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作者: 当前章节:15360 字 更新时间:2026-6-23 06:52

 そして自分のデザインでつくったという、純白のイヴニング・ドレスがまことによく似合うのであります。

「それに大阪の方に感心いたしますのは……」

 と、由美は軽く扇をつかいながら、巧みなエロキューションで話します。彼女が扇をつかうたびに、何んともいえぬよい匂いが、そこにいる人々の鼻を打ちます。それは薔薇とも菫《すみれ》ともまたヘリオトロープともちがった、妙に甘い、胸をときめかすような匂いであります。さすがに個性をとうとぶ芸術家、ありふれた香水にあきたらぬと見えますが、それにしても何んの匂いであろうと、一座のなかには首をかしげた若いものもありました。

「大阪の人たちは、よい意味の伝統を尊重なさいますのね。古いものでもよいものはちゃんと保存されておりますわね。たとえば文楽などに致しましても……」

 誰しもお国自慢のないものはない。こうして郷土芸術をほめられると、いままで一度も文楽を聴いたことのないような青年でも、決して悪い気持ちはしないものである。

「今夜のお祭りにしてもそうでございますわ。東京では神田祭りも深川祭りも、あたしどもにはまったく無関係なものになってしまいまして、あたしなど、もうかなり長いあいだ東京に住んでおりますが、いつがお祭りやら、それさえわきまえないくらいでございますのよ。それだのに、こちらへ参りますと、若い人たちまでが、天神祭りに騒いでいらっしゃる。そういうところにも、ちゃんと地についた伝統というものがうかがえますようで、ほんとにお羨ましいと存じますわ。東京の学生さんたちなら、お祭りなんぞどこ吹く風とばかりに、映画でも見にいくところでしょう」

 しかし由美のこの最後の一句は、いささか贔屓《ひいき》の引きたおしの感がないでもなかった。ファンのひとりも笑って頭をかきながら、

「いやあ、そういわれると穴へ入りたいですな。大阪だってわれわれ若い者の気持ちはだんだん変わっていますよ。現にこうして、天神祭りもそっちのけで、あなたの歌を聴きに来ている奴が大勢ある」

「ええ、ですからあたし今夜の聴衆の方々には、いっそう感謝しているんでございますの」

 すかさずそう言ってのけたのは、さすがに人気稼業である。するとその時ファンの一人が膝をすすめて、

「ところで甲野さん、われわれがこうして楽屋へ押しかけて来たのは、実はあなたに無心があるんです」

「無心……? 何んですの。サイン?」

「いや、サインもむろんちょうだいしたいですが、あなた暫く体が空いているんでしょう?」

「ええ、これから管絃楽がはじまるところですから、四十分ほどひまがございます」

「実はわれわれもやっぱり大阪の青年でしてね。天神祭りに関心を持ってるってわけです。で、この中之島のそばに舟を一艘《いつそう》用意しているんですが、それへあなたを御招待したいと思ってるんですがねえ」

「あらまあ!」

「いけませんか。すぐそこですからお手間はとらせないつもりですがねえ。第二部がはじまるまでには、きっとこちらへお送りしますよ」

「はあ」

 由美が当惑そうに眉をひそめてもじもじしているので、別の青年が横から口を出しました。

「何か御都合の悪いことでもあるんですか」

「いえ、そういうわけではございませんけれど、実は……こうなったらほんとうの事を申し上げますわ。実はあたしどものほうでも一艘用意してございまして、……折角天神祭りの当日にこちらへ参っていながら、お渡りを拝まないでかえるのも残念だと、兄がそう申しますものですから」

「何んだ、そんな事ですか。それならかえって好都合じゃありませんか。ひとつわれわれに合流して下さいよ」

「お兄さんと二人きりなんですか。それともほかにもお連れが……」

「はあ、兄のお友達が一人おります」

「三人ですね。それくらいならこっちの舟にまだ余裕がありますから、みなさんこっちへ合流して下さいよ。ねえ、君」

「そう、それがいいですよ。こんな事はなるべく賑やかなほうが面白いもんですよ」

 ファンたちがわいわい言っているところへ、ドアがあいて顔を出したのは、三十前後の痩せぎすな、色の浅黒い青年でした。眼の大きなところや鼻のたかいところ、はては混血児のような感じのするところまで由美に似ている。これが由美の兄で、名前は静馬というのである。

