猫におわれた鼠は、思いがけなくもここにまた人間の姿をみとめて、狼狽のあまり、長椅子のうしろへ逃げこんだ。不幸にも鼠よりも体の大きいパールは、そこまでおっかけていくことが出来ないのである。しかし鼠をねらう猫には、驚くべき忍耐力が神よりあたえられている。
パールはうすぐらい長椅子のそばにうずくまったまま、じっと椅子のしたをにらんでいたが、その眼をみたとき、とつぜん俊助がぎょっとしたように叫んだ。
「通さん、あれはどうしたのだ。あのパールの眼は……」
「えっ、パールの眼ですって?」
「ほら、ごらん、かたっぽうの眼はあんなにギラギラ光っているのに、いっぽうの眼はまるでガラスのようにどんより曇っているじゃないか」
そういわれて、パールの眼をのぞきこんだ通子はぎょっとしたように、椅子の両腕を握りしめた。ああなんという気味の悪いことだ。雨もよいのうすぐらい部屋のかたすみに、片眼の猫がぶきみな静けさをたもちつつ、じっとうずくまっているのである。
「ああ、そういえば、このあいだ河上から流れてきたとき、パールは左の眼にひどいけがをしておりましたわ」
そのせつな、俊助の頭にはさっとおそろしい考えがはいってきた。矢田貝博士の屍体にあったおそろしい猫の爪あとが、いま、まざまざとかれの眼のまえに浮かんできた。あの爪あとはいったいどういう意味であったろう。そしてまた、パールはどうしてあの犯行の現場へ連れられていったのであろうか。
「通さん、パールをつかまえておくれ。パールを。……」
「兄さん、パールがどうかして?」
「なんでもいいから、はやく、はやく!」
俊助はとても興奮しているのである。
通子はその意味をハッキリとさとることは出来なかったが、急に、おびえたような眼をしながら、さっとパールの体を膝《ひざ》のうえに抱きあげた。
「じっと、おさえていておくれよ。すこしあばれるかもしれないから……」
そういいながら、俊助はやにわにパールの左の眼に指をつっこんだ。と、思うとそのとたん、ああなんという気味の悪いことだろう。猫の眼がポロリと床のうえに落ちたのである。
「あっ!」
と、叫んだ通子が、パールをおさえていた手をはなすのと、俊助が床のうえに躍りかかってその眼玉を拾いあげるのと、ほとんど同時だった。
「通さん、義眼だ。ガラスの眼玉だよ」
「まあ、どうしてそんなものが……」
「待っておいで、いまにわかる。ああ、恐ろしい、なんという恐ろしい秘密だろう」
おののく指先でガラスの眼玉をいじくっていた俊助は、とつぜん、勝ちほこったような叫び声をあげた。
「あった、あった!」
俊助が引っぱりだしたのは、ガラスの眼玉のなかに小さく畳みこまれていたうすっぺらなしわくちゃの紙きれなのである。大急ぎでそれをひらいてみると、まずだいいちにふたりの眼にうつったのは、
「三津木俊助への挑戦」
と、いう文字なのである。
「矢田貝の筆跡ですわね」
「そうだ、読んでみよう」
ふたりはわくわくする四つの眼をそろえて、そのうすっぺらな紙きれのうえを大急ぎで読んでいった。
ああ、それはなんというふしぎな、そして、また邪悪と執念にみちた遺言であったろうか。
——三津木君、おれは自殺する。医者はおれを癌《がん》だと診断した。おれの生命は、あと一年とはもたないのだそうだ。癌がどんなにみじめな病気だか、おれも医者だ、しりすぎているほどしっている。
——このおそろしい病気のために、じりじりと生命を縮められてゆくよりは、おれはむしろひと思いの自殺をえらぶ。しかし、ただでは死なない。君の妹と、その愛人を道連《みちづ》れにしてやろうと思うのだ。
——ああ、一週間に二度ずつ河上から流されてくる薔薇の花を、通子がたいせつにしまっているのを発見したとき、おれの心はどのように憤りに燃えたったことであろうか。そのしゅんかん、おれの理性は一瞬にして狂ってしまった。そしておれはおそろしい復讐《ふくしゆう》の鬼と化してしまったのだ。
——おれは自殺する。しかしただの自殺ではない。通子の恋人緒方絃次郎に殺害されたようにみせかけねばならない。そして、あの男を地獄の道連れにしてやるのだ。
