なんだろう。うちよせられた塵芥《じんかい》のなかにまじって、真っ白なものが、逃げおくれた靄のなかにぷかぷかと浮かんでいるのだ。
そのとき、河の中心をドドドドドと蒸汽船が通りすぎて、そのあおりをくらって、ふしぎなものが、ひょいとこちらへ向きをかえたとき——
美人はおもわず、
「きゃっ!」
と叫び声をあげたが、すると声におうじて、頭のうえの洋館の窓がひらいたかとおもうと、顔をだしたのは半白頭《はんぱくあたま》の初老の男である。
「おや、通子《みちこ》、おまえ、そんなところでなにをしているのだね」
「あなた、ああ、あなた」
通子はわれを忘れて、
「あんなところにひとが、ひとが……」
「えッ? 土左衛門かい」
男の顔はすぐ引っこんだが、まもなくさっき通子のひらいた裏木戸から、どてらの帯をしめなおしながら、あわただしくおりてきた。やせぎすの、皮膚の色が不健康なあおぐろさをもった病身そうな男である。鋭い眼つきをしているのである。
言葉の調子ではどうやらこのふたりは夫婦らしいのだが、それにしてもひどく年齢がちがうのである。女のほうはまだ二十五か六ぐらい、輝くばかりの若さと健康をたもっているのに、男はすでに五十の坂を越して、しかもかさかさにしなびている。その男の背後から、召使いらしい若者が、長い竿《さお》をもってついてきた。
「どれ、どれ、どこだ」
「あそこ、ほら、あの柱のかげよ」
男はちょっとのぞいてみて、すぐ若者のほうを振りかえると、
「十|吉《きち》や、ちょいとみな」
このへんでは珍しくないことかもしれない。若者の十吉は驚いたようすもなく、竿を水面につきだすと、先についている鉤《かぎ》で白い屍体《したい》をひっかけたが、おや! というふうに、
「旦那《だんな》、こりゃへんですぜ」
「へんて? なんだい」
「こりゃ人間じゃありませんぜ。どっこいしょ。ほら!」
と、竿の先で引きよせたところをみると、なるほどかれの言うとおり、人間ではなく、たんなる人形であった。蝋《ろう》でこさえた等身大の生き人形なのである。
「なんだ、通子、まあみてごらん、怖いもんじゃない。ほら、人形だよ」
「あら、まあ」
通子は気抜けしたようにつぶやいたが、しかし、それはけっして怖くないことはなかった。いやいや、それがほんとうの人間であったほうが、どれだけ気味悪くなかったかもしれないのだ。どすぐろい水のうえに、ガラスの眼をみはり、美しい微笑をたたえたまま、あおむけにぷかぷか浮いている真っ白な生き人形の姿は、おりからの陰鬱《いんうつ》な朝靄《あさもや》の中で、なんともえたいのしれぬ気味悪さをたたえているようにみえるのである。
「とにかく、うえへあげてみましょう」
若者の十吉はかるがるとその人形を石段のうえにもちあげたが、そのひょうしにさすがのかれも、
「や、や、こりゃどうじゃ」
とびっくりしたように叫んだが、その声にぎょっとした通子が、こわごわのぞいてみると、ああ、なんたることぞ!
