ブーメランという、投げると、弧《こ》をえがいて、投げた本人の位置に戻って来るオーストラリア原住民の武器のように、お客が戻って来るようにと、欲張った願いをこめてつけた名前らしいが、その名前が効《き》いたのか、客の大半は定連のようであった。
風見も定連の一人であった。彼がここに「いついた」最大の理由は、他の店で必ず出逢《であ》う、テレビ、芸能関係の顔|馴染《なじ》みに、ここではめったにぶつかるおそれがなかったからである。
雰囲気《ふんいき》も堅実なサラリーマンムードで�夜の開発者�特有の頽《くず》れた翳《かげ》がない。もっとも彼らはそれを洒落《しやれ》た都会的ムードと気取っているらしいのだが。——
風見はそこへ四つ葉みどりを呼び出した。キクプロで冬本に次ぐ権力者であり、自分のスポンサーのような形でもある風見から、何やら重々しそうな顔で呼ばれたみどりは、タレント特有の勘で、いそいそと従《つ》いて来た。
「君にもだいぶ我慢してもらったが、ここのところうちの歌手が低調でね、ラーフターズが頭打ちになったうえに、春木ひかるが下降した。ここらで目の覚めるような新鮮なタレントを送りこまないと、キクプロの行く末が案じられる」
ブーメランの奥のボックスに向かい合って、風見が話し出すと、みどりの目がしだいに輝いてきた。その「目の覚めるような新人」に自分を起用しようとしていることは、ムードでわかる。みどりは手もなく風見にひっかかってきた。
「このごろでは週刊誌なんかにも、�お呼びじゃないキクタレ�などと悪口を書かれていることは君も知っているだろう。そこでね、僕は君を起用しようと思うんだ。君にはキクプロのドル箱スターになるだけの素質も才能もある。いままで君にぴったりの企画がなかっただけなんだ。君に合う曲さえあれば一気に売り出せる。社長も君の起用に賛成で、全社的に売り込んでゆこうということになった」
風見の言葉を聞いているうちに、みどりは目の前を無数の色彩が渦《うず》を巻いて流れるように感じた。スターづくりのうまさにかけては、キクプロは定評がある。これはと見込んだ新人には、テレビ局の有力者や芸能マスコミ関係に徹底的に売り込み、何が何でもスターに仕立て上げてしまう。
スターにすることを「商品化」と考え、金を儲《もう》けるスターになるまで売りまくる。赤字を覚悟で、大劇場のワンマン・ショーを開き、数百枚の指定席入場券を買い占めて、各界にばらまくなどという派手な売り方をする。
�大部屋�の片すみから、スターに起用されて、花々しく売り出されてゆく仲間たちを、何度、胸が張り裂けそうな羨望《せんぼう》と嫉視《しつし》をもって見送ったことか。
だが長い辛抱のかいあって、とうとう自分の出番が回ってきたのだ。キクプロが全社的にというからには、さぞや大がかりな売り方をしてくれるだろう。
「君の持ち味をいろいろと研究した結果、女心の微妙さを涙ながらに訴える、新しいお座敷ソングの分野がいいだろうということになった。作詞作曲のほうも、一流どころに頼んでいいものを作ってもらう。営業や宣伝も大乗り気でね、年末の企画は、四つ葉みどり一本|槍《やり》で押しまくろうということになった。もしかすると�紅白�に出られるかもしれない」
風見の話が具体的になってくるにつれて、みどりはそこにじっとすわっていられないような喜びの衝動をおぼえてきた。歌手最高の檜《ひのき》舞台である東洋テレビの「年末紅白歌の大試合」にその年一度もテレビに出たことのない新人を強引に出演させた力をキクプロはもっているのである。厚い雲が割れてまばゆい太陽がさんさんと輝きはじめたのだ。
「しかしね、一つだけ問題がある」
風見はみどりの喜びに制動をかけた。胸の中にいやな軋《きし》みが走ったようだった。風見の眉間《みけん》に寄せられた皺《しわ》の深さから、その問題が重大なことであるらしい気配《けはい》がわかる。
話がうますぎると思った。
「その問題というのはね、冬本部長が君の起用に難色を示しているんだよ。とにかく冬本部長はキクプロの部内的な実権を握っているだけに、社長も彼の意見を無視できないのだ」
冬本が何故《なぜ》自分の起用を渋っているのかみどりにはその理由がわからなかった。とにかく「その他大勢」のタレントの一人にすぎない彼女にとって、冬本は雲の上の人間だった。社長ですら一目おいている冬本が反対となると、せっかくの風見の肩入れも水の泡《あわ》ではないか。
そんなことなら最初から、そんな話をもちかけないでくれたほうがよかった。天の上へ担《かつ》ぎ上げるような喜びを味わわせたあとで、再び奈落《ならく》へ突き落とすのは残酷である。
