「このたびは赤羽さんの事件でさぞ大変だったでしょうな」
「それはもう」
と明美が言いかけるのを押しかぶせて、
「実はそのことで今日もお邪魔したのです。新手がとっかえひっかえ押しかけてすみませんが、われわれも何とか犯人をあげたいと必死に捜査をつづけておりますので、一つご協力ください」
「それはもう、私にしても、可愛《かわい》がっていたタレントを殺されたのですから、一日も早く犯人を捕えていただきたいと思っております。私にできることなら何なりと進んでご協力させていただきますわ」
「そうおっしゃっていただくと助かります。それではさっそくおうかがいします。いま、赤羽さんを可愛がっておられたとのことですが、どの程度に可愛がられたのですか?」
石井刑事は緑川明美の面《おもて》に視線を集めた。
「それは……、なかなかいい筋を持っておりましたから、今年のうちの新人として大々的に売りこむつもりでおりました」
「それは星プロのタレントとしてでしょう。私がうかがいたいのは緑川さん個人としてどの程度可愛がられていたかということなのです」
「私個人として?」
明美の表情に一瞬|陽炎《かげろう》のようなゆらめきが通り過ぎたように思えた。明美はだいぶ冷えてしまったコーヒーを取り上げた。刑事はそれをコーヒーを飲むためではなく、カップで表情の変化を隠すためではないかと思った。
ルミはどこへ潜《ひそ》んでいるのかこそとの音もたてない。しかしこの区分のどこかに身を隠して、こちらの様子を息をこらしてうかがっている気配《けはい》が感じとれた。
突然おちた静寂の中に、明美のコーヒーを啜《すす》る音が異様に高くひびいた。カップを持つ手が震《ふる》えていないのはさすがである。
「あの、それ、どういうことでしょうか?」
明美はやや大きな音をたててカップを卓子《テーブル》の上に置いた。目がまっすぐに石井のそれに重なっている。開き直った感じだった。
「ご説明するまでもなくおわかりいただけると思ったのですが」
石井刑事の目は酷薄な光を帯びた。ややニヒルがかった、刑事には惜しいようなノーブルなマスクは、無実の異性には胸のときめきを与え、何か後ろ暗いところがある女には、容赦ない追及者の仮面のように映るらしい。
瞬間、緑川明美が怯《おび》えたような表情をしたのは、後者の場合であったからか。
「それでは私のほうから申し上げましょう。高輪のホテル、ご存じでしょうな……。われわれはあすこでちょっとした情報を得たのですよ」
力の及ばない者が強敵と鍔《つば》をせり合わせるように、必死に支えていた明美の視線がそれた。
「どうでしょう、赤羽さんとのご関係をはっきりおっしゃっていただけませんか。ただし誤解しないでいただきたいのですが、これは殺人事件の捜査なのです。被害者の生前の周辺を明らかにするのがわれわれの役目で、個人のプライバシーを穿鑿《せんさく》するつもりは毛頭ありません」
明美の肩が小きざみに震えてきた。
「いかがですか? 被害者と生前特別な関係であったということになると、これは捜査上非常に重大な問題です。変に隠し立てなさるとかえって不為《ふため》だと思うのですが」
石井刑事はとどめを刺《さ》すように言った。相手が女で、特にいまのように海千山千の場合は、このようにじわじわとしめつけていくほうが効果的なことを知っている。
「確かに赤羽さんとは体の関係がありましたわ」
明美は伏せた面《おもて》を上げた。
石井らの自信たっぷりな態度に、警察側が自分らの関係についてもはやどう言い逃れようもない資料を蒐《あつ》めてしまったと判断したらしい。いったん認めるともう悪びれなかった。
「最初はほんの浮気のつもりでした。私だって女盛りですもの、ときには男の人に頼りたくなることがありますわ」
明美はさっきまでの追いつめられた者の弱々しさから立ち直り、妖艶《ようえん》な含み笑いを浮かべて石井刑事に流し目を送った。こういう目をされても、平然とはね返せるのが石井刑事の特技である。かたわらにひかえてメモを取る四つ本刑事の渋い顔が、いっそうに渋くなった。