蝋人形の真っ白な心臓のうえには、白鞘《しらざや》の短刀がぐさっとばかり、つかも通れと、うちこんであるのである。
封じ薔薇
「というわけで兄さん、あたしなんだか気味が悪くてしようがないのよ」
「だって、通さん、たかが人形くらいのことに、なにもそう怖がることはないじゃないか」
「ええ、そりゃ、それだけのことなら、なにも兄さんに来ていただくほどのことはないのだけど、その人形にね、じつはもっと気味の悪いことがあるのよ」
通子は白い顔をかたくして、じっと兄の顔をみつめている。美しい眼がかすかに潤みをおびて唇《くちびる》がちょっとふるえた。
このあいだの朝から三日ほどのちのことで、れいの河のうえにせりだした洋館の一室なのである。通子と差しむかいに腰をおろしているのは、三十前後の、眉《まゆ》の秀でた、色のあさぐろい、言葉つきや態度のいかにもきびきびした男で、通子の兄の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》という、新日報社《しんにつぽうしや》の花形記者なのである。
俊助は無言のまま、煙草《たばこ》を吹かせながら、なにげなく、そばのテーブルのうえにある空瓶をながめていた。マヨネーズ・ソースの瓶なのである。瓶のなかには色のあせた薔薇の花が一輪挿してある。俊助はその瓶からふと妹のほうへ視線をうつしたとき、思わずぎょっとしたように叫んだのである。
「おや、どうかしたのかい、おまえ、顔の色が真っ青だよ」
「いいえ、なんでもありませんの。少し頭痛がするもんですから」
「それはいけない。あまりくだらないことにくよくよ気をもむからだよ。それで、その人形に気味の悪いことがあるというのは、いったいどういうことなんだね」
「それがね」
と通子はちょっと肩をすぼめながら、
「その蝋人形の胸のところに、青いエナメルで妙な絵がかいてあるのよ。ちょうど心臓を矢でつらぬいたようなかっこうなの」
「ふうん、それは妙だね。だけどそれだけのことなら、なにも通さんみたいに、そうびくびくすることはないと思うがね」
「兄さんはなにもご存じないからそんなことおっしゃるのよ。これはわたしと矢田貝《やたがい》のほかには、ぜったいにだれも知らない秘密なんだけど、矢田貝の胸にも、ちょうどそれとおなじ刺青《いれずみ》があるのよ」
俊助はハッとしたように通子の顔をみなおした。通子はまぶしそうにその視線を避けながら、
「良人《おつと》はずっと若いじぶんに、ふとしたいたずらごころからそんな刺青をしたんですって。そのおなじ絵が、蝋人形の胸にもあるというのは、なにか深い意味があるとお思いになりません?」
「それは妙だね。それじゃ通さんは、だれか矢田貝さんをうらんでいるものがあって、それがそういういたずらをしたんじゃないかと思っているんだね」
「いたずらにしちゃ少し深刻すぎますわ。あたしもう、それが気になってたまらないところへ、良人が昨夜から帰らないでしょう。家《うち》をあけるなんてことは、いままでいちどもなかったひとだけに、あたしもう心配で、心配で……」
俊助はなるほど、苦悩のために面やつれのしてみえる通子の顔を、しみじみとうち見守りながら、はたして彼女の良人の矢田貝博士は、妻よりこれだけの心配をうける価値のある男だろうかと、内心はげしい憤《いきどお》りを感じずにはいられないのである。
通子は不幸な女だった。三十あまりも年齢のちがう矢田貝博士と結婚するいぜん、彼女には相愛の青年があったのである。その青年を振りきって、彼女はなぜ、こんなに年齢のちがう男と結婚しなければならなかったのか、それにはずいぶん、こみいった事情があったのだけれど、ここにはあまりくだくだしくなるから、いっさい省略することにしよう。
要するに彼女は矢田貝博士の金にかわれた女なのである。通子と矢田貝博士の結婚が発表されたとき、緒方絃次郎《おがたげんじろう》は絶望のあまり二度も自殺をはかったが、二度とも失敗したあげく、飄然《ひようぜん》として外国へいってしまった。緒方絃次郎というのが、恋人の名だった。
通子はこれだけの犠牲をはらって、矢田貝博士のもとへ嫁《とつ》いできたのである。しかも彼女は献身的ともいうべき愛情をもって、この年のちがう良人を愛しようとした。それだのに彼女のむくわれたものはなんであったろうか。
