色へ、同じな濃い色で格子縞《チエツク》のある便箋である。林作の常用のもので、封筒と揃いである。ドゥミトゥリイが何度か、投函を言い附かって、手にしたことのある封筒に入っている。そこに書かれているのは単なるモイラの意志である。だが、そこに、モイラの心が全く無いとは言えないだろう。手紙は平常《ふだん》モイラが自分に何かを命ずる時の口調その儘で、書きなぐってある。それがドゥミトゥリイを打った。自分に向けて、モイラが常に発する横柄な命令が生き生きとそこにあって、それがドゥミトゥリイに、歓びの戸惑いのようなものを感じさせる。ドゥミトゥリイにとってはそれは、モイラの平常《ふだん》自分に発する権柄な、我儘至極な言葉が、藍色《ブルウ》のインクの文字になって定着したもので、あった。
≪ピータアのところへ行って、この次の木曜日にあたしが行くと言っておいで≫
そう書かれた藍色《ブルウ》のインクの字の群は、モイラの顔や姿態がフィルムに焼き附けられたようにして、モイラの自分に命令する時の、様子や言葉が、永遠に自分の手に残るべく、紙の上に定着されたものであった。自分が命令すれば、なんでも遣《や》って呉れる、それがどんなに苦しいことだろうと、決して厭とは言わないドゥミトゥリイだ、という、絶大の自信を持っている、モイラの言葉が、モイラ自身が発する生な声になって、紙の上に躍っている。横着な飼い主と、忠実な犬と、のような、自分とモイラとの関係は、モイラの成長とともに少しずつ変化しては来ている。その関係の変化と一緒に、モイラの残虐はひどくなった。自分の愛の苦悩を知り抜いていて故意《わざ》と遣る仕打ちは、モイラの幼いころからのものである。それは犬とモイラとの間で日常茶飯事になっていて、今も変らぬ。だが、そういうことを遣るモイラに、横着な飼い主の間柄のようなものではあるが、その中に、自分への甘えと信頼とは常に、潜んでいた。ドゥミトゥリイは、(主家の令嬢である)という、絶対に越えることはならない鉄壁の垣根を、モイラと自分との間に、置いていながらも、そんなモイラというものに、心《しん》の臓《ぞう》を絞られるような愛情を、覚えて来た。
ドゥミトゥリイは、父親の代からこの家の林作に、至純の心を捧げている。
(旦那様の大切な宝物である、モイラ様だ。自分の恋心がたとえどのようなものであろうと、表に出してはならない)
と、ドゥミトゥリイは思っている。自《みずか》らの両の掌に鋼《はがね》の枷《かせ》を嵌め、絶えず、自分を抑えていることによって一日、一日と尚更深まって来た。切ない、ドゥミトゥリイの恋心で、あった。ドゥミトゥリイは半頁の手紙を大切に、封筒に収め、大切にしている辞書の頁の間に挟んだ。その辞書は林作が、彼が部屋にいる時間に独学で和文を勉強していることを知って、或年の降誕祭《クリスマス》に購《か》い与えたものである。
ドゥミトゥリイはその夜、林作が入浴の後でブランディイを遣るのにお相伴をしていたが、丁度、モイラの近頃の様子を林作が尋ねた時、モイラの手紙のことを切り出すと、林作は洋杯《コツプ》を置き、黙ってドゥミトゥリイの話を、聴いた。ドゥミトゥリイの想像したように、林作はそのことを予知していたように、見えた。林作は、ドゥミトゥリイに問い質しはしなかったが、石沼の別荘で、ドゥミトゥリイとピータアとの間に、何かの交渉のあったことは察知していた。ドゥミトゥリイの様子を見ていて、そう思ったのである。そこから当然誘発されるだろう、モイラと、露西亜青年との出会いが、林作自身にとって重大なものではないにしても、世間一般にはそれが、いかに重大なことか、ということも、考えていた。
