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作者:日-森茉莉 当前章节:9303 字 更新时间:2026-6-23 06:49

 モイラはその儘凝と、眼を据えていたが、のろ、のろと、起き上がった。

「いくよ」

 不貞《ふて》たような、声である。

 やよは手早く、着替えをさせた。ゆっくり、歩き出したモイラに従《つ》いて部屋を出たが、モイラは扉の前に立った儘、動こうとしない。

「モイラ様……」

 その時玄関の鈴《ベル》が、鳴った。

 やよは躊躇《ためら》っていたが、モイラをその儘に、急ぎ足に階段を降りた。玄関を開けると、紺の地味な夏服を着たヱセル・カハアネが、立っている。やよは不躾《ぶしつけ》なのも忘れてヱセルに近寄り、小声で事情を打ち明けた、そうして今、モイラを天上の居間に伴《つ》れて行かなくてはならないことを、訴えた。

「モイィラは何処?」

 ヱセルはもどかし気に靴を脱いだ。

 ヱセルは、モイラから恋人のあることを打明けられている。天上から、モイラの友だちになってくれるようにと、頼まれて訪れたヱセルである。それを知ってからは訪ね難《にく》くなっていたのだが、モイラというものに惹かれていたヱセルは、モイラのことを忘れたことはなかった。そこへ父親のリヒヤルトから、天上の様子の変ったことを聴いて不安になり、今朝俄かに思い立って、出向いて来たのである。

 やよが目顔で二階を示し、先に立った。

 扉の前に、先刻の儘立っていたモイラは、不機嫌な眼を据え、ヱセルを見た。ヱセルは駆け寄り、心を籠めて、言った。

「モイィラ。確りしなくては……ね。やよさんと私《わたくし》とが一緒に行きますから、大丈夫です。恐ろしいことありません。今行きませんと、却って後《あと》になって大変に苦しいことになります。わかりますでしょう? モイィラ。……さ、行きましょう」

 やよは祈るような気持で、緊張に体を固くし、モイラの顔を窺っていたが、ヱセルがモイラの右掌を取り、肩に柔《やさ》しく掌をかけると、自分も恐る恐る、反対側に廻って、モイラの肩に掌をかけた。

「モイラ様」

 不機嫌な眼を据えていたモイラが、ヱセルをふり仰いだ。暗い眼の底にしぶとい甘えが、絡《から》みつくように、ヱセルに対《むか》って迫ってくる。

(モイィラの中には悪魔が棲んでいるのだろうか? そのくせ子供のように怯えている。それが可哀らしい。平常《ふだん》、不遜な顔をしている時でも、可哀らしい。憎めないのだ。……何故だろう?)

 モイラは歩こうとしない。

 ヱセルはやよに目配せをして、肱をモイラの脇にかけ、持ち上げるようにした。やよも、反対側の脇に肱をかけ、二人はモイラを引き摺るようにして天上の居間の方に近づこうと、懸命になった。モイラは強いてあらがう様子もない。ずる、ずると、引き摺られるようにして、歩き出した。それに力を得て、ヱセルとやよとは少しずつ、モイラを中にして進んだ。二人の腕にぐったりと、体の重みを預け、ひき摺られて行くモイラは、罠にかかった獣《けもの》か、主人の掌で縄で引き摺られる犬のように、運命に服従しているように、見える。やよは胸の中で林作を、呼んだ。(旦那様)やよの林作を呼ぶ声も、銃口を定められた氈鹿《かもしか》か兎の叫びのように、哀れである。

 扉口に着くとやよは、ヱセルにモイラの体重を預けるようにして凭せかけ、扉を開けた。

 朝の光に洗われた、静かな部屋の中に、やよは昨夜の姿のままの形で、此方《こちら》向きにがっくりと首を折っている天上と、椅子の向うに立って、深く頭を垂れている伊作とを、見た。すべて片づけられて何も置いてない書物卓《かきものづくえ》の、冷たく光る表面には、一度倒れたのを起したらしい錠剤の壜がひっそりと立っていて、白い粉が少量|滾《こぼ》れている。そこにもう一つ、置かれていたものがあったのだが、それは伊作の手で隠されてしまったので、誰も見ることは出来なかった。それは天上が結婚当時林作から渡されて、毎日|定《き》まった時間にモイラに飲ませていた、造血剤の壜である。牛の血をその儘固めた素朴な錠剤が、黝《くろず》んだ褐色を薄青く透き徹った壜の内側に覗かせている、口の広い小壜である。それは天上のモイラへの、愛情の証《あかし》で、あった。モイラへの未練と執着の心を示したもので、あったのだ。部屋へ入って、かねて聞き知っていたその壜を見た伊作は口角を醜く歪め、誰もいぬのに辺りを窺い、閃光よりも早い動作でその壜を、洋袴《ズボン》の隠しに入れたのである。

