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色川武大
離 婚
目 次
離 婚
四 人
妻の嫁入り
少 女 た ち
[#改ページ]
離 婚
[#この行2字下げ]私たちは再々にわたる協議の末、このたび、めでたく、離婚いたしました。
[#地付き]羽鳥 誠一
[#地付き]会津すみ子
そういう通知を友人知己にばらまいたわけではありません。シャレに離婚をしたつもりもないし、こういう結果を見るにいたるまでには、ともかくかなり長い道程をへてきたわけでして、だから、競馬の当りはずれや、水洗便所のコックがこわれて水が便所の中に満ち溢れたなどという困惑よりは、もちろん、ずっと大きな問題であります。
かといって、一生の中の大事件扱いをして、泣いたり叫んだりする性質のものでもないように思えます。
「ことさら深刻ぶるのはよそうぜ」
ぼくは、そういいました。
「要するに、我々が結婚生活を営む値うちがないということなんだ。値うちのない者が、自分の値うちに応じた暮し方をしようということなんだから」
「そうね」
とそのときは、彼女も固い表情でそう応じました。しかし内心では、男ゆえの身勝手なセリフと受けとっていたかもしれません。
そもそも、子供でもあったら、きっとまた問題の中身がかわっていたでしょう。ぼくたちは、幸か不幸か、子供をつくりませんでしたから、まだそれほど年齢を喰ってない夫婦が初志をかえて二人べつべつに暮していく、或いは、いかざるをえないというだけのことで、結婚したときとおなじく、成人した人間がそれぞれの責任でことを処していけばいいように思われます。いや、そうするほかいたしかたがないということでもありましょう。ですから、吹聴《ふいちよう》もしないし、秘密にしておけることでもなく、親しい人たちにはその事実をそれとなく告げ、彼等は我々のその真意をはかりかねて、遠巻きに眺めている様子でした。
もともとぼくたちは、その端緒の段階で、誰に相談したわけでもなく、仲人ひとつたてることもせず、二人だけで話し合って一緒に暮しだしたのです。完全な、くっつきあいであります。結婚式もなにもしておりません。だいいち、当初はただの野合《やごう》同棲で、特別に長続きしようとか、させようとか、思っていなかったのです。
ぼくは学校を出て、一応ジャーナリスト志望だったけれど、在学中アルバイトで某ライターの取材を手伝ったことがあり、見よう見真似が縁で(というより大手出版社に入社することが果せなかったせいでもありますが)宮仕えより名ばかりでもフリーの方がかっこいいような気がしはじめて、フリーの取材記者の世界に入りました。もちろんマイナーの週刊誌で最初は嘱託《しよくたく》の記者見習いです。嘱託というときこえがいいけれど、要するに臨時工です。近頃は組合があって、その出版企画が失敗し廃刊する場合も人員整理ができにくいところから、社員外の人間を好んで使う傾向があるのです。そんな中で五、六年働いているうちに、まァなんとか自分の書いた記事が通用するようになり、先の見通しも病気怪我のときの保証もないけれど、とりあえず今日は喰っていけるようになりました。
その世界にまだ入りたての頃、ぼくのせまい下宿にも何人かの女友だちが出入りして、諸事不潔な身の廻りの世話を焼いてくれたり、当時のぼくの日常の色どりになっていたわけですが、すみ子もその中の一人だったのです。そのうちぼくは、若くてお面も身体《からだ》もよかった彼女を人一倍かわいがるようになりました。外を連れ歩くのにふさわしかったせいもあるし、その頃のぼくが、身近に華やいだものを求めていた、その気分のせいもあるでしょう。
彼女はのっけから相当にかわった娘で、一番最初知り合ったとき、
「ねえ、あたし、お妾《めかけ》にしてくんない」
そういったのです。もちろんそれは親しい連中で車座になって呑んでいたときで、かなりリラックスした空気にはなっていましたが、ちゃんとした親もとに居り、水商売に染った噂もきかないのに、かわった冗談をいう子だなと思いました。けれども、そのあと、部屋で二人でいるときも、同じようなことをいうのです。
「あたし、お妾になりたいわ。それが一番いいと思うの」