「でもね、社長と社員のタレントとの関係でしょ、週刊認なんかに嗅《か》ぎつけられたら大変よ。だから目立たないFホテルで忍び逢《あ》っていたんです。大した男じゃなかったけど、私、赤羽を愛してましたわ。私だって男を愛してはいけないってことないでしょ。最初はほんの気紛《きまぐ》れの遊びのつもりでしたけど、だんだん好きになってきましたの。だから本気で売りこもうとしていたんです。それが殺されてしまって、本当は私が一番くやしいのよ、私が一番悲しんでるのよ。立場上、その悲しみをあからさまに現わせないだけに辛《つら》いわ。ですから、刑事さん、一日も早く犯人を捕えて!」
話の途中から、明美は涙ぐんだ。演技としたら大した名優である。答のほうもなかなか見事である。捜査本部が下した推測のように、彼女が犯人であるためには欠落する一つのステップを正確に読み取り、それを�愛�にすり替えてしまった。愛は、恋敵《ライバル》の出現によって立派に殺人《ころし》の動機となり得るが、そのライバルが浮かび上がらないかぎり、容疑者を鎧《よろ》う楯《たて》となる。愛する者の幸福のために、最も容易に自分を犠牲にする心の傾きが、相手を害するはずがないからだ。赤羽にふられて、可愛《かわい》さあまって憎さが百倍という純情な心理は、明美の地位と商売から無理であるし、赤羽がこの大スポンサーをふるはずがない。
明美がそれをちゃんと計算して、爛《ただ》れた男女の愛欲の中に、臆面《おくめん》もなく�愛�を振りかざした。しかし刑事はそれをそうでないと打ち消すことができない。そんなことをしたら、それこそプライバシーの侵害であり、他人の心の奥座敷を土足で蹂躙《じゆうりん》するようなものであろう。
彼らの「愛」を否定するためには、本部が推測した脅迫の「材料《ネタ》」を掴《つか》まなければならない。そしてまだ彼らはそれを掴んでいなかった。またそれは明美自身の口からは絶対に掴み取れない性質のものであった。刑事もそのことをよく承知していた。本人から二人の関係を確認すれば、最初の質問の目的は達したのである。
「わかりました。それでは被害者に近かったお一人としておうかがいしますが、十九日当夜の行動をお話しいただけませんか。これは、すでにわれわれの仲間がお聞きしていることなのですが、さらに詳しくうかがいたいのです」
石井刑事はいよいよ訪問目的の核心の問題にはいった。
「アリバイっていうわけですわね」
明美はふっと薄く笑って足を組んだ。肉づきのよい内股《うちまた》の奥の白さが、真正面にすわった石井刑事の目にちらりと、日の光の反射のようによぎった。石井はそれを女の自信のように思った。
「あの日のことは、何度も訊《き》かれたので、よく覚えていますわ。夕方ごろから話せばいいかしら」
石井がうなずくと、
「九時ちょっと前、仕事の話で星村俊弥というタレントと新宿の喫茶店『サンベリナ』で落ち合い、それから、翌日の朝まで彼とずっと一緒でしたわ」
「朝まで?」
「誤解しないでくださいね。一緒にいても、妙な関係はございません。私たちのような仕事は、男の人と一緒に夜を過ごしたからといって別にどうということはないんです。大体夜の仕事ですから、夜のほうが人と会うことは多いわ。男女が夜会うと変に勘ぐるのは、一般の人の見方で、そういうことをするつもりなら、夜も昼も関係ありません」
「それで?」
「九時すぎまで『サンベリナ』で喋《しやべ》ったあと、その近くのクラブバー『ボナンザ』へ行って軽く飲んで、それから、西口の外人バー『コサック』へ十時前後、そこには二十分くらいいて、最後にコマ劇場裏にあるキャバレー『レッドローズ』へ行ったわ。でも、十一時半ごろには『レッドローズ』を出て、十二時前には、ここへ帰って来ましたわ」
「その時間は確かですか?」
二人の刑事の目の光は強まった。赤羽の死亡推定時間は、午後十一時半から午前零時半にかけてである。新宿を十一時半に出て、零時前に高円寺へ帰り着いていたとすれば、その間に紀尾井町へ回って赤羽を殺す余裕はない。
「絶対に確かですわ。帰って来てから、午前零時から始まるFM放送を聴きましたから」
明美の口調《くちよう》は確信にあふれていた。
「その番組は?」
「FM東海の『ジェット・ストリーム』です」
