「はあ。……」
由利先生はいかにも嬉しそうに咽喉の奥で笑うと、
「大道寺の奥さん、ちょっと……」
「はあ、何か御用でございますか」
「ちょっと、この写真を見て下さい。この写真は非常に面白いですよ。鵜藤君が、顔だけ切り抜いていって、写真そのものを持ち去らなかったのは間違っている。奥さんはこの写真を見て、何か思いあたることはありませんか」
「さあ……」
綾子は不思議そうに写真をしげしげ眺めていたが、別に思いあたるようなところもなかった。静馬や由美や志賀も不安そうな顔をして、写真と由利先生の顔を見くらべている。
「まだわかりませんか、奥さん、この写真の背景に枝もたわわに白い花をつけている樹があるでしょう。奥さんはこの花を御存じじゃありませんか」
「はあ、……存じません。……何んの花ですの」
「これは丁字の花ですよ」
「あっ!」
綾子は思わず、志賀の顔を振り返る。志賀は不思議そうに眉をひそめて、
「これが丁字の花だとしたらどうしたというんです。われわれの一家に丁字の花が咲いていたらいけないんですか」
由利先生は、皮肉な微笑をふくんで、
「君はこういう思い出があるから、丁字の匂いにノスタルジヤを持っているんですね。それで、大道寺の奥さんに、丁字香をすすめたのでしょう」
「そうです。それが何かいけないとでも……」
「まあお聞きなさい。この丁字の匂いにノスタルジヤを持っているのは君ばかりじゃない。ここにいる由美さんもそうのようです。ところがここにもう一人、丁字の匂いに思い出を持っている人物があるんですよ。しかもその人物にとっては、君たちのように懐かしさを伴わないで、反対に恐怖と憎悪の思い出なんです。その人物とはほかでもない。あの盲聾唖、虹之助なんです」
志賀と由美、静馬の顔にはふっと不安の気が流れます。由利先生はそれを尻眼にかけながら、
「由美さん、大阪の天神祭りの河渡御の際、虹之助があなたにあのような暴行を働いたのは、あなたの体から発散する丁字の匂いを嗅いだからですよ」
由美は思わず二、三歩うしろへたじろいだ。あの時の恐ろしい記憶がよみがえって来たのか、彼女の顔色は真っ蒼になっていました。
志賀はしかし嘲るようにふてぶてしく笑って、
「ほほう、なかなか面白いですね。あの盲聾唖がそんなことをあなたに告白したんですか。はっはっはっ、これは大笑いだ」
「志賀さん!」
綾子はすがりつくような眼で志賀を見る。
「志賀君、笑えるうちに笑っておいたほうがいいですよ。いまに笑えなくなるかも知れないからね。この事を発見したのは私じゃない。ここにいる大道寺の奥さんが、さすがに女だけあって鋭い嗅覚からこの事実に気がついたのですよ。そして奥さんはなかなか頭がいい。虹之助の嗅覚について実験してみたんです」
「なるほど」
志賀はしかしまだまだ負けてはいなかった。相変わらず人を喰ったような微笑をうかべながら、
「いったい、何んのためにあなたが、そのような饒舌を弄しているのか、僕にはとんとわからんが、要するにあなたは虹之助という盲聾唖が、われわれ一家と何か関係がある、と、こういいたいのではありませんか」
「さよう。その事については……」
「ま、ま、ちょっと待って下さい。しかし、先生、そりゃちと早計でしょうぜ。丁字の匂いという奴は、なるほど現代のような西洋流の香料が氾濫している時代には、珍しいかも知れない。しかし、さりとてわれわれ一家にしかないとはいえませんね。虹之助という盲聾唖が、丁字の匂いにある特別の感情を持っているとしても、それだけでわれわれ一家と関係があるなどといわれちゃ、これゃちと迷惑ですな。世の中には偶然ということもありますからね」
「さよう、偶然ということもありますね。ところで偶然というものも度重なれば、しだいに必然性をまして来る、と、こういうことは君も認めるでしょうねえ」
「それゃ、まあそういうことも言えますね。で、何かほかにも、虹之助と一家を結びつけるような偶然がありますかね」
「この羽子板ですがね」
さりげなく、由利先生が取り出したのは、血にまみれたあの羽子板でした。
「この羽子板の押し絵は梨枝子夫人がお作りになったのですね」
「そうです。しかし、それが……」
「大道寺の奥さん、ちょっとこの羽子板の押し絵を見て下さい」