「何故冬本部長が渋っているのか、みどりちゃん、君には何か心当たりはないか?」
「いいえ別に」
みどりは泣き出しそうな目を風見に向けた。心当たりのあろうはずがなかった。
「僕らも変に思って探ったんだがね、やっと一つ、原因らしいものを探り当てたよ」
「え?」
「冬本部長は前に君にふられたことがあるんだ」
「そ、そんな!」
「いや、君自身は気がつかなかったろう。また部長にしても、あれだけ気位の高い人だから、はっきりとわかるようなプロポーズはしない。それとなく態度で君に知らせようとした。それに君は気がつかなかった。いや、気がつこうとする努力さえしなかった。どうだ、言われてみれば、思い当たることがあるだろう」
いつも能面のような無表情でタレントたちに接している冬本が、自分にだけそんな特別な感情を抱いていたとは思えなかったが、いささか小児病的なところがあるみどりは、風見の暗示に簡単にひっかかってしまった。
そのような先入観をもって考えると、他人の何気ない行為のすべてが、自分にとって特別な意味をもっているように見えてくる。
「先生! どうしたらいいでしょう」
みどりはすがりつくような目を上げた。みどりは彼に拾われて以来、そのように呼んでいる。
「ただ一つだけ打開策がある」
風見はことさらに重々しく言った。
「えっ、あるんですか!?」
みどりは救われたような声を上げた。
「簡単なことさ。君が想《おも》いをかなえてやればいい」
「そんな」
簡単なこと? と思わずおうむ返しにしようとした言葉を、みどりは慌《あわ》てて、喉《のど》の奥へのみこんだ。しかし、事実それは、打開策などと大上段に振りかぶるほどのことではなかった。
処女などいつのことか思い出せないほど遠い昔に捨ててしまった。悪徳プロダクションにひっかかったとき、金ばかりでなく体もいいように貪《むさぼ》られている。いまさら何を惜しがることがあろう。
まして自分の出世のための手段として使えるなら、いままでただ同然に投げ出してきた体が、最も有効に使われることになる。
「私はかまいません。部長さんが私を欲しがっているのなら」
みどりはできるだけ穏当《おんとう》な言葉に抑えて言ったつもりだったが、目は、女が自分の体を武器として使う前のギラギラした動物的な輝きを浮かべていた。
「でも、どうやって部長さんにそのことを言ったらいいのでしょうか?」
みどりはすぐ不安になった。あの、とりつく島もなさそうな冬本の硬い表情を思い出したからである。
「君さえその気になってくれれば、冬本君へのアプローチは君が心配する必要はない。われわれが万事間に立ってうまく取りはからってやるから。あとは君のサービス次第だ。冬本部長に気に入られておくと、今度の企画だけでなく、君の長い将来にとっても、決して不利益にはならないよ。本当はこんなことを僕から君に頼みこむのは辛《つら》いんだが、君を売り出すためだ。許してほしい」
風見はみどりの前に深々と頭を下げた。
「そんな、いやだわ先生、私のほうこそ感謝してるのよ。でも本当にスターになれるんでしょうね」
「冬本君さえうまく抱きこめれば絶対大丈夫。そして君がその気になってくれたのだから、もう成功したようなもんさ。今夜はキクプロのスタータレント、四つ葉みどりの誕生を祝って祝杯をあげるか」
「嬉《うれ》しいわ」
みどりの目はすでにスターになったかのようにぬれぬれと輝いていた。シャンパンを開けさせてみどりと乾杯した風見は、
(馬鹿な女め! これで冬本を釣《つ》り上げる餌《えさ》は用意できた。あとはどのようにしてこの餌を食わせるかだ。あいつのことだから、普通に撒《ま》いたのでは、食いついてこない。餌の工夫が腕の見せ所だな)
と内心ほくそ笑んでいた。
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不信の情熱
1
冬本信一のアリバイは完璧《かんぺき》であった。こだま166号に乗っていた彼は、十分早く新大阪を出発するひかり66号に絶対に乗り移れなかった。
だが乗り移らなければ犯行はできない。被害者の周辺に、冬本以外の人間で動機をもっている者は、捜査本部の必死の追及にもかかわらず浮かび上がってこなかった。
一応の動機はある美村紀久子と緑川明美の二人にもアリバイが成立した。しかしアリバイ成立という点では冬本も同じである。それにもかかわらず冬本一人がマークされているのは何故《なぜ》か?