「何故《なぜ》」
「だって、女房って、面白くなさそうだわ。あたしには合ってない」
「妾なら、合ってると思うのか」
「責任がないもの。楽そうだし。──あんたならいいわよ。お妾にしてよ。あたし、親のところに居たくないのよ。妹も、結婚相手がきまっちゃったみたいだし」
「しかし、俺は、一応独身だぜ」
「独身だと、お妾は駄目なの」
「ううん、どうだかなァ。君を妾にして、妾宅をかまえると、俺はときどき本宅へ帰らなくちゃならない。しかしその場合、本宅というのは意味ないなァ。──妾じゃなくて、本妻でもなく、単なる同棲じゃいけないのか。お互い、あきたら別れるという」
「それじゃ本妻と同じじゃないの。あたし、あんたの世話なんか見られないわよ」
「妾なら、世話しなくてもいいわけか」
「たまならいいわよ。生活費と寐《ね》る場所をつくってくれれば。──でも、誤解しないでね、誰にでもこんなこといってるわけじゃないのよ。あたしって贅沢《ぜいたく》なんだから」
妾の暮しが本来どういうものか、見て知っているわけでもないらしいこの娘の、どうも知能おくれみたいな発言をぼくは内心笑っていました。同時に、この娘とその後六年も暮すことになるとは露知らず、フラッパーな魅力のようにも思っていました。
けれども、考えてみれば、無責任で楽そうだからいいという彼女のいいぶんは、ぼくが今の職業をえらぶときの気持と五十歩百歩のもので、自分のそういうところを忘れて、なんで彼女を笑うことができましょう。ぼく自身が、いいかげんに、身勝手に、無節操に、それこそ妾のように計算ずくで世の中に対しているのに、パートナーには本妻的なものを要求するのは、高望みなのではありますまいか。
彼女は、ぼくより先に、本能的にそういうものを感じていたのでしょう。
「誠ちゃんとあたしは、同類項ね」
「そうか、そういうものかもしれないな」
「誰かに愛されるような人間じゃないわ。そんな値打ちはないのよ。だから、誠ちゃんと居ると、気楽なんだわ」
「そんなものかな」
「誠ちゃんは、誰かを愛したことがある」
「愛とか恋とか、女はそんなことばかりいうからいやだなァ」
「あるの」
「つき合った女はいろいろいるがね。厳密にいうと、どうかなァ」
「そうでしょ。そうだと思ったわ」
ぼくが彼女をかわいがったと同じくらい、或いはそれ以上に、彼女も出入りする他の娘たちを意識してぼくの視線を自分に固定させようとしていました。それは女の本性ともいえましょう。そればかりでなく、積極的に他の娘をぼくから遠ざけようとしていたふしも見られます。というのは、彼女と親たちがひどく折り合いが悪くなっていたらしく、なんとかして親もとを飛びだそうとしていたようなのです。ぼくはその原因をあえて問いつめず、彼女のわがままさゆえと思っていました。父親に殴られるのだ、と彼女はくりかえしいうのです。
「死ぬほど殴るのよ。殴られるのは絶対にいや。誠ちゃんは暴力をふるいそうに見えないものね」
「そうとも限らんぜ」
「じゃ、殴るの」
「場合によっては、だろうな」
「いやよ、そんなだったらもう来ないわよ」
「まあ、比較的、手を出さない方だろうな、俺はそんなに情熱的じゃない」
ぼくの下宿の隅っこにおいてあったデッキチェアの上で、彼女と関係ができてしまった夜、
「あたしを、ここにおいてよ」と彼女はいいました。「もう家に帰らないわよ」
「うむ、──居たかったら、居ろよ」
「誠ちゃん、あたし、好き?」
「──そうだな」
「好きとはいえないでしょう。ただちょいとつまみ喰いをしたつもりでしょう。いろんな人がそういうわ、あたしは遊び女だって」
「うん──」
女を手もとにおいておくのも悪くはない、とぼくは思いました。彼女が遊び女タイプだったとしても、誘導の仕方によって一緒に暮す女になりうるのではないかと思いました。そう思いたかったともいえましょう。ぼくは孤独だったのです。いいかげんに日を送って、小いそがしく働いたり遊んだりはしていましたが、それでも、淋しく、諸事、心が臆していました。
