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作者: 当前章节:15354 字 更新时间:2026-6-23 07:44

 都心の空に突き刺《さ》さるように聳《そび》え立つ高層の偉容、銀色に輝くカーテンウォールの外壁、土一升金一升の高級地をふんだんに使ってめぐらした広壮な緑の前庭、尾部をピンと突き立てたきらびやかな外車が妍《けん》を競《きそ》うパーキングロット。それは絢爛《けんらん》たる眺《なが》めだった。

 まさにこの建物はそこの住人の力と富を象徴し、そこを訪れ来る人々に威圧感を与えるために建てられたような構造の意匠をもっていた。

 現場は5階の512号室であった。内部は3DKぐらいの広さで、南側に向かって開いた窓の外には、ゆったりしたバルコニーがついている。眼前には清水谷《しみずだに》をへだてて赤坂方面の展望が開いていた。

 メゾンの建物は東西に向かって細長い二棟がたがいちがいに延びており、中央部においてエレベーターホールによって連結されている。

 すべての部屋が外側、それも南側に面するように設計された、ホテルに似た構造をもっていた。あとで聞き知ったことだが、この部屋の価格が三千万円、それでもこのメゾンでは安いほうだということだった。

 木山が到着したときは、検視が終わり、顔見知りの本庁捜査一課の�事件番�が、関係者から事情聴取を始めているところだった。

   2

 星村俊弥は失意の底にあった。キクプロに所属してからディスクジョッキーの司会などをやったが振わず、歌手に転向。長い間、冷めしを食ったあと、冬本に取り入ってようやく自分に合った曲をもらえた。好調の兆《きざ》しが見えかけたときに、冬本は失脚、風見がキクプロの実権を握るや、星村は完全にホサレてしまった。

 冬本にあまりに接近していたために、いまさら風見にアプローチしようとしても無理だった。

 人間の集団によく見られるように、主流が実権を失ったときの凋落《ちようらく》の無惨さが、もろに星村の身を見舞った。

 期待した歌も第二曲目がつづかずに、せっかく出かけた人気が尻《しり》すぼみに消えてしまった。

 キクプロの完全子会社に「美村企画」がある。キクプロ御用のテレビ番組の製作や映画のプロデュースをやっている会社である。これはまことに重要な存在で、専属タレントのために自主製作ができる。ということは気にくわないタレントは徹底的にほし上げることも可能なことを意味する。キクタレは、キクプロ番組においてはじめてタレントなのであって、キクプロから離れたらまったく存在価値がなくなってしまう。

 少しばかり売り出して、ギャラのピンハネに耐えられず、キクプロから独立しようという気配《けはい》でも見せようものなら、たちまち苛烈《かれつ》な村|八分《はちぶ》にあってしまう。

 そのときになってキクプロの強大さを知っても手遅れというわけである。

 キクプロという、いわゆる「閉鎖社会」のスターは、その組織と政治力の威光の屈折が造り出した虹にすぎない。

 星村はそのことをよく知っていたので、冷遇に耐えながらも、あえてキクプロにしがみついていた。

 一度でも花やかな芸能界の脚光(虚光というべきか)に幻惑《げんわく》された者は、もはや、その麻薬のような魅力から逃れられない。

 特にテレビが出現してからその魔力は幾何級数的に増大した。

 あのテレビ局特有の、分秒に生きる白熱した空気、ランプがスタンバイからオンエアに切り替わった瞬間の緊張、本番前の秒読み、

「一カメ、ホールド!」

「二カメ、もっと寄って」

「はい、そこでアップ」

 自分がアップを撮《と》られていると意識しているときの優越と陶酔、自分はいま何百万、いやもしかすると何千万の人間の注目の的になっているという全身の血液が熱くたぎるような晴れがましさ。

 それはまさしく自分が世界の中心に置かれたような満足感であり、名もなき大衆の一人から、ハイソサエティのエリートに抜擢《ばつてき》された勝利感であった。

 それが番組の終了とともに消える束《つか》の間の虹《にじ》であっても、その虹の夢を見つづけるためにはどんなことでもやれる。

 なまじ一度でも虹を見た者ほど、その妖《あや》しい美しさに魂まで抜き去られてしまう。

 タレントには友情は成立しない。自分自身を売るためにはそんな余裕はないのだ。彼らにとって信じられるものは、自分自身と、今日のただいま出演している番組だけである。

 彼らには明日はない。いや明日などという悠長《ゆうちよう》なものではなく、ほんの一、二時間先の未来すら信じられない。ブラウン管の中で仲よさそうに談笑したり、肩を組んで歌っていても、その相手にいつ足を引っ張られ、背後から闇討《やみう》ちにあうかわからない。