——だが、だが、それだけではおれの腹はまだいえない。そうだ、おれのこのおそろしい死にざまを通子の眼のまえにつきつけてやろう。そしてこのものすごい記憶によって、永久に通子を呪ってやらねばならぬ。
——しかし、そうするにはどうすればいいのだろう。なあに、ぞうさはありやしない。この邸のしたはふしぎにも河の流れの関係で、あらゆるものが流れよるようになっているのだから、おれの屍体も河上から流れてくるようにすればよいのだ。
——ああ、なんというすばらしい思いつきだ。朝起きて、通子が薔薇の花をひろいにでる。そのときゆらゆらと流れよるおれの屍体を発見したら、どんなに驚くことだろう。
——しかし、おれはなんだか不安だった。はたしておれの体がうまく、この邸のしたに流れよるであろうか。空瓶のような小さなものは流れよるにしても、屍体のような大きなものは、そのまま河下まで流れていってしまいはしないだろうか。
——だが、その心配はなかった。おれは蝋人形をつかってためしてみたのだ。人形はぶじにこの邸の下へ流れよった。ああ、この蝋人形とおなじように、やがて、おれの冷えきった屍体も、この邸の下に流れよって、通子をおびやかすことだろう。ああ、なんといういい気持ちだ。
——しかし、おれはなぜこんな遺書を書いておく気になったのか。三津木君、きみはおれの性格をよく知っているはずだ。おれは万事、公明正大にやりたいのである。ひとつもほんとうの証拠を残しておかないなんて、卑怯なやりかたはおれの好まぬところなのだ。
——君がほんとうに世間の評判どおり、敏腕の新聞記者なら、屍体とどうじに、河上から流されたパールに疑惑をもつだろう。そしてこの遺書を発見して、きみの妹と親友を救うことが出来るだろう。そうなったらおれの負けだ。でも、おれはあえて後悔はしないつもりだ。
——きみがもし、世間の評判をうらぎって、この遺書を発見出来なかったら、——そのときはきみの親友は絞首台へおくられ、きみの妹はおそらく悲しみのあげく、発狂するだろう。しかも、恋人を救う鍵《かぎ》はつねに彼女の身辺《しんぺん》に徘徊《はいかい》しているのだから、なんという皮肉なことだろう。
——万事はうまくいった。おれはいま、緒方絃次郎の秘密の隠れ家にいてこの遺書を書いている。おれの心臓は、よろこびのためにふるえているのだ。あとはこの遺書を義眼のなかにいれて、パールの眼玉にはめこむだけのことだ。それには、おそらくちょっとした手術を必要とするだろう。しかし、そんなことは外科専門のおれにとっては、ぞうさないことだ。そして万事うまくいったら、パールを空箱にいれて流すとともに、おれじしん、みずから心臓をつらぬいて河中に投身しよう。
——さあ、三津木君、きみがうまくこの遺書を発見して、きみの妹と親友を救うことができるだろうか、草葉のかげとやらでよくよくながめていてやろう。
自殺の直前にあたって矢田貝三郎しるす。
意外な結末
「婆さん、おまえさん、このぼくをおぼえているかね」
「はい、よくおぼえております。いつぞやわたしをお救いくださいました、あなたはたしかに三津木俊助さま」
「そうそう、その三津木俊助だよ。ところでどうやらあの矢田貝さんの殺人事件も意外な結末によって、解決がついたようだが。……」
「はい、新聞で拝見しまして、たいへん結構なことと思っております。それもこれも、みんなあなたさまのおてがらで。……」
「と、いうわけでもないが、まあ、ぶじにだれにもきずがつかずにおさまったのはいいことだと思っているのだが——ところで婆さん、きょうぼくがきたのは、ちょっと婆さんにたずねたいことがあったのでね」
「はい。と、おっしゃいますと。——」
「いつかの日だね。ぼくが婆さんのいましめをといてあげたとき、ちょっと妙なことに気がついたのだよ。婆さん、あの結び目はひとが結んだのじゃなかったね。婆さん、あれはおまえさんがじぶんで結んだのだろう?」
「え!」
「これさ、なにもそう驚くことはないのだよ。ぼくはいままでだれにもそんなことをしゃべったおぼえはないのだよ。つまりこのひろい世間にこの秘密を知っているのは、かくいう、三津木俊助ただひとりしかないのだ。だから婆さん、なにも心配することはない、ねえ、あのいましめは矢田貝さんがやったのではなく、婆さん、あれはおまえさん自身で、ああいう狂言をやってのけたのだろう?」