「はあ、あの、この押し絵が……?」
それは美しい前髪の若衆を押し絵にしたものだが、若衆の顔を見ているうちに、綾子の顔にはしだいに驚きの色が濃くなっていく。
「まあ! この顔は……この顔は……」
「奥さん、この顔について、どういうふうにお考えになりますか。ひとつ思ったままをいって戴きたいのですがね」
「はあ、あの……」
綾子は疑惑と恐怖と当惑にみちた顔色で、怯えたように志賀や由美、さては静馬の顔を見廻していましたが、やがて思いきったように、
「はあ、あの……この顔、虹之助さんそっくりだと思うんですけれど、ひょっとするとそれはあたしの思いちがいでは……」
「な、な、なんですって!」
静馬も由美も志賀恭三も驚いたように体を乗り出すと、いっせいに羽子板の顔に目をやりましたが、たちまちかれらの顔色は、さあっと土色になりました。
ああ、何んと、片頬べっとり血に染んだ押し絵の顔は、誰の眼にも、あの盲聾唖、虹之助に生き写しではありませんか。
三
「亡くなった梨枝子夫人は、羽子板の押し絵の顔に、虹之助とそっくりの顔をうつしていたのですよ。これもやはり偶然でしょうかねえ」
由利先生の言葉に、誰も応酬する者はいなかった。さすが不敵なあの志賀恭三でさえが、しいんと押し黙っておりました。
「他人の空似《そらに》、——絵そらごと、——そういう言葉で片付けてしまうには、これは少し深刻過ぎるような気がしますねえ。それに……」
その時、あわただしい足音がきこえて来たので、由利先生は言葉を切って、そのほうを振りかえりました。入って来たのは江馬警部だが、なんだかひどく取り乱している。
「先生! 大変です! 鵜藤の姿が見えないのです」
「鵜藤君の姿が見えない?」
「ええ、そればかりじゃありません。虹之助も……」
「なに! 虹之助の姿も見えない?」
「五郎さんと虹之助——さんが……」
由美は危うく倒れそうになりました。
「江馬君、虹之助はいったいどこにいたのだ」
「台所のわきの四畳半です。何しろ非常に昂奮していて、手がつけられないものだから、暫く寝かせておいたほうがいいと思って……」
「とにかくそこへ案内してくれたまえ」
由利先生は自らさきにたって部屋をとび出す。一同も不安におののきながら、どやどやとあとからついて行きました。
その四畳半は、納戸《なんど》代わりに使っていたと見え、こわれた由美のヴァイオリンや、静馬の描きかけのカンヴァスが、ところ狭しと取り散らかしてある。
「こんなところへ一人で寝かしておいて、誰も見張りをしていなかったのですか」
由利先生の言葉に、刑事の一人が面目なげに頭をかきました。
「それが……実は私が障子の外で見張りをすることになっていたのですが、相手があのとおりの盲聾唖と来ているもんですから、つい心を許して……」
「ほかへ行って油を売っていたというんですね」
「すみません」
今更それを責めても仕方がない。
「誰か懐中電燈を……」
静馬が言下にさし出す懐中電燈を手にすると、由利先生は部屋をつきぬけ、窓の下の砂を眺めていたが、
「この窓の障子はまえからあいていましたか」
「さあ。……」
「先生、それじゃあの人は、この窓から逃げ出したのでしょうか」
「そうですよ。そこにはだしの足跡がついている」
「だって、だって、あんな眼の不自由な人が……」
「むろん一人じゃありませんね。誰か外から手引きした奴があるんです。砂のうえには、虹之助のはだしの足跡にならんで、朴歯《ほおば》の跡がくっきりとついていますよ」
「朴歯の跡ですって?」
何を思ったのか、由美はあたりを見廻し、そして、その顔はみるみるうちに蒼褪めていきました。
「そうです。朴歯の跡です。由美さん、何か心当たりがありますか」
「い、いいえ、朴歯の下駄なんか誰でも履いていますわ。御用聞きかなんかの足跡じゃありません?」
「そうかも知れません。しかし、不思議なことには、その朴歯の跡は、虹之助の足跡に前後して、ずっと、浜辺のほうまでつづいているんですよ。だが、こんなことをいっている場合じゃない。とにかく、この足跡をつけてみなけりゃ。……三津木君、行こう」
「先生、あたしもいきます」
由利先生と三津木俊助のあとにつづいて、綾子もガタガタ胴顫いしながらついていく。そのあとから警部と刑事のひとりもつづきました。