それは冬本の動機が他の二人に比べて強いことと、被害者と十分ちがいの新幹線で東上中だったという点が、いかにも作為の匂《にお》いがするからだった。物理的には完璧なのだが、何としても不自然なアリバイなのである。
大川と下田の両刑事はその不自然さにがっぷりと食いついた。
二人はその後何度か冬本に会った。そして会うたびにクロの印象を深めた。自社タレントを、まったく商品としてしか見ない冬本の金属のような冷酷さと、美村紀久子を万博プロに据《す》えようとする異常な情熱の両極端は、犯罪者に多い偏執狂的な精神病質人格であることを示す。
一週間ばかりの間に冬本の身元関係が徹底的に洗われた。居住地の役所に移された住民登録から、北の方にある本籍地があたられて、何と彼は、生まれて間もないころ、その町の塵芥《じんかい》焼却場の炉《ろ》の中へ捨てられていたことがわかった。焼却場の係員が火をつける前に炉の中を点検したからよかったものの、そうでなかったなら、赤ん坊のバーベキューができ上がったところである。
町長が名づけ親となり、その町に本籍を定めてくれた。一月の半ば、冬の最中《さなか》に発見されたところから氏を冬本、のちに万一|棄子《すてご》であるということを知っても、親を怨《うら》まず、人を信じるという意味あいから信一と名づけたということを、いまは楽隠居している当時の町長から聞き出してきた。
生まれつき陰気な子どもだったが、施設から小学校へ通ううちに、自分の出生にまつわる忌《い》まわしい秘密を知ったらしく、ますます暗い性格になっていった。
彼の姿が、学校からも施設からも消えたのは、小学六年の秋、十二歳のときである。町長はじめ彼に関《かか》わりのある者は、心当たりの場所を捜したが、ついに、見つけて連れ戻すことはできなかった。彼の姿を東京で見たとか、名古屋で見かけたとかいう噂《うわさ》が町へ届いたのは、それから数年後のことである。
フーテンをしていたとか、流しだったとか、噂《うわさ》はまちまちだった。いずれにせよ、冬本が自分の暗い出生に耐えられず、放浪の旅に出たのはわかった。
それから十数年経ったのち、�故郷�の町の人々は、キクプロを牛耳《ぎゆうじ》る大マネジャーとしての冬本の名前を見出したとき、驚いたり喜んだりした。�遊びの供給者�としてブラウン管に登場することすらあった。しかし冬本にとって�故郷�は、自分が捨てられていた焼却炉のある土地としての意味しか持っていなかった。それは呪《のろ》わしい土地であった。
親として我が子を捨てるからには、よほど切羽《せつぱ》つまった事情があったのであろう。それはそれで止《や》むを得ない。しかし何も塵芥《じんかい》焼却炉の中へ投げこむことはあるまい。自分の血を分けた我が子を、捨てるにことを欠いて、ごみの焼却炉へ投げこんだ親。それはもう親でも人間でもない。それは、いたちやスカンクのような駄獣以下である。
自分の親を駄獣以下の存在と知ったときの、冬本の悲しみと怒りはどんなだったであろうか。人間への不信と、社会への呪《のろ》いに、少年期の感じやすい心をずたずたにされて、放浪の旅へ出たのであろう。
その彼に初めて人間らしい手をさし伸べたのが、美村紀久子であった。彼女にしてみれば、野良犬を一匹拾うようなつもりであったかもしれないが、人の情、特に女の優しさ(母の幻という形で)に飢えていた冬本は、手もなく紀久子の虜《とりこ》になってしまった。
そうでなくとも、美村紀久子は魅力的な女である。偏執狂的な冬本が一途《いちず》に紀久子にのめりこんでいったことは充分考えられるのだ。
紀久子のためならば、誇張でなく地獄の火の中へでも飛びこむ用意があった冬本の目の前で、かねて仕事の上のライバル山口友彦が、いとも簡単に紀久子を攫《さら》っていった。
山口は冬本にとって二重の意味のライバルになったわけである。
冬本の周辺を探りつづけるほどに、彼の容疑はますます濃くなっていった。外部的に容疑者扱いをしないのは、逃亡のおそれがないことと、そして何よりもアリバイを崩せなかったからだ。
