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新幹線殺人事件
森村誠一
目 次
ひかり66号の死者
北のサナトリウム
女の武器
万博戦争
こだま166号の容疑者
二つの発信
三点確保のアリバイ
|醜 聞 の《スキヤンダル・》 |捏 造《メイキング》
不信の情熱
三体の傀儡《かいらい》
真空の発信|源《ゾーン》
水平思考アリバイ
ジェット・ストリーム
無関心の鉄の檻《おり》
醜い栄光
ふた股《また》の参考人
連続の推測
移動の断絶
絢爛《けんらん》たる痴態
垂直の盲点
北帰行
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ひかり66号の死者
1
十月十四日火曜日午後七時五十分ごろ、ひかり66号は終着の東京駅へ近づきつつあった。西神田《にしかんだ》の中小商事会社へ勤める松田久男《まつだひさお》は、下車するための身支度《みじたく》を調《ととの》えると、軽い尿意をおぼえたので、駅へ着く前にトイレへ行っておこうと思った。
東京駅からすぐ自宅へ帰れるわけではない。いったん会社へ行って報告をしなければならないのだ。今日の大阪への出張も、朝早く東京を発《た》っての日帰りというモーレツさである。
まったく、人使いの荒い会社へはいったものだと思った。もっともこれは、東京−大阪を三時間で結ぶ新幹線にも責任の一端があるかもしれない。身体もえらいが、出張旅費を浮かすこともできなくなった。
それならせめて乗っている間に、トイレでも使ってやろうか。
松田は用足し後そのまま降りるつもりで、かばんを下げて通路へ出た。このごろは六月に開通した東名高速道路に食われるためか、あるいはこの時間帯特有の現象なのか、車内に客の姿はチラリホラリである。
トイレの前へ来ると、誰《だれ》でも同じことを考えるものか、いずれも「使用中」である。軽く舌打ちをした松田は、少し前方の車両《ハコ》がグリーン車(もとの一等)であることに気がついた。
「トイレぐらい一等[#「一等」に傍点]を使わせてもらってもいいだろう」
グリーン車へのこのこはいって行った松田は、こちらのハコが普通車よりもさらに客が少ないのに愕《おどろ》いた。
「これじゃあ若い女の子なんか恐《こわ》いだろうな」
松田はよけいな心配をした。
進行方向に向かって通路を進んで来た彼は、客の後頭部を見て進むような形になったが、目に映るのは、客の頭を乗せていないシートカバーの空《むな》しい白さである。
通路ドアをはいってすぐ右側の窓ぎわのシートに、よく寝入っている客がいた。シートの背もたれと窓ガラスが直角に交差する、ちょうど角《かど》になった凹《くぼ》みに頭をもたせかけてぐっすり寝入っている。
(もうすぐ終着だというのに、のんきな人だな)
松田は内心感心しながら通り過ぎようとした。そのとき彼の視線は、その客の足もとにたまっている赤黒い粘液のようなものを何気なくとらえた。
「眠っている間に、トマトケチャップでもこぼしたのかな?」
しかしそれにしても新幹線の車内にトマトケチャップなんか、なぜ持ちこんだのだろう?
