もとより独身のもと子のこと、留守番とてあろうはずはなかったが、ふたりはかまわず戸を押し破ってなかへ踏みこむ。せまい三和土《たたき》に三畳と四畳半の二間きり、その四畳半の電燈をつけたせつな、さすがの警部と俊助も、思わずあっとばかりにうしろへとびのいた。
すすけた畳のうえにおいてあるのは、木の香も新しい白木の寝棺。いやいや、寝棺ばかりではない、屍衣もある。花束もある。そして床の間には鮎三の写真と線香立て。ああこの陰惨な部屋こそは、すぐる夜もと子が、鮎三の屍体にとりすがりとりすがり、うわごとのように復讐をちかった部屋なのだ。
ふたりはあまりのことに思わず、呆然と顔みあわせたが、やがてこま鼠のように動きだした警部が、まもなく発見したのは、あのおそろしい鮎三の遺書なのだ。
「わかったぞ、わかったぞ」
警部はそれをみると、こおどりせんばかりに喜んで、
「これでみると、鮎三の屍体を盗んだのはもと子のしわざだ。邦彦や美枝子に復讐するために、鮎三の屍体をひそかにかくしておき、そいつをゆうべ、鵜藤家へ運んでいったのだ。おそらくこの掘り割りから運んでいったのだろう。そうして、邦彦や美枝子を脅迫して、徐々《じよじよ》に復讐をとげるつもりだったのにちがいない」
「それにしても、女の手でどうして屍体を盗むなんておそろしいまねが出来たのだろう。それにお骨上げというものがある以上、屍体がからっぽだとすぐわかるはずじゃないか」
「いや、女だからこそ、こんな大胆なまねが出来たんだよ。それに緒方もと子はいぜん看護婦だったというじゃないか。どこかの病院からたくみに屍体を手にいれて、葬式の途中、ふたつの屍体をすりかえたのにちがいない」
ああなんというおそろしさ、それは想像もおよばぬほどものすごいやりくちだった。しかしものぐるわしい女の情熱というやつは、しばしば男もおよばぬ大胆な仕事をさせるものである。
さて、こうわかってみれば、昨夜美枝子が安楽椅子にすわっている鮎三をみたというのも、みなもと子のしわざであることはうなずける。生前とおなじように草色の洋服をきせ、かれが好んでしてたという香水を体じゅうに振りまいて、——だが、そのあとでいったいどんなことがおこったのだろう。だれがいったいもと子を殺したのだろう。
「わかっているじゃないか。邦彦と美枝子の兄妹——いや、ひょっとすると、ふたりのうちのひとりかもしれん。もと子はつまり古い言葉でいえば返りうちにあったんだ」
「しかし、どうも変ですね。ぼくには——」
と、俊助がなにかいいかけたときである。突如、警部がしっとかれを制すると、
「だれかきた!」
なるほど耳をすますと、ひたひたと路地を踏んで、この家のほうへちかづいてくる足音がする。足音は家のまえでとまった。
はっと顔みあわせた俊助と警部のふたり、とっさに隠れ場をさがしたが、もとよりせまい家のこと、うまい隠れ場所もみあたらない。警部はやむなく、いきなり、れいの白木の寝棺のなかへとびこむと、そのなかにあおむけにねる。俊助はてばやくそのうえにふたをしておいて、じぶんはくらい縁側へ忍びでる。
「ご免なさい。緒方さん、お留守ですか」
あたりをはばかる男の声。二、三度|低声《こごえ》に呼んでいるが、やがてソロソロと戸をひらいてはいってくるようす、俊助が縁側の障子のすきから、そっとのぞいてみると、防水外套の襟をふかぶかと立て、おなじく防水帽をまぶかにかぶったひとりの男が、どろぼうのようにおずおずと四畳半の電燈のしたに顔をだした。
帽子をまぶかにかぶっているので、眉目《みめ》かたちはよくわからないが、色の浅黒い、がっしりとした体格。男も白木の寝棺をみると、ぎょっとしたようにたちすくんだが、ふいにつかつかと床のまえにたちよると、いきなりとりあげたのは鮎三の写真である。なにをするかとみていると、
「悪魔め、この美しい悪党め!」
憎悪にもゆる声なのだ。男は吐きだすようにつぶやくと、いきなり写真をズタズタにひきさいた。それから思いだしたように、ごそごそと一閑張《いつかんば》りの机のひきだしをかきまわす。もうとびだしてもいいころだ。俊助がそう考えたときである。警部がたいへんな失敗を演じたのである。
「ハークショイ」