林作は、事が露見した場合の結末についても、考えていた。ピータアという露西亜青年はモイラに対して、完全に火になっている。だが、何度か見かけた彼の様子を見ても、断《き》れ断《ぎ》れなモイラの話に出てくる、彼の部屋の様子、モイラが、ドゥミトゥリイがもう東京から着いたかも知れぬという理由で、急に帰った時の様子などから推《お》し計っても、ストイックな青年である。そこから、馬鹿げた行動は考えられぬ。モイラの青年に対する心持は興味に過ぎない。火のようになって、密会が繁くなる、などということは考えられぬ、と、林作は考えている。ただ、真面目すぎる程真面目な、天上が、そうしてその上にモイラに溺れている天上が、事を知った場合にどうなるか。林作は、天上がモイラの体に危害を加えることは、万が一にもあるまいと、思っている。林作はそうなった場合の究極を想い、天上のいうにいえない不倖《ふしあわせ》を、予知していた。天上の身の破滅をさえ、予知していた。
林作はドゥミトゥリイに酒を注《つ》いで遣り、壜を置くと、籐の椅子に寄りかかり、ドゥミトゥリイを見た。
「仕方があるまいね。当方《こつち》からことをぶちまけて、モイラを引きとる、ということも……理由を言わずに返してくれ、と申出る、その方がいいかも知れぬが……どっちにしても実際には不可能だろう。天上君は行くところまで行く他はあるまい。モイラを、世間の慣習に従わせたことが間違いだった」
ドゥミトゥリイはブランディイの洋杯《コツプ》を両掌で膝の上に支え、俯向いていたが、林作の顔を仰いで、言った。
「はい……」
「俺の考え方にいい加減なところがあった。……どういうことになろうと、モイラにはあまり、影響はあるまい。……あれは仕様のない自然児だ。俺がああ育てたからだけではない。ただ、いい加減だった俺の考え方が、起さなくてもいいことを起すことになったかも知れない」
そこで林作は洋杯《コツプ》を取り上げ、
「ドゥミトゥリイもお遣り」
と言い、林作はブランディイを一口飲み、洋杯《コツプ》を掌に持った儘、ドゥミトゥリイを見た。
「ドゥミトゥリイ。……モイラは俺とドゥミトゥリイとの子供なのだなあ」
林作の顔には暗いものが既に去っている。林作の頬に、微かにではあるが、微笑いの影がある。
ドゥミトゥリイは顔を上げ、不安を抑えた顔で林作を仰いで、言った。
「はい。左様でございました」
ドゥミトゥリイの顔の苦悩の襞《ひだ》の中から、幾らかの明るさが見える。林作はふと、胸を痛くし、ドゥミトゥリイの顔から眼を離した。
林作の顔の上には、平常《ふだん》からドゥミトゥリイだけには隠すことをせずにいる、彼の魔をひそめた、微笑いとまでは行かない一種の表情が、浮んでいる。
ドゥミトゥリイはチラと、その斜め横に向いた林作の顔に眼を遣り、再び深く顔を伏せた。ドゥミトゥリイはモイラによって恋と、苦悩とを覚えた。その後《あと》で林作というものをよく知るようになったのだ。以来、苦悩を抱いて生きている日々の中で、胸の疼《いた》みは疼みとしてその儘にあるのだが、それはそのままで、林作によって、そこに何かの、裏打ちされたものが加わったのだ。俯向いたドゥミトゥリイの顔はよく見えぬが、額に、額に続く鼻梁の影に、モイラを愛しはじめた頃にはなかったものがある。ドゥミトゥリイは何かを知ったのだ。この世に、男と女との恋以外に、恋に酷似した、どうかすると、恋より以上のものがあることを、知った。そうして人間の心の襞の中に魔がいることのあることを、知った。その魔が、林作のような男の場合には、たとえ、神のお許しが無くても、このように、誠実というものよりない、誠実というものより知らぬ自分の胸の中でさえ、許すことが出来る、というより、どうしてか知らぬが好ましく思われるものである、ということを、知ったのである。純粋と、誠実とより無かったドゥミトゥリイの顔に、何ものかに鍛えられたものが、今ではある。
夜の黒い色を透かせて、半透明な水灰色をした窗《まど》硝子が二人の主従を囲んでいる、静かな夜の中で、扇風機が低い唸りをたてて、ゆるく廻っている。二人は少間《しばらく》黙っていた。