「ほら、見たまえ。生け垣のところが少しこわれている。ここを抜けていったのにちがいない。あ、あった。ここに二つの足跡がある」
由利先生の指さすところを見れば、なるほどしめった砂のうえに、くっきりとはだしの跡と、朴歯の二の字がならんでいる。
「よし、こいつをつけていこう。どうせ遠くはいくまいからね」
二つの足跡はしばらく戸惑いしたように、ぐるりとゆるい円をえがいていたが、やがて松林を抜けて砂丘のほうへとつづいている。
時刻はすでに真夜中過ぎ、昼間はあれほど賑やかな海岸も、いまはもうひっそりとしずまりかえって、砂丘のうえにはほの白い霧がおりている。
一同は霧のなかを急ぎあしに海岸へむかって歩いていた。
月はどこにあるのか、あたりは懐中電燈なしには、一歩も歩けぬほどうすぐらい。二つの足跡はくらい砂丘を越えて、波打ち際までつづいているが、そこでプッツリ、打ち寄せる波に洗われたように断ち切れている。
「あっ!」
綾子はそれを見ると白蝋のように血の気をうしなった。
「先生、もしや、もしや、あの人は、この海のなかへ……」
「そうかも知れない。しかし、そうすると朴歯のほうはどうしたろう。波打ち際をつたって逃げていったのかな」
だが、すぐ先生ははっとすると、
「三津木君、海のどこかで舟が見えやしないかね。なに、そう遠くじゃない。どこかそのへんに……」
「あっ、先生、見えます、見えます、向こうにボートらしいものが流れていきます。あれじゃありませんか。誰も乗り手は見えません」
なるほど、薄闇をすかして見れば、波打ち際から一丁ばかり沖のあたりを、一艘のボートが、波にのってゆるやかに流れていく。
「警部、どこかにボートはありませんか。大急ぎだ。大急ぎです。あのボートを流しちゃたいへんですぞ」
言下に刑事が、渚《なぎさ》づたいに去っていったが、間もなく、自らオールを操ってやって来た。
由利先生をはじめ、一同それにとび乗ると、オールはすぐに水をはねあげ、漂うボートの追跡なのです。
外海には嵐があるのか、うねりの高い波頭が、ゆるやかな漕ぎ手のないボートを沖へひきこんでいく、こちらのボートの中では未亡人の綾子が、恐怖と昂奮のために、ひっきりなしにガタガタと歯を鳴らせている。
二つのボートの距離はだんだん近くなっていく。
「あっ、先生、やっぱり誰か乗っている。舟底にぶっ倒れている人影が見える」
ああ、なんということだ! いつかも虹之助はこうして、漕ぎ手のない舟にのって、海のうえを漂うていたではないか。そしていままた——綾子はまるで悪夢のなかを彷徨《ほうこう》するように、ちかづくボートを見つめていたが、その時また三津木俊助が、奇妙な叫びをあげました。
「あっ、先生、ボートの中にいるのは一人じゃありませんぜ」
「なに、一人じゃない?」
「ええ、二人です。折り重なって倒れているんです。ほら、あの舟底に……」
二人——? ああ、それにちがいない。鈍い月光のなかにゆられゆられて漂うボートの中には、たしかに二人倒れている。それが誰と誰であるかは、顔を見ずともわかるような気がする。それに……それに……折り重なって倒れている二人が、身動きもしないというのはどうしたのでしょう。……
「せ、先生!」
綾子はひしと由利先生にすがりつく。ボートはいよいよ近づいて、やがてこちらのボートがどしんと向こうの舳にぶつかった。と、まっさきに跳び移ったのは三津木俊助。
「大道寺さん、あなたはここにいらっしゃい」
由利先生もそれにつづいて跳びうつる。
最後に警部も乗り込みました。警部が照らす懐中電燈の光の中で俊助は先ず、折り重なって倒れている二人の、うえの男を抱き起こした。
「鵜藤五郎!」
いかにもそれは五郎だが、それにしてもその形相のなんというすさまじさ。苦悶のために顔全体がいびつに歪んで、眼球が恐ろしくとび出している。かれらはつい今しがた、これと同じ表情を見た。梨枝子夫人の死顔に……。
ストリキニーネ。そうです。梨枝子夫人を殺したのが、ストリキニーネであったとすれば、五郎の死因も、それと同じストリキニーネにちがいない。
由利先生は手早く五郎の脈をとってみたが、すぐ首を横にふると、
「もう、駄目。……」
