ぼくの元女房も深夜までよく出歩いていましたが、タイプが少しちがいます。おそらくベティの方はずっと仕事を持って男社会の中でもまれてきているからでしょう。
ある日、ぼくは自分の巣にベティを連れていきました。がらんどうの家内を見せて彼女が眼を丸くするだろうと思ったのです。
羽鳥 誠一
すみ子
そんな表札がまだかかったままでした。
しかし彼女は、がらんどうを見てもべつに驚いたふうでもありません。
「カミさんと別れたばかりでね。半分、空家だ」
彼女は台所をのぞいて、「ゴキブリがすごいわねぇ」といっただけでした。
「ああ、犬が居たもんだから、薬がまけないって、カミさんはいってたな」
ぼくは散らかった自分の部屋にベティを招じ入れましたが、そこでも彼女はたじろぎません。
「汚ないだろう」
「いいえ、平気よ」
「僕も平気なんだ。散らかってないと気分がおちつかなくてね」
「あたしなんか、最高二カ月お風呂に入らなかったわ。お風呂なんかこの世になくても平気。ロンドンの撮影所で働いていた頃、下着を含めて二カ月間同じ服装をしてるって、友だちが注意してくれたことがあったわよ。あたしは気がつかなかったけど」
そういえばベティは、ほとんどジーパンスタイルで化粧もしてません。
「ベティ、掃除も洗濯もたまにしかしないわね。食事もつくらないし」
「外食かね」
「いいえ、ベティ、たまにしか喰べないもの」
「旦那は?」
「旦那は自分の喰べたいものをつくってるわ」
「それで文句をいわないかね」
「べつに。ごく自然にやってるようよ。我慢してやるくらいなら、旦那もやらないし」
「両方がやらなかったら困るだろう」
「そんな気配があれば、あたしがやるわよ。だってあたしはべつに、旦那を不愉快にさせたいなんて思わないもの。たとえば汚れ物が三日も放り出してあるとするでしょう、あ、何かの理由でやりたくないんだな、そういう感じはわかるから、すぐにやってあげる。向こうもそれを見てても黙ってるわよ」
「それが、西洋流ってやつかなァ」
「どうして、別れたんですか」
「俺たちか。カミさんに男ができたわけでも、俺に女ができたわけでもなかったんだ」
「そうすると、性格の不一致?」
「まァ、それかな。どうも、こういうとますます馬鹿馬鹿しい理由になるんだが、お互いに、つくづく一緒に暮したくなくなったんだ」
「そういうのって、あるわね」
「君は、植木君がはじめての結婚?」
「とんでもない。三度目、四度目かしら。結婚までいかないボーイフレンドがその間に二人ほど居るしね。トシ(旦那)の方も二度目かな」
「そうすると、離婚なんて慣れてるわけだ」
「でもね、ロンドンでトシがプロポーズしてくれたとき、結婚なんて紙きれ一枚の問題だが、お互いにどんなことがあっても今度は死ぬまで添いとげよう、そのために結婚しようよ、っていってくれたの。ベティ、それでトシと結婚しようと思ったんだわ」
ぼくは一人になって、すぐに不便を感じはじめました。
食事は、ちょっと面倒だが外ですればよろしい。洗濯は、今のところ元女房がやってくれる。掃除は、しなくても平気。
不便というのは、来客の応対、不在の場合の連絡事務、税金対策、日常の諸払い。
第一、こんな半分空家のようなところにいつまでも居るわけにはいきません。無名であれ何であれ、フリーランサーは自宅が仕事場兼事務所のようになるものです。
ベティ夫妻のマンションに空部屋があるという話に、ぼくは飛びつきました。そこは外国から赴任してくる若いサラリーマン向きのマンションで、スペースはそう広くないが、家具つきという点が便利です。家賃も青山という土地がらを考えれば手頃でした。
見にいくと、ベッド、クーラー、ステレオ、テレビ、冷蔵庫、応接セット、簡単な食器から夜具まであります。このうちダブるものがいくつかあるので、すぐそばにもうひとつ小さな部屋を借りるつもりにまでなりました。
その部屋は、植木、ベティ夫妻の隣りでした。
「ちょうどいいわよ、当分の間、あたし、あいてるときは秘書役をやってあげるわ」
