ぼくは懸案の第一段階がスムーズに進んでほっとしていました。と同時に、ただ感触の方角からのみこの世というものに対しているだけで、あとは赤ん坊みたいな彼女を哀れに思いました。今が幸せかどうかはさておき、ぼくと別れてけっしていいことはないだろう彼女を。
「俺がいう筋合いじゃないが、一人になったら、まず両親と折り合いをつけろよ。世間というやつはきっと君を正当にあつかうだろうからな」
「それがどうしていけないの」
「世間は君を正当にあつかうよ。正当にあつかわずに尻ぬぐいをしてくれるのは保護者だけだ。俺が離れれば、また男をつくらない限り、残る保護者は両親だけさ」
ぼくたちは連れだって、区役所に離婚届を出しに行き、その足で彼女は早速《さつそく》部屋さがしに行きました。今度こそ自分だけの世界をつくれるつもりで浮き浮きしていたことでしょう。
彼女が探してきたのは、スペースこそ小さかったが赤坂の高層ビルマンションで、敷金だけでも相当な値段でした。
「時価としたら安いし、友だちと会うのも都合《つごう》がいいんですもの。額としてはまとまるけど、これだけは誠ちゃん、しようがないわね」
高い、と思ったけれどもぼくは黙っていました。この場合、これが妥当《だとう》な出費かどうかではかるのでなく、最後の志のようなつもりで呑みこみたかった。だいいち、彼女を一生背負うことにくらべれば、安いにきまってるのです。
「それで、当面、月いくらあったら暮せる」
「三十万でしょう」
「三十万、か」
「部屋代が十万だものね。それでも贅沢はできないわ」
「三十万というのは、中小企業なら重役クラスの月給だな」
「ギャンブルをやめればそのくらい出せるわよね。仕事がみつかりしだい減らすわ。もちろん喰べられるようになったら一銭もいらないわよ」
「三十万も稼げる仕事って、いったい何をやるつもりだ」
「──友だちにきいてみるわよ」
「一年だな。それでも俺には辛《つら》い。守れるかどうかわからない」
「喰べられるようになるまで、じゃないの」
「それじゃ、永久にってことかもしれないじゃないか」
彼女は存外にテキパキと運送屋を手配し、必要な道具はなんでも持っていっていいとぼくがいったせいもあるけれど、ぼくの仕事机とベッドと本とがらくたを残して、どんどんトラックに積みこみ、あとも振りかえらずに行ってしまいました。
ぼくはとにかく、両腕をいっぱいにひろげて深呼吸をしました。ああ、これで、やっと一人になれたんだ──。
彼女とすごしていた我慢の日々の辛さを改めて思いおこしました。次男坊のせいもあり、ぼくもやっぱり野放図に育った人間で、人に踏みつけにされたり、本当になりふりかまわず争ったりした経験に乏しいのです。いつも自分に都合よく暮し、他人に見せたくない面はおおい隠して、それでどうやらバランスをとってきた、だから彼女から受けた大小の傷の痛さは強烈で、貸借対照表でいえば、誰かと一緒に暮すことで得られる便宜《べんぎ》など物の数ではないと思えました。その傷の鮮烈さが逆に悦虐的傾向を産みだしたともいえるでしょう。いずれにせよ、もう結婚はこりごりだ。たとえ満点の世話女房だったとしても、人と一緒に暮すことでトクなことなんかひとつもない──。
が、しかし、がらんどうの室内に坐っていると、腹立たしいことに、彼女の笑顔、彼女の胸乳、彼女のくびれた腹やむっちりした尻のあたりがしきりに頭に浮かんでくるのでした。今、別れたばかりだからな、当分は、頭に残るのは仕方がない。
ぼくはいそいで、好意を抱いているあちこちの知り合いの顔を想《おも》い浮かべました。不思議なことに、どんなことがあってももうごめんだと思っている彼女の顔が消えないのです。六年間だからな、とぼくは思いました。残像もあるだろうさ、しかしすぐに忘れていくだろう。
彼女から電話がかかってきました。
「ご機嫌よ、部屋の飾りも終ったのよ。なかなかいい部屋だわ。今夜は引越しパーティで友だちが大勢集まるの。来ない。面白いわよ」
「阿呆、俺が行くわけがないだろ」
「そうなの。いいじゃないの、気にしなくたって──。それはそうと、そちらはどう」
