「うん。しかし冬になったらガス代分だけ収入が増えるわけじゃないんだから、君は他の出費を減らして、その分を暖房費に──」
「いいわよ。来月まで待ってもらうわ」
「おい。来月になったらどうするつもりだ」
「そんなことより今の問題よ。出すの、出さないの」
仕方がないから、ぼくは自分で立っていって払ってきます。
「守銭奴《しゆせんど》ねえ、誠ちゃんは。あきれたわ」
「守銭奴のわりには金がないな。借金ばかりある」
「それは誠ちゃんが悪いんじゃないの。あたしはそんなに大きなお金は使わないわ」
「まァね、俺もたしかにえらそうなことはいえない。しかしね、実際の話、二人のうちどっちかは守備に廻らないとな。二人でエラーばかりしてたんじゃお話にならん。それなら一人は不要ということになってくるな」
ぼくのいいかたも意地悪にひびくのでしょうが、彼女はひどく口惜しそうな顔つきになって、
「女がお金を取ってこないので、馬鹿にするのね。男がしたくないことばかり女にさせて。あたしはなにも、誠ちゃんに縛られていたいってわけじゃないんですからね」
「じゃ、どういうつもりで居るんだ」
「女だもの、外で働くようには育ってきてないもの。しようがないから居るんじゃないの」
ぼくたちの結婚生活を通じて、彼女が家庭経済の実権を握ることはありませんでした。もちろん彼女はたびたびそれを望みましたが、ぼくは許しません。離別後、復帰したときには、すでにベティが仕事部屋の方に居て、税務署に提出するための諸経費日計表を作製していましたし、銀行通帳からの出し入れなどもベティの手を通じてする仕組みになっていました。その日計表は、家庭経済の方に流れる金も洩らさず書き止めましたから、彼女がいくら使ったかも、ひと眼でわかるようになりました。
ガス、水道、電気、家賃、その他銀行を通じて払うようなものは、いっさいベティの手でおこなわれます。ベティはただ私の代行をしているだけで実権を握ったわけではありませんが、元女房の眼にはいかにもそう映るらしいのです。そうしてそれが、ぼくの愛情のバロメーターのように思ってしまうのです。
「ひどいじゃない、ベティには通帳から印形《いんぎよう》まで預けるくせに、あたしには一銭も使わせないのよ。ひどいと思わない」
などと彼女は来る人ごとに訴えます。彼女の友人の中には本気で憤慨する人も居て、
「やっぱり虐待の一種よ。すみ子さんが居《お》りながら、外の女性に財布を預けるなんて」
本間夫人という、やはり八頭身のすばらしい美人に難詰されたことがあります。
「ええ、ぼくも、元女房がやってくれるなら一番助かるんですよ。外の女性に家事を頼むには、それだけのギャラを払わなければなりませんからね」
「じゃ、何故そうなさらないの」
「彼女が、手続きを示さないからです」
「手続きっていうと」
「あれが欲しいといって泣くだけなら赤ン坊です。大人なら、望みを達成するためには、それだけの手続きをとるのが当然でしょう」
「この場合は、どういう手続きをとればいいんですの」
「たとえば、家計簿をつけるとか。彼女はとうとう家計簿も、税金対策のための帳簿も、六年の間一度もつけることができませんでした。家計簿がつけられないならば、せめて、予算の概要を想定して提出するとか、彼女の実績からいって、そういう手続きというか、今までとはちがう決意のようなものを形にして示さなければ、任せる気になりませんね。それが人間関係のルールのような気がするんです」
「それじゃ、その手続きの仕方を教えてあげてくださいな。すみ子さんはそういうルールを知らないんですから」
「試験官がこっそり解答を教えるんですか。まァそれもいいでしょう。そこまで庇護《ひご》を加えるとしましょうか。けれどもそうなれば、ぼくと彼女は庇護者と被保護者の関係ですよ。五分と五分という関係じゃなくなる。それも彼女にとっちゃ不本意なんでしょう」
「でも、どうせ五分五分とは思っていらっしゃらないんでしょう」