だが彼のアリバイを、捜査と並行して深く検討するほどに、さらに、不可解な点がいくつか浮かび上がってきた。
「冬本がもぐりこんだのは、こだまの自由席だったな」
大川がある日、何度目かのキクプロ事務所の聞き込み捜査からの帰途、ふと目を上げた。何かを思いついた目だった。
「そうですが、それが何か?」
相棒の下田刑事が聞き役に回る。
「ひかりに乗らずにこだまに乗ったのも不自然だが、何故《なぜ》彼は自由席を取ったのだろうか? しかも普通車の?……彼だったらグリーン車へ乗って当然だと思うんだ」
「突然の旅行という口実も考えられますが、検札の車掌の印象に残らないようにするためでしょうね」
「そこなんだよ」
大川は通りすがりの人が振り返るような大声を出した。
「新大阪から乗りこんだときは、なるべく目立たないようにしていた彼が、横浜を過ぎると、乗務員に話しかけたり、招待券をやったりしている」
「…………」
「どうせやるなら、最初にやればいいじゃないか。そのほうがアリバイの証人としてもっとよく憶《おぼ》えてくれる」
「そういえばそうですね」
「今ふっと思い出したんだが、君が酒井とかいうこだまのウェイトレスに冬本の写真を見せたとき、眼鏡《めがね》を除《と》って少し雑談したから冬本に間違いないと証言したそうだね」
「そうです」
「それは二回目の通話申込みのときじゃなかったか?」
「確かそうです」
「おい、これはきっとおれたち何か大きな勘違いをしているかもしれんぞ」
そう言ったとき、二人は渋谷駅へ着いた。自動券売機で切符を買って山手線内回りのホームへ上がる。規則正しいサラリーマンの夕方のラッシュがそろそろ始まろうとしていた。
だが刑事たちが家路を辿《たど》れるのは、このラッシュが退《ひ》いたはるかあとである。これから帰る捜査本部では、今日一日刑事らが足で蒐《あつ》めた情報や資料を交換検討して、明日の捜査に備えなければならない。
ホームへ出るとちょうど折りよく電車がはいって来た。ラッシュの流れと逆方向へ行く形だったので空席があったが、警察官の習性でつい立ったままだ。
ちゃんと金を払って乗っている上に、私服なので腰を下ろしてもよさそうだが、クラシック刑事の馬鹿正直はこんなところにも発揮されてしまう。
つき合わされる若い下田は、いい迷惑かもしれなかったが、少しもいやな顔をせず、吊革《つりかわ》にぶら下がって話のつづきを促した。
「大きな勘違いって何ですか?」
「おれたちは乗務員が確認したので、冬本が確かにこだま166号に乗ったと思ったんだが、正確にはウェイトレスは、眼鏡《めがね》をはずした冬本を確認しただけなんだ」
「眼鏡をはずした?」
「そうさ、冬本は二回通話を申し込んでいるが、眼鏡をはずしたのは二回目のときだったんだぜ。ウェイトレスは一回目のときもはずしたとは言っていない。こいつはもう一度確かめてみる必要があるよ。もし彼が一回目のとき眼鏡をかけたままだったとすれば、ウェイトレスはそのときの冬本を確認したことにならない。大体、公衆電話の申込みをしに来る人間を、扱い者はあまり注意して観察するもんじゃない。二度あるいは三度と申し込まれて、言葉をかけられたり、チップをもらったりして、ああ前に来たあの人だったかと、多少の類似性を敷衍《ふえん》して同一人物だと思いこんでしまう。われわれもまさに同じ種類のミスを犯したわけだ。二回目の冬本を確認したから、一回目も冬本だと早合点してしまった」
「そ、それでは、一回目、つまり京都−米原《まいばら》間で電話をかけたのは、冬本本人ではなく彼の替え玉だったというのですか?」
下田は大川の飛躍した推理に、思わず舌をもつれさせた。目黒《めぐろ》で乗客が乗りこみ、せっかくの空席がなくなった。
「そうさ、そうであって初めて、自由席にもぐりこんだり、招待券をやったりした説明がつく」
「しかし」
下田が鋭く口をさしはさんだ。
