「──だが、ベティと二人でだ」
「トシのことが気になるの」
「気になる。元女房のこともね、同じく気になる」
「気にしてどうするの」
「ぼくと元女房の関係のように、どこまでいってもふっ切れないだろうな。ぼくと元女房がくりかえしに耐えなければならないように、トシとの間柄も、いろんな度合を葛藤《かつとう》させていくよりしようがない。そうして、ぼくは君との関係を一歩進めようと思うよ」
何日かして、ベティが風邪で寐こんでいるとき、ぼくはトシを芝居見物に誘いだし、その帰りに酒を呑みました。
彼はふだんも無口でしたが、酒を呑んでもほとんど変りません。かなり酒に強いらしいのです。
ベティからきいたのですが、トシと深くしゃべるには、写真の世界のことになぞらえていう必要があるとかで、ところがぼくが写真のことに暗いものだから、どんなふうに切りだしたらよいかわかりません。
当りさわりのない話をしながら、かなり酒がまわってきた頃、トシが、
「ぼくがベティと知りあった頃、彼女はもっとグラマーでした。──ぼくは、だまされました。あんなに痩せるとは思わなかった」
彼はポケットから、ベティの以前の写真を出して見せてくれました。
「なるほど、グラマラスだ」
「ですが、ぼくは彼女を、愛しています」
「──ええ」
「あのゥ、ですね、ベティからききました。彼女は本当は、酒が呑めるんです。けれども血球の生産がすごくすくないから、活性がつきません。がんばり屋で動いてますけれど、あれは医者の薬の力なんです」
「そのことは、おおよそは知ってます」
「あんなに痩せちゃって──、喰べすぎても血を使いますから貧血するくらいなんです。酒を呑むと血がうすまりますから、これも影響があります。彼女の寿命を、けずるんです。酒は呑ませないでください。それだけは約束してください。彼女に酒を呑ませることは、いくら貴方でも、ぼくが許しません」
ぼくはその言葉に打たれ、顔をひきしめてうなずきました。同時に、ぱッと気が楽になりました。
ぼくたちは二軒三軒と、はしごをして呑みました。
「この前、トシと呑んだとき、羽鳥さん、一軒の店で三十分くらい眠っちゃったんですって」
とベティが、後日になっていうのです。
「ああ、そうだ、そんなことがあった」
「トシがいうのよ、不思議なんだって。トシは強いから、めったにそんなことはないんだけど、貴方が眠ったら、つりこまれて自分も居眠りしちゃったんですって。あれは、うつるのかなァ、って」
トシという男は、なるほど、グレートだわい、とぼくは思いました。
最初の旅は地中海沿岸で、私とベティは向こうで新年を迎えることになっていました。
「な、仕事だから──」
ぼくは元女房がこしらえてくれたトランクを片手に、そんなセリフをぼそっと呟《つぶや》いたのでしたが、彼女はベッドに埋まりこんだまま、固い、ひしゃげた表情をしていました。
「いってらっしゃい。楽しんでくるといいわ──」
「正月はどうやって暮す──?」
「心配することないわよ。あたしは友だちと楽しくやるわ。──だからせいぜい保険でもたくさん掛けていってちょうだい」
そのときはまだ、ぼくと彼女がばらばらに暮していたときで、彼女は赤坂でぼくの荷物を造ってくれ、したがってぼくは彼女の部屋に泊りこんでそこから旅立ったわけですが、彼女の固い表情が頭の中から消えないままに、夜が明けたばかりの表通りへ出ていくと、そこにもう、ベティの乗ったタクシーが停まってぼくを待っているのです。
トシが、空港まで送るといって、一緒に乗っていました。
「どうしたんですか──」とベティがいいました。きっとぼくも、寒々しい顔をしていたのでしょう。
「え、なにが?」
「──すみ子さんは」
「寐てる」
空港で別れるとき、トシが何気ない調子でいいました。
「よろしくお願いします」
「こっちこそ、ちょっとお借りします」
もっともそのときは、経費を節約するために知人の一行に加えて貰って団体切符にしたので、他に大勢連れが居たのです。昼間の行動は我々独自のものでも、行く先々の旅館は二人部屋、男は男同士、女は女同士。それは出発前からきまっていることでした。
