饭饭TXT > 海外名作 > 《甜蜜的房间 甘い蜜の部屋》作者:[日]森茉莉【完结】 > 《甜蜜的房间-甘い蜜の部屋》作者:森茉莉.txt

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作者:日-森茉莉 当前章节:15406 字 更新时间:2026-6-23 06:49

「モイラ様。何か別に、お造りして参りましょうか」

 モイラは一寸鼻白んだようで、おとなしく頸を振った。

「…………」

「モイラは大きな白い魚が食いたいのだ」

「はい?」

「いや、冗談だ。やよはあの二人の食事を、今から直ぐに出して遣れ、心配しないでお前も先に食え」

「はい」

 やよの大声を殺した小さな声は、感謝に溢れている。

「では旦那様」

「モイラ。パァパが今日は家にいるから、肉汁《スウプ》を一口|遣《や》ってごらん。一寸濃いが美味い。後《あと》はパァパの部屋で寝台《ベツド》を慥《こしら》えて上げるから、少し横になれ。パァパの部屋にある夜食用の缶詰で、やよに麺麭《パン》を持って来させよう。どうだ」

 モイラは林作を視て、黙っている。だが反対はしなかった。林作を困らせたことと、会社を休ませた満足とで、モイラの中の不思議なモンスタアは一応、抑えられたようだ。

 男の冷静を持っている林作は、自分の前にモイラのような肉食獣の現れなかったことを倖《しあわせ》なことに思っているが、本来女好きで、生来モイラのような型の女を好んでいる。だがモイラのようなのは、モイラが最初である。

(こういう女の子を、娘にせよ身近に置くのは、これが最初の最後だろう)

 と、林作は想っている。三十六歳でモイラの父親になった林作は今年五十二歳になる。まだ老いの兆候はない。だが現在林作は、十五歳と六箇月になったモイラを眼の前に見ていて想うのだ。

(この先どんな女にせよ、俺に女が出来るということはないだろう。それはモイラというものが、俺の胸の中で、女が占める筈の場所一杯に、存在しているからだ。一人娘というものは父親の最後の愛人だというが、そんな例も見ているが、だが俺の場合は、モイラが最初で最後の恋人だといっても間違いはなさそうだ)

 モイラは林作が氷片を入れて呉れた肉汁《スウプ》を、厭々のように持った匙で掻き廻し、少し掬《すく》って脣《くち》に運んだ。

 牛肉の肉汁《スウプ》は、口惜しいが美味《うま》いのだ。急激に腹が空いて来ている。だがモイラは、やよがもう一度冷たくして来たハムの皿には眼を向けないでいた。

 結局やよに、次の者のために炊いた熱い飯を持って来させ、冷蔵庫に入れてあった、やよの母親が持って来た卵の黄身をかけて、二杯食った。

 林作は、どこか淡黄を帯びた薔薇のような色の脣に、卵をかけた飯を銀の匙で一口、一口運んでいるモイラに、眼を遣《や》った。

(まだ子供だが、綺麗になったものだ。円かった顔の形が幾らか長くなって、顎が細く見えるようになって来ている。鼻は円みを残したままで整って、来た。莫迦な甘えようさえしなければ優美で、気品さえ備った顔になって来た。体も殆ど大人だ。皮膚は、若い男の眼には危険な、むしろ毒な肉感を、持って来ている。まだ成熟の過程にあるとは言っても、たしかにモイラは気品と肉感とを同時に持った、異様な美を遂げたといっていい。だが、甘える時の他は、もう成熟した女に見紛うようなモイラの顔が、どうだ。脣《くち》だけは幼い頃のままだ。脣だけが幼いままでとり残されている。西洋の彫刻なんぞを標準にすると、幾らか厚くて、肉感的ではあるのだが。整って来た顔と、まるで幼い脣とが、どこか均衡の破れた、面白い対照をしている。俺が幼い頃から、賞美して来た脣だ。賞美して来た、というより、賞味して来たと言った方が、正直な告白だろう。俺は幾度か知れないほど、あの可哀らしい脣の接吻を受けている。俺は何度か、睡っているモイラの仇気《あどけ》ない、半ば開《あ》いた脣に、見惚《みほ》れて来た。幼いモイラの頬に接吻をして遣る時、俺はあの脣を意識していなかったとは、言えない。俺がモイラのようなのを女に持たなかったことはたしかに、嘉《よみ》すべきだろう。若し情人がこんな脣を持っていて、この脣が俺を裏切って、他の男の接吻を受けたとしたらどうだ。そんな場面を俺が見てしまったとしたら、どうだ。俺はその場を平静に切りぬけることが出来るだろうか? 表面の平静ではない。内面の平静が保てるだろうか? それは出来まい。モイラは俺の娘だ。それで俺はこう遣《や》って静かに、この可哀らしい脣を見遣《みや》っている。モイラの脣が俺を裏切った形になったとしたところで、又その裏切りが俺の眼の前でなされたとしたところで、俺はそれを見ていることが出来るだろう。好きな舞台女優の恋愛場面を見るように、一寸締りのない微笑いを浮べるかも知れない。その微笑いの中に、或は微かな、苦い味が混《こん》ぜられない、とはいえない。……その苦い味は、嫉妬の味であるかも知れない。だが酷いものらしい恋の嫉妬の苦痛は、ないだろう。俺とモイラとの間に長い月日をかけて培われた、微妙な、密着が、それによってそこなわれることのないのを、俺が知っているからだ)

