饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:15577 字 更新时间:2026-6-23 06:49

 アレキサンドゥルと林作とは、互の人間らしい内面には触れぬようにして、話をするのである。

 アレキサンドゥルの、いつにない厳しい鞭を、彼の言葉の中に感じとると、モイラはちらと、アレキサンドゥルを見上げ、いくらか甘え気味に顔を伏せ、体を捻《ひね》るようにした。そうすれば許される、ということを、どこかで知っている仕科《しぐさ》である。何かがふと、眼ざめたような仕科である。モイラは、林作にはそんなことをしたことがない。林作はモイラを怖れさせたことがないからだ。モイラは今、この瞬間に、どこかから、この〈甘え〉を、空中でなにかを掴まえるようにして、体得したのかも、知れない。

 アレキサンドゥルはモイラの甘えに構わず、厳しい声で、言った。

「さあ、弾《ひ》いて御覧」

 音階がようよう済むと、Sonata の練習である。

 モイラが飽きて、ふと、練習を止《や》めてしまったり、椅子の上で身じろぎをしたりするのにつれて、アレキサンドゥルは、抑えようとしても次第に高まってくる、いつものサジスティックな偏執に、取り憑かれてくる。サジスティックな、肉感的な慾望は、だんだんに昴進してくるが、思うように発散出来ないので中に籠ってくるものが、うずくように、体の内部に膨れ上がってくる。

 一種の不思議な肉の魔力をつけて、少しずつ大きくなって来たモイラが、十歳を越えた辺りからアレキサンドゥルはこういう、裸の女の誘惑に抵《あらが》おうとする聖者のような状態に追い込まれる、恍惚と苦痛の日々を、週に一度|宛《ずつ》、重ねて来た。どこかに火のある時間である。毎週、水曜日になると、アレキサンドゥルは前の日から憧れのような心持を抱いて、モイラの来る時間を、待った。モイラが来ると、胸の動悸がいくらか、高くなる。そうしてモイラを傍に置いている時でも、モイラのいない時間でも、モイラが自分に親しもうとしないことを気にかけ、又はそれを憎んで、罪人でも罰するようにして、モイラに酷《ひど》い罰を与えてやりたくなる。モイラが自分になついて来ないということが、大きな問題になって、アレキサンドゥルの頭を占領して、いた。

(こんな小さな少女の……。まだ稚い子供のようなものだ。こんな子供の心持を、こんなに真剣になって考える男が、あるだろうか? しかも恋する青年のような状態で。父親より年上の男が。……たしか父親の林作氏は四十七になる筈だ……あの一緒に来る男は、どういう男だろう。モイラが家に馬がいると、マドゥレエヌに話していたが、馬丁か? そんなように見える男だ。スラヴ系の混血児らしいが、温かなものを持った、立派な男だ。がっしりした体をしていて、顔もいい。あの男の地位に代りたいなどと、真面目になって考える俺だ。あの男は一年や二年の契約の雇人ではないらしいからだ。俺はもうモイラから、離れて行かなくてはならない。……)

 アレキサンドゥルは巴里にいるマドゥレエヌの母親が近頃急に体が弱って、マドゥレエヌの帰国を希《のぞ》んでいるという手紙を、同じアパルトマンにいるマドゥレエヌの姪のシュザンヌから、受け取っていた。マドゥレエヌはその手紙の来た日から、少しずつ身の廻りのものを片附け始めていたが、先週の終りに再びシュザンヌから航空便の手紙が来て、あれから、質《たち》の悪い感冒に罹ったので、ひどく心配している。自分は会社を休んで、彼女についているが、大変に寂しそうだ。ドクトゥールは恢復するだろうと言っているが、不安だ。と、そんなことが細々《こまごま》と書いてあったのだ。

 アレキサンドゥルは、想った。若《も》しモイラが、せめて十六か七になっていて、モイラの方でも、幾らかでも自分を慕ってくれているのだったら、俺はマドゥレエヌを一人で帰したかも、知れない。いや、たしかに帰したに違いない。アレキサンドゥルは、蒼ざめて、身の廻りのものを片附けたり、トランクに何か詰めたりしているマドゥレエヌを、眼の前に見ていながら、そう想ったのだ。

 勿論、やりかけた、雅楽の研究には魅力があり、それを中絶したくない、という心持もアレキサンドゥルには、あった。だがアレキサンドゥルはそのことと同時に、というよりも或時間の間は、その心持を蔽うほどの悶えを、モイラを見られなくなることに、感じていた。