矢田貝博士は高名の外科医である。その学識、手腕、社会的名声は、通子の良人として申し分のないひとである。しかし、いかなる学問も、教養も、人間の性格を矯正する力はないとみえて、博士はおそろしく吝嗇《りんしよく》だった。おまけに、猜疑心《さいぎしん》が強く、嫉妬《しつと》深く、いちど緒方絃次郎のことがしれるや、あんなに懇望した妻であったにもかかわらず、掌《たなごころ》をかえすように冷淡になってしまった。
こういう事情を熟知しているだけに、俊助は妹がいじらしくてならぬのだ。
「まあ、通さんのようにそう取り越し苦労をしても際限がないね。それとも矢田貝さんの身に、危険でも振りかかるような、ハッキリとした理由でもあるのかね。だれかにひどくうらまれているとか。……」
そういいながら、俊助はぼんやりとまた、れいのマヨネーズ・ソースの空瓶をながめている。どうも妙だな。一輪挿しがないというのでもあるまいに、なぜあんなぶかっこうな瓶をかざっておくのだろう。それにあの色あせた薔薇である。きれいずきでなにごともキチンとしたことのすきな通子には、不似合いなことではないか。
「ええ、それがあるから心配なのよ。このごろ良人のところへたびたび脅迫状めいた手紙がまいこむのよ」
「えッ、脅迫状?」
「と、いっていいかどうかわからないのだけれど、変な手紙なのよ。あとでおみせしますけれど、なんでもね、良人の手術がもとで、子どもが死んだと思いこんでいる母親からくるらしいですわ」
「ほほう、それで矢田貝さんはそのことをなんていってた?」
「こんなことでいちいちうらまれちゃ、医者は生きていられないって、にが笑いしてましたけれど、でもいい気持ちじゃなさそうでした。手術の結果はほとんど不可抗力ともいうべきもので、うらまれる筋合いじゃなかったらしいのですが、その後の態度がね、ああいうひとでしょう、ひどくむこうさまの感情を害しているらしいんですわ」
「まさか、それぐらいのことでどうのこうのってことはないだろう。そういうことでうらまれてちゃ、医者の命はいくつあってもたりないからね」
俊助はそういって、じっと通子の顔をみつめていたが、
「それより通さん、緒方君がちかごろ外国から帰ったという話だが、おまえ会わないかね」
「ええ。いいえ、あの絃次郎さん?」
通子はひどく狼狽《ろうばい》しながら、
「わたし、いっこう……」
「そう、会わないのなら会わないほうがいいよ。あの男も可哀《かあい》そうな男だ。いまだに通さんがあきらめられなくて苦しんでいるらしいが。……」
と、俊助はなにげない調子でそういうと、煙草の吸殻《すいがら》をジューッと灰皿のなかへ投げこんで、それからやおら椅子《いす》から立ちあがった。
「おまえ、なにもそう気をもむことはないのだよ。いまに矢田貝さん、帰ってくるとも。あまり気にしないで待っておいで。なにかまた変わったことでもあればすぐやってくるけれど……」
と、いいかけて俊助はおやと首をかしげた。
「あれはなんだろう、ひどく猫《ねこ》の啼き声がするじゃないか」
「うちのパールかしら。ゆうべから姿がみえないんだけど」
と、通子も首をかしげると、
「なんだかこのしたできこえるようじゃない」
「まさか。猫ってやつは水がなによりにが手だからね。この雨の降るのに……」
と、俊助は窓越しにこまかい雨の降りしきる河のおもてを見やったが、
「おかしいね。やっぱり通さんのいうとおり、このしたらしいね。それにあの啼きかたは妙だよ。なにかあるんじゃないかな」
「兄さん!」
「なにも心配することはありゃしない。ちょっとみてきてやろう。通さんはここにおいで」
「いいえ、兄さん、わたしもいきます」
ふたりは大急ぎで部屋を出ると、裏木戸から石段づたいに河っぷちへおりていった。そして、ひとめあの、洞穴のような淵のしたをのぞいたせつな、ふたりとも思わずぎょっとして、そこに立ちすくんでしまったのである。
ちょうどこのあいだ、マヨネーズ・ソースの空瓶が流れよっていたへんに、こわれかかった犬小屋が漂っていて、そのなかには、通子の愛猫パールが、けたたましい啼き声をあげているのだ。全身に真っ紅な血をあびて、真珠のように真っ白の毛が、からくれないに染まっている恐ろしさ。