「それは、現実にはいろいろの面での力関係がありますからね。しかし原則的には五分五分だと思っています。原則ですでに不平等になっているなら、ぼくもおおいに反省の要ありですが」
しかし、実のところ、彼女は家計そのものには無関心なのです。ベティという存在が自分をさしおいているように思えるのが口惜しいのと、お金を頂戴、という屈辱的なセリフをいいたくないためと、この二つの悪い条件をなくすために家計を手に入れたいだけなのです。
だから本間夫人から示唆されたかもしれないが、手続きはおこなわれません。そうして、ここがもっとも馬鹿馬鹿しいところなのですが、お金を頂戴、というセリフを間遠にするために出費をセーブするというわけではないので、三日にあげず、表情の失《う》せた顔つきになってそのセリフが出てくるのです。
かりにぼくが出金をセーブしても、どこかで借りてきてしまうのですから、結局、彼女にとって必要な金額は(彼女の理想には達しないとしても)、どんな形をとろうとも、流れ出ていってしまうのでした。
ぼくはあいかわらず、一日の大半を仕事場ですごしておりました。
二所帯分の経費を稼ぎだすために、売文の量を増やさねばならず(こうした世界では単に量を増やすことが収入増に直結するとは限らないのですが)、表面の理由はそういうことにしていましたが、仕事は、住居の方に持って帰ってできないことはありません。
ぼくにとって、仕事場の方がいろんな意味で居心地がよいのです。ベティは、とにかくぼくの仕事を立てて、それに沿うような形で居てくれますし(アシスタントを買って出てくれた以上、当然のことでしょうが)、もちろんぼくが仕事場に居る間じゅうそばについているわけではありません。彼女の家庭に戻っていることも多いので、それがいいのです。ベティが亭主のトシのところに居るのは当然で、なにも不思議なことはありません。
これが元女房の場合だと、彼女はムラで、そのときの気分によって一生懸命つくそうとしてくれたり、またひどく冷淡になってしまったりするのですが、いずれのときも住居の中に居るのです。部屋がちがっても、その存在の気配は消えません。また外出するとしても、住居以外に当然居る場所というものはないわけですから、どこに行って何をしているのかが気になります。
ぼくは仕事のためと称して(事実仕事をしているのですが)、仕事場に泊りこんでしまいます。けれども、二日続けては泊りません。二日目には、時間はまちまちですが、元女房の居るマンションの四階にトコトコ帰っていきます。お義理ではなく、そうしたいのです。帰ってみれば不愉快な成行きになることが多いのですが、なんだか、戻ってやりたいのです。
(──どうも俺は、とんでもなく贅沢なことをしているらしいぞ)
そう思います。平凡に学校を出、他に抜きんでる能力があるわけでもなく、いいかげんでうさんくさいような仕事を乱発して、その場の小技巧で世間を渡っているような男が、いつのまに、こんな贅沢を当然と心得るようになったのでしょう。
(──そのうえ俺は、わがまま勝手をやっているようだ。結局は、自分の立場だけを尊重してことに当っているのだから)
ぼくはどんなときにも、仕事を最大の建前としてすごしてきました。いいかげんでうさんくさいと自認しているような仕事ですが、だからこそ、ガラス細工のようにこわれやすいもので、ちょっとの油断や手抜かりがあっても、失調してしまう種類のものです。
ぼくは、仕事を建前とすることが、結局、配偶者のためにもなるのだと思ってきました。そうして、あたかも人生には別種の建前があるのだという調子で生き、そのことはよいとしても、それでいながら別の建前の男と家庭を持とうという女の甘えを軽んじていました。元女房の幼い身勝手さのせいで、ぼくの身勝手はあまり目立たず、ぼくはいつも説教師のような役割を家の中で演じており、そのうちにぼくの建前はいやがうえにも揺るがなくなってきたようです。
