「まあ、叔母さんたら!」
「いいんだよ、荷物は?」
「荷物はみんなチッキ。でこの人が……」
志賀という男は虹之助のほうを見ると、太い眉をひそめて、
「ああ、これか、小母さんのいっていた……」
「ええ、叔母さん、何かいってらして?」
「綾子の物好きにも困るって、だいぶ不服らしかった。だがまあいい、とにかく降りよう」
「あの、ちょっと待って頂戴、紹介します。こちら由利先生。旅先でいろいろお世話になりました。先生、お友達の志賀恭三さん」
「ああ、そう」
由利先生と志賀恭三は、かるい目礼を交わしたが、後から思えば、これぞ間もなく、二人のあいだに演じられた、あの世にも凄まじい心理的争闘の、最初の挨拶でありました。
ところが三人が出ていくのと入れ違いに、ずかずかとこの車へ入って来ると、無言のまま、由利先生の隣へどっかと腰をおろした男がある。
二
「綾子さん、君の物好きなのにも困るね」
「この人のこと?」
そこは横須賀行きの電車のなかで、虹之助は依然として、盲いた眼をみはっている。
「そうさ。小母さんも大分こぼしていたぜ。僕も話をきいて呆れちまった。いったい、そんな子供を引きとっていったいどうするつもりなんだ。ごたごたのもとだぜ」
「志賀さん、そんなにいわないでよ。いまさらそんなことをいったって仕様がないじゃありませんか?」
「ふふん、君も後悔しているな。だから止しゃよかったんだ。君の物好きにも困ったもんだ。ははははは、だが、まあ、いいや。今更いったって仕方がない。それより君、疲れたろう」
男の機嫌のなおった様子に、綾子はほっとしたように、
「それより志賀さん、あなたどうして今日鎌倉へいらしたの?」
と、甘えるようなくちぶりなのです。
「ああ、君はまだ知らなかったんだね、僕はちかごろ鎌倉に住んでいるんだぜ」
「あら、いつから?」
「二、三日まえから」
「お一人で?」
「いいや、実はね、従兄弟の甲野がこんど鎌倉へ引っ越して来たんでね。例によって僕は食客さ」
「甲野さんが鎌倉へ? それいつのこと?」
「だから二、三日前さ、急に鎌倉に家を見付けてね。引っ越すことになったのさ。だから家の中はまだ、めちゃめちゃなんだよ」
綾子はなんとなく心が騒ぐ風情で、きっと唇をかみしめた。
天神祭りの河渡御で、ああいう騒ぎのあったのは、ちょうどいまから一週間まえ、そしてそれからすぐに甲野一家が、この鎌倉へ越して来るというのは、そこに何か深い意味があるのではないか。綾子はまるで、網を張って待ちうけられているような、いやあな気持ちになりました。
「甲野さんといえば、大阪でたいへん失礼なことをしてしまって……」
「ああ、この子供のことかい?」
「甲野さん、その話していらして?」
「うん、きいたよ。君の噂が出たとき、由美がその話をしてね、あの時はびっくりしたと言っていた」
事もなげに言ってのける志賀の顔色を、綾子は探るように読もうとしたが、そこには何んの感情も現われていなかった。
「あの時は、ほんとにすまないことをしましたわ。何しろあまりだしぬけで、止めるひまがなかったものですから」
「この子、ときどきあんな兇暴性を発揮するのかい」
「いいえ、そんな事はないわ。あんな事、あとにもさきにも、あの時きりよ。だからあたしも不思議でならないのよ。甲野さん、この子を知っていらっしゃるんじゃないかしら」
「由美が……? まさか。……君はときどき妙なことを考えるね。しかし、その事があったせいか、あの子はとても好奇心を抱いているんだね。君がかえって来たらお友達になって、ぜひこいつに紹介して貰うんだなんて言ってたよ。ははははは、女という奴はどいつもこいつも妙な動物だぜ。ははははは、ほい、失敬……」
事もなげに笑ってのける志賀の様子を、そのままに受け取ってよいのかどうか、綾子はいよいよ思い迷うのである。この間、虹之助のかいた鬼の顔、その顔、その顔に打ったピリオッド、世間にはほくろのある人間なんて、いくらでもあると打ち消しながらも、綾子はやはり男の顔を見直さずにはいられないのでありました。
話かわって、こちらは東京へ向かう列車のなか。
「三津木君、見たかね。いまのがそうだよ」