が、このへんの言葉のかわし方については彼女の主観と喰いちがっているでしょう。ぼくが積極的にいい寄ったと彼女は口に出していうばかりでなく、本気でそう思っているようですし、またまぎらわしいことに、その頃の睦言《むつごと》で一再ならず、ぼくの方からそうしたことを口走っているのです。──君が好きだよ。三十年俺はそんなことを口にしたことはないが、君と一緒に暮したいと思っているよ。
「いいの──?」
そのたびに彼女は挑発するようにいいました。
「あたしはかわいくない女よ。暮すタイプじゃないのよ。かわいくなろうとも思ってやしないわよ」
「しかし、君もここに居たいんだろう」
「──じゃあ、暮す?」
「ああ──」
「あたしを守ってくれる」
「──君を失望させないつもりだよ」
時の勢があったにせよ、たしかにそういいました。事実そうも思っていたのです。そうして同時に、ごく楽天的に、駄目になれば別れちまえばいいんだ、とも思っていました。
これが二人のなれそめです。こう記述してみると、二人とも実にどうも、うそさむい男女でありました。
ぼくたちはまもなくせまい下宿を出て、マンションに越しました。無理をしたのです。ぼくはそのために働きを増やす必要があり、仕事関係の誰彼の機嫌をとりながら夜っぴて遊び歩いたり、取材や原稿に追われたりして日をつぶしていました。それが二人のためと思っていたのですが、彼女はそう受けとりませんでした。蜜月らしくない、というのです。
「どんなカップルだって最初はもっと甘いものだわ」
「そうかね」
「二度とない月日なんでしょう。もっとあたしを喜ばしてよ。あたしのために暮してよ。普通は毎日、抱いてくれるのよ」
彼女は以前、外国人と、結婚にやや近い同棲を少しの間していたことがあって、彼は朝に晩に彼女を讃美し、愛の言葉を投げ与えてくれたのだそうです。あんたは女のあつかいかたを知らない、ああ、アラン・ドロンかポール・ニューマンと一緒になればよかったわ──。
「しかし、細部の礼儀はつくしたかもしれないが、彼は、本筋の礼儀は守らなかったんだろう。何故って、君を捨てて行っちまったんだからね」
「捨てるなんて、よしてよ、あたしが出てきたのよ」
何故──というふうにぼくは訊《き》きませんでした。何事につけ、問いつめるのは好きではありません。ぼく自身が、問いつめられればはかばかしい答えができないことばかりです。そういう部分は、ある程度自分でもわかっていて懸命に抱きかかえているので、問いつめたところでどうなるものでもない、というふうに思っていました。
ある日、彼女の作った食事を喰べながら、なんの気なしに、
「閑《ひま》でしょうがなかったら、料理学校へでも行って、このさい基本を習ったらどうかね」
「あたしの料理がまずいっていうの。前の彼はそんなひどいこといわなかったわよ」
おやおや、ここにも問いつめてはいけない部分があったのか、と思ったほど、彼女はたいそう怒りました。
まもなく、ぼくは彼女がひどく眼がわるいのを知りました。一緒に道を歩いていて、そのときちょっといそいでいたので彼女の歩調に合わすことをせず、小走りに、しかも変則的に道を横切ろうとしたところが、ぼくのあとを懸命についてきていた彼女が、歩道と車道の境の窪みに足をとられてバランスを失い、もろにひっくりかえってしまったのです。
それでもぼくは、駆け寄って助けおこそうともせず、周辺の視線にかっこをつくって、うすわらいしながら、
「なんだい、よく見て歩けよ」
彼女はひしゃげたような表情で、やっと起き直りましたが、多分口もきけないほど自分を呪《のろ》い、ぼくに腹を立てたことでしょう。
彼女が隠し持っている眼鏡のレンズの厚さを見て眼がよくないことは知っていましたが、片眼はほとんど視力なし、いい方の眼が、0・0いくつという状態で、道を歩くのもそろりそろりだし、包丁を使うと指先を切りつけてしまう按配《あんばい》だったのです。それを知って、ぼくの気持に微妙な変化がおきました。ぼくはそれまで、自分がいいかげんで、彼女との関係もいいかげんだったのに、ともかく一緒に暮しだしたのちは、彼女にはいいかげんでないものを要求しているようなところがあり、さらに、彼女が至らないぶん、結局五分五分だと思って自分でも勝手をしているふうだったのです。それが、彼女の条件も考え合わせねばならんぞ、と思いだしました。視力のハンデですべてを許すというわけではないが、ハンデのことを頭に入れて彼女用の特殊な対応をしていかねば、と思ったわけです。
