冬本はさしあたってそう答えるよりほかなかった。
「なんとかするって、どうするのよ? この調子でいったら山口にみんな攫《さら》われちゃうわ。私、あなたの腕を信じていたんだけど、どうやら山口のほうが一枚上らしかったわね」
「社長!」
冬本は言ったなり、唇《くちびる》をかんだ。彼にとって山口と比較にかけて、劣位に見られるのが、最高の侮辱《ぶじよく》であった。そして紀久子はそのことを充分承知の上で冬本を苛《さいな》んでいる。
美しい女が、自分に寄せた男の心の屈折を玩《もてあそ》ぶ酷薄さを、紀久子も思うさま発揮した。傾斜が強いというより、一方的に傾斜している男は、その酷薄さを盃《さかずき》のふちまでなめなければならない。
「とにかくあなたは、これ以上に荒らされないように笹江さんをかためてちょうだい。私は、山口が食い荒らした分を取りかえすために彼に働きかけてみるわ」
「山口に働きかけるって、どうするつもりですか?」
冬本は弾《はじ》かれたように目を上げた。
「それはあなたに関係ないことでしょ」
紀久子はその言葉の残酷さを充分意識しながら、とどめを刺すように言った。
その夜遅く紀久子は、赤坂のTホテルのロビーで一人の男と待ち合わせた。某私鉄大資本が新設したもので、ホテル全体が一つの街のようになっている新しいタイプのホテルである。
従来のデラックスホテルに比べて、いわゆるかっこいい[#「かっこいい」に傍点]若者の姿が圧倒的に多い。
約束の時間より少し早目に待合わせの場所へ行った紀久子は、戦いに臨《のぞ》む兵士のような目で、肩を寄せ合って語り合う若者たちの姿を見ていた。
ロビーはそのまま通路《アーケード》につづき、その中央には光をあしらった噴水がある。そこを銀座の歩道を散歩するように屈託《くつたく》のない幸せな若者たちが歩いている。ホテルが街に押し出し、ホテルと街がとけ合ったようなムードである。
雰囲気《ふんいき》を大切にする現代人に、いかにも気に入りそうなホテルだった。そういう中で紀久子のような目をしている者は他にいなかった。それもそのはず、もしかしたら、今夜ここは紀久子にとって�戦場�になるかもしれなかったからである。
しばらく使うことのなかった武器も、久しぶりに使わなければならないかもしれない。そのつもりで下着もうすい色つきに替え、思いきってハイバストのカクテルドレスを着てきた。
だが自分の容貌《ようぼう》とプロポーションは、その大胆なデザインに充分に耐える自信があった。周囲の外人客が、見ぬ振りをしながら、熱っぽい視線を送っていることもよくわかっている。
相手は金にも女にも不自由しない男である。紀久子は今まで手強《てごわ》い相手を買収するときは、専属のタレントに因果を含めて、�供応�させた。決して強要[#「強要」に傍点]はしない。
「あの人に近づいておくと、あなたの将来にきっと損はないわよ」
と仄《ほのめか》すだけで単細胞タレントは、コールガール顔まけのことを平気でやった。だが、相手が大物になると、そんな小便くさいタレントでは陥《お》ちない。彼らはもうそんなものには食傷しているのだ。
そのときにかぎり、紀久子は自分の武器を使った。もはや若さにおいては、タレントにかなわない。だが紀久子には天性の妖《あや》しい美しさや成熟した肉の厚味と共に、天下の美村紀久子としての名声がある。
野心多き男どもにとって、美村紀久子と一夜を過ごすということは、自分の男としての偉大さを示す証《しるし》として大きな魅力なのだ。紀久子は自分の商品価値を正確に計算していた。また今日の相手は、それを評価できる男である。
待合わせの相手は、定刻きっかりにやって来た。山口友彦である。
「これはいけない、遅れたかな」
自分のほうが先に来たと思っていたらしい山口は、そこに思いがけなく紀久子の姿を見出して慌《あわ》てて時計を覗《のぞ》きこんだ。
「いえ、いいのよ、私のほうが勝手に約束より早く来たの」
「そうでしたか、しかし社長に呼ばれた上に、お待ちいただくとは光栄ですね」
山口友彦は、見るからに男らしい筋骨質の顔をほころばした。学生時代にボート部の主将をやったというだけに、体格も堂々としている。