寝棺のなかでくさみをしたからたまらない。男はさっと身をひるがえすと、飛鳥のはやさ、たたたたとおもてのほうへとびだしていく。
「待て!」
俊助があとを追ってでたとき、ちょうど幸い路地の入口からこちらのほうへやってくるひとりの男。
「おい、そいつをつかまえてくれ、どろぼうだ!」
その声をきくと、防水服の男は、なむさんぼうとばかりにきびすをかえすと、路地を逆におくのほうへ。
そのどんづまりには、隅田川へ通ずるひろい掘り割りがドロンとくろく濁っている。俊助と警部、それから俊助の声に駆けつけてきた男の三人に追いつめられた防水服の男は、いきなりざんぶと、くらい水のなかにとびこんだ。
べにがら船の追跡
等々力警部のしょげかたは、はたのみる眼も気の毒なほどだった。
あれから半時間あまり、掘り割りのうえに舟をだしてさがしてみたが、水にもぐった男の姿は、もはやどこにもみあたらないのだ。なにしろ真っ暗な夜のこと、おまけにつめたい氷雨さえポツポツと落ちてきて、それいじょう捜索をつづけることは困難な状態になってきた。
すっかりしょげきっている警部を慰めるように、俊助は肩をたたきながら、
「ナーニ、いま取り逃がしてもまたとらえるときがありますよ」
「だって、きみ、あいつの身もとさえわからないのに、どうして手配をするのだ」
「それが、わかる方法があるんだよ、じつは」
と、にやにやと笑いながら俊助がとりだしたのは、ふたつ折りの紙入れだ。
「さっき、逃げるはずみにあいつが落としていったのを拾っておいたんだ。ひとつこいつを調べてみようじゃないか」
紙入れのなかには十円あまりの金のほかに、名刺が五、六枚、その名刺にすった文字をみたとき、俊助と警部は思わずぎょっとして顔みあわせた。
蕗屋弘介《ふきやひろすけ》!
五、六枚の名刺のことごとくにおなじ名前が印刷してあるところをみれば、あきらかにこの紙入れの持ち主の名前であるにちがいない。そして、蕗屋とは、鵜藤家でかつて家庭教師をしていた男ではないか。
「あいつだ。あいつが家庭教師の蕗屋なんだ」
だが、その蕗屋がなんのために、どろぼうのように緒方もと子の家へ忍んできたのだろう。もしや、あの男が犯人では。……
「わかった!」
突如、俊助がとびあがるように叫んだ。
「ああ、おれはなんてばかだったろう。わかった、わかった!」
「どうしたんだ、三津木君、なにがわかったのだい、いったい」
「蕗屋弘介のいどころがわかったんだ。あんなことに気がつかぬなんて、おれはよっぽどどうかしている」
「なに、蕗屋のいどころがわかったって。そしていったいそれはどこなんだ」
「どこでもよろしい。警部、これからすぐにランチの用意をしてくれたまえ。蕗屋弘介のいるところへご案内しよう」
「ランチだって? じゃ、蕗屋は水のうえにいるのかい」
「そうです。ぐずぐずしていると逃がしてしまうかもしれん。大急ぎ、大急ぎ」
俊助にせきたてられた等々力警部は、さっそく自動電話へとびこんで、水上署からランチをまわさせるように手配する。そのついでに警部は、鑑識課へ電話をかけて、きょうの解剖の結果をききとった。
ランチはまもなく、おりからの冷雨をついてやってきた。そのなかにとびこんだ俊助と等々力警部のふたり。
「越中島のさきの埋め立て地だ」
俊助の声に、ランチはただちにたたたたたとくろい水をきって出発する。
「三津木君、いったいどうしたというのだ。どうして蕗屋のいどころがわかったのだ」
「なんでもないさ。あいつの服装をみたとき、すでにそれに気づいていなけりゃならなかったんだ。きみもみただろう。あいつは防水服に防水帽をかぶっていた。ありゃ海のうえではたらく人間の服装なんだ」
「ふむ、それぐらいのことはおれにもわかるが」
「それでぼくはふと、こういうことを思いだしたんだ。けさわれわれが鵜藤家のヴェランダのしたに舟をこぎよせたとき、二階の窓から美枝子が顔をだしていたが、あの女は赤いハンケチを振っていた。ぼくにはその意味がハッキリわからなかったが、どうもなにかの合図だったらしく思われる。ところであの窓の向こうは、ひろびろとした河口から東京湾までつづいているのだから、当然その合図は水のうえに向かってなされたものと思わなければならぬ。そこでぼくはふと、さっき思いだしたんだが、あのとき鵜藤家と一町ほどはなれた埋立地のがわに、べにがら色にぬった船が一艘停泊していたんだ。つまり、美枝子はあの船にいる蕗屋に向かって、われわれのきたことをしらせていたんだよ」