彼女の話によると、小さいときから、家庭でも学校でも、いたわられ、或いは特殊あつかいされて、一丁前の社会訓練をへることができなかった、そのうえ、片眼に近い視力のなさは疲労感が烈しく、忍耐力が育ちません。たとえば、彼女は文字を知っていますし、書けますが、書物というものをほとんど読んだことがありません。したがって知性がいびつになるはずです。テレビを眺めても、終ると疲れて寐こんでしまうほどですから。
彼女のこれまでの人生を支えてきたものは、だから、感覚、官能、だといういいかたもできましょう。彼女は部屋を飾ることが好きです。花や動物にひどく関心を示します。自己愛が強い。そうしてセックスの世界などは彼女にとって特別な意味のある世界だったでしょう。一方また、社会性のなさ、責任というものに対する無知、短気、いびつな感受性、刹那《せつな》主義、甘ったれ、そういう特徴をつくります。
ハンデというものは多少なりとも誰にでもあるものだといってしまえばそれまでですが、相棒たるぼくは、特別な配慮をしてやろうと思ったのです。常々、特に心づかいのこまやかな方でもないぼくは、この点についてくだくだと考えこんだのは何故なのか、よくわかりません。いいかげんな関係だと思っていたのに、存外に彼女を愛していたのでしょうか。それとも、日常というものの重さが、知らず知らずぼくを考えこませる結果になっていたのでしょうか。
彼女は一面で、まことに気楽な女でした。明日というものをあまり考えないので、ぼくに関して、女関係以外は、何をしようと関心を持ちません。ぼくは放縦《ほうじゆう》なので、自分の収入の範囲で濫費し、まったく建設的でないのですが、今日の彼女の出費に、困らないかぎり笑っています。ぼくがばくちで負けて家賃が払えないとき、親もとへ行ってさっさと借りてきたりします。
「あたし、毛皮も宝石も指輪も買いたがらない、そんな女でよかったでしょう」
「まァね、しかし、買いたくたって買えやしない」
「でも、欲しかったら買っちゃってたわよ。借金したって。あんたが使う額くらい、あたしだって使う権利はあるわ」
たしかに彼女は大きく濫費はしません。彼女の世界は小さくて、ある意味でつつましいともいえるのですが、しかしその埒《らち》の中ではぼくと同じように、放縦ではあるのです。日常の買物でも、魚を買って、肉が眼につくとそれを買い、それからべつの魚をぼくに喰わせてやりたくなって買ってしまうという具合に、計画、或いは規制ということができません。
起床はおおむね昼すぎです。夜遊びをします。ぼくも放縦だから大きなことはいえませんが、彼女の帰宅は夜中の三時、四時、明け方も珍しくありません。彼女のすることは、入浴、洗濯(この二つはなによりも彼女自身にとって欠かせぬことでした)、部屋の飾りたて、たまの食事づくり。こまかいことですが、彼女は靴を大事にしていて、下駄箱いっぱいにきちんと整理して並べ、ぼくの予備の靴は物置。洋服ダンスも彼女のためのもので、ぼくのコートは丸めて廊下の隅にあったために一年で鼠に喰われて大穴があき、着物は箱にいれたままこれも物置。
これではなんのために一緒になったかわからないな、と思いながら、ぼくはそのひとつひとつに短気をおこせませんでした。短気をおこせばすぐに瓦解するのです。瓦解したってもともとだという気持と、こんなつまらないことで瓦解するなんてという気持と両方あり、結局、気長に説得するつもりで、物の道理を諄々《じゆんじゆん》と説いたり、人間関係のルールのようなものをしゃべったり、そんな柄でもないぼくのそのときのしかつめらしい顔を思いだすと今でも笑いがこみあげます。彼女の方も大半きいておらず、耳に入れるために彼女の快い方角から話の筋をはこぶと、そこだけはきいて覚えているという具合で、日暮れて道遠しという按配《あんばい》でした。
「なにさ、あんただって立派な人間じゃないじゃないの」
「そりゃそうだ──」とぼくは苦笑してしまうのです。「だから、俺はきつい要求をしていない。普通の要求でもない。これは最低だ。最低でもルールはあるんだ。おたがい最低として、まァ五分五分になろう。それでなくちゃ関係というものは成立しない」