 静馬はちょっと一同に目礼すると、

「由美さん、舟の支度が出来ているんだが、皆さんに失礼させて戴いたら……」

「あら、兄さん、その事でいま皆さんから、御親切な御招待をいただいたんですけれど」

 と、そこでいまのいきさつを手短かに話すと、静馬はちょっと眉をひそめたが、それはいけないとは申しかねました。

「ねえ、いいでしょう。あなたもこっちへ来給えな。こっちのほうは広いんですから」

「ええ、有難う、しかし友人がおりますから」

「兄さん、鵜藤さんは?」

「鵜藤は舟で待っている」

 相談の結果、結局、由美だけが青年たちの招待を受けることになりました。

 そして兄の静馬と友人の鵜藤青年は自分たちの舟にするが、しかし二艘の舟はしじゅう行動をともにしようと、そういうことになって一同が、公会堂を出て、舟のつないである河岸ぷちへ出て来ると、そこには大きな団平船《だんべいぶね》が用意してあって、由美を待ちかまえていたファンが四、五人、わっと歓声をあげました。

 その団平船のそばには、一艘のボートがつないであったが、それには静馬と同じ年頃の青年が、オールを握って待っている。それが静馬の友人で、鵜藤という人物でありましょう。小柄ではあるが、ずんぐり太った青年で、ふちなし帽を横ちょにかぶって、マドロスパイプをくわえたところは、画家か彫刻家といった感じです。

 その青年は由美が団平船へ乗りこむのを見ると、不思議そうに眼をみはりましたが、静馬がわけを話すと、納得がいったのでしょう、うなずいて、しかしいくらか不平そうに鼻を鳴らしながらオールを握りました。

 こうして二艘の舟はつかず離れず、互いに連絡をたもちつつ、舟、舟、舟、舷々相摩《げんげんあいま》す河心へと漕ぎ出していったのでありました。

  二

 ちょうどその頃。

 中之島の東詰、お渡りをいまかいまかと待ちかまえている夥《おびただ》しい舟にまじって、物珍しげにあたりを見廻しているのは、いうまでもなくあの物好きな未亡人の大道寺綾子。同じ船に、由利先生と虹之助も同乗している。

「なるほど、ずいぶん賑やかなことね。噂にはきいていたけど、こんなだとは思わなかった。両国の川開きと好一対ですわ。あら、危ない」

 隣の舟にどしんとぶつかられて、綾子は思わず舷にしがみつく。

「ほんとにうっかり出来ないのね。まごまごしてると、水の中へ落とされそうで」

「何しろ、このお祭りではときどき椿事《ちんじ》が起こりますからね。奥さん、気をつけていらっしゃい。水の中へ落ちたが最後、それきりですよ」

「あら、いやだ。おどかしちゃいやよ。あたしは大丈夫だけど、この人が……」

 綾子のふりかえるその舳《へさき》には、あの三重苦少年の虹之助が、蝋人形のように、いや、それよりもっと無表情なかおをして、つくねんと坐っているのであります。

 ああ、透きとおるほど美しい少年は、いったい、いまどのようなことを考えているのだろう。かれはこの賑わいを見ることも出来なければ、この喧騒を聴くことも出来ないのだ。外界のあらゆる事物からきりはなされた盲聾唖、空の空、漠の漠、一切の闇、すべてが暗黒、そこには永遠の暗闇があるばかり、そういう少年のあたまに、もし何かの想念がうかんでいるとしたら、それはどのように果敢《はか》ない、どのような遣瀬《やるせ》ないものでありましょう。

 それはまるで、暗闇のなかで演じられる、無言劇のようなものではありますまいか。ああ、この少年こそは暗黒の劇場、暗黒劇場なのであります。

 綾子は身顫《みぶる》いを禁じ得なかった。

「奥さん、寒いのじゃありませんか」

「いいえ」

 綾子は軽く首をふって、

「あたしいまこの人のことを考えていたのです。ねえ、先生、こういう境涯がどのように恐ろしいものかお考えになったことがございまして? 眼が見えぬ、それだけでもずいぶん不自由なことですわ。耳が聴こえぬ、どんなに悲しいことでしょう。口が利けない。ずいぶんそれはじれったいことにちがいございません。それだのに……それだのにこの人は、その三つの苦しみを同時に背負わされているのです。盲聾唖! ああ、何んということでしょう」