「冬本は確かに、こだま166号から、当日十七時二十二分に、二六一−四八六一方にいた東洋テレビのプロデューサーと話していたんですよ。こだま166号には、その時間に発信通話記録があり、プロデューサーは確かにその時間に冬本本人と通話している。このプロデューサーは冬本と仲が悪く、現にその電話で喧嘩《けんか》をしているほどなので、冬本のアリバイ工作のために偽証するはずがありません。
たとえ、ウェイトレスが第一回目の通話申込みのとき、眼鏡《めがね》をとった冬本の顔を確認しなかったとしても、冬本本人であると解釈していいんじゃないでしょうか?」
「そこが難点《ネツク》なんだなあ」
大川は溜《た》め息を吐《つ》いた。下田の言うとおり、こだま166号の発信記録と、プロデューサーの受信と、冬本の通話はぴたりと符合しているのである。冬本のアリバイはこの三点にがっちりと確保されて、刑事らの前に無類の堅牢《けんろう》さをもってそそり立っていた。
2
冬本信一が専属タレントの四つ葉みどりとのスキャンダルを暴露されて制作部長の椅子《いす》をおろされたのは、それから一週間後のことである。
暴露したのは芸能週刊誌『週刊ヴィーナス』で、関係者の談話と共に、具体的なデータを蒐《あつ》めて、このスキャンダルを大々的に取り上げていた。
そのデータの豊富さといい、切りこみ方の鋭さといい、読者の興味本位に捏上《でつちあ》げた�特集物�とは異なることがわかった。
スキャンダルの内容は、冬本がかねて心を寄せていた四つ葉みどりをホテルに誘い出して、睡眠薬を服《の》ませた上で犯したというものである。
当の冬本が何の弁解もしないので、全面的に非を認めた形になっていた。
関係者の談話の中に美村紀久子の発言もあり、
「前代未聞の不祥事です。もともと芸能界というと、とかくスキャンダルの巣のように色めがねで見られ、一部タレントの中には名前を売るために体を張ったり、これを食い物にする悪徳関係者が、いないこともないのですが、実力のない人間は結局何をしてもだめなのです。それに、タレントの起用が一人の人間の恣意《しい》のままにならなくなったいまは、こういう形のスキャンダルが、きわめて少なくなったのですが、それを我が社から、しかも幹部から出したということは何としても残念です。冬本は我が社にとって不可欠の人材ですが、我が社と、ひいては芸能界全体の名誉のために制作部長の椅子《いす》からはずすことにしました。当面どういう仕事をさせるか決めておりませんが、もう第一線に出すことはないでしょう」
そして『週刊ヴィーナス』は、「泣いて馬謖《ばしよく》を斬《き》った」美村社長を、「勇気ある英断」と賞賛し、この不祥事が芸能界の恥部を剔出《てきしゆつ》し、粛清《しゆくせい》する上に大きな意義があったと結んであった。
この記事を読んで首をかしげたのは、下田刑事である。
「おかしいな?」
「何が?」
大川が目敏《めざと》く見つけてたずねた。
「いえね、確か『週刊ヴィーナス』は、キクプロが百パーセント出資した完全子会社でしたね」
「うん、そんなふうに聞いてるな」
「週刊誌ブームに便乗しておっ立てた�御用誌�で、徹頭徹尾、キクプロのチョウチン記事ばかり書いているやつです。そいつがどうしてキクプロ内部のスキャンダルをあばいたのか?」
「だから結局、勇気ある英断だと、美村紀久子をほめてるじゃないか」
「それにしてもスキャンダルはスキャンダルですよ、しかも自社の首脳の一人がひき起こした。特集記事をどのような形にしめくくろうと、キクプロの内部が乱れているという印象は拭《ぬぐ》えません。キクプロとしては当然おさえるべき記事ですよ。御用誌なんだから、それをするのに何の手間ひまもかからない。それなのに大々的に書かせている。紀久子のインタビューまでれいれいしく載せている。変です」
「なるほど、そういえば確かに変だな」
大川も首を傾《かし》げた。
「僕には、どうもこれは冬本を失脚させるために仕組まれた罠《わな》のような気がするんですがね。美村紀久子には、われわれが冬本を疑っていることはよくわかる。万博プロデューサーになれるかなれないかという正念場《しようねんば》に、身内の幹部から殺人容疑者が出ては何としてもまずい。その前に縁を切ってしまえと企《たくら》んで……」