 タレントの需要は限りがある。しかしタレントおよびその志願者は無限である。このアンバランスはいちじるしい。スタータレントともなれば、さらにその差は開く。

 当然ここに経済学の競争原則が働いて、タレント側は猛烈な売り込みをかける。まず所属プロの実力者に、テレビ局のディレクターやプロデューサー、あるいは広告代理店やスポンサー筋に。彼らの目にとまるためには手段を選ばない。

 自分を売るということは、ライバルを売らせないことである。ライバルが一つの�役�を取れば、確実にその役は、自分には回ってこない。ブラウン管の中で花やかに歌い、踊り、演技しているタレントたちは、血みどろの競争をくぐり抜け、生き残ってきた連中ばかりなのである。

 カラー番組の普及によって、番組はますます花やかに豪華|絢爛《けんらん》たるものとなり、家庭の茶の間に目も彩《あや》な色彩が渦《うず》を巻く。

 だがそれに比例してタレントたちの競争も激化した。彼らにとって「よきライバル」などとはおよそ甘ったれたせりふである。ライバルとは、相手を倒すか、自分が倒されるかという意味において初めてライバルたり得るのだ。絶対に並び立てない仲がライバルなのである。そんな仲がなんで「よい」ものか。

 義理と人情を演技し、恋を歌い、チームワークの群舞《ぐんぶ》をしても、心は�周囲皆敵�の思想で鎧《よろ》わなければ、この世界では生きてゆけないのだ。

「おれはどうしてもスターになるんだ」

 仲間たちが次々に花々しく売り出されてゆくのを、胸の張り裂けそうな羨望《せんぼう》と、どす黒い嫉妬《しつと》に耐えながら、じっと見送ってこられたのも、もう一度あの虚妄《きよもう》の虹《にじ》を見たいとする病的な執念があったからである。

 とにかくキクプロにしがみついてさえいれば、ガヤでもお座敷がかかってくる。�お座敷�の、はしにでも出ていれば、たとえ、宝くじのような確率ではあっても、プロデューサーや、スポンサーの目にとまることがあるだろう。そのうちに風見の気持ちが変わってくるかもしれない。いや風見よりも、美村紀久子にアプローチするチャンスなきにしもあらずだ。

 たとえ彼女が雲の上の存在でも、雲の�真下�にいるかぎり、雲の割れ目ができたときに、日の光を射《さ》しかけられるチャンスがある。一にも二にもいまは辛抱のときだ。

 その星村俊弥に、何と星プロの緑川社長がアプローチしてきた。最初声をかけられたのは、あるタレントの結婚|披露宴《ひろうえん》に招かれたときである。

 そのタレントは星村と同じころに芸能界入りしたのであるが、ある大河ドラマの主役をもらってからめきめき売り出し、いまでは星村づれが足もとにも寄れない大スターになっている。

 最近、清純派のスターとして全国ファンのアイドルになった女タレントの「処女を守る会」の会長となり、会長の特権をフルに利用して婚約、そしてついに今日の披露宴《ひろうえん》となった。

「ふん、何が処女を守る会の会長だ。処女を破る会の会長じゃねえか」

 会場のあちこちでは口の悪い芸能記者が話し合っていたが、その数の圧倒的な多さも、彼の人気を示すものだった。いまだに大部屋の片すみで冷めしを食わされている星村に招待状をくれたのが、せめてもの情けだった。

 どうせ行けば、自分の惨《みじ》めさをいよいよ深く見つめることになるとわかっていながら出て来たのは、相手への儀礼ではなく、スポンサーやプロデューサーの目のはしにとまるチャンスがあるかもしれないというさもしい下心が働いたからである。

 だが、虚名と虚飾の渦巻《うずま》く会場で、星村はまったく無視された。人々は、キクプロの内部ですらほとんど名前を知られていない星村に、品物を見るほどの視線も与えなかった。

 大シャンデリアの光り輝く絢爛《けんらん》たる大宴会場で、身の置き所もないような疎外感をおぼえながら、その最も人目にたたない片隅にぼんやり立っていると、肩を軽く叩《たた》く者があった。