 アレキサンドゥルは心のどこかで、マドゥレエヌを憎み、マドゥレエヌの居ない生活を、夢みていた。それは大分前からのことだ。マドゥレエヌが居ない、モイラと二人だけの時間を、夢みていた。自分とモイラとの間は、何もマドゥレエヌがいても、いないでも、それでどうという関係ではない。だが、マドゥレエヌが傍《そば》にいなければ、気持が自由なのだ。重くるしいものを何処かで感じていないで、いられる。それだけではない。マドゥレエヌが居なければ、モイラと二人切りで、お茶を飲んで話をすることも出来る。ごく稀には外へ伴《つ》れ出して、モイラと食事をしてから、家まで送って遣ることだって出来るだろう。自分はそれが出来る位置にいる。

 モイラをレストランに伴れて行って、前に掛けさせ、好きな料理を聞いて、それを誂えてやる。モイラが好きな料理を、肉刺《フルシエツトウ》に刺して、薔薇色の脣に運んだり、窗の外を見たりする。そんな光景が、アレキサンドゥルの胸をどきどきさせながら、浮んでは、消えた。アレキサンドゥルは、その自分の妄想が、歓ばしければ歓ばしいだけ、マドゥレエヌに対して、自分を恥じた。そうして、神に祈った。マドゥレエヌの母親にも、恥じた。老いた、ルノオ夫人が、自分にも帰って来て貰いたいと希《ねが》っていることを、アレキサンドゥルはよく知って、いたのだ。アレキサンドゥルは、深いつぐないの心を籠めてその夜、既に老いの来ている腕に柔しく、マドゥレエヌを、抱いたのだ。

 アレキサンドゥルは、人間が悪魔になるということが、いかに容易《たやす》いものかを、知った。悪魔は神の傍《そば》にいる。

(いや、神の中にいるのだ)

 と、アレキサンドゥルは、想った。

 アレキサンドゥルは、自分の魂が悪魔の跳梁の場となったのは、若い頃から自分を束縛し過ぎていたからだ。それがいけなかったのだと考えて、悔いに搏たれながら、又一方では、死んだ父親のアントワンの教育に、疑問を抱いた。この懐疑は、まだ巴里にいた壮年の頃からのものだ。

 母親のカトリイヌが死んだ後《あと》、独身で、アントワンはアレキサンドゥルを厳しく、教育した。厳しい旧教にある、贖罪のための鞭うちのような、厳しく、烈しいもので、アレキサンドゥルに対《むか》っていたアントワンは、清浄な掌で麺麭《パン》をちぎり、崇高な顔で、自分を見下ろした。

 アレキサンドゥルは十九で父親を失ったが、三十歳を越す頃まではまだ、ストイックな父親を尊敬していて、彼の跡を、彼と同じ道を、自分も歩こうとしていた。だがやがて、自分の閉じ籠められた、殆ど異常な生き方に不快の念をおぼえるようになり、自分自身の性格も半ばは父親の教育にあるように思うようになって、次第に冷厳な父親の顔を無気味な絵のように思うように、なって来て、いたのだ。

 恐らくモイラに練習《ルツソン》を与えるのは、今日が最後になるだろう。次の週もやってやれないことはないが、マドゥレエヌに何もかもさせて、見ているわけには行かないのだ。

 その日、アレキサンドゥルの練習《ルツソン》は平常《ふだん》より特に厳しく、執拗で、あった。

 アレキサンドゥルは、自分の抱いている別離の苦痛も、自分の心《しん》の臓《ぞう》を悪魔の跳梁に任せて、するが儘にさせている自分の、切ない魂の悶えも、何も知らずに、相変らず、練習《ルツソン》を横着に怠け、少しでも早く自分の傍から逃げようとしているモイラを見て、不意な怒りを覚えた。モイラが、もう帰らせてくれそうなものだと、思っている様子をしているのにも拘らず、アレキサンドゥルは練習《ルツソン》の鞭の手を、弛めなかった。

 モイラが先刻《さつき》見せた、甘えを帯びたようすが、今日のアレキサンドゥルに、更に火を点けている。

 温い雨の中で、自分では知らずに、ふと固い殻のような萼を破って尖端《さき》を見せる花の蕾のような、それでいて不思議にふてぶてしい、惹きつけられないではいられない、媚態である。そうして階段で見た、仔馬のような嫩い脚。……アレキサンドゥルが五十五年の人生の中で、初めて心《しん》の臓《ぞう》を掴まれた、それは稚い媚びであった。アレキサンドゥルの心《しん》の臓《ぞう》を掴んで、身動きも出来なくさせた、媚びである。