行きずりの人間として行き過ぎようとした松田の足がふと硬直し、目に不安の影が走った。
「まさか!」
彼は心をよぎった恐ろしい連想を打ち消した。
「テレビの見過ぎだ」
だが松田の目は、自分の意志に関《かか》わりなく、客の足もとの液体に吸いつけられていった。もう行きずりの人間の無関心の目ではなかった。尿意は完全に去っていた。
車内灯の光を受けて、その液体は、見るからに生臭《なまぐさ》そうに光った。目を足もとから上へ上げる。蛍光灯《けいこうとう》のせいか、血の気を失った蒼白《そうはく》の横顔、窓に押しつけるようにして眠って[#「眠って」に傍点]いるので、はっきり人相は読みとれない。
「もしもし」
松田はおそるおそる声をかけた。
「もうすぐ東京駅ですよ」
答はなかった。松田はシートの間に身をさし入れて相手の肩をゆすろうとした。
松田が愕然《がくぜん》として硬直したのはそのときである。
「し、し、死んでる!」
舌がもつれた。松田は旅客の左の胸のあたりが、足もとにたまった同じ液体でぐっしょりと濡《ぬ》れ、なおもじくじくとあふれ出ているのを見た。黒っぽい背広に、黒いワイシャツだったために通路からはっきりと見分けられなかったのである。
列車は新橋《しんばし》付近の高架を走っていた。両側の車窓を多色なネオンがきらびやかに流れている。
「どうかしましたか?」
下車|支度《じたく》をして通路を歩いて来た他の乗客が、ただごとでない松田の顔を見て訊《き》いた。
「た、たいへんだ! 殺されてる、しゃ、車掌はどこですか!?」
今度は、尋ねたほうの乗客が驚く番だった。
2
ひかり66号は死体を乗せたまま東京運転所へ入れられた。殺人事件とあって、警視庁からの特別の要請があったからである。
�事件番�にあたった捜査一課の大川《おおかわ》部長刑事は、おなじ班の同僚七名とともに、新幹線基地のある品川《しながわ》へ向かった。入線と出構でびっしりと埋められた東京駅に、たとえ殺人の発生した車両といえど定められた時間以上|停《と》めておくことはできない。
線路容量の限度に達しているダイヤに数分の狂いが生じても、あとにつづく特急や支線の連絡に、大きな波紋を広げてゆく。たかが一人[#「たかが一人」に傍点]の人間の死のために、無数の人間の足を乱すことはできないのだ。
かといって、東京駅へ死体をおろしてしまえば、犯罪捜査の原点であり、資料の宝庫でもある現場が失われる。
問題車の品川基地への入庫は、警察と国鉄のぎりぎりの歩み寄りだった。警察が歯ぎしりしてくやしがったことは、死体発見が東京駅到着とほとんど同時であったために、問題の車、七号のグリーン車に乗り合わせた乗客が、全部降りてしまったことである。駅員からの通報によると、発見者の松田は、後方の普通車から通りかかっただけにすぎない。
「面倒な事件《やま》になりそうだな」
大川は現場へ向かうパトカーの中で、自分とコンビを組んでいる若い下田《しもだ》刑事へ言った。
「新幹線となると、乗客が無関心ですからね」
「その無関心な乗客すら散ってしまった。こりゃ下手《へた》をすると目撃者がつかまらんぞ」
「公開捜査ということになりますか」
「まあな」
大川は大して期待もしていないような口ぶりで言った。
大都会の生活者は自分の生きることや、楽しみを追うのに忙しく、誰《だれ》が生きようと死のうと無関心である。東京−大阪を三時間で移動させる新幹線は、日本を代表する二つの大都会の�動脈�であり、「袖《そで》すり合うも他生《たしよう》の縁」式の旅情など、かけらも見当たらない。
向かい合わせだった仕切座席《コンパートメント》は、すべて同一方向を向き、旅客はプライバシーを得た代わりに、乗り合わせた乗客の後頭部や、硬く冷たい横顔を見るだけになってしまった。
現代の旅の最大のエチケットは、隣りの乗客にみだりに話しかけないことだそうである。だから、同じハコで人が殺されているのに、たまたま通行した者が発見するまで気がつかないという、途方もない事件が起きるのだ。
大川は心の中がしだいにうそ寒くなってきた。パトカーは間もなく�現場�へ着いた。運転所の建物から、副所長に案内されて、問題のひかり66号をおさめた検修庫へ向かうと、整備中の新幹線の車体が、基地内の留置線に幾重《いくえ》にもたたなわって見える。