それから、かれらは五郎の下に倒れている男を見ました。その男はうつむけに倒れていたが、首が半分千切れるほども横にねじまげられ、しかもそこには何やら細いものが巻きついている。
「先生、針金みたいですね」
俊助は身顫いしながら、針金のはしに手をかけたが、すぐ指先に火傷でもしたように、あっと叫んで離しました。
「ど、どうしたのだ」
「鵜藤君が……鵜藤君の死体が針金のはしを握っている……」
ああ、何んということだ。鵜藤五郎はもう一人の男を、針金でしめ殺そうとして、そしてその針金を握ったまま、自分も死んでいるのです。
由利先生はふと下になった男の顔を覗きこみました。いや、顔を見ずともそれが誰であるかわかりきっている。
「先生、先生、……虹之助さんは死んでいるのですか」
それに対して由利先生は、いかにも懶《ものう》げに首を横にふると、
「いいえ、奥さん、あなたのペットは生きていますよ。唯《ただ》気を失っているだけなんです。それに反して鵜藤君は完全に死んでいる。ああ、何んということだ!」
一同は放心したような眼付きで、この不可解な、物凄い光景を見つめているのでありました。波のうねりはしだいに高くなっていく。……
[#小見出し] 第五編
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警部と俊助の論理——障子の穴——謎のアラベスク——二通の電報のこと
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一
「やれやれ、この家には悪魔がとりついていると見える。ひと晩に二人だ。それに未遂がもう一人」
江馬司法主任は頭をかかえて、
「ああ、何んということだ!」
歎くが如く、呻《うめ》くが如く呟いたのも無理はない。あまりといえばあまりの怪事、警官たちの鼻先で、一人の男が毒殺され、一人の男があやうく絞殺されようとしたのですから、世にこれほどの怪事件はまたとありますまい。
あれから間もなく、五郎の死体と、半死半生の虹之助を、甲野の家の離れ座敷へ連れもどった一行は、そこでまた警察医を呼び出して、五郎の死体を調べてもらったのです。
誰の眼もおなじこと、五郎はやっぱり梨枝子夫人と同じ毒薬、即ちストリキニーネのために死んでいるのでした。
さて、虹之助ですが、これは思ったよりも軽傷で、気を失っていたのは、咽喉の傷より、むしろ恐怖のためであったと思われる。
間もなくかれは息を吹き返しましたが、厄介なことにはこの男、息を吹き返しても吹き返さなくとも同じようなものです。
生ける屍も同じ盲聾唖、取調べようがないのです。
「奥さん」
「はあ。……」
「あなたはもうかなりの期間、この男といっしょに住んでいらっしゃるわけですが、まだ、話をする方法は見つかりませんか」
「はあ……あの……」
綾子はおびえたような眼で、虹之助の咽喉に刻みこまれたみみず腫れを見ながら、
「あたしもずいぶん苦労してみたのですけれど、何しろ眼も、耳も、口も、なにもかも駄目なもんですから……どれかひとつでも健全ならば、なんとか手のつくしようもございましょうが……とても十日や二十日では駄目ですわねえ」
「すると、この男から訊き取りを得るということは、やはり諦めなきゃいけませんかな。いや、有難うございました。お疲れでしょうから、あなたは向こうへいって休息していて下さい」
「あの、警部さん」
「はあ……?」
「この人、……虹之助さんをつれていってはいけないでしょうか。この人、あんなに弱りきっていますし、もともと丈夫なからだではなさそうですから」
「いや、それはもう少し待って下さい。取り調べがすんだら、もちろんあなたにお願いいたします」
「そうですか。では……」
綾子が不本意らしく引きとったあとには、警部と由利先生と三津木俊助の三人きり。いやそこにはもう三人いるのだけれど、そのうちの二人はすでにつめたい死体となっており、もうひとりの虹之助、これはまた毎度いうとおり、生ける屍も同様の存在なのです。
「さて、先生」
警部は由利先生のほうに向きなおると、
「先生はこの事件をどういうふうにお考えになりますか」
「私——?」
由利先生は眉をあげると、
「正直のところ、私にはまだ何もわからない。五里霧中——と、いうのが、現在の私のいつわらざる心境ですね」
