「ええ、そうですわ。だけど、それが……」
綾子ははっとしたように立ち止まると、
「先生、それじゃあなたは、その琴絵さんという人と、虹之助さんが同じ人だとおっしゃいますの」
「いや、はっきりそう言い切れるわけじゃないが、何かそこに関係がありはしないかと思われるんです」
「でも、虹之助さんはたしかに男ですよ。琴絵さんじゃありませんわ。でも、この事件にはなんて妙なことばかりあるんでしょうねえ」
そこはもう甲野家のすぐ近くだった。変事を知ってひとしきり騒いでいた近所の人々も、もう寝てしまったのか。あたりはしいんと静まりかえって、波の音ばかり高いのである。
と、この時、行く手から自転車を押してのろのろとやって来た男が、かれらのそばまで来ると、立ち止まって、
「ちょっとお訊ねしますが、このへんに甲野さんという家はありませんか」
見るとそれは郵便配達だった。
「われわれもその甲野へ行くんだが、電報かね」
「ええ」
「宛名は誰?」
電報配達は自転車のランプで、電報の宛名を見ると、
「甲野静馬方、志賀恭三というんです」
「ああ、そう、それじゃ一緒に行こう」
海にちかい別荘地は、プーンと潮の香がしめっていて、薄月夜の闇のむこうから、時化《しけ》のまえぶれのように、どどん、どどんと波の音が聴こえて来る。
言い忘れたが、甲野の家は由比ヶ浜の松並み木の、すぐうしろにある。四人が別荘の裏口からはいっていくと、まっくらな離れ座敷に、提灯の灯や、懐中電燈の灯がゆらゆらと動いて、その中をせわしそうに動いている警官の姿が見えました。
「ああ、由利先生ですね」
暗闇の中からぬっと縁先に出て来た男が、
「私はここの司法主任をしている江馬という者です。あなたがお見えになるということを聴いたので現場はそのままにしておきましたよ」
かつて警視庁の捜査課長として、天下に令名をはせた由利先生の名を、江馬警部も知っていたと見えるのです。
「ああ、そう。それは有難う。大道寺の奥さんに口説かれてお邪魔に来ましたが、よろしく願いますよ」
由利先生は白い歯を出して笑うと、
「時に志賀恭三という人はいますか。電報が来ているようだが」
「うちの者はみんな母屋のほうにいますよ。おい、誰か、志賀という男を呼んで来い。先生おあがんなさい」
刑事の一人がすぐ奥へ知らせに入ったが、すると間もなく恭三が出て来て、暗闇の中で電報を受け取りました。そしてそこにいる由利先生や三津木俊助に、じろりと鋭い一瞥《いちべつ》をくれると、そのまま奥へ入ってしまう。
由利先生は部屋のなかを見廻しながら、
「どうしたんです。電気はまだつかないんですか」
「いや、いまつけるところです。もうすぐですから……おい、まだなおらないのかい」
「ええ、もうすぐ……すみませんが、もっと明かりを見せて下さい」
暗闇の天井から声がするのは、多分電気工夫でしょう。
「電気をめちゃめちゃに叩《たた》き毀《こわ》しているんですよ。気をつけて下さい。座敷の中はガラスのかけらがいっぱい散らかっていますから、あの盲聾唖の少年が、何かにおびえて、盲滅法、羽子板を振りまわしているうちに、誤って電球を叩きこわしたんですね。少年の体にもガラスのかけらがいっぱいささって血だらけになっているんですよ」
「虹之助はどこに……?」
「向こうで保護していますがね。何しろ恐ろしく昂奮していて手がつけられないんですよ。あっ、どうも御苦労様」
そのとたんぱっと電気がついたので、由利先生と三津木俊助は、はじめて恐ろしいあたりの光景を見ることが出来ました。
「なるほど、あれが被害者ですね」
だいたいの話は、綾子から聞いていたが、あまり凄惨なあたりの様子にさすがの先生も眉をひそめずにはいられない。
「で、医者の鑑定はどうなんです。羽子板で殴り殺すなんて、類のない事件だが、果たして羽子板で殴られたくらいで人が死ぬものですかね」
「それが非常に意外なんですがね」
「…………?」
「医者の言葉によると、羽子板で殴られたために死んだんじゃないというんです。その傷は、大半死後のものだというんですよ」
「羽子板のせいじゃない? すると死因は……?」
