仮面劇場
他二篇
横溝正史
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目 次
仮面劇場
猫と蝋人形
白蝋少年
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[#見出し] 仮面劇場
[#小見出し] 発 端
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
瀬戸内海国立公園観光船のこと——ガラスの舟——三重苦少年——立ち聴く影
[#ここで字下げ終わり]
一
〇——商船株式会社のきもいりで仕立てられた、瀬戸内海国立公園観光船、N——丸が、初夏の海上へハイキングにと、大阪天保山桟橋を解纜《かいらん》したのは、昭和八年、瀬戸内海の島々に、鮮緑したたるばかりの、六月十一日のことでありました。
日程をお話しいたしますと、六月十一日、土曜日の午後八時、天保山桟橋を出帆したN——丸は、その翌日の朝はやく、本島の笠島浦というところに着きます。
ここにひと先ず上陸した一同は、そのかみの海賊城址を見物したり、遠見山の展望台から、海の銀座ともいわれる、東部瀬戸内海の風景を観賞したり、そしてそれからふたたび船によって、塩飽《しあく》諸島のあいだを漫歩しながら、鬼ヶ島にわたり、鬼の岩屋といわれる幽邃《ゆうすい》な洞窟を探検して、その夕刻、天保山へかえって来ようという、初夏の週末をすごすには、まことにかっこうの計画でありました。
こういう旅ですから、乗客というのもたいていは、京阪神の相当の家庭の人たちばかり、ことに家族づれが多かったので、わかい綺麗なお嬢さんもおれば、カメラのピントをあわせるに忙しいお洒落《しやれ》な青年もいる。
いたずらざかりの、坊ちゃん嬢ちゃんがいるかと思うと、なかにはまた、片時も数珠をはなさないような、品のいい切り髪の御老婆もいるというわけで、まことに賑やかな遊覧船でありましたが、さいわい天候にもめぐまれて、この海上ハイキングは大成功でありました。
さて、一同が思うぞんぶん海の精気を満喫し、奇巌怪石の島々にカメラのフィルムもつきはてて、ふたたび船が鬼ヶ島から、天保山さしてかえりの航路についたのは、日曜日の午後二時ごろのこと。夕食は船中でしたためまして、神戸の中突堤へつくのが夜の八時ごろになります。こうして、この楽しい週末の、海上ピクニックはおわるのでありました。
ところが、このN——丸が、いましも淡路島と小豆島のあいだを縫うて、一路、神戸へむけて進んでいるときのことでした。
「あら!」
と、双眼鏡を眼にあてたまま、つと、甲板のたたみ椅子から立ちあがると、
「まあ。……あれ、なにかしら」
と、不思議そうに首をかしげて呟いたのは、さよう、二十八、九の美しい洋装の婦人。女としてはもう熟《う》れきった年頃ですが、それでいて、どこかにまだ、あどけなさの残っているように見えるのは、笑うと両頬にくっきりとうかぶえくぼ[#「えくぼ」に傍点]のせいでしょうか。太りじしの豊かな体格ではありますが、手脚がのびのびとしているので、洋装がまことによく似合う。眼ざむるばかりのグリーンのドレスのうえに、ピンクいろのケープを無雑作に、ひっかけているのもうつりがよく、短いスカートの下からのぞいている脚も、牝鹿《めじか》のように弾力をもっています。
まえにもいったように、多くは家族づれか、さもなくば嬉しい楽しい恋人同士のなかにまじって、この婦人ばかりは終始さびしい一人旅の、しかも上方ふうとはまたかわった、素晴らしい美貌が、昨夜からひとびとの注目を、ひいているのでありましたが、船客名簿によると、なまえは大道寺綾子といって、どうやら、鎌倉に本宅を持っているらしいのです。
