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作者: 当前章节:15397 字 更新时间:2026-6-23 07:44

「いや証人はおりませんが、そのような資料ならばあります」

 冬本は平然たるものであった。

 灰皿には四、五本の吸いがらが置かれているだけである。その中で冬本のものは、最初に吸った一本だけだ。このような場合、聴取を受ける相手方に心の動揺があると、やたらと煙草《たばこ》をふかすものである。

 灰皿のさびしさは、冬本の自信のほどを示すものと見てもよかった。

「資料がある?」

「電話をかけたんですよ、こだまの車内から。たぶん記録が残っているでしょう。当日のこだま166号の乗務員の記憶にも残っているかもしれません」

「その電話は何時ごろ、誰《だれ》にかけたんですか?」

 大川は身を乗り出した。東海道新幹線の列車内には公衆電話が備えつけられていて、走っている列車内から東京、横浜、名古屋、京都、大阪の五都市に電話がかけられるようになっている。

 もし冬本がこだまから電話をかけていれば、列車公衆電話の車内扱い者のところに記録が残っているはずである。これは冬本がこだま166号の乗客であったことを示す決定的な証拠となる。

「二回かけました。最初のは十七時二十分ごろ、確か大津《おおつ》を過ぎたあたりで申し込みました。二回目は二十時五十分ごろ横浜と東京の間だったですな」

「二回もかけたんですか?」

 大川にはその二回という意味の重大さがわかった。もし彼の申立てが真実であるなら、たとえ彼が何らかのトリックを使ってこだま166号からひかり66号へ乗り移れたとしても、犯行後またひかりからこだまへ戻ることは不可能なのである。

 つまり冬本のアリバイは二重の堅牢《けんろう》な防壁によって鎧《よろ》われることになるのだ。

「どちらも同じ相手ですがね。山村という東洋テレビのプロデューサーと、ある番組の企画について打合わせをしたのです。山村氏に当たってもらえばすぐわかると思います」

 冬本の口調は自信にあふれていた。

「その山村氏とかいうプロデューサーの電話番号は?」

「新番組の編成会議で千代田《ちよだ》荘という旅館に泊まっていました。電話は東京二六一−四八六一です」

「もう一つ念のためにうかがいますが、あなたが乗られたのは、こだま166号の何号車のどの辺の席でしたか?」

「さあ普通車の自由席ですから、号車数もシートナンバーもはっきり憶《おぼ》えておりませんが、確か五号車か六号車の前部寄りの通路側シートでした」

「通路のどちら側ですか」

「進行方向に向かって左側だったと思います」

 こだまの自由席となると、車掌の検札の記録には留《とど》められないと思うが、当日、車内がすいていたということなので、乗務員の記憶に残っているかもしれなかった。さらに冬本が十三日の夜泊まったという大阪のホテルの名前を聞き取ったとき、

「部長、そろそろお時間です」

 冬本の部下らしい青年が呼びに来た。時計を見るとすでに正午を回っていた。本当に用事があるのか、それとも刑事を早く追い返すために、あらかじめ部下に言い含めておいたのかはわからなかったが、大川らにしても訊《き》くべきことはすべて訊き終わっていた。

「いやこれは、たいへん長い間おじゃましまして」

「こんなことでお役に立てれば幸いです。また何かありましたらどうぞご遠慮なくお越しください。あらかじめ電話をいただければ、時間をあけてお待ちしております。私としても早くすっきりさせたいことですからね」

「ご協力を感謝します」

 大川は立ち上がりながら、冷えた茶を一息にすすった。

「それからこれが山村氏の局の電話番号です。制作第一課・内線45です。いまごろは、もう出勤しているでしょう」

 冬本は、刑事らのこれからの立ち回り先を見ぬいたように言った。それを捜査陣への挑戦ととれぬこともなかった。

「奴《やつこ》さん、自分のアリバイに相当の自信をもってるな」

 ビルを出ると、大川が言った。

「しかしテレビ局のプロデューサーと、芸能プロのマネジャーはなあなあ[#「なあなあ」に傍点]じゃないですかな。各テレビ局には、キクプロから�月給�もらっているプロデューサーや、ディレクターがいるという噂《うわさ》があるくらいですから」