「しかしそれだったら、スキャンダルをあばかれてまずいことには変わりはないだろう」
「殺人容疑者を出すよりはましですよ」
「冬本はどうして抗弁しないんだろうな?」
「これは僕の個人的な推理ですが、冬本は自分の勇み足から、山口を殺したんじゃないでしょうか? もちろん個人的なライバル意識も動機を強めている。紀久子が山口を殺すようにそそのかしたものならば、彼女に弱い尻《しり》があるから、今度のように冷たく切り捨てることはできない。むしろ冬本に恐喝《きようかつ》される立場にあります。あるいは紀久子は、冬本の病的な性格を利用して巧みに暗示をかけたのかもしれない。ともかく紀久子は、冬本を切れるだけの、山口殺しに関して安全な立場にいることは確かだと思います」
「見事な推理だが、そのことについてはおれはちがうふうに考えるな」
「ちがうふうに?」
下田はちょっと不満そうな顔をした。若い気負いをもって下した推理だけに、絶対の自信があったのである。
「つまりだ、紀久子と冬本がなれ合いだったと考えても、少しもさしつかえないじゃないか。とにかく自分の社長を万博のプロデューサーに据《す》えるために殺人すら犯したほどの忠実な? 部下なのだ。邪魔者を排除したが、今度は自分自身が邪魔者になった。となれば自分自身から消えて行くのに何の抵抗もおぼえない」
「すると、山口を殺す前から、今度のスキャンダルの筋書きはできていたというわけですか?」
「いや、山口殺しは冬本の勇み足だろう。だがやってしまったことは、もう仕方がない。それで紀久子の自衛のために、ああいう芝居を仕組んだのかもしれないよ」
「冬本が一切、弁解らしい弁解をしなかったのも、そんな裏のからくりがあったからでしょうか」
「かもしれないね。ともかくこれからも冬本と紀久子のつながりには目を離せないぞ。もしこれがなれあいならば、冬本はますます黒い。もともとシロなら、こんな芝居を打つ必要はないんだからな」
「冬本に犯されたという四つ葉みどりを洗ってみる必要がありますね」
「紀久子から強く言い含められていると思うが、一応当たってみるだけの価値はあるな」
3
冬本は、自分の置かれた情況がよく理解できなかった。たしかバイロンの詩に「ある朝めざめたら、有名になっていた」というのがあるが、彼の場合は、その詩とまったく逆の「ある朝めざめたら、スキャンダルの渦中《かちゆう》にいた」というものである。
何となく異様な気配《けはい》に目がさめると、同じベッドの中に、四つ葉みどりが全裸になって横たわっており、そして自分も彼女と同じような姿になっていることに気がついた。カメラのフラッシュのようなものが何度か閃《ひらめ》いたような気がする。あるいはその閃光《せんこう》のために目が覚めたのかもしれない。
そういえば室内には�女�のほかに、そのカメラの持ち主らしい人間の影も見える。
寝るときは確かに一人でもぐりこんだはずのベッドに、どうして女がいるのか? ロックしたホテルの密室に、どのようにしてカメラを構えた人間がはいって来られたのか? そして、下着の上にホテル備えつけの浴衣《ゆかた》を着て寝たはずの自分が、どうして女と共に生まれたままの姿に還《かえ》っているのか? さまざまな疑問がわいて当然のはずなのに、頭の芯《しん》に鉛《なまり》の塊りを押しこまれたようで、さっぱり思考力が働かない。
ベッドに呆然《ぼうぜん》と�蟠《わだかま》った�まま、カメラマンの跳梁《ちようりよう》をほしいままに許している。彼の思考力が正常に戻るころまでには、スキャンダルを仕立てあげるための生々しい資料は、完全に蒐《あつ》められているという仕組みになっていた。
四つ葉みどりは、風見からとにかく「寝て」しまえば勝ちだといわれて、彼に導かれるまま、冬本が最近常宿にしている新宿の京急ホテルの一室に忍びこんだ。
独身の冬本は日野《ひの》市にある団地に一人住まいをしているが、最近は万博企画と年末年始�特番�の追いこみでほとんどそこへは帰っていない。
