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作者: 当前章节:15402 字 更新时间:2026-6-23 07:44

 かつて高輪側の佐野刑事をして、「エリート面《づら》をしてる」と口惜《くや》しがらせた伊達《だて》さはみじんも見られなかった。

 それでも室内は六畳と四畳半の二部屋あって、タレントらしい花やかな生活を偲《しの》ばせる派手な衣装や、かつての�全盛?�のころの自分のブロマイドが壁に懸《か》けられてある。

「散らかしてまして」

 ここ数日にわたる取調官の�教育?�が効いたとみえて、星村は捜査官に対しては腰が低かった。

 茶をいれようとするのを抑えた四つ本刑事は、質問の火ぶたを切った。今日は石井が補佐《メモ》役に回っている。

「今日は、一月十九日の夜九時ごろから、翌日にかけてのあなたの行動を詳しくうかがうためにお邪魔したのです」

「一月十九日といえば、赤羽さんが紀尾井町のマンションで殺された前の日のことですね、その日から当日にかけてのことは、もうほかの刑事さんに何回か申し上げたはずですが」

 星村はうんざりした表情を隠さなかった。緑川明美の部屋に泊まりこんだばかりに、とんでもない事件の巻き添えになってしまったという顔だった。そうでなくとも新幹線殺人の重要参考人として大川刑事らからさんざん痛めつけられている。

 仕事が一向に芽が出ない上に、いっぺんに二つの殺人事件の関係者となってしまったのであるから、幸福な顔のできるはずがなかった。

「それをさらにもっと詳しくうかがいたいのです。まず新宿の『サンベリナ』で緑川さんに会われてからのことをできるだけ詳しく話してください」

 四つ本の底光りのする目に睨《にら》まれて、星村は催眠術にかかったような口調《くちよう》で話しだした。

「三十分ほどそこで話して、今度は歌舞伎《かぶき》町の方にあるクラブバーへ行きました」

「そこの名前は?」

「確か『ボナンザ』です」

「そこにはどれくらいいましたか?」

「やはり三十分ぐらいいたでしょうか」

「そして次にどこへ行ったのですか?」

「今度は西口の外人バーへ行きました」

「名前は?」

「思い出せないのです。でも白系ロシアの女がやっているバーで、あの界隈《かいわい》ではかなり有名ですからすぐにわかると思います。その後、レッド何とかいうキャバレーへ行って、そこを出たのは十一時半でした」

「レッド何とかへはいったのは何時ごろですか?」

「さあ、よく覚えていないのです。でもあすこにはだいぶ長くいたように思います。腰を据《す》えてかなり飲みましたから。エミー原田という歌手が十曲ぐらい歌っていたから、少なくとも一時間ぐらいはいたと思いますね」

「はいった時間は忘れて、そこを出た時間だけはよく覚えていますね、アルコールもかなりはいっていたでしょうが」

「緑川社長が午前零時から始まるFM放送で聴きたい番組があるので、十一時半になったら教えてくれとホステスに言っていたものですから」

「聴きたいFMがあるからだって?」

 メモをとっていた石井が顔を上げた。「ジェット・ストリーム」は確かによい番組だが、特にそのために「遊び」を切り上げて聴きに帰る性質のものではない。もともとムード音楽の番組だから、何となくスイッチを入れたら、BGMのように耳にはいってくるというところにねうちがあるのである。

 それに彼らがそれまでいた場所がキャバレーなのだから、ムード音楽はお手のものであったろうに。そうだ、エミー原田は名うてのムード歌手である。その歌手が、十曲もつづけて歌ったあとに、まるで恋人に逢《あ》いにでも行くようにジェット・ストリームへ駆けつけた。

 そこに石井は不自然なものを感じた。

「すると九時半まで『サンベリナ』、歩く時間を加味して九時四十分ごろから十時十分まで『ボナンザ』、外人バーを経てレッド何とかにはいったのが十時半ごろ、出たのが十一時半ということですな」

 四つ本は確かめた。今朝の緑川の申立てから、レッドローズという名前は知っていたが、星村が忘れたらしいので伏せておいた。

 被取調人というものは、当局がすでに知っていることの確認をしていると知ると、とたんに口が重くなってしまうからであった。

「そういうことになりますね」

 星村はちょっと自信のなさそうな顔をして答えた。もっともこれはハシゴを重ねるに従ってアルコールの量が蓄積されたために、ハシゴの各ステップの区切り時間の記憶に対してである。

