「死ね!」
次の瞬間、凶暴な意志をこめて、ナイフは突き出された。
「た、す、け」
最初の一撃は、位置が幸いして、辛《かろ》うじてかわせたが、第二撃目のために手もとへナイフをたぐりこんだ風見の身構えの前で、紀久子は竦《すく》んだように動けなかった。
助けを求める声も、震えてとぎれた。渾身《こんしん》の力をこめて第二撃が送り出された。避けもかわしようもない攻撃である。
(もうだめ!)紀久子は思わず観念の目をつむった。異変はその瞬間に起きた。紀久子の後方にいた冬本が、いつの間にか、風見との間に立ちふさがっていた。
「逃げなさい、早く!」
冬本は風見の体にすがりつくような姿勢をして言った。その足もとに、赤黒いしみが落ちて、みるみるその面積を広げていく。
「冬本さん!」
紀久子はしみの正体を知って愕然《がくぜん》となった。
「行くんだ、早く!」
冬本が叱咤《しつた》した。彼が紀久子に初めて下した命令であった。だがその声は急速に弱まってゆく。
冬本は、風見の紀久子へ向けた第二撃をどう防ぎようもないと知ると、自分の体をその緩衝《かんしよう》に使ったのである。
風見を攻撃すれば、自分自身も助かったかもしれないが、紀久子を守ることだけに頭を占められていた。
憎悪のかぎりをこめた凶器は、憎悪の対象との間に立ちふさがった冬本の体に向かって、距離が狭《せば》まったことによってさらに増幅された攻撃力をもって、突き抜けよとばかり叩《たた》きこまれてきた。
腹部の最も柔らかい部分に刺《さ》しこまれた凶器は、打撃の対象を誤った攻撃者の愕《おどろ》きをつたえて、内臓の奥をギリギリとえぐった。
「社……長……、死ぬのは……おれ一人で……充分」
冬本がきれぎれに言ったとき、風見が離れた。手に何も持っていない。凶器は冬本の腹部に刺しこまれたままだった。血があまり出ていないのは、凶器が蓋《ふた》をしたような形になっているせいかもしれない。
風見の支えを失ったので、冬本の体は前かがみに倒れた。倒れたはずみに、腹部に刺しこまれた凶器の頭を床《ゆか》が打って、切っ先が背中へ抜けた。
「冬本さん!」
紀久子が駆け寄って抱き起こした。初めて人を殺した風見は、そのあまりにも凄惨《せいさん》な様子に、殺意をすっかり喪失して、放心したように突っ立っている。
「紀久子さん」
冬本が呼んだ。いつも社長とばかり呼んでいた彼が、初めて呼んだ彼女の名前だった。
「か、顔を見せてくれ」
「ここにいるわよ」
「か、か、おを、みせて……くれ」
紀久子は胸に抱えた冬本の顔に自分の顔を寄せた。彼の目は確かに紀久子に注がれていたが、その網膜はすでに何ものも映していないようだった。
2
三月十四日、——日本万国博ファンファーレ。千里丘陵に壮大なたそがれがかかり、夕日が刻一刻その赧《あか》みを増しながら地平線に近づくと、二万平方メートルのお祭り広場は、無数のスポットライトの光束の中へ花やかに浮かび上がった。
その日——万博史上例を見ない巨大な空間に人類の未来を告げる光と電子音が交錯して、平和への祈念をこめた千羽鶴がその空間を誇らかに舞う。祝砲五発、六百発の花火、三万個の風船が二百三十万平方メートルの広大な会場の空を埋めつくす。
——目を上げよ
目を上げよ
ふりそそぐ太陽の光
まゆ上げて未来を呼ぼう
未来をここに——
と「エキスポ'70賛歌」の大合唱が始まる。七十七参加国国旗の掲揚、国連の鐘が高らかに鳴る。紙ふぶきが舞う。全噴水が光をほとばしらせるように噴き上がる。たそがれの色が濃くなるにつれて、広場にかかるハーフミラーの大屋根は、千三百個の千ワット電球、フラッシュランプ、フットライトの光を受けて、それ自体巨大な発光体のように燦《きらめ》いてくる。