ポピュラーファンの石井刑事は、その番組を知っていた。いかにも宇宙の暗黒を移動する壮大な大気の流れを偲《しの》ばせるテーマミュージックと、ムード音楽を背景にタイムリーにはいる話し手のロマンチックな「語り」が好きだった。捜査に疲れて深夜帰宅してから、この番組にどれだけ慰められたことかわからない。自分の愛好番組を、もしかすると犯人になるかもしれない女が、アリバイの資料の一つとして持ち出してきたので、石井はちょっと眉《まゆ》をしかめた。
「新宿からは車ですか?」
「ええ、星村さんを乗せて自分で運転して来ました」
「バーを数軒ハシゴしたあと、自分で運転したとすると、相当にアルコールがはいってましたね」
「すみません、わずかな距離だったものですから。でも私はあまり飲んでおりませんでした。本当です」
「ま、その問題は保留しておきましょう。『ジェット・ストリーム』は全部聴いたのですか?」
その番組は午前零時から始まる。午前零時に高円寺へ帰って来たとしても、それからすぐに紀尾井町へ向かえば、午前零時半までにわたる赤羽の死亡推定時間帯内に犯行を行なうことは必ずしも不可能ではない。
「もちろん全部聴きましたわ。それから寝《やす》んだのは、一時半ごろかしら」
「その間、星村さんもずっと起きていたのですか?」
「それまでに、だいぶはいっていた[#「はいっていた」に傍点]ので、随分眠そうでしたが、結局番組の終わりまで起きていました。それでも、よほど眠かったとみえて、午前一時の時報のときにはもう眠っておりました。ちょうど刑事さんが腰かけておられるソファーの上ですわ」
もし明美の言葉が事実ならば、彼女のアリバイは完全に成立したことになる。十一時半に新宿を出、午前零時から一時まで、高円寺のマンションで第三者と共にラジオを聴いていた人間が、同じ夜赤羽の死亡推定時間である十一時半から一時間以内に千代田区紀尾井町の犯行現場へ行けるはずがなかった。
だが問題はその第三者である。
まず証人としてのルミだが、これは同居人でもあり、星プロの専属タレントらしいからその証言の信憑《しんぴよう》性は薄い。焦点は星村に絞られる。彼は星プロと対立するキクプロの専属である。その意味におけるかぎり第三者と呼べるだろう。だが星村が何故《なぜ》ライバルプロの社長に会ったのか? しかも夜の九時に喫茶店で落ち合ってから、新宿のバーを共にハシゴしたあと、彼女のマンションに泊まりこんでしまっている。週刊誌が嗅《か》ぎつけたなら躍《おど》り上がって喜ぶだろう。この場合ルミが�邪魔�になるが、これは馴《な》れ合いでどうにでもなる。
「お仕事の話で星村さんと会われたということでしたが、相当重要なお話だったらしいですね」
サンベリナで落ち合ってから、翌日、昼ごろ紀尾井スカイメゾンの現場へ、明美と共に駆けつけるまでの十五時間近くにわたるあいだ、二人は「会って」いたことになる。並みのビジネスの話ではないことは察しがついた。
「実は、ここだけの話ですが、星村さんは前から狙《ねら》っていたのです」
「狙っていた?」
「うちへスカウトするつもりだったのです。その話し合いのために長引いてしまって」
明美は少しも悪びれずに言った。スカウトとなれば、長引いたのもうなずける。自宅へ一泊させたことも、それほど不自然ではないかもしれない。それに明美の高円寺のマンションは星プロの「東京事務所」になっているのである。
だがそうとなると、星村の証言力もだいぶ弱くなってくる。キクプロで冷遇されていたタレントが、チャンスを与えかけたライバルプロの社長のために有利な証言をすることは当然考えられるからである。
だがいずれにしても、それは星村当人に当たったあとで評価すべき問題であった。
二人はその後、ルミ、すなわち、星プロの所属タレント、若江《わかえ》ルミからも話を訊《き》いたが、明美の言葉とほとんど変わりなかった。
訊くべきことは一応訊きつくしたので、刑事らは立ち上がった。これから彼らが早急になすべきことは、星村俊弥に会って緑川明美の申立てのうらを取ることであった。
「しかし星村という男、あっちこっちとひっかかりの多い奴《やつ》だな」
帰途、バス停への道で、石井刑事が口を開いた。
「うん、おれもいまそれを思っていたところなんだ。彼は紀尾井スカイメゾンの現場から去年の十月の新幹線の殺人《ころし》の重要参考人として高輪署に出頭を求められ、殺人|幇助《ほうじよ》の疑いが出て、逮捕状が出そうになったが、その直後、事件の主犯の容疑で逮捕された冬本とかいうキクプロのマネジャーの供述で道具に利用されたことがわかり、一応帰宅を許されたばかりだったな」