ドゥミトゥリイは先刻《さつき》から掌の間に包《くる》むようにして温めていた、ブランディイの洋杯《コツプ》を脣にもって行った。
「この頃は美味《うま》そうに遣《や》るようになったね」
悩ましげな額越しに眼を上げたドゥミトゥリイが、少し微笑った。
「モイラのような奴がいると、ものごとは穏やかには行かない。故国《くに》に帰ったアレキサンドゥルも……あの露西亜青年も……天上君も……」
と、後を言わずに言葉を切り、林作は愛《いと》し気に、ドゥミトゥリイを見た。林作と一緒に暮したために、ドゥミトゥリイだけが大人になったのかも知れない。林作とモイラとの間にあるものを、深く知るように、なったのかも知れない。そうしてそれがモイラの心に、モイラに、心といえるようなものがあるとしてだが、モイラの心という不確かなものに、一歩近寄ることが出来たのかも、知れない。林作も平常《ふだん》ドゥミトゥリイを見ていて、それに気附いているのかも、知れない。続いて父母を失ったドゥミトゥリイを十七の時に引き取り、一つ邸内に暮していた、という親しみもある。そうして、その秀れた気質を愛して来た身贔屓《みびいき》もあるだろうが、林作はどの男よりも、ドゥミトゥリイを愛していた。モイラも、ドゥミトゥリイを頼りにして、育った。モイラの悪い悪戯《いたずら》が、モイラの本質のようなものであることも、今ではドゥミトゥリイは知っている。モイラの持つそういう魔のようなものが、モイラの体の内部にあるものなのだということも、いつからか、ドゥミトゥリイは知っているのだ。
天井に凝としていたらしい大きな蛾が、バタ、バタ、と羽を鳴らして、電燈の廻りを飛び廻るので、ドゥミトゥリイは団扇を取ってそれを上手に、卓子《テエブル》の下に打ち落し、隠しから出した懐紙で包みこむようにして窗に近づき、窗を少し上げて投げ捨てた。
林作はその夜、ドゥミトゥリイが夜の挨拶をして出て行こうとした時、一寸掌で空《くう》を抑えるようにして止まらせて、言った。
「一番の難関は重臣さんだが」
「はい」
ドゥミトゥリイも同じ想いを持っていたのだ。
「今度の繁世の年会だが。それまでは何事もなかろうと思うがね。……モイラと天上君とやよを招《よ》ぼうと思う。もよには何もわからぬから、鴨田に手伝って貰って、その日は頼む」
と林作は言い、心得ております、旦那様、というように頭を下げて出て行くドゥミトゥリイを、愛情深く、見送った。
* *
エンミイが居なくなった日から略三月《ほぼみつき》が経った月曜日の午後、介田伊作は近くの邸町を歩いていた。その日は朝から、ひどく気が鬱してならぬので、煙草を買いに出た帰りに、エンミイを探して歩いた同じ道を、歩いていたのである。白黒のかっきりした眼を、瞬きもせずに据えて歩いていた伊作は、向うから来る男が、自分を見て近づいて来るのに気附いて歩をゆるめた。何処かの家の下男でもしているらしく見える、貧相な顔の男は、伊作を見知っているらしく、近寄ると、言った。
「あんたは鳩を探していた方でしょう? いつかの。三月《みつき》程前に……あれから十日程も経った日でした。鳩が落ちていたんです。夜の白《し》ら白《じ》ら明けで、見つけた時は薄目|開《あ》いてましたがね。とても助りそうじゃなかったんで……丁度そこへ来た近所の者と手当てしてみたんですが、みるみる冷たくなっちゃいました。私《あたし》んところのお邸の隅に埋めたんですよ、ええ」
男は伊作のただならぬ哀しみの色を見て、目の置きどころに困ったようにしていたが、
「どうも……お気の毒なこって」
と頭を何度か下げ、伊作を見返り、見返り、去って行った。伊作は(これは旦那様には言ってはならぬ)と、心に定《き》め、もう歩く気もなくなって、邸に帰った。天上に言わぬと定めたことで、伊作の胸は一層切なくなっていた。天上に告げぬことにする以上は、その男を探し出して、エンミイを掘り出して持ち帰り、花畑の隅に葬って遣ることも、諦めるよりなかった。