 伊作は、花畑の中を電話に走った時には、天上の命をくい止めようという一心だったが、直ぐにそれが不可能であることに気附いたのである。思慮深い天上が、発作的に薬を嚥む筈がない、嚥んだのなら昨夜だ、と、気附いたのだ。薬も、致死量の少なくとも倍の量を嚥んだにちがいないと、伊作は悟らぬ訳には行かなかったのである。

 ヱセルと、ヱセルに全身で凭れかかったモイラとが続いて入った。ヱセルはモイラを抱きかかえるようにして、後《うしろ》に退《すさ》ったやよと入れ代わり、天上の遺骸に、近づいた。

 天上の死顔は哀《いた》ましかった。永い間、何かを耐えていて、疲れ切った人間の顔である。これ以上は耐えることが出来ぬところまで追い詰められた人間の顔である。だが苦痛に脣《くち》を開き、頬の辺りを歪めた表情のどこやらに、安らぎが、あった。

 モイラは天上を一目《ひとめ》見ると、瞼がひき吊ったような眼を大きく、見開いた。厚めな脣が弛んで、下|下《さが》りに開《あ》き、稍《やや》もつれて額にかかった、もくもくとした髪の下で、眉が吊ったように上がっている。自分を刺そうとする人間の、刀の切先《きつさき》を見た子供の顔である。モイラは、それほどのことをした気はない。だがこれが、自分の遣《や》ったことが引き起こしたことだとわかった恐怖が、内側に張りつけられたモイラの顔は、青白くなっただけで、皮膚の艶は平常《つね》より粘りを出し、恐ろしいほどの魅する力を持っている。ヱセルはモイラを抱えているので、十字を切ることが出来ぬ。ヱセルは深く頭を下げて、神に祈った。天上のために。又、モイラのために、祈った。彼女が今日此処に来たのは、父親の会社の社長であって、親しくその人柄に触れた天上のためでもあり、最初会った時から、不思議な恐れと、愛情とを同時に抱いたモイラのためでも、あったのだ。

 ヱセルは伊作に眼を移した。伊作はヱセルたちの方に顔を向けることもなく、哀しみの中に、沈み込んでいる。白髪の一二本光る髪がそそけている。耳の後の辺り、頸は削いだように痩《こ》け、口は哭《な》いていた。ヱセルは伊作に声をかけるのを止《や》めて、モイラの方に眼を返した。モイラの脣は軽く閉じられ、眉ももとに戻っていたが、どこか異様な、ねっとりとしたものは前よりも増して滲み出ている。視点の定まらない、潤んだ眼が宙に据えられている。

(これが、モイィラなのか)

 と、ヱセルは思わず知らず、その顔に見入った。可哀らしい魔もののようなモイラの顔の中に、ヱセルは一人の偉《おお》きな男の顔を、見た。自分以外のことには関心の無い一人の男が、さほどのこととも思わずに屠《ほふ》った女の死顔を見た場合の、愕きの顔である。愕きの中に怯えがある。

(これがモイィラなのだ)

 と、ヱセルは思った。ヱセルはモイラの肩に掌をおいた。

「モイィラ、さ、もう彼方《あちら》に行きましょう。あなたのお部屋へ」

 ヱセルはやよを振り返り、再び二人はモイラを輔けて、居間に伴れ帰った。

 モイラは疲れた様子で、直ぐさま寝台《ベツド》にもぐりこんだ。薄い毛布を掛けて遣っているやよに、ヱセルが言った。

「やよさん、檸檬がありますでしょうか。ありましたら半分程絞って、モイィラは炭酸水で割るのと水と、どちらが好きですか?」

「はい。炭酸水の方でございます。直ぐお持ちいたします。ヱセル様はなにか?……」

「わたくし牛乳《ミルク》の入ったお茶をいただきます」

 やよが台所に入ると、李がヱセルのためらしく、薬缶《やかん》を火にかけている。やよは、牛乳紅茶《ミルク・テイイ》と、檸檬炭酸水とを李に頼んでおいて、浅嘉町に、電話をかけた。交換手が取り次いでいる間に、台所の大時計に眼を遣ると、八時にはまだ十分余りある。林作は平常《ふだん》、八時に車に乗る。やよは吻《ほつ》と、息を吐《つ》いた。