「はい。あの、それは。——」
「いやいや、なにもそんなにおびえたり、怖がったりすることはないのだ。婆さん、それにぼくはもっといろんなことをしっているのだよ。おまえさんのひとりむすこが、矢田貝博士の軽率な手術で死んだこともね」
「え?」
「それから、おまえさんがそれをうらんで、矢田貝博士に脅迫状めいた手紙を送ったことも——」
「ああ!」
「婆さん、さあ、ぼくに話しておくれ。矢田貝博士は自殺したのじゃなかった。ね、婆さん、おまえさんの手でやったのだろう」
「あッ、おそろしい、お許しくださいまし。お許しくださいませ。てんとうさまは、やっぱりお見通しでいらっしゃる。はい、それにちがいございません。矢田貝さんはたしかにわたしが殺したのにちがいございません」
「ありがとう。よくいってくれたね。それでは、そのときのことをもうすこしくわしく話してみておくれでないか」
「はい。こうなればなにもかも申し上げてしまいます。いつか、くろい襟巻で顔半分をかくした男が、いきなりわたくしにおどりかかって、なにやら太いものでドシーンとなぐりつけた。——というところまではたしかにお話し申しましたね」
「ああ、そこまではきいたよ。そして、婆さんはそれで気絶してしまったのだったね」
「さようでございます。そこまではほんとうなのでございます。しかし、それからまもなく、わたくしは気がついたのでございます。気がついてみると、——」
「気がついてみると?」
「気がついてみると、まあ座敷のなかはめちゃくちゃじゃございませんか。そこらじゅう血だらけで。——いまから考えますと、そのあいだに緒方さんがいらしたらしいのでございますが、そこまではわたくしも気がつきませんでした。——とにかく座敷のなかのありさまにびっくりして顔をあげますと、ひとりの男が河にむかってなにやら流しているようすでございました。そしてそいつがひょいとこちらを向いたときのわたしの驚き! つねひごろ憎い憎いと思っていた、あの矢田貝博士じゃありませんか」
「ふうむ。なるほどね」
「わたくしが矢田貝博士をおうらみ申し上げるのは、けっして筋のないことではないのでございます。わたくしだってお医者さまが神さまでないことはよく存じております。手術のあやまちというのも、まあいたしかたないとあきらめもします。むすこは盲腸炎でございました。そしてそれを切りとっていただいたのでございますが、その手術のさい、矢田貝先生はお酒に酔っていらしたのだそうで、むすこのお腹のなかにガーゼを忘れたまま縫合《ほうごう》されたのでございます」
「ほほう、そいつはひどい!」
「それを看護婦からきいたとき、わたくしくやしゅうございました。たったひとりのかけがえのないむすこですもの。でも、これも災難だと思って、あきらめようとしました。もし矢田貝先生がすなおにあやまってさえくだされば……」
「矢田貝さんはどういったのだね」
「わたくしをいいがかりをつけるのだの、強請《ゆすり》だのとおっしゃるのでございます。あげくのはてには人相のよくない男をよこしまして、もしこのことを黙っていなければ、ただではおかぬとおどかすのでございます」
「ふうむ。そいつはひどい!」
「そのくやしさがあったものですから、わたくし、あのとき、矢田貝さんの顔をみるとくゎっとしました。それでも、しばらくは怖さのほうがさきにたって、しばらく気を失ったふうをしてようすをうかがっていますと、矢田貝さんはナイフを取り出してじぶんの胸を突こうとするのでございます」
「しかし、けっきょく、突くことは出来なかったのだろう」
「はい、そのとおりでございます。なんどもなんどもそうしていらっしゃいましたが、けっきょくのところ、その勇気が出ないようでございました。そこでわたくしが急に立ちあがると、そのナイフをもぎとって、ひとつき——」
「突いたのだね」
「はい」
「いや、よくわかったよ。婆さん、ありがとう。よく話してくれたね。ではこれでさようなら。いっておくがね、婆さん、この話は婆さんとぼくのほかにはだれひとり、しっているものはないのだから、今後はだれにもしゃべらないようにしたほうがいいよ」