「奥さん!」

 由利先生はきびしい声でそれをさえぎった。それから、ゆっくりと諭《さと》すように、

「私は奥さんの、そういう考えかたに賛成することが出来ません。何度もいうように、あなたのような御婦人が、こういう呪われた少年に特別に関心を持つということには、どうしても賛成出来ません」

「あら、また、そのことをおっしゃる」

「幾度でもいいますよ。あなたはこの少年の素性も知らなければ過去も御存じない。ましてや性格などまるで分かりっこない。それでいてあなたはただ、この少年の哀れな不具者であるということだけで、自己陶酔的な同情におぼれきっている。その同情がどういうふうに発展していくか、私は婦人のそういう感情にかなり危険なものを感じるのです。あなたに御主人でもあれば格別ですがねえ」

「あら、あたしが主人を失った暢気《のんき》な寡婦《かふ》であるからこそ、こんな物好きな真似が出来るんですわ。先生の御忠告はよくわかっています。でも、先生、あたしをいくつだとお思いになって? 明けて三十よ。三十といえば女ではお婆ちゃんですわ。ひととおりの思慮分別はあるつもりですから御心配なく。それに鎌倉へかえったら叔母もおりますし、相談相手になってくれるお友達もございますから」

 綾子はなぜか頬をあからめ、遠くを見るような眼つきをしていたが、急に気がついたように声を立てて笑うと、

「先生、もう議論は止しましょう。つまらないんですもの。それより、……あら、あれ、何んでしょう。まあ!」

 綾子が眼をみはったのも無理はなかった。

 その時、水のうえを滑って聴こえて来たのは、賑やかなジャズ音楽と陽気な歌声。これには綾子のみならず、あたりに犇《ひし》めいていた舟の連中、みな一様にどぎもを抜かれたようであります。

「なんや、なんや、天神祭りのお渡りに、ジャズがつくようになったんかいな」

「あほらしい。そんな事があってたまりますかいな。あら、若いもんがふざけてるんや。ほら、あっこへ来よった、来よった」

「わっ誰や踊っとるやないか」

「ほんにほんに、無茶やな、こんなとこで踊りよって、うっかり足を滑らしたらどないしよんねやろ」

「そやけど、あれ、よう踊りよるやないか。わっ、独楽《こま》みたいに舞いよる舞いよる」

 わいわい騒ぐ舟、舟、舟、——その舟のなかをかきわけて、しだいにこっちへ近付いて来るのは、いうまでもない、あの由美を招待した団平船の青年たちなのです。なるほどこういう趣向があるから、ああも熱心に由美を勧誘したものと見える。

 見れば舟のなかにはあかあかとカンテラをともし、張りめぐらした五色のテープ、ふなべりいちめん花で飾ったところは、とんと花電車のよう、そして舟の後部には、ずらりとジャズ・バンドの連中がいならんで、ドラム、サキソフォン、コルネットと、みんな汗みずくで演奏している。そして舟の中央には、花輪を頸にぶらさげた三人の青年が、舟の動揺にも拘らず、たくみに平均を保ちながら、見事なタップを踏んでいる。そしてそういう青年たちのなかにまじって、女王のように坐っているのは、いうまでもなく甲野由美。

 なるほどこれでは、お渡り見物の連中が、どぎもを抜かれたのも無理ではない。

 ひとしきり毒蜘蛛《どくぐも》につかれたような踊りが終わると、あたりの舟からわっと上がる拍手と歓声。

「ええぞ、ええぞ、もっとやれやれ」

「おい、そこにいる別嬪《べつぴん》、あんたも何かやりんか」

「こらええ余興や。別嬪さん、頼みまっせ」

 由美はすっかり上気していた。

 舟のなかにはビール、サイダー、サンドウイッチ、果物なども山のように盛りあげてある。まったく至れりつくせりの歓待だから、由美たるもの、お礼心にどうしても、ここで歌わなければなりますまい。

 そこで彼女は立ち上がる。

「皆さん、思いもよらずこのような歓待をうけまして、何んとお礼を申し上げてよいか分かりません。素晴らしい水の上でのこのジャズの音、皆様の素敵なタップ、そのかみの英国貴族の歓楽を、いまにうつしたようなこの一夜の思い出は、長くあたしの記憶にとどまると存じます。この思い出の感謝のしるしに、皆様のこの素晴らしい御歓待へのお礼心に、それではあたくし、ここで一曲歌わせていただきます」