「おや、同室じゃないのですか」
「いいえ」
「へええ、奥さんかと思ってたが」
「弟子なんです──」とベティがいいます。「師匠の介添でして」
「──それは結構ですな」
二人が同室でないということを、ぼくはもちろん不満に思っていませんでした。ぼくたちは情緒を味わいに国外に出たわけではありません。たとえ二人だけで旅したとしても別室は当然で、ぼくたち自身も規律にのっとっていた方がすごしよいのです。
その旅の後半、ぼくたちは団体と別れて二人だけでロンドンに行きました。そこでは、ベティは養父母にもなっている叔母夫妻のところに泊り、ぼくは付近のホテルに泊っていました。
当初、正月休みを利用した十日間と思っていたのが、半月以上にもなって、多分、元女房の印象としては、二人が羽を伸ばしているという感じが強くなっていったことでしょう。ベティはトシのところに、折り折り、国際電話をいれて、状況を説明しています。そうしてトシに、ぼくの元女房のところに電話をして予定が伸びたことを説明してくれるように頼んだといいました。
「でもね、すみ子さん、トシのところに来たらしいわよ」
「ほう──」
「喫茶店で、いろいろ話しあったらしいけど──」
「どんなことを?」
「トシは無口だし、国際電話だから、あまりくわしくいわないの。ただ、すみ子さんはベティのことを誤解しているようだ、もう少し長い眼で彼女のことを見てやってください、そう彼女にいっておいたといってたわ」
多分、元女房は、トシがあまり騒ぎたてないのを不審に思い、トシとベティの間に波紋を増させるために、ジャッキを捲きに行ったのでしょう。それと同時に、一人で宙に浮いているような毎日に耐えられずに、同じ渦中に居ると思える男のところに会いに行ったのでもありましょう。
ベティを誤解しないでくれ、というトシの言葉は、そうにちがいはありませんが、あまり解決にならないでしょう。元女房にとってはベティを理解しうるかどうかでなく、ベティが私から離れるかどうかに関心があるだけなのですから。
ぼくたちは夜こそ離れ離れでしたが、昼間は片刻《かたとき》も離れませんでした。ぼくが言葉が不自由なので、かりに離れたくとも離れることができないのです。
ベティは長く寐ていなければ活力をとり戻せない体質なので、昼すぎでなければ現われません。午前中はぼく一人で、電話が鳴っても出ないし、街を散歩してもいっさい口を利きません。だからベティが部屋に現われると救われたような気分になります。それから、ベティをもう休ませなければいけない深更まで離さないのです。
「それで、収穫にはなってるの」
「さァ、それなんだ。自分でもはっきり見当がつかないんだよ」
「心細いのねえ」
「来てよかったことはたしかだ。君に感謝もしてる。けれどもね、これという確かな腹案を持ってなくて、出たとこ勝負みたいなところがあるものだから、いや、まったく目標がないわけでもないんだけどね、どうすれば自分が思っているようなものを取材し感得していけるか、それもわからないんだ。で、結局、出たとこ勝負の中で捕まえられうるものをと思っているものだから──」
「ベティ、よくわからないけど、とにかく、来てよければいいわ」
ロンドンからの安い切符がなかなか手に入らず、結局、週刊誌の仕事に拘束されているぼくが一人で先に帰り、ベティは少しおくれて別の航空会社の便で帰ることにしました。
空港で、チェックインまでの世話をベティが全部してくれます。キャンセル待ちでようやく席をとったため、出発時間がもう迫っていました。
「それじゃァ、ね」
「ありがとう。じゃ、東京で待ってる」
ぼくたちは握手しました。ベティの柔らかい掌が、細く小さく感じられました。
ぼくは長い廊下を歩いて、持物検査の列に並ぼうとしましたが、ふと気がつくと、搭乗券がありません。パスポートはたしかにあります。が、一緒にベティが手渡してくれたはずなのに、搭乗券がないのです。
ぼくは廊下を引返しましたが、日本の航空会社ではなし、ベティが帰ってしまっていたらどうしてよいかわからず、途方に暮れたでしょう。