「解剖してからじゃないとはっきりした事はいえないそうですが、被害者は毒を嚥《の》んでいるらしいというんです」
「毒……?」
由利先生と俊助は思わず顔を見合わせました。綾子は大きく眼を瞠って、すさまじい梨枝子夫人の死に顔を凝視している。
「そしてその毒物というのは?」
「多分ストリキニーネだろうというんです。やはり解剖してみなければ分かりませんが、筋強直の具合や、それから御覧なさい。恐ろしく眼球がとび出している。それに被害者の顔面に浮んだ、このすさまじい苦悶の表情、そういうところから、十中の八、九までストリキニーネにちがいあるまいというんですがね」
「なるほど、すると被害者は、ストリキニーネを嚥んで死んだ。そこを虹之助に乱打されたというわけですか」
「いや、ところがね、傷のうちの半分くらいは、まだ息のあるうちに受けたらしいというんです。他の半分はあきらかに死後出来たものですがね。そこで私はこういうように判断するんですがね」
江馬司法主任は綾子のほうを見ながら、
「大道寺の奥さんのお話によると、奥さんはここへ被害者と盲聾唖の二人を残して出ていかれたというんですが、その後で梨枝子夫人は自ら嚥んだかひとに嚥まされたか、とにかくストリキニーネを嚥んだのですね。ところでこの毒物の特徴は非常な苦痛をともなうものだそうですから、夢中になってそばにいた虹之助にしがみついたんじゃないかと思うんです。こう思われるのは、虹之助の手頸に恐ろしい紫色の痣が出来ているからですが、さて、だしぬけにしがみつかれた虹之助はどうしたでしょう。悲しい哉、盲で聾のかれは、相手が毒のために苦しんでいるなどとは知る由《よし》もない。何か危害を加えられると誤解したのではないでしょうか。そこで夢中でふりはなそうとする。しかし、相手はますます物凄く武者振りついて来る。虹之助はいよいよ驚き恐れて、夢中になってそこらを引っかきまわしているうちに、手にさわったのがその羽子板……」
「なるほど、そこでただもう梨枝子夫人の手からのがれたい一心から、この羽子板でめちゃくちゃに殴りつけた……と、こういうわけですね」
由利先生はそこにあった羽子板を手にとると、何気なくその押し絵を眺めていたが、ふいにふうっと眉をひそめました。
しかし、警部は気がつかず、
「そうです。そうです。そうしてめったやたらに羽子板を振りまわしているうちに、それが電球に当たって、木っ端微塵とガラスがとんだ。そのガラスが全身にささったものだから、奴さんいよいよ驚いた。きっと誰かがそばにいて、危害を加えると思ったのでしょう。ますますあばれているうちに、すでに事切れた梨枝子夫人をむちゃくちゃに打ちすえた……と、これが私の想像なんですがね」
ああ、それは何んという恐ろしい想像でしょう。
毒を嚥んで致死期の苦悶にのたうっている老女、それを目前にひかえながら、助けるどころか反対に、何も知らずに狂気となって打ちすえている盲聾唖。世にもこれほど恐ろしい光景がまたとあるでしょうか。
しかもストリキニーネの特徴として、先ず運動神経の中枢を麻痺させるということですから、梨枝子夫人は助けを呼ぶことも口を利くことも出来ないのです。虹之助はもとより盲聾唖、したがってこの惨劇は終始無言のうちに行なわれたのにちがいない。
由利先生も三津木俊助も、それを思うと背筋の冷たくなるような戦慄を禁じ得ませんでした。
「ところで、被害者が毒を嚥んでいるとして、それは自殺ですか、それとも他殺の見込みですか」
「むろん、他殺の見込みです。家人の話によると、自殺の原因は何一つないといいますし、第一、ストリキニーネなど入手出来る筈がないというのです」
「なるほど、すると誰かが毒を盛ったとして、それはいつの事ですか。ストリキニーネというのはかなり症状が急激にやって来るものと憶えていますがねえ」