整備が終わってターミナルへ向かって動きだして行く列車もあれば、いま規定の距離を走り終えて帰って来たばかりのものもある。前者は溌剌《はつらつ》として、後者は何となく疲れて、うす汚れているように見える。
「なかなか壮観でしょう。東京−大阪間を二往復半走り終えた車は、東京駅からいったんこの基地へ整備のために帰って来るんですよ」副所長が説明した。
ひかり66号は運転所の検修庫にひっそりと停《と》まっていた。二両|一《ワン》単位《セット》で機器類を分配された新幹線車両は、七号車だけ切り放すことがむずかしいので、運転編成のまま停留されていた。死体を乗せているうえに時速二百キロの高速を失ってみると、国鉄自慢の新幹線のスマートさがだいぶ損《そこな》われてみえる。
死体は発見されたときから、誰《だれ》も手を触れた者はいないはずである。ハコの傍《そば》では現場保存の制服警官と鉄道公安官が挙手の礼をして迎えた。
すでに現場には、所轄である高輪《たかなわ》署の刑事らが先着していた。
「ご苦労さまです。こちらが発見者の松田さん、こちらが66号に乗務した専務車掌の渡辺《わたなべ》さんです」
すでに大川とは顔見知りの仲である高輪署の木山《きやま》刑事が、三十前後のサラリーマン風の男と車掌を紹介した。これでこの男は今夜の帰宅は、確実に�ごぜんさま�になるだろう。しかしこれは殺人事件なのである。しかも松田だけが、無関心な乗客の中からただ一人ひっかかった�かも�であってみれば、そうは簡単に�釈放�するわけにはいかない。松田は自分の要領の悪さを内心嘆いているようである。彼と一緒に死体を見つけた乗客は、かかりあいになるのをおそれていち早く姿を消してしまった。
現場鑑識班が現場の外周から中心部へ向かって綿密な観察をはじめた。大川刑事は死体を一見して、まだ犯行後あまり時間が経《た》っていないことを知った。被害者の年齢は三十半ば、筋肉質のなかなかの男前である。
現場観察と並行して、松田と車掌に対する事情聴取が行なわれる。
「あなたが死体を発見した時間は、正確に何時でしたか?」
「東京駅へ着く直前でしたから、十九時五十二、三分だと思います」
松田は答えた。
「ひかり66号は、十六時四十五分に新大阪を発車し、十九時五十五分に東京へ着きます。今日は定時どおりに運転されました」
かたわらから渡辺車掌が説明を補足した。
大川はうなずいて、
「発見したときに、車内に何人ぐらい乗客がおりましたか?」
二人のどちらにともなく訊《き》いた。
「たしか四、五人だったと思います」
「最終検札を名古屋を過ぎて行ないましたが、やはりそのくらいでした」
松田と渡辺が順次答えた。
「松田さん、あなたが発見したとき、もちろん隣席には誰《だれ》もいなかったでしょうな?」
隣りに乗客がいれば、その人間が発見したはずである。だが大川はあえてその質問をした。
「はい、もちろんおりませんでした。隣りどころか、この人の周囲には誰も腰かけていませんでした」
松田は、グリーン車へはいったとき、シートカバーの白さがいやに目立っていたことを思い出した。
「渡辺さん、そちらの記録では、被害者の隣席はどうなっておりますか?」
大川はもし隣席がキープされていれば、その主《ぬし》こそ犯人として最も疑わしい位置にいる者だと思ったのである。
「隣席、つまり七号車1Bは、売られておりますが、大阪からずっと空《あ》いていました。検札のときにも腰かけていた者はありません」
「何ですって!?」
「それだけでなく通路をはさんで、同じ並びのCD席も、切符だけ売られておりながら、ノーショウでした。つまり、お客さまが乗らなかったのです」
渡辺は意外な事実を告げた。
十二両編成のひかりは、大阪|方《がた》から、一号車、二号車と数える。車内の座席番号も大阪方からで、横に海側(大阪へ向かって進行方向左)からABとなる。グリーン車は四人がけであるから、通路をはさんで反対側がCDとなる。
車掌の申立てによると、被害者のいた席の並びの席は、すべて切符が発売されておりながら「不乗《ノーシヨウ》」になったというのである。ここに犯人の計画の匂《にお》いが感じられた。