 モイラの脣が又、卵の飯に対《むか》って小さく開き、銀の匙に吸いつくようにして飯を口に入れた。

 林作は肉刺《フオオク》の手を休め、モイラの無心に開《あ》いて、匙をしゃぶるようにする薔薇色の脣に、我にもあらず凝《じつ》と、見入った。

「美味《うま》いか?」

「うん」

 モイラは横顔を見せたまま、不機嫌を装って、答えた。

 林作は浅黒い頬の内側に微笑いを溜め、涙が乾いて、どこかにまだ生熱《なまあつ》さを残しているようなモイラの頬に、やや好色な眼をあてた。

    *    *

 林作はモイラにとって長い間、〈好きなパァパ〉であり、〈甘える対象〉であったが、モイラが十三歳になった頃から、林作はモイラの中にはっきり、尊敬と蜜の甘えとの対象としての風姿を、現すように、なった。

 二年前の十二月二日のことである。モイラは学校から帰って、湯殿の前から登る裏階段に来ると、二三人の職人らしい男が下りて来るのに出会った。階段には藁屑や、布の切れ端が落ち散っている。モイラの後《うしろ》で、湯殿から来たらしいやよが、

「モイラ様、モイラ様のご立派な寝台《ベツド》が出来てまいりました」

 と、言ったが、男たちの後から柴田の足が見えてくると、湯殿へ引込んだ。一寸やよの影に眼を向けた頭《かしら》らしい職人を先に、二人の職人がモイラに会釈をして、玄関に去る後《うしろ》から下りて来た柴田が、

「旦那様がお待ちでございます。寝台が出来てまいりました」

 と、やよの出て来たことを知っている声で、言った。林作がモイラを歓ばせようとして、モイラには黙って、寝台《ベツド》を誂えていたのだ。その日はモイラの生れた日で、その日からモイラの寝室が、林作の書斎と廊下を隔てて向い側の、死んだ母親の居間兼、寝室だった部屋に移されたのだ。部屋に入ると、広い部屋の真中に、格子のように四角く仕切られたデザインの、その一劃、一劃に、曲りくねった樹や、鳥、裸の女なぞが彫ってある、欅材のセミ・ダブルの寝台が、どっしりと置かれている。

 モイラは半ば脣《くち》を開け、見る見る頬から耳にかけて紅潮して、立ち止った。眼が潤んだようになって、脣の辺りが締りのない、赤子のような微笑《わら》いに弛んだ。奥の壁際に立って、何か話していた林作と常吉《つねきち》とが同時に振り返って、モイラを見ている。

「モイラ。此処へ来て立って御覧。丁度この辺の筈だ」

 林作は外出着の儘の、薩摩絣の着物に塩瀬の縫紋の羽織の胸の下辺りに掌《て》を遣り、後《あと》の言葉は常吉に向いて言った。林作が昔、繁世《しげよ》の為に伯林《ベルリン》から送った、楕円形の鏡を、モイラの背の高さに合せて、掛け直すので、常吉が呼ばれていたのだ。その時の、浅黒い頬の内側に甘い微笑いを溜めて、自分を見ていた林作の立像と、その傍に控え目に立って、暗い額の下から、静かな、だがどこか苦しげな眼を自分に向けていた常吉の姿とは、不思議にモイラの記憶の中に長く、明瞭《はつきり》と、残っていた。

 その頃、襟を小さく明けただけの、何の飾りもない筒形《つつがた》の、色は紅《あか》だが、ひどく大人びた服装《なり》をさせられていたモイラは、身動きをする度に、小高い乳房の影が既に感ぜられ、腰も丸く持ち上がっていて、どこかに、少女の体を熟させる春の萌しが、みえていた。それが常吉の胸を切なくさせ、その頃から彼の額には時折、暗いものが纏《まつわ》りつくように、なったのだ。モイラが微笑いを消し、かすかに体をくねらせて、そのいくらでも愛情を食いたがる貪婪な眼で、林作の表情の中にあるものを、いくら舐《な》めても舐め足りるということのない甘い蜜を、母の乳房をむさぼり吸う強い赤子のようにして吸いとり、その眼を常吉に移した時、常吉は既《も》う背中を見せて、林作のを下ろした柔かな革の手袋を嵌めた掌で、鏡を下ろしにかかっていた。常吉のモイラに対する感情を、林作は気附いていたが、彼の常吉に対う時の、自然な様子は変らなかった。