その日以来、伊作のモイラを見る眼には鋭いものが上積《うわづ》みされたが、ピータアに会う日が三日後に逼っていて、さすがに不安を抱いていたモイラは、それには気附かずにいた。
木曜日が来て、ドゥミトゥリイはモイラを迎えに行き、浅嘉町の家から本郷通りに出て真直ぐ右へ、農学部の横を左に折れて二丁程行って、石垣と石垣との間を左に入ったところにある、ピータアのアパルトマンに、モイラを伴れて行った。
その前の週の同じ曜日にピータアを訪ねて、モイラがその日行くということは、報らせてある。
ドゥミトゥリイはその日の朝、部屋で目醒めた瞬間も、母屋に行って林作に、これから行くことを言いに行った時も、昨夜の内にブラッシをかけて、下駄箱の上に載せておいた靴を下ろして履《は》いた時、又車を運転して、天上の家に行く途で、すべての時間、胸の奥から疼《いた》いものを取り出し、反芻していた。疼いもの、それはアパルトマンの、燻《くす》んだ水色《ブルウ》のペンキで荒塗りをした、扉を十糎程だけ開けて自分に凝と眼をあて、承知した旨を答えたピータアの眼の、貝のような光である。林作も言っていたように、ドゥミトゥリイは、天上は言うまでもないが、ピータアという青年が、モイラに危害を加える人間でないことを知っている。知ってはいるがピータアのその眼を見た瞬間、刃物かなにかのようなものを、感じ取ったのだ。やよも海岸で一度、遠いところからピータアを、一生懸命に見詰めて、ピータアの人格というか、やよはそんな言葉で考えたのではなかったが、ピータア青年の持っている確かさ、のようなものを感じ取り、そうして胸を撫で下ろしたことがあったが、ドゥミトゥリイは海岸で最初に見た時を入れてその日で三度はピータアを視ている。それでピータアの持っている立派だと信ずることの出来るものを、ドゥミトゥリイはよく知っているのだが、その時のピータアの眼はたしかに、ドゥミトゥリイを愕かせた。塹壕の中から瞬間顔を出して辺りを窺う兵の眼だと、ドゥミトゥリイはアパルトマンの狭い階段を下りながら、想ったのだ。黒い瞳は自分を、斜めの角度から見ていたのだがどうしてか、白眼だけが光っていたように、想われたのだ。
その日ドゥミトゥリイは、平常《いつも》、モイラを浅嘉町に伴れて行く時と同じに、天上に会って、礼儀正しく短い挨拶を述べたが、普段着のような夏服で、麦藁帽を手に出て来て、傍《そば》に立っていたモイラの様子に、何処といって変ったところの無いのを眼に入れて、ひそかに、ほっとした。モイラが常になんとなくぼんやりとしていてというよりも、何かを考えているのか、何も考えずにいるのか、それが外側からはわからぬというようなところがあって、そういう場合|小賢《こざか》しく神経を使わぬ女なのが、その場を救ったのだ。女はそんな場合、得てして余分な言葉をあやつるものである。天上はこの頃それが、天上の生来の顔になってしまっている顔なのだろう、どこか暗いものを纏いつけた顔をしていたが、機嫌よくドゥミトゥリイを迎え、
「いつもご苦労だね。牟礼さんによろしく、言って呉れ給え」と言って、ねぎらった。
「はい。申し伝えます」
と言って頭を低く下げたドゥミトゥリイの額の辺りの昏いのも、常時のものなので、天上もいささかの疑いも持たなかった。