なるほど凶行のあったひかり66号はすいていたが、当日、確実に空いているという保証はない。発見を遅らせるために、被害者を窓ぎわのA席へすわらせれば、最小限その隣りのB席は空いていなければならない。
さらに通路をはさんだ並びのCD席を買い占めておけば、�仕事�はぐんとやりやすくなる。一番後部の席を選んだのも、そのためであろう。
「ノーショウになった席はどうするのですか?」
大川は緊迫した口調《くちよう》で訊《き》いた。
「全席指定席ですから、ノーショウになっても空《あ》けておきます。それにすいておりましたから、取消し待ちの客へ譲るということもありません」
松田は六号車の方からはいって来た。したがって1Aのシートにいた被害者を七号車へはいってすぐ右側へ見る形となった。
「この時間のひかり号は、そんなにすいているもんなんですかなあ」
とにかく刑事には、同じハコで殺人がおきているのに通行人が発見するまで、乗り合わせた客が気がつかなかったというのが、どうにも納得《なつとく》できない。
「日によって多少のちがいはありますが、概してこの時間帯の上りはすいております。特にグリーン車はがら空《あ》きですね。どうも�東名《とうめい》�に食われたらしいのです。ここらで本気に対策を考えないと」
渡辺は職業意識を出した。だが大川には国鉄の営業上の問題はまったく興味がなかった。
もし犯人が、ひかり66号の座席|占拠《せんきよ》率をあらかじめ知っていたとなると、かなりの計画性が感じられてくる。
「ところで松田さんは、このハコをちょうど通りかかって死者を発見したということですが、出口は普通車にもあるのに、何故《なぜ》、わざわざ、こちらへやって来たのですか?」
「トイレへはいりたかったんですよ。あいにく普通車のほうがふさがっていたものですから。し、しかし、僕は別に」
松田は刑事に疑われたと思ったらしく、途中で口をとがらせた。同時に彼は猛烈な尿意を覚えた。発見時以来すっかり忘れていたものを、刑事が思い出させてくれたのである。
「いやいやご心配なく。ただ参考までにうかがっただけですから」
大川は少し慌《あわ》てて言った。すべてを疑うのが刑事の務めだが、不用意な言葉を使って善良な市民の、しかも今のところ唯《ただ》一人の貴重な協力者を失ってはならなかった。
現場観察は順調に進行していた。
被害者は鋭利な刃物で心臓を一突きにされていた。おそらく声もたてずに死んだものと思われた。他に創傷はない。凶器は発見されなかった。犯行後、犯人が持ち去ったものらしい。
このような公共的な乗物の常として、現場および周辺から、特に犯人のものと推定されるような資料や遺留品は、何も発見されなかった。
携帯品から、死者の身元は山口友彦《やまぐちともひこ》(34)、大阪市|西《にし》区|阿波座中通《あわざなかどおり》一の四二、新星《しんせい》プロダクション事務局長ということがわかった。
「芸能プロの事務局長か」
大川は死体の名刺を見ながら目を光らした。
新星プロは、売れっ子タレントを多数かかえた関西随一の芸能プロダクションとして、大川もその名前を週刊誌などでみかけたことがある。
スターという虚名の座をめぐって醜悪な争いとスキャンダルの渦巻《うずま》く、芸能界の人間が殺されたとなると、
「まず痴情|怨恨《えんこん》ですかね」
下田刑事が大川の思惑《おもわく》を見ぬいたように言った。
「あまり先入観はもたんほうがいいな」
だが大川は慎重なものいいをした。山口の自宅の住所がわからなかったので、ともあれ大阪の新星プロに緊急連絡がとられて、家族に遺体の確認に来てもらうように依頼した。
電話に出た者の答によると、山口は独身で家族はなく、社長の緑川明美《みどりかわあけみ》が日航の夜行便で駆けつけるということになった。
「緑川明美がじきじきに来るのかい。するとこの被害者《ほとけ》は、相当の大物なんだな」
所轄署から来た佐野《さの》刑事がいった。
「緑川明美ってのは、そんなに大した女なのか?」
名前だけは聞いていたが、芸能界のことにはあまり興味がない大川は訊《き》いた。
「東京の�キクプロ�に対抗する、関西では一番勢力をもっている�新星プロ�の社長でしてね、タレント学校の経営はやる、音楽出版はやる、なかなかのヤリ手ですよ。何でも今度の万博じゃあプロデューサーになるとか、ならないとかいわれてますね」