「そうでしょうか。そんなに難しい事件でしょうか」
警部は疑わしそうに由利先生の顔を見ながら、
「私はかえって、これで何もかも解決したような気がするんですがねえ。五郎が死んだので、ちょうど勘定があって来たんじゃありませんか」
「勘定があって来たとは……?」
「つまり梨枝子夫人を毒殺したのは五郎なのですね。そうすると、問題のチョコレートの謎も雑作なく解けるわけです。一足さきにかえって来たか、それとも、あの暗がりを利用したか、ともかく、五郎にはチョコレートの鉢をかくす機会はいくらでもあったわけですからねえ」
「なるほど、すると五郎の死は、自殺だとおっしゃるのですか」
「そうです、そうです。梨枝子夫人を毒殺したが、まごまごすると尻が割れそうになった。そこでみずからも毒を呷《あお》って自殺した……と、こういうわけじゃないですか」
「なるほど、しかし、そうすると虹之助のことはどうなりますか。虹之助はあきらかに、五郎に咽喉を締められたのですよ」
「そうです。そうです。それはね、五郎には虹之助がけむたかったからです。梨枝子夫人は虹之助の眼のまえで死んだのですよ。してみればいまわの際に梨枝子夫人がどんなことを虹之助に囁《ささや》いたかわからない。むろん、虹之助は何を囁かれたところでわかる気づかいのない人間ですが、脛に傷持つ犯人としては、やはり安心出来ない筈です。どういう方法でか、梨枝子夫人が自分の意志を、相手につたえていないものでもない。また、いつどういうはずみでか、虹之助の口が利けるようにならぬとも限らない。いかに盲聾唖とはいえ、虹之助は生きた人間、木仏金仏石仏《きぶつかなぶついしぼとけ》じゃないのだから、犯人として油断のならぬ気持ちだったのでしょう」
「なるほど。……しかしそれがために虹之助を殺そうとしたのなら、五郎は自殺しなくともよい筈ですね。いや、死にたくないからこそ、証人を殺すのでしょう。自殺するくらいなら、虹之助が何を知っており、また何をしゃべろうとも、構わない筈じゃありませんか」
警部もそこでぐっと言葉につまりました。そういわれてみればたしかにそうで、自分の説には論理的に、大きな隙のあることに気がついたからであります。するとそのとき、横合いから口を出したのが三津木俊助。
「五郎の死が自殺であろうという説、それから五郎が虹之助を絞殺しようとしたのは、梨枝子夫人から、何かきいていやあしないかと恐れたためであるという説、僕もこの二つの点に関しては、警部さんの説に賛成ですがねえ」
「おや、三津木君、君にも何か意見があるのかね」
からかうような由利先生のくちぶりに、俊助は少し赧くなりながら、
「そ、そりゃ先生、僕にだって多少の意見はありまさあ」
「よしよし、それじゃ拝聴しよう。つまりなんだね、君も五郎の死を自殺だというんだね。そして五郎が虹之助を絞殺しようとした点についても、警部と同じ意見だというんだね。しかし、それじゃ、三津木君、警部の意見と少しも違わないじゃないか」
「いや違います、いちばん重大な点で警部さんと意見が違っているんです。即ち、僕の意見では、梨枝子夫人を毒殺したのは五郎ではない。……」
「ほほう!」
と、由利先生は口をつぼめて、笛を吹くような真似をする。警部は眉をひそめて、
「しかし、五郎が犯人でないとすると、なぜ自殺したんです」
「それは、つまり、五郎が犯人を知っていたからです。つまり五郎は身を殺して、犯人をかばおうとしたのです」
「ふうむ」
由利先生は太い鼻息をもらすと、
「恐るべき犠牲的行為だね」
「そうです。恐るべき犠牲的行為です。しかし、こういう例は必ずしもあり得ないことじゃない。五郎は犯人を知っていた。そして、ほうっておけば遠からず、暴露するであろうことも知っていた。そこで、みずから身を殺して犯人をかばおうとしたのです。しかし、自分が死んだだけでは安心出来ない。さっき警部さんもおっしゃったように、どういうことから、虹之助が犯人を知っていないものでもない。そしていつまた虹之助がしゃべり出さないものでもない。もしそんな事があった場合には、せっかくの自分の苦心も水の泡だから、さてこそ虹之助を冥途《めいど》のみちづれにしようとしたのです」
「いや、なるほど、これは恐れ入った」