 モイラは知らずにやったことである。いつになく厳しく言われたので、胡麻化《ごまか》そうとして、遣《や》ったのだ。モイラはたしかに、自分が他のことを考えていたのを、知っている。それでそれを胡麻化そうとしたのだ。モイラが一寸|可怕《こわ》く思い、どうかして、アレキサンドゥルの厳しさを弛めようと思った時、思わず知らずに出た媚態である。可哀らしいようすをして、うまく胡麻化してしまおうとした、狡猾《ずる》い心持が、あった。その狡猾が、アレキサンドゥルには酷く可哀らしいものに、見えた。モイラが甘えるように体を捻《ひね》った時、アレキサンドゥルは、何かの柔かな、小鳥の尨毛《むくげ》のようなもので、胸を逆に撫で上げられたように、思った。しかもその柔かなものの中には女の狡猾が、あった。マドゥレエヌという善良な女より知らないアレキサンドゥルの、あまり感じたことのない、一人の女の狡猾が、柔かな甘えの中に、薔薇の芽にある棘のように、引懸《ひつかか》っていて、それがアレキサンドゥルの胸を小さな、痛みで、突いたのだ。そんなようすをしたモイラが、アレキサンドゥルは可哀らしくてならないのだが、そのようすは同時に、その上にも厳しく叱りつけて遣らないではいられなくなる、残酷なほどの厳しさで練習《ルツソン》を繰り返させてやらないではいられなくなるような衝動をも、アレキサンドゥルに、与えたのである。

(|俺の手は震えているようだ《イル・ム・サンブル・ク・マ・マン・トランブル》……)

 アレキサンドゥルは平常《いつも》のように、モイラの掌を両手で軽く掴まえて、形を直して遣《や》ったが、我にもなく自分の指が震えるのを、覚えたのだ。

 天《そら》を籠め、四囲を蔽って降りつづける霧雨に包まれて、その柔かな雨気の中に沈み込んだような家の中は先刻《さつき》から蒸暑く、モイラの小さな掌は、いつも感ずる重い滑《なめ》らかさを持った皮膚が、一層|湿《うる》おいを持っていて、アレキサンドゥルの胸を掻き乱している。

 アレキサンドゥルは掌の形を直すと、その形をその儘で崩さずに、次を弾くことを、搏つような声で、命令した。

「アロン、ドゥウ」

 モイラは倦み果てた様子で、全く上《うわ》の空《そら》で弾き始めたが、忽ち楽譜を読み違えた。

 モイラは自分の傍にいることを厭がっている。甘えて見せるのもただ一刻も早く、この椅子から下りたい為だけだ。

 アレキサンドゥルの頭に血が昇った。

「マドゥモァゼル、モイィラ。……ただ早く帰ることを考えていますね。メッシャントゥ(悪い子)! そこのところを私の言うように巧《うま》く弾くまでは今日は決して、帰しませんよ」

 モイラは両方の掌をその儘、そむけた顔の頬から耳が紅潮するのを、アレキサンドゥルは、見た。と同時に小さな咽喉《のど》が何かを飲みこむように、鳴った。愕きと恐れで頭が一杯になったのだろう。モイラは幼い子供のように手放しの儘声をあげて泣き始めた。

 アレキサンドゥルの顔は、モイラがいつも恐れる、鋭い眼が光り、脣は微笑うような形に白い歯を見せた顔に、なっていた。アレキサンドゥルは、モイラを凝と視ていたが、頭全体が熱くなったくるめくような怒りが、潮が引くようにすっと、退《の》いて、恍惚《うつとり》とした、羽毛の上に乗ったような或ものが手足の末端まで流れるのを、覚えた。その恍惚の中で、この上にも追い打ちをかけて泣かせて遣りたい慾望が、体を痺れるようにさせながら、突き上げるようにして、起きている。

 アレキサンドゥルは危い際で、自制した。

 一方で、アレキサンドゥルの中の常識は、狼狽していた。彼がここまで自制を逸したのは、マドゥレエヌが出ていて留守だったためである。だがそれでいてアレキサンドゥルは、マドゥレエヌのいなかったために自制が破れたことを、神の救助のような想いで、噛みしめたのだ。

 何かで冷やされたように、理性のある心に還るとアレキサンドゥルは、モイラの肩を両掌で軽く抑え、まだそむけているモイラの顔を、覗きこんだ。

「先生が悪かったのです、マドゥモァゼル、モイィラ。……今日はもういつもよりも遅くなっていましたのに、夢中になって、わかりませんでした。マドゥモァゼル、泣かないで下さい。私が悪かったのです。まだ稚いマドゥモァゼルに、あまり厳し過ぎました。……マドゥモァゼル。もう機嫌を直して下さい。私を許して下さい……」

 アレキサンドゥルの両掌が感情を籠めて、柔《やさ》しくモイラの肩を抑え直すようにした。そうして、つと立って行ったが、縁《へり》に刺繍のある、マドゥレエヌの手巾《ハンカチ》を持って、戻って来ると、モイラの肩を抱いて、自分の方に向かせ、まだ吃逆《しやく》り上げているモイラの涙を拭いて遣ろうとした。