「それはありがたいね、ぜひ頼むよ。お礼はさせて貰うから」
元女房に仕送りする月三十万という枷《かせ》もあり、ぼくとしては仕事の量をいやがうえにも増やさなければなりません。それはぼくに能力があって売れたということでなく、見境いなく仕事を取ったということなのです。そうして、仕事の量が増えれば、それに附随していろいろな雑用が増えます。ぼく一人では、その側面の用事の方が足せません。
で、とにかくベティがある程度助けてくれるというのは、もっけの幸いなのでした。
そういう話が出る前に、洗濯にやってきた元女房と、ちょうど来合わせていたベティが、初対面の挨拶を交したことがあります。そのときは他に編集の人も居たので、ただ挨拶をしたという程度でした。
それから十日ほどして、ベティと映画を見に行こうという電話の打ち合わせができたときに、元女房が顔を見せたので、
「映画見に行くかね」
何気なく誘いました。ベティの旦那のトシはそのとき、写真の仕事で出張中だったと思います。その頃は部屋の件がおおむねきまっていました。
ぼくはベティと待ち合わせた喫茶店へ、元女房と行き、
「今度、部屋を世話して貰ってね、同じマンションにこの夫妻と住むんだ」
「部屋って、どんな?」
「まァ、仕事部屋みたいなものだな。家具つきだから、俺にはちょうどいい」
�スラップショット�という映画をその夜見ました。その映画は存外に苦い主題を持っていて、人間の生き方が全体に行きづまってもはやにっちもさっちもいかなくなっている様子をパロディックに写していました。
その夜簡単な食事をしながら、ぼくたちは映画によって触発された話題を口にしたのですが、それは主にベティとぼくとの応酬でした。元女房の方がどうしても話の外におかれてしまうのです。
元女房と二人きりなら、そういう話題を口にしないか、解説風に語ってきかせるか、どちらかだったでしょう。もちろん、ぼくだって学識豊かな方ではないし、そんなことは離婚の因とは別なのですが、とにかく、元女房との会話をはずませるつもりなら彼女の方にぐっと合わせるより仕方がなかったのです。
まもなくぼくは気がついて、話題を三人でしゃべれることに変えました。つまり、離婚について。
それで元女房も息を吹き返したように、これから何をして働こうと思っているか、というようなことをしゃべりはじめました。多分、彼女としてはその前の話題のときのけ者にされた不満、乃至《ないし》劣等感から、いっぱしのことができるという恰好がしたかったのでしょう。
例の小料理屋の代理ママの話が出てきました。そしてそれはベティに一言で否定されました。ベティの発言は、一年間の仕送りがあるならその間にできるだけ自分の将来にプラスになりそうな仕事を選定するべきだ、というふうなものでしたが、元女房の気質をよく知らないベティは、日本語を考え考えいうせいもあって、男性と事務的会話を交すような飾りのないいいかたになってしまいます。
元女房はあまり愉快そうでない表情でちょっとだまりこみました。
「明日の晩、家でパーティをやるのよ」
彼女は突然こういいだしました。
「ベティさんも来ない。七八人、友だちが集まるんだけど」
「あたし、パーティって嫌いなのよ」
「そう──。じゃ今夜いらっしゃいな。いいでしょ、あたしの家へ行きましょう」
「そうしようか、ベティ、ちょっと寄ってみようよ」
とぼくもいいました。ぼくは元女房と長いから、彼女の反応は大体わかります。あたしの家、という言葉を昂然というのをきいて、彼女が飾りたてた�あたしの家�をベティに見せて、今までの失点をはね返したがっているのだ、と思いました。
そうさせてやろう、とぼくも思ったのです。ぼくは、元女房に限らず、誰かが窮地においこまれていくのを見るのが好きではありません。|0《ゼロ》敗はいけない。彼女にも何点かとらせてやりたい。
車中、当りさわりのない話題だったせいもあって、彼女の機嫌もほどなくなおり、赤坂のマンションにつくと、酒を出したりしてベティをもてなしはじめました。