「その間あなたはずっと緑川さんと一緒でしたか?」

「もちろんです」

「途中で中座したというようなことはありませんでしたか?」

「そりゃトイレに立ったことはありますよ。でもせいぜい二、三分のことです」

「あなた方がこれらのバーやキャバレーに行っていたということを証明してくれる人がほかにいますか?」

「ホステスが覚えてると思いますよ。ことにキャバレーじゃ指名しましたからね」

「そのホステスの名前は?」

「忘れました。みんな緑川社長が指名してましたから」

 彼らが最後にキャバレーへ寄ったというのは意味が大きい。赤羽の死亡推定時間は十一時半に始まる。だからレッドローズにおける時間さえ何とかごまかせば、犯行現場に立つことが可能になるのである。星村の申立てを信じれば、レッドローズより前のバーの時間はあまり意味がない。新宿あたりのバーでは指名するほどホステスを揃《そろ》えていないところが多い。最後にキャバレーで指名して、ホステスをアリバイの証人として星村に補強すれば、少なくとも十一時三十分以前には紀尾井町へ行っていないことを証明することができる。問題はその後である。

「『レッド』を出てからどうしましたか?」

「『レッド』を出てから、そうだ! 刑事さん、思い出しましたよ、そのキャバレーの名は『レッドローズ』でした。そこを出てから、どこかのビルの地下駐車場に停《と》めてあった社長の車に乗せられて、高円寺のマンションに連れてってもらいました。私がだいぶ酔っていたので、社長に、自分の家に泊まっていけと言われたのです。でも家に帰れないほどじゃありませんでした。社長がせっかく親切に言ってくれたので、断わるのが悪いような気がしたのです。決して妙な野心はありませんでした」

 星村は刑事の質問の趣意を誤解したらしく、しきりに弁解した。

「車に乗ってからどうしましたか?」

 四つ本はうながした。質問はいよいよ核心にはいってきた。

「寝ていろと言われたので、リアシートでぐっすり眠ってしまいました。社長に揺り起こされたときは、高円寺のマンションへ着いていました」

「その時間はわかりますか?」

「零時前です。社長の部屋へはいってから少しあとに、社長が聴きたがっていたFM放送のジェット何とかいう番組が始まりましたから」

「『ジェット・ストリーム』ですね」

「そう、それです」

 石井はメモを取りながら考えた。まずジェット・ストリームの放送時間に錯誤はないかという点である。それはFM東海の深夜番組であるが、どこか他の局がFM東海から番組録音を買い、ちがうサイクルで、ちがう時間に放送したというようなことはないだろうか? 午前零時からのはずの番組が、たとえば午前一時から放送されていたとすれば、緑川のアリバイは簡単に崩れ去ってしまう。

 いやいやそんなことはない。FM東海は、発信周波数84・5MC、ジェット・ストリームは、FM東海以外のどの局からも放送されない。かりに一歩譲って、石井の知らないどこか遠隔の地の局が放送していたとしても、放送区域の狭いFMは、はいるはずがないのだ。ジェット・ストリームは間違いなく午前零時に始まっている。

 それではちがう番組を、ジェット・ストリームだと偽《いつわ》って聴かせたのではあるまいか? その可能性はある。とにかくバーを三軒ハシゴをして来たあとなのだ。酔いで朦朧《もうろう》とした意識にその程度の欺瞞《ぎまん》は、さして難しいことはなかったろう。

「それは『ジェット・ストリーム』に間違いありませんでしたか? 他の番組をそのように思いこんだのではありませんか?」

 四つ本が石井の意を察したようにタイミングよい質問をした。

「いえ、絶対に間違いありません。ジェット・ストリームとアナウンサーが何度も繰り返しましたからね」

「テープレコーダーからの声ではなかったですか?」

 ラジオの近くにテレコを忍ばせておいて、いかにもラジオからの放送のように装うこともできる。

「ちがいますね。社長はスイッチを入れてから、ツマミを回してしばらく選局してましたから。あれはラジオからのものに間違いありません」

 星村の口調《くちよう》は断定的だった。テレコの再生と、選局を同調させることはほとんど不可能であろう。四つ本がふと言葉を途切らせて考えこんでいると、

「刑事さんはどうも午前零時という時間にこだわっておられるようですが、そんな放送を聴かなくとも社長のマンションへ着いたのが、零時前だということは確かなのです」

 星村はちょっと意地の悪そうな笑いをもらしてから、

「マンションに着いたとき、僕はちょっと時計を覗《のぞ》いたのです。十一時五十分でしたよ、もちろん合ってます。社長に会う前に時報に合わせましたからね。眠っている間に時計の針なんか簡単に操作できると思われるでしょうが、僕は腕時計のしめつけるような感触が嫌《きら》いでしてね、ベルトの前にこういうふうに吊《つ》るしておくのです」

