「チラホラとしか会ってないからなァ」
「新宿で偶然会って一緒に呑んだことがあるっていってたわ」
「うん。まァ、普通だな。それ以上はわからない。普通ってことは、精神的に片よっていないって意味で、この場合、悪い評価じゃないよ」
「一緒になりたいのよ、どうしても」
「彼もそういってるのか」
「彼はまだそこまでいってないわ。ただ、あたしと会っていろいろ話をきいてくれるし、彼の方もブティックに電話くれたり──」
「どうも、君の話は例によって、はっきりしない点があるが、要するに、君が惚《ほ》れこんでるだけじゃないのか」
「彼はきびしいのよ。あたしが誠ちゃんのことなんか話すと、そんなふうにあの人を傷つけるのはよくない、って叱られるの。いろいろ叱られてばかり居るわ。自分が亭主なら、許せないことは絶対に許さないって。でも、あたしを嫌いじゃないって」
「そういったのか」
「そうもいったし、感じでわかるわよ」
「それでこの前、お金もいらないし、遊びたくもないなどといってたんだな」
「彼はサラリーマンだし、今度はあたしも、つましくやらなきゃならないわ」
「できるかな」
「覚悟だけはしてるのよ。もし一緒になれたら」
「気持はわかるが、むずかしいぞ」
「でも、彼のことはわかるの。わかるのよ。誠ちゃんみたいにグレートじゃないし、無茶苦茶でもないから」
ぼくはこの件に関して、ごく大ざっぱにいって、好感を抱きました。妙ないいかたで、ただ簡単にそうとだけはいえませんが、相手の青年に対しても、特に嫌悪の情が湧《わ》いてきません。
それよりぼくが案じていたのは、彼女が軽はずみな男関係で傷つくことでした。また彼女くらいだまされやすく、軽はずみをしがちな人間もめったにありません。浮気みたいな関係で誰もが傷つくことにくらべれば、本気(本気というのも錯覚がないとはいえませんが)をしてくれた方が、どんなにかいいのです。
それに、彼女とぼくはどこまでも元のつく関係で、保証も実体もほとんどありません。ぼくがこの先どうするにせよ、彼女は彼女で、それこそもっと実体のある自分の居場所をみつける必要もあったはずです。
ぼくとベティの関係に対抗して、意地ずくで彼女も男をつくったというふうに、ぼくは受けとりませんでした。彼女は嘘で自分を飾りたてはしますが、そういう持ってまわったような企てはしません。
かえってぼくの方に、肩がわりをしてくれる男性があればもっけの幸いという計算が湧いてきていました。いやらしい計算ですが、しかし、彼女が心からそう願っていることなら、その実現に応援する気持は、単なる卑しさばかりとはいえません。ただし、相手の男性の心情が問題です。
自分の気持も相手の気持もよくたしかめて、それから行動をおこすんだぞ。どうも君は、そそっかしいところがあるから──。ぼくはそういいました。
仕事場に行ってから、ベティに早速このことを話しました。
「どうもいそがしくなってきたようだよ。元女房に恋人ができたんだ」
「あら、そうなの」
「それで、彼女の参謀になって、この件をできたらまとめてやろうと思う」
ベティは笑っただけで、なにもいいませんでした。彼女はすみ子のことになると、慎重でほとんど何もいいません。いつか、元女房が血を頭にのぼらせて、自分という存在をもっと尊重しろとどなりこんできたのを見送ったあとで、
「羽鳥さんが一緒に居るひとでなかったら、ひっぱたいてやったわ」
といったのが唯一のことです。
おそらくベティは、この件に関してぼくの態度が楽天的だと思っているでしょう。
ぼくは毎晩、住居の方に帰るようになりました。風呂に入り、食事をすませたあと、ぼくの方から率先して、林くんのことを訊《たず》ねます。
ところが、二三日たたないうちに、彼女が林くんと会って、二人のことをぼくに告げてしまった、と話してしまったのだそうです。彼女は、これもただ胸に畳んではおけなかったのでしょう。
「それはまずいな。──ところで、彼はどういったね」
「顔がさっと変ったわ。こういうことは、誠ちゃんに自分から話したかった、って。それで、あたしと結婚してくれますか、っていったの」
「そうしたらね、ぼくはそんなところまで考えていなかった、って」