「畜生ッ! するとゆうべ、蕗屋が鵜藤の家へやってきたというのは事実なんだな」
「そうとも。あのふたつの屍体を流したのは蕗屋のしわざにちがいないぜ。そして美枝子もそれをしっていてかばっているんだ」
ランチはいまや、くろい水をけって、越中島の対岸にある埋立地のそばまで近づいてきたが、これはいったい、どうしたというのだ。けさそこに碇泊していたべにがら船の姿はどこへやら、ただ一艘のだるま船がぶかぶかと浮かんでいるばかり。
「しまった。逃がしたかな」
俊助はぎょっとしながら、だるま船の親爺《おやじ》を呼びだして、きいてみると、べにがら船はたったいま、東京湾のほうへ向かってあわただしくでていったという。しかもそのまえに若い女が乗りこんだことまでわかった。若い女とはどうやら人相年頃美枝子のことらしい。
「よし!」
きっと眉をそびやかした等々力警部、
「どうせあんな小蒸気じゃ、沖へでるわけにはいくまい。海岸線をさがしていけばいいんだ。目印はべにがら色の船体、追跡だ、追跡だ」
ランチはにわかにエンジンをふくらませて、ものすごく波をけって進みだした。まもなく埋立地をまわってそとへでる。つめたい氷雨はますますはげしくなって、埋立地のそとへでるとどうじに、どっと横なぐりにたたきつけるくろいうねり、どうやらひとあれきそうなもようだ。
暗澹たる冷雨の東京湾、そのくろいうねりをけって、ランチはまるで傷ついた牡牛《おうし》のようなうなり声をあげている。第五号埋立地もすぎた。第四号埋立地もすぎた。隅田河口を横ぎって、浜離宮から芝浦のあたりまでさしかかったが、まだめあてのべにがら船はみあたらぬ。
いくどかゆきかう船にきいてみたが、いずれもそんな船はしらぬという。だが第五番目にきいた船からやっと、それらしい消息をきくことができた。
「その船なら旦那《だんな》、たしかさっき、隅田川をうえへのぼっていきましたぜ」
しまった! そとへ逃げるとみせて、かえって市中へ遡航《さつこう》していったのだ。
ランチはたちまち向きをかえて、まっしぐらに夜の隅田川へおどりこんでいく。
永代橋から清洲橋、新大橋から両国へと、強烈な探照燈で河上をはきながら、眼を皿のようにして河をのぼっていった俊助と警部のふたり、突如、
「いた!」
と、叫ぶと、たちまち鋭い停船命令、めざすべにがら船がためらうように停船するのも待たで、ふたりはいきなり向こうの蒸気船にとびうつると、さっと船室のドアを押しひらいたが、せまいその船室のなかでは、美枝子が真っ青な顔をして、傷ついた蕗屋弘介のかいほうをしているところだった。
恐ろしき少年
「おそれいりました。逃げようとしたのはまちがいでした。もっとはやく自首すればよかったのですが、いかにも緒方さんと鮎三君の屍体を河に流したのは、かく申す蕗屋弘介にちがいございません」
寝台のうえに身をよこたえた蕗屋弘介は、かすかに身を起こすと、神妙に首うなだれる。かれはさっき、水へとびこんだときけがをしたとみえて、肩のあたりに、なまなましい血がにじんでいる。
美枝子は耐えかねたように、肩で大きくすすり泣くばかり。
「昨夜わたしはこの舟からボートを操って、鵜藤さんの宅までたずねていったのです。なぜわたしがそんな妙な方法で訪問したかというと、ある事情からわたしは鵜藤家への出入りを禁止されているのです。わたしにとってはまったく濡衣なんですが、邦彦君はいまだに釈然としてくれません。そこでわたしは美枝子さんに会って、じぶんの苦衷をきいてもらいたかったのです。きのうわたしは、あらかじめ美枝子さんに手紙をだしておいて、さて夜の十二時ごろ、川のほうからヴェランダへはいのぼりましたが、そのとき美枝子さんはまっくらな部屋のなかでわたしを待っていてくれました。そこでわたしたちはつもる話をしました。いったい、どのくらい話していたでしょうか、たぶん三十分あまりも夢中になって話しこんでいたでしょう。ことわっておきますが、そういう話はまったくくらやみのなかでつづけていたのです。