性格も大胆率直で、翳《かげ》などというものは、みじんもない。
(冬本信一とこれほど対照的な男がいるだろうか)
紀久子は二人を比較しないわけにはいかなかった。彼らに共通な点といえば、荒々しい競争心と、そして自分に寄せる心の傾斜だけである。
紀久子はいまその共通点を彼女の野心の実現のために利用しようとしている。ふと胸の深所に鈍い痛みのようなものが走った。冬本の面影が紀久子の瞼《まぶた》の裏をよぎったからである。
どちらも自分にとって嫌《きら》いなタイプではない。むしろ好ましい異性である。その意味では、冬本と山口に優劣はなかった。
だが、無私の献身という点においては、冬本のほうが圧倒的に優れている。
あの男の、暗いひたむきな目の底には、自分のためには殺人すら犯しかねない切実なものがある。ときにはそれが重苦しく感じられることもあるが、それさえ忍べば、�忠実�な下僕として意のまま使えるし、事実そのように扱ってきた。彼の�忠勤�に対して自分は何一つ報《むく》いはしなかった。これからも決して報いることはないだろう。
冬本にとっては、紀久子のために働くこと自体が喜びなのであるから。——
ただで喜んで働く人間に対して、何もこちらから餌《えさ》を投げ与える必要はない。
だが、——いま目の前にいる山口は、冬本のようなわけにはゆきそうもなかった。冬本の紀久子への傾斜はプラトニックな偶像|崇拝《すうはい》的なものが多分にあったが、山口ははっきりと男の欲望の目で紀久子を見ていた。彼を料理するためには、それ相応の餌《えさ》を与えなければなるまい。
今まで冬本が紀久子に為《な》した無量の貢献に比べれば、これから自分が山口と�取引き�しようとするものは、まことに小さい。しかしその小さいものが、自分の最大の賭《か》けが成るか成らぬかの鍵《かぎ》となる。
紀久子が覚えた胸の痛みは、冬本に対するうしろめたさであったかもしれない。
紀久子は山口をロビーの奥にあるバーへ誘った。昼間はグリルに変わるこのバーは、壁面にきらびやかなクリスタルガラスを懸《か》け、背景に聳立《しようりつ》する高層ホテルの幾何学模様を、あくまでも都会的な構図に嵌《は》めこんでいる。
二人はここでブランデーを飲んだ。紀久子にとってそれは戦いの前の気つけ薬のようなものだった。
「ねえ」
ブランデーの酔いがほどよく回ったころを見はからって、紀久子は甘い鼻声で山口に囁《ささや》きかけた。
「はあ」
「私が今夜、どうして、急にあなたを呼び出したかわかる?」
「さあ、どうしてでしょうか?」
山口はとぼけたような口調《くちよう》で答えた。
「実はお願いがあるの」
「お願い? 恐いな」
山口はブランデーの香気をいつくしむようにグラスに近づけていた顔をあげた。
一瞬二人の視線がからみ合った。山口の目は紀久子の願いが何であるか察している。
考えてみれば、相互に対立する女社長と、敏腕マネジャーが、夜更《よふ》けのホテルのバーで人目を避けるようにして逢《あ》っているのである。好きな女から呼び出された形の、二枚目役の山口にしても、当然何らかの計算をしてきたものとみてよい。
「聞いてくださる?」
紀久子は、目に感情のありったけをこめて言った。おそらく自分の目は、斜め前方から落ちる間接照明を受けて、女の無限の神秘をこめたように濡《ぬ》れ輝いていることだろう。自分が最も自信をもてる光線の角度である。背景には、無数の窓群の灯《ひ》をちりばめた巨大なホテルが、自分の翳《かげ》の濃いプロフィルをよりいっそう蠱惑《こわく》的に仕立て上げる効果を出しているにちがいない。
席を占めるときに、充分計算した位置であった。そして山口は、その計算の効果がわかる男である。
「どうぞおっしゃってください。僕にできることなら」
山口はブランデーグラスを両手に包みこんだ。
「ロック・ホワイトマンとパッド・マシューが欲しいのよ」
「社長」
山口はグラスをカウンターの上へ置いた。
「私が星プロのマネジャーであることを承知の上でのリクエストですか?」
「もちろん充分すぎるほど承知してのことよ」
ふたたび二人の目が重なった。今度はどちらもはずさなかった。一方がもみこむように凝視《ぎようし》すれば、他の一方が抉《えぐ》り返すように目をこらす。