「なるほど美少年ですね。美少年だけにかえって気味が悪い。それにしても盲聾唖とは、実に珍しいですね」
それはさっき大船から乗りこんで来た人物であります。
もし諸君がいままでに、由利先生の探偵談をお読みになったことがあれば、きっと御存じにちがいありません。
新日報社の花形記者三津木俊助、それは先生になくてかなわぬ協力者、すなわち片腕なのであります。
「私にはどうも今度のことが、このままですむとは思えない。あの少年を取りまいて、何か起こる。何か恐ろしい、世にも気味悪いことが起こりそうな気がしてならないのだ。だから、君にここまで来てもらって、あの少年や大道寺綾子をよく見ておいて貰いたかったのだよ」
水平線にうかんだ一点の黒雲が、雨となるか風となるか、それを見わけるのは、熟練した水夫だけがよくなし得るところであります。
由利先生は、いまや過去一ヵ月あまりの出来事から、世にも恐ろしい犯罪の予感をかいでいるのだ。しかもそれは、いままでかつて経験したこともないような、気味悪さ、物凄さ、邪悪さをもって、由利先生をおびやかしている。
「ところで、このあいだ手紙で頼んでおいたことだが調べておいてくれたろうね」
「ええ、調べておきました。いまここでお話しましょうか」
「ふむ、東京へ着くまでに聴かせて貰おうかね」
「承知しました。では、まず第一に大道寺綾子ですがね」
俊助は膝のうえに手帳をひらくと、
「大道寺綾子はもと没落華族の娘ですが、女学生時分から美貌と才気で有名なものだったそうです。親爺は小藩の藩主の末で、男爵だったといいます。女学校は虎の門ですが、学校はじまって以来の才媛《さいえん》と謳《うた》われていたそうです。それが学校を出て二年目かに、N汽船会社の重役大道寺慎吾に見染められて結婚したのですね。当時大道寺慎吾は四十五、綾子は二十一だったそうです。むろん、この結婚には多分に政略的なところがあって、綾子はその結婚によって生家の没落を救おうとしたのですね、しかし、そういう結婚にしては、そしてひどく年齢のちがった夫婦としては、わりに円満にいっていたらしく、綾子は完全によき妻になり切っていたという事です。慎吾は三年まえに死にました。病気は脳溢血だったといいます。夫婦には子供がなかったが、その代わり慎吾のほうに近い親戚もなかったので、遺産は全部綾子のものとなり、したがって彼女は大金持ちで、いわばメリー・ウイドウというわけですね。鎌倉の中御門に立派な邸宅を持っています。そのうちには、綾子の母方の叔母にあたる君江という、これも早くから良人を失った中老の婦人がいて、これが家事一切をきりもりしているんです。ところで綾子ですが、彼女にはちかごろ新しい恋人が出来て、ちかくその男と結婚するだろうという噂があります。相手の男は志賀恭三といって……」
「いまの男だよ」
「ああ、そうですか。僕もそうだろうと思いました。ところで、この恭三ですが、これは甲野一家のところでお話したほうが便利です。では、甲野家のことを話しましょうか」
「うん、話してくれたまえ」
由利先生は汽車の動揺に身をまかせながら、瞼を半眼に閉じたままきいている。
「甲野というのは瀬戸内海の小豆島にある、醤油《しようゆ》醸造元として名高い家なんだそうです。大阪の支社に電話をかけて調査してもらったところによると、資産百万はあろうといわれ、多額納税者になっています。ところが極く最近、醸造事業の全部を親戚のものに譲って東京へ出て来たんです。それにはこういうわけがあります」
俊助は手帳を調べながら、
「甲野家の主人は四方太といって、今年六十三だったそうですが、それが去る五月に急逝《きゆうせい》したんです。原因は心臓麻痺だったそうです。ところでこの四方太が亡くなると、後に残るのは梨枝子という細君、これは今年四十五、六らしい」
「ちょっと待ってくれたまえ。死んだ四方太が六十三で細君が四十五、六とすると、相当年齢のちがった夫婦だね」