「どうって、ストーブもないから寒くてしようがない」
「あ、そう、申しわけないみたいね。こっちに三つあるからあとで一つ持っていくわ。でも、そこ、どうするの、引越しちゃいなさいよ、引越しはあたしも手伝うから」
「引越したいが、俺の引越しまで金が廻らないよ」
「借りちゃうのよ。あんた、借りるの得意じゃない」
「俺の心配なんかいいよ。自分のことを考えろよ」
「ねえ、誠ちゃん、好きな女、居るの」
「何故」
「あたしはむずかしいけどね、誠ちゃんは男だから、すぐあとができるんじゃないかと思って」
「俺も、結婚は、こりごりだよ」
「そう。それじゃ、一人なら、洗濯と掃除、当分してあげる。お菜もつくって持ってってあげるわよ」
「当てにしないで待ってるよ」
「ここのマンション、まだ部屋が空いてるわよ。ここに移ってこない。そうしたら掃除や洗濯もわざわざそっちへいかなくたっていいし」
「そんな高いところへ移れるもんか」
「あ、そうだ、あたしの部屋に越してこない。仕事する場所くらいつくるわよ。だってどうせ誠ちゃんがお金だしてるんだものね。いいわよ。そのかわりパーティするときは居場所がなくなるけど」
「馬鹿も、休み休みいえ」
がらんどうにはすぐ慣れました。元来、不潔でも平気な方だし、わずらわしくないのが最高の取柄です。家事なんてものは誰もやらなくたって死にやしません。
洗濯機のおき場所がないとかで、そのせいもあって彼女は連日のようにのぞくような恰好で現われ、汚れたパジャマや下着を洗ったりしてくれましたが、親もとの方へは一度も顔を出してないのです。
で、結局、ぼくが彼女の実家に謝罪がてら破綻《はたん》の報告に行ったときに、住所と電話を知らせました。早速電話をかけた母親に、身体がわるいから来ても会わない、といったとかで、母親は、ぼくとそこに居ない彼女とを等分に眺めるような表情で悲嘆にくれていましたが、父親の意見は、このさい甘ったれ癖を除去するために、獅子の子を蹴落したつもりでいっさい援助しないことにしよう、それで彼女が傷ついても仕方がない、ということでした。
ぼくは表面同意して帰りましたが、心中では、無駄だ、と思っていました。だいいち、それでは、目一杯の負担がぼくにかかってくるでしょう。
ぼくはこの機会をしおに、仕事の方でも立ち直りをはかるべく、少しずつ動きはじめていました。スポンサーがあるのを幸い、友人である写真家の妻と一緒に小さな事務所を借り、友人の写真集を編纂《へんさん》しようという話も進んでいました。ギャンブルも思いきってやめました。
そんなふうなある日、うっかり鍵を机の上において昼飯を喰いに出かけ、管理人も留守で、急ぎの仕事があるのに自分の巣からしめだしを喰い、仕方なしに合鍵を持っている彼女のところに電話をして道順をきき、そのマンションを訪れました。
それは不思議な気分でした。考えてみると、ぼくは一緒になる前から彼女の住居を訪れたことなど一度もないのです。受付けで名前をとおし、彼女の許可を得て建物の内部へ踏み入りました。下駄ばきのぼくを管理人がうろんな眼で見ておりました。柱がふとくて廊下にも接客のためのセットなどおいてあるのを見廻しながら、おそるおそるベルを押し、彼女流に飾りたてた(少女っぽい飾りでしたが)室内を見廻しました。飾りは飾りとして、どこを見ても見馴れた道具類なのです。見馴れた彼女も居ります。けれどもそれ等は、もうぼくとは無関係です。すると、彼女が家を出ていったのではなくて、ぼくがとり残され、はずれ者になったのだという気持に、ふとなってくるのです。
彼女は布団の中に寐そべったままで、
「ねえ、前借りしてもいい」
「何をいうか」
「お金ないのよ。箪笥《たんす》と冷蔵庫買っちゃったんですもの」
「鍵は──?」
「ハンドバッグの中よ。あ、それから、お膳の上のもの、喰べていいわよ」
昨夜の喰べ残しらしい皿が、膳の上に一面に散らかっています。
「一人になると、けっこう働いてるんだな」
「そりゃそうよ」
「そりゃそうよとはどういう意味だ」