さて、デッキ・チェアから立ち上がった綾子は、双眼鏡を眼にあてたまま、吸いよせられるように手摺りのそばに近寄ると、からだをまえに乗り出して、なおもいっしんに、はるかかなたの水平線上を眺めていましたが、
「変だわねえ。いったい、あれ、なにかしらねえ」
われにもなくまたそう呟きましたが、するとその声にふとこちらをふりかえったのは、すぐ隣のデッキ・チェアによりかかって、よねんなく読書していた白髪の紳士。しかし皆さん、誤解してはいけません。
なるほどこの人の頭髪は、白銀のような美しい光沢をもった白髪なのですが、よくよく見るとこの人が、決して白髪の示すほども年をとっていないことがわかりましょう。色の浅黒い、眼つきの鋭い、それでいて微笑をふくむと、なんともいえない温かい優しさの溢れるのがこの人なのです。年は四十をそれほど多くは出ていますまい。
この人も同伴者のない、孤独なひとり旅でしたが、さきほど、鬼の岩屋のまえで、一同そろって記念撮影をするときに交換した名刺によると、由利麟太郎とのみ。どこの人やら、何をする人やら、いっこうに見当もつきかねましたが、言葉つきからして、どうやら東京者らしいのを、綾子は心ひそかに、たのもしく思っていたところなのであります。
白髪の紳士は読みかけの本を椅子のうえにおくと、
「どうかしましたか、大道寺さん」
と、綾子のそばへよって来る。
「ああ、先生」
綾子はいつかこの人を、先生と呼んでいましたが、なるほどそういう呼びかたこそ、この人にいちばんふさわしいように思われます。
「あの、……向こうの波間にういている、……ほら、あれは何んでございましょうね。船のようでもあり船のようでもなし、船とするとずいぶん妙な船ですわねえ」
綾子は双眼鏡から眼をはなすと、ボーッと上気したような眼を、由利先生に向けました。軽い緊張のせいか、瞳がきらきら輝いて、人を魅するような美しさです。
由利先生もその美しさに打たれたように、しばしばと眼をまたたきましたが、すぐと、
「どれ、どれ」
と、自分も綾子と並んで、胸にぶらさげていた双眼鏡を眼にあてましたが、
「なあるほど、妙な船ですな」
「変でございましょう」
「箱のようでもあるし、筏《いかだ》のようにも見えますね。艫《ろ》も櫂《かい》もついていないところをみると、どこからか漂流して来たのかしら」
「そうでしょうか。そうかも知れませんわね。でも、なんだかキラキラ光ったものが見えますわね。あれ、何んでしょうねえ」
「変ですねえ。私もそれに気がついていたのだが。……」
「あれ、ガラスじゃありません? あら、ほんとにあれ、ガラス箱のようじゃございません?」
「お! なるほど、大きなガラス箱がつんである。こいつは妙だ。いったい、何をする船かしらん?」
「このへんによくある漁船のようではありませんわね。第一、漁船にあんな大きなガラス箱をつむはずはございませんわね。あら!」
ふいに綾子が頓狂な声をあげて、双眼鏡を落としそうになったので、由利先生は思わずそのほうへ振りかえりました。
「ど、どうかしましたか」
「あれ……人じゃございません? ああ、人だわ、誰か人が乗っていますわ。ほら、あの大きなガラス箱のなかに……誰か人が横になって……」
「な、な、なに、人だって?」
由利先生もぎょっとしたように、急いで双眼鏡のピントを調節しましたが、
「ふうむ!」
思わず深い唸り声をあげました。
ふたりが驚いて、しばらく茫然《ぼうぜん》と心を奪われていたのも無理ではありません。
そのとき、波間はるかに浮きつ沈みつ、ふたりのまえに展《ひろ》がって来たのは、何んともいいようのない異様な光景でありました。
いましもかあっと西陽をうけて、あかね色に炎《も》えあがっている波のあいだを、艫も櫂もつけぬ一葉の小舟が、ひとひらの木の葉のように、浮きつ沈みつ、沈みつ浮きつ。——しかも、その小舟のうえには長持ちほどもあろうと思われる、大きなガラス張りの箱がおいてある。そしてガラス張りのその箱のなかには、おお、なんということだ、人間ひとり、身動きもしないで仰臥《ぎようが》しているではないか。