 常吉は、モイラに対して抱いている切ないものを、表面には出さぬようにしていたが、満十三歳のモイラは、常吉の変化を感じとっていた。モイラは林作との間にある幼児の頃からの愛情の歴史や、ピアノの教師の、アレキサンドゥルとの不思議な経験によって、身近にいる男との間にある、恋愛的なものには馴らされている。モイラは、当然起るべきことが起ったように、想っていた。だが、自分の擒《とりこ》が一つふえたことに、肉食獣の歓びを持っていて、窃《ひそ》かに常吉を偸《ぬす》みみていた。常吉はそんなモイラの中の、可哀らしい悪魔を、読みとっていた。モイラが、幼い時のように自分と手を繋いで、廐舎に馬を見に行きながら、何か言って、自分を凝と見上げるような時、常吉は胸の中に持ち上がって来る、愛情というより、切ない、愛情とも、なんともわからない、熱い塊《かたまり》のようなものを、抑えた。常吉は、自分の胸の中に、折にふれ持ち上がって来る、苦しい、切ない塊が、恐しいものだと、知っていた。育ててはいけないものだと、知っていた。その苦しい塊は、何時《いつ》何刻《なんどき》、恐しい慾望に変るかも知れぬものである。常吉は自分の中の切ない塊を、何《ど》う遣《や》ってでも、抑えなくてはならないと、思っていた。モイラは未だ十四歳になるか、ならぬかの、少女である。そうして、モイラは常吉にとって、恩義のある主人の、令嬢である。常吉は、林作から聴かされている、自分の父親のイワノフに、誇りを持っていた。日露戦役で、林作の父親の大作が、軍医として遠征していた、同じ戦線で戦ったロマノフという将校に、特に眼をかけられていた、父親のイワノフの、誠実で、勇気のある性格を、誇りにしていた。それに加えて常吉は、自分自身にも誇りを持とうと、心に思っている男である。常吉は(立派な男として生きよう)という、少年の頃からの誓いをたて抜こうと、思っていた。身分は馬丁でも、自分もイワノフのように誠実な、勇気のある馬丁として、生きて、死のう、という決心を、常吉は改めて固め、モイラへの切ない愛情を、抑制することを、心に誓った。

 いつとはなしに、常吉は変った。それまで常吉は、林作への忠誠と、畏敬とから、控えめに、つつましく振舞っていたが、だがそうやっている中にも、奔放な、生《なま》の男を、感じさせていた。襯衣《シヤツ》や、厚地のカーキ色の洋袴《ズボン》の下に生身の男を漲らせていたが、少し宛《ずつ》、その生なものが体の内側に籠り、生ぐささを洗い落して行って、よほどのことがあって、節制の誓いを破る羽目に陥らぬ限り、常吉の中の生なものは、彼の体から漲り出ることはあるまいと、思われた。林作はそれを、視ていた。そうして彼の常吉への愛情と信頼とは深まって、行った。

 その林作の心持は、モイラの十四歳の誕生日の翌日から、常吉を、屋敷内ではドゥミトゥリイと、呼ぶことにしたことにも、現れていた。常吉の父親のイワノフが、常吉という日本名《にほんな》とは別に、ドゥミトゥリイという名を、戸籍には載せていないが、附けていたのである。そのドゥミトゥリイというロシア名《な》は、イワノフが、愛する息子のために、結婚をせぬ前から、主人のロマノフに、貰っていたものだったのだ。当時は日本の人間の、ロシアというものに対する感情が酷《ひど》かったので、ロシア名《な》を附けることは憚られた。イワノフはそれを大作に話しており、林作も大作から聞いていたのである。その常吉の、隠された感情のせめぎと、林作の常吉への愛情、その二つの感情の交流が、モイラの新しい寝台が運ばれた日、壁際に立っていた二人のようすの中に、図らずも滲《にじ》み出ていて、それでその二人の男の立っていてこっちを見た、その壁際の立像は、モイラの心に強く、印象されたのだ。

 モイラは、浅黒い頬に蜜の微笑いをひそめて自分を視る林作と、額に暗いものを纏いつけ、肉の厚い頬に愛情の寂寞を刻みつけ、白い歯をみせて、何かを噛み砕く時のような口つきで微笑う常吉とを、二人の優しい恋人のようにして、持っていた。常吉の微笑う脣は、胡桃を歯で噛み割る人の口つきに、似ていた。