「だって、しっかりしなきゃいけないでしょ。男が居ないんだから。これでも緊張してるのよ。ものが喰べられないくらい。喰べても吐いちゃうの。毎晩誰かに来てもらって一緒に喰べて貰《もら》うんだけど、そうすると少しは喉《のど》をとおるのよ」
「そりゃけっこうだ」
「誠ちゃんに高いお金だして貰ってるんですものね。あんたを苦しめる気なんてないのよ。それはわかってるでしょ。今、いろんな人に働き口を頼んでるわ」
「で、あったかね」
「ないのよ、今のところはね」
「じゃあ、お先まっ暗だな」
「泊ってかない、ここで仕事していきなさいよ」
と彼女は不意に濡《ぬ》れた視線を当ててきました。
「おや、妊娠恐怖症はどうしたね」
「もしできたら、産むわよ、今度は」
「冗談いうな。我々はもう別れたんだぞ」
「でも、産むわよ。それで親もとへ帰るわ。こぶつきなら、哀れがって、親たちもまさかそのうえあたしを殴らないでしょ」
ぼくはそのまま自分の部屋に帰りましたが、慣れたはずのがらんどうに戻ってみると、ひとしお彼女のことが頭に浮かぶのです。別れた女房というものが男心をそそるものだという話はきいたことがないけれど、しかしとにかく彼女の無茶な物言いや、身勝手で烈しい動きや、傷ついたときの寒々しい表情などがなつかしく思われるのです。
これはいけない、とぼくは思いました。うっかりするとまた地獄の我慢をしいられることになる。もう彼女に会うのはよそう。掃除も洗濯もことわろう。月々の仕送りは直接わたさずに親もとに送ろう。そう思いました。
ところが、そんな具合にいかなくなったのです。週刊誌の仕事で、印刷所の校正室に泊りこんで早書きをやっていたとき、朝方になって急に、おこりのように発作的に身体が慄《ふる》えだして来、原稿だけはどうやら書き終えましたが、烈しい発熱が来てるのが自分でもわかります。それでタクシーの中でもガタガタ慄えながら家に戻って布団をかぶりました。
しかし寐られません。布団の中でも慄えが烈しくてとまらず、体温計を当ててみると四十度を越しています。風邪だろうとは思いましたが、とりあえず適当な人が思い浮かばぬままに、一度は逡巡《しゆんじゆん》したものの、彼女のところに電話しました。
「身体がおかしいんだ。もしその気があったら、ちょっと来てくれないか」
彼女はすぐに飛んできました。実際、この六年間に、寐ついたりすることなど一度もなかったのです。
ありあわせの風邪薬を呑み、医者を呼ばうとする彼女を制してストーブを全開にし、うとうとしました。眼をさましてみると、まだ彼女は居て、氷枕が頭の下に入っています。熱はさがらなかったけれど慄えは下火になったので、
「もう帰っていいぞ」
「居るわよ。用事がないもの。でも、医者を呼ばなくていいの。このがらんどうじゃ、呼べないわね」
「寐てりゃなおる。もう大丈夫だ」
「でも、あたしが居てよかったでしょう。そう思わない」
「まあ、な」
「病気ってことがあるからねえ。一人もいいけれど」
「いや、一人の方がいい。君の看護じゃおちおち寐てもいられない。機嫌をそこねたら何をされるかわからないからな」
「だってあたしのところへ電話してきたじゃないの。サービスするわよ、それが当然よ。別れる前から、思ってたわよ、誠ちゃんみたいな男にはもう会わないなって。だからあたし、もう誰とも一緒になる気はないの」
「別れてから操をたてなくたっていいよ。もっとも君は、病人みたいな弱ったらしいものには比較的いいんだ」
「一緒に居ると駄目なのよ。ああ駄目だな、って自分でも思ってても、一緒に居ると息がつまっちゃうの。この男、殺したいと思うものね。そういう眼で何日も見ていたときがあるわ。今、もう、あんたを見てもそんなふうに思わない」
「荷厄介でなくなったからな、お互いに」
「誠ちゃんもそう思うの」
「一年で、枷《かせ》がとれると思うと、君を眺めても気楽で、魅力的に見える。一緒になる前のように。どうまちがったってもう一緒にはならないんだから、一番いい間柄だよ。俺たちはやっぱり、無責任なのがぴったりするんだな」
ぼくは四五日寐ていて、起き直りました。その夜、全快のお祝いと称して外で飯を喰い、帰りに彼女の部屋に行ったのです。