さざなみのように走る音、投光器で描き出された炎や雲。いまここに世界を舞台とした「祭り」が始まろうとしており、すばらしい世界そのものが現出しようとしていた。広場の電光掲示板に共通テーマ「人類の進歩と調和」という文字が鮮かに浮かび上がった。
ここには暗い影の一すじもない。だがこの人類交歓の音と光の一大ページェントにそむいて、美村紀久子は一人北へ向かう列車の乗客になっていた。荷物はスーツケースと骨つぼだけだった。それだけが彼女の、この十数年、「世の中との闘い」の結果得たものだった。
万博プロデューサーも自発的に下りた。下りざるを得ない状況になっていた。キクプロも、もうつづける意志はなかった。あれは美しく巨大な楼閣《ろうかく》であった。だがその中身は虚名と虚飾で腐っていた。
プロの内部で元マネジャーと現マネジャーが女社長を争った結果、現マネジャーが刺殺されるという不祥事件を起こしたキクプロに世の非難は集中した。この事件を契機に、いままで息をひそめていたアンチ・キクプロの勢力が一気に台頭した。
まず芸能各誌がこぞって事件を特集し、日ごろ抑圧されていたうっぷんをこのときとばかりに晴らした。そうでなくとも、ニュースバリューの高い事件である。
——腐り切ったキクプロ——と事件そのものを扇情的に報じただけではなく、キクプロとタレントとの契約関係まで採り上げ、
——タコ部屋なみの収奪——
——女工哀史的芸者|置屋《おきや》——
——詐欺、泥棒的行為——
——二百人のタレントの生血を吸う、現代のドラキュラ——ときめつけ、果ては、「日本音楽文化を堕落させる元凶」とまで断ずるものがあった。
要するにキクプロが採り入れている、所属タレントをプロの首脳の家に同居させての「ヒナから育てる」システムが、「タコ部屋」であり、「芸者置屋」であるというわけだった。
キクプロにたてついてホサレていた「元キクタレ」が、「月一千万も水揚げしたのに、月給《ギヤランテイ》を五万円しかもらわなかった」などと公然と言い出した。
無名の新人を一人前のタレントに仕上げるには、個人差や運もあるが、最低三百万から一千万円ぐらいかかる。しかもようやく一本立ちしても、ペイするかどうかわからない。金のかけ損というケースが多い。�利益管理�を徹底しないことには芸能プロはやっていけないのであるが、タレントは売り出す前は、平身低頭、足の爪《つめ》までなめるのもいとわないくせに、いったん名前が出ると、自分の力でスターになったかのように錯覚して、ギャラを袋ごと欲しがるようになる。彼らにはキクプロという組織の力で売り出せたことが全然わかっていない。
だがタレントは酷薄であり、敏感だった。いままでは、組織の強靭《きようじん》さを誇るキクプロを離脱することが自滅行為に等しいことをよく弁《わきま》え、従順な羊の仮面をかぶっていたタレントたちが、いまその組織力が根本から揺れかけていることを動物的な嗅覚《きゆうかく》で嗅《か》ぎとって次々に牙《きば》を剥《む》き出した。
この�造反�に拍車をかけたのが、かねてより冬本の冷酷なタレント管理に反感をもち、彼のカムバックを快く思っていなかった風見派の社員やタレントが、待遇改善を叫んで�内ゲバ�の火の手をあげたことである。
さらに、——プロダクションの首脳間における情痴の殺人は、キクプロのいちじるしいイメージダウンをもたらし、キクプロのデモンストレーションのようなユニット番組、東洋テレビ「ワンダフル・サタディ」の視聴率が何と三・一パーセントという惨憺《さんたん》たる数字を記録したのである。