「あたし、男と寐ちゃいないわよ」
「男と寐なければ、何をしてもいいというものでもない」
「じゃ、あたしを満足させてよ。女一人も満足させられないくせに」
ぼくの書いた週刊誌の記事が某スターに訴えられ、それがわりにごてついて、とどのつまり謹慎という感じでその週刊誌からオロされたことがありました。その雑誌はぼくの仕事先の中では大きなところで、直接の収入減も痛かったのですが、同時に他社に対しても弱い立場になるかもしれず、しょげかえりました。
「少し倹約しよう。ピンチなんだから、君もそのつもりでいてくれ」
「あたしは知らないわ。倹約ったって、あんたが主に無駄使いしてたんじゃないの」
「もちろん俺も考えているよ。だから君も──」
「男なんでしょ。働きなさいよ」
「働いてるよ」
「文句いうことないわ。なにさ、仕事ったって、女優にあったり、お酒を呑んだり──」
ぼくは�痴人の愛�という小説を思いおこしていました。あの小説の主人公のようには女の官能の世界に浸りこまないで、ぼくはひたすら我慢していたのですが、我慢に甘んじていた点では同じかもしれません。
あれやこれやいいながらもぼくは彼女を離さず、荷厄介《にやつかい》に思いながら、そういう彼女を抱えてこの先もすごしていこうとしていました。彼女が籍をいれてくれと不意にいいだして、それには双方の親たちの意見も反映しており、いくぶん気持がひっかかりながらも結局、形のうえで完全な夫婦ということになりました。
しかし、もちろん、不満、不充足だったのはぼくだけではありません。彼女は、一緒に暮しだしてから痩せ、声音も顔も、暗くなりました。
ぼくのところへ来て、彼女のまったくあずかり知らぬぼくの関係の人間や出来事にぶつかるのが解せないという表情でした。彼女は自分の世界に居たかったのです。そのために父親と多年にわたって衝突し、父親の折檻《せつかん》をのがれるためにぼくのところに来たので、もしぼくが暴力をふるったら、ぼくのところも出ていったでしょう。そうやって、その末に居所をどこにも失い、墜落していったでしょう。
彼女の側からいえば、ぼくが暴力をふるわなかったために、辛うじて居続ける気になっていたというところでしょう。しかし、ほかならぬぼくがそこに居るために、彼女の恣意《しい》だけではまとまらず、まごつき、不必要に遠慮し、その反動で高調子になり、欲求不満がどんどん内攻し、そのうえ、彼女自身は口にもしませんし、どこまで意識していたかも疑問ですが、劣等感や、普通に生きしのいでいるかに見える人たちへの憧れが裏側にあるものだから、一人|相撲《ずもう》でまいって、食物を口に入れるたびにもどすし、だらだらと寐つくということになります。
「あたし、夜の蝶になりたい。銀座にいいお店があるんだって」
そういいだしたとき、ぼくは最初、お妾になりたい、というセリフをきいたときほどおどろきませんでした。それは彼女流儀のいいかたで、要するに、感触の世界で生きたいのです。そうでなければ息がつまってしまうのです。だからこそその望みは執拗《しつよう》で、いっときの出来心ではないのです。
そんな彼女が心を開くのは、主に女友だちに対してでした。男友だちもあったかもしれませんが、男はたいがい彼女に対しては遊び女あつかいをするだろうし、それでは男のペースになってしまって彼女自身の世界には不似合なので、その場その場の必要以上にあまり近寄ろうとしません。
女友だちとは、自分本位で感情的ゆえにめったに長続きはしませんでしたが、あとからあとからと実によくできました。都会には、閑《ひま》で、生活力に恵まれていて、いやがうえにも感触的な女性が多いものと見えます。その一人一人をぼくはよく知りませんが、充分自立できる職業を持っていたり、亭主が資産家だったり、若かったり、それぞれ彼女よりは無理のない状況に身をおいていたでしょう。彼女はそのいずれの利点も持っていない。交際していくうちにどこかでそのギャップを味わっていらだつのです。
「昔、宝塚に入りたかったのよ。親に猛反対されて、やめちゃった。あのとき親が許してくれていたら、今頃は一人で喰べていられたかもしれないわ」
彼女は長年そのことをしつこく思い続け、今では父親に対する恨みのひとつにもなっている様子でした。