 ドゥミトゥリイが出た。天上の死を告げると、ドゥミトゥリイは少間《しばらく》黙っていた。

 ドゥミトゥリイの低い、嗄《か》れた声が言った。

「そう。……旦那様に直ぐに申上げます。おやよさん、確りして、モイラ様をお護りして下さい。……いいね」

 ドゥミトゥリイの低い、力のある声で、やよは蘇生したようになって、李から紅茶と檸檬水とを載せた通い盆を受け取り、モイラの居間に戻った。やよはこの時、昨夜の天上の言葉の中に、榊の家は大分遠い。一時間と四五十分はかかるだろう、という言葉があったのを、想い出した。天上はその言葉を、脣《くち》の中で呟くように、言ったのだ。首を垂れて、自分自身に言って聴かせるように。

(ほんとうに私《わたし》はなんといううっかり者なのだろう)

 やよは吻とした胸の中で、切なげに、呟いた。

(旦那様は、先生のお宅が遠ければ遠いだけ、お着きになるのが遅ければ遅いだけいいと、お思いになって、そうして、お淋しくお思いになったのだ。おかわいそうに……どんなにお辛くいらしったのだろう)

 と。だがやよは、モイラの居間の扉の前まで来ると、まだまだ苦しいことが、この先どれ程起きるか知れぬという想いが、胸に押し寄せて来た。

(お医者様と、ドミトリさんが来て呉れるのと、どちらが早いだろうか……)

 やよは敵団に囲まれた捕虜のような思いの中で、切なく、ドゥミトゥリイを、待った。

 伊作は哀しみに逆上していることもあるが、天上のことは、少くともこの家の中では、自分以外に取り計らう者は居らぬと、信じているところから、その態度、もの言いに、俄かにこの家の主権を握ったようなふしが見えぬでもない。又天上の死と同時に、日頃溜まりに溜まったモイラへの憎悪が、伊作の中で爆発している。自分では天上に尽し、そのことで伊作と協力して来たと、信じているやよに取って伊作のこの急変は、胸の潰れる思いで、あったのだ。

 伊作は伊作で、榊医師の到着を一刻も早くと待つ一方で、磯子の来るのを待ちわびていた。天上の様子が不安になった伊作は、磯子に速達を出していた。少くとも昨日《きのう》の内には、磯子は速達を読んだ筈である。

    *    *

 林作と、ドゥミトゥリイとを乗せた車が天上の家の近くまで来た時、ドゥミトゥリイは、隣の家の長い塀を廻ったところに、車を止めた。そうして自分だけが降りて、天上の家の方へ向かって、歩き出した。車の中で林作が、そうするように命じたのである。林作は、委しい事情はわからぬながら、天上の突然の死にはなにかの導火線がなくてはならぬと考え、火を点けたのはモイラだろうと、見ている。林作は、天上の居なくなった天上の家でのモイラとやよとの立場を考え、兎に角二人を一応、浅嘉町に伴れて帰ることに心を決めた。俺がすべての批難を引き被ろう。小野の奥さんには会って詫びなくてはならぬ。伊作という男にも、詫びの言葉をかけて遣らなくてはなるまい。伊作という男にとって、天上君の死は、ドゥミトゥリイが俺の死に会ったのと同じことだ。林作は、ドゥミトゥリイを当座の手助けという名目で、天上の家に遣ることも、考えた。だが難《むつ》かしいだろう。葬式が済むまででいいのだが。所詮は姑息な手段に過ぎぬ。天上の家で、恐らく横暴を極めていたにちがいないモイラの現在の孤立と、モイラのために他の召使いの憎しみを一身に被って、周囲に気を遣《つか》って息も吐《つ》けずにいるやよが、その状況をこのまま続けて行くことの困難とは姑息な手段ではどうにもならぬ。伊作という男の気持をモイラが害していることも、極限まで行っているにちがいあるまい。林作は車の中で、自分と同じ想いを胸に持っているであろう、ドゥミトゥリイの背中に眼を遣りながら、この多分に利己的な結論に達した。

(止むを得ぬ)

 と、林作は心に呟いた。そうして心《しん》の臓《ぞう》の辺りに鈍い痛みを、覚えた。だが林作の中にはもう一人の林作がいる。林作の中の、もう一人の林作の顔には微笑いがある。この朝、天上の死を知った瞬間のことだ。モイラを再び手許に引き取ることの歓びか? 何処か苦笑いとも見紛う、美しい微笑いが、林作の頬に浮んだ。片頬の、指で圧したような窪みの辺りに、たゆたうように暫時《しばらく》残っていた密かな微笑い。それはモイラというものが終《つい》に、自分一人のものである、という勝利の微笑いで、あった。いささかも忸怩《じくじ》としたものの無い、誰をも憚らぬ美しい悪魔の微笑いで、あった。林作の細胞から、モイラの細胞に、転移したかと想われる、ふてぶてしい微笑いである。世間全体を向うに廻した、不逞な微笑い、不逞な歓びで、ある。