「そうれ見ろ」
「でも、あたしがそんなふうに考えてしまった責任は、ぼくにもあるな、っていったわ」
「たしかめろとはいったがね、そんなふうに単刀直入にいったら相手はおどろいて尻ごみしてしまうよ。どうも君のやりかたというものは、いまさらながら呆れかえるな」
「じゃ、どうすればよかったの」
「せっかく俺も応援してやろうと思ったって、ぶちこわすばかりじゃないか」
男をひっかけるつもりなら、釣りと同じなんだ、とぼくはいいました。魚が餌にしっかり喰いついてから、竿《さお》をあげるんだ。男というものは女とちがって、本能的に、一人の女に縛られちまうのを望んでいないのだから、釣られるとわかれば逃げちまうよ。
ところが、考えてみると彼女は釣りもできないし、トランプのゲームをやってすら、悪い手がくるといらいらして、カードを放りだしてしまうくらいなのです。
「彼はまだ手も握ってこないといったろう。その段階でいきなり仕かけたって、逃げるにきまってる。もっと機が熟して、彼の方に具体的に責任があるという形で縛らなければ、無理だ」
「じゃ、あたしに誘惑しろというの。それはできないし、彼だって嫌うわ」
「むろんそうさ。だから気早にならずに、今のうちはお互いにじっくり確かめあうところだったんだ。本気のものなら、そのうち一歩近寄るチャンスがあるものさ。そうやって一歩一歩と行って、君の方からいえば、相手を捕まえていくんだ。特に相手は年下なんだから、君があせったら、相手は冷めるよ」
「もういいわ。彼の気持を誤解してたんだから。いいのよ」
「いいのよ、って、君はそれでどうするつもりなんだ。またここに居坐るのか」
「いいわよ、どうなったって」
どうしていいかわからずに、涙ぐんでしまうのです。ところがまた二三日たって、
「彼が、誠ちゃんに会いたい、っていってるわ」
「ふうん、どういうつもりで」
「しらない。謝る気なんじゃないの。まわりもうるさいのよ」
「兄貴がか」
「お兄さんじゃなくて、誠ちゃんを知ってるまわりの人たち。他人の家庭を乱すなって」
「謝りにくるんなら、会う必要はないよ。もし軽い冗談で君とつきあっていたのなら、謝ったって許さない。ただし、本気なら、謝る必要なんかない。謝ったってしようがないだろ」
「そういうわ」
「おい、君が本当に本気ならだな、知恵をやろう。ここを出るんだ。実家へ帰れよ」
「実家はいやよ」
「じゃ、姉夫婦でも妹夫婦のところでもいい。俺との間を清算したことにする。事実、俺はもう触れてないだろう。それで、相手の出方を見よう」
そのとき、旧友が来合わせていまして、事情の概略をきくと、やはり笑うのです。
「こりゃどういう関係だ。君は父親なのか」
「父親でもあるんだ」とぼくはいいました。
「彼女とは、もうとっくにどういう関係だかわけがわからなくなっていて、ただ、つながりだけがあるんだ」
それからぼくは、ちょっと気になって、彼女の方にもう一言いいました。
「そうだ、やっぱり、林くんに一度会おう。ついでのときでいいから、仕事場の方に電話をくれるか、訪ねてくるかしてくれ、そう俺がいってたと伝えるんだ」
彼女はその翌日、二匹のスピッツを籠に入れ、当座の手廻品だけ持って、すぐ上の姉夫婦のところに行きました。
「おい──」
ぼくは、犬じゃなくて彼女を品評会にでも出すような言葉を吐きました。
「がんばるんだぞ」
林くんとは数日後、盛り場の喫茶店で会いました。彼はぼくを認めると固い顔つきで近寄って来、立ったまま、深々と頭をさげました。
「いろいろと、申しわけありません」
「いやなに、──お互いに仕方のないことさ」
「責任は充分感じています」
「君が謝ることもないし、ぼくが怒ったってしかたがない。それにぼくは怒る権利もないんだ。ぼくたちは離婚してたんだから」
「これだけは信じてください。ぼくはふざけた気持ではありませんでした」
「しかし、結婚までは考えていなかったんだろう」
「はっきりいって、その段階ではありませんでした。兄貴もまだ独身ですし、ぼく自身、当分独身のつもりでした」
「そうだろうね。彼女だけが一人で先行していたんだ」