「あんな埃《ほこり》の中に居たらまた風邪をひくわ。本当に恢復《かいふく》するまででもここに居なさいね」
「阿呆だな、俺も」
ぼくたちはずいぶん久しぶりに抱き合いました。以前とちがい、彼女は主人側の余裕のせいで充分リラックスしており、ぼくはぼくで、新しい女をはじめて抱くときのように昂奮しました。
「よかったわね。あんたとセックスが合うなんて思わなかったけれど」
「何度もくりかえせば、まただれるだろう」
「でも、どう、あたし、まだ魅力ある」
「──だろうな、俺には」
「よかった。自信が戻ってきたわ。ねえ、また、よりを戻さない」
「おそろしいことをいうな。それだけは金輪際《こんりんざい》いやだ」
「結婚じゃないわよ。こういう関係」
「うむ──」
まことに阿呆なことですが、ぼくはときどき彼女のマンションを訪れて泊っていくようになりました。そうして心の中で、離婚をしたあとで同棲するというのも悪くないかもしれぬ、と考えていました。すくなくともぼくたちにはぴったり合った関係かもしれないと思いました。
事務所にかかってきた電話の彼女の声が、最初から慄えていました。
「誠ちゃん──」
「──なんだ」
「──ひどい人ね」
「なにが──」
「もう女をつくってるっていうじゃない」
「女、誰のことだ」
「かくしたって知ってるわよ。いろんな人からきいちゃったもの。すごく綺麗なひとですってね」
彼女は電話の向こうでひきつるような声で泣きました。
「あたし、二三日前から眠ってもいないし、ものも喰べてないわよ」
「なんのことかわからんが、俺がなにをしようと君がいいがかりをつけてくる筋合いはない。君がなにをしても俺が文句をいえんのと同じだ」
「いいがかりじゃないわよ。いくら行っても電話してもずっと家なんか帰ってないじゃない」
「事務所に寐椅子があるんだ。あんな所、帰ってもしようがないだろ」
「事務所の女と寐てるんでしょ。評判なんだから」
小さな事務所には、ぼくと、写真家の妻君と、二人しか居りません。
「ああ、あれは人妻だ」
「人妻だってわからないでしょ。あたしみたいな馬鹿女じゃなくて、あれが誠ちゃんの好みなんだって、Aさんがいってたわ」
「まあおちついたら話す。また飯でも喰いにいこう」
やれやれ、と思いました。これじゃ別れたって、なにも変りやしない。都心の高い中華料理を無理しておごって、友人の妻→友人→ぼく、という簡単な図式をいくら説明しても納得しません。
「あたしがまだ男もつくらないで、こんなになやんで痩せてるのに、誠ちゃんが女をつくるなんて、ひどいわ」
「じゃ、彼女に会ってきけ。根も葉もないことがすぐにわかる」
「そんなこといや。これ以上傷つきたくないわ」
「なぜ君が傷つくのだ。それがわからん」
「あたしはあんたと別れたつもりはないわ」
「判を押して、サインして、二人で書類を出したぜ。君は引越して、生活費を受けとった。ありゃどういうわけだ」
「でも、別れた気ではいないわ」
「そんな馬鹿な」
「いいこと、別れたつもりじゃないのよ。あたしの男は誠ちゃんだけよ。この前、あんただってそうだったじゃない」
「俺はそんなつもりなもんか」
「じゃあ、どんなつもりだったの」
「いっさい責任はとらない。お互い、拘束《こうそく》もしない。だから愉快だったんだぞ。君だってそうだろ。無責任で、無原則。俺たちは結局そんなところでしか関係をつけられないんだ。ちがうか」
「なんでもいいわ。あんたが他の女と寐るなんて我慢できない。あたしが男と寐ていたら、我慢できる」
ぼくはちょっと口をつぐみました。我慢はできる。しなければならない。しかし不愉快にはちがいありません。おやおや、では彼女と五十歩百歩ではないか。
ぼくたちはいったいどういう関係なのか。お互い離れがたいが、ただ責任をとったり拘束されたりすることが嫌なので、おたがいの勝手ないいぶんを活かすためには、離婚して同棲するというのがきわめて自然な道筋ではありますまいか。
その夜も、我々は彼女のマンションに行きました。そうして、離れがたい気持だけを存分に発散させました。
「やっぱり、こんなこと続けたら、まちがって妊娠しちゃうかもね」