この番組出演者は、キクプロの象徴のような、ザ・ラーフターズをはじめ錚々《そうそう》たるメンバーばかりである。しかも早朝や深夜番組であればともかく、土曜日の午後八時からの花のゴールデン・アワーに惨敗を喫したのであるから、当のキクプロよりもテレビ局のほうが途方に暮れてしまった。
これを皮切りにして、アジアテレビの「ジャンプ・ザ・'70」「歌のプロムナード」、大東京テレビの「ヒット・スペシャル・オンパレード」「歌のページェント」、太陽テレビの「男ならやってみろ」「夜のプレイメート」などが軒なみダウン、キクタレの凋落《ちようらく》は目をおおうばかりとなった。
組織の上に大あぐらをかいたキクタレの不勉強や質の悪さに不満を覚えはじめていたファンが、プロ内部のスキャンダルが明るみに出ると同時にいっぺんに背を向けてしまったのである。
こうなると現金なもので、いままでは、蝶《ちよう》よ花よと下へも置かぬ扱いをしていた各テレビ局が、いっせいに背を向けた。
時を同じくして、アンチ・キクタレの各テレビ、ラジオ局のプロデューサーやディレクター六十数名が、「キクタレを切れ!」と署名を集めて決議文を出してきたのである。キクタレの粗悪さ、キクプロの専横と、番組に対する圧力や介入など、平素のうっぷんをこの機会に一気に晴らそうとしたのだ。
まさに四面|楚歌《そか》であった。さしも強大な組織力を誇ったキクプロも、いまや崩壊寸前にあった。実体もわからぬ巨大なモンスターと言われただけに、転落の斜面を転がりはじめると、自らの重量のために、加速度のつくのは早かった。巨大な楼閣《ろうかく》の容積は、その大きな部分を腐った膿汁《うみ》によって占められていたのである。うみが吹き出たあとには、廃墟《はいきよ》だけが空《むな》しく広がった。あたかもモンスターの死体のように。
(私は十数年前、北国の暗い病棟の窓から水平線にわずかに射しこむ明るい光に憧《あこが》れて、旅だった。女の武器を最高に利用して、女の可能性の限界を見|究《きわ》めるために。
そしてこれが限界だったのだろうか? 結局、私は何もかも喪《うしな》ってしまった。青春も、キクプロも、虚名も、私を命がけで愛してくれた男も。人は失うために得ようとするのだろうか?)
何もかも虚《むな》しかった。
車窓に光点がまばらになってきた。だが紀久子がいま向かいつつある北辺は、どこまで行っても、真の暗闇《くらやみ》がつづく過疎地でなければならない。朝がきて、見ているだけで悲しくなるような、風が空《むな》しく吹き抜ける荒野をひたすら北上して、外気の寒さが窓をミルク色に凍らした、あの病院《サナトリウム》のある海岸へ帰って行くのだ。まだあの辺に春はきていないはずである。
行けども行けども鉛色の空と、にぶい波のうねり、行く先のどこに人が住むのか、人の影も、家の煙も見えぬ海浜で、もう一度、自分自身をみつめてくるのだ。それからのことはそれから先に考えよう。
冬本の骨をどうして持って来たのか? 彼女は冬本の故郷を知らない。どこか北の方の、小さな町だとは聞いていたが、強いて確かめもしなかった。
彼女は遠い日、あの海岸で流木のような骨を拾ったことがある。あれは北の海で命を喪《うしな》った何かの生物の骨だったかもしれない。
紀久子は冬本の骨片をあの海浜にばら撒《ま》いてやるつもりだった。荒涼とした波と風と砂の中こそ、冬本の墓所にふさわしいと思った。
彼の骨片もまたいつの日か、サナトリウムで病を養う少女の手に拾い上げられるかもしれない。遠い日紀久子が拾い上げた北の海で死んだ寂しい生物の骨片のように。——
[#地付き](この作品では、昭和44年10月の時刻表を使用しました。作者注)
角川文庫『新幹線殺人事件』昭和52年1月10日初版発行
平成9年2月10日44版発行