「そうです。それでいてどちらも再婚じゃない。つまり四方太老人の結婚がおそかったのですね。さて、夫婦には二人の子供がある。兄を静馬といって今年二十八、洋画家で春陽会の会員です。妹は由美といって、これは御承知のちかごろ売り出しの歌手です。子供はこの二人きりなんですが、こういうふうに二人ともそれぞれの道に精進しているんですから、家業なんか継げそうにない。二人はもう数年まえから東京の西荻窪に家を持って、小豆島の生家からはまったく独立した生活をしていました。もっともこの家は四方太老人が建てたので、老人がおりおり上京する際の宿にしていたものです。その家で兄妹は婆やかなんかおいてそれぞれ勉強していたのですが、親爺もこの二人のうちの一人に家業をつがせることは、早くから諦めていたようで、自分が死んだら、家業を譲ってしまうように、ちゃんと手筈をしてあったそうです。さて、その四方太老人が死んだものですから、小豆島の家には梨枝子夫人が一人で残されることになった。この梨枝子というのが、中風か神経痛かなんかで、足が立たないのです。で、そういう不自由なものを一人でおいとくわけにはいかないというので、四方太老人の葬式がすむと間もなく、兄妹が東京へつれて来たんです。それが六月頃のことだそうです」
「ふうむ。しかしそれは妙だね。なんぼなんでも、主人が死んで一年も経たないうちに、あとのまつりもしないで東京へ出てしまうというのは。——小豆島の家はどうしているんだね」
「それは閉めて来ているんです。僕もおかしいと思うんですよ。われわれみたいな書生とちがって、それだけの家であってみれば、いろいろ親戚などもうるさいでしょうし、田舎というものは、ことにそんな事はむつかしい筈ですがね。そういう習慣を無視して、一家全部が東京へ出て来たというのは、そこに何かあったにちがいないと思うんです」
「ふむ、それでいま西荻窪に、住んでいるんだね」
「いや、ところが二、三日まえに急に、鎌倉へ引っ越したんですよ」
由利先生はそれをきくと、大きく眼を瞠《みは》りました。
「鎌倉へ——? そんなに急に——?」
その時、由利先生のあたまにさっと浮かんだのは、さっき綾子の感じた疑惑と、まったく同じであったようです。
「ふむ、すると今鎌倉に、梨枝子夫人と静馬、由美の兄妹と、この三人で住んでいるんだね」
「いえ、そのほかに鵜藤五郎といって、同郷の者だそうですが、やっぱり画家の卵です。これが友人とも書生ともつかぬ恰好で同居しています。そのほかに例の志賀恭三が食客格で一緒にいます」
「よし、それではいよいよ志賀のことについて聞こう」
「この志賀恭三というのは、四方太老人の腹違いの妹の子供ですが、幼いときに両親に死別したので、ずっと四方太老人に育てられて来たのですね。学校は帝大の法科を出ているんですが、何んといっていいか、一種のアドヴェンチュアラーですね」
「アドヴェンチュアラー?」
「え、そうなんです。これといって職業はなく、始終《しじゆう》大陸だの、南方だのを駈けずりまわっている男で、一年のうちの三分の二は日本にいないというような男です。そして日本にいる間は、甲野の家に寄食しており、経済的にも大分迷惑をかけているようですが、それでいて死んだ四方太老人にも夫人の梨枝子にも、また静馬と由美の兄妹にも、ひどく人望があるらしい。つまりパーソナリティを持っているというんでしょうね」
「大道寺綾子とはどうして識り合いになったんだろう」
「さあ、そこまでは調査がいきませんでしたが、とにかく綾子の熱心さは非常なものだそうです。志賀のほうでも憎からず思っているらしいという話です。ところが志賀についてはちょっと妙なことがあるんですよ」
「妙なことというと?」
「この志賀には妹が一人あるんですがね。名前を琴絵といって、今年十七か十八になる筈なんですがこれがちかごろ行《ゆ》く方《え》がわからない」
「行く方がわからない? いつ頃から……?」
「四方太が亡くなってから間もなくのことだといいますから、六月頃のことなんでしょう」
「いったい、どういういきさつがあって失踪したんだね」