 振り向けた視線の中に、乳房が露出せんばかりに大胆なイヴニング・ドレスをまとった妖艶《ようえん》な女がにこやかに微笑《ほほえ》みかけていた。

「あっ、緑川社長!」

 星村は相手の正体を知って、思わず息をのんだ。日本芸能界を美村紀久子と二分するといわれている、今日の出席者の中でも、大物中の大物の緑川明美が、これ以上はないような親しみをこめた笑顔を向けてそこに立っているではないか。

 こちらからはおそれ多くて、とうてい声などかけられない�雲上人�である。星村は最初緑川が人違いをしているのではないかと思った。しかし彼女の笑顔は紛《まぎ》れもなく星村に向けられたものであった。

「何か、ドリンク召し上がらない?」

 と粋《いき》な形にささげ持ったカクテルグラスを、彼の方へ向かって、心もち差し上げるようなしぐさをしたからである。

「星村俊弥さんね、いいマスクしてるわ」

 彼のかたわらに寄り添う形に立った緑川明美は、彼にだけ聞こえる小さな声で囁《ささや》いた。

 そのとき、不覚にも星村の体は震えた。

「私、前からあなたには目をつけていたのよ。ここでは人の目があるから、今度どこか別の場所でお会いしたいわ。当分東京にいますから、高円寺のマンションの方へ連絡してちょうだい」

 それだけ耳打ちするように囁くと、何事もなかったような顔をして、パーティの渦《うず》の中へ、美しい熱帯魚のように泳ぎ入った。

 星村はしばらくの間、ぼーっとしていた。

(あの言葉は、本当に自分に囁《ささや》きかけられたものだろうか?)

(本当だとも。星村俊弥とちゃんと名前を呼んだじゃないか)

(いいマスクをしてるとも言ったぞ)

(何かの気紛《きまぐ》れじゃないのか?)

(それならそれでいいじゃないか。とにかく緑川明美がおれに興味をもっていることは事実なんだ。その事実にがっぷりと食いついて、気紛れを本当の興味にしてしまうのだ)

 自問自答しながら、星村は、頭上の大シャンデリアよりも輝かしい光が自分に射《さ》しかけられてきたように感じた。

   3

 披露宴《ひろうえん》のあとすぐにも緑川明美に連絡したかったが、そうするとあまりにもこちらの足もとを見|透《す》かされそうなので、翌一日必死にやせ我慢を張り、二日目の午後一時ごろ、言われたとおりの高円寺のマンションへ電話した。

 夜の遅いこの稼業《かぎよう》では、大体この時間が最も在宅率が高いのである。案の定、彼女はいた。まだベッドの中にいたらしく、秘書から取り次がれた電話に、寝起きの不機嫌《ふきげん》な声で応答した緑川は、星村の名前を聞くと、急に愛嬌《あいきよう》のよい声になって、

「あらよく覚えていてくださったわね、嬉《うれ》しいわ。すぐにも会いたいんだけど、ここのところちょっと用事が重なっていて時間がとれないのよ。こちらから連絡するから、あなたの居場所を教えといてちょうだいな。あ、それからこのことは言わなくともわかってると思うけど、私と会うことは、キクプロには内緒よ。いいわね。うふふ」

 最後の含み笑いに何か特別の意味があるようだった。それから数日、星村は緑川明美からの連絡を待つだけの生活をした。

 三日目の朝、待ちに待った連絡はきた。その日の夜九時新宿東口にある「サンベリナ」という喫茶店に来てくれというものだった。

 仕事らしい仕事をもっていない星村は、いつでも都合がよかった。

 午後三時ごろ、ほんの申し訳程度にキクプロの事務所に顔を出し、まだ約束の時間までだいぶ時間はあったが、とうとう待ちきれずに四時ごろに事務所を出た。

 三つほど喫茶店を流れて、ようやく三時間ほど時間をつぶし、「サンベリナ」には約束の時間の少し前に行った。当然まだ来ていないだろうと思っていたが、なんと明美はすでに先着して待っていた。

 先日の、人目をひく衣装《いしよう》とは別人のように地味なスーツを着て、素通しの眼鏡《めがね》をかけている。

 いつもはポムパドール風に高く盛りあげている髪も何の風情《ふぜい》もなくおろしっぱなしにしている。どこから見ても平凡なOL、それもかなりハイミスのスタイルだった。

 星村も明美のほうから声をかけられて、初めて彼女と気がついたほどである。最初は誰《だれ》かと一瞬とまどった彼は、彼女が紛《まぎ》れもない緑川明美本人と知って愕《おどろ》き、そして次に恐縮した。