運よく、ベティが航空会社の人とまだ談笑していました。
「ベティ──」
ぼくは彼女の背中を軽く叩きました。
「切符がないんだよ」
「アラッ、どうしたの、まだ行かなかったの」
「切符が、どこかへ行っちまった」
彼女は呆れたように、つまり、一生つきあうように運命づけられた連れ合いを眺めるような眼で、ぼくを見ました。
「時間がないわよ、とにかく、いそがなきゃ──」
ベテイは航空会社の人に何か口早にいうと、一緒にゲートまで附添っていって欲しいと頼みこみました。それでやっと、ぼくは飛行機に乗れたのです。
「それじゃァ、今度こそ──」
別れしなにぼくはいいました。どうしてか、そんなことが気持を昂ぶらせるものがあったのでしょう、ベティが泣きそうな表情になっていました。
空港から帰宅して、もちろんそのときは一人暮しだから元女房が居ないのは当然ですが、翌日の昼すぎに電話が入ってきて、
「帰ってたの──」
「ああ」
「何故、電話をくれないの」
「うん──」
「気がとがめてたの」
「そんなことはない」
しかし、億劫《おつくう》だったことは事実です。彼女の方も私の部屋へやってはきましたが、土産だよ、といって出したハンドバッグに眼もくれません。
「それで──、お仕事にはなったの」
「──わからないな、どうなるか、やってみなくちゃ」
「そんな程度のことを強行したの。あたしがわるい女房だったから、今度は当てつけにやってるのね」
ぼくたちは続いてアメリカ西部に行きましたが、これも他に連れがありました。ぼくのものした原稿は自分で予期した出来栄えに遠いどころか、他人の評価もあいまいで、要するに読み捨てられているようでしたが、一応毎月連載する約束になっていましたので、約束の期間は、個人的になにがおころうと、ベティとの旅を続行せざるをえないことになっていたのです。
サイパンで、我々ははじめて二人きりでした。そのうえ、ツインが一室しか空いてなくて、同じ部屋に泊りました。これももちろん予期しなかったことです。フロントで、それを定めたとき、ベティはほとんど平生と変らぬ表情をしていました。そうして、横に立っているぼくに、そのことを相談すらしませんでした。
宿帳には、ミセス羽鳥でなく、秘書ベティ・ジェーン・植木、と書きこみましたが。
しかし、外国語ができないぼくは、彼女と同室の方がすべてに都合よかったのです。別の部屋では、電話が鳴ってもぼくは出られないし、誰か部屋に入ってきても処置に困ります。彼女が部屋の中でも一緒なら、ぼくは安心して手足が伸ばせるのです。多分、彼女も前回の旅でそのことを感じていたでしょう。
ぼくたちはサイパンでの四日間、ツインのべッドを使って、朝夕、寐起きしましたが、まったく瞬間的にも情緒が入りこむ余地がない時間をすごしました。ぼくたちは親子か、兄妹という間柄でした。
すぐそばのべッドですやすやと寐ているベティを眺めながら、いかになんでも、こんなふうにお互いに平静で居られるのはおかしいじゃないかと思っていましたが、そうした話題を口にするのがためらわれて、その旅の終りまでぼくは黙っていました。
いよいよホテルを引きあげるというときになって、
「考えてみると、東京の仕事場だって、べッドがついてるんだものね。ぼくは昼間でもしょっちゅうそこで寐ているし、ベティだって長椅子で寐ているときがある。土地が離れてるというだけで同じことだよな」
「そうよ、ふだんと変らないわよ」
「ああ。つまり、その気になれば東京でだって、いくらでも深くなれたんだから」
エジプトでも、中近東でも、ぼくたちはごく自然に、ひとつの部屋をとりました。彼女には、その方が宿賃が安くついてぼくの懐中が助かるという配慮もあったでしょう。
けれども、そうしたことが度重なるにつれ、ひとつの部屋で、何事もなく寐起きしている形が、ある安定を持ってくるのです。
ひとつの部屋で寐起きしていることが普通ではなく、静穏にせよ新鮮に思える間はそれほどにも思わなかったのですが、これが普通に思えてくると、まるで、何年も何十年も年月をへた夫婦が、肉体を触れ合わすまでもなく、当然そこに居るような形でベティが居るように思えてくるのです。ひょっとしたらベティも、ひそかにそのへんを刺激的に味わっているのかもしれないと思いました。