もし邦彦君に発見されちゃたいへんだ、——とそういうはらがあったからです。ところがふたりが夢中になって話しているあいだに、すこしずつ、月の光が、ヴェランダのガラス扉《ど》を通して、その部屋のなかへさしこんできます。そして、その光が、パッと部屋のすみにある安楽椅子のうえに落ちたとき、——ああ、あのときのわれわれの驚きを、いったいなんといって形容したらいいでしょう。いままでだれもいないと思った部屋のなかにひとが——しかも、一週間ほどまえに死んだ鮎三君がすわっているじゃありませんか。わたしも美枝子さんも真っ青になりました。一瞬間、気が狂ったような恐怖にうたれました。わたしは夢中になって、ポケットから海軍ナイフをとりだすと、ぐさっとばかりに鮎三君の心臓を突きさしたのです。
だが、そのあとでわたしたちはすぐに、そこにすわっている鮎三君は、すでに腐敗しかけた屍体にすぎぬことに気がつきました。それにしても、火葬にふしたはずの鮎三君の屍体がどうしてそこにあるのか、また、だれがそこへもってきたのかもわかりません。と、そのときです。美枝子さんがまたもや、あれえッという叫び声をあげたので、みると、安楽椅子と壁のあいだのせまい床のうえに、意外にも緒方もと子さんがたおれているじゃありませんか。さわってみると、すでに体は冷くなって、心臓の鼓動もとまっていました。
さあ、わたしたちはいったいどうしたらいいのでしょう。美枝子さんはかえすがえすの椿事《ちんじ》に、気も顛倒《てんとう》せんばかり、ひとをよぶべきか、ひとをよべばいきおい、じぶんのここにいる理由を説明しなければなりません。悪くするとつまらぬ疑いを受けるはめになるかもしれない。と、いってこのまま捨てておいたら、美枝子さんや邦彦君に、どんな迷惑がかかるかもしれぬ。だいいち、鮎三君の屍体が墓場から抜けだしたなんて、外聞にかかわる話です。そこで、とうとう、ふたりの屍体をああして水へ流してしまったわけです。わたしのつもりは、おそらく海のほうへ流れていって、鱶《ふか》の餌食《えじき》にでもなり、永久にこの秘密はたもたれるだろうと思っていたのですが……」
蕗屋弘介はそこまで話すと、ぐったりと首うなだれる。そのそばでは美枝子がいよいよはげしく泣きいっていた。
「なるほど、そこまで話はわかったが、ところできみは今夜、なんのために緒方もと子の家へ忍びこんだのだね」
「さあ、それです」
蕗屋弘介は熱っぽい眼をあげると、
「昨夜、わたしはこの船へ帰ってきてから、夜どおしあのふしぎな出来事を考えてみました。いったいどうして鮎三君の屍体があそこにあったのか、また、火葬にふされたはずの鮎三君の屍体を、だれがいままで隠しておいたのか、——そういうことを考えとおしているうちに、ふいに緒方もと子だ……と思いついたのです。あの女ならそのくらいのことはやりかねない。
あいつはきちがいじみた情熱で鮎三君を愛していた。そしてあいつはもと看護婦だった、——と、そこまではわかったが、さて、鮎三君の屍体をかくしておいて、あの女はいったいなにをたくらんでいたのだろう。もしや美枝子さんや、邦彦君にたいしてなにか悪いたくらみをしていたのではなかろうか。そう考えたので、なにか証拠はないかと、さっきR町へ忍んでいったのです」
「なるほど、するときみは緒方もと子の死因については、まったくしらぬというのだね」
「しりません。鮎三君の死体を傷つけたのはわたしですが、緒方さんのほうはまったくしりません」
「美枝子さんは?」
「存じません! わたしもいま蕗屋さんの申し上げたことのほかなにもしらないのです。緒方さんはひょっとすると、心臓|麻痺《まひ》でも起こされたのじゃないでしょうか」
「ところが大ちがい……さっき鑑識課へ電話をかけてきいたんだが、緒方もと子はある強い毒薬を嚥下《えんか》しているんだ。そればかりではありませんぞ」
警部はふいに声を荒らげると、
「一週間まえに、癲癇の発作で死んだといわれる鮎三少年も、じつはおなじ薬で死んでいるのですぞ」
美枝子はそれをきくと、ふたたびよよとばかりに泣きふした。ああ、彼女はやっぱり鮎三を殺したのであろうか。
「いや、ちょっと待ってください」