警部はひどく感服の態で、
「先生、これゃ三津木君の勝ちです。私もしばしば、そういう犠牲的精神ってやつにぶつかったことがある。それはたいていの場合、恋愛から来ていますな。愛人のために死ぬ。——ある種の若者にとっては、それは殉教者の法悦にも似たものがあるらしい。……」
警部はたいそう感服した模様だが、由利先生はにこりともせず、
「しかし、三津木君、それじゃ五郎はなぜ、虹之助を絞殺してしまわなかったのだね。なぜ、蛇の生殺しみたいに、絞殺を途中でやめてしまったのだね」
「それは先生、五郎はもう虹之助を死んだものと思いこんでいたんじゃありませんか」
「そうです、そうです。三津木君のいうとおり、虹之助がぐったりしたので、首尾よく絞殺したものと思いこみ、そこで毒を嚥んだ……」
だが、それに対して由利先生は、きっぱりとつぎのようなことをいったのである。
「江馬君、三津木君、せっかくながら僕は、君たちの説に賛成することは出来ないねえ。五郎は自殺じゃない。なぜといって、五郎が愛人のために死ぬんだったら、きっと自分が犯人であるということを、書きのこしていった筈ですからねえ。それでなければ後にいろんな疑問がのこるわけだから、せっかくの犠牲が犠牲にならない。それから、虹之助がすでに死んだと誤認して、毒を呷ったという説にも私は承服しかねる。あのとき五郎はまだ、針金の一端を握っていたんですよ。だから私は思うんだが、五郎は虹之助を絞殺しようとした。ところが、虹之助のまだ死に切らないうちに毒がまわって逆に五郎が死んだのです。この一事をもってしても、五郎の死が自殺でないことはわかっている。五郎も毒を嚥まされたのです。毒を盛ったやつが誰であるか、なぜまた五郎に毒を盛ったか、更にどういう方法で盛ったか、——そういうことはまだ一切私にも分からない。しかし、唯一つ、これだけのことは断定してもよいと思う。この家には、恐ろしい毒殺魔がいるんですよ。惨忍、冷酷、それこそ、爬虫類のようにつめたい恐ろしい、血をもったやつが……」
由利先生はそういうと、われとわが言葉におびえるように、ゾーッと身顫いするのでありました。
二
さて、五郎が絞殺につかった針金、それはヴァイオリンの絃で、その絃の出所はすぐにわかりました。
虹之助が宵からぶちこまれていた四畳半、そこには転宅で片付かぬ荷物が、いっぱい押し込んであるのですが、その中には由美のヴァイオリンもありました、しかもそのヴァイオリンの第一絃はたしかにむしりとられている。
「君はずっとこの障子の外で張り番をしていたのでしょう。それでどうして虹之助の連れ出されるのに気がつかなかったんですか」
由利先生の一言に、すっかり恐縮したのは見張りの刑事です。自分のちょっとした油断から、とんでもないことが起こったのだから、若い刑事が気の毒なほどしょげかえっているのも無理はない。
「それが……なにしろ相手が盲聾唖と来ているものですから……それにまた、警察の者が張り込んでいる最中に、あんな大胆な真似をする奴があろうとは、夢にも思いませんでしたし……」
若い刑事はしどろもどろである。由利先生も気の毒になったのか、少し言葉をやわらげて、
「なるほど、それで気を許したんですね。まあ、そうきけば無理もないようなものの、以後気をつけるんですね。ところで、君がここで張り番をしているあいだに、何か妙だと思われるようなことはなかったかね。どんなことでもいいんだ。どんな些細な、一見なんでもないようなことでもいいんですが、何かこの四畳半のなかで……」
「そうです、そうです、そういえば、実はその時も、ちょっと妙に思ったんですが……」
と、刑事は唇をしめしながら、
「私が台所で水を飲んでいるときでした。部屋のなかから、話し声がきこえて来たのです」
「話し声?」
由利先生は眉をひそめて、
「で、どんな事をいったのだね」
「それが、よくわからないのですが、誰かそこにいるかね——、とそういう言葉だったように思います。私はびっくりして、障子をひらいてみたんですが、虹之助がぐったりと寝ているきりで、誰もいません。むろんあの盲聾唖に口が利けるわけはありませんから、私はてっきり自分の空耳だと思って、そのまま障子をしめてしまったのです」
「君はそのとき、窓の外のことを考えてみなかったのかね」