 この事件が発生してから、担当捜査官は芸能プロダクションの内情《インサイド》をかなり勉強していたから、大川にも下田の言葉の意味がよくわかった。

 芸能プロが巨大化し、勢力を拡大してくると、�お座敷�をかけるテレビ局のほうが芸能プロに追従するようになる。テレビ局の主体性や番組自体のもつテーマよりも、プロダクション側の営業方針《ポリシイ》や、人気タレントの横車が優先される。

 特にめぼしいタレントスターを関西の星プロと二分するような形で握っているキクプロは、

「スターを制するものは芸能界を制する」�芸能プロの力学�によって、現場のディレクターやプロデューサーを、あたかも自社の�私兵�のように支配しているとのことであった。

そんなプロデューサーの証言が、きわめて信憑《しんぴよう》性に乏《とぼ》しいのは、当然である。冬本から頼みこまれ、力関係に押されてアリバイ工作の片棒をかつぐということは充分に考えられるのだ。とにかくキクプロに叛旗《はんき》をひるがえして、持ち番組からおろされたディレクターもいるほどに、キクプロの勢力は強大なのである。その「陰の社長」と囁《ささや》かれる冬本の芸能界における発言力の大きさも、推《お》して知ることができる。

 冬本が、自分のアリバイに対して示した自信のほどは、彼が背負ったキクプロの権力の大きさにあぐらをかいたものか、あるいは無実の者のもつ真のアリバイに寄せた安心感によるものかはわからない。

「しかし新幹線の電話扱い者のほうに記憶があったら、たとえなあなあ[#「なあなあ」に傍点]のプロデューサーの言葉でも、証拠価値が出てくるよ」

 大川は、冬本のアリバイを支えるもう一方の力点を指摘した。たとえなれあいのプロデューサーの協力は得られても、新幹線内の電話発信記録までは偽造できないだろう。アリバイという支点の両端は、プロデューサーの証言の荷重力《おもみ》と、こだま166号における電話発信記録の力点にかかる力《ウエイト》との微妙なバランスの上に成立している。

「とにかく山村というプロデューサーに会ってみることだな。それから冬本が泊まったという大阪のホテルも当たる必要がある」

 大川刑事は口をへの字に結んで、宙をにらんだ。彼はその視線の先の空間に強敵の顔をえがいていたにちがいない。

 刑事らは二手に分かれることにした。つまり大川は東洋テレビの山村プロデューサーを当たり、下田は新幹線の電話発信記録を洗うことにしたのである。二人一組が原則の捜査だったが、彼らは一刻も早く冬本の申立てのうらが取りたかった。

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 二つの発信

   1

 タクシーを奮発して東洋テレビへ駆けつけると、ちょうど食事を終わったばかりだという山村をつかまえることができた。忙しい人間に会うときは、相手がその場所にいることだけ確かめられれば、むしろ予告なしに行ったほうが目的を果たせる場合が多い。

 特にこちらが警察官だと知ると、何のかのと理由をかまえて敬遠する人間が多いのである。ぶっつけ本番に相手のもとへ飛びこんで行けば、警察官だけに居留守《いるす》や玄関ばらいを食わせることはまずない。しぶしぶながらではあっても、まずは相当の時間を割《さ》いてくれるものである。

 山村は、蒼黒《あおぐろ》い皮膚と神経質そうな目をもった男であった。ラフな茶の背広にノータイ、太い黒ぶちの、うすく色のはいった眼鏡《めがね》をかけている。いかにも、遊びと娯楽を創造する、テレビのプロデューサー然とした男であった。

 大川が受付を通して刺《し》を通じると、待つほどもなく山村はロビーへ出て来た。昼食後の貴重な憩《いこ》いのひとときを、突然の刑事の訪問によって奪われたのが面白くないとみえて、精一杯の仏頂面《ぶつちようづら》をしている。

「山村ですが」

 彼は大川に名刺もさし出さなかった。

「突然お邪魔して申し訳ありません。実はキク・プロダクションの冬本氏のことに関して少々うかがいたいことがありまして」

 大川はせいぜい下手《したて》に出た。

「キクプロですか」

 山村は吐《は》き出すような口調《くちよう》で言った。大川は、「おや?」と思った。山村の口調の中に、作為ではない、キクプロへ向けた憎悪のようなものを感じ取ったからである。