 モイラは常吉を伴《つ》れて、林作と、車で厚木街道を走り、林作がそこに見つけた深い、森のような林に入って遊ぶことがよくあったが、持って行った胡桃の殻を常吉が、歯で割った時、その口つきが、常吉の平常《ふだん》微笑う時の口つきとそっくりなのを見て、帰ってから林作にそれを言い、林作も微笑って同意をしたことがある。林作はその林を、独逸《ドイツ》の森に似ていると、言っていて、よくモイラをそこへ伴《つ》れて行ったが、モイラも、枯葉の香《にお》いや、若葉や、若木の香いの混り合った、森の香いをひどく好くようになった。林作はモイラと常吉を伴れ、時にはやよをも伴って、その林に出かけた。そうして、林の中の樵夫《きこり》の通る道を、モイラと常吉を伴れて歩いたり、林作は毛布を敷いて書物を読んだりして、楽しい午後を過し、やよが一緒の時には、壜に詰めて来たシチュウや肉汁《スウプ》を、酒精《アルコオル》洋燈《ランプ》で温めたりもした。独逸の森の遊びが終ると、常吉かやよが手まめに、跡を片附け、食いものの皮や、竹の皮、なぞの残骸を焼き、疲れたモイラはその間草の上に敷いた、林作の毛布の上に睡った。常吉の感情に変化があってからは、林作は森遊びをいつとなしに止めた。森の遊びは、悩みを持つようになった常吉を伴れて行くのには不適当だし、急に常吉を伴わないようになることは、常吉を傷つけるからで、あった。そうしてこの林作と常吉との、二人の恋人の微笑いはそのどっちもが、林作の友人が持って来てくれる上等なチョコレェトの苦みを、持っていた。

 モイラはそういう、林作と常吉との、自分を中心にした気持の交流を、稚い頭のどこかで捉《とら》えていて、それが林作を尊敬させる、漠然としたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]になったのでもあったが、まだ何もわからない、幼い頃から、モイラは林作の表情や、ものの言い方、すべての林作のようすに、或るあこがれのようなものを、持っていた。特に林作が車のシイトや、長椅子に掛けている、ゆったりとした様子を、モイラは又とないものに思っていて、薬を飲む時間や、寝室に引きとる前の時間を、林作の膝に凭《もた》れて、外国の本の挿絵を眺め、彼の話を聴くのを、楽しみにしていた。そんな或日、贅沢な料理をむさぼり食ったり、装飾の附いた浴槽に浸《つか》ったりしている、四五世紀前の王の画像を見ていて、林作が、

「これは偉い王様の画像だ。御覧、偉い王様というのは偉そうにしたり、強がったりはしないものだ。大変、食いしん棒だったり、モイラのような綺麗な娘に踊を踊らせて、眺めるのが好きだったりするようなのの中に偉い王様がいるものだ」

 と言ったことがある。その時林作がふとモイラを見て、微笑って言った。

「モイラは小さな王様だ。だがこの頃はあまり偉くないようだな。悪い王様だ」

 光沢《つや》のある褐色の髪がこんもりと厚いお河童《かつぱ》の中から、大きな眼を光らせて聴き入っていたモイラが、凝《じつ》と林作を見上げて、満足そうな顔をしたが、林作の言葉の後《あと》の方を耳に入れると、耀々《きらきら》していた眼の中に不平な色が出て、脣が膨んで、尖った。林作はモイラの眼の中で歓びや、倦怠、稚い狡猾、不満、不機嫌、なぞが、絶え間なく変動する、その変化を、愉《たの》しげに見ていて、それを生甲斐にしているように見える。林作はモイラの眼の中に、小動物が怒ったような不満の色が出たのを見ると、モイラの小さな顎に掌をかけて、もう少しよく見て遣ろうというように、上向《うわむ》けた。林作のその仕科《しぐさ》を、意地悪と取っているモイラの眼は一層|怒《いか》って林作を見据えるようにする。林作が、モイラの薔薇色の脣に、特に魅せられるのは、そんな時刻《とき》だ。上脣の中央が小さく突き出た、柔かな花のような脣は、無意識な媚を湛えて、不平でならない、というように、膨んでいるのだ。

 その日以来、モイラは、自分を偉い王様に擬していて、御包や柴田、出入りの男の鴨田、なぞに対する、思い上がった様子や、我慢をするということを知らない、底無し沼の我儘、体を動かしてすることはすべて厭だという蛇のような怠惰、直ぐに何かを口に入れたがる食いしん棒と、絶えず何かしらんに寄りかかっている行儀の悪さ、それらの欠点を、自分が偉い王様だからだと、思い込むようになっている。林作はそういうモイラを、ますます、可哀らしいものに思うようになった。そうして次第に林作は、小さな王者のように驕《おご》っている、そうして、絶え間なく愛情の生餌を食いたがる猛獣の仔を飼い馴らす、巧みな調練師になって、行った。