 モイラは最初、アレキサンドゥルの叱責に、愕きと恐怖で頭が混乱していて、懸命なアレキサンドゥルの言葉も耳に入らぬようすで嗚咽し続けていたが、次第に、アレキサンドゥルが自分に詫びているのが判り始めると、少しずつ嗚咽が治まって来ていたが、アレキサンドゥルが父親のように、自分の涙を拭いて呉れようとするのを見、柔しいマドゥレエヌの手巾《ハンカチ》を認めると、哀しみが又咽喉を塞《ふさ》いで、新しい涙が溢れ出た。手巾《ハンカチ》を当てて呉れるアレキサンドゥルの掌《て》の中で吃逆《しやく》り上げ、それからアレキサンドゥルの掌を押し退《の》け、小さな掌で手巾《ハンカチ》を顔に押しあてて、咽喉をひきつけるようにして、嗚咽するのだ。

 アレキサンドゥルは悔いに胸を痛め、だが痺れるような想いに耐え得ぬ様子で、モイラを見まもった。

(モイラは自分を許している)

 自分の掌が、冷酷な、尖った指で、小鳥の咽喉を扼《やく》してしまったような想いがする。彼は震える掌先《てさき》でモイラの汗と涙とで耳の辺りに張りついた髪を、きれいに撫で上げて遣《や》っていたが、少しずつモイラの哀しみが溶け去って、咽喉の嗚咽が鎮まってくるのを見ると、モイラの様子が哀れであればあるだけ、自分の胸を切ない恋の悶えの締め木にかけ、そうしておいてなんの感動もなしに、自分の掌から飛び立とうとしているこの小鳥を、もう少し傍において、泣かせ、窄《いじ》めつけて遣りたい、という、胸の奥で再び火を点けられたあるものが、燃え上がってくるのを、覚えた。

 アレキサンドゥルは再び、自制した。

「私を許して呉れますか? マドゥモァゼル?」

 アレキサンドゥルはピアノの蓋を閉じ、そこに肱を突いて、モイラの顔を覗き込んだ。

 モイラは眼を大きく開《あ》いていた。まだ涙のある大きな眼は、奥底になにかを潜めている。モイラは胸の奥に小さな、罪の意識を抱いていたのだ。モイラは自分が、アレキサンドゥルを好いていないのにも拘らず、アレキサンドゥルが自分を好いて、五月蠅《うるさ》くするのを、幾らかおかしく、思っていた。それをアレキサンドゥルが判っていて、それで、あんなに厳しくして、罰をしたのではないだろうか? という懐疑を抱いている。それが恐怖になっていて、まだどこかに幾らかの可怕さが残っている。その胸の奥に隠れている、罪の意識のようなものが、モイラの眼の底に、小さな炎のように動いているのだ。

 アレキサンドゥルは、自分には解らぬ、その微妙な表情に、深く、惹きつけられた。

「許して呉れますか?……」

 モイラの大きな眼が動いて、アレキサンドゥルを見た。モイラは何か解らぬ、魅するような眼でアレキサンドゥルを見ていて、小さく、顎《あご》を頷かせた。

 アレキサンドゥルは恋する男のように、胸がときめくのを、覚えるのだ。アレキサンドゥルの老いた、削ったような頬から|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》にかけて、薄紅い血が昇っている。

「パパにお手紙を上げようと思いましたが、忙しくてまだ書けませんでした。私は今度フランスに帰ることになりました。奥さんのお母さんが年寄って弱くなりました。そうして私たちを見たいと言っているのです。それで来週だけもう一度教えられるかも知れませんが、多分時間の都合がつかないと思います。そうすると今日で練習《ルツソン》はお了いです。もう私は将来マドゥモァゼルに教える機会はないでしょう。誰か他に代りの先生を紹介して上げたいと思いましたが、適当な人がありませんでした。私がマドゥモァゼルを見ることは多分もう、ありませんでしょう。マドゥモァゼルはもっと大きく、立派なお嬢さんになって、フランスへ来ますか? もし来るようなことがあったら、私の家に来て、マドゥレエヌや、私の姪のジャンヌにも会って下さい。パパに住所をお教えしておきますからね。わかりますか?」

 モイラはアレキサンドゥルの話に、幾らか、感動したように、見えた。だがモイラにとってアレキサンドゥルは、ひどくうるさい、時には可怕い存在でしかない。ただ遠いフランスへ離れて行くのだということと、アレキサンドゥルのメランコリックな話の調子に、誘い込まれるようになって、ふと寂しさを覚えたのに過ぎない。

「もし行ったら。……」

 とモイラは小さな声で、言った。

 モイラをいつものように、扉口まで送って出たアレキサンドゥルは、これもいつもの例のように、小さな貴婦人のように差し出すモイラの掌を、今日は両手で包み、小鳥を死なせまいとして温める人のようにして、二度、三度、うち振った。

「マドゥモァゼル。病気をしないようにして下さい。マドゥモァゼルがいつまでも倖《しあわせ》のように、お祈りしています。……それから、お別れの接吻《アンブラツセ》をすることを許して呉れますか?」