「まあ! それではあなたさまは——」
「婆さん、ぼくは新聞記者であって警官ではないのだからね。しっていることをなんでもかんでも、世間に発表しなければならぬという義務はないのだ。婆さん、悪かったと思ったら、矢田貝さんのために、線香の一本もたててあげるんだね」
「あ、ありがとうございます」
「なにもぼくに礼をいうことはないのだよ。ぼくのほうこそ婆さんにお礼をいいたいくらいだ。婆さんのおかげで可哀《かあい》そうなふたりの恋人同士が救われたのだからね。では婆さん、さようなら、なにもかも忘れておしまい。忘れてよく眠るんだよ。ごらん、今夜はまたべらぼうにいい月夜じゃないか。いやな梅雨《つゆ》のあとには輝やかしい夏がくる。さあ、なにもかも忘れておしまい。忘れておしまい」
[#改ページ]
[#見出し] 白蝋少年
悪 夢
ゾーッと身ぶるいがでるほどの美少年なのだ。
両手を胸に組みあわせ、眼《め》をみひらいたまま大きな白木の棺《かん》のなかに寝ているその少年の美しさには、どこか世のつねならぬけはいがあった。
年齢は十六、七、肌《はだ》のなめらかさはまるで蝋石《ろうせき》のようだ。白い額《ひたい》には栗色の髪の毛がふさふさと波打ち、すんなりとしたギリシャ型の鼻、えぐられたような双のえくぼ、いま薄化粧《うすげしよう》を終わったばかりの唇《くちびる》は、さながらにおいこぼれるばかり、みればみるほど、歯ぎしりがでるような美少年だが、それでいて、どうかすると氷のような冷気が、フーッと骨の髄までしみとおりそうになるのは、それもどうり、この少年は生きているのではなかった。
だいいちその眼をみるがいい。頬《ほお》は、唇は、いろあざやかに化粧されているけれど、あらそわれないのはふたつの瞳《ひとみ》、そればかりは死魚の眼のようにドロンとにごっている。
ああ、それにしてもなんという気味悪さ。
白い屍衣につつまれた少年がいま静かに身を横たえているのは、大きな白木の寝棺ではないか。この少年は死んだのだ。そしてきょうはお葬いがおこなわれたのだ。それだのに、だれが棺をこじあけたり、死人の顔に薄化粧したりしたのだろう。
時刻は俗にいう丑満時《うしみつどき》、うすぐらい部屋のなかには、深沈たる妖気が漂うている。
——と、そのときふいに棺のそばからはげしい歔欷《すすりなき》の声がきこえたかと思うと、赤茶けた畳のうえから、むっくりと顔をあげたのは、真赤に眼を泣きはらした二十五、六の、縮れっ毛の醜い女。女は棺のふちに手をかけて、しげしげと美少年のえくぼに眼をやったが、と、またしても泉のように涙があふれてくる。
わかった、わかった。この美少年の屍体を盗みだし、棺をこじあけ、その顔に薄化粧をほどこしたのはみんなこの醜女のしわざらしい。
女はあふれおつる涙をぬぐうと、思いだしたようにふところから手紙をだしてみる。それはもうなんども読みかえされたものとおぼしく、涙ににじんでしわくちゃになっている。女は丹念にそのしわをのばすとむさぼるように読みだした。
——先生、ぼくは殺されます。
と、その手紙はそういうおそろしい文句をもってはじまっているのである。
——先生、ぼくは殺されます。ぼくを殺したひとたちは、きっとぼくの死を自然死のようにみせかけるでしょうが、どうぞ先生だけはごまかされないでください。ぼくは殺されるのです。義兄《あに》か義姉《あね》の手によって殺されるのです。
——思えばぼくはなんというふしあわせな人間でしょう。先生のご存じのとおり、ぼくは妾腹《しようふく》にうまれた人間です。そして十二歳のときに母を失ったぼくは、うまれてはじめて、父、鵜藤《うとう》俊作《しゆんさく》の家に引きとられたのです。
——それからのちのぼくのみじめさ! さすがに父はこのぼくを、眼のなかへいれても痛くないほど可愛がってくれましたが、それがかえっていけなかったのです。その家には先生もご存じのとおり、ぼくとは腹違いの義兄と義姉とがありました。