「キクプロのどういうことですかね。仕事の性質上つきあってはおりますが、ああいう手合《てあい》とはなるべく関わりをもちたくないと思っているのです」

 とつけ加えた山村の目には、明らかな反感があった。

「それはどういう理由からですか?」

 大川は当面の質問を保留して、山村が何気なくもらした言葉の意味を掘り下げてみることにした。山村がアンチ・キクプロとなれば、彼の冬本に対するアリバイの証言には信憑性《しんぴようせい》が生ずるからである。

「ここだけの話ですが、あいつらは芸能界のダニ[#「ダニ」に傍点]ですな。一億総|白痴《はくち》化の最優秀功労者ですね。スタータレントをおさえているのをいいことに白痴番組の量産をやってきた。日本の音楽文化にはハナクソほども貢献していない。彼らが興味をもっているのは、�芸術�ではなく、金儲《かねもう》けだけなんです。儲けるためにそば屋の出前でも、洗濯屋の小僧でも強引にスターに仕立て上げ、儲かる企画だけを売りこむ。正直いってわれわれは、キクプロから企画を買う必要などない。われわれにはもっと優秀な企画を出せる自信があります。しかし彼らの企画を買わないことにはタレントが集まらないのです。事実上番組製作が不可能になります。何しろ相手はタレントを握っている。腹は立ってもその白痴的な企画を買わざるを得ない」

 山村は話しているうちにしだいに興奮してきたらしく、声が高くなった。

「大体、キクプロのタレントの個々の力量は、ナツメロ歌手の、爪《つめ》の垢《あか》にも及びません。春木ひかるにしても、ザ・ラーフターズにしても、キクプロを離れたら、洟《はな》もひっかけられないでしょう。風呂屋の三助《さんすけ》か、ラーメンの出前持ちでもさせたほうが、はるかに似合いそうなハナタレを、スターもどきにでっち上げて、ベラボーなギャラを吹っかけるキクプロと、それを許しているわれわれ製作側のだらしなさは、同律に批判されるべきでしょう。一体どうして本来イニシアティブを握るべきテレビ局の現場が、一芸能プロずれにこんなに振り回されてしまったのか? それは結局、われわれに確固とした編成方針がないからです。視聴率の上昇と製作費のコストダウンという大原則の前には、芸能プロとタイアップして企画を請《う》け負わせるのが一番手っ取り早く、安上がりになるわけです」

 山村はキクプロに対する不満を、局の経営方針へ向けた批判にまでエスカレートして滔々《とうとう》と弁じはじめた。

 専門的なことはよくわからぬながらも、彼がキクプロに対してなみなみならぬ反感を抱いていることはうかがい知れた。この男が、冬本のために、アリバイの偽証をすることは考えられなかった。

 山村のキクプロと局批判が一段落したところを狙《ねら》って、大川は質問の核心にはいった。

「十月十四日の十七時二十分ごろと、同じ日の二十時五十分ごろ、冬本氏からの電話を受けませんでしたか?」

「十月十四日? さあ急に言われてもちょっとすぐには思い出せませんね。何しろわれわれにとって電話は商売道具ですから」

 山村は眼鏡《めがね》をはずしてレンズを磨《みが》きはじめた。

「こだまの車内からかけているはずです。ある番組の企画打合わせのために電話したということですが」

「そうそう、そういえばそんなことがありましたな。私が担当のある歌謡番組に出演がきまったキクタレ、つまりキクプロのタレントのことですがね、そいつに歌わせる曲目を命令してきたんです。いいですか、命令したんですよ。あんまりのぼせ上がったことを言い出すもんだから大喧嘩《おおげんか》しました」

「それは十月十四日のことでしたか?」

「そうです。頭にきたのでよく憶《おぼ》えております。おかげでわれわれは、どうはめこもうかと四苦八苦したもんです」

 山村の言葉では、大喧嘩をしながらも、結局、冬本の言い分をのんだらしい。そのことがよけいに山村の癪《しやく》の種《たね》になっているようであった。だがおかげで大川の質問に対してはだいぶ協力的になった。