若い佐野はさすがにそのような事情に通じていた。捜査一係の若手刑事として凶悪犯を追いかけていても、非番になればグループサウンズやポピュラー音楽にしびれる若者の一人だった。
夜もだいぶ遅くなっていたので、松田と渡辺車掌には一応引き取ってもらうことにして、死体は緑川明美に確認させてから解剖することになった。
一同は張番《はりばん》の警官だけを残してひとまず運転所の事務室へ引き揚げた。副所長がいれてくれたお茶が十月の夜気に冷えた身体に沁《し》みるように美味《うま》い。茶の好きな大川は、いい茶を使っていると思った。
事務室には、勤務を終わり、いったん帰宅した所長も出て来ていた。そのほか国鉄の幹部らしい男が何人かいた。
国鉄でもドル箱の新幹線の車内で人が殺されたものだから、事件をかなり重視しているらしい。
「国鉄本社の村野《むらの》です。今夜はどうもご苦労さまです。それで事件の見通しはいかがですか?」
その中で一番|恰幅《かつぷく》のよい男が、係長の石原《いしわら》警部に名刺を渡しながら訊《たず》ねた。
「見通しといわれても、まだ何ともお答えできる段階ではありません」
「他殺ということは確定したのですか?」
「解剖した上でないと確定とはいえませんが、死体の情況から見て、まず他殺であると考えております」
石原警部の口調《くちよう》は慎重だった。凶器が発見されないことや、創傷の外形などから、解剖結果を待たずとも他殺であることはわかっていたが、外部に対する判断となると、外景検査だけの検屍《けんし》によって断定的な言葉は下せない。
「他殺となると、そのう……車内で殺されたということは確かなんでしょうか?」
「とおっしゃいますと?」
「つまりですね、車外のどこかで殺されたあとで、車内へ運びこまれたということは考えられませんか?」
村野の腹は、読めた。ひかり号の車内が、人が殺されるような物騒《ぶつそう》な場所であると一般に印象されては困るのだ。それでなくとも、飛行機や自動車に蚕食《さんしよく》されて、客足が伸びなやんでいるこのごろなのである。
しかしいくら国鉄が困っても、被害者を襲った死が瞬間的なものであり、流下した血液の状態などから、車内が犯行現場であることは明らかであった。第一、すでに死んでいる人間を車内にかつぎこむことのほうが、はるかに人目を惹《ひ》く。たとえグリーン車がすいていたとしても、殺害した場所から駅の構内まで大勢の目から隠し通せるものではなかった。
石原警部にてもなく打ち消されて、国鉄側はしゅんとなった。
「外景の観察だけですが、被害者が殺されてからまだあまり時間は経過していませんね。おそらく松田さんに発見される直前に犯行を行なったのでしょう」
「すると横浜《よこはま》あたりですか」
「とははっきり断定できませんが、ひかり号は名古屋から東京まで停《と》まりません。渡辺車掌が名古屋を過ぎて検札をしたときは、被害者は生きていたのですから、犯行がその後であることは確かです。あまり早く犯行を行なって東京駅のはるか手前で死体を発見されると、犯人に現場から脱出するチャンスがなくなってしまいます。とにかく東京駅までは犯人は車内にカンヅメにされているのですから。
だから犯行は東京駅にできるだけ接近した場所で行なわなければならなかった。発見と同時に東京駅へ到着するくらいに近い場所でです。解剖結果が出ないと断定できませんが、死体の筋肉硬直や、流下した血液の凝固《ぎようこ》状態から判断しても、犯人はまさにその通りに行動したことが推定されます」
石原警部は慎重に言葉を選んでいたが、口調《くちよう》は自信のほどを示していた。
緑川明美が到着したのは午後十一時を回ったころであった。日本の芸能界をキクプロの美村紀久子《よしむらきくこ》と二分するといわれる女だけあって、花やかな中に一種の貫禄《かんろく》があった。
明美は、死体が山口友彦のものであることを認めた。
明美は、さして表情も動かさずに友彦の死体をみつめていたが、ややあって、
「とうとうこんな姿になって、だからあの女には近づかないようにと言ったのに」
ポツンともらしたのを大川刑事が耳のはしに聞きとめた。周囲の捜査官の誰《だれ》もが聞きのがしたような低い囁《ささや》き声であった。
「あの女とは誰のことですか?」