「どう、私の変装も、まんざら捨てたもんじゃないでしょう? とにかくライバルプロのパリパリをスカウトするんだから、人目に触れてはまずいもの」

 と明美は笑った。眼鏡《めがね》の底には、あの宴会場で星村に向けた緑川明美のあでやかな微笑があった。

「スカウト!?」

「ほほ、そんな棒みたいに突っ立っていないで、ここにおかけにならない?」

 明美にうながされておずおずと腰を下ろした星村は、しばらくの間、まともに顔を上げられないほどにかしこまっていた。明美は、スカウトと言ったのだ。先日初めて声をかけてくれたとき、なみなみならぬ好意を感じたが、それは約束の時間よりも早く、自分よりも前に来て、待ってくれた上に、明からさまにスカウトというほどに強いものであった。

「私ね、美村さんって、人を見る目がないと思うのよ。だって、あなたのようないいタレントを遊ばせておくんですもの。私、前からあなたには目をつけていたの。どう? 星プロへ移らない? 私あなたを軸《メイン》にして、ブロードウェイなみのミュージカルを作ってみたいのよ」

 星村は目の前に突然、巨大な虹《にじ》が現われたように思った。そのあまりにもスケールの大きな華麗さに目がくらくらするようだった。

「もちろんやるとなれば、星プロの社運をかけてやるわ。キクプロにはね、本物のミュージカルを作ろうなんて情熱はこれっぽっちもありはしないわ。要するに儲《もう》かればいいの。だからあなたのような人材に気がつかないのよ。歌えて踊れて演技ができる強烈なキャラクター、それがあなたにはあるわ。あなたならできるわ。星プロミュージカルと讃《たた》えられるような本物のミュージカルを作るのよ」

 ウェイトレスが運んで来たコーヒーを啜《すす》ることも忘れて、星村は緑川明美のよく動く口をみていた。誰《だれ》が言うのでもない。美村紀久子と覇《は》を争う緑川明美が言っているのだ。

 組織の強靭《きようじん》さを誇るキクプロからの離脱は、タレントの自殺行為とまでいわれている。事実その先例は多い。しかし星プロに移籍するとなれば話は別である。

 現在の日本芸能界で、キクプロに対抗できる唯一の勢力であり、関西の夜の世界に絶対の地盤を確保している。

 特にキクプロの利潤追求精神むき出しのガメツさと、組織の強大さにあぐらをかいた横暴が、ようやくテレビ局やマスコミに顰蹙《ひんしゆく》されつつある最近、少なくともキクプロよりは、�芸術�を創ろうとする姿勢のうかがえる星プロの株が上がりかけている。

 紀久子が芸能界の「女怪」であるなら、明美はその「女王」になろうという肚《はら》なのである。そのために打つ一石として、彼女が以前からミュージカルに狙《ねら》いをつけていたことは聞きおよんでいた。

 そのメインに自分を起用するという。自分にそれだけの才能があるかどうかということよりも、緑川明美が自分に目をつけたという目くるめくばかりの喜びのほうが先行してしまう。

 明美は、本物のミュージカル集団の結成を、低俗な娯楽の提供だけに血道を上げているようなキクプロに対する挑戦とし、キクプロを叩《たた》き潰《つぶ》す強力な武器にするつもりなのである。

 とすればそのメインになる自分は、長い間、冷遇と屈辱だけしか与えなかったキクプロに復讐《ふくしゆう》する絶好の位置にいることになる。

 栄光のスターの座の獲得と、胸の暗渠《あんきよ》に堆積《たいせき》した屈辱の放散が同時にできる。星村は酔った。突然自分に微笑《ほほえ》みかけた将来の展望に酔ったのである。

   4

 星村俊弥はその夜本当に酔った。日本の本当のミュージカル誕生の前祝いをしようと誘う緑川明美に従って、新宿のバーやキャバレーをいくつか引っ張り回されている間に足もとも定まらないほど酔ってしまった。明美に勧《すす》められるまま、体に入れたアルコールの量も多かったが、何よりも、自分一人の胸にかかえ切れないほどの喜びが、その酔いを助長した。

「まあまあ、しょうがないわねえ」

 明美は何軒目かのキャバレーを出たあと、星村と腕を組むようにして体を支えてくれた。

(おれはいま、緑川明美と腕を組んで歩いているのだ)