「──トシにわるい。トシに申しわけないことをしている」
と、カイロのホテルでぼくはいいました。
「何故? あたしたち、トシを裏切るようなこと、これっぽっちもしてないわ」
「戒律で、一生懸命それをやらないように努力しているのならいいんだ。ぼくたちは、我慢してやらないんじゃない。そんなこと、どうだっていいんだろう。普通の関係を飛び越えちゃったんだよ、ぼくたちは」
「そういうものかしら──」
「そうだとも。だから気がとがめる。ぼくたちのこの越えた関係は、君とトシとの関係を冒涜《ぼうとく》するものだよ。それから、ぼくと元女房の関係に対しても同じことがいえるんだ」
ベティは、カイロのホテルのディスコルームで、ある夜、珍しくカクテルを註文しました。ココナッツのジュースに、ジンと、もう一種類なにか入っていたと思います。
「あたしが生まれ育ったマウイ島では、皆よくこれを呑むのよ。なつかしいから」
トシに釘をさされていたけれど、そのときは彼女自身の発意だったのでぼくは黙っていました。彼女は二杯おかわりをした後、綺麗な足を翻して黒人やアラブ人たちと踊りました。それからアメリカ人の楽士と親しくなりました。その楽士は、ベティの二度目の亭主である著名なジャズマンの弟子だということでした。
彼女はその夜楽しそうに情念を発散させていました。ぼくは踊れないので、途中で一人でカジノヘ行きましたが、ディスコが閉店する頃、楽士がカジノのぼくのところへやってきて、
「ベティさんとぼくの部屋でパーティをやってます。ジャズのレコードもたくさんあるし、お酒も、ハッシシだってありますよ。貴方も来てください」
彼は手真似もまじえてそういう意味のことをいい、部屋番号を教えて姿を消しました。
ベティは彼を気に入ったんだろうか。ぼくの心の中で、すっとどこかが軽くなったような気がしました。それは本当です。ぼくの彼女に対する気持とは関係なく、すっと軽くなったのです。彼女が気散じをするのをぼくも望んでいるような気持がありました。それから、逆に、トシのために、彼女の気散じをある点までで喰いとめねばならぬと思いました。トシのためにでしたが、トシのためだけだったかどうか。
ぼくは何度か思い返したりしながら、結局、おそい時間に楽士の部屋を訪ねました。ベティは椅子に埋まって眠そうな顔つきでレコードをきいていました。薬が効いていたのでしょう。楽士の方は逆に、饒舌《じようぜつ》になっていました。
彼女たちの間には、薬と音楽と、ただそれだけしかないように見えました。ぼくが現われてしばらくすると、
「本当に眠くなったわ。おやすみなさい」
ベティはそういって立ちあがりました。楽士もとめませんでした。
「おやすみ、そのうち東京へも仕事で行きますよ」
「ええ、また会いましょう。いい夢をね」
そういって私たちは部屋へ戻りました。
元女房は、その頃すでに赤坂のマンションをひき払って(ぼくは移転費用ばかり負担していることになります)ぼくの新居に合体してきました。
彼女は、本当に心から、ぼくとの結婚生活をやり直そうとしていたようです。だから、すぎ去った六年間のどの時点かに立ち戻って、今度は甲斐甲斐しい女房として新出発をしたい。彼女なりの決意と未来図を心に描きながらやってきたのではありますまいか。
けれども、それは無理なのです。
別れたときから、ぼくの方にも新展開があって、仕事場ができ、相棒のベティの存在があり、出費にしたがって仕事の量が増えているために、連日、深夜にならなければぼくの身体があかず、仕事場に泊りこんで彼女の居るマンションの方に帰れないこともしばしばなのです。
ベティが日計表をつけているため、ちょうど会社の経理部門のように、出納事務もベティの手に移り、せっかく元女房が決意だけしてきた主婦らしい仕事は、ほとんど手を出す余地がないのです。彼女の持ち場としては、新しく移ったマンションの方の飾りたてと、家事。