大川が訊《き》き直したとき、明美の示した反応は、彼女が低い囁き声ではありながら、手近にいた大川に確実に聞こえるように作為して言ったものであることを示していた。
明美は、その女が誰であるかを捜査官に話したがっている。
「私が言ったことは伏せていただけますか?」
明美はそれでも思わせぶりにためらった。
「それは内容にもよりますが、こちらとしては協力者や参考人の不利益になるようなことはしないつもりでおります」
「キクプロの美村紀久子さんですわ。山口は最近、美村さんにだいぶ接近しておりましたから」
「そのことがこの事件とどういう関係があるのです?」
「キクプロと私たちは、万国博プロデューサーの椅子《いす》をめぐって激しく対立しておりました。幸いに万博準備委員会が私たちの企画に興味をもち、新星プロの旗色がよかったのですが、美村紀久子は山口を籠絡《ろうらく》して裏切らせたのです」
緑川明美は容易ならぬことを言い出した。
緑川明美ともあろう者が、捜査官の面前で対立プロとの暗闘の内幕を明るみに出すとなると、相当の覚悟をしているはずである。
「詳しくうかがいましょうか」
大川は姿勢を改めた。
翌日午後解剖の結果が出た。それによると、死因は心臓部の損傷、鋭利な刃物で一突きにされたものらしく、「心嚢《しんのう》タンポナーデ」をおこしている。そのために、出血は比較的軽微である。死亡時間は十月十四日の十九時から二十時にかけてと推定された。
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北のサナトリウム
1
美村紀久子は、いつも夢をもっていた。そしてその夢を必ず実現させてきた。学生時代はクラスで一番になる夢、社会へ飛び出してからは、「ミス・××」になる夢、そしていつの日か男たちを支配する夢——。
まず小さな夢をもち、それの実現に向かって心身のエネルギーのすべてを傾ける。その夢が叶《かな》えられると、また新たな夢が紀久子の前に現われ、それを実現するための約束を迫る。
だが、夢が満たされたとき得られたものは充実感ではなく、何かを達成したあとの虚《むな》しさだけだった。そしてその虚しさをとりあえず埋めるためにまた新たな夢を設定する。いわば紀久子は夢に生きることより、それの追求の過程に生きがいを感じていたのである。
紀久子が欲しいものは女の幸福ではなかった。幸福などなくとも、自分は充分に生きていける自信、いや確信があった。しかし「生きがい」がなかったら、自分はどんな短い時間でも耐えられないだろうと思った。
夢。——それは紀久子にとって挑戦であった。自分の前途に展《ひら》いた蒼穹《そうきゆう》に設定した目標に向かって挑戦をつづける生き方こそ、まさに生きるに値《あたい》するものだと信じていた。
それは弛緩《しかん》というもののおよそ考えられぬ張りつめた生き方であり、目標と衝突した情熱が無数の火花を散らしている世界であった。
美村紀久子は表情の美しい、聡明《そうめい》な女だった。美しいといっても、ブラウン管や、スクリーンに登場する、ちょっとマスクがいいだけの薄っぺらの美しさではない。
内面の聡明さがきらめきあふれ出たような理知に磨《みが》かれた美しさである。それでいて、�女臭�ともいえる色香《いろか》が身辺に漂《ただよ》い、理知的な女特有の冷たくぎすぎすしたものがない。
切れ長の目の枠《わく》の中には、屈折のよい大きな黒目がぬれぬれと輝いている。それは女の神秘というか、魔性《ましよう》のようなものを深く沈めたように翳《かげ》り、光を含んで男を見上げるとき、何か途方もないいたずらを企《たくら》んでいるように妖《あや》しげに光る。
豊かな頬《ほお》、よく通った鼻すじの下の唇《くちびる》は、中高でひきしまっている。唇を閉じると、その両端がやや上にあがる、いわゆる「キューピッドの弓の唇」である。左の下唇の脇《わき》に靨《えくぼ》がある。
細くしなやかな髪は、ふだんは後頭部で無造作にまとめているが、それが彼女の柔らかい顔の輪郭《りんかく》をキリッとひきしめている。
夜寝るときに後ろのへアバンドをはずすと、自然にカールされた髪が肩の半《なか》ばまで垂れて、昼の顔とは異なった妖《あや》しさを造形するが、当時はその成熟に達しない裸身のプロポーションと共に、その�夜の素顔�を見た男はいなかった。