もともと、ぼく自身、本質的には彼女と五十歩百歩の人間だと思っていたのです。いくらかちがうという幾つかのポイントがあって、そこが、彼女を軽んずる原因になっているのですが、たとえば、甘ったれ、というポイントにしても、女の甘ったれ方と男の甘ったれ方、というちがいだけなのではありますまいか。
ぼくは、自分にとって役立つような女を配偶者に求めていました。いうならば、ぼくの建前に沿う女です。結婚するのはそのためで、それ以外に配偶者など必要でないのです。そうして女もそうでした。自分の建前に沿う男を求めていました。そうならお互いさまで、そこに何の不思議がありましょう。
お互いに自分の建前に固執して二人三脚はうまくいきませんでした。当然、別離のときを迎えて、それだけの話であるはずです。
ではなんで、別れたあと、ぼくは追っかけていったのでしょう。彼女が戻ってきたとき、拒めば拒めたのに、けっして長くは続かない関係と思いながらずるずると同居してしまったのは何故でしょう。
身体でいえば、古女房の馴染《なじ》んだ身体の、馴染み加減のところに捨てがたいものを感じていたようです。気配でいうなら、彼女の何気ない声音、動き方、息の匂い、そんななんでもない部分すべてとたち切れてしまうのが辛いのです。それらはいずれも建前と関係がありません。ぼくは臆病で、容易なことでは他人と深く関わろうとしない男です。ぼくと元女房は、建前以外の海の底のような部分で断ちがたいつながりができていたといえましょう。
では、結婚解消はまちがいだったのか。いやいや、ぼくの身勝手な立場でいえば、この結婚はなんの果実もつけなかったし、続行すればなおさら不毛になっていくでしょう。
ある夜ふけ、ぼくが住居に帰ってくると、元女房が、彼女の犬たちと一緒に居間に転がって、つまらなそうにテレビを見ています。
ぼくは自分で茶を入れ、彼女のそばに坐りました。
「なんのテレビだね」
「宇宙人が地球を攻める話よ。毎晩おそくやってるの。つまらないんだけど癖になっちゃってね。これ見ないと眠れないの」
彼女は、そのテレビドラマの二枚目ふうの主役を指して、魅《ひ》かれているのだ、といいました。それはよく見るまでもなく、安手な風貌《ふうぼう》をした役者でした。
「妙ね。ちっともよくないでしょ。それなのに毎晩見るせいかしらね。馴染んじゃったわ」
そのテレビドラマが終ると、彼女はこういいました。
「誠ちゃん、あたし、働きに出るわよ」
「──そうか」
「毎日、誠ちゃんとベティが一緒に居て、あたし一人で待ってるなんて、耐えられないわ。もう決めちゃったのよ。──いい?」
「──もう決めちゃったんだろ」
「友だちが経営してるブティックでね、人手が足りないんですって。店長でやってみないかっていわれたんだけど、勝手も全然わからないし、当分見習いってことで、一日おきに週三回、行くの」
「──ブティックか」
彼女は性格がムラなので、外見とはちがい、客商売には向いていないと思われますが、唯一、装飾品や衣服の見立てなどは好きで、当今の世間一般ぐらいになら通用する程度の眼もあるようです。将来、彼女が自立するとして、両親の力で店を出すとしたら、ブティック以外にないでしょう。
「まァ、やるなら将来のことも考えて、店のやりかたを覚えるんだな。それと、飽きたからやーめた、ってのはみっともないぞ」
「十一時から八時まで、ですって。本当はもう少し長いらしいんだけど」
「場所は──?」
「自由が丘」
「だいぶ遠いじゃないか」
「そう遠くもないわよ。一時間五百円なの」
「一日九時間として、四千五百円か」
「ええ──」
「まァいくらでもいい。働いてお金を貰うってことがどういうことか、わかるだろう」
ぼくは、ニヤニヤしました。
「なにがおかしいの」
「いや、──週三回で、つまり月に約十二日だろう。するとひと月五万円足らずだ」
「稼ぎがすくないから、軽蔑するのね」
「いや、軽蔑なんかしない。ただ、君の今までの小遣いの額とじゃ、月とスッポンだ」
「最初は仕方ないわよ」
「そりゃそうだ、しっかりやれよ」