「そうだそうですね。で、被害者がそれを嚥んだのは、大道寺の奥さんがここを出ていってからという事になりますが、さて、犯人がいつそれを用意しておいたか、また、何に混ぜておいたか、そういう事は少しも分かっていないんです。大道寺の奥さんがいらっしゃるまえから用意してあったかも知れないし、あるいはその後かも知れない。何しろ虹之助という奴があの通りの盲聾唖でしょう? だから自分の眼のまえでどんな事が行なわれていようと、何一つわからないわけなんですよ。だから、ひょっとすると犯人は、大道寺の奥さんがここを出ていってからやって来て、虹之助の眼のまえで、ゆうゆうと何かに毒を入れていったかも知れない。むろん、梨枝子夫人にはかくしてですがね」
「しかし、そうすると、犯人は梨枝子夫人の知っている人物ということになりますね」
「そうです、そうです。だから夫人は心を許して対談していた。その間に犯人が夫人のすきを見て、何かに毒を入れていったんですね。ところでそれについて大道寺の奥さんにお訊ねがあるんですが、あなたがここへいらっしゃった時、ここに何か飲み物のようなものはありませんでしたか」
「さあ。……あたし、よく憶えておりませんが……そう長くここにいたわけではございませんし、……でも、でも、飲み物のようなものは何も……あっ」
突然、綾子は大きく眼を瞠りました。そして俄かに息をはずませると、
「飲み物のことはよく憶えておりませんが、そこに食物が……ええ、チョコレートですの。銀紙にくるんだ丸いチョコレートが、小さなガラスの鉢に盛ってあって……」
「チョコレート?」
警部は眼を丸くして、
「しかし、われわれがここへ来たとき、そんな鉢はここにありませんでしたよ。死体を発見したとき、あなたもここにいたんでしょう。その時ここにありましたか」
「あたし、存じません。……だって、だって、その時はまっくらで……ただ懐中電気の光で見ただけなんですもの。……それに……あたし、すぐここを飛び出したものですから。……」
「江馬君、その事ならこの人より、ここの家のものに訊ねたほうがよくはないかね」
由利先生はそばからそう注意しました。
「そうしましょう。しかし、あの連中、正直に話すかどうか」
江馬警部がいまいましそうに舌打ちしたとき、女中が銀盆に香り高いコーヒーを運んで来ましたが、警部は手をふって、
「いや、それなら向こうで貰おう。みんな奥にいるんだろうね」
そこで警部を先頭に、一同は母屋のほうへ入って行きました。
三
母屋の座敷には、志賀恭三に、静馬由美の兄妹、それに鵜藤五郎の四人が、寝そべったり膝小僧を抱いたり、思い思いの恰好で、むっつりと押し黙っている。みんなげっそりとして疲労の色が濃いのである。
時刻はもう一時過ぎ。明けっぱなした縁側に、誰が買って来たのか、籠に入った蛍が、病人が呼吸を吸うように、はかなく明滅しているのも淋しかった。波の音はひとしお高くなったようです。
一同が離れ座敷へ入っていくと、さっきの女中がコーヒーを持って追っかけてくる。江馬警部をはじめとして、由利先生も三津木俊助も、すぐそれに手を出します。疲労した深夜の頭脳には、暖かいコーヒーの一杯が快い。
綾子は残りのコーヒーから、カップを二つとると、つと志賀のそばへ寄りました。
「お上がりになりません?」
「うん」
「さっきは御免なさいね」
「なんのことだ」
「あたしすっかり昂奮してしまって。……いまから考えると、悪いことをしたと思っています。あんなに喧嘩ずくでとび出したりして……」
「ははははは! 何んのことだと思ったらそのことか。こっちは何んとも思ってやしない」
「ほんと?」
「昂奮してたのは君ばかりじゃない。われわれみんな同じことだよ。それに、由利先生に来て貰ったのは、結局いいことだったかも知れない」
「あなたにそう言っていただくと嬉しいわ」
ああ、恋とはこんなものでしょうか。男の一言一句に三十女の瞳が、頬が、小娘のように炎えあがったり、赧くなったりするのです。由美と静馬と五郎の三人は、向こうでぼんやりコーヒーを啜《すす》っている。
やがて江馬警部が立ち上がりました。
「さて、皆さん」
警部はいくらか気取った様子で、