「綺麗な部屋ね」とベティがあまり乗らぬ調子でいいました。「すみ子さんが自分でなさるの」
「そうよ、安物ばっかりだけどね」
すぐ帰ればよかったし、元女房としては、すくなくともベティは、部屋をのぞく程度ですぐ帰るものと思っていたかもしれません。ぼくがいくらか酔いもあり、それに第一、元女房が宵っぱりだと知っているので、ついだらだらと話しこみ、ベティも席を立とうとしません。
元女房は二度目の茶を入れに立ち、その時点では彼女自身、まだもてなすつもりだったのでしょうが、茶を入れて席に戻ったとき、我慢がなりかねるというふうにこういいました。
「あんたたち、なにをあたしの前でイチャイチャしているの。ここはあたしの家よ、帰って頂戴」
ぼくたちはマンションの裏門から出てタクシーをひろい、元女房はタクシーのところまで送ってきました。
ぼくは仕事の円滑をはかるために、とりあえず旧居をそのままにして、仕事道具だけ持って、ベティ夫妻の隣りの部屋に移りました。
「念のためきくけど、旦那はこの件について諒承なんだね」
「ええ。トシは最初から知ってるわよ。あたしがなんでも話してるから」
「なんでも?」
「ベティ、羽鳥さんを特別な人と思っちゃったんだもの。しばらく、っていつまでかわからないけど、この人に添っていってみようって」
「それをトシにいったの」
「ええ、話したわよ」
「妙な夫婦だなァ、君たちは」
「だって、トシを裏切るようなことじゃないんだもの。トシはその点は、あたしをよく知ってるわ」
「トシが忍耐しなければならないようなことは、やらないって、いつか君はいったね」
「トシは不思議な人よ。羽鳥さんとは面識があるという程度でしょ。それが、あたしの考えをきいて、大筋では賛成してくれたわ」
「君の考えって、ぼくにひっつくってことか」
「ええ──」
「ぼくは特別な人間なものか。優秀な男でもない。無名のライターだ。いいかげんな仕事ばかりしてる」
「あたしは貴方《あなた》から技術を教わろうなんて思ってないもの。羽鳥さんが無名だとか、専門分野の才能がどうだってことは関係ないの」
「じゃ、何故、特別な人なんだ。ああそうか、父親に似てるっていってたな」
「父親に似てるけど、貴方を父親のように思ってるわけじゃないの。それは単なる付帯条件ね」
「いつから、そう思ったんだ」
「最初からよ。英語の勉強をしていたときから」
「そんな馬鹿な。英語はからきし駄目さ。目立つところなんかない」
「技術じゃないっていったでしょ。──眼力よ。ベティ、眼力だけはあるのよ。小さい頃ね、ジャズどころか音楽もききわけられなかった時分、ラジオでオスカー・ピータースンの音《ピアノ》をきいてね。すごい和音《コード》だなァと思ったの。だからピータースンの名前だけは小さい頃におぼえちゃったのよ」
「トシも、その眼力を信用してるのか」
「引越しの手伝いにいこうか、そういったくらいですもの。あたしは前にも、他の国であるのよ。人に夢中になって、その人を特別な人に思ってしまうの。ハリウッドにも居るわ、わたしに映像美学を教えてくれた先生、ロンドンにも居る、広告代理店の人でね。トシははじめ面喰らったようだけど、結局はベティの好きにさせるよりしょうがないと思ったみたい」
「ふうん」
「でも、一度、こういったことがあるわ。黙ってるからって、許してるとは限らないぜ、って」
「うん」
「だから、いつもトシの気配に神経を当ててる必要があるのね。だってトシは無口だから」
「それはわかる」
「トシはグレートよ。でもあたしは贅沢だから、他にグレートな人が居たら、その人のこともよく知りたくなるの」
「ぼくもグレートだっていうのか」
「ええ」
「何故」
「眼力だもの。どうしてっていわれても困るな」
「でも、説明してくれないか。でないと、からかわれてるんだと思う。ひと眼ぼれだっていわれるなら、まだむしろ納得するかもしれないがね。グレートとは意外だ」
「あたしはマウイ島育ちでしょ。四つか五つの頃、父親に崖から突き落されて、海の中でどうやってバランスをとるかおぼえたのよ。それから野ッ原や山で、絶えずいろんな動物たちと一緒になってすごして、それで知恵を身につけていったから、それで直感のような本能的なものが発達したのかもね」