 と言い、モイラが引こうとした掌をその儘にして、微かに肯くのを見ると、アレキサンドゥルは軽くモイラの肩を抑え、長い体を折り曲げるようにして、顔を寄せ、そっと触れるような接吻を、モイラの頬に、与えた。そうして、生温い、体温の低い頬から逃れるように離れると、肩の掌を放した。ストイックな生活のスタイルを堅く保持して来たアレキサンドゥルが、恐らく生涯に一度の、過失の相手であったモイラに対して、礼儀の線を踏み外したのは、額に与えるのが普通の接吻を頬に与えたことだけで、あった。そうしてこの接吻はアレキサンドゥルにとって最後の恋の接吻で、あったに違いない。

 そうしてそれは、アレキサンドゥルがこの世で最初に、恋の恍惚というものを蔵《い》れた部屋に来て、その部屋の扉口まで来ながら、その儘で過ぎて行った虚しさの瞬間で、あった。それに少女は稚いが、自分をどこかへつれて行かせる、自分を抑えられなくするものを、持っていた。アレキサンドゥルは骨を刺す切なさを覚えると同時にふと、モイラの眼が、既に数分前の憂愁《メランコリイ》を、拭《ふ》いて取ったように無くしているのを、見た。そうして、ただ接吻が早く終るのを待っている気配が、肩の表情にも出ているのを知った。

(何という気分の変化だろう)

 だがアレキサンドゥルは今日、愕き怯えて泣いたモイラを、しんから気の毒に思う理性を失わぬことだけは、出来た。

 今日の、半ば狂ったようなアレキサンドゥルの根柢に、彼の理性は、いつも無くならずにいて、それがアレキサンドゥルの嵐を、その日幾度も、抑えたのだ。理性の鋼《はがね》の一線を踏み外して、稚い少女に恋の接吻を、与えたい。そうして胸に詰まり、悶えている愛のしるしを、モイラの上に残したい。それが出来ぬのならせめて、稚いモイラを尚も追い詰めて叱責しようという、そうして絶え入るほどに泣かして遣りたいという、アレキサンドゥルの体の内側に燃えさかりつづけた、常軌を逸した、それは火のような嵐で、あった。

 モイラは階段の踊り場で一寸ふり返って、階段の上まで来て起《た》っているアレキサンドゥルを見た。モイラの大きな眼は、底に先刻の罪の意識と怖れの戦《そよ》ぎを潜め、それでいてどこかに、アレキサンドゥルを自分の捕虜《とりこ》にした、というような、そんな感情も、意識の中にないでもない。そんな眼だ。

 アレキサンドゥルはふと、よろめくようになった足を踏みしめて、モイラを、視た。そうして、いつまでも記憶の中に蔵《しま》っておこうとでもいうように、凝固した眼を、その可哀らしい眼から離さずにいた。

(もう俺は、この可哀らしい眼を見ることは、ないだろう!!)

 アレキサンドゥルはモイラの、幾度か聴いたことのある可哀らしい靴の音が、とうとう消えてしまうまで、そこに立っていたが、思い返したように、縺《もつ》れた足どりで部屋に戻り、今しがたまでいた椅子に腰を下ろすと、ピアノの蓋に倦《ものう》げに肱をつき、その手の上に打ち伏すようにして、顔を伏せた。

 辺りは先刻より薄暗く、霧雨に重くなった窗掛《カアテン》だけが、かすかに明るい。

 アレキサンドゥルは心の中に、呟いた。

(あんな可哀らしい、罪のない、子供を相手に。……一体俺はどうしたというのだ。まるでパァテル・セルギウスか、サン・タントワンヌだ。……俺にはわかっている。それは俺が女というものを殆ど知らずに来たからだ。俺が年を取っているのに生《うぶ》だからだ。まるで青年のようなものだ。あの娘のちょうどいい相手なのだ。俺は女も、男も、知りはしない。巴里のような街にいて、他人《ひと》より多い男の血を持っていて。マドゥレエヌは、あれは聖母《マリア》で、そうして母親だ。俺が若かった頃傍にいくらでもいた、浮気らしい娘と、どうかなっていたら、或は俺に眼で誘いをかけた、どこかの尻軽な奥さんと、どうかなっていたら、こんなことにはならなかったろう。それはたしかにならなかったに違いない)