「譲りましょう、喜んで」
ややあって山口が視線を重ねたまま答えた。意外にも簡単に陥《お》ちた相手に、紀久子が無意識に気を弛《ゆる》めた一瞬の間隙《かんげき》をとらえて、
「僕は長い間、あなたが好きでした。あなたのリクエストだったら、いつでもどんなことでも聞く用意があった。いま、パッドとロックを喪《うしな》うことは、ジャズの目玉を喪うのと同じだ。しかしあなたがくれと言うんだったら喜んであげよう。このことによって僕はマネジャーのポストを、いや星プロの職を失うかもしれない。それでもいい。男として一度、このような途方もない贅沢《ぜいたく》をやってみたかった。好きな女性を喜ばせるために、自分の生きがいをかけた仕事を棒にふる。男と生まれてこんな豪華な贅沢はないでしょう。
紀久子さん、僕はあなたが好きで好きでたまらないんだ。どうしてもあなたが欲しい。代償にあなたの体が欲しいというのではない。それとこれとはまったく別の要素なんだ。あなたがくれと言ったからやっただけだ。
僕に一度でいいからあなたをくれ。そのためには何でもする。ジミーもクリスもやろう。笹江先生からも手を退《ひ》こう。僕には仕事よりもあなたのほうがはるかに大切なんだ」
突然浴びせかけられた山口の熱っぽい口説《くどき》の集中砲火の中で、紀久子は大きく揺《ゆ》れている自分を感じた。いついかなるときにあっても女は、男の熱い言葉が好きである。その上に酒がはいっている。甘いムード音楽が流れている。山口は好きな部類に属する男だ。
紀久子はそのとき、商取引の代償としてではなく、ただ女として欲するままに山口に身を委《ゆだ》ねようとする傾斜を強めつつあった。
そのかぎりにおいて、彼女のこれからの行為は、山口が譲ったジャズメンとは何の関係もなかった。結果においてギヴ・アンド・テイクの�取引き�になっても、熱っぽく語りかけた山口と、それを大きな心のゆらめきの中で受けとめた紀久子の間には、紛《まぎ》れもない人間の感情があった。紀久子はそんな心のありようを、あとになって大いにくやしがった。経営者にもあるまじき弱点を、つい晒《さら》け出してしまったような気がしたからである。
「紀久子さん、お願いだ。一度でいい、せめて今宵《こよい》一夜」
まるで恋人に訴えるように、訴えかける山口に紀久子は大きくうなずいた。
(今夜は武器としてではなく、男への贈り物として捧《ささ》げよう)
紀久子は定まった意志をもって立ち上がった。山口が忠実なナイトのようにつき従う。
二人がロビーから客室スペースのほうへ消えて行ったとき、照明の届かぬロビーの奥のほうでガチャリとガラスの砕ける音がした。ロビーの一角にしつらえられたソーダファンテンの客の一人が、どうしたわけか、カクテルグラスを握りつぶしたのである。
ガラスの破片が彼の 掌《たなごころ》 の皮膚を破り、血がぽたぽたとフロアに滴《したた》り落ちるのも気がつかぬように、客はたったいま、紀久子と山口が去った方角を凝視《ぎようし》していた。
「お客さま!」
愕《おどろ》いたバーテンダーが注意しても、まったく耳にはいらぬようである。暗い瞳《ひとみ》の奥で暗い炎を燃やしているその客は、冬本信一だった。
紀久子と山口との会話が何を語ったか、その声まで彼のもとには届かなかったが、彼らの間にどんな了解が成立したか、よくわかった。
「今夜、おれの夢が一つ消える」
虚《うつろ》な声でつぶやいたとき、冬本が企画の中に加えたフランスのシャンソン歌手の、甘く悲しい歌声がBGMに乗ってきた。
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こだま166号の容疑者
1
緑川明美や松田久男、および渡辺車掌の申立てを基点に捜査が開始された。一般への呼びかけも行なったが、ひかり66号七号車に乗り合わせたという乗客は一人も名乗り出なかった。現代的な無関心の上に、かかりあいになりたくない気持ちが加わったからであろう。