 星村はズボンの腰の左の前あたりを指した。なるほど、そこに腕時計のバンドをベルトに通して吊っている。

「いつも外では上衣を着ておりましたから、私がここへ時計を吊っていることは誰《だれ》も知りません」

 緑川がその時計の場所を知ったという可能性はあるが、そこまでは考え過ぎであろう。午前零時前に高円寺へ着いたことは信じてよさそうであった。それに何らかのトリックを弄《ろう》してその時間を偽ったとしても、いつ目を覚ますかわからない星村を車に乗せたまま、殺人をするというのは、なんとも危険であった。

 となると午前零時前に緑川は絶対に現場へ行っていない。アリバイの「鍵《かぎ》」は午前零時以後にある。

「わかりました。それではそれからあとはどうなさいましたか?」

「ルミさんという、社長と同居しているらしい若い女の人をまじえて、少し飲み直したんですが、午前一時ごろソファーの上に寝てしまいました。ちょうど番組が終わるころで、アナウンサーのお寝《やす》みなさいという言葉を夢うつつに聞きました」

 星村はあの夜の妖《あや》しい酒宴を思い出した。ピンクのシースルーのネグリジェの下で、妖しい生き物のようにうごめいていた明美とルミの肌の曲線、香り高い美酒と甘いムード音楽、睡魔に引きずりこまれそうになると、明美とルミが交替で挑発した。自分はその都度もうろうとしかかる意識を奮い立てて、挑発に応じようとした。

 だがそうすると、女のほうはきまってするりとかわしてしまう。また眠りに落ちかかる、肌を押しつけてくる、頬《ほお》を寄せる、くすぐる、睡魔と挑発のいたちごっこが一時間もつづいて、結局、何かが起こりそうで、何も起きないまま、ついに睡魔に負けてしまったあの大いなる無為の夜。——星村はいまでもあの夜のことを思い起こすと、大きな損をしたような気がする。

 だがそんなことは刑事には言えない。

「その間、緑川社長はずっと一緒でしたか?」

「もちろんです。部屋にはいったとき、五、六分着替えに立っただけで、ずっと一緒でした」

 星村は断言した。最初はおそれ多くてそんな気は毛頭なかったが、二人の女から挑発されて犬のようにじゃれ合っている間に、緑川明美とこの機会に関係をもってしまえば、自分のこれからに絶対に損はないと計算して、色と欲から、特に彼女の存在は強く意識していたのである。

 明美を押えつけると、ルミが横からくすぐる。ルミを捕えると、今度は明美が邪魔をする。見事な「タッグチーム」はどちらが欠けても成り立たないのだ。

「いま、お話しいただいたことに間違いはないでしょうね」

 四つ本は相手の目にじっと見入りながら確かめた。

「絶対に間違いありません。別の刑事さんに、もうさんざんしぼられましたから、警察に対しては絶対に嘘《うそ》は申し上げません。絶対に!」

 星村は四つ本の底光りのする凝視《ぎようし》に耐えながら言った。四つ本は彼の言を信じてもいいと思った。

 緑川明美が少なくとも午前一時までは自宅のマンションにいたことはわかった。彼女のアリバイは成立したと言ってよかった。問題は星村の証言の信憑《しんぴよう》性であるが、冬本のアリバイ工作を知らずに手伝って、危うく殺人|幇助《ほうじよ》者に擬せられようとした直後、今度のマンション殺人で、当局がかなり濃厚な嫌疑《けんぎ》をかけていることが、いまの四つ本の事情聴取からよくわかる緑川のために、アリバイを偽証しようとは思われない。

 さらに喫茶店と、二人がハシゴしたバーを当たり、彼らがサンベリナで落ち合ったあと、ボナンザ→コサック→レッドローズの順で歩いた事実を確かめた。時間も、星村が供述したものと大差なかった。

 各バーからバーへの間隔はせいぜい徒歩五、六分であり、とうてい紀尾井町への往復は不可能であった。またその時間は赤羽三郎の死亡推定時間から大きくはずれていて、意味がなかった。

 麹町署の捜査本部も四つ本らの報告によって、緑川明美のアリバイは成立したものとみた。

 だがそのことによって彼女を容疑圏内からはずしたわけではない。アリバイは成ったものの、その証言者の星村の設定に多分に不自然な点があるのである。それらは、——

 一、歌も演技力も大したことはない星村を何故《なぜ》スカウトの対象として選んだのか?