 割れるような拍手のうちに、やがて彼女の得意の一曲、「春の囁き」の甘いひとふしが、若者の郷愁をそそるように、水のうえを流れて来ました。

「あら、あれ、甲野さんじゃないかしら」

 その歌声にふと耳を欹《そばだ》てたのは、未亡人の綾子です。ふなべりから身を乗り出して、

「ああ、やっぱり甲野さんだわ。妙なところで……」

「御存じなのですか」

「ええ、今夜あの方、中之島公会堂に出ている筈なんだけど、どうしてここに……いいえ、あたしお識り合いってわけじゃありませんが、あの方の御親戚の人を知ってるものですから……甲野さんのほうでは御存じないでしょう」

 あの賑やかな団平船は、由美の歌声をのせたまま、しだいにこっちへ近付いて来る。やがてそれが綾子の舟のすぐそばまで来たとき、由美の歌は終わりました。

 湧き上がる拍手。歓声、賞讃の声々。

「あら甲野やないか」

「そやそや、今夜中之島へ出てる甲野由美や」

「こらええ、こら儲けた。天神祭りを見物して、甲野の歌が只で聞けた。こら大儲けや」

 等々々と、とかく大阪人は勘定高い。

 と、この時です。

 川上にあたってわっとあがる歓声、太鼓の音、それにつづいて、めらめらと水にうつる篝火《かがりび》が、暗い河面《かわも》を虹のようにはいて、こちらのほうへ流れて来る。さあ、いよいよお渡りがはじまったのです。

 あたりにいた舟はこれを見ると、俄かに犇《ひし》めきあい、喧《わめ》きあい、罵りあい、艫《ろ》べその軋《きし》る音、水をうつ響き、いちどにわっと鯨波《とき》の声をあげて、たいへんな騒ぎになりました。

「あかん、あかん、そないに無茶に舟を押したらあかんがな」

「こら、気をつけんか、危ないがな」

「危ないちゅうたて仕様がないがな。向こうの舟が押して来るのや」

「あれえ、助けてえ」

 不心得な奴があって、少しでもお渡りを拝むに有利なほうへ、無理に舟をやろうとしたのでしょう。そのへん一帯にたむろしていた舟から舟へと、見る見る混乱が波及して、

「駄目だ、駄目だ、こら、気をつけないか」

 由美の乗っているあの団平船も、押され押されて、ぴったり綾子の舟のそばにくっつきました。

「あなた、大丈夫、八時半までに公会堂へかえれて?」

 由美はいささか心細そう。そういう由美の横顔が、すぐ眼のまえに来ましたので、綾子は思わず身を乗り出しました。

「あなた……」

「…………?」

 由美は怪訝《けげん》そうに振り返る。

「あなた甲野さんですわね。あたし大道寺綾子です。あなたの従兄さんの志賀さんとは、ずっと御懇意に願っております」

 突然、由美の眼が大きくみひらかれました。どういうわけかその眼には恐怖のいろが漲《みなぎ》っている。何か言おうとして、しかも言葉が出ないのでしょう、唇がわなわな顫えて、白魚の指がふなべりも砕けよとばかりに……

 綾子もこれには呆れました。茫然として相手の顔を見守っていたが、するとここに世にも不思議なことが起こったのである。

 いままで白蝋のように、無表情そのものだった虹之助の面に、その時さっと恐怖の色が流れたかと思うと、盲いた眼を張りさけるように見張ったかれは、ヒクヒクと、犬のように小鼻をふるわせ、あちこちと水のうえの夜気を嗅《か》いでいましたが、突然、

「あ、あ、あ、あ、あ!」

 と身も世もあらぬ恐怖の叫びとともに、がばと舟に顔を伏せたから、驚いたのは綾子である。

「あら、虹之助さん、どうかして」

 あわてて抱き起こす綾子のからだを、しかし虹之助は邪慳《じやけん》に押しのけると、むっくと首をあげ、ふたたび、三度ヒクヒクと小鼻を蠢《うごめ》かしていましたが、盲いたその手にふと触ったのはオールである。それをとって矢庭《やにわ》にすっくと立ち上がると、

「危ない!」

 綾子が止めるひまもなかった。ふりかぶったオールをはっしとばかりに振りおろしたのは由美の頭上。……

 もし虹之助に視力があったら、そして由美がぼんやりしていたら、その一撃で見事に彼女は脳天を打ち割られていたにちがいなかった。最初の一撃に手ごたえなしと覚ったのか、虹之助はまたオールを振りあげる。