「もうひとつは──」とベティは続けました。「この十年の間、何度かの結婚や広告制作の仕事なんかで、いろんな民族、いろんな階級の雑多な人たちと接してきたの。特に二度目の亭主はジャズ屋だったから世界じゅう飛び廻ったわ。あたしの年齢としては、人間を見つけてると思う。その中で人らしい印象を残してるのは、五本の指にみたないわね。だからそれを感じたときに貴重な存在になるの」
「君のいう人らしいというのは、具体的にはどういうこと」
「ハートがある。あたしが手をさしのべるとその人の心臓にさわれるの」
「それは世間でよくきくセリフだな」
「ハウアーユー、いい天気だね、君は元気かね、九十九パーセントがそれ式の会話でしょ。グッドモーニングといわれて、ノー、バッドモーニングとはいい返さないわ。そういうロボットとはつきあいたくないの」
「ぼくはグッドモーニングの口だよ、にこやかに笑いながら」
「そうなの」
「ああ、いつもそうしてきた。いい加減にね」
「本当をいうと貴方はまだ具体的には研究対象なの。第一段階の直感、第二段階として感触、ここまではたしかな手ごたえがあるんだけど」
「待てよ、そうか、今、思いだしたが──」
「なんなの」
「まァいい、先をきこう」
「感触だけで羽鳥さんを捕まえるのは危険だけど、貴方の持ち物であたしの眼をひくものというと、ナイーブさと、居ずまいのよさ、じゃないかしら」
「二つともちがう。居ずまいなんて、ぼくはよさわるさというより、無い。ぼくは元カミさんとおんなじさ。彼女からも同類項だといわれたが、これからつきあってみるとわかるよ。他人から眼をつけられるような男じゃない。これは卑下じゃないよ。卑下なんかしたって意味はない。本当のことだ」
「そうかな。──すみ子さんとのことでも、離婚してから、かえって同棲に近い要素が出てきたっていったでしょ」
「それが、居ずまいのよさかね」
「あるいはそうかもしれないじゃないの。居ずまいってのは、つまり、やることとやらないことがはっきりしてるってことでしょ。それはあくまでも羽鳥さん流儀のやることとやらないことだから、わかりにくいんだけど、夫婦の間柄なんて深い関係だから、世間流でない羽鳥さんの居ずまいが、出てきてるはずだと思うわよ」
「眼に見えたところは、くだらない関係なんだ」
「くだらないかどうか、あたしが評価したってしょうがない。あたし、ソサエティってものに関心がないの。あれはユニオンみたいなもので、そこに加わらなくちゃ生きていけないから便用してればいいものよ。だから羽鳥さんの書く記事なんて、無関心。あたしがつくる広告文がいいかげんなものと同じでね」
「そう思えたら、気が楽だろうな」
「あたしはね、両親ともに早く死に別れたわ。一人娘だから兄弟も居ない。ユダヤ人と日本人の血は流れてるけど、故国もない。国籍なんか誰にしろどうせ仮りのものだと思ってるけど、一生涯居られると保証されたところはどこにもないし、死ぬところはあそこだという場所もない。だから、残るのは個人的な規範だけ。自分流の居ずまいをただしていないと、どこまでも流れていきそうでね」
「ぼくも、そういう世界浪人の臭《にお》いがするってわけか」
「ええ──」ベティは強い視線をぼくに当てながらいいました。「本質的には、そうじゃないかしら──」
彼女は、ぼくにかこつけながら、むしろ自分を語ったのでしょう。
ぼくはあいかわらず仕事を山のように抱えていたので、昼夜兼行で仕事場に居る感じになりましたが、その間もベティが現われると好んで机を離れて、会話にふけってしまうのです。
とにかく、ベティとの交流はこのあとも、徹底的に言葉の世界だけでありまして、どんな状況の中でもその枠を一歩も出たことはありません。もちろん手ひとつ握ろうとしたことすらないのです。
彼女は、血球生産が円滑にいかない病気があるせいか痩せてはいますが、聡明さに加えて女性的魅力も充分にあるといえましょう。