そのときふたりのあいだに割りこんだのは三津木俊助。
「蕗屋君、ぼくはもうひとつきみにきくことがある。きみはさっき繕方もと子の家で、鮎三君の写真をみると、『悪魔! この美しい悪党め!』と叫んで写真をズタズタに引き裂きましたね。あれはいったいどういうわけですか」
蕗屋弘介の頬《ほお》には、そのときさっと紅の色がのぼった。眼をいからせ、拳《こぶし》をふるわせながら、
「あいつは悪魔です。おそろしい悪党です」
と、きたないものでも吐きだすように、
「美枝子さんのまえだが、あんなにおそろしい生き物は世界にふたつとないでしょう。みなさんは鮎三の体に、紫色のあざがいっぱいついているのをごらんになったでしょう。あれはみな、じぶんで傷つけるのですよ。なんというか、一種の変質者ですね。そうしておいては、だれがいじめた、かれがうったと鵜藤氏に訴えるのです。そのためにわれわれはどんなに迷惑をこうむったかわかりません。あいつにとっては他人の幸福はことごとくおのれの不幸なんです。かつて邦彦君に良縁があったのに、それが破れたのも鮎三の中傷からなんです。そしてぼくを鵜藤家から放逐《ほうちく》したのも、みんなあいつのしわざなんです」
「そのことについてもうすこし、くわしくお話しねがえませんか」
「よろしい、お話ししましょう。鵜藤氏がなくなるすこしまえのことです。主人の金庫のなかからかなりの大金が紛失して、その疑いがわたしにかからざるをえないようなしくみになっていたんです。なにしろ日ごろわたしを信じていた邦彦君や、ここにいる美枝子さんまで、わたしを疑ったくらいですから。しかしわたしにはちゃんと犯人がわかっているのです。鮎三です。わたしと美枝子さんがしだいに親密になるのが、あいつには気に入らなかったんです」
「なるほど、よくわかりました。ところでもうひとつおたずねする。鮎三君の屍体には香水がいっぱい振りかけてありましたが、あれはいったい、だれがやったのでしょう」
「むろん、緒方もと子でしょう。鮎三は日ごろから香水がだいすきで、いつも体じゅうをプンプンにおわせていましたから、劇的効果を強めるために、芝居気のつよい緒方もと子がやったのにちがいありません。げんに緒方もと子は香水噴きを握ったまま死んでいましたから」
「なんだって? 香水噴きだって?」
「そうです。ぼくはそいつを化粧|箪笥《だんす》のおくのほうへしまっておきましたが」
「香水噴き、香水噴き——」
俊助は急にハッとしたように、
「その香水噴きのなかにはまだ香水がのこっていましたか」
「ええ、ほんのちょっぴり、なにしろおおかたは床のうえにこぼれていたものですから」
「美枝子さん!」
俊助がふいにきっと振りかえった。
「あなたがたはこの一週間ほどのあいだに、香水をお使いになりましたか」
「いいえ、葬式やなにかでとりこんでいたものですから。——でも、さっきわたしがでがけに、兄はしきりに香水噴きをさがしていました。今夜寝るまえにかけるつもりでしょう。そうするのが兄の習慣なんです」
「たいへんだ」
俊助がいきなりたちあがると、
「大急ぎでひきかえしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、もうひとつ屍体が出来るかもしれんぞ」
と、血相かえてどなったのである。
香水噴きの秘密
だが、かれらが急ぎに急いでひきかえしてきたのにもかかわらず、ときすでにおそかったのだ。いやいやおそかったことはおそかったが、またかろうじてまにあったともいえるのである。
なぜなら俊助、警部、美枝子、蕗屋青年の四人をのせた船が、鵜藤家のほうへちかづいていったとき、突如、ヴェランダからおどりだした婆やが、気狂いのように手を振りながら、
「たいへんです。だれかきてください。若様が、若様が——」
「しまった。おそかったか!」
四人のものが夢中で船から家のなかへとびこむと、床のうえには邦彦がぐったりとたおれている。そしてその手には香水噴きが。——
「お兄さま、お兄さま」
「そばへよっちゃいけません」
俊助はいきなり邦彦の手から香水噴きをもぎとると、大事そうにそばにおき、
「等々力君、医者だ、医者だ。大至急で解毒剤をかけねばならん」