 二、バーを三軒ハシゴしたあと、まかり間違えばスキャンダルになる危険を冒してまで、何故星村を自分のマンションへ泊めたか?

 三、最後のキャバレーをジェット・ストリームを聴くために十一時半に出たのは不自然である。

 そしてもし星村が、明美とルミが午前一時まで挑発を繰り返して彼を眠らせなかった事実を告げていれば、それは、捜査本部の第四番めの疑問として確実につけ加えられたはずであった。

 これらの疑問点があり、彼女のアリバイが一応|完璧《かんぺき》であるが故に、本部ではいっそう疑いを強くしたのである。

「造られたアリバイ」というのが、本部員の一致した考えであった。

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 移動の断絶

   1

 二つの捜査本部は懊悩《おうのう》し焦燥《しようそう》した。新幹線とマンションの殺人が連続するという疑いを持っても、情況証拠による推定だけで、きめ手は何もなかった。

 冬本は相変わらず否認をつづけている。だが「麹町」が出した�連続�の推測にうなずけるものがあるので、検察は起訴を待ち、十日間の勾留《こうりゆう》延長を請求して許された。

 今度こそ待ったなしである。起訴か釈放かこの十日間に決めなければならない。

 しかし検察を待たせた「連続の接点」に立つ緑川明美のアリバイは堅い。その堅固な防壁の前に捜査本部は手も足も出ない観があった。

「高輪」の立場は複雑である。残る十日以内に全力をあげて、冬本有罪の証拠がためをしなければならないのだが、そもそも検察を待たせている理由が、二つの殺人事件は連続するのではないかという強い疑いである。

 だが連続すれば、冬本はシロなのだ。冬本を追うべきか? それとも緑川の線を洗い直すべきか、捜査方針に迷いがあった。連続すれば二つの本部は合同することになる。

 が、ともあれ、高輪では冬本の証拠がためをする一方、山口−緑川のつながりも改めて洗いはじめた。

 一方「麹町」では依然として緑川明美のアリバイの突破口を見つけることができなかった。冬本をひたすらに追って、見込みちがいの匂《にお》いがしだいに強くなってきた高輪の轍《てつ》を踏まないように、赤羽の周辺を徹底的に洗ったが、少しでも被害者に関《かか》わりを持った人間はすべて消去され、結局、緑川一人だけを残したのである。

 彼女のアリバイに対する徹底的な研究がなされた。

 レッドローズへ着いたのが、十時半ごろ、十一時半には同所を出る。これはホステスおよび星村が確認している。

 午後十一時五十分には「高円寺コンド」へ着く。星村が確認する。この間二十分、とうてい紀尾井町へ寄って殺人をする閑《ひま》はない。

 午前零時より高円寺コンドの自室でジェット・ストリームを聴きながら、星村、ルミと共に酒宴。午前一時まで星村によって確認される。午前一時三十分ごろ就寝。

 レッドローズへはいる前にサンベリナ、ボナンザ、コサックと回っているが、これは被害者の死亡推定時間からそれているので問題はない。レッドローズおよび星村の証言は信頼できる。

 要するに緑川明美は十九日の午後十一時半から翌午前零時半にかけて絶対に紀尾井スカイメゾンへ行けぬ情況にあった。うの毛で突く隙《すき》もないアリバイだった。

「こういう考え方はできませんか?」

 沈鬱《ちんうつ》なムードの捜査会議で富永が何かを思いついたようである。

「赤羽が殺されたのは、実は紀尾井町ではなく、高円寺の緑川の部屋だったという考え方です」

「何だって!」

「つまり、高円寺コンドの別の部屋に赤羽を睡眠薬であらかじめ眠らせておき、そこへ星村を連れこんで、アリバイを作ったのち絞殺する。星村が眠りこんだのを見届けてから、赤羽の死体を車で紀尾井町のマンションへ移して、いかにもそこを殺人《ころし》の現場らしくみせかけた」