ぼくは、最初から植木敏春の妻という眼で眺めていたせいで、情緒の入口から闖入《ちんにゆう》する気持を自分でふさいでいたのかもしれません。それは充分にありますが、ぼくだって、学校を出たての頃は、人妻と恋を語らったこともありますし、たとえ知人の妻であろうと場合によっては一線を踏み破ることがないとも限りません。
実際、知り合った頃、一瞬ですが、ぼくの内心が情緒の方を軸にしていた時期もあったのです。といって、その後、手ひとつ握らないからといって、ぼくたちの世界が観念的なだけのものであるかというと、それもちがうのです。
ひどく伝えにくいのですが、ベティから、グレートだ、といわれたとき、ぼくの内面にひょいと浮かびあがった状態は、映画やテレビを見ていて、人と人が触れ合い心を通じあったときなどに、涙の塊りがむらむらッと出てくる、あのときに似た昂揚がおこったのです。涙こそ流しませんでしたが、ぼくは至純の状態になってしまって、ぼくの、或いはベティの身体でお互いの関係をたしかめあおうなどという気持には、てんでならなくなってしまったのです。
それは不思議な状態でした。仕事場で毎日のように見交す一瞥《いちべつ》に、血のつながった親族のような色があり、また、ちがう種類の生き物が稀《ま》れに抱く友情のようなものもこめられていました。それは大仰な形容ではありません。
はじめ、手空きのときだけ手伝うようなことをいっていたベティが、ぼくの量産態勢を見かねたせいもありますが、ほとんどの時間をぼくの部屋ですごすようになり、ぼくが徹夜していれば、彼女も寐ないで長椅子に坐っているようになりました。
血球生産がわるくて人一倍体力気力に欠けるはずの彼女がそうしていること自体に迫力があるのです。
「帰って寐なさい」とか「無理をしないで」とかいうぼくのセリフは、彼女にいわせれば、ハウアーユー、天気はどうだ、の類《たぐい》のセリフにすぎなかったでしょう。
けれどもぼくは、壁一重隣りのトシに気をかねていました。旦那に忍耐をさせるようなことはしない、とベティはいいましたが、この場合、トシは必ず耐えているはずで、黙っているから許しているとは限らない、と彼女にいったセリフが思い出されます。
トシとは廊下や表の道路などで、折り折り行き会います。たまにぼくの方が、屈託のない顔つきで隣りの部屋にお茶を呑みに行ったりします。
トシの方は、用事でベティを呼びにくる場合も、遠慮してドアのところで小声で呼ぶか、隣りから電話をかけてきたりします。
いずれにせよ、ぼくの元女房と対照的に、トシは牛のように沈黙していました。
「──誠ちゃん」
受話器の向こうで、うッ、ううッ、とむせび泣く気配があり、受話器に叩きつけるような息声で、
「ひどいわよ、ひどい──!」
「待て、おちつけよ」
仕事場にはベティのほかに、編集者も来ていました。
「ベティとできてるってじゃない。あたし死ぬわよ」
「まァとにかく、おちついて話そう。ぶらっと出てこいよ」
ぼくは青山通りの喫茶店で彼女を待ちましたが、現われません。夜になって、下着を替えに旧居へ帰ると、やがて電話があって、先刻よりは少し落ちついた声音でしたが、
「ひどすぎると思わない。できてる女をこれみよがしにあたしの部屋まで連れてきて。あたしはね、一人ぼっちで、御飯もろくろく喉にとおらないっていうのに」
「君が思ってるような関係じゃないんだ」
「評判よ。誰にきいてもそういうわよ。ベティは夜なかも居るんだって」
「だが、そんな関係じゃない」
「で、どうなの」と彼女はいいました。「あたしはもういらないでしょ。二度と誠ちゃんに会いませんからね」
ぼくは寒々しい旧居の寝室で、ただ寒気を防ぐためにベッドに横になりながら、もう一度、ベティとの間柄を反芻《はんすう》しました。
彼女とは最高に緊迫した、乃至は、打ちとけた間柄であるような気もします。しかしまた、まったく何もない関係であるということもできるのです。