「できたらどうする。おろせるか」
「産むわよ」
「結婚はしないぜ」
「あんたには関係ないわよ。あたしが育てるわ。でも産むのはあんたの子供だけよ。愛してるんだもん。別れてみてよくわかったんだけどね。あんたなしではいられないのよ」
「それじゃ、尽くし型の女房になるか」
「馬鹿ねえ、なるわけないじゃないの。そんなになるんなら死んだ方がましだわ」
「そうだろう。だから、愛、なんてそんないいかたはよせ。たとえそうであろうと、我々はそんなこと口にする権利はないんだ」
「じゃあ、やっぱり一人じゃ暮せないわ、あんた、養ってよ。こういえばいいの」
「そうもいいづらいだろう。だからこれでいいんだよ。無理しないで、行けるところまで、今夜のような形を続けようぜ」
ぼくはほとんどの夜を、彼女のマンションですごすようになりました。けれども事務所にも泊りますし、がらんどうのもとの住居にもときおり帰ります。だから厳密にいうと同棲といえるかどうか。愛人とか、妾とか、そういう形に近いので、ただ本妻が居ないだけです。
もちろん、彼女が僕の妾だということは、僕が彼女の男妾でもあるので、どちらも相手を拘束しているかわり、また全然拘束することはできないともいえるわけで、嫌になれば関係が瓦解するだけの話です。
目下のところは、彼女の方がいくらか現実を理解しないところがあって、
「事務所はやめにして、ここだけで仕事をすることはできないの」
とか、
「あんたが死んだら、あたしどうやって暮そうか、そんなことも考えておいてよ」
とか、ときおりぶつくさいっておりますが、
「みっともないから朝帰りだけはやめておくれ」
などとぼくが頼んだところで無駄なのと同じことで、彼女自身がどんなふうに思っていようと、世の中のあつかいはかわるわけではありません。
今のところ、ぼくはこの関係にほぼ満足しています。ぼくや彼女程度の人間は、これ以上充実した暮しは高嶺《たかね》の花でしょう。そうして彼女も時がたつと、今よりもっとそのことを諒承するか、せざるをえないようになるでしょう。
ぼくたちの関係もおちつくところへおちついた感じですが、こうなるまで、ぼくはじたばたしながら六年余もかかったのに、彼女は最初、妾にしてくれ、といってぼくのところに来たわけで、女の第六感のおそろしさはただただ呆《あき》れかえるばかりであります。
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四 人
電話のベルが鳴ったとき、ぼくは、レポート記事を書かして貰っている週刊誌の編集者と打ち合わせかたがた都心で酒を呑み、濁り疲れた身体で自分の巣へ戻ってきたところでした。
腕時計を見ると、もう午前三時すぎ。こんなにおそい電話は、元カミさんにちがいないと受話器をとりあげてみると、はたしてそうで、
「寐てたの」
「──いや」
「仕事してたの」
「──いや」
「じゃ、何してたのよ」
「──煙草《たばこ》を吸ってたところだ」
「ねぇ、あたしたち、ほんとに別れたの」
「そうだよ」
「ほんとに、離婚届、出したっけ」
「判を押して、サインして、二人で区役所に行ったぜ。君はマンションを移って、生活費を受けとった。どこが不足かね」
「そんなこといってるンじゃないわよ。誠ちゃん、あたし、御飯が喰べらンないの」
「どうして」
「喉の下のあたりが、げっと鳴るの。呑みこもうとすると、戻しちゃうの」
「神経だよ」
「神経ねぇ。友だちが居たりすると、そうでもないの。で、皆に来てもらうんだけど。もちろん、女の子よ」
「飯なんか喉をとおらなくたって死にやしない。気にしないで寐ろよ」
「寐らンないわよ。ねぇ、小料理屋ってむずかしいの」
「何故──」
「月給で、切り盛りしてみないか、ってある人がいうの。カウンターのほかに座敷が三つあって、従業員は──」
「無理だよ。君は家に来客があっても挨拶ひとつできなかったろう。こっちは寐るぜ」
やれやれ、という感じです。ぼくの書斎や寝室にあったものをのぞいて、所帯道具はあらかた彼女が移転先に携行してしまったので、暖房器具がありません。茶の用意もないし、風呂がわいているわけでもない。雑誌や新聞や汚れた下着が散らかった居間に腰をおろして、煙草を一服。