——このふたりがぼくをどのように虐待したか、いま思いだしてもゾッとする。しかし、父が生きているあいだはまだよかったのです。半年ほどまえにその父が急死してからというものは、ぼくの生涯は地獄でした。いつかぼくは先生に、体じゅうに出来た紫色のあざを発見されたことがありましたね。あのときぼくはハッキリとお答えすることが出来ませんでしたが、いまこそ申し上げます。あのあざこそ義兄や義姉にいじめぬかれた記念なのです。
——先生、緒方もと子先生、ぼくはいまくわしいお話をしているひまのないのを残念に思います。しかしどうかぼくの言葉を信じてください。そして出来ることならぼくのかたきを討ってください。先生こそぼくの生涯において、ただひとりぼくを愛してくだすったかたですもの。——
女はそこまで読むとわっと声をあげて泣きだした。肩をふるわせ、胸をかきむしり、涙がかれるほど泣いた。
「鮎三《あゆぞう》さん、鮎三さん、わかったわ、きっとあなたのかたきを討ってあげてよ。でも、あたしうらみだわ。こんなことがあるなら、なぜ先生にうちあけてくださらなかったの。こうとしったらどんなことがあろうとも、あなたを殺しはしなかったのに。ああそれがうらみだ、残念だわ」
女は狂気のようにかきくどき、白い屍衣の胸をひろげると、斑々たる紫色のあざに唇をおしつけ、うわごとのように復讐を誓うのだった。
雨戸の外ではごーッとものすごい風の音。……
芳香を放つ屍体
「三津木君、お休みのところを起こしてすまないが事件だ。ひとつはたらいてもらえないかね」
あけがたごろのこころよい夢を、編集長からの電話でたたき起こされたのは、おなじみの新日報社の花形記者三津木俊助。
この物語の冒頭にかかげたあの悪夢のような事件があってから、ちょうど一週間のちのこと。
俊助は電話のおもむきをききとると、帽子《ぼうし》をたたきつけるようにして、下宿からとびだしていた。
ゆくさきは深川の木場、事件は殺人事件という。
あけがたの寒さが氷のように身にしみるが、そんなことを気にかけてはいられない。編集長の語気から、なにかしら異常なにおいをかぎつけた俊助は、猟犬のようにはりきっている。
深川は土地がひくくてむかしは洪水が名物だった。
縦横《たてよこ》に開鑿《かいさく》された掘り割りからは、湯気のように白い靄《もや》がたちのぼって、凍てついた大気は一枚の板のようにピーンとそりかえっている。
その掘り割りの縁《ふち》にわらわらとむらがっている警官たちの姿を見つけた俊助が、おもわず足を早めていくと、
「やあ、三津木君、あいかわらず耳が早いな。ほかの社の連中はまだだれもきてやしないぜ」
と、白い歯をだしてふりかえったのは、俊助とは莫逆《ばくぎやく》の友、警視庁の等々力警部《とどろきけいぶ》。
「おはよう。殺人事件だってね。どれどれ、ぼくにも検分させてくれたまえ」
新聞記者の無遠慮さ。警官たちのあいだに割りこんで、一瞥《いちべつ》、掘り割りのなかをのぞきこんで俊助。
「わっ、なんだ、こりゃ心中じゃないか」
なるほど、俊助が心中と早合点したのもむりはない。どろんとよどんだ水のうえに、ぶかぶかと浮かんでいるのは、紅紐《べにひも》で腰をつないだ男女二つの屍体ではないか。
「ふふふふふ、とんだ心中だ。三津木君、ねぼけまなこをこすってよくみたまえ」
意味ありげな警部の言葉に、よしとばかりに、水に浮かんだ材木のうえにとびおりた俊助が、しさいにあらためてみるとなるほど妙だ。
女のほうはとしごろ二十六、七、縮れっ毛の醜婦で、これではいかに新聞記者が曲筆するとも、おせじにも美人とはいいがたい。それにはんして男のほうは、年齢は十六か十七か、みるもまばゆいほどの美少年、草色の洋服を着て、濡れた額に、べっとりと長い髪の毛が吸いついているところは、気味悪いほどの美しさなのだ。
しかし俊助がいま妙に思ったのはそれではない。かれが材木のうえにとびおりたひょうしにプーンと鼻をついたのは、なんともいえない芳香だ。ヘリオトロープ、そうだ。ヘリオトロープの香水のにおいだ。奇怪にもこのふたつの屍体は、まるで香水風呂にでもつかったように、しとどに芳香にぬれているのだ。
「ところで死因はなんですか。毒薬ですか。それとも外傷がありますか」
「それが妙なんです。女のほうにはぜんぜん見当らぬが、男のほうには胸に鋭い突き傷があります。それがまたじつにけしからん話です」