「それはこうです。この琴絵という娘は小豆島の甲野の家で育てられたんですがね。兄の恭三はいつも旅行勝ちですから、伯父伯母の手許で大きくなったんです。ところが四方太が亡くなると間もなく兄の恭三がやって来て、東京へ連れていくといって、小豆島を出ているんです。ところが恭三が東京へつれて来るとすれば、西荻窪の甲野の家よりほかにない筈なんですが、その家へ若い娘が来た形跡はないのです。どこかほかの家に預けているのかも知れませんが、甲野をさしおいて、若い娘を預けるような深い識り合いはなさそうだし、たとえあったとしても、一応甲野へ預けるのがほんとうだろうと思うんですが……」
由利先生は聞いているうちに、しだいに興味を催して来たらしく、
「その琴絵という娘が小豆島からいなくなったのは、六月頃のことなんだね」
「そうです、そうです」
「三津木君、その娘はまさか盲聾唖じゃあるまいね」
俊助は一瞬ポカンとしていたが、急に大声をあげて笑い出した。
「先生、それはちがいますよ。まさか、虹之助という少年が、琴絵であるわけがありませんよ。それならそれと報告がある筈ですからね。琴絵というのは人一倍|怜悧《れいり》な美人だったということですよ」
由利先生はううんと唸り声をあげると、がっかりしたように頭をうしろへもたせたが、すぐまた、
「三津木君、どちらにしても琴絵というのを探してみなきゃいけないね。四方太という老人が五月に亡くなって、六月に琴絵が小豆島から失踪している。そしてわれわれがあの虹之助を発見したのは六月十二日のこと、しかも場所は小豆島のすぐ近く、阿波の鳴門の近辺……。三津木君、この三つの事実のあいだには、きっと関連したものがあるに違いないよ。これらの事実の背後には何かしら恐ろしい秘密が、かくれているにちがいないよ」
そこで由利先生はぶるっと身顫いすると、
「三津木君、僕は恐れているんだよ。あの不幸な三重苦少年をめぐって、いまに何か起こる。何かよくないことが起こる。僕はその匂いを嗅ぐことが出来るんだ。世にも陰惨な、世にも血腥《ちなまぐさ》い匂いを。僕はそれを考えると、こうして白日のもとにいても、身顫いが出るほど恐ろしい」
由利先生は真実その匂いを嗅ぐかのように、ひくひくと小鼻を動かしたが、果たせる哉《かな》、先生の予言は的中したのだ。
それから二週間後の八月十五日、ちょうど東京の旧盆の晩に、由利先生のもとへ一通の電報が舞いこんで来たのだが、その電文というのは、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ジ ケンオコルスグ オイデ ヲコウ」アヤコ
[#ここで字下げ終わり]
三
だが、その事件というのへ入るまえに、筆者はその後の綾子の動静からお話していかねばならないだろう。
綾子が鎌倉の中御門へかえって来たのは、まえにもいったとおり八月二日のことでしたが、それから三日も経たないうちに、彼女は甲野一家の人たちとすっかり心易くなっていました。
かえって来た翌日、転宅早々でさぞ御不自由でしょうと、綾子が魚の籠をさげていったのがはじまりで、ここに両家の交際がはじまったのです。
甲野家でも梨枝子夫人はべつとして、あとは気のおけない若いものばかり、こっちも寡婦とはいいじょう、まだうらわかい年頃なのですから、話が合って、すぐに打ち解けてしまいました。少なくとも表面だけは。——
「いつぞやは失礼致しました。ほんとにあの時はびっくりなすったでしょう」
初めて訪問していったとき、綾子が最後にこう切り出すと、由美はしかしあらかじめ、この言葉を覚悟していたものか、さのみ顔色も動かさず、
「ええ、ほんとうにびっくりしましたわ、だってあまりだしぬけですもの。あの方いまでもお姉さまのところにいらっしゃるんですってね」
「ええ、とうとう一緒に連れて来ましたよ」
「これから先、ずっとお世話をなさいますの」
「そうしたいと思っています。あれでもし、自分の思っていることを、他人に伝えることが出来るようになったら、どんな面白い秘密がきけるかと思うと、それが楽しみなんですよ」
綾子がその日訪問したのはなんとかして、由美の心中をのぞいてやりたいという下心があった事はいうまでもありません。
由美のほうでもそれを知っているから軽々に、内心の動揺を顔に見せまいと努力しているふうですが、それにもかかわらず、綾子のいまの一言は、はっと彼女の心を打ったらしく、思わず顔色をくもらせながら、