「気持の問題なら彼女だけじゃありません。ぼくも同じような気がします。最初はすみ子さんの相談相手、或いはこぼしの聴き手のつもりだったんですが、途中からそれだけじゃなくなりました。ぼくは羽鳥さんを、うらやましいと思いました。ただ、羽鳥さんから奪ってまで、すみ子さんを幸せにできる自信がなかったんです。ぼくは、とても彼女を、あんなふうに野放しにはしていられません。ぼくはなやみましたが、この段階で引き退《さが》るべきだと考えました」
「そうか、それならそれでいいんだ」
「いや、すみ子さんが姉さんのところに居るときいて、これは、お二人の仲を割った責任はとらなければならない、そう思いました」
「責任をとるというと、どういうふうに」
「うまくいくかどうかわからないけれど、お許しがあれば、すみ子さんを引き受けます。ただし、ぼくが退いて、お二人が和解する可能性があるのでしたら、ぼくが出る幕じゃないような気がします」
「俺は捨てられたんで、彼女は君をえらびたいんだ」
「羽鳥さんはどうなんですか」
「うん、俺は複雑なんだよ。とにかく君は、進むにしても退くにしても、君の気持を中心に考えたまえ。女というのは一生の問題になりうるからね。俺はだいたい、あの女が君のところで女房としてうまくおさまる確率はすくないと思ってる。君でなくて誰の場合もだ」
「それは、わかりません」
「俺はわずらわしい思いをいろいろとしたからね、正直いって、次のランナーにバトンを渡せれば荷厄介がなくなるということもあるよ。そしてもうひとつは、すみ子の気持だ。あんな女だからどこまで確かか計りようがないんだが、とにかく君に惚れてる。あれはなかなか人を好きになんぞならないんだよ。君さえ承知なら、俺は彼女の望みを実現させてやりたい。しかし君に押しつけるという気もない。君は君で、俺に遠慮なく、どちらか定めてほしい。もちろん返事はすぐでなくていいよ」
「ええ、よく考えてみます」
その間の経緯は似たような語り口になるので記しません。ぼくは林くんの兄とも会いました。揃って東京に出てきた林くんの両親とも会いました。元女房からは毎晩のように電話がかかってきて、逐一報告するのです。
そういう日々がたったあとで、林くんとすみ子が、一緒に暮しはじめることになったとききました。但し、正式な結婚ではなく、そこに至るまでの前段階らしく、知人はもちろん、故郷の親たちも呼ばず、兄貴と三人きりで、林くんのアパートで、固めの杯をとりかわしたそうです。どういうわけか、前亭主のぼくも呼ばれていたのですが、行きませんでした。
ぼくはあいかわらず、仕事場に日参しており、夜だけ住居の方に戻ります。そのマンションは、借りたときの条件が、知人夫妻が外国出張から帰るまでという約束で安く借りたゆえ、整理したいが勝手に出るわけにもいかないのです。
元女房が居なくなっても、ベティとの関係が変ったわけではありません。ベティはトシの女房ですし、ぼくとは一指も触れあわない間柄であり、しかしまた、特別な交友でもあります。
ぼくの仕事は、これはもうますます安直に量産し、質は下落する一方で、そのうえこの世界は若い体力のある人たちがどんどん出てきており、収入を確保しようと思えば、より下級の雑誌で使って貰うしかなく、破綻は眼に見えているといえましょう。
そういうピンチに対するもがきのような形で、ぼくはベティの力にすがってアメリカに十日間わたり、彼女の知り合いを頼ったりしながら、いろいろと取材してきました。
まァそれも、どの程度に読物誌で使って貰えるか、そんな屈託を胸にしながら、マンションの四階に昇って、鍵を扉にさしいれると、犬の鳴声がします。
おや、と思って玄関を入ると、居間のテレビの前に、元女房が、以前のように寐転がっているのが直接眺められるのです。
「どうした──?」
あがりこんでくるぼくに、
「戻ってきちゃったわよ、──いい?」
あれからまだひと月とたっていません。ぼくは何も訊かずに、荷物をもって寝室に入り、上衣やシャツを脱ぎ散らしました。
彼女が音もなく入ってきて、珍しく、脱いだ物の始末をし、下着をさしだします。
駄目な女だなァ──。
まず、そう思いました。