    *    *

 現在《いま》では唯一人の味方となった李と働く幸《さいわい》を、心に吻としながらやよが、台所で立ち働いていた時、玄関の鈴《ベル》が鳴った。鈴《ベル》の音は弱く、短くて、一度だけである。

(ドミトリさんかも……)

 胸を轟かしたやよが扉を開けると、ドゥミトゥリイが立っていた。固く結んだ脣の端に、渋面を造った人のような深い襞の見える怒ったようなドゥミトゥリイの顔を、恐ろし気に見上げたやよに、ドゥミトゥリイは囁くように、言った。

「直ぐにモイラ様をお伴れするんだ。お車が向うに止めてある」

 やよは戸惑い、愕きに一瞬小さな眼を見張ったが、弾《はじ》かれたように引返し、階段を上った。

 モイラを中に挟んでやよとヱセルとが現れた。ドゥミトゥリイもヱセルのことは聴き知っている。直ぐにモイラとやよとの、今日の幸運を知ったドゥミトゥリイは、ヱセルに向って丁寧に会釈をし、モイラを抱きかかえるようにしたヱセルを中に、二人は花畑の間を足早に、進んだ。花々は朝の陽を嚮《う》け、何ごともなかったかのように、静かに咲き群れている。やよが小声で、

「よくわかりませんでしたけれど伊作さんが今がた、彼方《あちら》のお部屋の方にいらっしゃったようです」

 と、告げると、ドゥミトゥリイは油断なく、伊作の部屋の方に眼を配り、ヱセルは低くモイラに囁いた。

「大丈夫ですよ。モイィラ」

 無事に門まで辿りついた時、やよが恐る恐る玄関の方に振り返った。

「おいしさんが……」

 本間いしが気配を聴きつけて玄関に出て来たのだろう。遠く、暗い穴のような中に一人茫然と、立っている。

 ドゥミトゥリイが振り向きもせずに、言った。

「もう心配はない」

 四人が、隣家の長い塀を廻った時、やよは車に林作が乗っているのを見た。やよは懐しさに耐えず、涙ぐみながら、ヱセルを見た。

「旦那様でございます」

 車に近寄ると林作が車を降り、ヱセルに、言った。

「ヱセル・カハアネさんですね。何卒《どうぞ》、お乗り下さい。モイラがお世話になった模様《よう》で。お家《うち》へはお送りします」

 モイラは平素の、不機嫌にむっとしたような顔に戻っていたが、衝撃《シヨツク》の後《あと》で顔色はまだ青い。このところ、天上の居間に入ることをしないので、造血剤を大分休んでいる故《せい》もあるのだろう。粘りのある艶が滲み出ていて、恐怖の後《あと》の、陰影《かげ》のようなものが憎いような可哀らしさを出している。林作と、ヱセルとの間に乗り込んだモイラは、微かな微笑いが、瞳の奥に靄っている林作の眼を一寸見ると、髪が乱れて、雲のようにもくもくとした頭を林作の肩に凭せかけ、ぐったりとなった。

 それを見て、何かを感じ取ったように見えるヱセルは、優しい、だが複雑な眼で、二人を見た。林作は心の中で、言った。

(又一人|犠牲者《いけにえ》を出したのだな。今度はとうとう、命を絶たせてしまった……)

 運転台に乗り込む時、やよは始めて、足の裏に怪我をしているのに気附いた。小石の角かなにかで切ったらしい裂傷《きりきず》である。俄かに痛みを感じたのだ。まだおどおどとして、やよはドゥミトゥリイの隣に、肥えた体を縮めて腰をかけた。林作はその様子に痛わし気に眼を遣り、ヱセルに微笑いかけた。