「どうして、こだまからということがわかったのですか?」

「交換手《オペレーター》がこだまからと言ったのです。それに通話中、列車の走行音が聞こえてきましたよ」

「こだまからと言った交換手は、電話局の者か、それとも旅館の者かわかりませんか?」

 山村は旅館で冬本の電話を受けたのである。とすれば、その声は中継した旅館の者である公算が強い。電話局の交換手が国際電話の通話者指定《パーソンツーパーソン》通話《コール》のように相手が電話口に出るまで面倒《フオロー》みるようなことはおそらくあるまい。

「声に聞き憶《おぼ》えがありましたから、たぶん旅館《ホテル》の者だったと思います」

「その旅館の者の名前はわかりませんか?」

 大川は旅館の係に当たってみる必要があると思った。少々飛躍するが、冬本がその従業員を買収して、別の場所からかけた通話を、こだまからだと偽《いつわ》って中継させる可能性がまったくないでもない。

 だが山村が通話中聞いたという列車の走行音はどう解釈するか? それも芸能プロのお手のもので、何か擬音を入れたのかもしれない。素人《しろうと》考えだが、列車の擬音などは、最も簡単に出せそうであった。

「さあ名前までは知りませんが、千代田荘はよく使いますので、声を聞けばすぐにわかります」

「もう一つ、山村さんが冬本氏からの電話を受けた正確な時間はわかりますか?」

「正確にと言われてもちょっと困りますが、最初の電話はよく覚えとりますよ。確か五時二十二、三分でした。冬本君が時間を訊《き》きましたからね。二回目は九時少し前でした」

「時間を訊いたんですか?」

「何でも時計が少し狂っているとかで」

 それを一つの怪しい資料として刑事はメモにつけた。

 ともかく、山村の答は冬本の申立てと符合していた。列車ダイヤによれば、こだま166号は十七時二十分ごろは京都−米原《まいばら》間、二十時五十分ごろは新横浜−東京間を運転中である。

 もし下田が担当した新幹線列車内公衆電話の発信記録が、山村の証言と一致すれば、冬本のアリバイは確立することになる。

 大川は急に馬でも食えそうな空腹をおぼえた。そういえば今日は朝からまだろくなものを胃の腑《ふ》に入れていなかった。

   2

「こだま」を担当した下田刑事は、東京駅で十月十四日のこだま166号に乗務した車内公衆電話の扱い者が、たまたまその日、こだま134号に乗務して東京へ向かいつつあることを知った。

 こだま134号の東京着は、十五時四十五分である。それまで約三時間余の余裕があった。彼は思いついて捜査本部へ電話を入れ、冬本信一の写真を至急手に入れるように要請した。こだま乗務員という新しい証人の出現におよんで、冬本の写真がぜひとも必要になったのである。幸い乗務員は今日は東京泊まりだそうだった。

「芸能プロのマネジャーですから、各テレビ局か、芸能出版社を当たれば割合簡単に手にはいるんじゃないですかな。本人から直接もらおうかとも思ったんですが、ちょっと、いまの段階では乱暴だと思い直しましてね、ええ、電話を受けつけた乗務員が着くまで電話局を当たってみます。写真がうまく今日中に手にはいったら、東京駅|八重洲《やえす》口の派出所へ届けてくれませんか」

 こだま134号が到着するまでの間、下田刑事はめまぐるしく動いた。

 まずちょうどホームに入線して来たこだま号に乗りこみ、車内からの通話方法を調べた。列車公衆電話はビュッフェに設置されてある。こだまの場合、五号車と九号車の二両にビュッフェがあるから、電話も二つあるわけである。

 冬本がこのどちらから通話したのか、両方の電話扱い者にチェックしてみなければわからない。

 車内からかけたいときは、通話希望者がまず車内扱い者に相手の電話番号を告げ、扱い者は担当の市外電話局列車台を呼び出し、市外局交換手はダイヤルで相手を呼んで、通話が始まる仕組みになっている。

 もちろんこの逆の場合の、加入電話から列車公衆電話へ通話することもできる。

 これだけのことを乗務員から聞いているうちに、下田が乗りこんだこだまは発車してしまった。気がついたときは、自動|扉《とびら》が閉まったあとである。

 下田はやむを得ず横浜まで運ばれる形になったが、ふと、この機会に自分自身で車内から電話をかけてみようと思った。

 電話の車内扱い者は、ビュッフェのウェイトレスが受け持っていた。下田が捜査本部の電話番号を告げると、そのウェイトレスは、「発信通話表」という書式《フオーム》に、着信局名や電話番号を要領よく記入していく。フォームにはそのほか、整理番号、料金区間別発信局名、通話時分、通話料金などの欄《らん》がある。