「危ない、あなた! 先生! 先生!」

「こら、何をする!」

 由利先生も驚いて腰をあげたが、それより早く、礫《つぶて》のように躍りこんで来たものがある。鵜藤なのです。由美の兄の静馬の友達。跳びこんで来るより早く、虹之助のオールを取りあげ、パンパンパン虹之助の頬へ物凄い平手打ち。

「あら、あなた、何をなさいます!」

「鵜藤さん、止して、止して!」

「あ、あ、あ、あ、あ!」

 虹之助は舟底にひっくりかえると、物凄く手脚をふるわせながら、口から泡を吹きはじめる。この少年、癲癇《てんかん》の発作があるらしい。

 虹之助と由美と鵜藤青年。——由利先生は向こうから、興味ぶかくこのトリオを眺めているのでありました。

  三

 こういう事件があったものの、しかし、その夜の河渡御は、目出度く無事に終わりました。ひしめきあう舟が、めいめいわれがちにと、思い思いの方向に漕ぎ散ってしまうと、さきほどの賑わいにひきかえて、これはまた、物凄いほど静かな河の上。

 気がつくと、今宵は陰暦十三日。

 空にはまんまるい月が出て、ひろい河のうえは漫々と水を湛《たた》えてふくれあがっている。ギイギイと艫べそのきしる音もわびしく、俄かに河風が身にしむ心地。

 ホテルへかえりつくまで、綾子はぐったり疲れたように、ひとことも口を利かない。由利先生も黙々として腕組みをしています。

 虹之助のみは、まださきほどの亢奮《こうふん》がおさまらないのか、おりおり身顫いをしながら、敵を警戒するように、見えぬ眼できょろきょろあたりを見廻している。

 その様子が尋常とは思えない。

 ホテルへかえると、綾子はぐったりと大きな椅子にからだを埋め、しばらく口を利くのも大儀そうだったが、やがて艶のない声でこんなことを申しました。

「先生、先生のお訊ねになりたいことは、あたしにもちゃんと分かっていますわ。甲野さんのことあたしがどの程度に知っているか、それを先生はお訊ねになりたいのでしょう」

 綾子は椅子から乗り出すと、

「ところがあたし、あの人のことはちっとも知らないのですよ。あたしはあの人の従兄にあたる人を知ってるだけのことなんです。その人から、おりおり甲野さんのことをきいたことございますけれど、別に興味を持ってたわけじゃありませんから、いつもうわの空で聴き流してしまって……、あ、ちょっと待って……」

 由利先生がポケットから葉巻きを取り出すのを見ると、何を思ったのか綾子はいきなり、その葉巻きをひったくってしまいました。

「御免あそばせ、いま葉巻きを吸っちゃいけませんの。そのわけはすぐ後でお話いたします。ねえ、先生、未亡人だって異性の友人を持っちゃいけないということはないでしょう」

 この女はときどきこんなふうに、とんでもない飛躍的な口の利き方をするので、由利先生も面喰う。さぐるように相手の顔を見ながら、

「それはどういう意味かよくわからないが、あなたのような婦人には、私はむしろ結婚をおすすめしたいぐらいですな」

「有難う。御忠告にしたがってあたし近いうちに結婚するかも知れませんのよ。ええ、恋人があるんです。先生、おかしくって?」

 綾子は謎のような微笑をうかべたが、すぐ固い、生真面目《きまじめ》な表情にかえると、

「そしてその恋人というのが、甲野さんの従兄ですの、ねえ、こういえば、あたしがさっきの事件をどんなに驚いているかおわかりになって下さるでしょう。この人が、なぜ甲野さんにあんなことをしたのか、……この人は相手を甲野さんと知っていたのか、……不思議ですわねえ。こんなに眼も見えなければ、耳もきこえず、口も利けない人が、だしぬけにあんな感情の激発を示すなんて……」

「甲野はたしかにこの少年を知っているんですよ。あなたがあの女を呼びかけた。するとふりかえった。その時にはあの女の表情に、別に何んのかわったこともなかった。ところがあなたが大道寺綾子と名乗ったでしょう。あの女の表情に恐怖のいろがうかんだのは、その瞬間でしたよ」