七号車1ABCD席は新大阪駅から発売されており、そこの出札係にも当たったが、まったく何の収穫もなかった。新幹線の指定席券は、一週間前から、主要国鉄駅から売り出されるが、コンピューターによる発売で、どんな乗客に売ったかという記憶を出札係に求めることは、事実上の不可能を強《し》いるものであった。
しかし星プロとキクプロの対立関係を追った側には収穫があった。二つのプロの対立に加えて、美村紀久子をめぐっての山口のライバルとして、冬本信一というキクプロの制作部長《マネジヤー》が浮かんできたのである。
高輪《たかなわ》署に置かれた捜査本部での捜査会議で、大川《おおかわ》刑事は捜査結果を報告した。
「山口友彦と美村紀久子の両人は、赤坂《あかさか》のTホテルにおいてここ一か月の間に三、四回密会したことが、同ホテルの記録によって確認されました。この密会のあとに、それまで星プロの扱いであった万国博の有力な企画が、キクプロ扱いに切り替わっておりますので、両人の肉体関係は、取引きであったものと考えられます。一種の売春ですな。もともとその企画は、冬本信一が立てたものを、山口友彦が横から奪ったものでした。冬本と美村との間に肉体関係があったかどうかは確認されておりませんが、冬本の周辺の聞き込みにより、冬本が美村紀久子に思いを寄せていた事実は、ほぼ確実です。美村と山口が初めてホテルへシケこんだときロビーのすみからもの凄《すご》い顔でその後ろ姿をにらんでいたのが確かに冬本だったと、ホテルのボーイの証言もありました」
「仕事と恋の怨《うら》みという二重の動機か」
石原《いしわら》警部は大川が何気なく使った�密会�という古風な表現のかげに、彼がこの捜査に払った努力の大きさを読み取った。大体、男女の忍び逢《あ》いの場所を突きとめるのさえ容易ではないのに、ホテル業者は客の秘密に関して口が堅いものである。医者や弁護士のように秘密の保持を法的に認められてはいないが、公的な捜査協力の要請に対しても拒否的であった。
「しかしそうなると、山口友彦はライバル社の社長の体と引きかえに、自社の利権を売ったことになるな。山口にとって美村紀久子の体はそんなに魅力あるものだったのか?」
石原は、緑川明美の花やかな貫禄《かんろく》を思い出した。確かに週刊誌のグラビアなどで見かける美村紀久子は、男たるもののすべてを狂わせるような妖《あや》しい女の魅力にみちているが、緑川明美とて決してそれにひけ[#「ひけ」に傍点]を取らない妖しさがあった。
しかも緑川明美から全幅の信頼を寄せられていた事務局長が、ライバル社の女社長の色じかけにそんなに簡単に口説《くど》き落とされるものであろうか? 石原警部の疑問はそこにあった。
「山口友彦はだいぶ以前から美村紀久子に執心《しゆうしん》であったようです。色恋の沙汰《さた》はまた別ですからな、どんな人間の分別《ふんべつ》も狂わせる」
大川は急に神妙な顔になった。若い刑事が二、三人クスッと笑った。頭頂からつるりときれいに禿《は》げ上がった大川が、いかにも恋愛の大経験者のような顔をして言ったのが、おかしかったのであろう。
「ところが山口のやつ」
大川はすぐに�刑事|面《づら》�に戻って、
「杉岡進《すぎおかすすむ》という自社専属のタレントとレズ関係にあることがわかったのです。杉岡というのは、最近|流行《はやり》の男だか女だかわからない�中性的男怪�なんですがね」
「チュウセイテキダンカイ?」
石原警部は突然妙な新語がとび出してきたので面食らったらしい。
「一種のオカマですよ」
「ああ、そういう意味か」
「しかしそれだったら、レズではなくホモじゃありませんか?」
佐野《さの》刑事が異議を唱《とな》えた。
「そうか、レズとは女同士の同性愛だったな」
大川は苦笑した。いずれにせよこのような性|倒錯《とうさく》の世界は、彼にとって別の次元のもののように理解の外にあった。それは他の捜査官にしても同様であろう。佐野刑事が二つの言葉の相違を知っていたのは、若いせいである。
「杉岡は何と山口と�同棲《どうせい》�しているのです。最初は山口の女房かと思いましたね。下手《へた》な女よりよっぽど色っぽい。こいつがわれわれの前で『あの人が、あの人が』とさめざめと泣くのです。まったく、芸能界の男女関係は、どうなっているのかさっぱりわからない」