一人で、笑うほどのことも思いださないし、部屋の中の寒々しさに対抗する工夫がつかないのです。いや、だから離婚なんかするんじゃなかった、とそんなことを思ったのではないので、離婚万々歳。寒々しかろうが、少々不便だろうが、ひとつ家に住みながらまったくばらばらな気持を抱いて暮すというあの地獄にくらべれば、このくらいの不充足はしかたがありません。
ぼくはベッドに急ぐことをやめて、もう一本、煙草に火をつけました。
また電話が鳴ります。
「──ねぇ、誠ちゃん」
元女房からです。
「眠れないのよ、来てよゥ」
「こっちは少し寐て、仕事だよ」
「仕事道具持って来れば」
「そう君の思うとおりにはなれんよ」
「───」
返事がしばらくないので、
「起きてりゃいつか眠くなる。いつ寐ようと君はどうせ仕事が──」
バサッと受話器をおく音がひびいて。
畜生奴、甘ったれやがって、あのくらい徹底して手前の都合《つごう》しか考えずに生きてみたいもんだ。こっちは深夜、火の気もないようなところへ帰ってきて、お前の遊び代を仕送りするためにコツコツ仕事をしなきゃならないんだ。ああ早く、仕送りの期限の一年がきて、お前なんかと無縁の人になりたいよ──。
ぼくは煙草を吸いながら内心でそう毒づき、同時に向こうも、受話器の前で全然逆の毒づきをやっているだろうなと思い、いや、ひょっとすると、コトリとも音をさせずに布団の中に横たわって寒々しい表情をしているのかもしれない、と思ったりします。彼女は何か気に染まないことにぶつかると、弱い獣のように何時間でもそうやって動かずにいることが、ふだんでもよくあるのです。
同情しだすときりがないのですが、彼女は弱い動物にありがちの生理反射が敏感で、たとえば食事中に彼女の発言をぼくが無視したり、悪い反応を示したりしたとします。すると、もうそのとたんに、げッ、と喰べた物をもどす感じになるのです。そういうふうに生理的に反射されると、発言の内容やその要因がなんであれ、なんとなくこちらはおろおろしてしまう。
おそらく、喰べられないというのも、眠れないというのも本当でしょう。別れて飛び出してはみたものの、ぼくが仕送りを保証した一年間はともかく、他に彼女好みの男がつかない限りやがて自立せざるをえず、そう考えると不安で、もうそれだけで追いつめられてしまうのです。それはぼくたちの六年間の結婚生活がいきつくべくしていきついた結末にはちがいないのですが、しかしそれにしても、そういうふうに追いこまれてしまう彼女を見たくありません。彼女に限らず、誰をも、追いつめていきたくないのです。
別居してから、ぼくが部屋の鍵を忘れて外出してしまって、合鍵を持っている彼女の新居を訪ねたことがありますが、がらんどうのぼくのところと対照的に、ピカピカのマンションで、家具に埋まり暖かそうな部屋に居る彼女を、これは虚構に近い暮し方と思いながら、ほっと安らいだおぼえがあります。そのときぼく以上に安らいで、ぼくに優しくしてくれた彼女を見て、いつもこんなふうに虚構の世界においといてやればよかったと思いました。それと、彼女の無責任さや、恣意や、手前勝手を放置したのでは、ぼく自身がたまらないと思う感情は、別筋のものです。
だいたいぼくは次男坊のせいか、親兄弟に対する執着もうすい方らしく、東京に出てきて一度も故郷を恋しく思ったことがありません。また、中学、高校、大学、そして社会に出てからも、離れがたく思うような友人もできませんでした。そのくせ、映画やテレビなど見ていて、物語《ストーリー》自体にはすこしも乗っていないのに、人と人が誤解をといたり、心を触れ合わせたりする場面があると、不意に、どっと涙が溢れてきたりするのです。小さい頃から他人に理解されにくく、また理解されるに足るほどすぐれてもおらず、そういう自分をぽつりッと孤立させたまま育って、なんとなく世の中の表面と歩調を合わせながら、実は誰とも深い提携をすることなく生きてきてしまったぼくの泣きどころなのかもしれません。