しかし、俊助と通子がひとめみて恐ろしさに思わずたちすくんだのは、その猫の姿ではなかった。そこにはパールなどよりももっと恐ろしいものが、——矢田貝博士の屍体が、ゆらゆらと、幽霊藻《ゆうれいも》のように漂っているのだった。心臓をつらぬく矢の刺青をした胸のうえに、まるで昆虫をとめるピンででもあるかのように、白鞘の短刀が、ぐさ、と柄《つか》まで突き通って。——
「あれ、兄さん!」
通子は思わず両手でしっかと顔をおおうたが、俊助はそのとき、もうひとつ奇妙なものが水のうえにぷかぷかと浮いているのをみた。
さっき、うえの部屋でみたとおなじマヨネーズ・ソースの空瓶なのである。そして、そのなかにはまだ新しい薔薇の花が一輪、封じこめられているのがガラス越しにみえたのである。
河沿いの家
「ほほう、すると二、三日まえにも、短刀で胸をつらぬかれた蝋人形が、流れてきたというんだね」
「そうなんだそうです。おとといの朝のことだそうですがね。しかも蝋人形の胸にも、この屍体にあるとおなじような、刺青がほどこしてあったというのですがね」
「フフン、妙な事件だな」
等々力警部《とどろきけいぶ》は眉根に深い皺をよせて、
「どうもわからん、いったいその蝋人形とこんどの殺人事件とのあいだに、どういう関係があるのかな」
なにか難しい事件にでくわしたときの習慣で、警部はしきりに耳たぶを引っ張っていたが、
「どうも気持ちが悪いね。この事件にはよっぽど妙なところがある。ちょっと常識で考えられないほどの邪悪なにおいがする。三津木君、きみも屍体の手の甲についているなまなましい傷あとをみたろうね」
「みましたよ。あれはどうやら猫にひっかかれたあとらしいですね」
「そうだ、猫だよ。畜生ッ、蝋人形だの猫だのと、よけいなお景物がついていやがるんで、この事件はいっそうわけがわからなくなる」
「いや、ぼくはそう思いませんねえ」
俊助は霏々《ひひ》として降りしきる河面《かわも》の細雨《こさめ》に眼をやりながら、
「反対にぼくは、そのためにあんがい簡単に、事件の解決がつくのじゃないかと思いますね」
「きみ、ほんとうにそう考えるのかい?」
「いや、はっきりとした確信があるわけじゃありませんが、とにかく、ゆっくりと考えてみようじゃありませんか」
等々力警部と三津木俊助のふたりは、職業がら接触もおおかったが、いつのまにやらこのふたりは、はなれがたい友情をもって結びつけられているのだった。いままでにも俊助のはたらきで警部を助けてやったことは一度や二度ではなかったし、その代償として俊助は、いつも警部より多大の便宜をはかってもらっている。きょうも事件を発見すると、俊助がいちばんに電話で知らせてやったのは、この警部のもとだった。そして、ひととおりの検屍《けんし》がすむと、さっそくこの矢田貝博士邸の一室を、そのまま捜査本部として、ふたりは密談をつづけているのだった。
「まずだいいちに、あの蝋人形ですね。あれは犯人の予備行動であったとしたらどうでしょう。つまり、いまにおまえをこういうふうに殺してやるぞと、いわば犯人の予告だったんですね」
「なるほど、それでわざと、矢田貝博士の胸にあるのとおなじような刺青を、人形の胸にほどこしておいたというのだね。しかし、それにしても妙じゃないか。犯人はどうしてその人形が、この邸《やしき》のしたに流れよることを知っていたんだね。ひょっとしたら、蝋人形はこの家のものの眼にふれないで、そのまま河下のほうへ流れていったかもしれないじゃないか」
「いや、それはあなたが、河の流れの性質というものをご存じないからです。水というものはでたらめに流れているものじゃありません。その流れの方向には、かならず一定の法則があるはずです。だから、この河上の、ある一定の地点から流したものは、かならずこの邸のしたへ流れつく、とそういうことを犯人はちゃんと知っていたにちがいありませんよ」
俊助はそういいながら、ふとマヨネーズ・ソースの空瓶のなかに封じこまれた、一輪の薔薇の花のことを思いだしていた。
「なるほど、それは考えられないことはないね。そうするとわれわれはまずだいいちに、その地点をさがしだせばいいことになる」
「そうなんです。それであなたとふたりで、これからさがしにいこうと思っているんですがね。畜生、このいまいましい霧雨のやつめ、早くやめばいいのに」
「いや、そうときまれば雨ぐらいに恐れているわけにはいかん。しかし、あの猫だね、あれはいったい、どういうわけだね。やはりおなじところから流されたのだろうか」