生きているのか、死んでいるのか、男か女か、さだかに見わけかねますけれども、淡路島の島影づたいに、小舟はしだいに海峡のほうへ流れていきます。
遠くから見てさえ相当のスピードですから、そばへ寄ってみれば矢の如き速さではありますまいか。潮に乗っているのです。
このまま放っておけば、鳴門の渦に巻きこまれて、舟もガラス箱も、ガラス箱のなかに仰向けに寝ている人も、木っ葉微塵となって魔の海底に吸いこまれていくことは、掌《たなごころ》をさすように明らかな事実であります。
「あら、たいへん、たいへん、誰かあの方を助けてあげて頂戴!」
綾子は金切り声をあげて叫んだが、その時分、ほかにもこれに気付いた人もあったと見え、船中はにわかに大騒ぎになりました。
二
乗客の報らせによって、すぐにN——丸はその進行をとめました。
そして、屈強な水夫たちによってボートがおろされました。
ボートはすぐに舟をはなれていきます。
水夫たちの逞《たく》ましい腕先にオールがおどって、きらきらと飴のように、粘っこい海水をはねあげるのが見えます。そのボートの先頭に、すっくと立っているのは由利先生、潮風にふさふさとなびく白髪が、折りからの西陽をうけてまっかに炎えあがっているのであります。
「うまく助かるでしょうか」
「ええ、もう大丈夫よ。あれだけ屈強な人たちが出向いていったんですもの」
「でも、このへんの潮の流れはとても危険なのよ。うっかり巻きこまれたが最後鳴門の藻屑になってしまうんですって。だから、御覧なさい。このへんいったい、一艘の漁船も見あたらないでしょう。漁師がおそれて近付かないんですって」
大きな輪をえがきながら、しだいしだいに鳴門の渦に吸い寄せられていくあの奇妙なガラス舟と、それを目差して進んでいくボートの行く方を、固唾《かたず》をのんで見まもる人たち、綾子のまわりにはいつの間にか、若い令嬢がおおぜい集まって来ていました。
「でも、もう大丈夫よ。ほら、ボートはもうあんなに近くなったんですもの。しかし、あの人、生きているんでしょうか、死んでいるんでしょうか」
「むろん、死んでいるのよ。生きていればあんなにじっとしている筈《はず》はないわ。死んでいるにしても、しかし、妙ねえ」
「ほんとに妙な舟よ。ガラス張りの舟なんて、いままで見たこともきいたこともございませんわ。あなたが発見なさいましたのね」
令嬢のひとりがそう綾子に訊ねました。
「ええ、ぼんやり双眼鏡をのぞいていたら、何んだか妙なものが見えるでしょう。あたしもはじめのうち、何んだかさっぱり、見当もつかなかったんですけれど、あの方——由利さんとおっしゃる方と御一緒に見ていると、人が乗っているようなので、ほんとにびっくりしてしまいました」
そういいながら綾子は、由利先生の坐っていたデッキ・チェアへ眼をやりました。そこにはさっき白髪の由利先生が、読んでいた本が伏せてあります。その本の表紙には美しい金文字で、
犯罪心理学
「犯罪心理学——まあ!」
綾子はちょっととまどいしたような眼をしましたが、ちょうどその頃、ボートはやっと例の奇怪な舟のそばまで漕ぎ寄せていました。
「ああ、もう大丈夫ね。うまくいったわ」
しかし、それはこちらで見ているほど簡単な仕事ではなかったと見えて、ボートはそばまで漕ぎ寄せながら、なかなかぴったりくっつかない。
まるで野獣がえものを狙うように、しばらくゆるい輪をえがいて、ガラス舟のまわりをうろついていましたが、やがて水夫のひとりがボートのへさきに立ち上がると、くるくるくると片手でまわしはじめたのは、さきを輪にしたロープなのです。
ロープは一枚の円盤のように、ボートのうえを躍っていたが、やがて一本の線となり、つつうーッと飛んだかと思うと、見事! がっきと向こうの舟のへさきに連結しました。
わあ!