「ベティには、いくら払ってるの」
ぼくは真顔になって、だまりこみました。この質問は剣呑《けんのん》です。
「その月によってちがうんだよ。礼金に近い性質のものだから」
彼女は珍しく、それ以上追及してきませんでした。
「それでね、──お金、頂戴」
スパッと、わりに明るくいいました。
「靴を買うのよ」
「靴なんか、君は山のように持ってるじゃないか」
「通勤用の靴がないのよ。まさか、夜会用の高いヒールで行けないでしょ」
「そんなもんかね」
「いいわよね。あたし、働くんだもの」
ぼくは、彼女のブティック通いについて、いっさい傍観することにしました。
邪魔はしない。しかし応援もしない。
これまで式の説教師流にいえば、彼女の自立の芽は、庇護してはいけないのです。月五万円ではほんの芽にしかすぎないから、生活の根底はぼくがこれまでどおりみるのですが、あくまでも彼女自身がその芽を育てるべきなのです。
が、ぼくの本音をあけすけにいえば、勝手にしやがれ、でした。
毎日孤立している感じが辛いことはよくわかりますが、だからといって、ここで外に働きに出て、家の中のことを捨ててかかれば、ぼくと彼女の関係が好転するとはとても思えません。このことで彼女がより以上に損な立場になったとしても、俺のせいじゃないぞ、というわけです。
またもうひとつの考えとしては、しかし、結局はばらばらになるわけなのだから、外に向かう彼女の衝動は喜ぶべきことに思わなくてはなりません。
初回と二回目は、緊張したままにすぎたようです。三回目の出勤日に、ぼくの朝昼兼用の食事をつくっているうちに、時間がきてしまって、
「おい、行かなくていいのか」
「だって、食事は喰べるんでしょ」
「いいよ、あとは俺がするから、行けよ」
「どうせもう遅刻よ」
彼女は悠々と出て行きましたが、その晩、仕事場の方に電話してきて、
「店長に叱《しか》られちゃったわ。甘ったれちゃいけないって」
「そりゃそうだろう。そういうよ」
「ところで、お金、頂戴ね」
「なんだい」
「女店員の人たちとお昼を喰べに行くでしょ。あたしは新米だから、おごっちゃうもの」
「新米はおごらなくてもいいんだ」
「だってあたし、年上なんだもの。もう電車賃ぐらいしか残ってないわよ。今夜、帰ってきてね」
「君は働いてるんだろう。だったら小遣いぐらい、自分のギャラの範囲でやったらどうだ」
「わかっちゃいないわねえ。給料は月末なのよ。月末までどうするのよ」
「どうするって、勤めはじめは皆そうなんだよ。できるだけ倹約して給料日を待つんだ」
「冗談じゃないわよ。あたし、遊んでるんじゃないのよ」
ぼくは、受話器をおいてから、ベティに向かっていいました。
「おい、えらいことになってきたようだぞ」
「どうしたの」
「元女房どのは、試行錯誤がはげしいからなァ。働きだしたとなったら、錦の御旗をかついだみたいに、なんでも許されると思っている」
その次に住居の方に帰ってみると、布団に横たわって動かないのです。一日じゅう店土間に立っているので、両足が腫《は》れてきたのだそうで、
「たとえいくらでも金を貰うってことは、なかなか大変なものだろう」
「うん、よくわかったわ。容易なこっちゃない」
こういうところは素直でいいのですが、いささか素直すぎるひびきがあって、また次に何をいいだすかと思わせます。
「熱い風呂に入って、よく足をもむといいよ」
「もう動きたくない」
「湯を出しといてやろう。それともマッサージでも呼ぶか。もっともマッサージにかかると、それでもう日当の半分ぐらいなくなっちゃうんだからな」
「本当ねえ。もう無駄使いできないわ。外で昼御飯をたべても千円や千五百円はすぐ出ちゃうものね。お店じゃもちろん出してくれないし、御飯を喰べに行ってる間、時間給から引くんですって。今度からお弁当持ってくわ」
その気持はよいけれど、翌《あく》る朝はなかなか起きられなくて、弁当をつくるどころか、マンションの前からタクシーをひろって駈けつけるという騒ぎです。