「あたし、あんたの商売のこともまるっきりわからないし、自分で何をやるというわけでもない、いつも、独房よ。宙ぶらりんよ。やりきれないわ。あんたがいつも抱いていてくれるんでなくちゃ、気が狂っちゃうわ」
「今からでもおそくはないぜ。気ままを捨てて、長期戦覚悟で何かひとつのものを深く身につけることだってできる。もっとも、忍耐が要るがね」
「駄目よ。今すぐそうならなきゃ。三十すぎてそうなったって、そんな頃まで生きてないもの」
「すると、どうするんだ。──わかった、夜の蝶だな」
「そうよ。あたしだってまだ通用するわ」
ある夜半、彼女があきらかに大きな手傷を受けて、うちしおれて帰ってきました。行きつけの酒場で呑み騒いで、深夜、看板となり、ぞろぞろと腰をあげて路上へ。常連客か店側の人間かそれは知りませんが、タクシーに数人の男たちが乗り、同じ方向なので気軽に彼女も乗ろうとすると、
「馬鹿、図々しいぞ。なに様だと思っていやがるんだ」
いきなり平手打ちを喰ったのです。
感触の世界も恣意《しい》だけで対しているかぎり楽しさは幻影にすぎないというたったそれだけのことを、平手打ちを喰わなければわからなかった彼女を、ぼくは依然としてひっそりと見守っておりました。愚かしいことにはちがいありませんが、ぼく自身も男の世界で、平手打ちを喰い、はじめてびくんと心に刺さり、しかしそれでも直らないというくりかえしがあるのです。今からでもおそくない、と彼女にいったけれど、それは説得などできるわけのないいいかげんなセリフで、実際は、彼女もぼくも、もうおそいのです。気ままを捨てて、なんてことができるならよっぽど前にそうしているので、その点でぼくは彼女の他人ではありませんでした。彼女が、哀れで、いとおしく思いました。
ぼく自身もその頃、例の週刊誌の某スターに関する素っぱ抜き記事が与太とわかって、やはり苦境に追いこまれていました。仕事が全然ないわけではないが、今まで以上に格下の雑誌が多く、ギャラは叩《たた》かれるし、どぎつく刺激的なだけの役割を受けもたされる。フリーの世界はその点容赦がありません。ギャラが安いから数でこなさなければならない。いくらスターが材料でも現実に刺激的なことはすくないから、嘘っぱちばかり。しかも、以前はけっこう面白がって書き飛ばしていたのに、彼女と暮しだしてとりとめもない情感や、愚かしさや、我慢や、もろもろの日常がそれなりに深まってみると、恋愛とか、浮気とか、欲望とか、出世とか、そういう概念的形式的な言葉を書き連ねて記事をでっちあげるのがなんとなく阿呆らしくもなってくるのです。
かといって、その点を充足させるような原稿は書けそうにありません。他の充実感のある職業に転向することも、口でいうほどたやすくはない。かさかさに乾いた毎日で、宙ぶらりんでやりきれないといった彼女と同じく不充足でした。ぼくはそれまで人並み程度にしかやらなかったギャンブルに深入りして、しょっちゅう手傷を受けていました。家の中では、彼女がバランスがとれていなかったのでそれほど目立たなかったけれども、もし彼女がまともに暮していたら、つるしあげられていたでしょう。
とうに家計は失調し、高利貸しに金を借りてばくち場での借金をやりくりするようになっていました。その帳尻は、結局、与太原稿の量産でおぎなうより他はないのです。
彼女の方は、夜の蝶志望はもちろん、酒場などへもぴったり足を運ばないようになりました。そうして感触の世界を他へ求めはじめたのです。
おそらく友だちの入れ知恵がきっかけでしょうが、彼女は自分の部屋を拡張して、ベッドをはじめ自分の道具類いっさいを持ちこみ、鍵がかかるようにしました。いつのまにか新しい電話もついていました。
「あたしの長電話で、あんたの仕事の電話に不便をかけたくないわ、だから──」と彼女はいいました。「電話を一本買ったわよ。電話ばかりでなく、あんたのお邪魔はしないつもり。だからあんたも邪魔しないで」
おかしなことに、彼女は、夢にまで見た自立を、せまい家の中で実現させようとしたのです。これなら平手打ちを喰う心配もすくないし、難儀なことをやらなくてもいい。なるほど、彼女らしい発想だわい、とぼくは思いました。なかば感心したくらいだから、今度もまた、不愉快をかみ殺しながら、だまって傍観していました。しかしそれは、結婚生活に対する未練からではありません。いうところの愛のせいでもありません。