 誇らかな満足感が体の芯《しん》から吹きつけるように湧《わ》いてきた。

「こんなところをキクプロの連中に見せたら、腰を抜かすだろう。見せてやりてえな」

「何を一人でぶつぶつ言ってんのよ。星村さんのうちはたしか、大森《おおもり》の方だったわね。こんなに酔ってしまっては帰れないわ。いいわ、今夜は私の家に泊まりなさい。部屋はいくつか空《あ》いているから」

 明美はどこかのビルの下へ星村を連れこんだ。どうやら地下の駐車場らしい。

「車があるのよ、リアシートで寝てて。すぐだから」

 明美は言って、新車らしいブルーバードの後部座席へ彼を押しこんだ。

「人に見られるとまずいから、寝ているのよ」

 さすがに自分のマンションへ男を泊めるのは気がひけるらしい。しかし明美の注意がなくとも、星村はリアシートに転がりこむとほとんど同時に正体を失った。軽やかな発進音を夢うつつに聞きながら、彼は快い睡魔にひきずりこまれていった。

「星村さん、星村さんったら、着いたわよ、さあ、しょうがないわねえ」

 快い眠りの底からむりやりに引きずり出されたのは、それからすぐのようである。もっとも新宿から高円寺まで、交通渋滞がなければ十分もかからないから、一眠りする間もなかったはずである。

「さあシャンとして! まだ十二時前よ、宵《よい》の口じゃないの。これから盛大なパーティをやるんだから眠らせないわよ」

 明美はさっき寝ろと勧《すす》めておいて、今は逆のことを言っている。

 明美のそばにはいつの間に来たのか、若い女の子がいて、二人でかかえんばかりにして、星村を車の外へ引っ張り出した。

 酔いで過熱した体に、冷たい外気が快かった。酔いがいくらか醒《さ》めるようだった。

 女は明美のマンションに同居しているタレントの一人であろう。どこかで見たような顔だが、酔った頭はなかなか記憶力が働かない。

 目の前には高級マンションらしい高層建物が、その鋭角的な構造の偉容を夜目にも黒々と聳《そび》え立たせている。

「ここが私の東京の家、『高円寺コンド』よ。何でも英語で�共同主権�というような意味で、居住者の高い社会意識のもとに快適なコミュニティを創《つく》ることを願って名づけたとかいうことなの。どう、なかなか洒落《しやれ》てるでしょ」

 明美は酔いで立っているのもやっとの星村にそんなことを説明した。

「ルミちゃん、このハンサムがいつも噂《うわさ》している星村俊弥よ。どう、私の目に狂いはないでしょ、さあ私の巣に案内して」

 明美は上機嫌《じようきげん》だった。ルミと呼ばれた若い女と明美に、両側から抱きかかえられるようにして、星村は建物の中へはいった。中央暖房の暖気が柔らかく身を包む。目の前に長い廊下がつづき、明美の部屋は入口をはいってすぐの所にあった。覗《のぞ》き窓の下に115という部屋番号の表示がある。

「私は一階が好きなのよ。エレベーターに乗っているときに、火事にでもなって電気が停《と》まったらなどと思うとゾッとするわ。上の方が、見晴らしがよくて湿気がなくていいという人が多いんだけど、私は一階でなくちゃ絶対いや。さ、ここよ115号室、よく覚えておいてちょうだいね、ここが私の東京の家よ。私はめったにここへは人を呼ばないのよ、特に男の人はね」

 ルミは鍵《かぎ》を開けた。

 玄関をはいると廊下があり、その奥に、木目の美しい八畳くらいのフロアの洋間があった。センターテーブルを囲んで肘《ひじ》なし椅子《いす》と片肘椅子をつないでつくったソファー、両肘椅子が一つ、部屋のすみに装飾棚《サイドボード》があって、洋酒の瓶《びん》や世界文学全集や、海外旅行の土産《みやげ》物らしいトーテムポールなどが置かれてある。壁には掛時計の針が午前零時少し前を示し、窓には暖色の厚ぼったいカーテンが下りていた。隣りには四畳半ぐらいのダイニングがあって続き部屋となっている。

 もっとも星村はそのとき、室内の様子をそれほど詳しく観察したわけではない。翌朝そこで目を覚ましたときに見た部屋が、昨夜明美に連れて来られたときのおぼろげな記憶に符合するような気がしただけである。