それからまた三日ほどたって、
「あたし、変ったでしょう」
「うむ──」
「夜遊びしなくなったでしょう。ばからしいわよ、友達の行くとこ、ちょっと坐っただけで五千円なんだもの。よくあんなところへ行くわね、みんな」
「夜寐て、朝早く起きた方がいい」
「そうね」
「健康にだっていいさ」
「あたし低血圧だから、朝が辛いのよ」
「朝ったって、君のは重役出勤みたいなもんなんだから」
「お金おいてってね、誠ちゃん」
「いきなり、なんだまた」
「明日は早いのよ。お店が開く二時間前にみんな出て、模様替えですって。ペンキ塗りまでさせられるのよ。そんなのペンキ屋に頼めばいいのに。それで時間給に入らないんですって。ひどいと思わない」
「そういうこともありうるだろうな、個人商店なんかじゃ。君の実家だってお店で、使用人がたくさん居るんだろう」
「うちは時間給なんかじゃないもの」
「いや、アルバイトなら時間給だろう」
「とにかく、明日はタクシーで行かなきゃ、おくれると店長がおこるンだもの」
タクシー代が片道で千何百円とかかるのだそうです。
「どういうこっちゃ。タクシーで往復して、昼飯を喰ってたら、日当が飛んじまうじゃないか」
「そんなこといってられないわよ」
「結局、俺から出てる金だけ、損という形かな」
「ケチねえ。せっかくあたしが一生懸命やろうとしてるんじゃないの」
「いずれにしても、君が損するわけじゃないというところが、不思議だな」
「でも、あたしはもう家の中のことはなんにもできないわよ。喰べ物なんかも買っておけないから、お腹《なか》すかして戻ってこないで、外で喰べてきてよ」
そうなると、仕事場の方で食事もすますことになり、住居の方に帰る必要がなおさら減ってきます。仕事の能率からいえば、一カ所で動かない方がいいのですから。
下着を替えるのと、風呂場が住居の方が広いのでゆっくり浸《つか》るために、たまに住居に帰ると、彼女が、ひしゃげた表情で、へたりこむように転がっているので、あ、かわいそうなことをしてしまったな、と思うのです。
帰宅して、無人の家というのはわびしいもので、以前彼女がよくぼくにそれを味わわせていたのですが、なんであれ外で働いてきて、帰ってくると一人ぽつんと寐転がっているだけという状態は、もともと一人暮しではないだけにこたえるでしょう。
多分、友だちと長電話などしているのでしょうが、たしかに彼女はあまり外出しなくなりました。彼女の体力では、働きに出るだけで精一杯なのでしょう。
「週三回じゃ駄目だって、店長がいうのよ。毎日出てきてくれって」
「ははァ、そうすると、今は毎日、行ってるのか」
「ええ。それでお店が閉まるまで居るのよ。十一時頃まで。だから家へ帰ってくると十二時よ」
「ふうん──」
「女店員が居つかないはずよねえ、あの店。あたしもときどき休んじゃうんだけど、だから月末に、いくら貰えるんだかわからなくなっちゃったわ」
まァ何にしても、ぼくが口を出す筋合いではありません。彼女の経験だし、彼女の自由意志です。
「お店の休みはいつなんだ」
「それが年中無休なのよ。店員は交代で月二回、休むことになってるんだけど、あたしはふだん休んじゃってるから」
その翌日、ぼくが起きだして風呂に入ろうとしていると、彼女が寐床の中から、
「もう、行くの?」
「いや、今日は珍しく仕事がないんだ。家で寐てるよ」
「あたしも、休もうっと」
「じゃ、こっちへ来て寐ろよ」
彼女は犬と一緒に、テレビの前に布団を敷いて寐ているのです。
「またァ、いやなことするんでしょ」
「君がいやならしないよ」
「いやなことしないでよ。ほんとよ。あたし、お店じゃ、処女だっていってるんだから」
そういいながら、ぼくのべッドにもぐりこんできます。
「人妻のアルバイトの処女か」
「人妻でも処女だわ、っていうと、お店じゃそうでしょう、ってうなずいてくれるわ」
「そうかね」
「あたし、若いのよ」
「そうだろう、多分」