「むろん、そうでしょう。とにかくあの猫は、犯罪の現場にたちあっていたにちがいありませんよ、被害者の手の甲にのこっている鋭いかき傷からみてもね。しかし、どうして猫がそこへいったのか、むろん、ひとりでいくはずがないから、だれかが連れていったにちがいありませんが、だれが、なんのために、連れていったのか、その点になるとさっぱりわかりませんね」
「そうそう、あの猫はここの飼い猫だったね。畜生、あいつが口をきいてくれれば、ぞうさなくかたがつくんだがな。猫と蝋人形か、どちらも口をきかぬ証人ときてやがる」
雨は小降りになるどころか、ますますはげしくなって、ひろい河のおもては、降りしきる霧雨の、鉛いろの水滴のなかに模糊《もこ》としてとじこめられていくのだった。
「とにかく、こんなところで小田原評定《おだわらひようじよう》していてもはじまらん。日の暮れぬうちに、犯罪の現場をさがしにでかけようじゃないか」
「よろしい。そういうことにしましょう」
しかし、それからまもなく、小舟を用意させて、雨合羽《あまがつぱ》に身をかためたふたりがとびのったころには、大川のうえはすっかり雨の日の、暮れるにはやいたそがれのいろにつつまれていた。
船頭に命じてなるべくゆっくりと河をこぎのぼっていく。やがて時刻になったのであろう。両岸の町にパッといっせいに灯がついて、はるかかなた、両国のほとりには、国技館の大ドームの灯が、王冠にちりばめた宝石のように霧雨のなかにポーッとけむっていた。
舟は清洲橋をすぎ、新大橋をくぐると、浜町河岸にそってしだいにこぎのぼってゆく。俊助と等々力警部のふたりは、眼を皿のようにして、河岸の家を一軒一軒のぞいていったが、べつに怪しいところもみられないのである。
「こりゃたいへんだ。これだけたくさんある家を、軒別に調べて歩くとしたら、とてもやりきれない」
「まあ、もうすこしの辛抱です。ぼくはどうもこのへんじゃないかと思うのですね。ごらんなさい。ここからこうして河下をみると、新大橋から清洲橋のあいだで河がいちじるしく東のほうへ迂廻《うかい》しているでしょう。しかもそのでっぱなへもって、深川のほうから小名木川《おなぎがわ》が流れこんでいる。だから、このへんからものを流せば、小名木川の水流に押されてちょうど、中洲《なかす》あたりに漂いよるという寸法になるのですよ。——おや、あの家《うち》はどうしたのだろう」
俊助がとつぜん、警部の腕をつかんだ。
そこは矢の倉なのである。河の流れとすれすれに平家建ての座敷がせりだしているのだが、この小雨で、どの家も雨戸か障子をべったりとしめきっているのに、その座敷だけは雨戸も障子もあけっぱなし。いや障子をひらいているのではなくて、はずれて、縁側の手すりにたおれかかっているのだ。
「すこし妙ですね。もう少しそばへよってみましょう」
舟をこぎよせて、なかをのぞきこんだ警部と俊助のふたり、いちようにあっとばかり低い叫び声をあげた。座敷のなかは落花狼藉《らつかろうぜき》のありさまなのだ。
襖《ふすま》は破れ、ちゃぶ台はひっくりかえり、瀬戸物の破片がいちめんにとびちって、そのなかに、笠のこわれた裸電球《はだかでんきゆう》がしらじらと天井《てんじよう》からブラさがっている。とつぜん、俊助は低い叫び声をあげた。
「あれ、あれ、猫の足跡じゃありませんか」
なるほど、畳のうえに、梅の花をちらしたように点々とついているのは、まぎれもなく猫の足跡だった。しかもそれはどうやら、血に染まった足跡らしいのだ。
「よし、この家《うち》だ!」
ふたりは欄干に手をかけると、勇躍して舟から座敷のなかへかきのぼった。座敷へはいってみると、いよいよ、ここが犯行の現場であることが明瞭《めいりよう》である。猫の足跡のほかにも、畳のうえにひとすじ、血の跡がスーッと河にむかった縁側のほうにつづいている。屍体を引きずったときについた跡らしいのである。
「やっぱりこの家《うち》ですね。ここで殺人がおこなわれたのですよ」
俊助は恐ろしい部屋のなかの惨状を、ひとわたりみまわすと溜め息をつくようにそういった。
かなり時代がかっていたけれど、ちょっと気のきいた八畳敷きの座敷で、数寄《すき》をこらした床《とこ》の間《ま》から床脇《とこわき》、欄間《らんま》にかかっている額《がく》など、いかにも風流なかくれ住居《ずまい》といったあんばいなのである。