 モイラは幼い時から、周囲《まわり》の人間が、自分に溺れたり、夢中になったりする原因が、自分の綺麗な顔や体、皮膚、可哀らしい、大きな眼にあるということを、知っていた。父親の林作の、自分に溺れている愛情や、アレキサンドゥルの、執拗で、サジスティックな、愛情というよりは狂気のようなもの、熱い湯のように、胸に入って来る、常吉の愛情。それらのものが、自分のものになったのは、自分の魅力が原因だと、いうことを、感じとっていた。又表面は、それらのものとは反対のもののように見える、憎しみのようなもの、例えば御包のサジスティックな憎悪、柴田の醜い嫉妬。厭らしいということが、どんなものか知らぬモイラにも、ひどく不愉快なものを覚えさせた、鴨田の眼つきや、粘りのある、ものの言い方。それらのものが自分を襲ったのも、やはり自分の持っている魅力にあることにも、モイラは気づいていた。現在ではその自信は、大きな、重みのあるものに、変っている。

 林作の甘い蜜の愛情は、その濃密さを増して来ていて、モイラの心も、体も、溶かして、蜜のようにしてしまう程の誘惑を帯びて来ている。林作の愛情が、舐《な》めても、舐めても、無くなることのない、大きな蜜の壺であることを、モイラは知っている。知っていながら、その蜜の壺の中にある蜜を、拗ねたり、困らせたりすることで、どれ程無尽蔵か、試して遣りたい、強烈な誘惑に捉《つか》まるのだ。憎んだり、嫉妬をしたりする、厭らしい方の側も、御包や柴田などに代って、尼僧のロザリンダが登場している。既に御包や柴田を恐れぬようになったモイラも、ロザリンダの、粘りつくような眼には、参っている。ロザリンダは、修身の話をしながら、じろり、じろりと、モイラの顔や、体の動きを眼で追っている。どうかするとロザリンダの脣じりの下った脣が弛んだようになり、二つの眼が鈍く光って、モイラの怯えた顔の上に固定する。その眼はモイラの袖の無い夏服を着た肩に、移るのだ。モイラは、車で迎えに来る常吉に、暗い、大きな眼を見張って、無言で訴える。すると常吉の、罪のある男のように、切なく光る眼が、それを見迎えた。そうして、

(どうしたのですか、モイラ様)

 と、彼も黙って聞くのである。モイラは車の中で、ロザリンダの恐しさについて一心に、話すのだ。御包や柴田が、幼いモイラを苛《いじ》めた頃から、同情者だった常吉は、傷ついた小鳥を見るようにして、モイラを見る。そうして必ず適切な、慰めの言葉を与えて呉れる。モイラは次に林作に、訴える。だがモイラが、林作と常吉とに訴えて、ようよう一時、恐しさを忘れても、ロザリンダは何処までも、モイラを追いかけて、来た。ロザリンダは夢の中まで追って来る。モイラはロザリンダの、大きな、浮腫《むく》んだ顔を夢に見て、怯えた。

 重みのある、揺るぎのない自信を持ったモイラには、魔のようなものが更に、加わったようだ。モイラの眼はいよいよ、曇りをおびて光り、その眼は常吉に試煉の火を与え、一方では林作の心を、愛の深みへ、引き入れて、行った。

    *    *

 林作は、モイラを飯を食いにでも伴れて行こうと思って、早く帰った日などに、モイラが学園から帰るのを待つ間、書斎の肱掛椅子に深々と体を凭せかけ、吸い差しのウェストミンスタアを指の間に挟んだ儘午睡代りの積りで軽く眼を閉じているような時刻《とき》、六月の初めの月曜日にあったモイラの異変を、ふと想い出すことが、あった。

(あれが、モイラが手に負えなくなった、最初の兆候だ)

 と、林作は思った。

 突然に、ひどい不機嫌に陥ったあの朝、林作が終始、モイラの機嫌を取って遣り、その上に、モイラの望む通りに会社を休んで、機嫌が直るまで傍に附いていた。モイラはその時の満足感に味をしめていて、それから後は少しばかりのことで忽ちムウディイな気分の中に陥ちこむように、なった傾向がある。だがそれはモイラが、林作に甘えようとして故意に遣るばかりでもないのを、林作は視ていた。モイラは幼い時から、何かを凝と、見ているような時、不機嫌だ、というのではないが、何処かわけのわからない、むっとしたようなものが感じられる、子供だったのだ。それが十五歳と六箇月の或朝、不機嫌に陥ってからというもの、モイラの不機嫌の中に陥ちこむ、気分の傾斜面が、滑りやすくなった、というような、そんな感じがある。