それから、普通は、出戻りという場合は、実家へ帰るというのがきまり相場なのに、此奴《こいつ》は、元亭主のところへ帰ってくるんだなァ、かわった奴だなァ、そうも思いました。
ぼくはちょっと笑いかけて、辛うじて頬を崩すのを押さえました。
「居ても、いいの?」
固い、ひしゃげたような顔で、そういうのです。
ぼくはベッドに横になっていて、
「まァ、ここへ来いよ──」
どうして彼と駄目になったか、訊く気はありません。ぼくは彼女の首の下に腕をさしいれて、
「まだ彼を、好きかい」
彼女は眼を伏せたまま、
「──うん」
「いいさ、いつまでも居ろよ」
とぼくはいいました。
「もっともそれは俺の気持に即していったんで、俺も早晩、喰いつめるがね」
彼女は、声を出さずに泣いているのです。
「俺たちの間柄も、実にどうも、なんともかとも、わけがわからないものになったなァ。これで、続いていくんだから、いいさ」
彼女はやっぱり、返事もしません。
「他人の女と暮すってのも、これでひと味あるもんなんだぜ」
とぼくはいいました。
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少 女 た ち
牛込納戸《うしごめなんど》町にある美味《うま》い豆腐屋で水を張った鍋を借りて豆腐を浮かし、ちょっと重たいけれども、バスに乗って麹町《こうじまち》の鈴木重雄さんの事務所に行った。行ったというべきか、帰ったというべきか。
その頃、私は長年の放埒《ほうらつ》のせいで身体に変調をきたし、四十近くなって無産無一物、おおかたの日を鈴木さんの事務所に寐泊りさせてもらっていた。鈴木さんは近年でこそ、望月優子の旦那という感じの方が濃くなってしまったが、昔、若い頃は三田文学系で嘱目《しよくもく》された作家だった。新聞社に入り、そこで重用されたせいもあるが、遊び好きで、ついつい何十年かを浮かれすごしてしまったというふうだった。
先輩は、私を、重《しげ》さんの二代目だといって笑った。私もその何年か前に新人賞を貰ったきり、忘れたようにほとんど物を書かなかった。何をしていたかというと、日本全国五十数カ所ある競輪場をぐるぐる廻っていたのである。けれども、よく考えてみると、私などは、放埒のせいで書けないのではなく、きちんとしたものが書けないから仕方なしに遊び呆《ほう》けていたきらいがある。あるいは鈴木さんもそうだったかもしれない。
その頃、娯楽小説ではあったけれど、五年ぶりぐらいで或る週刊誌に原稿を書きだした。身体の調子がおもわしくないので、ひょっとしたら入院という事態を迎えるかもしれず、一年くらい芸者になった気でお金を稼いでおこうと内心で思っていたのである。そのために、電話のある場所に居ついてくれると便利なのだが、と担当編集者がいった。そんなことで、私の方がやや押しかけ気味に、しかし鈴木さんも、来いよ、と快く応じてくれて、そこの応接間が私の仮りの寐ぐらになった。鈴木さんはわがままな半面やさしい人で、この同タイプの後輩を、なかば案じ、なかば面白がり、なにかと応援してくれていたようである。
けれども、遊び屋が二人そろったからたまらないので、昼夜をわかたず誰かが訪れ、ポーカーや麻雀に打ち興じる。鈴木さんは自宅に帰るひまがなくて、とうとう応接間にベッド兼用の長椅子をいれた。そうして寸暇を惜しんでぐったりと眠った。
その事務所は一応出版社であり、四五人の若い社員が居たが、働きづらかったろうと思う。私はどこででも遊ぶが、仕事場で遊ぶのは特に好きで、洗面所で即席の料理をつくって皆に喰べさせたり、尻とりに類するゲームをやったりした。私はなんだか人恋しくてたまらなかった。鈴木さんは、本来の会社らしい空気に戻そうとして懸命に私に逆らったが、結局は私と同じようなことをしてしまうので示しがつかない。平和な団欒《だんらん》がそこにあったけれど、会社の形はなさなかった。もっとも、そんな中で何気なく出版した�ミコのカロリーブック�という本が猛烈に当って、鈴木さん自身が呆れかえるほど儲かったのであるから、因果応報などという言葉はこじつけにすぎない。