こちらの甲板からいっせいに歓呼の声があがります。
「ああ、助かったわ。もう大丈夫」
まさにそのとおりでありました。
ロープを手繰《たぐ》ってボートはしだいに舟に接近していく。
やがてその間半間ばかり、と、この時ひらりとこちらのボートから、向こうの舟に乗り移ったのは白髪の由利先生。先生はあの奇怪なガラス張りのなかを覗《のぞ》いていましたが、すぐ、ボートのほうを振りかえって手をふります。
と、ボートはくるりと方向転換、すぐまた、ひたひたと水を掬《すく》いあげながら、こっちのほうへ漕ぎ戻して来る。
やがて本船とボートの距離がせばまって来るにしたがって、甲板に群がっていた人たちは、何んともいえぬ奇妙な胸騒ぎをかんじはじめました。
それもその筈、接近するにしたがって、しだいにはっきりして来るその舟というのが、まことに尋常ではないのです。
形はふつうの小舟だが、そのなかには、いろとりどりの美しい薔薇《ばら》の花が、盛りあがるように撒《ま》き散らしてある。それはまるで葬式の柩車《きゆうしや》のようでもあり、その花の香ぐわしさは、ボートがどんと本船の船腹にへさきをぶっつけたとたん、潮風にもめげず、プーンと令嬢たちの鼻孔をうったくらいなのです。
「まあ!」
甲板に群がった人々は、思わず顔を見合わせたが、異様なのはそればかりではない。舟の中央に安置してあるあのガラス箱、まさに長持ちほどもあろうと思われる、大きな長方形のガラス箱には、黒いテープで結《ゆ》わえた花束が、——それこそ葬式の柩《ひつぎ》を飾るように白い花束がおいてありました。
「あら、じゃ、やっぱりあの方《かた》死んでいるのね」
「そうよ、そうよ、きっと。——そしてこの舟はお葬いの舟なのよ」
「あら、いやだ、縁起の悪い。それなら何も苦労して、わざわざ引っ張って来なくてもよさそうなものにねえ」
「でも、変ねえ、このへんでは人が死ぬと、海に流す習慣があるのでしょうか」
令嬢たちは固唾をのんで、ガラス張りの箱をうえから覗きこんでいたが、その箱のなかにはたしかに人が、白衣をまとうた人の姿が横になっている……。
と。——この時でした。
箱の向こうにもたれている由利先生が、つかつかと側面にまわったかと思うと、横についている蓋を、静かにうえに跳ねあげました。
するといままで石像のように、身動きもせずに箱の中に仰臥していた人物が、よろよろと、手探りで、そしてそれこそ秋風にそよぐ木の葉のように身をふるわせながら、箱の中から這《は》い出して来たではありませんか。
「あっ!」
甲板にむらがっていた人たちの唇からは、その時いっせいに、何んともいえぬ深い感動のさけび声が洩れました。
それもその筈、大道寺綾子にしても、この時ほど、世にも衝動的な光景に接したことは、あとにもさきにも、いやいや、うまれてこのかた、一度だってありますまい。
ガラス箱からはい出して、よろよろと夕日を受けて立ちあがったのは、年のころ十九か二十のそれこそたとえようもない程の美少年!
それは何かしら、血の通った、現実にこの世の空気を呼吸している人間というよりは、蝋《ろう》でこさえた人形のように、妙に神秘的で、妙に物語めいて、まるで草双紙から抜け出して来たような美しさ、ぎりぎりと歯ぎしりが出るほどの、異様に身に迫って来る、たぐいまれなその美貌。
ああ、ひょっとするとこの少年は、鳴門の渦から這いあがった海の精気ではありますまいか。それとも日も通らぬ暗黒の海底に棲むという人魚が、なにかの拍子で波間に浮かびあがって来たのではないでしょうか。
少年はブルブルとひっきりなしに身をふるわせる。まるでおこり[#「おこり」に傍点]を患っているもののように、からだ中をふるわせる。
柔かい髪の毛が、海風に波うって、身につけた草色の洋服が、折りからの西陽を吸ってあたたかそうに輝きます。
それにも拘らずその少年は、絶え間なくからだをふるわせ、そのあしどりには、どこか、めしいたもののような頼りなさ、危なっかしさがあるのでした。
少年は由利先生の肩につかまって、ようやく、令嬢たちのむらがっている、甲板まであがって来ました。
しかし、かれは少しもあたりにいる人々に気がついたふうはありません。絶え間なく、ブルブルとからだをふるわせておりますが、その瞳はめしいた如く動かず、かたく結ばれた唇は、結んだままワナワナとふるえています。