昔読んだ旧約聖書の記憶では、姦淫《かんいん》とは、実生活上の戒律としては、肉体の関係のことをいうので、但し、心の姦淫はその前段階だという前提のもとに道徳的に戒められていたような気がします。
けれども、ぼくたちの心の姦淫は、必ずしも肉体関係の前段階ではなく、それ自体で完結してしまうようなところがあり、そこが戒律にどうひっかかるのか、微妙なところです。
一方また、ぼくはこういうふうにも考えました。ぼくは日常の諸問題を処理するための助手を欲していた。ベティがみずからその役を買って出てくれて、我々は職場での相棒や家庭での兄と弟のように、琴瑟《きんしつ》相和した。そうだとしても、姦淫でしょうか。
いや、姦淫にこだわるようですが、ぼくは元女房とは離婚しており、道義上は何をしても、彼女に遠慮することはないはずです。
そもそも、彼女が妻としての義務を放棄した(彼女にもいい分はありましょうが)ようなところから、ベティが助手役を買って出てくるようなことにもなったわけで、自分が退いたあとへ、かりに新しい女が来たとしても、元女房が何をいう権利がありましょうか。
二度と会わないといった口の下から、その一時間後、元女房が不意に訪ねてきました。彼女はたしかにやつれていました。そうしてその姿を眼にすると、ぼくの方もそれに対応して、つい数分前に念頭にあったこととはまったくべつの、彼女をいたわってやりたいような思いが浮かんでしまうのです。
それは、トシにも、この元女房にも、どちらにもある思いです。また同時に、トシにも元女房にも、いい開きをする段になれば諤々《がくがく》とできるのですが、その二つの気持がさして矛盾なしに混在しているのです。
「どうした──」
ぼくはつとめて気楽にいいました。
「まだ、飯が喰えないのか」
「当り前じゃないの」
「君の方も、にぎやかにやってるんだろうと思ってるんだが」
「──ねえ、誠ちゃん」と彼女はそれが来た用件のように、「ここの家、どうするの」
「移るさ」
「昨夜きいたんだけどねえ、あたしの友だち夫妻が外地赴任で二年ほどマンションを貸したいっていってるんだけど、見てみない」
「俺一人だし、小さいところでいいんだ」
「安いのよ。敷金その他も無し。そのかわり彼女たちが戻ってきたとき、出て貰えることが条件なの。誠ちゃんどうせ、転々とする人だものね」
「寒いから中へ入れよ」
彼女はそのまま、ぼくの隣りへ無造作に横になりました。
「脱げよ」
びっくりして、ぼくの方をのぞきこみます。
「なによゥ、そんな必要もうないでしょ」
「いいだろう、俺もちょっと餓えてるんだよ」
「けがらわしいわね、さわらないでよ」
「しかし、俺は君一人だぜ、こんなことをするのは」
「あらッ、別れといて」
「別れたさ。普通、別れた亭主ってものは、女房のあとを追わないものだろう。別れた亭主をもそもそさせるんだから、君はたいした女だ」
「ばかなことをいわないでよ。どうかしてるわよ今夜は、あたしなんか軽蔑《けいべつ》しきってるくせに」
ぼくの手に力が入ったので、彼女は仕方なさそうに脱ぎました。
「おい、自信をもてよ。君は美しいよ」
「あたし、痩せたでしょ」
「しかし、まだおとろえちゃいない。まァ一緒になる前とくらべりゃあね──」
「老けこんだわね。いやんなっちゃう。美容院の男の子がね、ずいぶん髪の毛が抜けるなァ、っていうのよ」
「髪の毛は多すぎるっていってたんだから、ちょうどいいよ」
「──これでもまだ、捨てたもんじゃない?」
「ああ」
「誠ちゃん、ほんとはあたしを好き?」
「嫌っても憎んでもいない。ただ、一緒に暮すのはこりごりだ、それだけの話さ」
「──いい仕事がなかなかないのよ」
彼女はぽつりといいました。
「話はいろいろあるんだけどね、みんな、はっきりしなくて──」
「うん」
「男もできそうにないし。誠ちゃんはいいわね。いい人ができて」
「ベティのことか。あれは人妻だ」
「人妻じゃいけないの」
「まァ、大切な友人というところかな。俺はベティとトシの結婚生活を乱したくない。トシが、死ぬまで添いとげるために結婚しよう、といって、二人は一緒になったんだそうだ」