半年ほどで週刊誌の連載が終り、終ってみればもう働く意志はない。私は当時あまりお金を使わなかったし、キャリアに比して高額のギャラを貰っていた。ちょうどその時分、友人の家の離れがあいていて、そこへ移り住んだらどうかという。鈴木さんのところも面白いけれど、ひっついているとお互いに身体によくない。このへんでお別れしましょう。鈴木さんは私が迷いこんだときよりも一層喜んでくれた。
私は豆腐の鍋をかつぎこんで、送別のしるしに一同に冷や奴をふるまった。私はその日の退社時刻を期して、社員たちと一緒にこの事務所を出、一度出たらけっして戻ってこない、安心してくれ、と告げた。
「でも、遊びにはくるでしょう」
「それは、くるかもしれない」
「じゃ、おんなじだ」と社員たちはうなずきあった。
私は風呂敷包みひとつ持っていたわけではないので、ただポケットに手を突っこんでその事務所を出た。佐久間瑞子という女子社員と連れだって四ツ谷駅の方に歩いた。私は彼女を食事に誘った。私は折り折りに女子社員たちの身上相談に乗ったりしていたので、彼女たちはいずれも私を警戒しない。
新宿に出て、中華料理屋に入った。彼女は自分も近いうちにあの社をやめたいと思っている、といった。やめて結婚するとか、親もとに帰るとかいうのではない。やめたい理由を二三いったが、いずれもさほどのことに思えなかったから、あるいは口にしない理由があったのかもしれない。
「でも、移り先が、いいところがなかなかないだろう」
「ええ──」
佐久間瑞子は二十一か、二十二になっていたか。短大の家政科を出ていた。当時から、女子社員特に短大出は特殊な会社以外あまり喜ばれない。
「それじゃァ、いっそ──」と私は口ごもりながらいった。「俺のところでいろいろ手伝ってくれないか。昼間だけ。どうもね、俺一人じゃ、家なんかに住んだってなんにもできないよ」
私はそれから早口になった。
「しかし、事務所ではないし、俺は独身男だし、おかしいかなァ。人眼には変に見えるだろうね。やっぱり君のためにはならないなァ。俺としては、君が毎日来てくれれば嬉しいんだが」
私は鈴木さんの事務所の一人一人に好意を寄せていたが、佐久間瑞子は特にかわいいと思っていた。彼女は一見おとなしくて冷静な感じだったが、存外におっちょこちょいで、面長だったけれど笑うと眼だけがおかめの眼のようになった。
「あたし、行きたいです」
と彼女はまじめな表情でいった。
私は彼女の給料の額をきき、それから、いくらあれば一応の生活ができるかと訊ねた。そうしてその線でギャラをきめた。彼女はちょっとの間、無言で、ポロポロと涙を流して泣いた。
それはとても印象的だった。初々しく、すがすがしく見えた。何故泣いたのか、私は問わなかったし彼女も口にしなかった。路上で別れるとき、彼女はちょっと固い表情で、ありがとうございました、といった。私は、私の新しい扶養家族が、コマ劇場の前の道を人混みに歩み消えるまで見送っていた。
私は早速、鈴木さんにその件を申し出た。
「──うん、まァね」と彼はいった。「彼女の父親とは昔の友人でね、彼女が親もとを離れているから保護を頼まれているんだが、君のところで大丈夫かな」
取って喰う気ではないことを私は力説し、諒承をとった。
家主の友人は私が無一物であることを知っているので、不要のベッドや家具を置いてくれた。佐久間瑞子が甲斐甲斐しく掃除したり、布地を買ってきてカーテンを作ってくれたりした。鈴木さんたちが揃って来てくれて、車座になって酒を呑んだ。
「妙だね。ずいぶん前から知っているが、君の家を訪ねたというのはこれがはじめてだよ」
と鈴木さんがいい、私も笑った。
もっとも、居心地がよかったかというと、そうでない。私は窓から樹を眺めたり、膝小僧を抱えたり、ぽつねんとしてすごしていた。自分の家という考え方に馴染まなかったし、理由ははっきりしないがなにか恥ずべきことをしているような気分でもあった。私はごく身近の人をのぞいて、大方の知人に、住所ができたことを知らせなかった。
私の匿名の小説は偶然当って、その週刊誌との間に、毎年、六カ月間だけ同じようなタイプの読物小説を連載するという約束が生まれた。それで生活には充分だったし、他になんにもしていない。