端的にいえば、元女房としては身をもって、ベティをぼくのそばから駆逐するために戻ってきたといえましょうが、現実には、ぼくとベティとで固めた体制のわきに、ぺたりと貼りついたような恰好になってしまったわけでした。
当然、彼女としては、じたばたします。
しかしまた、ぼくの方としても、家計の切り盛りを彼女の手に戻すわけにはいかなかったのです。六年間、何度いっても家計簿さえつけられなかったのですから。
ガス、電気、水道、地方税、そんなものの払いが、彼女にまかせれば、たちまちいつもとどこおってしまって、電話などはしょっちゅうとめられています。
日計表は、彼女の手に戻したら三日でほうりだすにきまっているので、税理士がどんなに嘆くでしょう。
「じゃ、永久に、ベティと暮すつもりなの」
「先のことはわからない。しかし、たとえベティが居なくなっても、家計は君にはまかせない」
「ベティにうまくやられてるんだわ。あれはおそろしい女よ。トシと誠ちゃんを両手であやつって。今、ベティと誠ちゃんが一番幸せね。両手に花なんだもの」
「君は、俺をベティにとられたように思ってるが、そうじゃないぜ。君が居ない間に現われて、代理ママをやりだしたんだ」
ぼくたちがエジプトから帰ってきたあと、元女房が、ぼくの仕事場に不意に現われたことがあります。
彼女はまっすぐベティに向かってこういいました。
「よかったわね。カイロじゃお楽しみだったんですってね」
「──どういうことですか、それは」
「ギターのアメリカ人、いい男だったんでしょう」
ベティは唇を噛《か》みました。
ぼくが住居の方で元女房と向き合っているとき、つい、彼女の凝り固まった気持をときほぐそうとして、そのための効果のあがる話だというふうに思っていたので、
「ベティが珍しく、アメリカ人の楽士に気を持ってね──」
というふうな話し方で、当夜のことをしゃべったのです。
「そのとき、俺は、もし本当にベティが気を持っているのだったら、同行者として、トシのために制止すべきか、それとも大人なんだからそこまで介入せずに居るべきか、迷った──」
もちろん、すぐに、結局それはベティの軽い旅情の現われにすぎなかったと言い添えたのですが、元女房はそんなことはほとんどきいていません。
仕事場のキッチンに入って、汚れた茶碗を洗っているベティに、元女房は追いかけるようにキッチンに入っていき、
「あたしは彼の女房よ。少しは女房の顔も立てなさいな」
といったそうです。
それはまことに彼女らしいストレートで荒っぽい戦法ですが、ベティはほとんど相手になりませんでした。ずっとあとで、何かの折りに、
「羽鳥さんの元奥さんでなかったら、あのとき、彼女を殴っていたわ」
元女房がゆきついたところは、結局、元女房としてサボタージュすることでした。で、別居前とまったく同じことになったわけですが、今度は、ぼくがほとんど一緒に居ないので、一人相撲にならざるをえません。
「君もほんとに、かわいそうな女だな。客観的に見て、薄幸だね」
ある夜、ぼくはつくづくいいました。
「同情してもらわなくたって結構よ。誠ちゃんこそでしょう。ベティはトシとわかれないし、あたしは誠ちゃんを愛したことなんか一度だってないし」
「うん──」
「ほんとよ。愛してなんかいないのよ」
「わかってる。君は自分じゃ誰も愛さないよ。そうだっていいじゃないか。そうしたいんだから。それならそれでそこに自信を持てよ。くそ自信でもいいから」
ニューヨークのホテルのフロントで、ベティははじめて、秘書でなく、ミセス羽鳥、と宿帳にサインしました。
ぼくはそれを、やはり横でだまって眺めておりました。
「アメリカ本国では、やかましいのよ。観光地のようなところを除いて、夫婦以外の男女が同室をとることはできないの」
「パスポートを見れば、君の名前はちがうぜ」
「パスポートをフロントで見るわけじゃないもの」
「何か事があってパスポートを見せると、我々は恥をかくわけだな」
「そのときはそのときよ。やかましいといったって、ホテルは信用のために建前にしてるだけなんですもの」