「多分じゃないわよ。わ、か、い、の。疑《うたぐ》らないでよ」
「疑るものか。疑る余地はないよ」
「ね、あとでスーパーに一緒に行かない。ひと眠りしたら」
「ああ──」
ぼくたちは、さもさも仲のよい、屈託のない夫婦のようにひっついてスーパーマーケットに出かけていきました。実際、この瞬間は問題など内攻しても居りませんでしたし、彼女は特に平常の反動で、浮きたっていたでしょう。
「よし、俺がひさしぶりにコロッケをつくってやろう」
「うん、それじゃ、あとはサラダの材料と、果物ね」
帰ってきて、ぼくがじゃがいもの皮剥き、彼女が挽肉と玉葱《たまねぎ》を炒《いた》めます。
「コロッケはどんな形にするの。俵型、それとも小判型」
「どんなのでもいいよ。小さいひとくちコロッケもいいな」
「あたしは大型の方がいいわ、小さいのは面倒だもの」
突然、彼女が笑いだして、
「──ね、誠ちゃん、これ」
「なんだい、それは──」
長細い棒のような形を作って、油におとしているのです。
「アレよ、──アレ型、ウフフフフ」
彼女は面白がって、先を少し太くしたり、これは、しなびちゃったの、とか。
「やっぱり、相当な阿呆だなァ」
「いいじゃないの、楽しいンだから」
元女房は、それでも気にしてはいるらしくて、ブティックからときどき仕事場に電話をしてきます。
「喰べ物、買っといたから、今夜は帰ってから食事つくるわよ」
「何時頃、帰るんだ」
「そうね、やっぱり十二時近くなるわね」
ぼくもできるだけそれに合わせて、住居に帰るようにしているのですが、それとは関係なく、食事どきに仕事場に居れば、ベティがぼくの分までつくって持ってきたりするのです。いい気なものだと思われるでしょうが、素知らぬ顔をして両方とも少しずつ喰べて、食欲がすくないのを隠すために、
「夕方、ソバを喰ったものだから──」
「ベティは、つくってくれないの」
つくってくれる、と答えてはまずいし、つくってくれない、と答えると、高いギャラを払っているのに、というような言葉が返ってきて、どっちにしてもうまくないのです。
彼女は折りにふれて話題にしようとしますが、ベティに関しては、だから逐一避けてとおらざるをえません。けれどもそのために彼女の想像がとめどなくふくらんで、収拾がつかなくなってしまうことがあるのです。
ある夜半、不意に泣いて、ぼくの寝室に入ってきて、
「ベティにばかりお金を使わせて、あたしには、ちっともくれない──!」
「──どうしたんだ、夢でも見たのか」
「あたしはこの家の何なのよ。何だと思ってればいいのよ」
「──何だっていいじゃないか。君はどうせ、そのときどきでどんなふうにでも思うんだろうから」
「とにかく、誠ちゃんにこんなに苦しめられるとは思ってなかったわ。ずっと前は、あたしが苦しめてたかもしれないけど、すばらしいお返しね」
ぼくは黙りました。
「あたしを一人で働きに行かして、誠ちゃんとベティは二人で居るのよ」
「そりゃちがうぜ。ブティックに行きだしたのは君が自分できめたんだ」
「働きに出なくたって同じよ。あたしは一人なんだもん。あたしはいつのまにか一人にさせられちゃったわ」
「そりゃ、お互いに責任があるだろうな」
「お互いなもんですか。じゃ、何故、今、こんなにちがうの」
こういうふうになると際限がないので、彼女が不機嫌な気配を感じると、つい、仕事場に泊りこんでしまうのです。なんといっても仕事にさしつかえてしまうのですから。仕事を口実にしてという気味もなくはないのですが、実際にその余裕もないのです。
ぼくが連続して帰らないと、例の固い、ひしゃげたような声で、電話がかかってきて、
「今夜、帰るの」
「あ、帰るよ」
「食事はどうするの」
「まァ、君も疲れてるだろうから、こっちですます」
「──お金、少し、ない」
「おや、もう月がかわってるぜ。先月のギャラを貰ったんじゃないのか」
「途中からだし、いろいろ引かれて、いくらでもないのよ。すぐなくなっちゃうわよ」
「ふうん──」