だから私自身は、用事が果てしなくあるような気もしていたが、移った当初は浮浪者がひょいと住みついたのと大差はなかった。
佐久間瑞子には、来客の応対や小説の下調べや、そういう秘書的な役割もして貰うようなことをいっていたが、それはただの家政婦では不足に思うだろうからお体裁でいったまでで、私自身が身をいれないのだからその種の仕事があるわけはない。
だから、いくらかの家事をしてしまうと、なんにもすることがないのである。
「あたし、こんなことでいいんですかァ、毎日、遊びに来ているようで──」
「いいんだよ、それで」
「何か用事をつくってください。手持無沙汰で困るんです」
「しかし、俺も用事がないんだから、君の用事があるわけはないよ」
日ならずして彼女もそのペースになれてきて、自由にふるまいだした。
「ねえ、どうして、靴下をはいたまま、寐てるんですか」
「靴下なんかはいてないよ」
「はいてました。朝、来たときチラッと寝室を見たら、そうでした」
私の足の裏があまりにまっ黒だったので、彼女には靴下をはいていると見えたのだった。それに類したことで、彼女は毎日、キャッキャッと笑いころげていた。
「今、母屋の奥さんに、貴女《あなた》は何なの、と訊かれました」
奥さんじゃなさそうだし、妹さんは居ないはずだし、と母屋の妻君はいった。娘さんじゃないわよねえ、何かしら。
「秘書です──」と彼女はいったという。
「秘書って、色川さんは何か仕事をやってるの」
「仕事はべつにしてないようですけど、でも秘書なんです」
「なんにしてもいいわよねえ。若い娘さんがそばにいて」
と母屋の妻君はいったという。
「ほんとにそうですか」
「なにが?」
「いいですか」
「ああ、いいよ」
彼女は眼を無くして笑った。そうしてこういった。
「ほんとに叱ってください。あたし、いわれないと気がつかないから」
「べつに、どうしなくちゃいけないということはないんだ。ただ自然にしてればいい」
私はそれにつけたして、二度とくりかえしていわないつもりで、少し声を強めていった。
「もっとも、世間はもっときびしいよ。お嫁にいっても甘えてばかりはいられない。そのことはいつも忘れないでおく必要があるね。そのうえで、ここは世間とはちがうと思っていなさい」
「はい」
彼女は最初のうちこそ九時頃来ていたが、私が寐ていることが多いので、まもなく十時頃になり、十一時すぎになってやっと姿を見せるようにもなった。私はべつに何もいわない。何時に来ようがかまやしないのである。
帰りの時間もまちまちであった。夕飯を喰って夜まで話しこんでいくことがある。日曜日も、彼女の用事がなければ現われる。
表面の規律はいっさいつくらない。規律をつくって、それにつきあうようになったら私自身が困るということもあったけれど、もうひとつ、せっかく与えられたこの住み家を、普通にいうところの�家�ではなく、遊園地のようなものにしてみたいと私は考えていた。
佐久間瑞子のように、親もとを離れ、地方から上京して一人でアパート暮しをしている女性は、実に非常に危うい状況に居るといえるのである。彼女たちが東京で住みつきたいと思って自分でそうしているのだから仕方がないことでもあるのだけれど、女子社員の給料で自立するのは大変で、多くは三畳、せいぜい四畳半ひと間の部屋に住み、極端に切りつめた毎日を送っている。つましくするだけならまだ耐えられるが、孤独、孤立、という色が濃くなるのが辛い。
私は男だからよく承知しているが、大方の若い男にとって、親もとを離れた一人暮しの娘というものは、ライオンと羚羊《かもしか》の関係であって、まことに適当な獲物にすぎない。男たちは最初から喰う気で近寄ってくる。また彼女たちもあっけなく喰われてしまう。そうして、こりずに何度でも、いくらかの精神的なものを期待しながら喰われてしまうのである。そうならずに、俗にいう清潔にすごしている場合も内容は同じで、胸中は砂漠のように乾ききっているのである。
佐久間瑞子が、あのとき不意に流した涙も、自分が必要だと評価された、ただそれだけの言葉が烈しいうるおいになるほど、心が乾いていたからであろう。