風見がどうやって冬本の部屋のキイを手に入れたのか、そんな初歩的な疑問も、みどりにはわからなかった。とにかくいま、冬本は寝ついたところだから、ベッドに押し入って遮二無二《しやにむに》既成事実をつくってしまえと風見に言われて、まったくの操《あやつ》り人形のように動いたのである。
冬本はぐっすりと眠っていた。みどりが風見に命ぜられるまま全裸になってその脇《わき》に滑り入っても、びくりとも動かなかった。みどりはこの段階で、男の異常な眠りの深さを不審に思うべきであった。いくら疲れていたとはいえ、若い女が同じベッドに侵入して、肌を押しつけてきたのである。
みどりは冬本の眠りを覚まして男と女のからみ合いに移行させるべく、あらゆる努力をつくした。風見に命ぜられたとおり、冬本の着けているものもすべて剥《は》いだ。努力のかいあって、眠りは依然として覚めぬながらも、冬本の男としての機能だけが反射的に覚めてきた。
健康な男の、生理的な反射作用であったのだろう。みどりはこの現象を利用して既成事実をつくってしまおうと、女にあるまじき破廉恥《はれんち》な体位を取った。
ベッドの背後でドアがひそかに開けられ、人影が忍び入ったのはそのときである。体位の�定着�に熱中していたみどりは、その侵入者に気がつかなかった。
突然、目のくらむような閃光《せんこう》を何度もつづけざまに浴びせかけられたみどりは、驚愕《きようがく》のあまり悲鳴も出なかった。呆然《ぼうぜん》としているところに風見が飛びこんで来て、浴衣《ゆかた》を上から羽織《はお》らせると、ものもいわずに廊下へ引っ張り出した。
「まずいことになった。週刊誌にかぎつけられたんだ」
風見がやっと口をきいたのは、彼がとっていたらしい別の部屋へ連れこまれてからである。
「一体、何が起きたんですか?」
みどりはようやく声を出せた。
「どうもこうもないよ。君と冬本が一緒の部屋にいるところを週刊誌がかぎつけて写真を撮ったんだよ」
「そ、そんなひどいわ!」
みどりは初めてまともな抗議をした。確かにそれは乱暴だった。個人のプライバシーを売物にするホテルの密室の中へ、しかもそのプライバシーの最たるものであるセックスの最中《さなか》に侵入して写真を撮ったのであるから、人権の蹂躙《じゆうりん》もいいところである。カメラマンは家宅侵入の現行犯として、その場で捉《つか》まえることができる。もっとも、みどり自身が冬本からみれば同罪の既遂《きすい》者であったが。——だがみどりは、そういう法的な背景を知って乱暴だと抗議したわけではない。
ただ単純に乱暴だと思ったから、乱暴だと言っただけである。
「確かに乱暴だ。しかしね、これが公《おおやけ》にされると、君はスターになるために体を売った馬鹿なタレントというレッテルを貼《は》られる」
風見の言葉にみどりの顔色は蒼白《そうはく》になった。ある程度売り出したあとならば、スキャンダルは売名のアクセルになることもある。しかし、みどりのような無名タレントには致命的だった。
「先生、週刊誌の記事をおさえられないんですか!?」
みどりはすがりつくような目を風見に向けた。いままでにもキクプロが金と圧力をかけてこの種の事件をもみ潰《つぶ》した前例がある。キクプロにはそれだけの力があった。
「前とはだいぶ事情が変わってきた。週刊誌も大きくなっている。下手《へた》に工作すると�言論圧迫�だとかみつかれる」
他人のプライバシーの侵害に抗議して、言論の圧迫もなかったが、みどりには、この程度の理屈すらわからない。
「先生、お願い! 救《たす》けて!!」
みどりは風見にすがりついた。風見は哀れで愚かな動物でも見るような目をして、
「一つだけ手がある」
「本当?」
みどりの目がパッと輝く。
「君は、冬本部長にむりやりに犯されたことにするのだ。ホテルの部屋へ連れこまれてから、睡眠薬を服《の》まされて抵抗力を失ったところを犯されたと言うんだ」
「そ、そんな嘘《うそ》言ったら、ますます部長さんににらまれちゃうわ」