共に本庁組の刑事だが、もう長い間コンビを組んでいるので、他人行儀の言葉は使わない。
「冬本は頑強に犯行を否認しているそうだな。しかしあれだけ情況証拠が揃《そろ》っていては、どうにもならないだろう」
「おい!」
四つ本刑事がふと何か思いついた目をした。ちょうどバス停に着いたときであった。
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連続の推測
1
一月二十四日早朝、——日野市の自宅において逮捕状を執行された冬本信一は、その身柄を高輪署に引致《いんち》された。
峻烈《しゆんれつ》な取調べが始まった。取調べに当たったのは、大川と木山の二人である。
被疑者は捜査当局が確実な証拠を握っていると思わなければ、容易なことでは自白しないものである。したがって取調官の選択に当たっては、事件の全貌《ぜんぼう》と推移を正確に把《つか》んでいる者が望ましい。また取調べの最中で取調官の交替はできるだけ避けたい。その意味で冬本のアリバイ崩しの主役を務めた形のベテランの二人が選ばれたのである。
だが冬本は頑《がん》として犯行を否認した。本部が出した数々の資料の前に冬本は、確かに殺すつもりで、星村を使ってアリバイ工作をしながら十月十四日のひかり66号に乗りこんだ事実までは認めた。だが「新横浜を過ぎてから山口に接近してみると、すでに何者かによって殺されていた」と途方もないことを言い出したのである。
彼の供述によれば——
「万博企画をめちゃめちゃにされた上に、美村社長とホテルの室へはいって行くところを見て、山口への殺意をかためました。私は何としても社長を万博プロデューサーにしてやりたかった。美村社長のためなら何でもするつもりでした。ところが社長は、もう私なんか頼りにならないと言って、自分から山口に会いに行きました。プロデューサーの椅子《いす》を星プロ側に奪われることより、社長を山口に奪《と》られることのほうが、私にとっては大きな屈辱でした。星プロには負けられても、山口には負けられない。山口を消さないかぎり、社長の心は私に戻ってこない。万博企画に敗れた口惜《くや》しさを、山口の一身に集中して、私はあらゆる意味でのライバルを消そうとしたのです。
しかし私がやったということがわかっては、社長に迷惑がかかるので、スターになりたくてうずうずしていた星村を使ってアリバイ工作をしました。星村はほんの手先として利用しただけで、何も打ち明けておりません。あの日山口がひかり66号で上京するということは、社長から聞いて事前に知っておりました。たまたまキクプロにはあまりいい感情をもっていない東洋テレビの山村プロデューサーが、同列車が運転される同じ時間帯に千代田荘で企画編成会議をやることを知ったので、あのアリバイ工作を考えついたのです。
一日前の十三日の午前の飛行機で大阪へ飛んだ私は、午後万準に顔を出し、その夜は、大阪のホテルへ泊まりました。翌十四日二時すこし過ぎホテルを|出 発《チエツクアウト》すると新大阪より十四時五十五分発の上りこだま154号で豊橋まで引き返しました。154号の豊橋着は、十六時四十四分なので、同駅へ十七時〇九分に到着する下りこだま153号へ乗り換えて、十七時二十二分に同車内から山村氏へ電話したのです。
名古屋からは、刑事さんのご指摘のように、ひかり66号へ乗り移り、新横浜を通過するまで三号車で待機しました。あまりに早く行動すると、死体の発見が早まり、逃走のチャンスがなくなるからです。山口が七号か八号車のグリーン車のいずれかに乗っていることは、いままでの例からわかっておりました。私が普通車の座席を取ったのは、同じグリーン車に乗り合わせて、あまり早く顔をかち合わせないためでした。どのように変装しても、山口に対しては欺《あざむ》き通せる自信がもてなかったのです。小田原を過ぎたあたりからひそかに探って、山口が七号車右窓寄りのシートにいることを確かめました。入口から様子をうかがったのですが、そのときは確かに生きておりました。