 これらの空欄《スペース》には、いずれ通話後に所要事項が記入されるのであろう。つまりこの通話表が発信の記録となるわけであった。

「この表はどこへ送られるの?」

 下田はウェイトレスに訊《き》いた。

「下りは大阪の電話局、上りは東京本局へ送られます」

 ウェイトレスは事務的に答えた。

「送られたあと、どのくらい保管されるの?」

「さあ、私知りませんわ。この番号、申し込んでよろしいですか?」

「うん、頼む」

 すでにウェイトレスに答えられる範囲を越えていたので、下田はうなずいた。

 ボックスにはいって待つほどもなく、送受器が鳴り、

「お出になりました。お話しください」

 と交換手がうながした。

 電話線の向こうで石原警部の声が答えた。

「こだまからかけてるんだって?」

「そうです。どうしてわかりました?」

「交換手がそう言ったよ。それに車輪が線路を伝わる音もする」

 下田が申し込んだ番号は本部直通のものだったから、署内の交換台を経由しない。したがって石原警部が聞いた交換手の声は、電話局の人間のもののはずだった。

 冬本の写真の入手を依頼したときに、手短かに報告しておいたので警部にはこの電話の実験の意味がわかった。

「冬本の写真な、芸能週刊誌から数枚手にはいったよ」

 石原は�実験電話�をガメツク利用してきた。

「そりゃよかった。それじゃあ今日中に乗務員からうらを取れます」

「冬本の発信の記録は残っていたか?」

「そのことなんですが、すぐに東京の市外電話局へ誰《だれ》かをやってくれませんか。過去の発信通話表はすべてそこへ送られるそうなんです。もうだいぶ以前になるから残っているかどうか」

 下田はそれが心配だった。すでに事件の日以来一か月近く経過している。その間電話局が、毎日上下百本をこえる新幹線車内公衆電話の記録を保存しておくものかどうか、下田にはまったく自信がなかった。

 通話表がなくなっても、乗務員の証言は得られる可能性がある。だが彼らの証言と、発信電話番号が、千代田荘のものとぴたりと一致してこそ、冬本のアリバイは完全無欠のものとなるのである。

 下田は、すでに本部のほうへ報告がいっていた大川の捜査経過を聞いてから電話を切った。山村が冬本との通話を認めたとなると、ますますこちらの捜査が重要になる。下田は武者ぶるいのようなものをおぼえた。

 新横浜から折り返した下田は、八重洲口の派出所へ届けられていた冬本の写真数葉を手に入れた。彼がそれをもって、こだま到着ホームへ向かおうとしたとき、一台のパトカーが派出所の前に停《と》まり、佐野刑事が下りて来た。

「下田さん、ありましたよ」

 佐野刑事は一枚の紙を下田の前でヒラヒラさせた。いうまでもなく、十月十四日のこだま166号の発信通話表である。

「あったか!」

「何でも六か月ぐらいは保存しておくということでした」

「それで千代田荘の電話番号は?」

「ここにあります。東京二六一−四八六一、二回発信されております。第一回目は十七時二十二分より二通話、二回目は二十時四十九分から一通話です」

 通話時分は冬本の申立てとほとんど一致している。あとはこの通話の申込み者が冬本であることを乗務員から確かめられれば、彼のアリバイは成立する。

 いや、もうすでに成立したものと考えてよかった。この通話相手の山村は、確かにこの記録に見合う時間に、申し込まれた番号の先で冬本と話しているのである。企画についてその電話で大喧嘩《おおげんか》をしたアンチ・キクプロの旗頭である山村が、冬本のために偽証するはずはない。

 もっとも表面上の険悪な仲は、えてして偽装ということも考えられるから、山村と冬本の関係はもっと深く洗う必要がある。ともあれ、しだいにかたまっていく冬本のアリバイに、下田は失望感を味わわぬわけにはいかなかった。

 いま、彼らが次々に蒐《あつ》めている資料は、捜査線上に浮いた最有力容疑者の容疑を晴らす効果をもつものばかりである。捜査官は犯罪者を追及すると同時に、事件の真相を明らかにして、個人の人権の保障をするべく義務を負わされている。