「大丈夫だよ、自分の会社のタレントを強姦《ごうかん》したとなると、冬本部長はただではすまない。いいか、よく聞くんだ。このままいったら、君は体と引きかえに自分を売りこもうとした馬鹿なタレントとして、嘲笑《ちようしよう》の的にされる。もう一生浮き上がるチャンスはないだろう。ところが、上役にむりやりに犯されたということになれば、君は被害者として同情の目で見られる。これは天と地のちがいだよ。犯されたで押し通すんだ。冬本が何と言おうと、君の言い分のほうが強い。これが売り出しのきっかけになるかもしれない」
「売り出せるの?」
みどりの目がきらきらしてきた。
「とにかく僕の言うとおりにしたまえ。決して悪いようにはしないから。スターになりたかったら僕の言うとおりにするんだ」
「何でも先生の言うとおりにするわ」
みどりは風見の、前以上に忠実な人形となった。風見はその様子を人形使いの目で眺《なが》めながら、これで冬本のすわっていた椅子《いす》は確実に自分のものになったと内心ひそかにほくそ笑んだ。
4
誰《だれ》かが自分を陥《おとしい》れたことはわかった。だが冬本はあえて自衛のための工作を何もしなかった。何もかも馬鹿らしくなってしまったのだ。
「絶対に人を信じてはならない」という自分の生活信条にそむいて、最近、人を信じすぎたのが、こんな幼稚な罠《わな》にはめられるもととなったのである。
そもそも自分はこの世に生を享《う》けて最初に、そして最も暖かく庇護《ひご》してくれるはずの両親から捨てられた人間ではなかったか。しかもごみ焼きの炉《かま》の中に。自分の存在は親からすらも拒否されていたのだ。
そのことをいついかなるときでも忘れてはならなかった。
人を信ずるということは、少なくとも、信じた相手が自分の存在を許すということを信ずることである。
親からも拒否された自分に、そのような人間のあろうはずがなかった。それを他人が気紛《きまぐ》れにちょっと見せた甘い顔に、うかうかと心の鎧《よろい》を脱《ぬ》いだ報いを、いまこそ受けるがよい。誰《だれ》が悪いのでもない、自分の心の隙《すき》のせいなのである。
真冬の寒夜、ぼろ切れのように、いやぼろ切れそのものとして塵芥《じんかい》焼却炉の中に投げ捨てられた自分の心は、もの心つかぬ瞳《ひとみ》に映ったはずの遠い寒夜の星空のように硬く凍《い》てついており、たとえどのような情熱をもってしてもそれを溶《と》かすことはできなかった。いや溶かしてはならなかった。
硬く凍てついたままにしておくことを、自分の情熱とすべきであったのだ。
紀久子にかけた幻影が、憑《つ》き物でも落ちたようにはらりと落ちた。彼女を万博プロの椅子《いす》に据《す》えるために、悪鬼のようにつくした自分が、まるで別の人間のように思えた。
そうとなってみると、キクプロマネジャーの地位も少しも惜しくなかった。保身のための工作も弁解もしたくなかった。要するに、何もかも虚《むな》しく、馬鹿らしいのである。
「おれがみどりを犯した? テキがそう望むならそういうことにしてやろうではないか」
冬本信一は、そんな自棄的《デスペレート》な気持ちになっていた。そして紀久子は、事件がこのような様相をとった場合、冬本が必ずこのデスペレートな傾斜に、自らをのめりこませるだろうと計算して、風見を動かしたのである。
冬本もみどりもそして風見も、すべて紀久子に操《あやつ》られる人形でしかなかった。紀久子の将来には精密な計画があった。そしてその計画の中には、冬本や風見のための余地はなかったのである。
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三体の傀儡《かいらい》
1
事件が公《おおやけ》にされた翌日、大川と下田はキクプロ事務所に四つ葉みどりを訪ねた。
「どんなご用件でしょうか?」
冬本に関する聞き込みですでに顔見知りになっていた風見という宣伝部長が迷惑顔で出て来た。人気商売で、刑事にいつまでもうろうろされて嬉《うれ》しいはずがない。
「ちょっと、四つ葉みどりさんにお会いしたいんですがな」
大川はできるだけ下手《したて》に出た。
「本人はあんな不祥事が起きたもので、動転しており、精神状態がまだ正常に復していないのですが」