ドゥミトゥリイは石垣の脇に車を止め、モイラを車から下ろすと、モイラを先に立てて、狭い、急な階段を上った。上り口から左へ二つ目の扉をモイラに教え、直ぐに背中を見せて、階段を下りて行った。ドゥミトゥリイはアパルトマンを出ると車を運転して、急遽浅嘉町の家に帰った。今までにそういうことはなかったが、天上の家の、どれかの雇人がひょっとして、浅嘉町に来るような場合、奥には通さぬが、林作が家にいて、車がない、ということのないように、車を車庫に戻したのである。伊作が何かを察知して、故意に用事を構えて、遣《や》ってくる、ということ以外に、伊作の訪問はあり得ない。だが林作とドゥミトゥリイとはその、有り得ぬことをも危惧の中に入れていた。モイラが浅嘉町にいる時に、天上が後《あと》から来ることも有り得ぬ。天上が電話をかけて来ることも、例がないことだが、あり得ぬとは言い切れぬすべてのことに、林作とドゥミトゥリイとは心を遣《つか》っていた。ピータアのアパルトマンへは三時間半後に、迎えに行くことにしてある。ピータアにも頼み、モイラにも言い聴かしてある。アパルトマンから浅嘉町まで十分あればよかった。その日は一旦浅嘉町に帰って、実績を造る必要がある。家を出る時に林作が持たせた、独逸製の腕時計を持っているので時間の間違いはない。迎えの車は、それだけの時間を見ておけばいいだろう。不安な気持で一旦、自分の部屋に入ったドゥミトゥリイは、先刻《さつき》見たモイラの眼を、想い浮べていた。自分の身分として言えぬことだと分別して、ドゥミトゥリイは怺《こら》えていた。だがドゥミトゥリイはモイラに、
(この危険な遊びは今日一度で止《や》めて下さい。ドゥミトゥリイにそれを約束して下さい)
と、言いたい心持を、車の中にいる間、抱き続けていた。アパルトマンに着いて車を下《お》り、車の扉を開けた時、ドゥミトゥリイは、寄り掛かっていたシイトから体を起こしたモイラを凝と、見た。鋭い凝視になっていたことが自分にもわかっていた。言わないでも、ドゥミトゥリイの心持を見て取っていたらしいモイラは再び後《うしろ》に寄りかかった儘、ドゥミトゥリイを見た。何時《いつ》見ても可哀くてならないモイラの顔だが、据えるようにした眼には、猛禽のような、だが鳥の眼にしては重い、鈍い光が、あった。|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の辺りがどこか、青んでいる。ドゥミトゥリイは何も言わず、眼を伏せて、モイラを輔《たす》け下ろしたが、伏せた自分の顔を、モイラの不機嫌な眼が追ったのを、ドゥミトゥリイは知っていた。ざらざらと皮膚が寒気立ったような、ドゥミトゥリイの顔を、覗き見るようにしてモイラは見たのだ。林作の他にはやよと、馬丁の自分に気を許している。それがモイラに、自分の、どんなに一寸したことも決して許さぬ、我儘な癇癖《かんぺき》を出させるのだと、わかっていて、モイラが、幼い時から持っていた威厳のようなものの下にある、脆《もろ》さと甘えをも、知っていて、ドゥミトゥリイは、はじめて見るモイラの烈しい不機嫌に胸を衝《つ》かれた。林作にも嫩い時はこういうものがあったのだろう、それは魔の癇癖なのだろう。と、ドゥミトゥリイは、思った。だがその瞬間が過ぎると、ドゥミトゥリイの胸には深い親しみと、愛《いと》しさだけが、残っている。
(モイラは俺と、ドゥミトゥリイの子供なのだなあ)
と言った、林作の言葉はそれ以来、ドゥミトゥリイの胸に常時《いつも》ある。ドゥミトゥリイは林作の中に、自分に対する真実を見ている。林作には粋人にあり勝ちの軽薄がない。人と真実を持ち合うこともある。一度真実を分け合った人間には真実に、ものを言うのである。抑制と、所謂|健気《けなげ》な心掛けとが、どうしてもなくてはならない結婚というものが、モイラには無理だったのだと、ドゥミトゥリイは、思った。
(モイラ様には結婚というものが、無理だったのだ)
と、ドゥミトゥリイは心に呟いた。
(旦那様には智恵と、抑制とがおありになる。モイラ様にも智恵はおありになるのだが、抑える力があられない。女を自分は知らない。だが女の体というか、神経というものが、そういうものなのだろうか?)