 だから、無実の人間の容疑が晴れてゆくのは、捜査官の喜びの一つのはずであるが、彼らとても人間である。ようやく割り出した有力容疑者が、無実に傾いてゆくときには、やはり大きな失望をおぼえ、捜査本部の意気は沈滞する。

 下田が失望をおぼえたからといって、彼一人を責めるわけにはいかなかった。刑事にそこまでの非人間性を要求するのは酷であろう。

 ただ注意すべきは、功を焦《あせ》るあまり、無実の者を、不完全な資料で有罪に捏上《でつちあ》げることである。刑事の人間臭と、容疑者の人権との境界の定め方が微妙であった。

   3

 こだま134号は定時に着いた。発信通話表に扱い者の署名がはいっていたので、冬本の通話申込みを受け付けた乗務員に最初から会うことができた。五号車ビュッフェの乗務員だった。

 酒井圭子《さかいけいこ》というその若いウェイトレスは、四時間の乗務を終えたところにいきなり刑事の訪問を受けてびっくりしたらしい。

「お疲れのところをすまないが、この発信通話表は、酒井さん、あなたが受け付けたものですね」

「は、はい、そうです。それが何か……?」

 酒井圭子は下田刑事の質問に不安そうな表情をした。刑事から質問を受けるのは、これが初めての経験なのであろう。頬《ほお》の赤い健康そうな娘だった。

「いえ大したことじゃないんですがね」

 下田は酒井の緊張を解くように穏《おだ》やかに笑って、

「ある捜査の参考におうかがいしたいのですが、この表の中の、十七時二十二分と二十時四十九分に発信した二六一−四八六一というナンバーは、どんな人が申し込んだか憶《おぼ》えておられますか?」

 最初から写真を示して訊《たず》ねると、暗示の強い質問となって正答率が低くなる。

「この男[#「男」に傍点]だったか?」という問いかけは、まず男[#「男」に傍点]という事実を前提とした上で、答える側に「イエス」と「ノー」の二者択一しか許さない。

 下田が冬本の写真を伏せ、「どんな人間だったか?」という疑問詞をもって始まる問いかけをして、答の決定をまったく相手方の自由に委《ゆだ》ねたのも、質問者側の誘導を、できるだけ少なくするためであった。

「さあ」

 だが、せっかくの下田の配慮もむなしく、酒井圭子は考えこむばかりだった。事件からだいぶ日数が経っている上に、毎日多数の通話申込みを受けていることであろうから、その中の特定の申込み者を思い出せないのも無理からぬことである。

「この日、同じ番号を二回申し込んだのは、この人だけです。何か思い出せませんか?」

 下田はヒントを出した。別人がたまたま同じ番号を申し込むということは考えられるが、この場合は冬本同一人によって申し込まれたことがわかっている。

「とおっしゃられても……」

 酒井圭子は途方に暮れたような顔をした。

 下田は最後の切り札を出すことにした。記憶にまったくひっかかりがないようであった。

「その人はたぶん、この男だと思うんですがね、どうです、思い出せませんか?」

 酒井圭子は、下田がさし出した数葉の写真にじっと視線を注いだが、すぐに反応のある目を上げて、

「思い出しました、確かにこの人ですわ」

 酒井圭子は急に生き生きとした声を出した。完全に思い出したらしい。こんなことなら最初から写真を出せばよかった。

「二回目に申し込まれたとき、眼鏡《めがね》をとって、お仕事のことを少し話しましたわ。確かキクプロのマネージャーだと言ってたわ」

「眼鏡をかけてたんですか?」

「ええ、薄い色つきの、サングラスと、普通の眼鏡の間のような」

 今朝訪問したときも、また写真でも、冬本は眼鏡をかけていない。だが万事派手好みの芸能界の人間のことであるから、洒落《しやれ》た色眼鏡をかけても不思議はない。色眼鏡とひげが売れっ子の象徴のようになっているいまの世の中なのである。

「私、どうしていままで思い出せなかったのかしら。この方、私に『恋人と来なさい』とおっしゃって春木ひかるの日劇のワンマンショーの招待券を二枚くださったの」

「ワンマンショーの招待券を二枚だって!?」

 下田刑事の声が思わず弾《はず》んだ。やはり冬本は特別なこと[#「特別なこと」に傍点]をしていたのだ。下田はそういうことに興味がないのでよくわからないが、日劇のワンマンショーの招待券となれば、かなりの値うちのものだろう。それを列車の公衆電話を受け付けたウェイトレスにやった。しかも二枚も。——何とも気前のいい話だ。