「誠ちゃんて、すばらしい男ね」
なにをいやがると思いながら、ぼくはだまっていました。
「あたしを殴らないのね。でも、どうして殴らないの」
「たしかに俺は殴れない男だな。自分を主張することができないよ。他人が皆立派だと思っているわけでもないが、自分を主張する権利が俺にもあるなんて、どうしても思えないんだよ。君だってそうだ、権利を主張できるような人間じゃない。俺は君を、君は俺を、養っていく必要はそもそもないんだ」
「じゃ、どういう人間が、権利があるの」
「さあ、な。俺にもよくわからんが、他人のために役立っている人間だろう。それから、何等かの意味で、自分の責任を果している人間かな。君は失格してるが、しかし自分が生きているのは当然だと思ってる。俺と君がちがうのはその点だけだろう。その分だけ、俺は君をさげすんでるよ。俺が黙ってるのは許してるんじゃない。さげすんでるのだ」
「嘘──。あんたはあたしにかかわりあってじたばたしたくないんだわ。他の人間のことでバランスを崩したくないんでしょ。あたし知ってるわよ。あんたナルシストでしょう」
「そうか、それも当っているかもしれんな」
「殴らないんじゃなくて、殴れないくせに。男っていやね、いちいち恰好《かつこう》つけてさ」
ぼくもよく家をあけておりましたが、彼女の部屋にもよく女友だちが集まり、そうでないときはパーティがあると称して朝帰りが多くなりました。掃除や洗濯はやっていましたが、住んでいる人間の心を反映して家の中に荒廃の空気がただよっていました。
夫婦関係ももうその頃は不通になっていました。当初は彼女の欲求を満たしそこねていた形だったのに、だから、ともいえましょうが、ぼくが番《バン》をかけても応じないのです。たまに触れあっても死んだ人形のようでぼくの方が萎《な》えてしまうばかりです。
「夫婦も、こうなっちゃおしまいだな」
「何故、あたしはやっと自分らしい生活になったわよ。あんただってあいかわらず好き勝手なことをしてるじゃないの」
「しかし、君は主婦のつとめをほとんど放棄している」
「あんたはどうなの」
「──俺は、ともかく、働いてるぜ」
「そりゃ男だもの、当然よ。あたしが居なくたって働くでしょう」
子供でもつくっていれば、とぼくの友人などはいいます。しかし、当初、彼女の母親から、視力がもっと落ちてしまうから子供を産ませないでくれ、と釘をさされていましたし、彼女自身も子供などのぞんでいませんでした。そのうえぼくも、我々のどちらもが子供をちゃんと育てることなどできそうもないと思っていました。自分たちの生活さえ何も造りあげられない者が、なんで子供に責任をもてるでしょう。それは建前で、一生添いとげる自信が最初からなかったせいかもしれません。
我々は何度もおろしました。その何度目かのとき、少しおくれてしまったせいで、子宮に風船をいれ、難手術になったようです。そのときひどく苦しんだせいで、妊娠恐怖症になったようです。なにしろ、いやだと思いだしたら彼女にはそれが絶対的で、膣《ちつ》が痙攣《けいれん》して閉じてしまうのです。接触をこばみだしたのはそれからで、だから自分は他の男にも触れる気はない、あんたは安心していいのだ、などといっていました。
ある日、友だちにすすめられたといって、ソフトコンタクトをつけはじめ、悪い方の右眼はともかく、よい方の左眼の視力が〇・七ぐらいになったといって顔色を一変させて帰ってきました。
人生はばら色だ、と彼女はいいました。
「もう、道路を這《は》うようにして歩かなくてもいいのよ。わかる、この気持。あたし、自信が出ちゃったわァ。テニスだってやったのよ」
彼女は油絵の道具や、ラケットや、トレーニングウェアや、次々に買いこんで来、このときばかりは朝早く一人で起きだして出かけるのです。
前に敗訴した記事を書いた週刊誌の十何周年のパーティがあり、ぼくなど正式に呼ばれてもいなかったのですが、もうほとぼりのさめた頃でもあるし、以前のような関係をとりつけられればと思ってでかけました。以前の担当編集者が編集長になっており、そこで彼から、女房のことをききました。彼女がレズってる、というのです。