「ここにまた、一つの疑問が起こったのですが……あなたがたも多分、お聞きおよびのことと思いますが、梨枝子夫人は羽子板で殴り殺されたのじゃなかった。ある毒物を嚥まされているという疑いが濃厚なんです。ところで、その毒物がどういう形で梨枝子夫人にあたえられたか、それについてここにいらっしゃる大道寺の奥さんが、こんなことをおっしゃるのです。奥さんが虹之助を残して離れ座敷を立ち去るとき、梨枝子夫人のそばには、皿に盛ったチョコレートがあった……と」
一同は顔を見合わせましたが、すぐその中から、静馬が少し乗り出して、
「それじゃそのチョコレートの中に、毒が入っていたとおっしゃるのですか」
「いや、まだはっきり断言出来るわけじゃないが、梨枝子夫人のそばには、ほかに飲み物も食物もなかったというから……」
「しかし、そのチョコレートならわれわれも食べましたよ。そうです。僕も由美も鵜藤君も、三人とも食べましたよ」
「君たちも食べた? それはいつの事です」
「浜へ余興を見にいく直前です。出かけるまえにわれわれは離れへ寄って、母に留守を頼んだのです。その時、母が菓子鉢を出してすすめたので、われわれはみな一つか二つずつ食べました」
「ああ、すると君たちも、そこにチョコレートがあったことは認めますね。それならば、そのチョコレートはどこへいったのです。その菓子皿はどうしたのです」
静馬と由美と五郎は、また顔を見合わせた。志賀だけが不敵な顔で、あぐらをかいたまま顎髯《あごひげ》を抜いている。
「その菓子鉢なら、まだ離れ座敷にある筈だが……」
「ところがそれが見付からないのですよ」
三人はまた不安そうに顔を見合わせた。
「梨枝子夫人の死体を最初に発見したのは、君たち二人でしたね。その時、そこに菓子鉢があったかどうか憶えていませんか」
静馬と五郎は顔を見合わせたが、二人とも首を横にふった。
「いいえ、知りません。何しろわれわれがそこへ入って来たときは、あの通りまっくらでしたから……」
「なるほど。しかしそうすると、あなたがた二人のうちの一人が、相手に知られぬようにこっそり菓子鉢をかくすことも出来たわけですね」
「馬鹿な! そ、そんな……それじゃあなたは、われわれが母を毒殺したとおっしゃるんですか」
「いいえ、私はただ可能性をいっているんですよ。誰が毒を仕込んだか、それはあらゆる可能性をギリギリまで押しすすめていって、はじめて帰納することが出来るんです。ところであなたがたは、いつも懐中電燈を持って歩くことにしているんですか」
「そうです。夜が更けると、このへんはまっくらになりますからね」
この返事はちょっと警部を失望させたようでした。警部の考えでは、二人のうちの一人が母屋へ懐中電燈をとりに走った。そのあとで一人が菓子鉢をかくすことが出来た筈だと、そう斬り込むつもりだったのでしょう。
「すると、あなたがたは、死体を発見してから、ずっと二人いっしょにいたんですね」
「むろんいっしょにいました。由美や、恭さんや、大道寺の奥さんがやって来るまで。……」
「なるほど。そしてその時もまだまっくらだったのだから、後から来られた三人のうちの誰かが、菓子鉢をかくすことも可能だったわけですね」
「こんどはわれわれにお鉢がまわって来ましたな」
志賀恭三なのである。
まるで挑戦するようなその語調が、あまり大胆不敵だったので、警部はいうに及ばず、由利先生や三津木俊助まで、弾かれたようにそのほうへ振り返った。
警部はその挑戦をはねっかえすように、
「そうですよ、今度はあなたがたにお鉢がまわりましたよ。とにかく、大道寺の奥さんがかえって来るまでに、誰かが菓子鉢をかくしたのだから、われわれはあらゆる角度から、可能性を検討しなければならないんだ」
「可能性、大いに結構、しかし、大道寺の奥さんだけは、その可能性とやらから除外してもよさそうに思うがどうです。この人は甲野家と何んの関係もない人だから……」
「あなた、あなた……」
綾子は嬉しさと心配の溢れた顔色で、恭三の袖をひっぱっていましたが、恭三はそんなことにはお構いなしで、