「星村さん、まだ眠らせないわよ。これから三人で面白いことをするの」

 といたずらっぽい含み笑いを星村に向けた明美は、ふと壁の掛時計を見上げて、

「あら大変、『ジェット・ストリーム』がそろそろ始まるわ」

 と言ってサイドボードの上にあったトランジスター・ラジオのスイッチを入れて、選局つまみを回した。

「ちょっと着替えてくるわ。ルミちゃん、お相手をしてあげてね」

 明美はソファーの一つに星村をすわらせて、別の部屋に消えた。ほんの数分のうちに、目をみはるばかりに扇情的なネグリジェに着替えて姿を現わした。

 裾《すそ》は膝《ひざ》が見えるほどのミニで、薄いレースのようなピンク色の生地は、いま流行《はやり》のシースルーである。その下に熟《う》れ切った女体が輪郭をけむらせた妖《あや》しい曲線をくねらせている。別室に隠れたわずかの時間に化粧もなおしたらしい。先刻までの野暮《やぼ》ったいOLの姿はどこにもなく、星村が知る緑川明美よりもいっそうに妖艶《ようえん》な、そして深夜の自宅のプライバシーの中に、昼間の鎧《よろい》を脱ぎ捨てた、女そのものの明美があった。

 星村の酔《よ》いはいっぺんに醒《さ》めた。

「ブランデー、それともスコッチになさる? 年代もののワインもあるわよ」

 明美はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、テーブルの上に、オールドパーやへネシーのVSOPの風格のある瓶《びん》を置いた。

「お姉さま、私には甘いカクテル」

 ルミが甘ったれ声で言った。彼女もいつの間にか、負けず劣らずに刺激的なネグリジェに着替えている。明美はきっと自宅では専属タレントにそのように呼ばせているのだろう。

 ちょうどタイミングよく午前零時の時報が鴫った。つづいて、ジェット・エンジンの噴出音と番組のテーマ曲が流れる。それを背景にして話し手の導入《イントロ》が始まる。

 ——太陽が沈んでからもう随分、時《とき》が流れました。昼間の騒音と埃《ほこり》に汚された時間は、すっかり宇宙の果てしない暗黒の中へ吐《は》き出され、いま、私たちの周囲を音もなく流れている時間は、高度一万メートルの空気のようにフレッシュです。地球の自転によって成層圏に起こる壮大な大気の流れ、ジェット・ストリーム——

 誰《だれ》が作ったのか、まことに聴く者の耳にしみじみと訴えかける導入であり、またその背景を流れる、いかにも宇宙の暗黒の彼方《かなた》から湧《わ》き出してくるような壮大なテーマ曲であった。

「私、この音楽番組が大好きなの。テーマ曲もいいでしょ。フランク・プールセルの演奏するミスター・ロンリーよ。どんなに疲れていても、夜一人でお酒を飲みながら、この番組を聴いていると、心がのびのびするような気がするのよ」

 明美はブランデーグラスを両手でかかえこみながら、瞳《ひとみ》をうっとりとさせた。妖艶《ようえん》ではあっても、それを浮き沈みの激しい芸能界を泳いで行くための武器としている彼女が見せた、素肌の表情だった。

 星村もポピュラーは好きで、この番組はときどき聴いている。それから一時間、番組が終わるまで、女とムード音楽に囲まれた妖《あや》しい酒盛りが始まった。

 酔いの蓄積で星村が眠りに落ちかかると、二人の女がくすぐったり、挑発したりして彼を眠らせまいとした。星村がその気になって女にいどみかかると、ケロケロ笑いながら逃げてしまう。

 そんなことを繰り返している間に番組は終わり、星村はくたくたになって、ソファーの上で今度こそ本当にダウンしてしまった。

   5

 星村が激しく揺り起こされたのは、翌日の昼近くだった。

「起きて! 星村さん、起きてちょうだい! 大変なことが起きたのよ」

 濃い霧の向こうからしきりに呼びかける明美の声が、しだいに近づき、霧が割れたあとから網膜に受け切れぬほどの日の光が、かっと射しこんできた。

 カーテンが開け放たれ、明るい昼の光が無量にはいってくる中で、星村は二日酔いの重い瞼《まぶた》をいきなり開いたのである。

 あまりの眩《まぶ》しさにいったん目を閉じた彼は、今度は室内の陰になっている部分に顔を向けて、そろそろと瞼を開けた。

 まず木目の美しいフロアが目にはいった。次に世界文学全集と洋酒|瓶《びん》を並べた装飾用のサイドボード、トランジスター・ラジオもある。トーテムポールもある。

 星村は最初、自分がどこにいるのかわからなかった。自分のアパートでないことは確かである。だが部屋の模様に、どことなく覚えがある。

「星村さん、しっかりしてよ」

 緑川明美の顔が覗《のぞ》きこんだ。そのとき星村の記憶が完全に戻った。

 そうだ! おれは昨夜、明美のマンションに泊まりこんだのだ。本棚《ほんだな》、洋酒|瓶《びん》、トーテムポール、みんなおぼろげに覚えている。ラジオでFM放送を聴きながらこのソファーに眠りこんでしまった。