「しかし、なぜ、あたしの名前があの人に、そんな恐ろしい印象をあたえるのでしょう」

「それはあの女が新聞を読んでいたからです。大道寺綾子という物好きな未亡人が……この名前は従兄からきいてよく知っていたにちがいない。その大道寺綾子という人が、盲聾唖虹之助をひきとったということを、甲野は新聞で読んでいたにちがいない。だからあなたの名前をきいた瞬間、虹之助がそこにいることに気がついたのです。あの女は一生懸命、虹之助のほうを見まいとしていましたが、その不自然さが、そばから見ていてもよくわかった」

 綾子は椅子からゆっくりと立ち上がった。

 そしてのろのろと化粧台のほうへ足を運びながら、

「ええ、そのことはあたしも気がついていました。いいえ、その時はわからなかったのですが、後になってああいう事件が起こったので、すぐ思い当たったのです。あの鵜藤という男だって、この人をひどい目に遭わせたあの男だって、この人を知っているんです。この人を知っていて、……そして憎んでいるんです。それはあの顔色でよく分かります。しかし問題は、この人がどうして甲野さんを嗅ぎつけたか、ああ、ほんとうにこの人は甲野さんを嗅ぎつけたのよ。ねえ、先生もおぼえていらっしゃるでしょう。あの事件が起こるまえ、この人が犬のようにヒクヒク小鼻を動かし、そこらを嗅ぎまわっていたのを、……あたし、盲聾唖というものは、外の世界からまったく締め出されているものとばかり思っていたが、そうではなかったのですわねえ。嗅覚というものが、あったんですわねえ」

 綾子は化粧台のなかをさぐりながら、

「ほかの感覚が不自由なだけに、嗅覚だけが異常に鋭くなっているにちがいないのです。そして、何かの匂いが甲野さんを嗅ぎわけさせたのです。それが何んの匂いだったか、あたしここで実験したいと思っていますの」

 由利先生ははじめてさっき、自分の葉巻きをひったくったこの女の真意がわかった。と、同時にこの女の頭脳のよさに舌を巻かずにはいられなかった。

 一見、暢気な、気まぐれな未亡人に見えるこの綾子という女性は、なかなかどうして、鋭いところを持った女なのである。

「さあ、ここに四種の香料があります。ローズに、ヘリオトロープにヴァイオレット、ほかにもう一種ありますが、これを順繰りにこの人に嗅がせてみますから、どの香料がどのような反応を呼び起こすか、先生もよくごらんになっていて下さい」

 綾子はまずローズの瓶を、虹之助の鼻さきに持っていく。それからヘリオトロープを、そして最後にヴァイオレットを。ところがこれらの匂いに対しては、ただヒクヒクと鼻を蠢《うごめ》かしたきり、なんの反応も示さなかった虹之助だのに、最後の瓶をつきつけられた刹那《せつな》、

「あ、あ、あ、あ、あ!」

 呂律《ろれつ》のまわらぬ奇妙な声で叫ぶかと見れば、まるで眼に見えぬ襲撃をまちかまえるように、わなわなと体をふるわせ、両手ではげしく虚空をひっかき、猫に追いつめられた鼠のように、椅子のおくへおくへと体をちぢめていたが、やがて恐怖の感情が絶頂に達したのか、突然、仰向けざまにひっくりかえると、手脚をはげしく痙攣《けいれん》させながら、口からブクブク、泡を吹きはじめて……

 綾子はふうっと由利先生と顔見合わせました。

「先生、やっぱりそうです。この人は丁字香《ちようじこう》の匂いに、ある特別の恐怖の思い出を持っているのですわ。そして……そして、あたしたしかにさっき甲野さんの体から、丁字香の匂いを嗅いだのですわ」

 綾子は疲れ果てたようにぐったりと椅子に腰を落とすと、やがて咽喉《のど》にひっかかったような笑いかたをしながら、

「先生、現代は何もかも西洋かぶれの時代なんですよ。香料だってそのとおりで、ローズだのヘリオトロープだの、みんな舶来の香水を使います。甲野さんは何んだって、丁字香みたいな古風な香料を使っているんでしょう」

「しかし、そういう奥さんだって、げんにそれを持っているじゃありませんか」

「ええ、だから不思議なんです。あたしがこの香料を持っているのは、あの人がこの匂いを好くからなんです。あの人……おわかりでしょう、甲野さんの従兄で、あたしが……あたしが結婚したいと思っている人……ああ、済みません、もうお吸いになっても構いません」