顔をしかめてこたえたのは、おなじく材木のうえに身をこごめていた警察医。
「どうしてです。男のほうに突き傷のあるのが、なぜけしからんのですか」
「だってきみ、この男——と、いうよりむしろこの少年だが、こいつはすでに死後一週間は経過しているのですよ」
「なんですって?」
「そうなんです。こいつは死んでから一週間にもなるのに、この胸の突き傷はそんなに古いものじゃないのです。おそらく昨夜の十二時前後にうけた傷でしょう。つまり、だれがやったのかしらんが、死後一週間もたった死体の心臓を、ごていねいにもえぐっているんです」
「ふうむ」
医者の言葉に思わず太い溜め息をついた俊助が、あらためてみなおせば、なるほど、少年の肌はすでに腐敗のためにくろずんで、なんともいえない異臭を放っているのだ。
「ところで女のほうは?」
「こいつはまだ死後八時間くらいしか経過しておらんでしょう。どうやら服毒しているらしいが、おそらくこっちの少年が胸をえぐられたのと前後して、毒薬を嚥下《えんか》したのじゃないかと思います」
ああ、なんという奇怪さ。
死後一週間たった少年と、昨夜服毒した女と、ときを隔てて死んだこのふたつの屍体のあいだにはいったいどのような関係があるのだろう。
むろん、慧眼《けいがん》な読者諸君は、すでにこのふたつの屍体が何者であるか、よくご存じのことであろう。そうだ、この男女こそ、あのぶきみな白蝋少年鮎三と、その鮎三の屍体を盗みだした緒方もと子なる醜女に違いないのだ。
それにしても、鮎三の屍体にむかって、あんなに熱烈に復讐をちかった緒方もと子が、死体となって発見されるというのは、なんという意外なことだろう。ひょっとすると、彼女もまた、鮎三を殺したとおなじ手によって殺されたのではないだろうか。
「どうだ三津木君、妙な事件だろう」
「ふむ」
と、ふたたび掘り割りからはいあがった三津木俊助、
「ときに等々力君、事件はまさかこの地点で起こったんじゃないだろうね」
「それだよ、この掘り割りはかみは小名木川《おなぎがわ》、しもは東京湾までつづいているそうだから、屍体も上流から流れてきたものにちがいないぜ」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ」
なに思ったのかポケットから手帳をとりだした俊助は、巻頭の暦《こよみ》をしばらく調べていたが、
「わかった、等々力君、ぼくはいかんながらきみの意見に反対せざるをえんね。屍体は上流から流れてきたのじゃない。かえって下流から押し上げられてきたんだ」
「なんだって?」
「暦でみると、昨夜の東京湾の満潮は十一時四十分からはじまっている。満潮時には、河口においては水が逆流するのだ。どうだ、ひとつ小舟をあやつって下流のほうをさがしてみないか。なにかにつきあたるかもしれないぜ」
「よし、いこう」
自信ありげな俊助の言葉に、警部はそくざに賛成したが、これこそじつに、あの奇怪な香水屍体事件の発端なのであった。
深夜の幽霊
鮎三ともと子の屍体は、なぜあのように芳香を放っていたのか。そしてまた、もと子の死因は自殺か他殺か、——それらの疑問はしばらくおき、ここは東京湾のいっかくを、一望のもとに見晴らす越中島のとある横河。
その横河にそって一軒の白堊《はくあ》の洋館がある。表へまわってみると、鵜藤寓《うとうぐう》なる一枚の表札。あるじの鵜藤|俊作《しゆんさく》というのは、退職官吏だったが、半年ほどまえになくなって、あとには邦彦《くにひこ》、美枝子《みえこ》、鮎三《あゆぞう》という三人の兄妹がとりのこされたが、その鮎三も一週間ほどまえに急死して、昨夜がちょうど初七日だった。
わずか半年ほどのあいだに、ふたつの葬式をだした鵜藤家の内情については、とかく近所のとりざたがうるさかったが、いましもその鵜藤家のうらがわ、河に面したヴェランダのしたを通りかかった一葉の小舟がある。乗っているのは、いうまでもなく三津木俊助と等々力警部。
「おや」
ヴェランダのしたまできたとき、俊助が思わず低声《こごえ》で叫んだ。
「どうかしたのかい」
「香水のにおいだ。ほらヘリオトロープのにおい」