 ちがっていることといえば、緑川明美が別人のように厳《きび》しい顔をしていることだった。

「星村さん、大変なことが起きたのよ、赤羽三郎知ってるでしょ、うちの専属タレントよ。彼が殺されたの、昨夜紀尾井町のマンションで。私これから死体の確認に現場へ行かなければならないのよ。警察にいろいろと訊《き》かれると思うの。あなた一緒に来てくれない。私だって女ですもの、怖《こわ》いわ。責任者だから、どうしても行かなければいけないそうなの。星村さんがいてくれたら心強いわ。恩に着るわよ。お願い」

 明美にすがりつくように言われて、星村は断われなくなった。いまここで彼女のご機嫌《きげん》をそこねては、せっかくの話をご破算にされるおそれがある。

 むしろここで彼女のために粉骨砕身して貸しをつくっておいたほうがよい。これはチャンスかもしれない。

 二日酔いの冴《さ》えない頭で素早く計算した星村は、ふらつく足で立ち上がった。

[#改ページ]

 無関心の鉄の檻《おり》

   1

「紀尾井スカイメゾン殺人事件」の捜査本部は、麹町《こうじまち》署に開設された。本部に投入された本庁捜査一課と所轄署の捜査員は、被害者の周辺に精力的な聞き込み捜査を始めた。

 凶行発見の過程および、発見直後に行なわれた現場検証の結果は次のとおりである。

 一 死体発見の経過

 昭和四十五年一月二十日午前十時三十分ごろ、東洋テレビの「昼のクリスタルショー」に出演予定の赤羽三郎(星プロダクション所属)が、スタジオ入りの時間になっても姿を現わさず、電話にも応答しないため、同局の番組担当員|中村光平《なかむらこうへい》が同人の住居としている紀尾井スカイメゾン(千代田区紀尾井町×番地)の512号室におもむき、同メゾン管理人|立花久夫《たちばなひさお》の立会いのもとに部屋へはいったところ、すでに絶命している同人を発見した。なお、前夜十九日午後十時ごろ、中村光平は被害者宅に電話し、被害者がその時刻に生きていたことを確認している。

 二 検証の日時

 昭和四十五年一月二十日午前十一時十分から同日午後五時〇分まで。

 三 現場の位置および付近の情況

 現場は国電|四谷《よつや》駅東口の東南方約八百メートル、ホテルOの東面に接する二十階建ての高層分譲住宅、紀尾井スカイメゾン五階512号室である。

 同メゾンは東西に向けて南北二棟あり、南棟の西端と北棟の東端が並列し、エレベーターホールによってIの字型に連結されている。512号室は北端の西側棟末にあって、バルコニーは南に面している。その情況は見取図に示すとおりである。

(画像省略)

 1 玄関の扉《とびら》および鍵《かぎ》の情況

 扉は片開きとなっており、スチール製で背の高さにマジックミラー式の覗《のぞ》き窓がある。覗き窓の下に部屋番号の掲示板がかかっている。鍵は自動式のシリンダー錠《じよう》で扉が完全に閉まるとロックする形式のものである。発見時はロックされていたので、管理人のマスターキーで開放した。内側には防犯用チェーンが装備されてあるが、これはかけてなかった。

 2 現場512号室内部の模様

 512号室は同メゾンKC22−Gタイプといわれる3DKで、内部間取りは見取図に示すとおりである。ただし居間と食堂の間は居住人があとからアコーデオンシャッターを取りつけた。

 ㈰1居間の模様

 居間は八畳ほどの広さで、バルコニーに面した洋間である。床は板張りで、カーペットは敷かれていない。レースのカーテンがバルコニー側三本引のガラス戸にかかっている。ベッドを兼ねるソファー一台、南西の柱を背にテレビ《カラー》一台、テレビの下に熱帯魚の水槽《すいそう》がある。水槽中には十数匹のエンゼルフィッシュとグッピーが泳いでいる。テレビは消えていて、水槽用の空気《エア》ポンプは作動している。