「あたし、ベティ、嫌いよ」
「うん」
「そりゃ、別れたんだから、誠ちゃんに女ができても不思議じゃないわね。でも、ベティは嫌、あたし、友だちになれないわ」
「わかってるよ。俺は君と長い。いわなくてもわかってる」
ぼくはその翌日、元女房と部屋を見にでかけました。そして、とにかく市価よりぐっと安いのが気にいりました。旧居の方に無駄に払っている家賃だって馬鹿にならないのですから。
「どう、気に入った?」
「借りてもいいよ」
「じゃ、ベティのところは引き払う」
「両方借りるよ」
「両方、無駄じゃない」
「あすこは仕事場だから、無駄といえばこっちだ。道具の置き場に借りるんだから」
元女房はあきらかに機嫌をそこねてぼくのそばを去りました。
彼女もいろいろと知恵をしぼっているようで、その次は知人の娘さんを秘書役に推薦して、ぼくと知人の両方に運動しはじめました。が、ぼくがうんといいません。
「あの娘さんじゃ駄目なの」
「駄目じゃないが、そう君の思うようにはならないよ」
「何故? ベティは広告の仕事で一人立ちしてるんでしょ。誠ちゃんが彼女の仕事を邪魔してるようなもんじゃないの」
「うむ──」
ぼくはある雑誌に自分が考えた企画を提出していました。それはレポートのような、小説のような、文明論のような、雑文そのもののような、なんともジャンルを形容しがたい原稿なのですが、その取材にベティを相棒にして世界の各地をまわるというものでした。
これまでいいかげんなことしかやってこなかった自分が、はじめて主体性を持って原稿を書こうという、その覚悟のようなものは内心で徐々に固まってきているのですが、ベティにそれを頼むことがためらわれるのです。
一方、ベティの方も、元女房が指摘するように、広告文案の仕事の契約をほとんど解いて縮小してしまい、ぼくの仕事場に入りびたっている状態でした。
ある日彼女が、笑い話のようにして、こんなことをいいました。
「トシがね、ぼくもパンツの紐《ひも》をしめ直してかからなきゃァ、そういったのよ」
ぼくはだまってベティの表情を眺めていました。
「ロンドンでも強敵がいたけど、今度も強敵らしいなァ」
トシはそういったそうです。そしてベティが自分の意見を補足しました。
「あたしがいつも、人にのぼせると一直線になるものだから、トシはまた脅威を感じてるのよ」
仕事場の長椅子でうとうとしていて、夢を見ました。
その黒い皮張りの長椅子に、夢の中でも横たわって寐ているのですが、長椅子の向こうに小学校の運動場が見えるのです。どういうわけか、南平台小学校だということがわかるのですが、ぼくは現実に南平台小学校なんて見たことも聞いたこともありません。
小学校の校庭を掃いているお婆さんがいて、彼女は紫色なのです。児童たちも散らばっているのですがぼくの点景にしか感じられず、お婆さんが掃きながら移動してきて、長椅子のぼくをみつけます。彼女は子供を誘いこむように、向う側からぼくの手をつかんで運動場に曳《ひ》きずりだそうとします。ぼくは抗《あらが》い、お婆さんはひっぱって──。ふと気がつくと、お婆さんはベティの顔をしてるのです。
眼をさますと、そばの机に向かって、ベティがぼくの税金のための金銭出納日計表を造っています。
ぼくがまじまじと彼女の顔を眺めているので、どうしたの、とベティがいい、ぼくは眼を和《なご》ませて答えました。
「ああ、へんな夢を見たんだ」
ぼくは夢の概略を話しましたが、お婆さんがベティだったとはいいませんでした。
「わかったわ、そのお婆さんが──」
ぼくは途中で笑いだして、
「そりゃ、考えすぎだよ」
それから二三日して、彼女からぼくにあてた伝言用紙に、
[#ここから1字下げ]
打ち合わせでは、電話することになっていましたが、考えなおして電話するのをやめました。ずいぶん久しぶりに(私の知るかぎり)外で呑んでいるところを、またベティの声がしたりすると、幻の中で、南平台小学校の掃除のお婆さんどころではなくなると思って。
ベティはお札のように、ペタッとくっついていたいけれど、どうもそれだと�夢見�がわるくなりそう。