ドゥミトゥリイは胸の隠しから林作の腕時計を出し、卓《つくえ》の上に置いた。アパルトマンを出てから、まだ十五分しか経っていない。
不安に包まれたようになっているドゥミトゥリイは、ふと、感傷的になって、遠い昔の日を想い出した。この部屋の上がり口に腰を下ろした自分の膝の間に、入って来るようにして、自分の眼の中を懸命に探すようにしたモイラの、涙の溜まった二つの眼が、ドゥミトゥリイの胸の底に、浮び上がった。乳飲み児が母親の乳首を探すような目であった。
(あれはモイラ様が旦那様に、何かたしなめられて、自分の部屋に走って来た時のことだ。自分の哀しみを受け止めてくれる人間は俺だけだと思い、あの時モイラ様は、哀しみを受け止めてくれるものを、俺の眼の中に探っていたのだ)
ドゥミトゥリイは上がり口の方へ向けた眼をその儘、その日のモイラを今其処に見るように、宙に据えた。
* *
ピータアは寝台《ベツド》の上で、胡座《あぐら》をかいた膝に肱をついた掌先《てさき》を組み合わせ、先刻《さつき》から顔を伏せている。ピータアは体の中に底から持ち上がってくるものを抑えている。モイラを待っているピータアの中にあるものは、渇した人間が与えられようとする水を待つような、堪えられぬほどな渇望である。喜悦以上のものである。だがその喜悦の中には抑えなくてはいけない、怒りに似た感覚がある。
ピータアの座っている寝台《ベツド》は石沼の、霧雨の上がった薄明るい部屋で、そこにモイラを横たえた寝台《ベツド》である。モイラの生贄《いけにえ》台となった寝台。その上で、モイラのすべてを奪った記憶がまだ消えていない寝台。ピータアが、モイラの肉体《からだ》を隙間なく蔽った皮膚の香気と、花片のような湿り気とに溺れて、半ば狂気の刻《とき》を過した寝台である。その時から二年が経って、モイラを逃がした無念と苦しみを耐え、それを乗り越えて、いくらかでもいい、平静な自分をとり戻そう、と、そう思って努力していたピータアが、その状態に、今少しで手が届くのではないかと、そんな気のした時期もあった。……それはつい二ヶ月前のことだ。その時期でさえ、その上に横になる度に背中に、上膊《にのうで》に、そうして腰に、辛いものを覚えずにはいなかった、その寝台である。ひどく苦しい時期にはその上で幾度となく体が燃えた。ピータアはその度に頸の十字架を、掌に型がつく程握り締めて耐えた。鎮まるとピータアは裸の上に上着をつけて戸外《そと》に出て、暗い街を歩いた。
モイラはピータアの贄になった後《あと》に、処女《むすめ》の証《あかし》を残さなかった。ピータアは、女の経験のなかった頃から、智識としてそういう処女《むすめ》のあることを知っていたが、その時、モイラがその稀《めず》らしい処女《むすめ》だったのを知った。モイラは最初に見た時から、平常《ふだん》烈しい運動をしている娘には見えなかった。小さな窗枠の中に、胸の下辺りまでを現わした最初のモイラは、林檎《りんご》らしい果実の一片《ひときれ》を手に、ピータアを見下したが、全身を見ないでも、動くのを見ないでも、活溌な運動には縁のない娘だということはわかった。モイラは子供が、触《さわ》ってみるほどの興味はない虫を、何か食いながら見ている、そんな眼をしていた。そんな眼の中に、その奥に、魔があった。柔かな硝子というか、妙な不透明というか、そんな朦朧をひそめている二つの眼が、モイラ自身の知らぬところでピータアを強い力で掴んだのだが、その時同時にピータアは一人の、ものぐさそうな、動くことを好まぬ娘を見たのだ。事実次に海岸で見たモイラが、ひとりで動きはじめた幼児のような鈍い動きで走るのを、ピータアは見た。
(激しい運動をやって膜が破れたのではない)
とピータアは想うのだ。だが寝台《ベツド》の上のモイラは、愕いたり、ひどく恐れたりはしなかったが、処女《むすめ》であったことは疑いがなかった。
ピータアは心に呟いた。