「ふむ。そうらしいね。そして、その惨劇の現場には、あのパールという猫もいあわせたにちがいない」
と、等々力警部は点々たる梅花の足跡をみながら、
「それにしても妙だね。この家《うち》にはほかにだれもいないのだろうか」
と、いいかけて急にギョッとしたように、
「や、あれはなんだ!」
と、くるりと俊助のほうを振りかえった。そのとき、どこからともなく、かすかなひとのうめき声がきこえてきたからである。
「だれかいるのですね。あ、あの押し入れのなかだ」
俊助ががらりとそばの押し入れをひらいた。と、どうだろう。なかにはひとりの老婆が猿ぐつわをはめられ、体じゅうがんじがらめにしばられて、まるで炭俵《すみだわら》のように投げこまれているのである。
「や、や、これは!」
と、驚いた等々力警部、とびつくようにしてその老婆を引きずりだすと、
「三津木君、そのいましめをといてやりたまえ」
「おっと、承知!」
俊助は扱帯《しごき》をつなぎあわせたそのいましめの、結び目をときにかかったが、なにを思ったのか、ふいにハッとしたように顔色をかえた。が、すぐ思いなおしたように、ちらと警部の顔色をぬすみみながら、なにげないていで、すばやくそのいましめをといてやったのである。
等々力警部はそんなことには気がつかない。いましめがとけるとすぐ老婆のほうにむきなおった。
緒方絃次郎
「婆《ばあ》さんはこの家《うち》のものかね」
婆さんをとらえて、等々力警部がボツボツと質問にかかるのである。
「はい、わたくしこの家《うち》のあるじでございます」
「名前は?」
「高橋もとと申します」
「いったい、どうしてこのようなことが起こったのだね」
「わたくしにはさっぱりわけがわかりません」
婆さんは部屋のなかをみまわしながら、さも恐ろしそうに肩をすぼめるのだ。
「わけがわからない? それはいったいどういうことなんだね」
婆さんはじっと考えこむような眼つきをしながら、それでも警部の質問にこたえて、ボツボツ話しだしたところによるとこうである。
おもと婆さんはこの家《うち》にたったひとりで住んでいたが、一ヵ月ほどまえに、ひとりの紳士がやってきて、河ぞいの部屋を貸してもらえないかという話なのである。
部屋代もそうとうのものであったしそれに、いかにももの静かな、好感のもてそうな人物だったので、婆さんは一も二もなく承知した。紳士はべつにこの家に住むわけではなく、気ばらしにときどきやってきて、大川の流れをみて、ぼんやりと骨休めをしたいのだという話だった。
はたしてそれからのち、紳士は一週間に二度ずつぐらい、いつも夜やってきて、この座敷で一時間か二時間、ときを過ごして帰っていくのだった。
「それで、その紳士の名はなんというんだね」
「さあ、それが……」
と、婆さんはいかにも困ったように、
「お名前をついうかがってございませんので」
「なんだ、名前をきかずに部屋を貸したのか」
「はい、妙なようですけれど、べつに怪しいようなお人柄ではございませんでしたし、それにここへお住まいというわけでもございませんので……」
「ふむ、よしよし、いずれそのことはのちほど、もっとくわしくきこう。ところで昨晩きたのは、その紳士だったのかね」
「さあ、それがよくわかりませんのですけれど、どうやら別人のようでございました」
「そこのところを、もうすこしくわしく話せないかね」
「ええ、お話しますけれど、ほんのすこししか申し上げることはございませんのですよ。あれは夜の八時ごろのことでございましたかしら、いつものように玄関の格子をたたいて、婆さん婆さんと呼ぶかたがあるもんですから、てっきり、いつものかただとばかり思って、格子をひらきましたところが、あなた……」
と、婆さんはいかにもくやしげに、
「くろい襟巻《えりまき》で顔半分つつんだ男でして、それがいきなりわたくしにおどりかかって、ほら、このように」
と、青く血ぶくれになった額《ひたい》をみせながら、
「なにやら太いものでドシーンとなぐりつけたものですから、わたくし、そのままくらくらとたちくらみをしてしまって、それきりあとのことはなにがなにやらさっぱりおぼえておりませんので。……こんなくやしいことはございません」