 ㈪2和室手前六畳の模様

 死体が発見されたのは、玄関をはいってすぐ右手、手前六畳の和室である。部屋の中央に布団が敷かれ、被害者はその中で絶命していた。押入れは上下二段区切りとなっていて、古新聞、雑誌などの雑品入れとなっている。廊下に面した一本引の板戸は閉まっていた。

 ㈫3和室奥六畳の模様

 奥六畳の間は被害者が平素寝室に使用していたものらしく、押入れの内部は同じく上下二段区切りで、上段に掛布団、毛布数枚、下段に若干の汚れたシーツと下着類がはいっている。手前六畳の間との隔壁には旧式の掛時計が一個かかっており、六時二十八分で停止し、ネジは全解していた。東側通路および南側居間に面する一本引および二本引の襖《ふすま》はいずれも閉まっていた。

 ㈬4食堂の模様

 居間との境のアコーデオンシャッターは閉まっており、中央にウインザー型|椅子《いす》二脚、食卓一台、食卓の上には、堅くなった食パン半片ほど、バター、インスタントコーヒーの瓶《びん》(中身三分の一ほど)、食べかけのロースハム、竹の皮に包んだ牛肉、卵4個、みかん、りんご数個、トースター、ソース入れ、味の素入りかん、バターナイフ、スプーン等が無造作に置かれている。

 四 被害者の情況

 被害者は、

 東京都千代田区紀尾井町×番地紀尾井スカイメゾン512テレビタレント赤羽三郎(二十八歳)であり、死体は手前六畳の間中央に頭部を西に、布団の上に仰向《あおむ》けとなり、顔面は居間の方を向き、左手は顔の前の方に曲げ、右手は頭の上方へ突き出している。枕ははずれ、頭の上部の畳の上に転がり出ている。左脚は掛布団の下にまっすぐに、右脚は布団をはねのけたようにして畳の上に投げ出している。左右両かかとの間隔は約八十センチである。

 外部の所見は身良一七五センチ、筋骨型、木綿パンツの上に、茶色の毛糸の腹巻、木綿のパジャマを着用、顔面は暗紫色を呈し、浮腫《ふしゆ》状態が認められる。目はわずかに開き、両|眼瞼《がんけん》の周囲はやや膨張し、両眼瞼膜に数個の溢血《いつけつ》点が認められる。鼻孔内からは薄い血液のような気泡《きほう》が流出付着し、口から淡赤色の血液様液体をまじえた食物|残渣《ざんさ》を吐出《はきだ》して、強い腐敗臭を発している。なお局部に少量の脱精液が認められる。口は少し開き、前歯で舌端をかんでいる。

 頸部《けいぶ》にはグレイの無地のネクタイを二巻きし、前頸部でいわゆるおとこ結びで堅く結索《けつさく》して、頸部に深く食いこんでいる。結び目は前頸部正中線の少し右側によっており、ネクタイをはさみにより切断取り除いたあとに頸部に水平に幅二センチの索溝《さつこう》が認められる。死体は死後硬直が顕著である。

 臀部《でんぶ》に当たる部位のパンツおよびパジャマに尿、脱糞《だつぷん》が沁《し》み通り、死体を移動すると、口および臀部に当たる部位のシーツおよび敷布団に汚染が認められた。

 頭部側右手(死体を仰向けにして)の畳表に、被害者の口から飛散したものと思われる汚物の痕《あと》が見られる。なお、布団右手に当たる畳表に爪《つめ》でかきむしったような痕があり、被害者の右手|人指《ひとさ》し指、および中指の爪《つめ》に畳表のわら屑《くず》のようなものが詰まっていた。このいずれも警視庁刑事部鑑識課司法巡査、吉野明《よしのあきら》が採取保存した。

 顔面以外の身体は、蒼白《そうはく》で両側胸部と、後背部一面に暗紫色の死斑《しはん》が認められる。

 五 証拠資料

 1 証拠物件

 次の物件を証拠品と認め、昭和四十五年一月二十日東京地方裁判所裁判官|池永和男《いけながかずお》の発した差押《さしおさえ》許可状により差し押えた。

 ㈰1被害者赤羽三郎を絞首していたネクタイ一本。

 ㈪2被害者の着ていた木綿パジャマ上下。

 ㈫3右同パンツ一枚。

 ㈬4シーツ。

 2 指掌紋痕跡等

 ㈰1指掌紋 現場の各所について指紋の検出を試みたが、被害者以外のものの対照可能な指掌紋を発見するに至らなかった。

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