 全員は富永の着想に新しい視野を展《ひら》かれたように思った。いままでは緑川のマンションと赤羽のそれとの距離が、緑川のアリバイをかためていたわけであるが、富永説によれば、その二つの距離、すなわち、アリバイの証人と被害者のいた場所が一点に圧縮されるのであるから、緑川のアリバイはいっぺんに崩れる。

 さらに彼の説は、彼自身が以前に出した疑問をも同時に説明するものである。

 富永は「被害者は何故《なぜ》大量の睡眠薬を服《の》んでいたか? その量から判断して、犯人が服ませたことは明らかである。それならばくすりを服ませたあとに絞殺するという手間をかけずに、何故最初から致死量を服ませなかったか?」と訝《いぶか》しがった。

 緑川が星村を室内へ招じ入れたときに、�別室�にいたはずの赤羽に気づかれてはならなかった。

 これから殺すつもりの赤羽と、その犯行のアリバイ証人に仕立て上げるべき星村の二人は、絶対に鉢《はち》合わせさせてはならない。だから星村がはいって行ったとき、赤羽はそれを気がつかないような状態になっていなければならなかった。そのとき、すでに死んでいたのでは、星村を使ってのアリバイ工作の意味がなくなるので、それは、一時的[#「一時的」に傍点]に気がつかない状態でなければならない。とすれば、眠らせるのが一番手っ取り早い。それもいつ目が覚めるかわからない�自然睡眠�ではなく、くすりによって睡眠深度や時間まで自由に調節できる�人工睡眠�が理想的である。さらに体内の薬物残留量を逆算して、死亡推定時間を正確に割り出すのに役立つ。このアリバイ工作は、正確で幅の狭い死亡推定時間の上に初めて成り立つのである。

 緑川は星村に会う前に赤羽にくすりを服《の》ませて眠らせておく。このとき、致死量を服ませたのでは、アリバイを造れなくなるので、午前零時前後には絶対に目を覚まさないように塩梅《あんばい》しておく。こうしておいて星村を高円寺コンドへ誘いこみ、別室で眠っている赤羽を殺害した。薬物効果でぐっすり眠っている人間を絞め殺すのであるから、女の力でも充分だったろう。一般に頸動脈《けいどうみやく》を完全に絞めるのに三・五キログラム、頸静脈は二キログラム以下の力で完全に閉鎖されるという。この程度の力ならば女でも出せる。死んだように眠っている人間に対する行為であるから、時間も二、三分もあれば充分だったはずである。

 赤羽を殺したあと、涼しい顔をして、星村のいる部屋へ戻り、死亡時間として推定される一定の幅をもった時間を星村と共に酒を飲んで過ごしたあとに、もう大丈夫と判断した午前一時ごろにまたくすりを服《の》ませて星村を眠らせた。

 くすりなど服ませなくとも、アルコールが相当に回っていたから、自然に眠っただろうが、あとに大仕事が控えているので、途中絶対に目を覚まされては困る。そのためにくすりで保証をかけた。

 こうして星村だけそこへ残して、深夜の�引っ越し�が行なわれた。

 かくして緑川は赤羽の死亡推定時間に死体が発見された紀尾井スカイメゾンへ絶対に行けない情況を造り出してしまった。行けぬはずである。犯行現場は高円寺であって、犯行後、死体のほうが紀尾井町へ移動したのであるから。

「ちょっと待ってくれ。赤羽は自分の布団の中で殺されていた。布団には絞殺特有の汚物がついていたから、犯行時に布団が一緒にあったことは間違いない。布団はどうしたんだ?」