 由利先生は葉巻きに火をつけると、この人としては珍しく、同情のない冷たい眼付きで、椅子のうえでのたくっている美少年虹之助の姿を見守っている。

 虹之助はしばらく、体を弓のように反らせ、手脚をふるわせていましたが、しだいにそれがおさまると、やがてけろりとしたように起き直り、椅子に腰をおろしたまま、また蝋人形のように美しい無表情にかえりました。

 由利先生はじっとその顔色を眺めていたが、

「よろしい、私もひとつ実験してみよう」

 虹之助をデスクのまえにつれて来ると、その前に紙をあてがい、鉛筆を握らせ、

「この年になるまで、何も発表する意志がないとは、私にはどうしても信じられない。何かあるにちがいない。何か……」

 そういう由利先生の言葉も終わらぬうちに、しばらく紙のうえを撫でていた虹之助の手が何か活溌に動き出しました。

 綾子は恐怖に似た眼つきで、由利先生と虹之助を見くらべている。

 ああ、かれは何か書こうとしている。

 この盲聾唖がなにか己れの意志を発表しようとしている。

 こんなことが信じられるだろうか。だがそれは真実なのです。

 鉛筆を握った虹之助の手が何か紙に書いているのです。

 由利先生と綾子は、いきをつめて、華奢《きやしや》なその指先をみつめている。

 それはたどたどしい筆蹟でした。線が二重になったり、くっつかなかったり、よほど同情をもって見なければ、判断に苦しむような鉛筆の跡だったが、しかし、それはたしかに絵になっている。しかも、ああなんということだ。

 それは美髯《びぜん》をたくわえた、男の顔ではありませんか。しかし、それにしてもこの盲聾唖が、どうして人の顔など知っているでしょうか。

 虹之助は顔をかきあげると、しばらくじっと小首をかしげていたが、やがて、その頭に書きそえたのは二本の角。

 二人はいよいよ驚いた。

「奥さん、この男はもう一度名医にみてもらう必要がありますね。この男は鬼の絵を知っている。ということは、少なくとも過去において、そういう絵を見たことがあることを証拠立てているんです。この男ははじめからの盲目ではない。そして、いまこの男がわれわれにつたえようという意味は、美髯をたくわえたこの紳士こそ、鬼のように恐ろしい人物だというに違いありません」

 虹之助は二本の角を書きそえてからも、まだ鉛筆をはなさないで、じっと小首をかしげていたが、やがて思い出したように、顔のある一点にぽっつりと打ったのは、ピリオッドほどの黒い点。

 由利先生と綾子は、また顔を見合わせました。

「先生」

 綾子は息切れのするような声で、

「これはどういう意味なのでしょう。この点は……これは何を意味するのでしょう」

 由利先生ははげしく葉巻きの煙を吐きながら、

「奥さん、これでいよいよこの男が、かつて眼が見えたということがわかりますよ。かれはまえにこの絵の当人をその眼で見たことがあるのです、そして、その男の顔のどこかに、ほくろがあることを憶えているんです」

 先生はその言葉をとくべつ威嚇するようにいったわけではありません。それにも拘らず、その瞬間、綾子の顔色からはみるみる血の気がひいていったのでありました。

[#小見出し]  第二篇

[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]

 ほくろのある紳士——失踪した美少女——足なえ老女と三重苦少年——羽子板殺人事件のこと

[#ここで字下げ終わり]

  一

「先生、こんどはいろいろお世話になりましたが、それではいよいよお別れですわねえ」

 ひととおり身支度をおわった綾子が、一種の感慨をこめてこういったのは、列車が茅ヶ崎を過ぎてから間もなくのこと。

 汽車のなかは、いま、旅路のおわりらしく、荷物をまとめる人、朝化粧をする人、食堂へ往復する人、そういう人たちの楽しい忙しさで、ひとしきりざわめいて、綾子もかるい昂奮のためか、眠りたらぬ瞼《まぶた》のふちを、ほんのりと染めているのでした。

「なに、お礼をいわれるほどのこともない、それに、いまお別れしても、すぐまた会えますよ。東京のほうの用意がかたづいたら、いちどお伺いしたいと思いますがよござんすか」