進行方向右側の最後部窓ぎわの席で、隣席が空《あ》いていたのは僥倖《ぎようこう》でした。もし隣席に誰《だれ》かほかの乗客がいたら危険は覚悟の上で、山口を洗面所のあたりへ誘い出して殺すつもりでした。一気に刺殺するつもりで。鋭利な飛び出しナイフも用意しました。返り血を浴びたときの用意にレインコートを着ました。新横浜を過ぎてから、山口のシートに近づいたのですが、何とそのときはすでに殺されていたのです。本当です。そのときの私の驚愕《おどろき》、でも私はその驚愕に長く痺《しび》れているわけにはいきませんでした。山口の様子は、鋭利な刃物で刺《さ》されたもののようでした。それもシートから血がポタポタと滴《したた》り落ちているのですから刺されて間もないことは明らかです。そんな場所に、傷口に見合う鋭利な刃物と、動機を持ち合わせた男が、うろうろしていたら、どんな寛大な刑事でも決して見逃さないでしょう。いまがそうであるようにね。
私は自己保身の本能からとっさに立ち直りました。とにかく誰がやったにしてもここから一刻も早く離れなければならない。幸いに車内は空《す》いておりました。またかりに誰かが見ていたとしても、私は山口の様子を見ただけで、まだ彼の体に�接触�しておりません。第三者の目には、私が山口のシートの脇《わき》の通路にちょっと立ち止まったぐらいにしか映らなかったはずです。私はその場から離れました。心ははやりましたが、疑いを招かないために早すぎも遅すぎもしない歩度で歩きました。七号車から進行方向へ向かって行きました。新幹線のシートは進行方向に向かって前向きに並んでいるので、後ろの方へ引き返すと、乗客に顔を見られるおそれがあったからです。一応、変装はしておりましたが、なるべく人の目から隠れるのに越したことはありません。幸い終着の東京が近いので、席から離れて立っていても別におかしくはありません。私は一番前の十二号車へ行きました(当時ひかり号は十二両編成・作者注)。現場から、できるだけ遠ざかりたかったからです。間もなく東京駅へ着くと、こだま207号で新横浜へ引き返し、大阪から後続して来たこだま166号に乗り移りました。こだま207号の切符は買う暇がありませんでしたが、あらかじめ入鋏《にゆうきよう》ずみの入場券を用意しておき、検札が来た場合は、車内精算するつもりでした。私が直接手を下さなかったというだけで、結果は私が望んだとおりのものが発生したのですから、やはりアリバイは最初の計画どおり作っておかなければならないと考えたのです。山口が殺されれば、私は当然疑われます。私は他人が行なった犯罪のために自分の保身工作をしなければならない奇妙な立場にいつの間にか追いこまれていました。
ひかり66号の中では、できるだけ完璧《かんぺき》な変装をする必要がありましたが、こだま166号では今度は逆にできるだけ、私自身らしく[#「私自身らしく」に傍点]見せる必要がありました。それで初めて、星村の変装と符合して私のアリバイは完全になります。ひかり66号からこだま166号用[#「用」に傍点]の変装、というよりは、私本来の服装へ戻るのは、東京駅から折り返したこだま207号のトイレの中で行ないました。首尾よく私自身に戻った私は、星村とあらかじめ謀《しめ》し合わせておいた後部寄り五号車ビュッフェから再度山村氏に電話をかけたのです。その際、ウェイトレスの印象に残るように故意に眼鏡《めがね》をはずし、招待券をやったりしました。星村の通話を受けつけた同じウェイトレスに当たるかどうかは確率の問題でしたが、それは大したことではないと思いました。星村の演技が完璧《かんぺき》ならば、同じ乗務員のほうが都合がいいし、下手《へた》ならば別のほうがいい。しかしいずれの場合にしても私の欲しい通話の記録は残されます。