 アレキサンドゥルは吻《ほつ》と、呼吸《いき》をついた。

(だがあのモイィラという小さな娘の魔力は一体、何処から来るのだろう。俺は綺麗な子供なら、どの娘《こ》にでもあんなになるというのではない。俺がサジスティックな人間だということは、自分でも知っている。俺の練習《ルツソン》がサジスティックだと、生徒の間でも、教授仲間の間でも、評判されていることも、知っている。だが俺は妙な狂気《マニイ》ではない。あの下瞼《したまぶた》の膨らんだ、大きな眼は何も知らない。穢れがない。無邪気に大きく開《あ》いて、ものを見ている。それでいて何処かで、何かを感じとっているようだ。酷《ひど》くねんねでいて、何でもわかるようなところがある。それに、愚かなのではないのに、動作なども遅いところがある。そんなところが妙に可哀いのだが、あの娘の中に何があるのだ。あの魔のような力は何から来ているのか。あの魔力はどんなところに原因があるのか? まるであの牟礼林作という男が、奇妙な魔ものを伴れて、俺の前に現れたようなものだ。運命のように。俺はこの年齢《とし》になって、夢を見たのだな。楽しい、切ない、そうして短い夢を……)

 そうしてアレキサンドゥルは、一層低く、胸の奥底に、呟いた。

(……俺はモイィラを愛していた。……あの穢れのない、何も知らない、薄紅色の山査子《さんざし》のような脣を。……乾草の香いのする鳶色の髪を。円みのある、まだ固い肩を。……それらの、香気を放って実りつつある果実のようなものの成長を、俺は傍にいて、見護っていたかったのだ。それは確かに、そうだった。だが俺は……俺に親しまないモイィラを、憎みはじめていた。大分前から俺は、俺に親しもうとしないモイィラを、いつかは叱りつけて、泣かせて遣りたいような気に、なっていた。自分はそれの出来る地位にいる。そう思っていたようだ。それをとうとう俺は、やってしまった。……俺は悪魔のようにあの稚い、小さな心《しん》の臓《ぞう》に爪をたて、恐怖させて、あんなに長いこと吃逆《しやく》り泣きをするほど、厳しい言い方をしてしまった。……恋というものは神と悪魔が同居しているものなのか? それとも俺は病的《マラデイフ》なのか? あの、サジストという奴なのか?)

 アレキサンドゥルは、一度|倦《ものう》げに起《た》ち上がって電燈のスイッチを捻《ひね》つただけで、再び前の通りにして、ピアノに寄りかかった儘、マドゥレエヌの疲れた靴の音が、扉口に聴えるまで、鋭い眼を空《くう》に据えて、いた。熱のあるような、底に光るもののある、眼で、あった。

    *    *

 六月が終ろうとする暑い日である。

 モイラは林作の傍にくっついて立って、神戸行きの急行に既に乗り込み、小さな鞄や、帽子なぞをそれぞれの場所に置いたりしているアレキサンドゥルを、見まもっていた。大鞄《マル》や、バガアジュは既《も》う赤帽の手で網棚やシイトの下におさめられていた。俄かに老いの目立ったマドゥレエヌは、隈《くま》の出来た眼が、愕いた、かわいそうな獣《けもの》のように開《あ》いていて、その眼は昔美しかったことが見えているだけに一層、醜い衰えを感じさせる。

 極く薄い薔薇色に、白で縁《ふち》どりをした木綿の夏服に、細い黒|天鵞絨《びろうど》のリボンをひと巻きして長く垂らした麦藁帽子を被《かぶ》ったモイラは、アレキサンドゥルにとって不幸なことに、今まで見たどのモイラよりも可哀らしく、見えた。

 先々週の練習《ルツソン》の日で経験した、アレキサンドゥルの側からは明瞭《はつきり》、恋の出来事《アクシダン》と言い得る一種の雰囲気《ムウド》は、十一歳のモイラに、どこかで、あるものを加えたようだ。林作に寄りかかって、体を時々、捻《ひね》るようにしているモイラの様子には、なにか前とは異《ちが》ったものが、あって、アレキサンドゥルの心に不思議な戦慄を、伝えている。モイラの麦藁帽についた護謨紐《ゴムひも》が強《きつ》すぎるのが、出る前になってわかったので、直す暇がなかった。モイラは人差指を顎《あご》の護謨紐に絡めて、絶えず下へ延ばしながら、体を林作に、時々圧しつけるようにすることで、痛いという不機嫌を暗に林作に、訴えている。

 今しがた、ホームに立っていて、向うから来る林作父娘を迎え、林作と別れの挨拶を交していたアレキサンドゥルは、護謨紐の痕が薄紅く、いくらか炎症しているモイラの顎の下に、ふと眼を止《と》めた。モイラが何かに気をとられたように、傍《わき》を向いた時である。

 アレキサンドゥルの熱い眼を感じたように、モイラが顔をもとへ戻した。

「マドゥモァゼル、モイィラ、今度又別の先生に附きましたら、よく勉強なさい」

 アレキサンドゥルは微笑いの中にいつもの、どこかに恐しいものを隠した眼で、モイラを見て言ったが、声は幾らか震えをおびていて、柔《やさ》しい。アレキサンドゥルは、(紐の痕が痛いですか?)と、言いたかったのだ。そうして、自分の手で手当てをして、遣りたかったのだ。