「まあ、……でも、……でも、そんな事出来るでしょうか。耳も聴こえず、眼も見えず、口も利けないというような人に、思うことを発表させるなんて……」
「出来ない事はないと思いますわ。ヘレン・ケラーさんだって、やっぱり同じ盲聾唖なんですがああして立派な学者になっているでしょう。だから気長に教育していけば、いつかそういう時節が来るのじゃないかと思いますの」
由美はまた顔色をくもらせました。
「あたし何もあの人にえらい学者になって貰おうというのじゃありませんのよ。ただ、少しでも思うことが話せるようになったら……そして秘密のかけらでも拾うことが出来るようになったらと、そればかりを楽しみにしておりますのよ」
女というものは何んという残酷な趣味を持っているのでしょう。由美の顔色が悪くなればなるほど、綾子はますます調子に乗って、いかにも楽しげにそんな事をいうのでありました。
その日を最初として綾子はときどき甲野を訪問するようになりました。
しかしさすがに慎んで、その後はあまり虹之助のことに触れないようにしている。しかし注意ぶかい綾子の眼には、この一家に何か暗い秘密があるように映ってならない。足萎《あしな》えの梨枝子夫人は申すに及ばず、若い静馬や由美さては同居している鵜藤という青年まで、いつも何か重い屈託に押しつぶされているようだ。
しかもそういう暗い空気は、綾子の訪問が度重なれば重なるほど、重苦しくなっていくように見えるのです。ただ、そこに恭三がいればだいぶ違ったものになります。
かれの重厚な、明るい、そして元気な笑い声が加わると、甲野家の人々も愁眉《しゆうび》をひらいたように、いくらか朗かになるのでした。綾子はそれを、何んとなく嫉ましいもののように思うのだが、しかし恭三がこの家にいることは極くまれで、相変わらずかれは、東京横浜と、忙しく毎日のように出向いている。
こうして二週間はなんのこともなく過ぎ、そして前にもいったように八月十五日の晩にいたって、ここにはしなくも恐ろしい事件が持ちあがったのだが、それはこういうきっかけからでありました。
「お姉さまのお家にいらっしゃる方ね。ほら虹之助さんとおっしゃる方……」
ある日、浜辺であったとき、珍しく由美のほうからそんなふうに切り出したのです。
「ええ? ええ、あの人がどうかしまして?」
「母がね、とてもその方のことを心配しているんですのよ。そういう不自由な身になってみればどんなだろうと、この間も涙をうかべて同情しているんですの」
「お母さまといえば、その後いかが?」
「相変わらずよ。あの足はもう二度と立たないでしょう」
「もとからあんなでしたの?」
「ええ、だいぶまえから悪かったことは悪かったんですけれど、あんなにひどくなったのは、父が亡くなってからのことですの。多分そのショックでいっそう悪くなったのね。自分がそうして不自由なからだだもんですから、いっそその方に同情が持てるのね。それで——」
と、由美はいくらか言いにくそうに、
「一度その方にお眼にかかってみたいと、そんなことをいうんですのよ」
「あら、それはお易い御用よ、じゃ、一度あの人を連れてお伺いするわ」
綾子がその約束を果たしたのが、八月十五日の晩のこと。
綾子はそのときなんの前ぶれもなく、虹之助の手をひいて、勝手知った甲野家の裏木戸からはいっていったが、見ると離れ座敷の縁側に唯一人、坐椅子に倚《よ》りかかっているのは梨枝子夫人、何やら手細工をしているのが、簾越《すだれご》しに見えました。縁側には岐阜《ぎふ》提灯に灯が入って、風鈴の音チロチロ、蚊遣り火の煙も涼しげだった。
二人の足音をきいて、梨枝子夫人はふと顔をあげ、いぶかしそうな眼で、二人の姿を見やったが、とたんにさあーっと真っ蒼になり、唇がわなわなとはげしくふるえました。
「小母さま、今晩は、御精が出ますこと」
綾子はじっと相手の顔色を読みながら、それでも言葉だけはさりげない調子。
「はあ、あの、いえ、ほんの手慰みで……」
静馬によく似た、陰気な顔に、梨枝子夫人は慥《こしら》えたような微笑をうかべる。
「大道寺さん、その方が、あの——?」