「いったい、警部さんはどういうふうに考えていられるのか知らんが、さっきの静馬君の話でもわかるとおり、静馬君と五郎君、それから由美さんの三人が、浜へ行くまえチョコレートを食べたという。静馬君、その時誰かが、いちいちチョコレートを選択してほかの者に渡したのかね。それともみんなてんでに勝手にとって食べたのかね」
「むろん、みんなてんでに取って食べましたよ」
「と、すれば、その時にはまだそこに、毒入りチョコレートはなかった筈ですね。と、すると、三人が離れを出ていってから、誰かがやって来て、チョコレートに毒を入れたということになるが、そんなことが可能ですかね。叔母は盲じゃないのですよ。目の前で毒を入れられるのを黙っている筈がない。とすれば、チョコレートの中に毒が入っていたということは、非常に可能性がうすくなると思うがどうでしょう」
「いや、いちがいにそうは言えませんね」
その時、横からゆったりと口を出したのは由利先生、それをきくと恭三は、反射的にそのほうを振り返りました。
「と、おっしゃるのは……?」
「つまり、犯人があらかじめ、毒を仕込んだチョコレートを用意していたら、いまのあなたの疑問は、何んでもなく解決出来る。チョコレートをすりかえるか、あるいはいままであったぶんのうえへ放りこんでおくか、それぐらいのことなら、梨枝子夫人の眼の前でも、大して難しくなくやることが出来る。但し、それには犯人が、ここにチョコレートのあることをあらかじめ知っていなければならない」
「と、いうことは、犯人は甲野の家のものだとおっしゃるのですか」
恭三の眼にはありありと敵意のいろが濃くなって来る。由利先生はさりげなく、
「そういうことになりますね。しかし、これは、さっき江馬君がいっていたように、可能性の問題ですよ。チョコレートの中に毒が入っていたかどうか、まだはっきりしているわけではないし、まず、それから証明してかからねば、結局水掛け論ということになりますな」
「しかし、先生」
警部は不服そうに、
「チョコレートの中に毒が仕込んであったということは、殆ど確実と思いますがね。でなければ、なぜ、チョコレートの鉢をかくしてしまったのです」
警部はそこで静馬や五郎のほうに向き直ると、
「君たちは浜へ出てから、ずっといっしょにいたんですかね。由美さんは途中ではぐれたといっているが……」
「いや、われわれ、鵜藤君と僕も途中ではぐれてしまったんです。何しろ、余興場はたいへんな人出だったから」
「それじゃ、君たち二人いっしょにかえって来たわけじゃないんですね」
「いや、離れへ入ったのは二人いっしょでした。しかし、それまでは別々だったんです。実は、裏木戸のところで二人出会って……」
警部は意味ありげに由利先生のほうを見ながら、
「すると、君たちのうちどちらでも、途中で一度ここへかえって来ることが出来たわけですね。いや、君たちばかりではない、由美さんにしても……いや、これは可能性の問題ですよ」
「可能性の問題とすれば、僕にだってそれが出来たかも知れない」
その時、また挑戦するように口をはさんだのは志賀恭三。
「僕は東京からのかえりを、家の近くで由美や大道寺の奥さんに出会ったのだが、五分や十分誤魔化すのは何んでもないから、いちど家へかえって来て、毒入りチョコレートを伯母にすすめ、それからまた出掛けて、誰かのかえって来るのを待っていたのかも知れない」
「あっ!」
綾子が突然、鋭い叫びをあげたのはその時でした。志賀恭三の皮肉な言葉に、静まりかえっていた時だけに、綾子の叫びは異様に高く、部屋のなかに響きわたった。一同は弾かれたようにそのほうへ振り返る。
綾子は昂奮に頬を染めて、
「あたし、すっかり忘れていたわ。そうよ、そうよ。ええ、このことは志賀さんや由美さんに聴いて頂いてもわかります。あたしたち、あたしと由美さんは浜からかえって来る途中、角のところで、志賀さんに出会ったのです。そしてそこでちょっと立ち話をしていたのですが、その時、この家の裏木戸から出ていった人があるのです。ねえ、志賀さん、由美さん、あの時あたしそういったわねえ」
志賀と由美は無言のまま頷いた。
「警部さんのお話を、いままで黙って聴いていますと、小母さんを殺した人は、ここにいらっしゃる四人のほかにないようにおっしゃいますけれど、四人以外に、誰かここへ来た人があるにちがいありません」