大川は憮然《ぶぜん》たる顔つきになった。
「すると今のところ冬本信一が最有力の容疑者ということだな」
「そうです。まず美村紀久子をめぐっての情痴|怨恨《えんこん》、次に仕事に関してのプロフェッショナルとしての屈辱」
「ちょっと待ってくれ。美村紀久子は確かに山口に奪《と》られたが、そのおかげで結局、万博の企画は奪《うば》い返せたのじゃなかったのか? とすれば、仕事に関しての動機は薄れることになる」
石原警部が大川を制した。
「いやそんなことはありません。奪い返したのは、冬本自身の力によるものではないのです。わざわざ社長の出馬をあおがなければならなかった。あまつさえ彼女に最終的な武器を使わせてしまった。これはプロの誇りの強い男には、我慢ならない屈辱であったにちがいありません」
「緑川明美のほうに動機はないか?」
「こちらのほうは、冬本に比べるとだいぶ弱くなりますが、まったくないということもありません。自分のマネジャーを美村紀久子に奪われた形になっているのですから」
「ともかくその二人のアリバイを当たってみよう。大川君は下田《しもだ》君と組んでひきつづき冬本を洗ってみてくれ。こちらは緑川明美の周辺を洗ってみよう。緑川が山口の死体を確認に来たとき、一生懸命表情を殺していたが、何か特別の感情があったようだ。いままで特に目をかけてきた腹心の部下が敵に寝返った。可愛《かわい》さあまって憎さが百倍、緑川も充分な動機を持っているよ。それから杉岡進も見逃せないな。ホモではあっても�愛人�に裏切られたんだ」
石原警部は捜査員を三手に分けた。
2
大川と下田の両刑事が冬本信一を渋谷《しぶや》のキク・プロダクションの事務所に訪問したのは、その翌朝である。今までは周辺からの捜査で、本人に直接当たるのはこれが初めてであった。
犯罪捜査において急ぐあまり、最初から被疑者に直接当たることは拙劣な方法であるとされる。それ以前に、できうるかぎり手をつくして、本人の外周から多くの捜査資料を収集しておくほうが、その後の捜査を円滑に進める上にきわめて重要である。
アリバイ捜査の場合は、できるだけ容疑者に早く当たったほうがよさそうだが、これは容疑者が捜査線上に浮かび上がってからのことだ。それも事件発生から容疑者割出しまでに、ある程度の時間が経過してしまうと、逃亡のおそれがあるとき以外は、多少の遅れは影響がない。
冬本が現在東京にいることはすでに確かめてあった。彼が毎朝十一時ごろに出勤して来ることも、わかっている。刑事らは予告をせずに訪れて行った。もちろん抜打ち的に当たってその反応を見るためである。
もっとも捜査陣が動き回っていることは、冬本も充分知っているだろうから、いずれは刑事が来るものとしての構えはとっているであろう。
キク・プロダクションの本部事務所は、渋谷から青山学院の方角へ向かって宮益《みやます》坂を少し登った貸ビルの中にあった。六階建ての小ぎれいなビルで、プロダクションはその六階スペースを全部借り切っている。
十一時少し過ぎに事務所へ着いた二人の刑事は、六階の受付で名刺を出して冬本に面会を申し込んだ。警察手帳の提示は相手に不必要な緊張を与えるので、やむを得ない場合だけに限っている。
二人は渋谷方面の見晴らしがよい小部屋へ通された。受付嬢の態度から、二人は冬本がすでに出勤していることを確信した。
部屋の周囲を、テレビでなじみになっている人気歌手やタレントのポスターで、壁面が見えないほどに貼《は》り埋《うず》めている。
「これがみんなキクプロのタレントなんですかなあ」
下田刑事が感に耐えたような声を出した。
確かに彼らの周囲には日本の芸能界の人気者のほとんどすべてが顔を揃《そろ》えているようであった。
「たかが芸人《タレント》の斡旋屋《ブローカー》」と高をくくって来た外来者は、まずこの応接室に通されて、キクプロの偉大さを見せつけられることになる。またそのようなデモンストレーション効果を意識して、この部屋は意匠《いしよう》されてあるようであった。
壁は薄いらしく、奥のオフィスのほうから間断ない電話のコールサインや、社員の歯切れのよい応答が聞こえてくる。