(不思議な特長だ……まるで懶《ものう》げにしている年増女をみるような動きの緩慢さが、まだ十四五にしか見えぬ娘の体にあった。その気倦《けだる》いようなものはいつもあの娘の体の周りをとり囲み、とじ込めている。寝台の上に持って行った時も恐れてはいた。だがどこかにふてぶてしさがあった。多分、父親とドゥミトゥリイなどの溺愛と讃美があって、自分の持っているなにかに、ふてぶてしい居直りのようなものを無意識の内に蓄積させているのだろう。それは海岸で俺の前に立った時、強く俺に伝わって来た。俺もそこに惹かれたのだ。自分の肉体の魅力の上に、梃でも動かない自信を持った、まだ子供の匂いのする処女《むすめ》……そいつが俺を火にしたのだ)
モイラは動きの鈍い、動きたがらぬ娘だったが、どうかすると不意に高いところから跳び下りたりすることがあった。林作はその癖を気遣《きづか》っていた。動きの鈍いモイラはそんな時|脆《もろ》く転んで、肱や膝頭に傷をつけることがあったからだ。林作はモイラの部屋の扉を開けた途端に、モイラがピアノの椅子から跳ぶのを見て、走り寄って抱き起したことがある。林作はその時、ピアノの椅子の捻子《ねじ》が弛んでいるのに気附いた。林作は以後、その部屋に入る度に椅子の捻子を確かめた。そうしてモイラが椅子の捻子を弛めたり締めたりして遊ぶことを固く禁じ、やよにも注意をするように、言った。それは明らかにモイラの莫迦なところなので、林作は御包や柴田には、言わずにいた。そのモイラの癖から林作は、モイラが最初の経験をする場合に処女《むすめ》の証《あかし》を残さぬことも或は、あるかも知れぬと、考えたことがある。それが頭にある林作は平常《へいぜい》、初夜の花嫁に処女の証のあるかないかを重大に考える風潮を、ことさらに苦々しく思っていた。
林作はモイラの縁談が定《き》まって、天上が婿として家に来始めた頃、モイラのこの癖を話しておいた。そうして、注意をして呉れるように、頼んだ。天上は林作の眼から見て立派な男だったし、天上はモイラというものをよく見ていると、そう思ってはいたが、それを天上に話したことは、モイラが怪我をせぬようにと思う気遣いとは別に、モイラの初夜を考えての慮りが、胸にないではなかった。石沼での、ピータアとのことも当然勘定に入っていた。
肉体の火を自分で処理することを嫌厭するピータアは、潔癖過ぎるほどな要心をして娼婦を相手にしていた。ピータアは一人だけ日本の娘を知ったことがある。その娘はただ穏《おとな》しいだけの娘だったが、最初に抱いた時、気の毒なような奇妙な様子と、可憐な、というより不様《ぶざま》な羞恥を示したのである。街で見る娘も、その娘のような醜い羞恥を示すだろうと思われる質《たち》のか、それでなければ、造りものの誇張した羞恥を示すだろうということが見え透いているようなのより、ピータアは見たことがない。自分の祖国や、他の西欧の女の中には或は、モイラのような処女《むすめ》もいるかも知れぬと、ピータアは思ったが、モイラ以外に、モイラのような処女《むすめ》を想像することは、ピータアには出来得なかった。ピータアはモイラを犯した後で、ああいうのが莫迦でない女なのだという感じを持った。たとえ処女であろうと、最初の経験だろうと、sexというものに、それまでに深い関心や空想を持ったことがなかろうと、どこかで、知らぬところで、それを感じとり、うけとっているはずのものだ。モイラは、晩稲《おくて》で、赤子のような女でありながら寝台の上で、年増女のようなふとい、にくたらしいほどな刺戟を感じさせたが、その特色は稀なものだとしても。と、ピータアは想い、それまでに知った娘に、白々とした興醒めを覚えた。sex について、貧しい智識から出た常套的な、技巧を弄《ろう》する娼婦などは、ピータアにとって、慾望の処理のための相手以外のなにものでも、なかった。
ピータアにとって、モイラとの今日の密会に当然被せられる筈の、刑法上の呼び名は何を意味するものでもなかった。モイラの夫をピータアは、暗い砂丘で、後《うしろ》から見ただけだが、まずく行って事が曝《ば》れた場合に、そういう罪名を着せようとする人間のようには、ピータアには見えなかった。だがピータアは天上側から告発せられたら、立派に法廷に立つ積りでいる。一昨年《おととし》の夏、モイラを部屋に伴《つ》れて行ったそもそもの瞬間から、ピータアは〈ピータア〉として、ピータアの名に恥じぬ行為として遣《や》ったことである。