むろん、我々に新展開があったということではありません。ミセス羽鳥、と宿帳にはじめて記したことそれ自体が、新展開として刺激をおぼえる、といった程度です。
ぼくは、よっぽどのことがないかぎり、ぼくの方からは元女房を離さないつもりです。彼女の立場は、どう振舞っても損な役どころで、今のところオールマイナスの気に満ちていて、当事者のぼくすら、息のつまる思いがするくらいです。
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妻の嫁入り
ある夜ふけ、歩いて十分ほどの距離にある仕事場から、元女房と私の住いということになっているマンションの四階にトコトコ昇って、ポケットの鍵で扉を開けましたが、無人の感じが濃いのです。
腕時計を見ると十二時すぎ。彼女の夜遊びは今にはじまったことでなく、型どおり結婚していた頃から珍しくもないので、今さらおどろいたわけではありません。
いったんはあがって、風呂の用意をしかけたのですが、ふと思いついて、近くの盛り場にある昔なじんだ小さな酒場にでも行って、一二杯呑んでやろうという気になりました。
サンダルを突っかけたままの姿でその酒場に入っていくと、隅のボックスに居た中年の夫妻らしき客がしきりに笑顔を送ってきます。ぼくはカウンターの前に坐ったばかりでしたが、その笑顔を認め、一瞬、都心で画廊を経営している大阪さん夫妻だと気づき、立ってその席の方に行きました。
「──羽鳥さん、奇遇ねえ。貴方もこの店にいらっしゃるの」
「昔ね。もう七八年ぶりです」
「すみ子さん、お元気?」
「──ええ、まァ」
ぼくは意味のない笑顔を浮かべました。大阪さん夫妻とは、ぼくも交際がないわけではないが、どちらかといえば大阪夫人とすみ子の交友が濃いのです。
すみ子が可愛がっている犬のうち一匹が、大阪家に移籍しています。
元女房はにぎやかなことが好きなので、というより、にぎやかでない時間をうまく過ごす習慣がうすいために、知人の小パーティや寄り合いに顔を出すことが多く、交際も多岐《たき》に亙《わた》っています。ぼくがそういう女の世界に関心を示さず、また同行してもひきたつような亭主でもないので彼女はいっさい単独行動ですが、しかしもともとぼくの交際範囲を根にして拡がっているので、おおよそはぼくの顔見知りであることが多いのです。
大阪夫人ともそういう交際の中のひとつでしょう。大阪夫人は中年にはなっていましたが美人で、男まさりというか、諸事積極的な人で、すみ子は不思議に美人ばかりを好きになるのです。そうして、そういう友達と別れて家の中で一人でいるときは、反動的に気持がひどく落ちこんでしまうのです。その落ちこみが耐えがたくて、そのうちの誰かと電話の長談義がはじまるのです。
実際、彼女の長電話は、彼女の長所魅力とはまたべつに、周辺からうとまれていました。女の電話というものは多くそうしたものかもしれませんが、自分の切迫した話題ばかりを際限なくしゃべって他人の時間を奪うからでしょう。相手が男だったり仕事を持っていたりすると、いいかげんのところでつきあいきれなくなってそういう意思表示をするので、彼女は一度たしなめられたりするとふっつりとその相手を敬遠して近寄りません。
大阪夫人はわりに相手になってくれるようで、だから、すみ子から、彼女流に潤色《じゆんしよく》された情報が伝わっているな、と思いました。
「羽鳥さん、駄目よ、冷たくなさっちゃ、奥さん、泣いてるわよ」
「そうですか」
「お宅へほとんど帰らないんですって」
「実は、彼女とは、別れたんです」
大阪夫人が驚いた表情になりました。
「──そんなことおっしゃってなかったわ、奥さんは」
「ええ、別れたけれども、また一緒に居るものだから、つまり、同居しているものだから、表面上かわったところはないといえばないんですがね」
「──ご夫婦のことはよくわかりませんけどね、だから、弾劾《だんがい》しているわけではありませんのよ。でも、ご一緒に居られるくらいなら何故お別れになったの」