 富永説からうけた最初の感動から醒《さ》めた中島警部が指摘した。

「汚物はあとになってから布団へ付着させることができます」

「しかし、発見されたとき、死体のそれぞれの部位に対応する布団の部分に汚物は沁《し》み通っていたんだ。あとからつけたんじゃ、ああはうまくいかないよ」

「それでは赤羽を眠らせてから、布団だけ彼の部屋から運んで来たのではないでしょうか」

「鍵《かぎ》は?」

「赤羽が身につけていたと思います」

「なかなかいい着眼だが、やっはり、無理だね。いいかね、赤羽は十時ごろはまだ紀尾井町にいたことが確認されているんだ。東洋テレビの中村とかいう係が、番組の打合わせのために十時に赤羽の部屋に電話をし、彼はそれに出ているんだ。それから、高円寺へ行って、殺されるのに都合のいい程度[#「殺されるのに都合のいい程度」に傍点]に眠るには、ちょっと時間が足りないと思うんだ。それからもう一つ、汚物は手前六畳の間の畳の上にも沁《し》みていた。それから断末魔の痙攣《けいれん》のときにかきむしったらしい痕《あと》が畳の上にあり、赤羽の右手の爪《つめ》にそれに見合う畳の屑《くず》がつまっていた。間違いないよ、赤羽はやはり自分の部屋で殺されたんだ」

 富永説は中島警部によって手もなく粉砕されてしまった。空気がまたしゅん[#「しゅん」に傍点]となった。

「みんな新宿ですね」

 富永が諦《あきら》めきれぬような面《おも》もちで、また口を開いた。

「緑川と星村がハシゴをしたのは、みんな新宿のバーばかりです」

「それがどうかしたかな?」

 中島はせっかくの若手の柔軟な着想をひねりつぶしてしまったのが、何となく気が咎《とが》めたのか、柔らかい口調《くちよう》でさらに彼の発言に誘い水をかけた。

「新宿のバーをハシゴしても少しもおかしいことはありませんが、彼らは何故《なぜ》、新宿ばかり飲み歩いたんでしょうかね。喫茶店で九時前に落ち合ってから、十一時半まで三時間近くも新宿にへばりついている。僕はあまり飲まないし、バーのハシゴなんてぜいたくなことはやったことはありませんが、河岸《かし》を変えるという言葉があるように、酒飲みは、一つ所で長い時間、飲んでいると、どこかほかの地区へ行きたくなるんじゃないでしょうか? たとえば、渋谷とか銀座とか」

「そうとは限らんだろう。十一時ごろだったら、車はつかまえにくいし、結局足で行ける所を回るということになるんじゃないかな」

 四つ本刑事がわけ知り顔で答えた。しかし彼とてハシゴ酒の経験豊かなわけではない。刑事の給料では、とうてい高級バーやキャバレーのハシゴはできない。�屋台�のハシゴがせいぜいということである。

「しかし緑川は車を持っていましたよ」

「駐車場を捜す手間がいるし、それにハシゴのために乗り回したら、酔っぱらい運転でパクられるよ」

 富永刑事は四つ本の言葉に一応納得したように黙したが、今度は永野刑事が思わぬ発言をした。

「そういえば、新宿は距離的に紀尾井町と高円寺のちょうど真ん中あたりになりますね」

「そういえばそうだな」

 中島警部がうなずいた。何気なくうなずきながらも、永野の内に何かが発酵《はつこう》する前特有の緊張があるのを感じとった。

「紀尾井スカイメゾンと高円寺コンドは何となく似た建物でしたね」

 片方は二十階、もう一方は十五階だが、どちらも鉄骨と軽量建築材料を虚空《こくう》へ積み上げた威圧的な構造の意匠は同じである。

「こんなふうに考えられませんか。星村が連れていかれた所は高円寺ではなく、紀尾井町であったと。緑川から高円寺のマンションだと言われたのでそうと思いこんでしまったが、実はそこは紀尾井スカイメゾンだった。時間的には新宿からどちらも同じくらいでしょう。部屋番号のプレートを替えて、室内に入れる。マンションの中なんてどこも似たり寄ったりだし、星村は酔いでいい加減に朦朧《もうろう》としているから、何とかごまかせるんじゃないでしょうか?」

 案の定、永野は突飛なことを言い出した。だが、これは富永説を応用逆転させたものである。被害者が証人のいる所へ来たという仮説を、今度は逆に証人が被害者の住居へ行ったと置き換えたのは、やはり富永の着眼を基礎においている。

「しかし星村は翌朝確かに高円寺で目を覚ましてるんだよ」

「ちょっと睡眠薬を服《の》ませて眠らせてから、高円寺へ運べますよ」

「部屋の調度などは?」

「私は緑川と赤羽の両方の室内を見ましたが、どうもつくりが似ていたようです。もっともそのときはこんな考えは持っていなかったので、よく見比べたわけではありませんが。大体、マンションの内部なんて外部から来た人間にはどこも同じように見えるんじゃありませんか。そこへ似たような家具や調度を置けば、酔っている人間の目は充分に欺《あざむ》けると思うのです」