紀久子は最初、自分の天性の魅力に気がつかなかった。それを意識したのは、小学校の高学年から中学にかけてである。
同級の男生徒たちは、最初から紀久子をおよそ手の届かない存在として、秘《ひそ》かに憬《あこが》れながらも敬遠しているようであった。彼らは、いや同性の女生徒たちですら、紀久子を雲の上の存在として眺《なが》めていたようである。
だから彼女は学生時代を通じて、本当の意味の友だちは、異性にはもちろん、同性にもできなかった。その意味で彼女はいつも孤独であった。だが孤独だと思ったことはない。
友だちと他愛ないおしゃべりをするのよりも、また育ち盛りの肢体《したい》を思いきり弾《はず》ませてスポーツを楽しむのよりも、自分一人の空間に閉じこもって小説を読んだり、美しい音楽に聴《き》き入っているほうが好きだった。
それはクラスメートの目に、かなりお高く映ったことにちがいない。だが紀久子は自分がお高いということすら意識しなかった。
とにかく彼女は意識するしないにかかわらず雲の上にいた。雲の上の存在に、雲の下の事情はわからない。
紀久子に最初、それを意識させたのは、クラスメートではなく、先生たちであった。男性の、特に、若い教師は、紀久子を特別な目で見た。
その目には師としての尊厳や風格はなく、男が美しい女に向ける独特の、そして、共通の光があった。紀久子は、女の本能から、その光が何を意味するものか敏感に悟った。はっきりと口に表わしては言えないが、一種の�危険標識�としての光であることがわかった。
彼らの中には、教師としての地位を利用、というよりは悪用して、必要以上に紀久子に接近してくる者がいた。
社会の先生は個人的な人生相談に乗ってやるといい、体育の先生は、フォームの矯正《きようせい》の口実で、体に手を触れたり、頬《ほお》を突っついたりした。文学青年の国語の先生は、彼女をヒロインにして小説を書くのだと言って、ラブレターまがいの文章を組み立てて紀久子に見せた。
紀久子は、しだいにそのような男性教師にアイドル視されている生活が息苦しくなってきた。ちょうどそのころ大学への進学期にさしかかった。
青春前期の、少女から女へ脱皮する心身の変調に、そのような心と受験勉強の負担が重なって、紀久子は胸を冒《おか》された。幸い発見が早く、一年ほどの入院加療ですんだ。
紀久子が入院した所は総合病院で、結核病棟だけが別棟になっていた。一般病棟へ立ち入ることはもちろん禁じられ、ちょっと散歩するにも必ずマスクを着けなければならなかった。
マスクを着ければ、結核患者であることを自ら広告するようなものであり、一般患者がまるで病菌でも見るような目をして紀久子を眺《なが》める。それに自らのメリットを被《おお》い隠すのは、自分から青春を否定するような気がした。だから紀久子はマスクを着けなかった。効果は覿面《てきめん》だった。あれほど自分を忌《い》み避けていた男の一般患者が、彼女の周囲に群がった。紀久子は�女王�の地位を取り戻したのだ。
紀久子はその中の一人の男と初恋をした。帰省中に交通事故をおこして入院していた岡倉《おかくら》という東京の大学生だった。紀久子は彼と病院の裏手の砂丘で初めての接吻《せつぷん》をした。
男の腕に荒々しく抱かれ、かたく食い縛《しば》った歯と歯を割って、男の舌がねじこまれてきたとき、紀久子の心臓は潰《つぶ》れるのではないかと危ぶまれたほど激しい鼓動《こどう》を打った。幸いに昼間だったので、男はそれ以上の行動に出なかった。もともと安静時間の間隙《かんげき》を抜け出しての短いデートだった。
男と病棟に戻って来たとき、入口で偶然行き会った同病の仲間が、
「あら、�三度�の体で出歩いて! 先生に見つかると大目玉よ」
と何気なく声をかけた。
今まで紀久子を地上の誰《だれ》よりも愛しているような顔をしていた(事実そのようなせりふも吐《は》いた)岡倉の顔色がサッと変わった。
彼は、紀久子と組んでいた腕をふりほどくと、洗面所へ走り、彼女の見ている前でうがいをしたのである。
この事件は、初めての恋のムードにほのぼのと酔っていた十八歳の乙女《おとめ》心を、みじんに打ち砕くほどの衝撃をあたえた。