「ええ、そうですの。小母さまがいちど会って見たいとおっしゃってたと、由美さんのお話でしたから、今夜連れて参りましたの。あら小母さん、器用なことが出来ますのねえ」
梨枝子夫人の膝もとに散らかっている、色とりどりの小裂《こぎ》れと、一枚の羽子板に眼をとめると、綾子は感心したように、
「その押し絵、小母さんがなさいましたの」
「ええ、退屈なもんですから、こんなものをいじくっていたんですけれど、どうせ上手に出来やしないんですのよ」
梨枝子夫人は羽子板のうえに押しておいた押し絵を両手でかくすようにおさえたが、その声は異様なふるえをおびている。
「小母さん、みなさん、お留守?」
「はあ、あいにくみんな浜のほうへ出かけてしまいました。今夜は何か、浜で余興があるとか申しまして。あの、こんなものでもおつまみになりませんか」
梨枝子夫人がすすめたのは、ガラス鉢に盛ったチョコレート。
「あら、いえ、結構ですわ」
「でも、こちらの方は……」
「さあ、こんなもの、食べたことないでしょう」
綾子はふと夫人の眼にうかんでいる涙に眼をとめました。しかも夫人は怯えたように出来るだけ、虹之助のほうを見まいとつとめている。綾子は気味が悪くなって来たのか、
「小母さん、あたし由美さんを探して来ますから、そのあいだ、この人を預かっていただいてもいいかしら」
「ええ?」
「この人、こんな調子ですから、ちっとも心配なことはありませんのよ」
梨枝子夫人の小鬢《こびん》がブルブルふるえているのを、綾子は見て見ぬふりをしながら、虹之助の手をとって、縁側に腰をおろさせる。白い浴衣の虹之助が、夕顔のようにほの白く暗闇のなかにうかびあがって、蚊遣りの煙が静かに肩にからみつく。
「それじゃ、小母さま、お願いしましてよ」
「はあ、でも……」
夫人の言葉を聴き流して、綾子はそのまま浜辺へ出ていった。
ああ、その時、あとであのような恐ろしいことが起こると知ったら、決して二人を置きざりにしなかったのに……とその後綾子は由利先生にいくども繰り返したが……
浜辺の雑踏のなかを、さんざん探しまわった揚げ句、綾子がやっと由美を探しあてたのは、それから半時間も経ってからのこと。
「あら、由美さん、あなたお一人なの? ほかの人はどうなすって?」
「あら、お姉さま。みんなとはぐれちまったのよ」
綾子はすぐに、虹之助を待たせてあることを話したが、その時の由美の表情を、彼女はずっと後にいたるまで、忘れることが出来なかった。
由美は一瞬、紙のように真っ白になって、石みたいにそこに立ちすくんだが、つぎの瞬間、物もいわずに駆け出したのです。
「あら、由美さん、どうかなすって?」
綾子もあわてて後を追う。由美は綾子に返事もしない。ひた走りに走って、ようやく家の近所まで来たとき、二人がばったり出会ったのは、駅からかえって来た志賀恭三。
「やあ、由美、どうしたんだい。顔色かえて……、おや、綾さんも一緒だね。何かあったのかい」
「ああ、兄さん、あなたも来て頂戴」
「あら、ちょっと!」
ふいに綾子が叫びました。その声があまり異様だったので、由美も恭三も思わずどきりとして、
「綾さん、どうしたんだね」
「いま、お宅の裏木戸から、誰か出ていったようですけれど」
由美と恭三は、びくっとしたように向こうを見る。お屋敷町の杉垣がずうっと続いている半丁ほど向こうに、松の枝ののぞいているのが甲野家の裏木戸だが、木戸の柱に、裸電気がついていて、そこだけボーッとあたりの闇を破っている。しかし、二人がふりかえったとき、そこには誰の姿も見えなかった。
「どんな人だった?」
「さあ、ちらと見ただけだから、よくわからなかったけれど、黒っぽい洋服を着た、小柄の男で跛をひくようにして、大急ぎで向こうへ……」
恭三も由美も綾子がなぜそのように驚いているのか、なぜそのように声をふるわせているのかわからなかったが、しかし諸君は憶えていられる筈である。
いつか大阪のホテルで、由利先生と綾子の話を、立ち聴きしていた人物について、綾子の語った人相というのがやっぱりこれと同じではなかったか。黒っぽい洋服を着た小柄の男。——そしてそいつは跛《びつこ》をひいている。……
「ともかく行って見よう」