少年がまえをとおり過ぎると、令嬢たちは故知らぬうそ寒さをおぼえて、思わずゾーッと後じさりをいたしました。
しかし、それさえ気づかぬように、少年の表情にはなんの反応もないのです。
「先生、この方……どこかお悪いのですね。……こんなにふるえて……」
自分のまえまでやって来たとき、綾子は喘《あえ》ぐように呟《つぶや》きました。由利先生は少年のからだを支えたまま立ち止まると、
「いや、この少年のふるえているのは、肉体の病気のせいではないのですよ。この少年はおびえているのです」
「おびえて……? まあ、可哀そうに……でも、無理はございませんわ。生きながら、あんなものに入れられて……先生、この方眼が不自由なんですわね」
「そう、眼が見えないようですね。しかし、この少年の不自由なのは、眼ばかりではないらしいんですよ」
「え——? 眼ばかりではないとおっしゃいますと——」
「ほら、これを御覧なさい。こんなものが、あのガラス箱のなかに、——寝ている少年の枕もとにおいてあったんですよ」
むつかしい顔をして、由利先生がさし出したのは……奇妙な金箔塗りの木片でありました。それはちょうど位牌みたいな恰好《かつこう》をしているのですが、その木片のうえには、つぎのような文字が、達筆で彫ってあるのでした。
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盲《もう》にして聾唖《ろうあ》なる虹之助の墓
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「まあ! 盲にして聾唖ですって? 盲にして聾唖ですってこの人が……? この人……ああ、可愛い、こんな美しい人が盲聾唖……」
綾子が唇をふるわせて絶叫したのも無理ではない。
ああ、この美しい、神秘的な、鳴門の渦からわきあがったような美少年虹之助こそは、眼も見えなければ耳もきこえず、口を利くことも出来ぬ、あわれ、世にも悲惨な、世にも恐ろしい三重苦の不具者なのでありました。
三
世にも悲惨な三重苦少年の生き葬礼。
この事件が、当時、どのように世間を騒がせたかは、その頃の関西の新聞をお読みになった方はよく御存じの筈であります。
新聞という新聞が、筆をそろえてこの奇怪な事件を書き立てました。
あの奇妙なガラスの舟のこと、撒きちらされた薔薇のこと、金箔塗りの位牌のこと、更に哀れな盲聾唖、虹之助の一挙手一投足については、どんな些細《ささい》な事実でさえも、あますところなく新聞紙上につたえられました。
それにしても生き葬礼とは尋常ではない。
どのような事情があるにせよ、生きている人間を、ガラスの柩に入れて海に流すとは、天人ともに許さざる大犯罪であります。
それですから警察では、やっきとなってこの怪事件の真相を突きとめようとしましたが、なにしろ肝腎の本人が、目も見えなければ耳もきこえず、口も利けない盲聾唖と来ているのだから、取り調べるにも取り調べようがなかったのです。
虹之助少年は何をきかれようと、何を訊ねられようと、顔の筋肉ひとつ動かしません。
かれの瞳は、美しく澄んではおりますが、いつもある一点に釘着けにされたように、決して動くことはないのです。
かれの唇は匂いこぼるる花のように艶《なまめ》かしいのですが、いつも冷たく閉ざされたまま、決して開こうとはいたしません。
警察でもはじめのうちは、この哀れな盲聾唖を、贋物《にせもの》ではあるまいかと思って、いろいろと、知名の医者の診断を仰ぎましたが、その結果、どの名医の意見も同じでした。
虹之助こそは疑いもない完全な盲聾唖! こうなると虹之助から、何かきき出すということは、絶対に不可能であります。そこで警察ではやむを得ず、ほかの角度からこの怪少年の素性を調べにかかりました。
先ず最初に調べられたのは、少年をのせて漂流していたあの小舟だが、それからは何んの手懸かりも得られなかった。
ついで、東部瀬戸内海から紀淡地方の村から町が、かたっぱしから調査されたが、誰一人、このような奇怪な少年のことを知っている者はありませんでした。
第一、知っている者があったとすれば、新聞でもあのように騒いでいるのだから、いままで黙っている筈がありません。どこからか情報が入って来そうなものですが、それがないのですから不思議です。
ひょっとするとこの少年は、その名のとおり、虹のように、瀬戸内海の水のうえに浮きあがった、つかまえどころのない存在なのではありますまいか。