「彼が愛したものは、私のうわべだけだったんだわ」
紀久子はその夜ベッドでひそかにくやし涙を流した。
その夜をさかいに紀久子は変身した。
男どもが自分の外形を愛するのは、外形にそれだけの魅力があるからだろう。それならばそれを思いきり高く売りつけてやろう。
そのとき初めて紀久子は、自分に生まれながらに備わった、男を惹《ひ》く「何か」があることを意識したといえる。それは彼女の外形であるかもしれないし、�女臭�であったかもしれなかった。ともあれ、自分にそれがあるかぎり、それを利用しないという手はないと思ったのである。
紀久子の育った土地は、北の奥の海に面した小さな地方都市である。生まれは東京であるが、彼女が幼いころ、この町へ転勤になった父につき従って来たのだ。
地元の人間は、紀久子一家のようによその土地からはいって来た者を「旅の者」と呼ぶ。しかし紀久子にしてみれば、もの心ついたころから育ったこの土地が故郷だった。
冬は家と道路の区別がつかなくなるほどに雪が降った。満目《まんもく》もうもうたる白い粒子で埋めて、密度の濃いみっしりした雪が、天の上方から際限もなく降ってきた。海岸に立つと、海の向こうの永久凍土の寒気がまっこうから吹きつけてくるようだった。
束《つか》の間の春は多色な花で彩《いろど》られるが、夏は霧、秋は風、そして冬の雪と、風土は暗鬱《あんうつ》だった。その暗さが、紀久子の心の深層に、明るい外界への憧憬《どうけい》をひそかに堆積《たいせき》させていた。
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病院も暗い北国の海に面していた。結核患者の闘病は、安静と栄養だけである。栄養価は充分なのだろうが、少しも美味《うま》くない食事と、ベッドから、暗い空と水平線と、その空を映してもっと暗い北の海ばかり眺《なが》めている生活の中で、紀久子は病気がなおったら、自分の身に備わった男を狂わせる魅力を最高に利用して、あの水平線の彼方《かなた》へ必ず行ってみようと誓った。心の深層の堆積が、「破れた恋」を契機にして、ようやく表面に浮かんできたのである。
あまりにも暗い北国の海と空の境界、それまでは自分の育った風土を、さして陰鬱《いんうつ》に感じたことはなかったが、病室から明けても暮れても眺める単調な構図は、明るく花やかな屈折に飢える青春に、未知の外界への跳躍をいちじるしく促《うなが》したようである。
入院した時期が、秋から翌年の春先にかけての、海が最も暗い季節であった。
そんなころ彼女は海岸で流木のような小さな骨片を拾ったことがある。波に洗われて、貝殻のように白く光っていた。彼女はそれを北の海の中で生命を喪《うしな》った何かの生き物の骨だろうと思った。
この骨の持ち主には、生きているときにどんな生涯《しようがい》があったのか? 多感な盛りの紀久子は、骨片に、詩人が「椰子《やし》の実」に寄せたような感傷を覚えた。しかしそれは北の海岸に拾った骨片であっただけに、もっと暗く荒れた感傷であった。
療養生活はつづいた。
凶暴さと暗鬱《あんうつ》さを溶《と》け合わせたような海の上に重苦しい空がある。短い秋の花が砂丘のかげに枯れると、病室の窓ガラスが寒気に乳色にくもるようになる。それに息を吐《は》きかけて拭《ぬぐ》うと、どうかしたはずみに水平線に驚くほど明るい光がたむろしていることがあった。
うねりに砕ける白い波頭が、低くたれ下がっている雲との区別を辛《かろ》うじてつけているなかで、その光は鮮明だった。
「私はあの輝きの中へ必ず歩み入ってみせるわ」
紀久子はそのとき、堅く自分の心に誓った。それが彼女の最初に設定した夢であり、挑戦すべき目標であった。
そのためには、自分の天性のメリットを最高に利用しなければならない。自分の中には男たちを狂わせる何かがある。その実体が何かまだはっきりとはつかめない。が、とにかく、使い方によっては、自分の将来を積極的に生きるための強力な武器になりそうな予感があった。
その武器によって、一度かぎりしか生きられない命を、それ以外はないような生き方で生きてみるのだ。
少女と女の端境《はざかい》期にあって紀久子は、毎日暗い海を見ながら、光にみちた外界へ脱出する日に挑戦していたといえる。