「このやよというのが一番の被害者で……」

 始めて吻《ほつ》とした、穏かな微笑いで、あった。

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後記――小説とお菓子

 私はこの「甘い蜜の部屋」という小説を足かけ十年かかって書いた。それは長い、苦しい月日だった。ことに後篇の半ばごろになってからは、(この小説をうまく終らせることは、出来ないかもしれない。「とうとう書けませんでした」と言って、編集者にあやまらなくてはならないかもしれない)という、恐ろしい不安がおそっていた――私は玄人の小説家ではないようで、書いていく内に終るころにはなんとなく辻褄が合ってくる、というような小説家だからである。いつも不思議に、辻褄は合ってくるし、伏線も、いつのまにか張られているのである――。始めての小説ならともかく、既《も》う五つも六つも小説を書いていて、それは恥辱である。「もし、そうなったらどうしよう」という大きな恐怖を抱きながら、私は十年目にさしかかった、苦しい日々の中を歩いた。ひと口の水も貰えないで、重い荷物を背負《しよ》わされている驢馬かポニーのような感じである。私という驢馬を歩かせていたのは、私の小説の終るのを待って呉れていた室生犀星、三島由紀夫、の二つの霊、友だち、読者の人たちの、声のない声である。

 苦しみというものは、いつかは終る。どんな苦しい病気も死ぬことによって終る。私の小説も去年の十二月三十一日に、不思議な出来事のように、終った。

 ところで九年の間わき目もふらず、楽しみはすべてやめてひたすら書いて、ようよう書き終ったという有様は、よくあるドコンジョーの人の感じであるが、今も書いたように私は、重い荷物を背負わされてのろのろ歩いている驢馬そっくりの人間である。のらくらな人はコンジョーの人より苦しい。満ち溢れた活気があって、男の人なら向う鉢巻で、夏なら裸になり、全身で岩にぶっつかる勢いでやるというのは、ぐうたらぐうたら、怠けたいのをむりに働かせられるのよりは楽だと思う。しゃっきりしていると思う。ドコンジョーの人になってみたことがないのでわからないが。

 そういう私にも、ドコンジョーとヤッタルデで取り組むことがたった一つだけある。それは自分のたべるものを造《こし》らえることで、目下三日おきに造っている常用のお菓子にはドコンジョーで立ち向かっている。板チョコを好みのこまかさに砕いて、次に角砂糖を下《お》ろし金《がね》で三分の二程すりおろし、その粉を砕いたチョコレエトにまぶす。残りの三分の一の角砂糖を、板チョコと同じ位の細かさに砕いて、それも混ぜるのである。切り出しで割るのに、むずかしい大きさの好みがあるので、それを造っている間は全ドコンジョーがその作業に集中している。食事の支度も同じだから、ずいぶん時間もかかる。

 私の仕事場である、寝台《ベツド》の上を見た人は例外なく、内側が白で外側が薄クリイム色の中型ボオルに盛られたチョコレエトを不思議そうに見る。見たことのないお菓子だからだ。角砂糖の粉にまんべんなく紛《まぶ》されているので、「ゼリー?」と訊いたのは瑛子さんという近くの杉木さんのお嬢さんである。

 ボオルごと持って行って見せると、金井美恵子は少し食べて見たいと言い、私が多過ぎぬように、さりとて少な過ぎてケチに見えぬようにと、神経を使い、茶匙にすくって差し出すと脣《くち》に入れ、目を天井に遣《や》って、その不思議なお菓子を味わっていた。熱心なその目は、(森茉莉の美味とするものは一体、どんな味のものだろう?)と、呟いていた。一緒に来た編集者の伊藤貴和子も金井美恵子の姉さんも試食を申出た。私が惜しがっているのを見破った伊藤貴和子は、自分の掌《て》にうけたチョコレエトを、金井美恵子の姉さんに分けた。

 というようなわけでお菓子製造の方は、小説よりもドコンジョーで造るが大して辛いとは感じないのである。

 杉木瑛子にも乞われて、分けた。もうこれ以上分けるのは困るが、私の小説を読み、私のお菓子をたべた人は、私の苦しい仕事と、楽しい仕事との両方を味わったことになるのである。

[#地付き]著[#1字下げ]者

[#3字下げ]昭和五十年六月

森茉莉(もり・まり)

一九〇三年、東京に生まれる。森鴎外と二度目の妻、志げの長女。生来の病弱もあり、父の溺愛を受けて育つ。結婚、出産、フランス生活を経て、二度の離婚を経験。一九五七年、父を憧憬する娘の感情を繊細は文体で描いた随筆集『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。五〇歳を過ぎて作家活動を開始。六一年『恋人たちの森』で田村俊子賞受賞。七五年、本作で泉鏡花文学賞受賞。八七年、歿。主な作品に『贅沢貧乏』『記憶の絵』『私の美の世界』等がある。

本作品は一九九三年六月、筑摩書房より刊行された『森茉莉全集第四巻』を底本に、現代仮名づかいに改めた上、一九九六年十二月、ちくま文庫に収録された。

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