「え? 何だと! 春木《はるき》ひかるを明日の午後六時までにNHKへよこせって? あまり馬鹿言うなよ、彼女は五時四十五分まで|アジテレ《アジアテレビ》に出てるんだ。十五分で河田《かわだ》町から内《うち》 幸《さいわい》 町まで行けると思ってんのか? 顔を洗ったのかよ、今朝は!」
「いやあもう何とも申し訳ないことになっちゃったんですがね、若月《わかつき》さゆりがね、札幌《さつぽろ》から帰って来られないんですよ。天気が悪くて飛行機が出ないんだなあ、あ、もうお怒りはごもっとも、しかしねえ、相手が天気じゃあ」
伝法《でんぽう》な啖呵《たんか》のあとに、しどろもどろの弁解がつづく。せわしなく動き回る人の足音。夜の遅い商売であろうに、午前中からすでに魚河岸のような活気があった。
「なるほど、さすがに日本芸能界の�王城�と言われるだけあるね」
と大川がうなずいたのも、このデモに完全にひっかかった証拠である。
戦後、米軍のキャンプやクラブ回りのジャズバンドから発足したキクプロも、いまや、傘下《さんか》に美村企画、美村芸能学院、美村洋楽出版、アドニス興行、キクスタジオなど五社の関連企業体をかかえ、資本金八千万円、専属タレント二百余名、その他専属作詞、作曲家やラジオテレビ局のキクプロ御用重役多数を擁《よう》して、テレビ局の番組まで企画して売り込む実力を持っているのである。その実力のほどがこの部屋で待たされていると、惻々《そくそく》と身に迫るようにわかるしかけになっている。
「いやあ、たいへんお待たせしました」
刑事らがキクプロの�威力�を充分認めたころを見計らっていたように、一人の男が部屋へはいって来た。痩《や》せた、表情の乏《とぼ》しい男である。寝不足なのか目が充血しているが、瞳《ひとみ》の奥の光は鋭い。いかにもやり手といった感じである。
キクプロの今日の大を築いた陰の功労者としてうなずかせるだけの雰囲気《ふんいき》があった。
冬本は、キクプログループの社名がれいれいしく印刷された名刺を刑事らに差し出すと、
「昼からちょっと出かけなければなりませんので」
と時間が少ないことを仄《ほのめか》した。
先刻の受付嬢が茶を運んで来た。冬本はそれに刑事らよりも早く手を伸ばし、一口音をたててすすると、真正面から、大川刑事に視線を重ねてきた。
ものおじしない態度というよりは、何でも訊《き》きたいことがあれば言ってみろというような開《ひら》き直った感じである。
大川も冬本の視線をひたと受けとめて、質問を始めた。このように相手が最初から構えているような場合には、何よりも強いねばりが要求される。
「星プロの山口友彦氏が、十月十四日のひかり66号の車内で殺害された事件は、すでにご存知のことと思いますが」
大川はのっけから事件の核心にはいった。このような形の事情聴取においては、まず、相手方の信頼をかち得るために、さりげない世間話などからはいるのが、常道であるが、大川は自分の経験から、冬本に対してはその必要はないと判断した。
それに冬本は時間がないと断わっている。
「そりゃああれだけセンセーショナルな事件の上に、手強《てごわ》い商売|敵《がたき》でしたからね。人並以上の関心をもって新聞を読みましたよ」
冬本は、目をそらせた。刑事の視線に負けたのではなく、煙草《たばこ》に火をつけるためだった。刑事らが見たこともないような、美しい包装紙にくるまれた外国煙草だったが、冬本は自分だけ美味《うま》そうに吸って勧《すす》めてはくれなかった。
もちろん勧められたところで大川らは自分の�いこい�を吸っただろう。
「それなら話が進めやすい。それでは事件当時、すなわち十月十四日の十九時から二十時ごろにかけて、いや正確には死体が発見されたのが同五十二、三分ですから、それまでの時間帯の行動をうかがいたいのです」
「アリバイ捜査ってわけですか」
冬本が薄く笑った。唇《くちびる》の右端が少しまくれ上がって、生来の無表情の効果を高める。
「そうです。山口氏と多少とも関係のあった方すべてにたずねていることなのですが、一つご協力願えませんか」
「多少とも関係があったと言われると否定できませんね。どうせそちらでは、仕事の上での星プロとのやりとりも、充分調べ上げておられることでしょうから」