ぼくは長いこと、他人との深い接触を避けて、誰との結婚にもふみきりませんでした。そのくせ内心のどこかでは、男女にかかわらず人との触れ合いに渇えていました。その渇えはしかし、夢精のように眠っているときにぽこっと排出されるていのもので、ほとんど平常の自分の表面には出しません。多分、その方が楽だったからでしょう。なんとはなしに年頃をすぎて、所帯を持つ必要が濃くなったとき、学校や実社会といいかげんに関係してきたように、やっぱりいいかげんで、不必要に深くならないような結婚をしてごまかしてしまおうと考えたようです。
それが、会津すみ子のような、無難とは正反対の娘と一緒に暮しだしたので、誰よりもおどろいたのがぼく自身なのです。おどろきながら、ぼくはなんとか彼女を無難な女に仕立てようとして、ことごとく失敗しました。
けれども、考えてみると、彼女がぼくにはじめていったセリフは、
「ねぇ、あたし、お妾にしてくれない──」
でした。その理由は、
「責任がないもの、楽そうだし──」
ぼくはそういう彼女を突飛な女と思いましたが、実はこの言葉こそ、結婚というもの、或いは人生というものに対する(内実にはそうでないものを抱えながら)ぼくの態度でもあったわけです。
そうして一緒に暮しだしてからも、ぼくは、ぼくばかりでなく彼女もですが、関係を深まらそうとしないで、ひたすら、ぼくは内心のバランスを、彼女は生理のバランスを、とろうとばかりしていました。その結果、お互いがどれほど孤立し、救いがたい存在であるかを実証しあったといえましょう。ぼくたちの六年間の結婚生活は、こういう次第で幕をおろしました。
元女房は三日にあげず、旧居をのぞきにくるんです。洗濯機を新居にいれるスペースがないとかで、自分の汚れ物を持ってやってきて、ついでにぼくのものも洗濯していってくれます。
「掃除でもなんでも遠慮なくいいつけてよ。あたし、まだ誠ちゃんのお金で暮してるんだから」
「遠慮はしないがね、まずこの家の自分の持ち場を整理してくれよ。めぼしいものは運んだろうが、半分捨てるような屑《くず》がまだ君の部屋にいっぱいあるだろう。別れて身二つになればそれでいいってものじゃない」
「ええ、わかってるわよ」
「最終的にこの家を大家さんに引渡すまで、君も半分責任はあるんだから」
「そんなこといったって、あんたが居坐って動かないんじゃないの。誠ちゃんも引越すっていってたでしょう」
「アヤがついたからな。だが金がないよ」
「借金しなさいよ」
「そう簡単にいうな」
「じゃ、どうすんのよ」
「それに、俺は毎日仕事してるんだ。部屋探しを優先させるわけにはいかない」
「あたしが探してきてあげようか」
「いいよ」
「あたしんところ、まだ空いてる部屋があるんだけどなァ。誠ちゃんはマンション嫌いだものねぇ」
「俺が、君のところを追いかけていってどうするんだ」
「追いかけてきて、泊っていくじゃないの」
それはそうなんです。実際、二度三度、ぼくは元女房の部屋に行って、充分に情緒的な夜をすごしていました。目茶苦茶といえばそのとおりですが、一緒に暮すには障害になった彼女のマイナス要素が、もう少し責任のない立場になってみると、そっくりそのまま、風変りな可愛い女の子、という要素に早変りするのです。
もっとも、風変りな可愛い女の子が他に居ても、ぼくは後難をおそれて手を出さなかったでしょう。彼女の場合、後難はもうすんでいるので、どんなことをしたってそれが結婚に結びつくはずはないのですから、気が楽なのです。
また彼女の方でも似たような形があったはずです。もともと彼女は自分を律してくるようなものに所属しきれなかったので、別れたとたんに五分五分の関係になり、それで伸び伸びとぼくを迎えられるのでしょう。そうして、ここが矛盾はしているのですが、まだ半分保護者のようなぼくを見ると、自立の心細さも慰められるのです。
多分、ぼくは妾宅に居るような顔つきをしていたでしょうし、彼女は自分が主人役で、ぼくをごく親しい来客のようなつもりで遇していたでしょう。