「噂だがね、しかし奥さんが自分の口からしゃべってるらしい。注意した方がいいよ」
そういえばその前にも、女狂いしちゃったのよ、という彼女の発言を又聞きしたことがあります。しかし、夜の蝶のときと同様、ぼくはおどろきませんでした。いかにも彼女らしいコースです。
おどろかなかったけれど、考えこみました。ぼくは定見がなくて、相手が燃えれば燃え、冷えれば冷えるというところがあります。そのときも心がかなり冷えこんでいました。それから、前にもいろいろ我慢してきて、今度、我慢しないとしたらどうだろう、と思いました。あれを我慢してこれを我慢しないというはっきりした理由もないが、そんなことをいってたらきりがない。ものには度というものがある。そうだ、問題は度だ。
頼りない経緯ですが、要するに、どんなことがあっても一生添いとげてみせると誓ったおぼえもないし、どこからみても結婚してる意味はないということでしょう。
そんなことはこの六年の間に数えきれぬほどの回数考えたし、意思表示して彼女が数日間も家を出ていたことも何度かあったのですが、いよいよ最終的に気持を固めました。
けれどもなおしばらく、ぼくはそうした意思表示をしませんでした。
別れるとしても、できるだけお互いに納得をして別れたい。たとえ離婚の原因が那辺《なへん》にあるとしても、ある程度のお金をぼくの方で用意しなければならないだろう。そうするのが、何故かわからないけれども、男というものなのだ。
ぼくはあいかわらず、高利貸しとの縁が切れていませんでした。離婚のために余分に働きました。「スターの性愛白書」という本を書きました。「悩殺! オナペット名鑑」というのや、「ガールハントテクニック全集」というシリーズも出しました。みな書きなぐりでしたが、来る夜も来る夜もそんなことを書き記しているのもわびしいものです。
高利貸しには秘密で貯《た》めた金がある程度の額に達するまでに半年かかりました。その間、ぼくは、彼女がうす気味わるがったほど沈黙し、いっさいの要求をしませんでした。もう別れるのだから、というのがその理由でしたが、その一方で、別れ話をどう切りだしたものか苦慮していました。
知人の中に、離婚の内容はそれぞれちがうにせよ、女が籍を抜かないで困惑しはてている人が何人も居ます。それは女性側の近来の流行の手であるようで、
「あいつを一生縛ってやるのよ。別れないで金を使ってる方がトクじゃない」
という女たちの言葉をきくたびに、暗澹《あんたん》となります。なにしろ彼女は一度もつれたら話し合いのまとまらぬ女なのです。そうして、自立できる手腕もないのに、親もとには死んでも帰らないと平素からくりかえしいっているのです。男をこしらえてくれたら、トランプの婆抜きのようにその男にバトンタッチできたら、どんなによかったでしょう。
ぼくの母親が国元から出てきまして、もちろん彼女とは折り合いがつかず(自分の両親も家へ寄せつけないくらいですから)、ぼくは母親を旅館に泊めて行き来していたのですが、その最中に、彼女が、友だちとハワイヘ行ってきたい、といいだしたのです。行かせる気はないね、とぼくはいいました。
「何故なの。ハワイなんて安いものよ。それも普通よりうんと安く行けるのよ」
「駄目だ」
「けち。──あんただって香港《ホンコン》へ行ったじゃないの」
「仕事がからんでいたからだ」
「仕事仕事って。向こうで何をしてたんだか。それじゃ仕事のないあたしなんか一生行くことはできないの。あああ、退屈ねえ。よその奥さんがうらやましいわ」
「別れようじゃないか」
彼女は一瞬だまりこみましたが、いいわよ、といいました。
「あんたに嫌がられて居たくないし、あたしだってそうしたいわ。別れましょうよ」
「君がそうなら、意見一致だ」
「ただねえ、あたしは親もとへは帰らないし、といってすぐには自立もできないわ。当分の間の生活費を──」
「できるだけのことはしてやるよ」
「ほんとはマンションの一つも欲しいところだけど、誠ちゃんにお金のないこと知ってるし、重たい負担はかけたくない。余分なお金なんかいらないわ。あたし働く気よ」