「長い間こういう、不熱心な子供の練習で……」

 林作が、言った。

「いいえ、マドゥモァゼルの年齢《とし》では普通です。私は少し、厳しくし過ぎました。もっと柔しくて、それで技術のいい先生が見つかるように、祈っております」

 林作は、世話になった挨拶もせずに、くねくねしているモイラに、注意を与えるでもない。モイラの肩を両手で軽く抑えつけるようにし、困った奴だ、といった、だが愛情に溢れた顔で、モイラの様子を見ている。

 アレキサンドゥルは、浅黒い林作の頬にある、微笑にまで行かない、影を見た。嫉《ねた》ましい、美しい微笑いの影だ。彼は又林作の、黒地に細かい絣の上布《じようふ》に、同じような色の、「能」の舞台で見た水干《すいかん》のように透き徹った、蝉の翅のような、縫い紋の羽織を着、冬の袴とは又違った、さやさやと鳴る、濃い灰色の袴を着けた姿にも嫉ましい眼を遣《や》った。

 神戸に着くのが翌日になる。それから船が四十日近い。そうしてマルセイユから又一晩かかるのだ。ルノオ夫人の感冒の質《たち》が悪いというので、万一のことがないとも限らぬと、思っているマドゥレエヌは、母親の生きている内に会うことが出来るだろうか、という不安がしきりにしていて、それでこの二三日はすっかり、神経病のようになっている。その言い訳を夫に頼んでおいて、林作たちの来るよりさきに、車に入って、腰を下ろしていた。

 マドゥレエヌは先々週の、モイラの稽古日の夕刻、外出先から疲れ果てて帰って来て、部屋の扉を開けた時の光景を今再び、想い浮べている。その時以来、彼女の頭から寸時も去ることのない光景である。電燈が一つだけ、天井に点っていた。電燈が一つなのはいつものことであるのに、何故か、侘しい感じが、したのだ。電燈が一つだけ点った、薄暗い部屋の中に、ピアノの蓋に肱をついた手で額を支えて、もうかなり前からそうしていたように、アレキサンドゥルは凝としていた。愕いて顔を上げた時の、アレキサンドゥルの熱い、情熱に充ちた二つの眼を見た時、マドゥレエヌの足は敷居際で止まり、その儘動かなかった。それは今までの生涯に、自分に向ってはただの一度も、注《そそ》がれたことのない、熱い眼であった。夫のアレキサンドゥルからも、他の誰からも、自分が受けたことのない、熱い、恋の眼である。何かを隠そうとするように立って来た夫が、自分の肩に手をかけて、「疲れたかい、マドゥレエヌ」と言った時、マドゥレエヌはそのアレキサンドゥルの声音《こわね》の、魂がどこかへ行っているような、ひびきの中で、言いようのない寂しさ、胸のどこかを風が吹いて行くような、或虚しさを、受けとった。

 その時マドゥレエヌは、夫の肩越しに見えるピアノを、見た。そうしてそのピアノや椅子のある辺りに、ふと濃密な空気を、感じとった。濃密な何かの場面が、そこで今しがた、演ぜられた、というような、その後《あと》に立て籠める雰囲気《ムード》のようなものを、感じとったのだ。マドゥレエヌは夫を信じていた。だがなにかが、あったのだ。マドゥレエヌは、まだ覚えたことのない、醜い嫉妬の胸苦しさが、もやもやと胸に詰って来て、自分の前に立ち塞がり、不器用に言葉に詰っているアレキサンドゥルに、掻きむしって遣りたいほどの憎しみを、おぼえたのだ。

「どうなさったの? モン・シェリ」

 と静かに問うまでに、何刻か、マドゥレエヌは胸の中の胸苦しいものと、闘った。そうしてその後《あと》で、やっとの思いで吐き出した、マドゥレエヌのこの言葉は、表面だけの、心の籠らぬ、言葉であった。それは彼女がアレキサンドゥルに向って初めて発した、うわべだけの、不実な言葉で、あったのだ。

 アレキサンドゥルに向って、思うことを自由に打《ぶ》つけることをしない、というより、出来得ない、控えめで、温順な、マドゥレエヌの憎しみは、外へ発散することがない。憎しみは彼女の胸の内側に入りこんで、静かに蚕食して行く、小さな虫のように、彼女の心をいためるのだ。アレキサンドゥルは、モイラから離れて行くことの寂しさと、無体な嫉妬とで、胸に切ない塊《かたまり》を持ったような想いと、マドゥレエヌから受けた最初の冷たい仕向けと、それに加えて、マドゥレエヌを襲った、胸のいたみを、まるで自分のもののように感じとることの苦痛、それらの苦しみを打って一丸としたものを、胸に受けとめた。