つぶやいたひょうしに、なにやら赤いものがちらと眼にうつったので、おやとばかりにみあげたとたん、二階の窓からついと女の顔がおくへ消えた。赤いものはどうやら女のもったハンケチだったらしい。振りかえってみると、向こうの埋め立て地のがわに、べにがら色にぬった船が、しずかに煙を吐いていた。
「なに? 香水のにおい?」
警部は鼻をうごめかしたが、なるほど水のうえへはみだしたヴェランダのおくから馥郁《ふくいく》と洩れてくるのは、まぎれもない、屍体に振りかけてあったのとおなじ香水のにおい。
「よし、踏みこんでみよう」
警部は決心がはやい。ひらりと舟からヴェランダへとびうつる。そのあとから俊助もつづいた。
ヴェランダのおくには大きなガラス扉《ど》があって、それが半びらきになっている。警部が扉をおすと、そのとたんプーンとふたりの鼻をうったのは、むせかえるような香水のにおいだ。
どうやらそこは、居間兼化粧室ともいうべき部屋らしいが、部屋のすみにある大きな安楽椅子のあしもとには、香水瓶でもひっくりかえしたのか、べっとりと匂いのたかい汚点《しみ》がついている。
ふたりが思わず顔みあわせたときだ。
廊下につづいた樫《かし》のドアを、しずかにひらいて顔をだしたのは、パッと眼もさめるばかりに美しい令嬢の、物におびえたような瞳《ひとみ》だった。たしかにさっき二階から顔をだしていた女だ。
「あなたがたはいったいどなたです」
みると女はまだ薄桃色の寝間着を着たままで、その顔は夜通し寝もやらず、輾転《てんてん》としていたらしくげっそりとおもやつれがしている。
「お嬢さん、われわれは警察のものですがね。昨夜ここでなにかかわったことのあったのを、お嬢さんはご存じありませんか」
令嬢はそれをきくととたんに真っ青になった。
「まあ! それじゃもしや鮎ちゃんが……」
「鮎ちゃん? 鮎ちゃんてだれのことですか」
「弟ですの、一週間ほどまえに死んで昨夜が初七日でした。でも、それが……」
と、令嬢ははげしく唇をふるわせながら、
「あたし、昨夜その鮎ちゃんをみたんです。幽霊? いえいえ、幽霊なんかじゃありませんわ。鮎ちゃんはふだんのとおり、あの子のだいすきな草色の洋服をきて、その安楽椅子にすわっていました。おまけに、生前いつもしていたように、体じゅうから香水のにおいをさせて……あたしあまりのおそろしさに、そのまま二階のお部屋へとびこんで、いままでまんじりともしなかったのですわ」
いうまでもなくこの令嬢とは、あの奇怪な白蝋少年鮎三の義姉《あね》、鮎三からあんなにうらまれていた義姉の美枝子なのだ。
「妙な話ですね。お嬢さん、それにしてもこのお邸にはほかにだれもいないのですか」
「いいえ、兄の邦彦と婆やがいます。でも兄はいつものように酔っぱらっているし、婆やは耳がとおいので、ふたりともちっとも頼りにならないんですもの。それに緒方《おがた》さんもちょうどお帰りになったあとですし。……」
「緒方というのは?」
「緒方もと子さんというのは、鮎ちゃんの家庭教師として、ひと月ほどまえまでここにいたかたなんですの」
「お嬢さん、その緒方もと子というのは、もしや縮れっ毛の女ではありませんか」
「よくご存じですこと。緒方さんがどうかなすったのでしょうか」
警部がそれにこたえようとしたときだ。
「美枝子、美枝子。婆やの話じゃ、ゆうべ蕗屋君がやってきたというじゃないか」
と、廊下にあたって男の声。
美枝子はそれをきいたとたん、紙のように真っ白になったが、そのときドアを排して顔をだしたのは、髪の毛の長い、顔色の悪い青年、これぞ鮎三の義兄、美枝子とともに鮎三のかたきともくされる腹ちがいの義兄邦彦だった。
二人の家庭教師
「ああ、あなたが邦彦さんですね」
「そうです。しかし……、美枝子、このひとたちは」
「いやわれわれは警察のものですがね、少しおたずねしたいことがあってまいったのです」
「警察のかた? 警察のかたがまたなんのご用で」
宿酔《ふつかよい》のまださめやらぬ濁った瞳《ひとみ》に邦彦はあからさまな驚きの色を浮かべた。そのようすからみると、かれはまだなにごともしらぬらしい。