 モイラの不機嫌は全く、奇妙なものである。モイラの不機嫌は、たとえば風の凪《な》いだ蒸暑い夏の日、空気が少しも動かなくなって、重く、湿ったようになる、そんな天気に、似ている。樹々の梢が微かに動いているのが、却ってむっとする暑熱を煽《あお》っている、そんな蒸暑い日に感ずる、重い、空気の堆積のようなものが、ふとモイラの中に出て来て、それが辺りに拡がる。その気分は、モイラの、気孔のないような、緻密な、蜜を塗りつけられたような皮膚の感じに、似ているようでもある。六月に咲く、紅い百合の、茎を折る時に発するような、重い、抵抗出来ない、モイラの皮膚の薫香にも、似ているようだ。そういう皮膚や、百合の薫香そのものが、不機嫌《ムウデイイ》な気分を発するのではないかと、思われる程である。モイラ自身、自分の気分を、もて扱って、いよいよ不機嫌になるのだが、その拗ねる様子は大きくなった今、いよいよ籠った、湿り気のあるものになって、それは重い、量のある、エロティシズムに通じている。そうして、その蒸し出されるものは林作を魅惑するのである。我儘一杯に不機嫌を撒きちらすモイラが、その我儘を知っていて遣《や》っているのは分明ではあるが、どうもそこにはもう一つ明瞭《はつきり》しないものがあると、林作は思うのだ。まるで我を忘れているようなところがある。比斯的里《ヒステリイ》のようなものではないだろうかと、林作は思うのだ。

 最初の時には、子供から大人になる時期の変調だろうと思っていた林作は、この頃になって、このモイラの、時折陥ちこむ一種の気分のようなものが、モイラの生得のもので、それが蕾のように結ぼれていたのが六月の月曜日のあの朝、突然に花開いたのではないかと、思うようになっている。一時期のものなぞではなくて、モイラの性格の中にあるものが、明瞭《はつきり》した形をとって来たのかも知れないと、林作は思った。

 何よりも、林作自身、モイラがそうなっている時の可哀らしさに魅せられて、そこに溺れ込んでいるので、林作はモイラを、そういうモイラの儘で眺め、愛情を傾けている状態になっている。林作にとって、モイラのそんな様子を眺めていることは甘美な、蜜の歓びで、あったのだ。

 モイラというものが、もう一歩で成熟するというところに来たこの頃の林作は、モイラという紅い百合の中心にひそむ花の蜜が、どんなにきれいで、豊饒であるかを推察していた。林作は言いようのない微妙の中で、モイラという綺麗な花の存在を感じ取っており、現在のモイラに傾ける彼の愛情の微笑いは、一層甘やかに、いい知れぬ複雑をみせて来ている。

 林作は、五十歳を越えた現在《いま》になって、花をつけた樹々の中の、辺りの空気も薫香を含んでいる小径に、足を踏み入れたのを、感じている。

(だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない……)

 林作は心に呟くのだ。古武士のような、端正な、眼を閉じた林作の顔の上に、仄かな微笑いが、花の香《にお》いのように、漂った。

    *    *

 既に幾らか、女の魔をひそめ始めたモイラは、どうかすると、無意識のように拳固《げんこ》にした掌《て》を脣《くち》にあてていたり、長椅子の背に凭れかかったりしながら、表情のはっきりしない魔の眼を、凝《じつ》と、林作にあてていることがある。傍《そば》に人がいるような時に、よく遣る。それも別な娘が、林作との間にいるような時だ。又、モイラは、上目|遣《づか》いに眼を白くして、林作を横から視る。たとえば林作の書斎の長椅子に、遊びに来た野枝実《ノエミ》と並んでかけていて、向い合った林作が、ノエミに話しかけているような時だ。ノエミにものを言いながら見ていると、ノエミから少し体を離して、足を組み、掌で膝小僧の上の辺りを、捉むようにしながら、横からノエミを視、又林作を視る。

 そのモイラの眼は、大して意識して遣るのではないらしいが、なかなか、強《したた》かなものだ。茫洋とした眼の中に、(自分はノエミよりも魅力がある娘だ。どの娘より、自分の方が、愛せられるのだ)というような自信が潜んでいる。その自信が、立て籠めた雲の後《うしろ》にある月の光のように、潜んで、居据っている。モイラは、林作と話しているノエミを全く除外して、林作に愛情の強請をしているのである。林作の胸の底に、抑えることの出来ない、溺愛の情が、滲み出る。そうして林作は、女を二人傍において遊んでいるような錯覚に、陥るのだ。