 みなが永野の�新説�に傾いてきた。最初突飛だと思った着想がだんだんうなずけるようになったのだ。

 星村が高円寺コンドへ着いたことを�認識�したのは、緑川に揺り起こされて、そのように教えられたからである。車中はどうせ眠っていただろうから、どこをどう走られてもわからない。酔いと車の震動でいい気持ちに眠っていたところをいきなり起こされて、朦朧《もうろう》とした酔眼に映ったものは、深夜の高層マンションである。

 それが紀尾井スカイメゾンでも高円寺コンドであっても、「夜」と「酔眼」と「初めて」という三つの錯覚しやすい条件を重ねていた星村には、まったく同一物に見えたであろう。

 星村に高円寺コンドだと誤信させて、室内へ導き、トイレにでも立つふりをして、別室にいた赤羽を殺した。

 犯行の情況は、富永説とまったく同様である。だが今度は、星村を眠らせたあとの「引っ越しの荷物」が死体の代わりに、星村自身と「高円寺」らしく見せかける小道具となった。そのほうが万一、検問に引っかかっても完全である。偽装用の小道具は、家具や調度も引っ越しの手間を考えて最小限に、そして小型のものにしておいたにちがいない。星村のためにできるだけ似せた二つの部屋は、犯行後は、できるだけ別のように仕立て直した。家具の配置や、カーテン、敷物などを変えるだけでも、まったく別の部屋のように見えるものである。

 無事に引っ越しが終わったあとで、星村は高円寺コンドで天下泰平に目を覚ました。もっともすぐ刑事の取調べにあったのであるから、あまり天下泰平とは言えなかったかもしれないが、少なくとも、最初から「高円寺」に「いつづけた」と信じて目を覚ました。

「となると緑川は、赤羽が殺される間近まで確かに紀尾井メゾンにいたということを第三者に確認させていなければなりませんね」

 富永がまた鋭い意見を出した。赤羽の殺された場所が、「紀尾井町」であると確認されて初めて、彼女のアリバイは完全になるわけである。死体を移動させる可能性がある以上、せっかく星村を使ってアリバイを造っても、少しもアリバイにはならない。死体が最初から[#「最初から」に傍点](殺されたときから)紀尾井町に釘《くぎ》づけになっていたことが確認されてこそ星村の証言に価値が生ずるのだ。

「誰《だれ》かが、赤羽があの夜紀尾井メゾンにいたことを確認しているはずです。そしてそれは東洋テレビの局員しかおりません」

「するとその局員に緑川の意志が働いているというわけだな」

 永野刑事が感嘆したような声を出した。それはみな同じ思いだった。もちろん局員は事情を知らずして利用されただけであろう。またそうでなければ、�第三者�としての価値がなくなる。

「よし、早速それは当たろう。それから、紀尾井町と高円寺の部屋の様子を詳しく観察比較する必要がある」

 中島警部が結論を出した。

 捜査班は三手に分かれた。

 一は星村の再取調べ。

 二は高円寺コンドおよび紀尾井スカイメゾンの観察。

 三は東洋テレビの中村光平の取調べである。

 これら三つの取調べと観察を総合検討すれば、必ずや緑川明美のアリバイは崩せる。捜査本部に久しぶりに活気が漲《みなぎ》った。

   2

 だが一を担当した永野刑事と石井刑事は、回復しがたい失望を味わわなければならなかった。

 新説の提唱者として今度だけ、永野が石井について行ったのである。ふたたび姿を現わした刑事たちに星村は軽蔑《けいべつ》したようなうす笑いを浮かべながら、

「刑事さん、あんまり私を莫迦《ばか》にしないでくださいよ。あの夜確かに酔ってはおりましたがね、緑川社長の部屋は一階ですよ。赤羽さんの部屋は五階じゃありませんか。いくら私が酔っていても、自分の足で歩いてはいったのですから、エレベーターや階段を使えば覚えていますよ。絶対に間違いありません。私はエレベーターにも乗らなければ、階段も上がりませんでした。途中の車の中では寝てましたがね、私はあの夜高円寺コンドの一階にある、百何番でしたか正確な部屋番号は忘れましたが、緑川社長の部屋に行ったのです」