三人は足を早めて裏木戸からなかへ跳び込んだが、そのとたん、はっと一種異様な変事の匂いが、強くかれらの心を打ちました。
電気が消えてまっくらな離れ座敷に、ユラユラと懐中電燈の円光がうかんでいる。足音をきいてその円光が、パッとこちらを照らしました。
「ああ、由美、——恭さんも一緒だね」
それは静馬でした。それにしてもその声の、なんとうわずっていたことか。
「兄さん、どうしたの。何故、電気が消えているの」
「静馬君、何かあったのかい?」
「由美! 恭三さん、これを見て……」
静馬の持った懐中電燈が、闇中にくるりと弧を描いて照らし出した座敷の中央、そのとたん、三人とも思わずあっと立ちすくんでしまいました。
座敷のまんなかに坐り椅子がひっくり返って、梨枝子夫人が仰向けに倒れている。しかも、その眉間は、めちゃめちゃに乱打されたと見えて、いちめんに血が吹き出している。むろん、すでに事切れていることは、物凄まじい形相と土色をした唇からでもわかるのである。
「兄さん!」
「誰が——誰が、こんな事をしたのだ」
静馬は、だまって懐中電燈の光を、座敷の隅に向けましたが、そこには鵜藤青年が、真っ蒼に歪んだ顔で、誰かを膝の下に捩じふせている。
「ああ、虹之助さん!」
と、絶叫したのは綾子です。
盲聾唖の虹之助は、またあの発作を起こしたのである。畳のうえに体を反らせ、手脚をはげしくふるわせながら、口から物凄く泡をふいている。だが、綾子を驚かせたのは、ただそれだけのことではない。虹之助の右手に、しっかり握りしめているのは、まぎれもない、さっき梨枝子夫人の作っていた押し絵の羽子板! しかも、その柄がいまにも折れそうになり、押し絵の顔には、べっとりと血がついている。……
いきをのんで、シーンと立ちすくんだ一同の耳もとで、風が出たのか、軒の風鈴が俄かにチロチロ鳴り出しました。
[#小見出し] 第三編
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
由利先生乗り出す——ストリキニーネ——紛失したチョコレートの鉢——跛をひく怪人のこと
[#ここで字下げ終わり]
一
怪事件。——
まったく怪事件というもおろかである。
ギリギリと歯ぎしりをしたくなるような恐ろしさ、悪夢にうなされているような妖異な美しさ。まったくそれは、血にいろどられた一幅《いつぷく》の地獄絵巻き、妖しくも美しい無残絵なのです。
「虹之助さん!」
綾子は気ちがいのように虹之助のそばに駆け寄って、
「あなたが——あなたが——こんなことをしたの? 虹之助さん、あんたがこんな恐ろしいことをしたの?」
しかし、この哀れな盲聾唖の耳にそんな言葉が入ろう筈はない。それでも、綾子が肩を抱いてやると、触感や体臭から、ちかごろ自分を可愛がってくれる人とわかったのか、虹之助は小猫が主人に甘えるように、ぴったり綾子に摺り寄ると、
「あ、あ、あ、あ、あ!」
盲いた眼を必死と見張り、何やらわけのわからぬ身振りとともに、唖少年の濁った声で、
「あ、あ、あ、あ、あ!」
「いいのよ、いいのよ、何も怖いことないのよ。あたしが来たからもう大丈夫よ。さあ、これをお離し、ねえ、いい子だからこれを離すのよ」
盲聾唖の虹之助が、柄もくだけよと握っているのは、血に染まっている羽子板、しかも血に染まっているのは、羽子板ばかりではありません。今日、仕立ておろしたばかりの虹之助の浴衣にも、いちめんにべたべたと血糊がついて、身動きするたびに、畳のうえに赤い汚点を落としていく。
「志賀さん、志賀さん、早くこのことを知らせなければ。……そして、誰かお医者様を呼んで来て。……」
不思議なことに、この時、一番気がたしかだったのは綾子だったのです。
ほかの人たちは、まるで石にでもなったように、茫然として虹之助と梨枝子夫人の死体を見くらべてます。
静馬も五郎も死人のように色|蒼褪《あおざ》め、由美と来たらこれはもう完全に放心状態らしく、大きく視開かれた瞳は生気を失って、ガラスのように濁っている。