それに、演技のプロが、素人《しろうと》の、しかも仕事に追いまくられている人間の目を欺《あざむ》くのですから、見破られることはまずあるまいという自信がありました。星村にはスターの座がかけられているのですから、彼としては最高の演技をやってくれるにちがいないと思いました。事実彼は、思ったとおりにやってくれました。たまたま同じウェイトレスにあたったので、その効果がさらに高まったのです。あとになって星村が人殺しの片棒をかつがせられたと気づいても、有名病に骨の髄《ずい》まで蝕《むしば》まれた人間ですから、ちょっとアメをしゃぶらせれば、絶対に口を割らないでしょう。星村が喋《しやべ》ったのは、私が力を失ったからです。もし、依然として私に力があったならば、彼は殺されても喋らなかったはずです。スターに憧《あこが》れた人間とはそういうものです。星村には気の毒なことをしたと思っております。しかし、私は山口を殺しておりません。本当です。信じてください」
冬本はそう言って、心の底が冷えきった者のような暗い目をした。
刑事はその目を、彼が遠い日、非情の両親によって投げこまれた塵芥《じんかい》焼却炉から寒夜の星空を見上げた目と同じものであろうと思った。だが同時にそれは、人を殺しておきながら、いま、その罪を必死に逃れようとしている狡猾《こうかつ》な犯罪者の目でもあった。
これだけの情況証拠を残しておきながら、自分がやったのではないと言い張っている。他人の命は虫ケラのように奪《うば》うくせに、自分の身はそんなに可愛《かわい》いのか。
「山口が殺《や》られた席の並びのBCD席は、買い占められていながら、客が来なかったんだ。買い占めたのはお前なんだろう」
「私じゃありません。私は、山口がひかり66号に乗るということは知っていましたが、どの席にすわるかということまでは知りませんでした。ですから、買い占めたくも買い占めようがありません。せいぜい、グリーン車だろうとごく大ざっぱな当たりをつけていただけです」
「警察をあまりナメるな!」
大川刑事は思わず怒鳴《どな》ってしまった。そのような恫喝《どうかつ》が効かない相手であることはよくわかっておりながら、怺《こら》えられなくなったのである。
彼以外に、どんな犯人が考えられるのか? 動機があり、精密なアリバイ工作を施した上に凶器を携《たずさ》えて現場に立った。
それでいてぬけぬけと犯人ではないと言う。警察を莫迦《ばか》にするのもきわまれるところである。
「別にナメてはおりません。本当にやっていないから、やっていないと申し上げたまでです」
一片の感情も浮かべない表情で言うだけに、無気味なふてぶてしさがあった。
被疑者の取調べは、相手の性格がどのような類型に属するかよく見きわめた上で、これに順応した質問と説得を根気よくつづけて、完全な自白を得るように努めなければならない。
それは取調官と被疑者との凄絶《せいぜつ》な心理闘争であると言える。被疑者は取調べ側が充分かつ確実な資料を握っていると思わなければなかなか自供しないものである。いたずらに自白を得ようと焦《あせ》って、不確実な推定や、情況証拠を不用意にさらすと、捜査当局の手のうちを見|透《す》かされ、したたかな被疑者からせせら笑われる結果となる。
現在まで捜査本部側が蒐《あつ》めた資料は、冬本の犯意や動機を立証するに有力なものばかりである。現行の公判においては、刑法上の犯意の立証に厳格な心証を要求される。したがってこの点の取調べは特に慎重を期さなければならない。
ところが現実には、この主観的要件の自白が最も得にくい。いたずらに無理押しをしても、証拠能力を否定されてしまうような結果を招くので、事実行為の自白を得た上に情況証拠を蒐めてその周辺を固めてゆく方法が取られる。
それが冬本の場合、最も得にくい犯意と動機の存在を自白してしまったあとで、事実行為を否認しているのである。何ともおかしなことであるが本人が否認する以上、いままで本部が蒐めた資料がすべて情況証拠であり、犯罪事実に対する直接証拠がないだけに、その否認を覆《くつがえ》す有無を言わせぬ力に足りなかった。
被疑者が否認から自白への転機を逃すと、ふたたび自白へ傾けるのは、いちじるしく難しくなる。その微妙な転機がいまであることが大川にはよくわかるのだ。それでいながら、その力がいま少しのところで足りない。事実否認のまま送検することは、警察としては極力避けなければならない。これだけ有力な情況は、本人の自白がなくとも、まず起訴は免れないだろう。だがここまで追いつめながら自供が得られない。事件を担当した第一線の捜査官としては、歯ぎしりをする思いだった。
2
「おい!」
突然大声を出した四つ本刑事に、相棒の石井刑事よりも通行人のほうがびっくりしたらしい。