「なるほど。それじゃ、それからあと、どんなことが起こったのか、ちっとも知らないというんだね」
「はい。まるっきり存じません。なにしろ、気がついたのは真夜中すぎのことで、そのときには、このように手足をしばられ、猿ぐつわをはめられて押し入れのなかに放りこまれておりましたので。……家《うち》のなかはもうシーンとしずまりかえっておりました」
「ところで、この部屋を借りた男だが、いったいここでなにをしていたようすだったかね」
「さあ、べつになにということもなく、いつもうちしずんだようすで河のおもてをながめていらっしゃいましたようですけれど……」
「その男はゆうべ来たようすがあるかね」
「さあ……」
婆さんは首をかしげながら、
「よくは存じませんけれど、ちょうどゆうべはいらっしゃる晩になっておりましたから……」
「ところで、婆さんの家《うち》には猫がいるのかね」
「猫? いいえ、わたくしは猫はだいきらいなもんでございますから」
これらの応答のあいだ、部屋のなかをさがしまわっていた俊助《しゆんすけ》は、床脇《とこわき》のちがい棚《だな》のかげから五、六本のマヨネーズ・ソースの空瓶をみつけだしていた。
その二、三本には、紅《くれない》の薔薇の花が封じこめてあるのだ。
「おばさん、この空瓶はその紳士がもってきたものかね」
「さあ、たぶんさようでございましょう。わたくしいっこうに……」
と、いいかけて婆さんはハッとしたように口をつぐんだ。
そのとき、玄関の格子をたたく音とともに、
「婆さん、婆さん。——」
という低い声がきこえたからである。
「あっ、あのかたが……」
「しっ!」
俊助は等々力警部とすばやい視線をかわすと、
「いいから、ここへお通し。わたしたちがいることをけどられちゃいけないよ」
「はい」
「婆さん、婆さん、ここをあけておくれ」
「はい、ただいま。——」
婆さんはブルブルと体をふるわせながら、うすぐらい玄関のほうへでていったが、やがてガラガラと格子をひらく音。
「いやな雨だね。婆さん」
「さようで、——」
と、そんな声がきこえて、三和土《たたき》のうえに靴《くつ》をぬぐ音、やがてしめった畳をミシミシと踏んで、ひょいと奥座敷のあかるい裸電球《はだかでんきゆう》のしたに、あらわれた紳士の姿をみるやいなや、俊助はぎょっとしたように叫んだ。
「や、や、緒方絃次郎君!」
まことにそれは、通子のさいしょの恋人、緒方絃次郎だった。
悲恋薔薇流し
「それで、兄さん、緒方さんはなんていってらっしゃいますの」
「緒方君はね、ぜんぜん犯行を否認しているんだよ。しかしね、犯人というものはだれでもさいしょは、あたまから否認したがるものだからね」
俊助はいたましそうに、やつれはてた妹のおもてから眼をそらした。良人のおそろしい最期、しかもその殺人の嫌疑は、彼女のさいしょの——いや、おそらく彼女のただひとりの恋人のうえにかかっているのだ。しかも、その恋人を警部の手に引き渡すようなはめにしたのは、みんな俊助のよけいなおせっかいのためだった。俊助はそれを考えると、この妹の顔がかわいそうで、とても正視できないのである。
「まあ、それじゃ兄さんも、緒方さんがほんとうに犯人だとお思いになって?」
「いや、ぼくには信じられないんだ。ぼくはあの男を子どものときからしっているけれど、とても人殺しなんか出来るような男じゃない」
「ならいいじゃありませんか。それだけで、じゅうぶんですわ。ねえ、兄さん、おねがいだから緒方さんを救ってあげてちょうだい」
「そりゃ、ぼくも救ってやりたい。しかし、検事はぼくのような考えかたはしてくれないからね。それにいろいろ不利な証拠もある」
「証拠って、どういう証拠でございますの」
「だいいちに、緒方君はなぜ必要もないのに、あんなところに間借りをしていたか。……」
「ああ、そのことなら、兄さん」
通子はふいにたちあがって、かたわらの洋箪笥《ようだんす》の観音《かんのん》びらきのドアをひらくと、
「兄さん、これをみてちょうだい。緒方さんはこの贈り物をわたしにくださるために、わざわざ河上の家に間借りなすったのですわ」
みればその戸棚のなかには、十本あまりのマヨネーズ・ソースの空瓶がならんでいるのだった。しかも、そのなかには、どれにも一輪ずつ、紅の薔薇が封じこめてあるのだった。
「兄さん、わたしが悪かったのです」