わけてもこの際不思議だったのは志賀恭三、日頃の沈着、物に動ぜぬ面魂はどうしたのか、これまた茫然と虹之助を見詰めていたが、仔細にその顔色を見れば、そこに何んとも名状することの出来ぬ、冷たい、恐ろしいものがあったことに気付いた筈です。
一同は綾子の声にはっとわれにかえると、どうやらかれらは、意味ありげな視線をかわしたようであります。
静馬は五郎のほうを振り返ると、
「鵜藤君、すまないが警察へいって来てくれたまえ」
「ああ、それからお医者さんを呼んで来てね」
そばから口を出した由美の声には、世にも陰気なものがありました。
五郎は夢からさめたように、庭から出ていきましたが、綾子もそのあとから、急いで下駄をつっかけます。
「綾さん、どこへいく?」
「あたし? あたし電報を打って来ます」
「電報? どこへ?」
「由利先生のとこへ……先生に来ていただくのですわ」
「由利先生?」
恭三と静馬は眼を見交わせました。
「綾さん、お待ち」
「何か御用?」
「何も由利先生を呼ぶ必要はないじゃないか。いまに警察の人が来る。それで十分じゃないか」
「でも、でも、あたし、由利先生によく調べていただかなければ気がすみません。そして、そして……」
と綾子は声をふるわせて、
「可哀そうな虹之助さんを救けていただくのです。いいえ、何もおっしゃらなくてもよくわかっています。あなたがたはみんな、この人が小母さんを殺したと思っていらっしゃるのでしょう」
「綾さん、君は昂奮しているんだ。落ち着かなくちゃいかん。われわれは何もこの少年が、伯母を殺したなんていってやしない」
「いいえ、いいえ、おっしゃらなくてもよくわかっています。あなたがたは寄ってたかってこの人を、罪人にしようと思っているんです。眼も見えず、耳も聴こえぬこの人が人殺しだなんて! これには何か恐ろしい悪企みがあるにちがいありません!」
「綾さん、何をいう!」
「ええ、ええ、そうよ、そうよ、みんなで何か企んでいるのよ。だからあたし、由利先生に来ていただくのです」
「綾さん!」
恭三ははだしのまま庭へとびおりましたが、その時すでに綾子は砂をけって、いっさんに郵便局へと走っているのでありました。
二
「奥さん、だからいわないことじゃない。ああいう少年を引きとるのは、考え物だとあれほどいっておいたのに」
綾子の急電に接して、由利先生が駆け着けて来たのは、その夜の十二時過ぎのこと、電報を受け取るとすぐ連絡をとったと見えて、三津木俊助も一緒でした。
「そんなことをおっしゃったって……、まさかこんなことが起こるとは思いませんもの」
駅頭に出迎えた綾子の顔は、いつもの艶を失って、さむざむとした鳥肌が立っている。急に老けたように見えるのです。
「とにかく現場へ急ぎましょう。警察の人たちは来ているのでしょうね」
「ええ、だいぶまえに。……そしてみんなしてあの人をいじめるのです。あたしがいくら盲聾唖だといっても、警察の人ったら、ほんとうにしてくれないのですよ」
由利先生はあわれむように、綾子の顔を見ましたが、思い出したように、
「奥さん、あなたは志賀恭三という人に、妹のあることを知っていますか」
「志賀さんの妹?」
「名前は琴絵というんだが……」
「そうそう、そういう妹さんのあることは、いつかきいたことがあります」
「あなたはその妹がいまどこにいるか、志賀君からきいたことはありませんか」
「その方なら小豆島にいるんじゃありません? そんなふうにききましたけれど……でも、先生その方がどうかしたのですか」
「その妹はいま小豆島にいないのですよ。志賀君が六月頃、東京へ連れていくといって、一緒に島を立ち去っているんです。あなたはそんなことを、志賀君からきいたおぼえはありませんか」
「いいえ、一度も……でも、先生、志賀さんの妹さんと今度の事件とのあいだに、何か関係があるとおっしゃるんですか」
「いや、私にもまだよくわからないんですがね、ただここに不思議に思われるのは、志賀君が島から連れ出して以来、琴絵という娘の消息が杳《よう》としてわからないんです。しかもそれが六月のはじめというのだから、そこに何か、虹之助とのあいだに関係がありはせんかと思われるのです。奥さん、われわれが虹之助を、鳴門の渦から救いあげたのは六月十二日のことでしたね」