「それはどんな人物でしたか。男ですか。女ですか」
「男のようでした。でも、かなり離れておりましたし、すぐ暗闇のなかへ消えてしまったのではっきりしたことは申せません」
「たしかにこの家から出ていったのですね」
「ええそれはもう間違いございません。ここの裏木戸には軒燈がついていますから、その下から出て来るとこがはっきり見えたのです。それからすぐ、あたしたちはこの家へかえって来たのですが、その時、静馬さんも五郎さんも、あの離れ座敷にいたのですから、それが二人でなかったことはたしかです。するとここに、あたしたちのまだ全然知らない人物が、今夜——いいえ、もう昨夜になりますわね。昨夜この家にいたことはたしかですわ」
警部は志賀と由美のほうをふりかえった。
「あなたがたも、いまの大道寺の奥さんの話を認めますか」
「いや、由美も僕もそういう人影を見たわけではないのです。しかし、大道寺の奥さんはその時たしかに、誰かがここを出ていくのを見たといいましたよ。僕がふりかえった時にはもう見えなかったが……」
「由美さん、あなたはどうです」
「いいえ、あたしも見ませんでした。でも、その時、大道寺さんがそうおっしゃったことはほんとうです」
「警部さん!」
綾子が、突然ヒステリックな声で警部を呼びかけました。
「あなたはあたしが嘘を吐《つ》いているとでも思っていらっしゃるんですか。まあ、考えて下さい。その時はあたしまだ、ここでこんな恐ろしいことが起こってるなんてこと、夢にも知らなかったんですよ。第一また、嘘を吐くのなら、志賀さんや由美さんも、それを見たとおっしゃる筈じゃありませんか。その方が御自分たちのために有利なんですもの」
「いや、誰も、あなたが嘘をついてるなどとは言ってやしない。しかし、いかに咄嗟《とつさ》のばあいでも、その男がどんな風態をしていたか、だいたいの輪廓ぐらいわかりそうなものじゃありませんか」
「だから、それを申し上げようとしていたのじゃありませんか。それをあなたがよけいな口出しをなさるから……」
綾子は嘲るように警部に一矢報いると、
「その人は、黒っぽい洋服を着た小柄な男で、跛をひいておりました。そして、そして……」
と、綾子は由利先生の顔を見ながら、
「あたし、その男を前にも一度見たことがあるのです。いえ、その時も後ろ姿だけでしたけど、大阪のホテルで、……その男はあたしたち、あたしと由利先生の話を立ち聴きしていたんです」
由利先生はふいに大きく眼を瞠《みは》って、穴のあくほど綾子の顔を見詰めました。
「奥さん、それはほんとうですか。大阪のホテルで立ち聴きしていた男、たしかにそれに違いありませんか」
「違いございません。いえ、たしかに違いないと思います。どっちの場合も、顔を見たわけではございませんが、後ろ姿の歩きぶりが、たしかに同じ人だと思われるのです」
綾子は一語一語に力をこめて、そう言い放つのでありました。
[#小見出し] 第四編
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
丁字の花咲く庭——琴絵の顔——羽子板小姓のこと——漂うボートの悲劇
[#ここで字下げ終わり]
一
綾子の証言によって、事件はここにいくらか違ったものになって来た。
警部のいままでの考えによれば、犯人はこの家のものにちがいないというのだが、ここに新しい登場人物が出て来たので、警部はいままでの考えかたを修正しなければならぬ破目に陥ったわけです。
「いったい、ホテルで立ち聴きしていた男がいるというのはどういうわけですか」
そこで由利先生は手短かに、大阪における出来事を警部に語ってきかせました。しかし、その時先生は、わざと河渡御の際の、川のうえの出来事を省いたので、警部が何んとなく腑《ふ》に落ちかねる風情だったのも無理はない。
「すると、そいつは虹之助のあとをつけまわしている。そして、虹之助が奥さんに引き取られたからホテルで立ち聴きしていたと、そういうことになるのですね」