 星村は無惨なほどはっきりした口調《くちよう》で言った。刑事は返す言葉につまった。

 一一〇番経由の変死体発見の急訴によってスカイメゾンへ駆けつけたとき、確かにエレベーターで五階まで上がったことを思い出したからである。

 いくら星村が酔っていて、錯誤の条件が重なっていたとしても、一階と五階を錯覚させることは無理である。意識のない人間をかつぎ上げたのならともかく、星村は自分の足で歩いて通ったというのである。

 永野は新説の提唱者であっただけに特に失望が大きかった。

「あなたはどこの部屋に通されたのですか?」

 石井が辛《かろ》うじて立ち直った。いまさら当時の部屋の内部の模様を訊《き》いてもどうにもならなかったが、永野説にとってはそれは重要な探査項目であった。他班が探査している項目と総合して検討するためには、いま、永野説が根本から揺れかけているとわかっても、一応調べなければならなかった。

「奥の洋間です」

 石井は自分たちが通された部屋だなと思った。さらに室内の模様を訊き、それが自分たちが訪れたときと大して変わっていないのを知った。

 星村の記憶はだいぶ曖昧《あいまい》だったが、応接三点セット、本箱や洋酒|棚《だな》をかねた装飾棚《サイドボード》などすべて刑事が緑川を訪ねたときに自身の目で見たものばかりだった。

 永野と石井は打ちのめされて帰って来たが、二と三を担当した班にはいくらか収穫があった。

 まず高円寺コンドを再度当たった四つ本は、緑川の部屋区分が赤羽の部屋と似通《にかよ》っていることを発見した。間取りの平面図は管理人に事情を話して簡単に手に入れることができた。室内の模様も、何となく赤羽の部屋に似ていた。さらにその足で紀尾井町へ回り、二つの区分の構造の類似を確かめた。

「まず高円寺コンドの緑川の部屋ですが、この見取図にあるように南側のテラスに面して八畳の居間と四畳半の食堂が隣り合っております。この間取りは赤羽の部屋に酷似しております。ただ赤羽のほうにはその境界にアコーデオンシャッターが取りつけられてあり、死体発見時には閉まっておりましたが、星村を誘い入れたときはそれを開放しておいて、彼を眠らせたあと、高円寺へ移せば、まったく同じ場所であると錯覚させることは容易であると思います。シャッターは引っ越しのあとに閉めたものでしょう。

 緑川の奥八畳の居間には三点セット、装飾棚、ラジオ、掛時計などがありましたが、この三点セットはどこの応接間でも見うけられるありきたりのものです。

 次にサイドボードは組立式で、簡単に分解でき、きわめて小さく折りたためます。そこにC社発行の世界文学全集と、H社の百科辞典が並んでましたが、これは本のケースだけ移すことができます」

(画像省略)

 四つ本の報告につづいて、テレビ局員を当たった富永から、「十時ごろ緑川の電話による依頼によって、赤羽に翌日のスタジオ入りの時間を確認した」という情報が得られた。本人に直接確かめれば簡単にすむところを、わざわざテレビ局員を経由させるところに不自然な作為が感じられた。

 緑川明美の情況はますます黒くなってきた。永野説は大きく進展したように見えたが、かんじんの永野自身の報告がそれを根本から否定するようなものだったのである。

 永野の着眼はよかったが、一階と五階の�高差�は致命的であった。

 この高差があるかぎり、家具や本のケースは運べても、星村を移す[#「移す」に傍点]ことはできない。

 捜査はふたたび暗礁《あんしよう》に乗り上げた。

[#改ページ]

 絢爛《けんらん》たる痴態

「お姉さま、私こわい!」

 ちぎれるほどに強く吸い合った唇《くちびる》を、もっと強くからみ合わせようとしてねじるようにずらしたわずかな隙《すき》に、ルミはあえぐように言った。

「お馬鹿さんねえ、何もこわいことないじゃないの」

 唇から相手の顎《あご》へ頬《ほお》へ目へと、唾液《だえき》でベトベトに濡《ぬ》らしながら、自分の唇を忙《せわ》しなく這《は》わせていった明美が、ルミの耳朶《みみたぶ》に蛇のように舌端をチロチロと延ばして言った。

 卓子《テーブル》の上に置いたトランジスター・ラジオからは、明美の好きなジェット・ストリームのテーマ音楽が流れはじめていた。真夜中の豪華マンションの密室では、これから女二人だけの秘密の悦楽が始まろうとしていた。

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