警部と俊助は思わず顔をみあわせたが、やがて警部が手短かに、さっきの屍体発見のてんまつを語ってきかせる。邦彦はそれをきくと、はじめのうち驚くというより、むしろ唖然《あぜん》とした面もちで、
「ご冗談でしょう、そんなばかな話ってありませんよ。鮎三の体は一週間まえに火葬にふして、げんに昨夜が初七日なので、われわれ兄妹のほかに、家庭教師だった緒方さんにもきていただいて、心ばかりの回向《えこう》をすませたところです。その鮎三が、緒方さんと……そ、そんなばかなことが」
と言葉づよく否定していたが、だんだんと警部や俊助の話、さては美枝子が昨夜みたという幽霊の話をきいているうちに、しだいに不安がましてきたものか、やがてつぎのように、家庭の内情をかたりだしたのである。
美枝子邦彦と鮎三とは腹ちがいの兄弟であることはまえにもいった。そして、その鮎三がこの家にひきとられてきたのはかれが十二の歳、つまりいまから五年ほどまえであることは、鮎三の遺書によってもすでにあきらかである。そのじぶん、鵜藤氏は半身不随でねていたので、その看護婦としてやとわれたのが緒方もと子だった。
「ところがその父が半年ほどまえになくなったので、緒方さんにはでていただくはずでしたが、ちょうど、そのじぶんまでいた鮎三の家庭教師がいなくなったので、かわりに緒方さんにとどまってもらうことにしたのです。しかし、これについてはまもなくぼくは後悔しはじめました。というのは、緒方さんはあまり鮎三を可愛がりすぎるので、これではかえって鮎三のためにならぬと、一月ほどまえに出てもらったのです」
なるほど、孤独な美少年と婚期をいっした醜い家庭教師のあいだに、恋愛とまでいかぬまでも、ある種の危険な感情が発生して、それが兄を警戒させたということはうなずけないことはない。しかし、その家庭教師がいなくなってからまもなく、突然鮎三が急死したというのはどういうわけだろう。死因は持病の癲癇の発作からだと邦彦は主張するが、そこになにかしら秘密のあやがあるのではなかろうか。
「なるほど、よくわかりました。ところで、あなたはさっき蕗屋君が昨夜きたらしいというようなことをおっしゃったが、蕗屋君とはどういう人物ですか」
「蕗屋君というのは、鮎三がこの家へひきとられてきたときから、ついていた家庭教師なんです、つまり緒方さんのまえの家庭教師ですが、父がなくなるすこしまえ、父と大衝突して、この家をとびだしてしまったのです。衝突の原因ですか。それはちょっと申し上げかねますが」
「なるほど、その蕗屋君が昨夜ここへきたというのですね」
「いいえ、兄さん、それはなにかのまちがいですわ。蕗屋さんが昨夜ここへきたなんて、そ、そんなこと、婆やのいうことなんかあてになるもんですか」
美枝子はなぜか、やっきになって蕗屋青年のここへきたという事実を否定しようとする。
俊助はじっとその横顔を注視していたが、さりげなく邦彦のほうに向かって、
「ところで、緒方さんと蕗屋君の住所をしりたいのですが、おわかりになりますか」
「蕗屋君のほうはわかりかねます。なにしろここをとびだしたきり音信不通になっているのですから。しかし緒方さんのほうはよくしっています。R町の三番地、ここからあまりとおくないところです」
「ありがとう。それじゃいずれまたのちほど——」
俊助はなに思ったのか、まだなにかききたそうに渋っている等々力警部をうながして、いったん鵜藤家を辞したが、それからまもなく、緒方もと子の陋屋《ろうおく》をおとずれたかれらが、いったいどのようなおそろしい発見をしたか、それは賢明な読者諸君にはすでに想像されることだろう。
防水服の男
しかし、俊助と等々力警部のふたりはすぐその足で、緒方もと子の隠れ家をおとずれたわけではなかった。かれらはいったん、屍体発見の現場から所轄警察の扇橋署《おうぎばししよ》へたちより、屍体の解剖やら鵜藤家の監視やら、その他こまごまとした手つづきにてまどったので、ふたりがR町の三番地をおとずれたときは、すでに夜の八時ごろ。
煎餅屋《せんべいや》と雑貨店とのあいだのせまい路地、その路地のいちばん奥にあたる陋屋がもと子のすまいで、ここもおなじくうらにはくろい掘り割りの水がよどんでいる。