 ゆったりと窓際に肘《ひじ》をおいた由利先生、いつに変わらぬおだやかな調子なのです。快い朝風に、かるく靡《なび》いている白髪が美しい。

「ええ、是非。お待ちしております。いちどなどとおっしゃらないで、これを御縁にちょくちょくいらして下さいな。あたしひとりぼっちでほんとうに淋しいのですから、是非ね、お約束しますわ」

「そういう事になるかも知れない。しかし、あなたのような美しい方のお相手が、わしみたいな無骨者につとまるかな」

「あら、あんなことをおっしゃる。よござんす。そうおっしゃる先生こそ、お目あてはあたしじゃなくて、あの人、——あの虹之助さんにおありのくせに」

「はははははは。ほんとうのことを言っちゃいけない。しかし、奴さんどうでした。昨夜はよく眠ったようでしたか」

「さあ、何んですか、夜中にひどくうなされていたようですけれど。きっと怖い夢を見たのですわね」

 綾子はかるく眉をひそめました。盲聾唖の少年が夢を見る。——それだけでもなんとなく、薄気味悪いではないか。

 天神祭りを見物して、すぐその翌日、綾子は大阪をたつつもりだった。

 ところが、あの晩から虹之助が高い熱を出して、そのためにまた一週間も出発がおくれて、今日はもう八月二日。

 見なれた沿道の風景も、綾子にはなにか珍しいもののように思えるが、それも無理ではありません。気楽な未亡人の一人旅、彼女はうかうかと三月ちかくも、旅から旅へと過して来たのです。ああ、とうとう帰って来たのだと心が落ち着くにつれて、夢のような気がするのは今度の事件、思いきった自分の行動、何んだか取りかえしのつかぬことをしたような気もするのである。

「どうかしたんですか。いやにぼんやりしているじゃありませんか」

 由利先生に注意されて、綾子ははっとしたように、

「あら、なんでもありませんのよ。少し疲れたんですわね。ああ、もうすぐ大船ね。いまのうちにあの人を連れて来ておきましょう」

 鎌倉へかえる彼女は、そこで汽車が乗りかえだった。

 綾子がそわそわしながら寝台車から、虹之助をつれて来ると間もなく、列車は轟々たる音を立てて、大船のプラットフォームへ滑りこみました。

「誰か迎えに来ることになっているんですか。何んならついでに、鎌倉まで送ってあげてもいいのだが、何しろそういうお荷物があっちゃ大変だ」

「あら、いいんですのよ。電報を打っておきましたから、誰か迎えに来てくれてると思うんですの」

 綾子は窓から首を出して、プラットフォームをさがしていたが、

「…………!」

 かすかに声のない叫びをあげると、はっと由利先生のほうへ眼をやりましたが、すぐまたその眼をそらしてしまいました。

「どうかしましたか、誰かいるんですか」

「ええ、ちょっと懇意なかたが……」

 由利先生はいぶかしそうな眼で、そういう綾子の顔を見る。綾子の動揺した様子に、どこか尋常でないものがあったから。

 と、その時、

「やあ、とうとう帰って来たな」

 と、手をふりながら列車のなかへ、ずかずかと踏みこんで来た男がある。さては、綾子が狼狽《ろうばい》したのは、この男のためであったのか、それにしても、この男は綾子のいったい何んであろうと、由利先生はそれとなく、横眼で相手の顔を見る。

 その男、年は三十五、六でしょう。

 背の高い、色の浅黒い、眼も鼻も口も大きい、まことに堂々たる風采の人物で、鼻下に美しい髭をたくわえている、がっしりとした逞ましい肉体、聡明そうな眼付きに反して、口もとの動物的な感じが、奇妙な対照をなしている。

 態度にもどこか船乗りのように粗野なところがあって、それがまた妙にひとなつこい魅力を持っている。

 なるほどこれは、綾子のような女に好かれそうな男だと、由利先生は思わず微笑しましたが、つぎの瞬間、はっと眼を欹《そばだ》てました。

 と、同時に綾子の狼狽の意味がはっきりわかったのです。

 その男の唇の右下には、まぎれもなく大きなほくろがある!

「よう、志賀さん」

 綾子は動揺のいろをおおうべくもなく、

「あなたどうしてここへいらっしゃったの。誰かうちの者が迎えに来ているのに、お会いじゃなくって?」

「はっはっは! 僕が迎えに来たんじゃないか。さっき君んとこへ寄ったら電報が来ていたんでね。小母さんに頼まれて代わりに来てやったんだ」

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