「今夜おそく、本間さんが遊びに来るのよ。誠ちゃんの大好きな本間さん。帰ってくるわね」
本間夫人は八頭身で、彫りの深い、日本には珍しいような美女ですが、ぼくはある点で苦手なのです。何故かというと、彼女のご亭主、建築家ですが、この本間氏が全面的に夫人に対して献身的で、
「ぼくの生甲斐は女房だ、彼女を美しく幸せにすることが、ぼくの務めなんですよ」
そう言っているというのです。
実際、本間夫人は家事一切を使用人にまかせ、ダンスに、お酒に、社交に、芸術鑑賞に、優雅に日を送り、いやがうえにも洗練されていくのですが、ご主人は、酒も煙草もやらず、ひたすら家に閉じこもっているのです。
「本間さんはまた車を買い換えたのよ。すごい車よ。誠ちゃんはあたしに何か買ってくれたこと、ある」
「あるよ。君が忘れてるだけだ」
「安物をね」
「そりゃ本間さんは高収入だから。俺とはちがう」
「大阪さんの奥さんだってそうだわ。この夏はご主人とホテル住いですって。のびのびしてるわよ、あたしなんかとちがって」
「君は一面しか見てないからだよ。誰だって、のびのびするために、一方ではいろいろとコントロールをしてるんだ。君はコントロールをしないだろう」
「ねえ本間さん、どういうふうにすれば、ああいうご主人がみつかるの」
「うちの主人のやりかたがいいとは限らないわよ。人さまざまのやりかたがあるんじゃないの。それに、あたしはうちの主人のやりかたを、理想とは思ってないわ」
「一日でいいから交代したいわねえ。あたし、大切にされてみたいのよ」
「すみ子さんは、大切にされてないの」
「大切にされてるように見える。このおとろえたあたし、ひきつった顔」
「大げさねえ──」
「亭主が居るからって、そんなに遠慮しないでよ。いつも話してるでしょう。攻撃してよ」
「あたしはすみ子さんの気性を知ってるから、一概に旦那様を攻撃しません。でも羽鳥さん、他の女性と二人で外国へいらっしゃるのは、やっぱり奥さんとしたら問題ね」
ぼくはベティの外国語を頼りにして、何度もコンビで外地に取材に出かけているのです。そうして、本間夫人もぼくたちが離婚しているのは知らないはずでした。
「ぼくも勝手なんですよ。けっしていい亭主とは思いません。でも、ぼくみたいな無名のライターでも、仕事への欲はあるんですよ。この世界へ入ってもう十年ですからね。で、このへんでもがいてみなあかんと思ったんです。そうなったら、カミさんの機嫌は考えてられませんなァ」
「お仕事のことはそうでしょうね。でも、他にも方法があったんじゃなくて」
「そんなに選択するほどの余裕はないんです。眼の前に来たものに、ガブリッと喰いつくのがいっぱいですね」
「それじゃァ、あたしたち女は、いつどうなるか、一刻も安心して生きてはいられないわけですね」
「そうですよ。ぼく自身が明日も知れぬ命なんですから。本来ならぼくたちは、二人ともまっ黒になって働いている身の上なんですよ。それがいやなら、本間さんのように何不安のないエリートの亭主を探してくれというほかはありません」
その夜、午前三時頃になって、本間夫人が「うちの運転手を呼ばなくちゃ」といって電話をご亭主にかけると、二十分ほどしてちゃんと迎えに現われるのです。
どんな時間だろうと、たとえ明け方の五時でも、往復は本間氏の運転する車に限るので、楽しかったかい、と訊かれて、楽しかった、と答えると、そりゃァよかった、といって本間氏も喜ぶのだそうです。
「夢みたいな話ね」
「そりゃァしかし、ていのいい拘束じゃないか」
「あたしはね、でも、本当は、これでもずいぶん変ったのよ。夢みたいな話は夢でいいの。それより、べつのことを考えてるの」
「どんなことを──?」
「うん。──もうお金も使いたくないし、遊びたくもないわ。なんというのか、しっかりとしてきたのね」
「そういう話は、本人がいうほど変っとらんのさ」