そこで当然、いろいろな風説が、この三重苦少年をとりまいて伝えられました。昔、パーシュウスというギリシャの勇士は、その生誕にあたって、この子はいくいく祖父を殺すであろうという忌《いま》わしい予言をされたために、母とともに箱詰めにされて、多島海の潮に流されたということですが、この不思議な虹之助少年も、何かそのような忌わしい迷信のために、こんな悲惨な目にあったのではありますまいか。——しかし、それもいまのところ解けない謎なのです。
こうして、はや一ヵ月あまりもたちました。そして移り気な世間では、しだいにこの三重苦少年に興味をうしない、そして忘れていきましたが、その頃になって、またしても、この少年を取りまいてつぎつぎと恐ろしい事件が起こったのです。
だが、それらのことをお話するまえに、虹之助少年のそののちの身のうえについて、簡単にお話しておかねばなりません。
警察でも、この少年の取り扱いについてはほとほと困ってしまいました。どのような恐ろしい犯罪がこの少年の身にかくされているにしろ、いつまでもこのように体の不自由な不具者を、警察へとめておくことは出来ません。さればといって、引き取り人もないのにむやみに釈放するわけにも参りません。うっかり外へ出せば、たちまち自動車に轢《ひ》かれるか、電車に跳ねとばされて死んでしまうにきまっている。
それには警察もほとほとと、困《こう》じ果てておりましたが、するとそこへ奇特な申し出をしたものがありました。
ほかならぬ大道寺綾子なのです。
綾子は鎌倉の中御門に、宏壮な邸宅を持っている富裕な未亡人なのですが、危うく鳴門の渦にまきこまれようとしたこの少年を、最初に見付けたということに、何んとなく深い因縁の糸をかんじて、あれ以来、ずっと大阪のホテルに滞在して、この少年の成り行きを見ていたのですが、警察で虹之助の処置に困っていることをきくと、みずから保護者の役を買って出たわけでありました。
そして結局、綾子の申し出どおり、虹之助は彼女のもとへ引き取られることになったのです。むろんそれまでにはいろいろとむずかしい手続きもあり、面倒な条件もありましたが、結局警察でも綾子の熱心にほだされたと見えます。
虹之助は無事に綾子のホテルへ引き渡されましたが、これが七月二十五日のこと、そして諸君よ、この日が日本でも三大祭りといわれる、大阪は天満の天神祭りであることを思い出していただきたい。
綾子は虹之助をひきとると、すぐにも鎌倉へかえりたかったのですが、音にきく天神祭りがきょうときき、また評判の河|渡御《とぎよ》が、ちょうど綾子の泊まっている、ホテルの裏をお通りになるときいて、つい、出発を一日のばすことにしましたが、するとその夜、ひょっこりホテルへ綾子を訪れて来た人があります。
ほかならぬ由利先生、観光船以来の馴染《なじ》みなのです。
「奥さん、私があれほど忠告しておいたのに、あなたはとうとうこの少年を引き取りましたね」
ホテルの一室に、ちんまり表情もなく坐っている、あの美しい虹之助の姿を見ると、由利先生は苦笑せずにはいられない。
「すみません」
綾子は薄く頬を染め、
「先生の御忠告に反抗するわけではございませんけど、あたしどうしてもこの人を、このまま捨ててしまうわけには参りませんの。あたしとこの人とのあいだには、何かしら深い因縁があるように思われて……」
きらきら光る綾子の瞳には、言葉の殊勝さとは反対に、大胆な、悪戯《いたずら》っぽい、挑戦するような輝きがありました。
由利先生は苦笑をうかべて、
「困ったものだ。これだからお金持ちの未亡人は扱いにくい。何しろ金と暇を持てあましているんだから」
「あら、失礼なことをおっしゃる。あたし何も自分の慰みにこの人を、引き取ったのじゃありませんのよ。あたし気まぐれや酔興でこんな役を買って出たのではございませんわ」
「失敬失敬、気にさわったら勘弁勘弁。しかし奥さん、こんな不自由な人間を引き取って、これから先、いったいどうなさるおつもりなんですか」
「教育しますわ。ええ、教育して一人前とはいかずとも、せめて僅かなりとも人生の意義というものを、この人に教えてやろうと思うんですわ。ヘレン・ケラーさんだってこの人と同じような盲聾唖なんでしょう。でもあのとおり立派な学者となっています。自分の考えるところをほかに発表することが出来ます。あたしこの人を教育して、何かしら、この世に役に立つ人間に仕立てたいのです。先生、これではひどい、これではあまり惨めです。人間と生まれたかいはありません。虫けらも同然でございますわ」