「まあそうですね」
「そして、虹之助が鎌倉へ来たので、そいつも後から追っかけて来た。そして今夜も、虹之助がこの家へ来ていたから、ここへやって来た……と、なるほどそこまでは頷けます。しかし、その男がなぜ縁もゆかりもない梨枝子夫人を殺すことになるんです」
「さあ。……」
由利先生もそれには困った。それを納得のいくように説明するためには、虹之助と甲野家に、何か関係があるのではないかという疑いを打ち明けなければならぬことになるのです。しかし、それはまだ決定的のことではないし、由利先生としても綾子にしても、はっきり打ち明ける勇気はなかったのです。
「警部さん」
その時横合いから、そう口を出したのは綾子です。
「だから、それを探るのがあなたの役目ではありませんか。あたしがここで申し上げたいのは、虹之助さんを大阪からここまでつけて来た男がある。そしてその男が今夜、ここへ来た、……と、それだけの事を申し上げて、あなたの御注意を喚起したいのですわ。その男がここで何をしていたか、小母さんに毒を嚥ましたか嚥まさなかったか、毒を嚥ましたとすれば、何故だろう、小母さんとどういう関係にあるのだろう。……と、そういうようなことを調べるのは、みんなあなたのお役目なんですわ」
辛辣《しんらつ》な綾子の言葉に、警部は思わず色をなしたが、その時、由利先生がそばから穏かに言葉をはさんだ。
「いや、その事はいずれ後でよく調べるとして、志賀さん、あなたにちょっとお伺いしたいことがあるのですがね」
恭三はびくりと太い眉をあげたが、すぐ挑むように皓《しろ》い歯を出して笑うと、
「さあさあ、どうぞ。しかし言っておきますが、僕はその、虹之助という少年を大阪からつけて来たという人物については、正直の話、まったく何も知りませんぜ」
「いや、私の訊きたいというのはそのことじゃない」
相手の皮肉を歯牙《しが》にもかけずに、
「私の知りたいのは、あなたの妹さんのことなんですがね」
あっと叫んで、あわてて口をおさえたのは由美でした。志賀はちらとそのほうを見ましたが、彼自身この質問にはかなり狼狽したらしい。
「妹のこと?……はてな、妹がどうしたというんですかね」
さりげなく言ったものの、そこにはかくし切れない動揺がありました。
「琴絵さんがいまどこにいるか、それをお伺いしたいんですがね。琴絵さんを小豆島から連れ出したのはあなたでしたね。その時あなたは東京へ連れていくとおっしゃったそうですが、その琴絵さんはいまどこにいますか」
由美と静馬は怯えたように、由利先生と志賀の顔を見くらべている。綾子は不安そうな眼で、これまた二人を見くらべている。誰もかれもが、由利先生と志賀のこの応答に心を奪われていたために、その時、五郎がこっそり部屋を脱出したことに気がつかなかったのは、まことに止むを得ないことといわねばなりません。
志賀は由美と静馬のほうへ、ジロリと鋭い一瞥をくれると、
「ははははは、何んのことかと思ったら妹の事ですか、妙ですな。妹がこの事件に、いったい何んの関係があるというんです」
「そんなことはどうでもよろしい。志賀君、私の訊ねているのは、琴絵さんがいまどこにいるかということ、それに答えて戴ければよろしい」
志賀はきっと唇をかんだ。
「琴絵は……いま……あるところにいます」
「どこですか。それは……?」
「それは言えない」
「言えない?」
「ええ、言えませんよ。ねえ、先生、あなたが何故そんなことをおっしゃるのか知りませんが、人間というものは、それぞれ、かくし事を持っているものです。他人に知られたくない秘密を抱いているものです。むろん、その秘密が今度の事件に関係があるとすれば、多少いたいところがあっても、打ち明けるにやぶさかではありませんが、これは全然、問題が別ですからねえ」
「問題が別であるか別でないか、その判断はこちらでする。どうしても言えないというのですか」
「言いにくいですな。これはわが家の秘密ですから」
その不敵な面魂を見ると、この男、梃《てこ》でも口をひらくまいことがよくわかる。由利先生はしばらく相手の顔を見詰めていたが、諦めたように肩をゆすると、