「新幹線殺しの被疑者は、犯行否認のまま地検送りになったんだったな」
四つ本刑事の目がぎらぎらしてきた。もともとジャック・パランスに似たくぼんだよく光る目が、ことさら光ってきたので。気の弱い者は視線が合っただけで竦《すく》み上がるような顔つきになった。
「星村は新幹線殺人の重要参考人として浮かび上がると同時に、今度のマンションの殺人《ころし》のアリバイ証人になったわけだ。となるとこういう考え方はできないか?」
「どんな?」
石井刑事が引きこまれてきた。
「冬本は新幹線殺人を頑強に否認している。殺意をもって現場まで行ったが、手を出さなかった。いやすでにガイシャは殺《や》られていたなどとふざけたことを言っているそうだ。一方ここに赤羽三郎という同じ芸能界のしかも冬本とはライバル関係のプロダクションのタレントが殺された。そのプロの社長が第一容疑者として浮かび上がった。社長はどうも赤羽に脅迫されていた節《ふし》が見える。だがそのネタがわからない。
ここでちょっと飛躍してみよう。もしもだな、冬本が事実を述べているとしたらどうだ? 確かに奴《やつ》の情況はどう逃れようもないほどに黒い。しかし彼以外に犯人がいるとしたらどうだろう?」
「しかし�高輪�のほうじゃ、ガイシャの周辺を徹底的に洗って冬本を割り出したんだぜ」
「そりゃそうだろう。だがな、もともと動機も殺意もあり、その上ごていねいにアリバイ工作までしてガイシャに近づいた男が真っ先に浮かび上がってしまったので、ほかに動機を持っている人間がかすんでしまったということはないだろうか?」
「…………」
「一人の人間に殺人《ころし》の動機をもつ者が何人かいても少しもおかしくはない。ましてガイシャは芸能界の人間だ。つまりこの場合、二番目に動機をもつ奴《やつ》が、冬本より先に、一番に[#「一番に」に傍点]現場へ着いて凶行をした。冬本という真っ黒いのが最初に浮かんだので、真犯人はすっかりその陰に隠れてしまった」
「そんな奴《やつ》がいるか?」
「冬本が浮かんだので、捜査はライバル関係に傾き、身内のほうがおろそかになったということはないかな」
「身内だって!?」
「つまり、星プロの内部の人間さ。本来の敵より、仲間割れした味方のほうが憎しみが強いっていうからな。新幹線の殺人《ころし》には緑川も充分動機があると思うんだ。あの山口とかいうガイシャは敵方の社長と通じてたんだ。緑川にしてみれば裏切り者というわけだ。マネジャーにしていたんだから、かなり可愛《かわい》がっていたにちがいない。それに裏切られたんだから飼い犬に手をかまれたような気がしただろう」
「しかし緑川にはアリバイがあったよ」
「緑川が殺し屋を雇ったらどうだ?」
「殺し屋?」
「もっともそれを職業にしているプロじゃないがね。とにかく彼女のまわりにはスターになれるなら、人殺しでもしかねない連中がゴロゴロしてるんだからな」
「それじゃあ赤羽が!」
石井がはっと胸を衝《つ》かれたような顔をした。二人が乗るべきバスはもう何台もやり過ごしていた。
「そうだよ、緑川が赤羽を使って山口を殺させたとは思えないか。そういえば赤羽が売り出しはじめたのも、またFホテルの記録から、二人の関係が生じたのも昨年の十月末ごろだった」
「すると脅迫のネタは新幹線の殺人《ころし》というわけか」
「ネタとしてこれほど、威力のあるものはないだろう。とにかく殺人《ころし》を請《う》け負ったんだ。こいつをバラせば緑川は完全に破滅する」
「しかし何でそんな危険な奴《やつ》に請け負わせたんだ?」
「きっと見くびっていたんだよ。ちょっと餌《えさ》を投げてやればいくらでもシッポを振って来るとな。ところが化けの皮を現わして凄《すさま》じい脅迫者(恐喝者)となった。このままでは骨までしゃぶられてしまう。何とかしなければというわけだ」
「それで星村を使って偽のアリバイをでっち上げ、赤羽を殺《や》った」
「うん、星村をスカウトするために会ったと緑川は言ってるが、星村ってタレントはそんなに優秀なのか? 何故《なぜ》星村を選んだのか? ここらがはっきりすれば、緑川の情況はかなり黒くなるね」
「その推理はかなりいいセンを行ってると思うよ。しかしよほどうまく言わないと高輪側が気を悪くするな」