「奥さん、なるほどあなたのお覚悟は立派です。しかし、それは容易なことではありません。いまにきっと手を焼きますよ」
「容易でないことは覚悟しています。しかし手を焼くかどうかは、長い眼で見ていて戴きます。あたしやり遂げる自信があります。ええ、ええ、きっとこの人を教育してみせますわ。そして、この人が自分の心を外に伝えることが出来るようになったら、きっと、あの不思議な生き葬礼の顛末《てんまつ》もわかって来るにちがいありませんわ」
「奥さん、そのことなんです。それがあるからこそ私は心配しているのです。この少年はただの盲聾唖ではない。この少年には恐ろしい敵があります。生きながら、ガラスの箱に入れて、鳴門の淵に流しものにする。ああいう残酷な仕打ちを見ても、その敵がいかにこの少年を憎んでいるかわかります」
「そうですとも、それですからこの少年には保護者がいるのです。しっかりとした、力強い保護者がいります」
しっかりとした、力強い保護者がいるといった時、綾子の耳はなぜかかすかに赧《あか》くなったようであります。
由利先生はしかし気づかず、いっそう語気を強めると、
「まあ、お聞きなさい、奥さん。その敵はその後の虹之助の成り行きを、どこかでじっとみまもっているにちがいありません。そしてあなたが虹之助を引き取ったことも、虹之助を連れて鎌倉へかえろうとしていることも、きっと知っているにちがいない。この間の水葬礼では、そいつはまんまとしくじった。しかし、それきり諦めようとは思えない。いつかそいつはまた、虹之助の身辺に。……」
由利先生はふと口を噤《つぐ》んだ。
その時綾子がふっと唇に指をあてたからである。綾子はそっと立ち上がると、スリッパをはいた足で、猫のように足音のしない歩きかたをしながら、部屋を横切ると、ドアの把手《とつて》に手をかけて、いきなりそれを開きました。
「ど、どうしたんですか」
由利先生も驚いて、綾子のそばまで参ります。
「いまの人……いまの人、立ち聴きしていたんじゃありません?」
「いまの人……?」
由利先生は驚いて、廊下の外へとび出しました。しかし、しいんとしずもりかえった逢魔《おうま》が時のホテルの廊下、どこにも人の姿は見えません。
「奥さん、そいつはどっちへいきましたか」
「向こうの……階段のほうへ……」
先生は素速くそのほうへとんで行ったが、階段のうえにも下にも人の姿は見えなかった。どこかでバターンとドアを締める音。
先生が諦めて部屋へ戻って来ると、綾子はいくらかこわ張った表情で、虹之助のそばに立っている。虹之助は依然として、作りつけの蝋人形のように椅子のなかに坐っております。
「奥さん、そいつはいったいどんな奴でした」
「さあ、あたしにもよくわかりません。ちらと後ろ姿を見ただけですから」
「でも、だいたいの輪廓ぐらいわかるでしょう」
「そうですねえ」
綾子は小首をかしげながら、
「黒っぽい洋服を着て、……柔かそうな帽子をかぶって、……柄は小さいほうでした。そうそう、そして軽く跛《びつこ》をひいていましたわ」
「たしかにそいつ立ち聴きをしていたふうでしたか」
「わかりません。あたしにはわかりません。でも、さっき、先生のお話をうかがっていると、あのドアの把手が動くものですから……誰か入って来るのかと思ったら、誰も来ないし……それでドアを開けて見たんです。でも……でも……」
綾子は急にひきつけたような笑い声をあげました。
「何んでもないのですわ、きっと、先生があまり脅《おど》かすんですもの、あたし神経質になって……立ち聴きでもなんでもなかったんですわ。きっと通りがかりの人だったんですわ」
「しかし、ドアの把手が動いたのは……?」
「誰かが部屋を間違ったのよ。そして気がついてそのまま行ってしまったのよ。こんなことに怯えるなんて。あたしもよっぽどお馬鹿さんね」
「奥さん」
由利先生は声をはげまして、
「だからいわないことじゃない。いまのが立ち聴きにしろ立ち聴きでなかったにしろ、あなたはすでにそんなに怯えていらっしゃる。この少年を引き取ったが最後、あなたはもう心の平静は得られないものと思わねばなりませんぞ」