「仕方がない。じゃその事は諦めましょう。ところで甲野さん」
「はあ」
「琴絵さんの写真があったでしょう。それをひとつ拝見したいのですがねえ」
「ええ、その写真ならアルバムに……」
「由美!」
ほとんど同時に叫んだのは、志賀と静馬でありました。それをきくと由美ははっと気がついたように、真っ蒼になって、
「あら、あの、いえ、あったと思うんですけれど、よくわかりませんわ」
「はははははは、誤魔化しても駄目ですよ。アルバムに貼ってあるんですね。それじゃひとつそのアルバムを持って来ていただきましょうかね。いやいや、こいつは私もいっしょにいったほうがよさそうです。はははははは!」
恭三にちらと嘲るような一瞥をくれると、由利先生は由美の腕に手をかけて、
「さあ、行きましょう。どこにあるのですか。ああ、書斎ですか」
警部は不思議そうな顔をして、二人のあとについていく。志賀と静馬も顔見合わせながら、不安そうについていく。最後に綾子と俊助も、思い思いの顔色でついてきました。
書斎へ入ると、
「で、そのアルバムはどこにあるんですか」
「はあ、あの、本棚に……」
由利先生は本棚から、部厚なアルバムを取り出すと、そのページを繰りながら、
「琴絵さんというのは?」
「はあ、……あの……あたしたちの家族写真がそこに貼ってある筈なんです。その中の一番はしに立っているのが琴絵さんで……琴絵さんの写真というのはそれ一枚しかございません。ええ、ほかには一枚もないのです」
由利先生はすぐにその家族写真というのを見つけました。
それはいかにも大家の庭らしい、由緒ありげな木石の配置をバックとして、甲野一家の人たちがずらりとそこに並んでいる。中央に、梨枝子夫人とならんでいるのは、それが四方太老人だろう。胡麻塩あたまの、いかにも頑固そうな親爺。
その左右に、静馬もいる。
由美もいる。
五郎もいる。
そして志賀と、志賀にならんで一番右のはしに、女の姿がうつっていたが、何んとその女には首がなかった。
顔の部分だけ、見事に切り抜かれているのであります。
二
「由美さん」
由利先生のきびしい声に、由美ははっと顔をあげました。
「この顔はどうしたんです。いや、誰がこの顔を切り抜いたのですか」
「いいえ、存じません、あたしじゃありません。あたし何も存じません」
「誰もあなたといってやしない。しかし、この切り口の新しいところを見ると、これは極く最近にやったことですよ」
二人の問答をきいていた志賀は、不思議そうに由美の肩越しに覗いたが、ひとめ、切り抜かれた写真を見ると腹をかかえて愉快そうに笑い出した。
「こいつはいい。こいつは愉快だ。まんまと首無し美人が出来上がって、由利先生大弱りの態。……」
「お黙りなさい!」
さすがにたまりかねたのか、由利先生、われにもなく大喝しましたが、すぐ思い直したように、
「いや、これは失礼」
それから咽喉の奥でひくく笑うと、
「由利麟太郎|一期《いちご》の不覚というところだから、これはどんなに笑われても仕方がない。しかし、この事は大いに参考になりますな。つまりあなたのいわゆる一家の秘密というのは、琴絵さんの顔にあるというわけですな。琴絵さんの顔をわれわれに見られたくない。……ね、そうでしょう。ところで誰がこれを切り抜いたのか……」
由利先生はあたりを見廻すと、
「江馬さん、鵜藤という青年はどうしたのです。われわれがここへ来るとき……あっ、そうだ。あの男なのだ。あの男がこの写真を切り抜いたのだ。さっき向こうで、琴絵さんのことが問題になって来たので、早晩この写真のことが出て来ると覚って、あの男が先廻りして、この写真を切り抜いてしまったのです。江馬さん、とにかく鵜藤という男を探して下さい」
江馬警部があたふたと出ていくと、由利先生はにっこり笑って、志賀のほうを振り向きました。
「どうです。これで私は相当思いやりがあるつもりですがね。あなたのいわゆる一家の秘密を、これで私は相当尊重しているんですよ。甲野さん」
「はあ」
「この家族写真の背景になっているのは、小豆島のお宅なんでしょうね」