彼女にかぎらず、このあとに現われる似たような状況の娘たちにもいえることだが、甘えられる場所、肉親に対するように内心が打ち明けられる場所、自由に伸び伸びできる場所、そんなところが一カ所ぐらいあってもいいような気がした。私は佐久間瑞子の涙を見たとたんに、ひょいと発意したのである。
佐久間瑞子は私のところに移籍したことを親もとへは内緒にしていたようだが(多分説明しにくかったのであろう)、鈴木さんから書面で報告がいったらしく、母親から、事情が呑みこめず案じている旨の手紙が来、彼女はそれを私に見せて笑った。
彼女は、放っておいてもいいのだといったが、私は、母親宛に手紙を書くことを約束させた。
「君は、どうして東京に居たいの」
「親もとに帰りたくないんです」
「どうして」
「結婚しろってうるさいんですよ。あっちの人といろいろ見合いさせようとするんです。ほんとは短大を出たらすぐに帰ることになっていたんだけど、あたしのわがままで、強引に東京に残っちゃったんです」
「結婚したくないのか」
「あっちの人は嫌い」
「だって、会いもしないで、わからないじゃないか」
「嫌なんです。土地も嫌い。なんだか性に合わないんです」
彼女の父親は、勤務先の関係で転々と居住地をかえた。彼女は小学校のときから転校しつづけて、父親が停年で退いたあたりでやっと瀬戸内海をのぞむ小さな町に家を建て、そこを定住の地にした。彼女はその町にほとんど馴染んでいない。私から見るといいところのように思えたが、若い娘にとって都会が魅力的ということ以上に、肉親と意思の疎通を欠く点があったのかもしれない。
私自身も、彼女の母親に対して手紙を書いた。それに対して母親から、いくらかとまどったような気配は見えたが、よろしく頼むという返信が来た。そうなって見ると私は正式に彼女の保護者になったような気がした。これは大変に厄介なことでもあるので、何故かというと、私のところに居る時間はよろしいが、一歩私のところを出てしまえば、何をしているか眼が届くわけはないのである。にもかかわらず、親たちは私に預けたようなつもりになりがちであって、私としては、眼の届かないところでまちがいがないようにひたすら祈るよりほかはない。
それでなおさら、佐久間瑞子が私には少女のように思えてくるのだった。
鈴木さんのところのもう一人の女子社員の伊原洋子もちょこちょこ遊びにくるようになった。昼間、社の仕事の合間にチラリ姿を見せたり、社が退《ひ》けてから寄ったりする。彼女は料理に凝っていて、佐久間瑞子が作る物より数段手をかけたなんだかよくわからないものをこしらえてくれた。
彼女もこっちへ移籍してきてしまいたいふしを洩らしていて、私はべつにかまわなかったのだけれど、
「うちの娘をみんな取ってかないでくれよ」
と鈴木さんに釘をさされていた。
伊原洋子は佐久間瑞子より四つか五つ年上だったろうか。オールドミスになっちゃいそうだ、といつも自分で冗談のようにこぼしていたが、私にとって少女に見えたことにかわりはない。
伊原洋子の母親は童話作家だったというが、素封家《そほうか》の一人娘で、婿養子に入った洋子の実父を捨て、十五も年下の青年と駈落ちした。そうして幾多の経緯の後、その青年に捨てられ、現在は洋子と二人で淋しく暮している。青年に捨てられたあとは酒や薬に溺れたことがあるらしく、その影響でか、時折り街で深酒をして警察の厄介になったり、心神耗弱のような状態で近隣に迷惑をかけたりするらしい。
洋子の妹は洋裁の勉強をするといって、若くして単身アメリカに渡り、向こうで結婚していた。多分、母親を負担に感じてそうなったのだろう。洋子は妹に先んじられた恰好で、母一人娘一人の生活に甘んじていた。
そんなふうな環境が影響して、感じやすい向こうッ気の強い娘だった。勤務先も折り合いがつかずに転々とおちつかず、母親の古い知人だった鈴木さんのところへ来て、彼があやすようにするものだからやっと居ついているという感じだった。
身体も手足も細く鋭くて、おっとりした顔立ちの佐久間瑞子と対照的に猫のような風貌をしていた。母親が酒を呑みに外へ行かないように、食事だけつくり、外から鍵をかけて会社に来る。しかし、時折り、母親は二階から電信柱を伝いおりて外へ出ていってしまう。