 人間の神経は、夜と昼とではまるで異《ちが》ったものになることがある。苦しい二人の一夜が明けた時、二人の胸の中には穏かな恢復と和合の萌《きざ》しが、みえたようにも、思われた。何といっても、モイラの側には関心がまるで、無いのだ。モイラは十一歳と、今月で八ヶ月になる子供である。アレキサンドゥルが重苦しい胸の想いをおし被せて、執拗に追い廻すので、逃げたがったり、怖れて泣いたりするのであって、アレキサンドゥルの一方だけの愛情を、稚い少女なりに興味にしていて、アレキサンドゥルを父親同様に、捕虜《とりこ》にした、というように感じたりしているのも、子供心の域を出ていない。それに加えて、もう二人はこの娘から離れて、遠い祖国へ旅立とうとしている。それらの明瞭な事実はたしかに、夫婦の心と心との割《さ》け目に、柔かな作用をする、一つの接着剤のようなものでは、あったのだ。それが心と心との間を、繋ぎとめた薄い、出来たばかりの一枚の膜のような、まだ頼りないものでは、あったとしても。

「フォパ、デランジェ、モン・シェリ。ソワ、カルム(何もしないでいいよ。静かにしておいで)」

 小さな袋を持ち上げて、夫に渡そうとしたマドゥレエヌに、アレキサンドゥルが小声で、言った。今ではマドゥレエヌは、夫も切ないのだと、思うようにもなっている。夫は、礼儀に外れたふるまい一つした筈はないのだ、とそういう信用も、マドゥレエヌはアレキサンドゥルに対して、持っていた。マドゥレエヌは夫を許そうと、努めていた。

(もっと悪い夫の話を、私《わたし》は幾度友だちから聴いたことだろう。セリメエヌやシュゼットゥの話は、ほんとうに恐しかった)

 マドゥレエヌはそんな、昔の女友だちの話などを想い起してもいた。マドゥレエヌは、そういう打明け話を想い浮べることで、心の重くるしさを紛らわそうとするのだが、そんな時却って、

(……だが、その女たちの苦痛より私《わたし》の苦しみが弱いと、そんなことがどうして、言えよう。同じ家の中で、夫が醸し出す恋の雰囲気《ムウド》は、それがそれだけのものであろうが向うが子供であろうが、妻にとって耐えられないということでは同じではないだろうか? あの日、庭の紫陽花を、夫の手で挿してあったのを見た時、私《わたし》はどんなに切なかったろう。どんなに彼を憎んだろう。あの花壜は私《わたし》たちの蜜月旅行の時に購《か》ったものだった。私《わたし》には一度だってして呉れたことのないことを……、あの娘の為にはしたのだ)

 と、そんな反撥が強く起ってくる。そうして、幾らか鎮まりかけたものが、又忽ちに後戻りをする結果になった。

 マドゥレエヌは先刻の、窗の下の夫と林作とのやりとりを、すべて耳に止《と》めていた。

 アレキサンドゥルが林作に、〈厳し過ぎた〉と言った言葉は、前後のニュアンスで、言葉以外の或重みを帯びて、マドゥレエヌの耳に入っていた。それを受けた林作の言葉の中にも、何かを推察している、というような、微妙なものがあって、マドゥレエヌはそこに一つの秘密の匂いを、かぎ取った。その〈厳し過ぎた〉という言葉に纏綿した、妙なニュアンスはマドゥレエヌに、アレキサンドゥルとモイラとの間にあった場面が何であったかを指し示すと同時に、もう一つマドゥレエヌが持っていた、小さな疑問をも一気に説明してくれたのである。マドゥレエヌは身の廻りのものを片附けていた時、手巾《ハンカチ》の抽出しから、大切にしていた一枚が無くなっていることに、気づいて、不審に思っていたのだ。それはルノオ夫人が自ら刺繍をして、彼女に与えたものである。マドゥレエヌの疑問は、すべて氷解した。マドゥレエヌは、アレキサンドゥルがモイラを、執拗な練習で責めつけて、故意に泣かせたのだ、ということ、そうしてその時、モイラの涙を拭いて遣ろうとして持ち出した自分の手巾《ハンカチ》を、アレキサンドゥルがどこかへ隠して持っているのだ、ということを、知ったのだ。モイラに何か言った、アレキサンドゥルの声の震えも、マドゥレエヌは気づいていた。そうしてマドゥレエヌは、夫とモイラとの間にあった、最後の練習日の、夫の側だけの一方的なものであったとはいえ、愛の情緒に濡れた場面を、今目の前に見るように想い、そうして忽ち、切なさが、もう既に多くの時、動揺することがなくなっている、静かな胸の奥底に、滲みるような痛みを圧しつけてくるのを、覚えた。だがマドゥレエヌは、窗の下に立っている林作に対して、取り乱した様子は見せられない。

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