どうぞ、お化けにしないでください。
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Good Night
彼女が毎日取組んでいてくれる日計表造りは、青色申告用のもので、仕事にからんだ出費がどれくらいあったかを証拠だてるもの。四五年前から女房の受持ち仕事になっていたのに、毎年実行できず、担当の税理士を弱らせていたものでした。
ぼくはあいかわらず放縦で、出費がどんどんかさむうえに、ベティも大半の時間をぼくのために割いてくれる以上、ちゃんとしたギャラを支払わなければならず、そこへ、たとえ安い家賃のところへ移るにせよ引越しの費用もかかるというわけで、いくら働いても毎月赤字で頭が痛かったわけですが、そこへまた新たに、外国遠征のための大借金を抱えこもうとしていました。
「完全な家計失調ね、あたしのギャラは計算上だけでいいわよ」
「いや。借金も財産のうちさ。大体、いいかげんにやってきたから今まで無難だったんだ。失調が本ペースさ、気にしちゃいない」
引越しはベティ夫妻も手伝ってくれると申出がありましたが、ことわりました。元女房が、すでに手を出していたからです。彼女は旧居を整理するうえで半分の責任があるのです。
明日引越しというときの前夜に、仕事場への電話で、不意に、
「──誠ちゃん、あたし、戻るわよ、戻っていい?」
元女房は、切口上になるべき用件はいつも電話で切りだすのでした。面と向かうと、自分で怖がってしまっていいだせないのです。
そしてぼくも、電話では、例によって絶句気味になるのです。
「待てよ、おい、そっちへすぐ行くから」
ぼくは旧居に駈《か》けつけ、そこに固い表情で待っていた彼女と向かいあいました。
「どうなの──?」
「どうって、俺の意思をきいてるのか。俺はきまってる。しかし──」
「見てよ、こんなにやつれちゃった」
それは独立の苦しみで、君が望んでいたことなんだろう、とはぼくは口に出しませんでした。そんなことをいいだせばきりがなくて、彼女の身体じゅうに手傷の穴があいてしまいます。しかもそこで血を流したとて何の成果も期待できない不毛の穴ぼこなのです。
言葉の世界でならば、無数にいいたいことがありますが、ぼくはすべて胸の中に押さえました。
また彼女も、いろいろのことをいいましたが、ぼくはきいていませんでした。たしかに彼女はその瞬間、口に出した言葉にひっついた気持を持っているのですが、明日、明後日とくるくる変ってしまいます。昨日のセリフ、昨日の気持は、影も形も残っていないし、彼女にとってそれでべつに不思議なことでないのです。
彼女との六年間の大半は、そういうことのくりかえしでした。今また、そのくりかえしがはじまろうとしています。ぼくたちは復縁はしませんが、同棲という形になるでしょう。形はそうなりますが、もう一度最初からやり直すということはできないでしょう。彼女はまたそれでなやむでしょう。
それがわかっていて、ここで尻をまくれないのは、無限の哀れみのような形で彼女を愛しているのだと思うほかはありません。
ベティヘの傾斜が変則であるように、彼女への傾斜も変則なのでしょう。ぼくを中心とした三角関係は、変則ずくめといえます。
「元女房が、戻ってきそうだよ」
と、翌日、ぼくはベティにいいました。
「いずれ、そんなことになる予感がしたわ」
「馬鹿馬鹿しいだろう」
「そうしようと思ったんだから──」とベティはいいました。「そうすればいいわ」
「ベティ、お願いがあるんだ。ぼくとコンビを組んで外国を歩いてくれないかな」
「どうするの」
「うん──」とぼくは口ごもりました。
「自分で何を本当にやりたいのか、まだわからない。この年齢になってもだ。だからなんだかわからないけれども、無性にそうしたいんだ。ベティが知ってる外国の土地を次々に襲って、そこを喰ってみたい。行けば行っただけの原稿は書くが、本当は原稿が目的かどうかもわからないんだ」
「それじゃやっぱり、そうするよりほかないわね」