母親が鈴木さんの事務所までやってきて、ヒステリーをぶちまけていったとかで、伊原洋子は私のところへ来て、瑞子のそばで泣いた。
瑞子は奥の畳敷きの部屋にいる私のそばでしゃべっているときのほかは、リビングルームに居た。彼女たちの話はおおむね他愛がないが、そこに私が加わっても似たようなもので、要するに口を開いて風にそよがせている類の会話である。
どんな男性が魅力的か、という話になると、田村正和、と佐久間瑞子は必ずいった。彼女のあげる男性は、いずれも若くて、華奢《きやしや》で、ぺットにするような男ばかりだった。内心ですこしがっかりしている私の気配を察したように、キャッキャッと笑う。伊原洋子の好みの男性は、ゲーリー・クーパーとか、ジミー・スチュアートとか、やや父親を感じるタイプが多かった。いずれにしても男性観は幼いので、それはそれで特に悪いことでもない。
伊原洋子は、まだ処女だ、と自分でいった。
「瑞子は──?」
「あたしも──」といって瑞子は例の眼になって笑った。
「でも、あたしの年齢で──」と洋子がいう。
「処女なんて珍しいでしょ。いやになっちゃう」
「自分で大切がってるからだろう。ほんとにいやなら捨てればいい」
「居ないんですもの。値いする男なんて居ないわよ、ねえ」
「居ると思うけど」と瑞子がいった。「向こうで相手にしてくれないんです」
「田村正和か」
「ええ──」
伊原洋子は何につけ虚勢を張って自分を主役にしたがる娘だった。一人でやる芸事や、その他いろんなことに凝る性格らしく、どういうことにも知識だけは持っている。彼女が居ると瑞子は二割か三割しか口をはさめない。洋子は強引に自分が話の主題の口火を切っていたが、それは雑学をひけらかすとか、相手を無視しているとか、そんなものでなく、要するに強がりにすぎなかった。洋子の話はいつもあまり面白くはなかったけれど、私は辛抱して相手になっていた。彼女の虚勢をいったん全部放出させて、強がらずにすむようにしてやりたくて仕方がない。もっとも、私一人がそう思っても、彼女の全生活を解決しえないので徒労にすぎなかったが。
瑞子と洋子は美容体操を習っていた。瑞子は私のところで私と一緒に食べて、肥《ふと》ったといって真剣だった。そうして中年肥りになった私にもすすめてきた。私は瑞子のあとに従ってリビングルームの中を駈足でぐるぐる周回した。でんぐりかえしや逆立ちもやった。もちろんそうやって遊んでいたので、夜半にお酒を呑みに出かけ、ほとんど朝帰りだったから、痩せるわけはないのである。
年がかわって、週刊誌の連載がまたはじまったが、週のうち、まる一日働けばよかった。もう少しあとに仕事がやや増えて三四種類の週刊誌の読物を担当することになるが、それでも働く時間はたかが知れていた。
ちょうどその頃、知人の秋野卓美夫人から電話があって、学生アルバイトが居ると伝えてきた。秋野さんは画家だから、画学生がたくさん出入りする。
「週に何日かアルバイトしたいというのですけれど、もう人が居るんでしょ」
「かまいませんよ、希望者が居ればよこしてください」
「でもダブってるのなら無駄な出費ですから」
「いいんです。何人でも。今、少女趣味に凝っておりまして」
「ホホホ、変れば変るものですね」
私は、閑は充分にあったが、彼女たちが居ない夜半をのぞいて、どこへも遊びに出かけなくなっていた。遊園地のオーナーで、けっこう退屈せずに日がすぎていくのである。
秋野さんの紹介で来た田宮初美は、十八歳だったが、俗にいう男好きのする美女タイプで、一見してもう男に喰われ慣れているという感じだった。世間智という点では、或いは瑞子や洋子より、或いはあったのかもしれないけれど、年下なので瑞子にも洋子にも遠慮をして、あまり自分のペースを主張しない。
私はかまわず遊園地の中に放っておいたが、初美や洋子が煙草を吸うので、瑞子も一生懸命煙草の練習をはじめたということぐらいで、あまり交流の影響はないようだった。初美の方は、先輩たちをいくらか軽視してあまり親しくなろうとしない。