「別れた理由は一言でいえないまでも、ある程度固まっているんです。ですが、どうして一緒に居るのか、ぼくにもよくわからないんですよ」
「そんなのってあるの」
「あるんです」
「でも、結局は元どおりにおなりになったと思ってよろしいわけね」
「それがちがうんです。お互いに、もう絶対に夫婦にだけはなるまいと思ってるんです。そのうえで同居しているので、元どおりにおさまったわけじゃないんです」
大阪氏は完全に傍観で、ウイスキーをなめているだけです。男はこんな場合、いろんなことがあらァな、といって終りにしてくれるんですが。
「じゃあ──、酔ってるから失礼なことを訊いちゃうわよ。混血《ハーフ》だという女の人とは、どうなの」
「ベティですか。仕事の相棒です」
「恋人じゃないの」
「人妻ですよ。亭主も友人で、ぼくの仕事部屋の隣りに住んでるんです。そういう関係ならば、まずあちらの夫婦にひびが割れるはずでしょう」
「こちらのご夫婦はひびが入ってるわね」
「しかし、順序が逆なんです。我々がひびが入ってから現われたので」
「順序はよろしいけど、すみ子さんは、電話では、ベティにとられたといってるわ」
「そう思ってるでしょうね。その方が楽だから」
「実際はどうなんですか」
「かりにそうだとしても、自分で妻の座を放棄しておいて、そういう権利はありませんね。しかし、実際にはそうですらないんです。ぼくか彼女かどちらかに、女、或いは男ができてじゃなくて、ただお互いに、夫であり妻でありえなかったんです。元女房が今になってどうとりつくろおうと、それは事実ですよ」
「でも、奥さんは、別れたくないんじゃないの」
「今はそうかもしれません。自立するのは相当に大変なことだと思ったでしょうから」
「一時の気の迷いだったわけね」
「一度やっちゃったことは、気の迷いですむこととすまないことがありますから」
「そうですけれども、女よねえ、気の迷いが多いのよ」
「それは認めますが、ぼくの方も仕事がありますし、ただじっと彼女のためにだけ、都合を合わせるわけにもいきません。それなりの手を打たなければね。離婚した時点でぼくは自由で、元女房に遠慮することはなにもなかったわけです」
「それじゃァ、またご一緒にいらっしゃるのはどうして?」
「ええ、そこなんですよ。もちろん、彼女が舞い戻ってきたときに、拒絶することもできたんですが、だまって受け入れざるをえませんでした。彼女の一人飛行が危いのは眼に見えていましたし、墜落するのを見たくもありませんでしたから」
「あわれみ、ですか」
「そうです。しかし、そうばかりでもないんです。ばかばかしい、或いは、いい気なもんだ、ととっていただいてかまわないんですが、別れたとたんに、すっぱり断ち切れないものをぼくも感じたんですよ。結婚生活を続けるのはまっぴらだが、というより、そう立派な形は続けられないが、かといって執着がないわけではないんです」
「勝手ね。男の人ってほんとにエゴイストだわ」
「ええ。勝手はお互いさまなんです。僕は自分が立派で彼女が半人前だなんて思っていません」
「変ねえ、貴方たちって。じゃ、最後に、あたしは女で単純だから、整理するために伺いますけれど、羽鳥さんは、すみ子さんを、愛していらっしゃるの、いらっしゃらないの」
「愛っていうと、どうもぼくはその言葉は苦手なんですが、照れずにいえば、きっとこれ以上そうするのはむずかしいほど愛してるんでしょうね。彼女を相棒にして生活する気はまったくないのに、食客に近い形でおいておくくらいですから」
「それじゃ、混血のその人妻という方は?」
「これも、現在のところ、夫婦になるというような段どりはまったくつけておりませんし、その意志もありませんが、ぼくにとって特別な人であることはたしかですね」
「そんなことが許されますか」
「許されそうもないようなことは何もしておりませんよ。元女房との離婚は完全に合意でしたし、ベティの方とは手も握っておりません。──もっとも、そう主張して、あっけらかんとしているわけでもないのですが」
「──ねぇ」
ぼくが寐ているベッドのそばに来て、元女房がいうのです。
「──ねぇ、誠ちゃん」