それからあとの鵜藤家の騒ぎは、いまさらここに述べるまでもあるまい。一時はあやぶまれた邦彦の容態も手当てがはやかったので、どうやらとりとめるだろうという医者の保証に、一同がほっとしたのは、それから一時間も経ってからのことだった。
「三津木君、こりゃいったいどうしたというのだ。あの香水噴きがどうかしたのかね」
「そうさ。等々力君、そいつをすぐ鑑識課へまわしてくれたまえ。おそらくその香水のなかには、緒方もと子や鮎三少年を殺したとおなじ毒薬がまじっているはずだから」
「なんだ。すると問題は香水か。しかし、だれが香水のなかに」
「いや、それを話すまえに美枝子さんにききたいことがある。美枝子さん、鮎三君は自殺したのでしょう」
ズバリといわれて、美枝子ははっと顔色をかえたが、急に涙を浮かべると、
「そうなのです。あの子はあたしたちへの面当てに自殺したのです」
美枝子はゾッと肩をふるわせると、
「父の死後、あの子はいよいよあたしたちの手におえなくなってまいりました。でも、かわいそうなあの子の過去のことを考えて、できるだけしんぼうしていたのですが、いまから十日ほどまえに、どうしてもしんぼうの出来ないことが起こりました。緒方さんを追いだしたのが不満で、あの子があたしたちを毒殺しようとしたのです。さいわい早く気がついたので、あやうくいのちをとりとめましたが、このときばかりは兄も怒ってきびしくあの子を折檻《せつかん》しました。それにはもうひとつ理由があるので、考えてもおそろしいことですが、こんどのことから、はからずもふと、父の死についておそろしい疑惑が感じられたのです。父の死因は卒中ということになっていますが、どうもその前後に妙なふしがある。もしや、こんどとおなじように鮎三が——と、そう考えるとおそろしくてたまりません。それでさんざんあの子を責めて問いつめたのですが、すると、その翌日、あの子は面当てのように自殺してしまいました。あたしたちはすっかり途方にくれてしまって——、これをおおやけにすれば、家の恥をあかるみにだすようなもの、ところが、ちょうど幸い、あの子にはふだんから、癲癇の発作があって、先生もそれをよくご存じだったものですから、くわしくお調べにならないで、死亡診断書を書いてくだすったのです」
「なるほど、よくわかりました。これでなにもかもつじつまがあいます。ときに美枝子さん、あなたは香水を振りかけるとき、ひょっとすると唇から、咽喉のおくまで噴きかける習慣がありやしませんか」
「ええ、あの、そうすると……」
「蕗屋君が喜ぶというわけですか、いや、これは失礼。そしてその習慣がいつか邦彦君にもうつっていたんですね。つまりそこが鮎三君のつけめで、死んでからあなたがたに復讐しようという魂胆で、香水噴きのなかに毒薬をしこんでおいたのです」
「ふうむ、すると犯人はあの鮎三かい」
警部は呆然として、
「だが、緒方もと子はどうしてまた。——」
「わかっているじゃないか。あの女はそんな少年のからくりをしろうはずがない。きのうひそかに鮎三の屍体をここへ運びこんでから、効果をいっそう強めるために、その体へ香水を振りかけた。そのあとで、ふと女らしい好奇心から、みようみまねでおぼえたとおり、じぶんもふと咽喉のおくへ香水を噴きかけてみたくなったのが運の尽きさ。つまりあの女は、じぶんのもっとも愛する少年の手にかかって殺されたも同然なんだよ。けだし自業自得というべきだろう。さあ、そうわかってみれば等々力君、もうきみにはなんの用事もないようだね。まさかきみがいかに有名な鬼警部でも、地獄まで犯人を追っかけていくわけにはまいらんからね。ははははは」
と俊助は警部の手をとって、さっさと部屋をでていったが、入口のところでふとうしろを振りかえると、
「美枝子さん。蕗屋君は潔白なんです。いや、潔白なばかりじゃない。じぶんが放逐されたあとも、あなたがたの身を案ずるあまり、海上からつねにこの家をまもっていたのです。邦彦君とともに、あなたの看護をうける価値は十分にありますよ。さようなら」
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『仮面劇場』昭和50年3月10日初版発行