 それはウェイトレスに謝意を表するためではなく、彼女の印象に自分を刻《きざ》みつけるためである。ならば何故《なぜ》、刻みつけなければならなかったか? もちろんアリバイを構築するためだ。それまでにして自分のアリバイを築かなければならないということは、とりもなおさず冬本の黒い情況を示すものだ。少なくとも無実の人間のアリバイは、もっとさりげないものである。

 酒井圭子の証言によって、冬本のアリバイは完全に成立したが、同時にそのあまりにも完璧《かんぺき》な形が、彼のクロを疑わせる皮肉な結果を招いたのであった。

 同じころ、大阪府警に依頼した、十月十三日夜の、冬本の大阪のホテルにおける宿泊が確認された。冬本と面識のある同ホテルのフロントクラークは、確かに、冬本本人が当夜一泊し、十四日午後二時ごろ|出 発《チエツクアウト》した事実を証言した。

 同時に万準の委員も十三日午後、万博企画の打合わせのために冬本が来訪し、夕刻まで用談していったことを確認した。

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 三点確保のアリバイ

 その日の夕方、高輪署の会議室で捜査会議が開かれた。議長格には所轄署の大屋《おおや》署長がなったが、判明した諸事実の説明と討議検討は、専ら本庁側の石原警都はじめ捜査を担当した各班の刑事によって行なわれた。

 その日の議事の焦点は、何といっても大川班が当たった冬本信一のアリバイに置かれた。

「以上大川刑事らが捜査した結果、冬本のアリバイは成立した。こだま166号に乗った冬本は、絶対に被害者の乗っていたひかり66号に乗り移れなかった。こだま166号に乗ったように偽装しながら、実は名古屋まで飛行機で行って、ひかり66号に乗るという手も一応考えられるが、冬本は十七時二十分ごろ、京都−米原間より電話をかけて、こだま166号の乗務員に記録させている。それに大阪−名古屋間にはそのような航空便はない。

 冬本はさらに新横浜−東京間においてもう一度電話をかけて、自分のアリバイにだめ押し[#「だめ押し」に傍点]をしている。冬本のアリバイは完璧《かんぺき》というわけだ。しかしあまりにも完璧なために、かえって不自然な点をいくつか露《あら》わしてしまった。それをこれからみなで検討してみたい」

 大屋署長の訓示のあとを受けた石原警部は、そう言って出席者の顔をぐるりと見渡した。

「まずこだま166号の乗務員を当たった下田刑事から、その不自然な点を説明してもらおうか?」

 石原警部に指名されて、下田は立ち上がった。

「私が一番疑問に思ったのは、冬本がこだまに乗った事実です。当日の新幹線上りは、座席に充分余裕がありました。特に事件のあった時間帯は、車内で人が殺されながら、終着に近づくまで発見されなかったほどのがら空《あ》きの状態でした。冬本のような忙しい人間ならば当然ひかりに乗るべきです。

 ひかり66号に乗り遅れたという考えも可能ですが、十七時五分にはひかり68号が出るのです。これを利用すれば、冬本が乗ったこだま166号よりも五十分も早く東京へ着けるのです。ひかり68号もすいていたことがわかっております。それなのに冬本はこだまへ乗った。これは明らかに不自然です」

 全員がうなずいた。下田の指摘はさらにつづく。それによると、——

 ㈪2の疑問として、冬本は何故《なぜ》高価な招待券を二枚も乗務員に与えたか? チップにしては気前がよすぎる。これはアリバイの証人としての乗務員の印象に、自分を強く印象させるための作為ではなかったか?