「ノエミはパパと、どんな話をするの?」

 林作が聞くと、ノエミは、モイラの眼と、何処か共通したもののある暗い眼を凝とさせ、黙っている。

 その時、モイラがふざけて、後《うしろ》からノエミの顔を覗くようにするので林作が、

「パァパがノエミにお話をしている時に、そんなことをしてはいけない」

 と、微笑《わら》いを潜めた、厳しい眼を向けると、モイラはそれを止《や》め、今度は黒い靴下の片脚を折り曲げ、一方の脚を投げ出して長椅子の奥に沈みこむように座り、上目遣いに二人を視ている。林作は、その日のノエミの様子を不審に思ったので、ノエミが帰ってから、モイラに訊ねた。そうして初めて林作は、ノエミの境遇を知った。モイラの断片的な、意味の取り難《にく》い話を綴り合せると、ノエミの祖母が優しみに欠けた女で、その女が母親の居なくなった家の中で、一人で大きくなっている様子である。殆ど家にいない父親には、発言権は無いのも同じで、ノエミが欲しいと訴える洋服のようなものも、父親が祖母に頼んで呉れはするが、効き目はないらしい。そんな様子を知った林作は、ノエミに気の毒なことをしたと思うと同時に、モイラがノエミに遣《や》ったことはいけない、と思った。これは言ってきかせて遣らなくてはいけない。そう思った林作は、膝に凭れているモイラの多い、艶のある髪を優しく撫でて遣りながら、言った。

「マァマがいないのは、ノエミもモイラも同じだ。だがノエミのパァパはノエミやモイラには解らぬことで疲れているのだ。それでパァパのようにいつもノエミの傍にいて、ノエミを可哀がって遣ることが出来ないのだ。わかるか? その上に可怕《こわ》いお祖母さんがいる。そんなノエミに、パァパのことを聞いている時に先刻《さつき》のようにふざけて、ノエミを揶揄うようなことをしてはいけない」

 モイラが甘えるように首を振って、林作の掌を払いのけ、いつものように片頬を膝に擦りつけるのを見ていた林作は、両掌をモイラの頬にかけて上向《うわむ》かせた。林作の言葉を子守歌のように、うつつに聴いていたモイラは、頬にかけた林作の指先に、今までにない程力が入っているのに愕くと同時に、林作の自分を視る眼の中に、今までに見たことのない、厳しい色が潜んでいるのを、見た。長い睫毛が音をたてそうに、眼を二つ三つ瞬き、脣を泣こうとする直前のように歪めて、モイラは林作の眼に、見入った。見まちがえではないか、と思っているような眼だ。母犬の腹に鼻を擦りつけて乳首を探す仔犬のような、眼だ。林作が、哀れでならないのを抑えて、厳しい色を消さずにいるのを知らぬモイラは、汗ばんだ掌で林作の掌をおし退《の》け、愕きと、わけのわからない昴奮とで紅潮した顔に涙をふり滾《こぼ》して起ち上がった。一寸の間そうやって、立っていたが、号泣寸前の顔で林作を一目《ひとめ》凝と視ると、背を向け、部屋を駆け出て行った。最後に自分を視たモイラの、子供のような泣き顔の中に疑惑と、飼い主に鞭打たれた仔犬のような、哀しみを見た林作は、覚悟していた以上の寂しさに襲われた。大切なものが掌の中から抜け出て行くような気がする。モイラの後《あと》を追いたいのを、林作はようよう、堪えた。追いかけて行って、モイラを許して遣り、甘い言葉の限りを尽して抱き締めて遣りたい、殆ど恋の情熱のような愚かしい心を抑え、林作はウェストミンスタアの缶に、掌を伸ばした。

 モイラは走って玄関を出、常吉のいる馬丁部屋に、駆けて行った。

「ドゥミトゥリ」

 赤馬の蹄鉄を打ちつけていた常吉は、涙で濡れた顔で走って来るモイラを見ると愕いて、手を止めたが、手早く打ちかけていた蹄鉄の釘を打ちこみ、赤馬の脚の下を潜《くぐ》りぬけ、大きな掌で首を一つ二つ叩いて愛撫してやると、モイラの傍に立った。

「どうなさいました。モイラ様」

 モイラの泣きながら、跡切れ跡切れに言う言葉の中に、「パァパが」と言うのを聴きとると常吉は、急いで狭い洗い場で手を洗い、部屋に上がって行って、白い手巾《ハンカチ》を持って来てモイラの涙を優しく、抑えた。モイラの唯ならない哀しみを見て、常吉は初めから原因が御包《みくるみ》や柴田のことではないと、思っていた。モイラの脣から「パァパ」という言葉が洩れるのをきいて、林作が何か、モイラのしたことについて窘《たしな》めたのだろう。それがモイラの生れて初めての、大きな愕きだったのだろう。そう見当をつけた常吉は、モイラの肩を、大切なもののように抑えて、部屋の上がり口にかけさせ、自分はそこに蹲《しやが》んで、少間《しばらく》の間泣き止むのを待った。モイラは耐えられぬ哀しみがこみ上げるらしく、小さな子供がするように啜《すす》り上げ、泣き|※[#「口+歳」、unicode5666]《じやく》りながら、労《いた》わるように見ている常吉の眼を、何ごとかを訴えるように、見入るのだ。紅くなった顔が涙に濡れ、睫毛に光る涙が、なんとも言えぬ程、可哀らしい。牟礼《むれ》家に来て、モイラの守りも度々するようになってから、長い年月の中ではじめて、自分の眼の中に見入って泣く、モイラを見た常吉は、熱いもので胸が一杯になり、忽ち全身が熱くなるのを、覚えた。全身に沸《たぎ》るようなものを懸命に抑え、常吉はモイラの落ちつくのを待った。