四つ本の推理が正しいとすれば、高輪の捜査本部は振り出しから大きな見込みちがいをやっていたことになる。
しかも他の事件の捜査本部からの示唆《しさ》によって、捜査の基本的ミスが明らかにされたとなると、彼らの面目はまる潰《つぶ》れである。
冬本は勾留《こうりゆう》となり、その期限はもう間もなく切れる。検事はこの期限内に公訴の提起をするか、釈放するかの決定をしなければならない。
情況証拠が揃《そろ》っているので、起訴は免れないだろうが、検察としては直接証拠がない上に、被疑者が否認しているので、期間満了までの時間を有効に使おうとしているのである。おそらくいまごろ、高輪では最後の証拠がために全員がフル回転していることであろう。
だが起訴したあとになってから、同じ警察側の他事件の捜査本部から被告のシロを推定あるいは証明する資料が出されたらそれこそもの笑いの種《たね》だ。新聞はここぞとばかり書きたて、警察の権威は失墜《しつつい》する。
そんなことになる前に、多少の内輪の気まずさは耐えてもこちらの意見を出しておいたほうがよい。それに何よりも警察の務めは、事件の真相を明らかにすることにあり、無実の者を罪におとすことではない。
そしてもし四つ本刑事の推理のとおり、緑川と赤羽の間に黒いつながりが浮かび上がれば、新幹線事件とマンションの殺人《ころし》は連続する疑いが出てくるのだ!
二人の刑事はしだいに興奮してきた。
3
麹町署から出された示唆《しさ》は、確かに高輪側の盲点を衝《つ》くものだった。特に冬本のクロを確信して取調べに当たっていた大川と木山の両刑事には大きな衝撃を与えた。
無理もなかった。冬本を鎧《よろ》う堅固なアリバイの防壁《バリケード》をようやく突き崩したあとに、真犯人は別にいる……? という�横槍《よこやり》�が出されたのである。
「そんな馬鹿な」
と、いったん彼らは憤然としたが、冷静に麹町側の示唆を検討してみると、確かにいままでの彼らの冬本一本に絞った捜査に新しい視角を与えるのである。
冬本が事実を述べているという仮定は飛躍にはちがいない。しかし緑川が山口を殺す動機を持ち、第三者(いまの場合赤羽)を使って山口を殺したという推論にはあまり無理はないのだ。
それに冬本を真犯人とした場合、七号車の座席買占めの説明が難しくなる。
山口から座席《シート》ナンバーをあらかじめ訊《き》き出すことが無理な上に、かりに何らかの方法でそれを知ったとしても、それからあとに切符を買いに行ったのでは、並びの1BCD席を確実に買える保証がない。
冬本が先に四枚買ってその中の1A席を山口に与えたということはおよそ考えられない。ライバルプロのマネジャーの出張のために、冬本が乗車券の用意をするはずがないし、第一そんなことのできるはずがない。
「もしかしたら、冬本は本当のことを言っているのではないだろうか?」
冬本を真犯人と信じて遮二無二《しやにむに》追及してきた高輪側にふっと、そんな疑念というよりは、弱気がきざしかけたのも、いままでの追及の情熱のかげにむりやりに押しこめていた形の、�捜査の弱点�が「麹町」の示唆《しさ》によってしだいにその容積を大きくしてきたからである。
ともあれ、緑川が赤羽を売り込んだこと、および星村をスカウトしようとしたウラの事情は、もう少し深く掘り下げてみなければならなかった。
石井刑事と四つ本刑事は、その日のうちに星村俊弥を大森のアパートに訪ねた。
一応帰宅は許されたものの、星村は依然として警察の監視下にあった。もっとも星村には当面行くべき場所がなかった。キクプロには冬本とのつながりから犯人扱いをされるし、自分に色気を示した緑川明美には、その後急に警察の目が集まった感じで、アプローチしにくい。もちろん明美のほうからは何の連絡もない。
終日アパートの自室で布団からカメのように首を出してテレビを見て過ごしていると、心の襞《ひだ》の奥底までカビが生えてしまうような気がした。
石井らが訪ねて行ったときは、すでに昼を回っていたが、星村はいま起きたばかりのむくんだような顔で二人を迎えた。無精《ぶしよう》ひげを生やし、シャツの襟《えり》はよごれ、ズボンの膝《ひざ》が円くなっている。よく顔を洗わなかったのか、目のふちに目やにが少しこびりついていた。