ぼくはうす眼をあけます。この瞬間が彼女にとっておそらく一番不本意な刻《とき》なので、その感じは見なくともわかるのですが、
「──お金を少し、頂戴」
ぼくはだまって、財布を持ちだしてきて、なにがしかを手渡します。固い、ひしゃげた表情になってお金をつかんで、身をひるがえすように部屋を出ていく彼女を見ていると、苦笑まじりにぼく自身の子供の頃を思い出すのです。
毎日定めて貰う小遣いがどうしても足りなくなってしまって、自分ではケチケチ工夫して使っているつもりでも、どこか底が抜けていて、それにどうしても必要なことが多すぎて、それでも他にどうする当てもなく親に頼らねばならない。あの瞬間のいやな感じ。
多分、彼女もそれに似た気持でしょう。彼女はもう子供ではなく、年齢的にはいっぱしの大人なのですから、日常の他の部分では、一人前のことをいうのです。
「誠ちゃんが、パッパッ使うんだから、あたしだって使う権利があるわ」
とか、
「あたしだって、自分の世界というものがあるわよ。おつきあいもしなくちゃならないし、いろいろとお金もかかるのよ」
その他、自分はただ従属しているわけではないんだ、という気持をいろいろの機会に表わします。
それを、ぼくは否定したことはありません。しかし、ぼくが否定しようと肯定しようと、彼女の財布が空になったときに、否応なしに、お金を貰いにぼくのところへ来なくてはなりません。彼女にすれば、日常でどんなに自立しているようなことをいっていても、その瞬間、誇りがみんな崩れおちてしまうわけで、これ以上いやな気分はないでしょう。
ずっと以前、なにか気にいらないと、三日も四日も口をきかない、ひとつ家の中で顔を合わせもしない、そんなことがよくありましたが、その最中に、財布が空になってしまうことがあって、彼女の気持のうえでの建前を、一瞬、犠牲にせざるをえません。
ぎりぎり歯を噛みならすようにして、ぼくの前に出てきて、
「お金、頂戴──」
口惜しさと困惑の入りまじった彼女を、うっかりぼくが噴きだしたことがあって、そのときは顔をまっ赤にして怒りました。
「悪かった。笑ったのは悪い」
「殺してやりたいわ。悪魔ね」
「子供の頃を思いだしたんだ。俺も子供のときにそうやって怒ったことがあるよ」
こう記すと、家の中の経済を一手にぼくが握って、女房を身動きさせないようにしているかのようですが、それとも少しちがうのです。ぼくは自分が放縦だから、財布を管理することなど不得意でまた負担にもなります。相棒に託せればそうしたい。現に、今は仕事場の相棒であるベティに管理をしてもらっています。
ぼくは無名の週刊誌ライターですが、一応フリーランサーだから収入が一定していません。たとえ放縦でも、出銭をそのときどきの収入と見合わせなければならない。ぼくの家の財布を預かるには、ぼくと心を合わせて、時々刻々の状況を頭に入れておく必要があるのです。
それからまた、月給取りとちがって、収入全部を生活費に廻すことはできません。収入は商店でいう売上げなので、宣伝費、社交費、材料費、その他死金とはいえない無形の出費が重なるのです。ぼくは才能もすくないし、他人を納得させるような肩書もなく、わずかに営業に熱心だというだけで、これまでなんとかしのいできたのです。それらのことに無関心な者には財布を託するわけにはいかないのです。
そのうえ彼女自身に計画性がまったくありません。結婚していた六年間、彼女の主体的な責任感を養うためにも、何度か、ひと月分の生活費をまとめて手渡すこともやりました。いつも、月のなかばぐらいになると、お金、頂戴、がはじまるのです。
ひと月分を三つに割って、十日ごとに渡していた時期もありました。これはもう、そのルールが無いも同然で、彼女の財布にいつだって、お金がないに近いのです。
「ガス代の集金が来たわ」
「うん──」
「ないのよ」
「ないって、ガス代だの電気代なんてものは毎月一度のものだろう。そのくらいの分をわけておいとかなきゃ駄目じゃないか」
「だって、この十日間にくるか、次の十日間にくるか、わからないじゃないの。それに暖房費がかかるから、ぐっと高いのよ」