 ㈫3として、何故電話を二回もかけたのか? しかも二回目は横浜を通過してからかけている。どうせかけるならもっと早くかけるべきか、あるいは、終着の東京で下車してからゆっくりかけるべきであろう。

 ㈬4として、通話相手を何故|選《よ》りに選ってキクプロと仲の悪いプロデューサーにしたのか? アリバイ工作であれば、腹心の者を選びたいのが当然の人情のところを、犬猿の仲の相手を選んだところに、信憑《しんぴよう》性の高い証言者を設定しようとした意図が感じられる。

 ㈭5として、何故初回の電話のとき、山村に時間を確かめたのか? 何もこれから喧嘩を吹っかけようという相手に、しかも電話で確かめずとも、彼の周囲にいくらでも時計をもっている者がいたであろうに。——

 ㈮6冬本が乗ったと主張するこだま166号は十六時五十五分発であるが、彼は二時ごろすでにホテルをチェックアウトしている。ホテルから新大阪駅までせいぜい二十分もあれば充分であるのに、彼は二時間以上も早くホテルを出ている。この空白を、どこでどのように費やしたのか。あとで大川刑事が冬本に訊《たず》ねたが、買物をするためだと言うだけで、この間の所在を具体的に証明することができなかった。彼は一体、この�空白�の間をどこで何をしていたのか?

「……等々の理由から、私は冬本のアリバイは造られたという疑いを強めております」

「いま、下田刑事が指摘した六つの疑問点のうち、㈫3のプロデューサーに二回電話をしたことだが、大川刑事、そのう、山村とかいう東洋テレビのプロデューサーは、何と言っているのかね?」

 石原警部は下田から大川のほうへ顔を向けた。それにつれて一座の視線も移る。

「私も、冬本が車内から二回も電話してきた事実をおかしいと思って、会話の内容を山村プロデューサーに訊《き》いたのですが、番組の企画に関するもので、最初の通話で用事は充分にすんでいたということです。意見が衝突して電話で大喧嘩《おおげんか》をしたそうですが、二回目の電話は、それをむし返したようなものだったと言いました」

「いったん切ったが、だんだん腹が立ってきて、また電話をかけたということは考えられないか?」

「しかしそれにしても横浜を過ぎてからかけたというのは変です。喧嘩《けんか》となればどうせ長電話となる。東京駅へ下りてから、ゆっくり腰を据《す》えていうのが、まず普通でしょう」

 下田が口をはさんだ。

「それもそうだな」

 石原はうなずく。

「ほかに不自然な点はないだろうか?」

 石原はうながしたが、誰《だれ》も進んで発言しないので、

「冬本に成立したアリバイをもう一度整理してみよう。まず山口友彦の解剖による死亡推定時刻は、十九時から二十時までの間、発見時の死体情況と、特殊な犯行現場から、凶行時刻は十九時四十分から五十分ごろにかけてとより狭く推定されている。その時刻には冬本は、後続するこだま166号で静岡−三島間を走っていた。解剖による推定時間から言っても、三島より東京寄りへ来ることはできない。それではこだま166号に乗っていたという証拠はどのような形で残されているか。

 証拠は三つある。第一は、十七時二十二分京都−米原《まいばら》間において東京二六一−四八六一と通話、第二は二十時四十九分新横浜−東京間において同ナンバーと通話、これら二つの通話はいずれも同じ時刻に山村氏によって受信されている。大川刑事が探査した結果、山村氏の証言には信憑《しんぴよう》性がある。これら二つの|呼出し《コール》が、いずれもこだま号から発信されたものであることは、二六一−四八六一、つまり千代田荘の従業員によって確認されている。第三は乗務員の証言だ。特に第二の電話をかけたときは、日劇の招待券をもらっているので、乗務員の記憶に強く残っている」

「山村が受けた電話は、確かに冬本からのものだったのでしょうか? 冬本に頼まれて誰《だれ》かが声色《こわいろ》を使ったんじゃないでしょうか? とにかく芸人にはお手のものなんだから」

 佐野刑事が意見を述べた。

「その点は山村氏に何度も確かめた。彼は、絶対に冬本本人の声だったと断言したよ。山村氏も職業柄、もの真似《まね》や声帯模写には鍛えられている。そんな幼稚なインチキにひっかかるはずがない」

 大川は少し声を強くした。プライドの強い彼のことだから、若い佐野の疑問は、自分の捜査にけちをつけられたような気がしたのにちがいない。

 冬本の情況は黒かったが、突破口を発見できないので、議題は美村紀久子や緑川明美のアリバイに移った。

 美村を担当した木山《きやま》刑事から、彼女が十月十四日当日、ロスアンゼルスにいたことが確認されたという報告があった。

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