「それで十九時から同五十三分ごろにかけては、どちらにおられましたか?」
大川刑事は、一直線に追及した。
大部分の人間はアリバイをたずねられると怒りだすものである。人権|蹂躙《じゆうりん》や名誉|毀損《きそん》だとして告訴するなどといきまく者もある。確かに善良な小市民として平穏な生活をつづけてきた人間が、事件の、特に殺人事件などの容疑者に擬《ぎ》せられていると知ったら怒るのが当たりまえである。
だがその怒りの中には、真犯人の演技や虚勢が混じっているから、捜査官は注意しなければならない。またアリバイをたずねられて、いまの冬本のように冷静に受けとめる者がいても、それだけで必ずしも怪しいと疑うことはできない。立場上、自分が当然疑われるべき位置にあることを知っていて、進んで協力する者もいるからである。もっともこのようなタイプは、きわめて数が少なくはあるが。
冬本がそのどちらに属するものか、いまの段階ではわからない。
「その日のことは、よく憶《おぼ》えていますよ。山口君とは仕事の上でかなり派手に渡り合ってましたから、遅かれ早かれ刑事さんがその質問をしに来ることは覚悟していたんですよ。しかし一言《ひとこと》お断わりしておきますが、山口君とは仕事上の対立だけで、個人的な怨《うら》みはありません。もっともこんなことを言っても信じてもらえないでしょうがね」
薄笑いをおさめた冬本の顔に虚《うつ》ろな翳《かげ》が走った。そんな弁解じみたことを言ったのをすぐ悔《く》いたような表情である。
「それで……?」
大川はひたすらに追いすがった。いつもの大川らしからぬ性急な聴取である。視線は依然として冬本の顔にねばりついている。この相手には直線的な攻撃が一番効果があると確信した、ベテラン刑事の自信のほどがうかがわれた。
「当日は、私も新幹線に乗っていましたよ」
冬本はしごく無造作に言ってのけた。
「新幹線!?」
大川とメモ役の下田が同時に声をあげた。新幹線車内で他殺死体が発見された同じ日に、最有力の容疑者がやはり新幹線に乗っていたとなると穏《おだ》やかではない。
「いやだなあ、何も新幹線と言ったって、同じ列車じゃありませんよ。早朝から深夜まで十分から十五分間隔で走っているんですからね」
冬本は刑事の気負いを軽くいなすようにつけ加えた。
「どの新幹線に乗ったのです?」
たとえ別の列車に乗っても、途中で被害者の乗っているひかり66号に乗りかえることは可能である。
「そんなに僕を犯人のような目で見ないでください」
冬本は初めて抗議らしい抗議をした。
「いや決してそんなつもりではありません。ただ同じ日にたまたま新幹線に乗っていたとうかがったものですから」
大川は意識的に目の光を弱めて、ポケットから煙草《たばこ》を取り出した。相手がどうせそれを話すことは計算に入れている。そしてそれは刑事の気負いを根本から覆《くつがえ》すような内容であるにちがいない。
そうでなければ、わざわざ自分から捜査陣の注意を惹《ひ》きつけるような発言を、するはずがない。その自滅的な発言も、これから追加されるべき言葉によって救われることになるからである。冬本の抗議も、その�追言�の効果を確信して発せられたものであろう。
ひたすらな追及を、まずここで一服というのも、大川のかけひきの一つであった。残り少ないいこいの紙袋から、よじれかけた一本を抜き取ると、まず下田に勧《すす》め、そして自分の分を口にくわえる。
下田が火をつけてくれた。そのとき大川は、せっかく受付の女の子が出してくれた茶を一口もすすっていないことに気がついた。やはり少し余裕がなさすぎたかな、と思った。
「それなら結構です。どうせ疑われることは覚悟していたんですから。あの日にはこだまに乗っていました。万博の企画の最終的な打合わせに、万準、万博の準備会ですが、そこへ行っての帰途でした。新大阪発十六時五十五分発のこだま166号です。おたずねの時間帯には浜松《はままつ》−三島《みしま》間を走っていたことになりますね。そうだ、時刻表をもってきたほうがわかりやすい」
冬本は身軽に立ち上がって、オフィスのほうから列車の時刻表を取ってきた。