実際、別れてから、彼女の肌は急に艶やかさをとり戻しましたし、三十に手が届いた女とは思えないほど、眼も鼻も口も若く柔らかく、優しさすら感じさせるほどなのでした。
「おかしいわね。こうなってみると誠ちゃんはやっぱり必要だわ。好きよ」
「好きも嫌いもそんなこと無意味だ。これは変則なんだから」
「変則って、どういうこと」
「長続きしないって意味さ」
「じゃ、誠ちゃんはどういうつもりでここに来るのよ」
「俺もそれを考えてるんだけどね」
「考えなくちゃわからないの」
「俺はだいたい君を憎んじゃいない。客観的に見ると、君みたいな女は大嫌いだがね。一緒にいる間お荷物で、縁が切れたらどんなにせいせいするだろうといつも考えていた。それなのに、いざ切れるとなると、いつも、なんだか引っ張るものがあるんだ。そいつは何だろう」
「ずいぶんひどいいいかたね。そんなふうなこと訊いてやしないわ」
「もちろんその都度《つど》、魅力の部分もあるんだが、それはいつも条件つきでね、否定的な要素を凌駕《りようが》しない。長く暮しているから肉親愛に似たものか、それもある。身体に馴れ親しんだ余韻か、それもあるな。孤立を反響しあう間柄から単なる孤立に戻ってしまったゆえの淋しさか、それもある。いろんなものがあるが、それらを皆取り払ってしまっても、あとに何かが残るんだ。それが不思議でしょうがない」
ぼくは彼女と決裂する三月ほど前から、友人たちと外国語を勉強しなおす会を造り、毎週一回、日を定めて集まっていました。いずれもマスコミ関係のフリーランサーで、専門技術のようなものは持っていましたが、もうひとつ極め技としては不安定で、今からでも武器をいろいろ身につけておこうという発想でした。
その席で、たまたま教師格で出てきていた植木純子ことベティ・ジェーン・植木と知り合ったのです。ベティは植木敏春という、ロンドンでサム・ハスキンの内弟子をしていた若い写真家の女房で、父親が日本人、母親がユダヤ系アメリカ人というハーフでした。
ベティはぼくの語学能力の貧しさをたちまち見破ったようでしたが、ある夜、勉強のあとみんなで酒を呑みながらポーカーなどして遊んだとき、ぼくがばくち場で見おぼえた手ホンビキのやり方を得意になって披露すると、突然彼女が烈しい興味を示したのです。
「それ、教えて──」
彼女は日本語も実に達者でした。
「手ホンビキ、ぜひ教えて」
ただ概略だけでなく、細かいセオリイや遊び人の世界のことまでしつこくきいてくるのです。ぼくは少々面喰らいながら、
「どうして、そんなこと知りたいの」
「興味があるのよ、日本のことならなんでも。お父さんの国ですもの。ベティね、十八のとき日本に来て女子大に三年ほど居たの。でもとおりいっぺんのことしか教わらなかった。学校で教えてくれないようなことなら、なんでも知りたいわ」
ベティはまたこうもいいました。
「鎌倉にお父さんのお墓があるの。だから鎌倉のこともっと知りたい。本に出ていることだけじゃ駄目。鎌倉じゅう、ずいぶん歩いたわ。一本一本、自分で道を歩いてみたかったの。そうしたら、一軒一軒に住んでいる人たちのことまで残らず知りたくなっちゃった」
「凝り性なんだな」
「小さいときに両親に死に別れたから、だから、両親のことをもっと知りたい。お父さんは鎌倉で育ったの」
彼女はぼくを、父親にどこか似ている、といいました。もちろん年齢的にはだいぶちがうはずなのですが、彼女は十何年前の若い父親しか知りません。
ベティの父親は戦争前に日本のK研究所で細菌学を研究しており、そこからアメリカにスカウトされて国籍を移したのです。そうしてハワイで彼女の母親と結婚したのです。
彼女は最初からぼくに対して隔意なしに近づいてきたようですが、何故、ぼくのような諸事うすっぺらい男に興味を持ったのかわかりません。ぼくの方も、彼女の亭主とは出版社などでときおり顔を合わせていましたので、人妻だと思っていましたし、情緒的な交際とはいえなかったでしょう。
彼女も私もジャズが好きだったり、議論好きだったりして、話題には困らなかったけれど、人妻のくせに深夜私と二人で酒を呑み歩いたりする彼女の真意をはかりかねていました。