 泣き※[#「口+歳」、unicode5666]りが幾らかおさまったモイラは、熱い、大きく開けた眼を訴えるように常吉に向けると、跡切れ跡切れに、話し始めた。モイラの長い睫毛の、涙に濡れた大きな眼が、この世に常吉より他に縋るものがない、というように、自分の眼を覗きこみ、常吉は、自分にはどんなにでも哀れみの麺麭を与えて呉れるものと確信しているらしく、欲しい慰めの甘い蜜を探すようにするのを、昴奮の中に見た常吉は、広い、肉の厚い胸の中に、渾身の愛情が集まるのを覚え、その煮えるような塊を懸命に抑えて、モイラを見た。

 常吉はモイラの肩を抑え、熱い、濡れた哀れみを、自分の眼からモイラの眼へ伝えようとするようにして、言った。

「モイラ様。パパ様はモイラ様を、どんなにか愛しておられて、御存じでしょう?……それでパパ様はモイラ様に悪いところがあればそれを直して、立派なモイラ様にしようとなさるのです。モイラ様は、パパ様が厳しくなさったので一時に昴奮してしまわれたのでしょう? パパ様がもうモイラ様を可哀くお思いにならなくなったと、思ってしまわれたのでしょう? それは違うのです。おわかりですね?……パパ様はいつでも、モイラ様が可哀くてならないのです……」

 常吉はこの言葉の終りの、可哀くて、ならない、という箇所《ところ》で、我にもなく声が顫《ふる》えるのを覚えて、言葉を切った。胸の中に熱い息を吐き、常吉は肩の手を放し、艶やかなモイラの髪を苦しげに、そっと撫でた。

 常吉の熱い言葉は、モイラの胸に充分に、伝わったようだ。

 モイラは常吉の眼を凝視し、少間《しばらく》黙っていた。そうして、思い出したように|※[#「口+歳」、unicode5666]《しやく》り上げた。

 常吉はそんなモイラに、再び熱くなった胸の動悸を、抑えた。

 モイラは常吉を見ていたが、不意に起ち上がり、父親の傍《そば》へ帰ろうとして、二三歩歩くと、後戻りをした。

「ドゥミトゥリ。ドゥミトゥリはいい人ね」

 モイラは、幼い頃から感じとっていた、常吉の中にある熱い心に、掌で触ったような、満ち足りた心の中で、安心な、熱い雰囲気の中で、そんな中に包《くる》まれていながら、ふと不安を感じたのだ。だがモイラはその不安と一緒に、今までの常吉に感じていたものよりも熱い、濃い蜜のような愛情を、受けとった。それは重い、心の中に重く落ちた、愛情である。常吉の愛情は重くて、そうして熱かった。この常吉との場面も、長い間モイラの記憶に残っていた。モイラは後《あと》になって、

(あの時ドゥミトゥリイは私《あたし》に接吻したかったんだ)

 と、想った。

 常吉は起ち上がり、自分の胸までの背丈のモイラを見下ろした。そうして苦しげに、微笑った。こみ上げてくる熱いものが、肉の厚い彼の頬に、深い、愛情の窪みを造っている。白い歯が剥《む》き出された、だが声のない、いつもの、胡桃を歯で割る人のような微笑いだ。寂しい微笑いである。常吉は、薄くて体に纏いつくような襯衣《シヤツ》を嫌い、暑い盛りでも、厚地木綿のものを着ている。それは彼をよく引き立てる服装《なり》であって、それが彼の身についた、生来の美的感覚の現れであるのを、林作は、視ていた。彼は厚地木綿の襯衣《シヤツ》に、これも厚い洋袴《ズボン》を履き、外出をする時には、蔵《しま》ってある上等の革のバンドを締める。林作から譲られた焦茶のバンドは、常吉の何より大切にしているものである。厚地の襯衣《シヤツ》のために、逞しさが強調されて見え、又誠実な、温いというより熱い、といった方が当っている彼の心情は、その厚い木綿の襟の間から見える厚い胸板に、いつも深く蔵われているように、見えた。

 モイラは少間《しばらく》の間、立ち去るのが厭なようすで、その儘、魔のような眼で、常吉を見詰めていたが、ふと、少し熱くなっているような、泣いたために一寸膨んでいる唇の端を、微かに吊り上げて、小さな微笑いを見せ、常吉の眼を覗くようにすると、背を向け、後《あと》も見ずに駆けて行った。

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