「あいにく十月号の時刻表がないのですが、新幹線のダイヤはまだ変わっておりません。これをごらんいただくとわかると思いますが、私が乗ったこだま166号は、山口君の乗ったひかり66号より十分遅く発車します。こだま166号は十九時一分が浜松、十九時五十七分が三島となり、ほぼおたずねの時間帯に一致するわけです」
冬本はそう言って勝ち誇ったような目をした。刑事らにもその目の意味がよくわかった。
こだまはひかりよりも途中停車駅が多く、東京−大阪の所要時間が四時間十分と、ひかりよりも一時間はよけいにかかる。同じ速力であっても遅れて発車すれば追いつけるはずがないのに、十分も遅く発車するこだまがひかりに追いつく可能性は絶対になかった。
大きく譲って何らかの方法で途中で追いつけたとしても、それは名古屋以前(大阪寄り)でなければならない。何故《なぜ》ならひかり号は名古屋−東京間はノンストップであるからだ。
ひかり66号の名古屋発は十七時五十三分、したがって十九時より一時間という死亡推定時間からいっても被害者が襲われたのは名古屋−東京間、それもかなり東京寄りの地点であることが明らかである。
解剖による死亡推定時間は、十九時から一時間の幅をもっているが、死体があまり早く発見されると、犯人がひかり号車内に閉じ込められるおそれがあるところから、犯行の場所はかなり東京寄りの地点、大川ら現場検証に立ち会った鑑識や捜査官は、新横浜−東京の間であろうとにらんでいた。
そこまで狭く限定をしなくとも、被害者の死亡推定時間に浜松−三島間を移動中であった者が、はるかに前方(東京寄り)を走っているノンストップのひかり号に乗り移り、殺人を犯せるはずがなかった。しかもこだま166号が三島駅へ進入した時刻には、ひかり66号はすでに東京駅へ着いたあとなのである。
(画像省略)
時刻表で見るかぎり、名古屋−東京間ノンストップのひかり66号が、後続するこだま166号の十九時−二十時(正確には死体が発見された十九時五十二、三分までであるが、以後、便宜上二十時とする)にかけての走行中、どの地点を走っていたか、時刻表がブランクになっているためにわからなかったが、新大阪発十分の遅れは、両列車の速力の相違に比例して、名古屋−東京間においては幾何《きか》級数的に増大している。そして先行のひかり66号が終着の東京駅へ到着するときには、こだま166号に東京−三島間、約百二十キロの距離をあけているのだ。
もし冬本の申立てに嘘《うそ》がなければ、彼のアリバイは完璧《かんぺき》である。
「あなたがそのこだま166号に乗ったということを証明してくれる人がいますか?」
大川は、ようやく追いつめた獲物が、網目からすり抜けて行くような失望感に耐えながら、辛《かろ》うじて立ち直った。
乗ったというだけでは、何の価値もない。第三者の証言か、その事実を証明する直接的な物証があって、初めて冬本のアリバイは成立する。
「あいにく一人旅でしたので、そういう証明をしてくれる人はありませんね。車内でも知った人に逢《あ》いませんでした」
「隣りの席の人と話をしませんでしたか?」
大川はふたたび目の光を強めた。
「その日はガラガラで、僕の乗ったハコには五、六人しかおりませんでしたよ。自由席でしたがね、二人分の座席にゆったりと広がってきましたわ。もっとも隣りに乗客がいても、新幹線の中では、話などしませんね。旅は道連れなんてえのは、奥の細道時代の伝説ですよ。われわれ昼も夜もない商売では、せめて自分を取り戻せるのは、乗物の中だけです。そんな貴重な時間を、どこの馬の骨ともわからぬ�道連れ�に奪われたくはありませんからね」
冬本の表情のない口調《くちよう》にいくらか熱がこもったようである。それが刑事らには、彼がこだま166号の中で�孤独�になるのに、いかに無理のない情況にあったかを訴えているようで、作為を感じさせた。
「それでは結局、あなたがこだま166号に乗ったことを証明してくれる客観的な資料は、何もないことになりますね」
大川が使った客観的資料というやや硬い用語は、彼の硬い口調とあいまって、冬本の必死の陳弁にとどめを刺したように聞こえた。