通子はハラハラと流れ落つる涙を、ハンカチでぬぐいながら、
「このあいだ兄さんに、緒方さんには一度もお眼にかからないと申し上げたけれど、あれはうそでした。ふたつきほど以前に、たった一度、それも偶然、あるところで会ったのです。そのときわたしは出来るだけ、じぶんの不幸をうちあけないようにしたのですけれど、緒方さんはひとめで、それをお察しになりました。良人が吝嗇で冷淡なことや、陰険で、嫉妬深いことなどをちゃんとしっていらしたのです。そして、そののちも、ときどき会ってくれとおっしゃいましたけれど、わたしはむろんキッパリお断わりいたしました。良人が怖かったばかりではなく、会えばいよいよせつなくなるばかりですもの。それでは文通ぐらい許してくれとおっしゃったのですけれど、それもお断わりしました。するとそれからしばらくしてふいに緒方さんから手紙がきて、せめてもの心やりに、河上から薔薇を流すゆえ、この贈り物だけは受け取ってくれ。——とおっしゃって、わたしそれもキッパリお断わりすればよかったのですけれど、あまりの真実についほだされて、心弱くも一度、二度と、あの空瓶を拾いあげたのが悪かったのですわ。それにしてもなんというふしぎなことでしょう。ひろいこの大川のなかで、まちがいもなく、この家のしたに流れよるのも、緒方さんの熱いお志ゆえと思えば、わたしいっそう、お気の毒で……お気の毒で。……」
通子はそういって、よよとばかりむせび泣くのである。
俊助も思わず瞳《め》をうるませた。なんというあわれな物語だろう。結ばれることをゆるされなかった、この不幸な、悲恋の男女の心情を思いやると、さすがの俊助も暗然とせずにはいられないのだ。
「なるほど、あの封じ薔薇にはそういう意味があったんだね。しかし、通さん、それだけのことではまだまだ緒方君を救うわけにはゆくまいよ。いやいや、こういうことが警察の耳にはいれば、はんたいに疑いはますます濃厚になるばかりだ。それにね、通さん、緒方君にとって、まことに不利な証拠があがっているんだよ」
「証拠ですって?」
「そうだ。矢田貝さんの屍体はね、しっかりと洋服のボタンを握りしめていたんだが、そのボタンというのが、緒方君のものなんだよ」
「まあ!」
このほとんど決定的というべき証拠に、通子はおもわず、真っ青になって、うめき声をあげた。
「そして、そして、そのことを緒方さんはなんといってらっしゃいますの」
「なんでもね、あの晩、緒方君はあの河ぞいの家で、矢田貝さんに会ったんだそうだよ。矢田貝さんは緒方君を面罵《めんば》したあげく、はてはつかみかかってきたんだそうだ。緒方君はうまくそれをあしらって逃げだしたそうだが、たぶん、そのときにボタンをもぎとられたんだろうといっている」
「緒方さんがそうおっしゃったのですか。それならそれにちがいありませんわ。だってあのかたはけっしてうそをおつきにならないかたですもの」
「むろん、ぼくは緒方君を信じるさ。しかしね、緒方君があの家をでたあとまで、矢田貝さんが生きていたという証拠はどこにもないのだ。ただね、ここにふしぎなことは、あの蝋人形だよ。あの蝋人形の出所《でどころ》を調べたところが、なんと、あれをさるモデル商から買いとっていったのは、どうやら矢田貝博士自身らしいのだよ」
「まあ! 良人が? だってそれはどういうわけでしょう」
「よくわからない。それがわかればこの謎はとけるんだ。それからあの猫だね。だれが、どういうわけで、パールを犯罪の現場に連れていったのか。そこに、おそろしい秘密がありそうな気がするのだがね」
深い沈黙がふたりのあいだに落ちてきた。不安と恐怖のいりまじった、息づまるような、せつない沈黙なのだ。通子はじっと唇をかんで、床《ゆか》のうえの絨毯《じゆうたん》をながめている。絨毯の花模様が、みるみるうちに霧でぼかされるように、うっすらと涙ににじんでゆくのである。
片眼の猫
世の中はなにがさいわいになるかわからないものである。もしこのとき一匹の鼠が、この矢田貝家の客間にあらわれなかったら、この驚くべき秘密は永久に、五里霧中のかなたにとざされていたかもしれないのである。俊助と通子のふたりが、黙然として考えこんでいるとき、とつぜん、一匹の鼠が、客間へ逃げこんできた。そしてそのあとを追って、おどりこんできたのは、通子の愛猫パールなのである。