「構いません、先生そんなこと構いませんわ。そのうち何か変わったことがあったら、その時は先生にお縋《すが》りするばかりですわ」
漸く色をとりなおした綾子は、大胆な、悪戯っぽい眼をして笑いましたが、それは彼女がちかごろやっと、由利先生の正体を知るにいたったからであります。
さて、読者諸君よ。以上のべて来たところの事件こそ、この奇怪な恋と復讐と、恐ろしい一連の殺人事件の発端なのです。
まえにもいったとおり、その日は天満の天神祭りでありましたが、その夜の河渡御の最中に、どのような怪事件が起こったか、さてはまた、この哀れな三重苦少年の身の上に、いかなる秘密がかくされていたか、それらのことはこれから諸君の眼前に、血みどろの地獄絵巻き物となって繰りひろげられていくことでありましょう。
[#小見出し] 第一編
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天神祭り河渡御のこと——女流歌手とその兄——丁字香の恐怖のこと——虹之助鬼の絵を描く
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一
七月二十五日。
天神祭りの賑わいは夜にあります。
大阪天満の天神祭り、この祭りは東京の神田祭り、京都の祇園祭りとともに、天下の三大祭りとよばれるくらい、昔から世間に知られた祭礼だが、わけてもこのお祭りのいっぷうかわっているところは、さすがに水の都の大阪だけあって、御神体が船でお渡りになるという、つまり河渡御、しかもこの河渡御は、夜にはいってから行なわれるのが慣例となっている。
御神体が舟でお渡りになるくらいだから、ふつうならば山車《だし》だの、屋台だのを仕立てて出るところが、これもすべて舟になります。
天満付近の氏子の町々が、数寄をこらして飾りたてた一種の山車舟が、ずらりと、御神体の前後につきそって、篝火《かがりび》もあかあかと、河のうえを練るところ、これが即ち天神祭りの名物の名物たるゆえん、ちょっとほかでは見られない賑わいです。
それですから、まいとし天神祭りといえば……大阪近在の町々村々は申すに及ばず、隣接都市であるところの、京都、神戸、さらにはもっと遠くのほうから、見物人が押し寄せて、天満の天神橋から中之島、さらにくだって船津橋近辺に至るまで、両岸は申すに及ばず、水の上までぎっしりと見物の人と舟とで埋まるのであります。
さてその年の七月二十五日の夜には、あたかも中之島の公会堂で、有名な女流歌手の独唱会がありました。
この女流歌手というのは、ちかごろレコードで売り出している、若い美貌の甲野由美。当時一世を風靡《ふうび》した「春の囁《ささや》き」だの「燕《つばめ》のように」だのを歌ったあの人気歌手の、大阪における第一回のリサイタル、それが天神祭りとかちあったのだからたまりません。中之島公園一帯はいやがうえにも大混雑、陸のうえにも人、水のうえにも人、陸は自動車、水は舟、どこもかしこもひしめきあって、そうでなくとも暑い大阪の夜は、人いきれと、汗の匂いと、埃《ほこ》りと喧騒とで、涼しかるべき川風も、蒸せかえるような熱風となる。
さて、いよいよ御神体が、天神様からおたちになったころのこと。中之島公会堂の楽屋では、いましも第一部を歌いおわって、舞台からさがって来た人気歌手の甲野由美が、ファンに取りかこまれて、さかんに愛嬌をふりまいている。
「天神祭りの賑わいってことは、あたしもよく伺っておりましたけれど、まさかこれほどとは思いませんでしたわ」
「どうです。東京の深川祭りや神田祭りと?」
ファンのひとりがさっそく質問の矢を向ける。
「さあ、東京の祭りもずいぶん昔は盛んだったそうでございますけれど、ちかごろでは何んといっても、電車や自動車という乗り物のために、お渡りにも制限をうけますから……その点、このお祭りはいいですわね。水の上をお渡りになるのですから。さすがは水の都と感心しておりますのよ」
甲野由美。——
まことに艶でやかなものであります。年齢は二十二、三でしょう。舞台に立つために、今夜は濃目のお化粧だが、しかもなお健康そうな、小麦色の肌を損うほどではない。すらりとした痩せぎすの肉体は、しかし処女の弾力と柔軟性にとんでいるように見える。円《つぶ》らな眼は大きくて、恰好のいいたかい鼻とともに、西洋人とまではいかずとも、混血児のように見える。