「姉たちが、お婿さんをとって、うちのお店をやってるでしょう。つまんないかもしれないけど、わかってる世界よね。こういうときにはどうすればいいってことがわかるし、また自分の身体がそういうふうに働くわ。ああいう生き方がいいなァって思いはじめたの」
「ふうん。──それで?」
「あたしはもともと、贅沢な女じゃないわよねえ」
「つましい女でもないなァ」
「つましいことがしてみたいの。つましくていいから、あたしも一緒になって力をつくせる家庭がほしいの」
「今さら何をいうんだ。まァおそまきでもいいが、空想と実際はちがうからな。つましさってのもそうやさしいことじゃないぜ」
「できるかできないかわからないけども、そう思ってるってわけ」
「それなら、実行にうつしたらどうだ」
「誠ちゃんとじゃ、できないわ」
「──うん」
「あたしにはよくわからないんだもの、誠ちゃんが。無茶苦茶すぎて」
「そういわれれば、俺も無茶苦茶だな」
「無茶苦茶だわよ。それに、無茶苦茶でないところだって、あたしはついていけないのよ。そりゃァ誠ちゃんはいい人よ。あたしにもよくしてくれたわよ。だからあたしも、本当は、よくしたいんだけど──」
「できないってわけだな」
「でも、病気のときは優しくしたでしょ」
「ああ、まァね」
「病気の誠ちゃんはわかるの。病気の誠ちゃんはかわいいわ。だから、病気がこのままだんだん重くなっていって、死んじゃえばいいと思ったわ」
「そりゃ君らしい感じ方だ」
「ふだんの誠ちゃんには、ごはん炊きとか洗濯とか、そんなつまらないことしかしてあげられないわ。ちゃんとした居場所がないんだもの。辛いわよ」
それからしばらくたった、やはり夜半のことです。彼女は、本間夫人に、そんな悪い条件のところに勤めていたってなにもプラスしない、といわれたとかで、ブティック通いをいつのまにかやめてしまっていました。これまで何かをやりはじめようとして、きまって途中で挫折《ざせつ》してしまう、それとほぼ似た経緯ですが、ぼくはただ黙って傍観しているだけでした。
ぼくは彼女をぼくの寝室の方に呼んで、なんとなく身体をまさぐっていたのですが、
「誠ちゃん──、話しちゃおうかな」
「なんだい」
「お話があるのよ」
「いってみろよ」
「どうしようかな、──又今度にしようかな」
ぼくは顔を起こして元女房を見ました。彼女が口ごもるなんて、珍しい。
「どうしたんだ」
「あのねえ──」
彼女にしては、静かな、沈んだ声音で、こういいました。
「あたし、好きな男の人が、できちゃったのよ」
ぼくは彼女の身体から、指を離しました。
「怒った? だってしようがないんだもの」
「本気か」
「ええ、そうなの。生まれてはじめてなのよ、こんな気持。あたしの方から男の人を好きになるなんて」
「ヤレヤレ、俺は形なしだな」
ぼくはしかし、ちょっと笑いました。元亭主にせよ、こういういいかたでぬけぬけと告げてくるところがいかにも彼女らしいし、また隠されているよりよいことは確かです。
「──それで?」
「それでって、──誠ちゃんに黙っていたくなかったから」
「まァ、君は隠し事なんかできない。それはいいが、相手はどんな男?」
「若いのよ。あたしより五つ下」
「独身か」
「ええ。──不思議ねえ、お金持じゃないし、かっこよくもないわ。それなのに、彼のことで、今、いっぱいなのよ」
「相手も本気なんだな」
「──だと思う。手も握ったことないのよ。本当よ。あたしは触って貰いたいんだけど、彼がきちっとしてるの」
「彼にはその気はないのとちがうか」
「羽鳥さんの奥さんでいる間は、礼儀を守るって。あたし、本当は離婚してるの、っていっても、一緒に暮してるんだから同じだって」
「俺の知ってる男か」
「──ええ」
「困っちゃったなァ」
「出版社の人か」
「いいえ」
「仕事以外の知り合いだな」
「お兄さんも独身よ。兄弟仲がいいの」
「──林の弟か」
彼女はだまって眼を伏せていました。
「そうか、なるほど」
「いい気持がしないでしょ。ごめんね」
「本気なら、しょうがなかんべ」
「どう、誠ちゃんの眼で見て、彼はどんな人間に見える」