「ええ。それが、つい、その……いまから考えると、妙に低い、陰にこもった声でしたから、窓の外からよんだものかも知れないのです。しかし、その時はまるきり、そんなことには気がつかなかったものですから……」
「窓の外をのぞいてみなかったというのだね」
「ええ。——すみません」
「先生、それがつまり五郎の声だったんですね」
三津木俊助がそばから口をはさんだ。
「そうだろう。——ところで君、ほかになにか気がついたことはなかったかね」
「そうですね」
刑事は小首をかしげていたが、ふと思い出したように、
「そういえば、私はもう一度はっとしたことがあります。さっき申し上げた声がきこえてから間もなく、この部屋のなかから、ブルルンというような音がきこえて来たんです。そのときも、私はすぐこの部屋へ駆けつけようとしたんですが、途中でなあんだと気がついたので止してしまったんです」
「止した? どうして?」
「でも、その物音がすぐわかったものですから」
「わかった? いったいそれはなんの音だったのだね」
「ヴァイオリンの糸をはじく音です。だから私は、虹之助のからだが、ヴァイオリンにさわったのだろうと思って、……まさか、そのとき五郎の奴が、あんな恐ろしい目的で糸をはずしていたのだとは、夢にも思いませんでしたから」
由利先生の持っている、あの恐ろしいヴァイオリンの第一絃に眼をやりながら、刑事はかすかに身顫いしました。
さて、これ以上刑事を追求したところで、得るところもなさそうなので、由利先生はよい加減に切り上げると、改めて部屋のなかを調べてみました。まえにもいったように、そこには転宅で片付かぬ荷物が、ごたごたといっぱい詰め込んであるのだが、それらの中には静馬の画架や、三脚や、さては絵筆などが無雑作に突っ込んである。
また、由美のものらしい洋笛などもありました。
由利先生はひとつひとつそれらの品を、目で追うていましたが、ああ、その時先生が、それらの品々に、いかに大きな意味があるかを知っていたら!——
しかし、由利先生とても神ならぬ身の、そこまで見透す力がなかったというのも、やむを得ないしだいでありました。
それはさておき由利先生は、部屋のなかを調べてしまうと、廊下へ出て、うしろの障子をしめましたが、そのとき、ふうっと眉をひそめたから、
「先生、なにかまた……」
「いや、別に……何んでもないことかも知れないのだが……、君、君」
呼ばれてそばへやって来たのは、さっきの若い刑事である。
「はあ……何かまた……」
「いや、大したことじゃないんだがね。ほら、そこの障子の、いちばん下の齣《こま》がすこし破れているだろう? あれ、はじめから破れていたのかね」
見るとなるほど、小猫が出入りするほどの、小さな破れが出来ているのである。
「はあ、あの破れですか、さあ……」
と、刑事は不思議そうに由利先生の顔を見直したが、
「そういえば、虹之助をここへ連れこんで来たときには、ああいう破れはなかったように思います。そうです、そうです。思い出しました。ああいう破れはたしかにありませんでしたよ。御覧のとおりこの障子は、ちかごろ貼りかえたばかりらしくまだ真新しいでしょう? 虹之助をここへ放りこんで、ぴったり障子をしめたとき、私はそう思って障子のおもてを見渡したのです。そのとき、こんな破れはたしかにありませんでしたよ」
「と、すると、これはいつ破れたのだろう」
「さあ。……」
「先生」
その時横から、不思議そうに口を出したのは江馬司法主任であった。
「この障子の破れているということに、何か意味があるとおっしゃるのですか」
「いや、それは私にもわからない」
由利先生は沈んだ声で、
「しかしねえ。江馬さん、三津木君、私にはこの事件が、とても世の常の事件とは思えないのだ。この事件の底には、何かしら恐ろしい、想像を絶したような、怪奇な謎がひそんでいるように思えてならないのだ。こういうと君たちはわらうかも知れない。いたずらに白昼、悪夢をえがいておののくものと嘲弄《ちようろう》するかも知れない。しかし、しかし、私はだれがなんといおうとも、この確信は動かさぬ。この事件は、怪奇と謎のアラベスクなのだ。そしてそのアラベスクを理解するためには、障子の破れひとつといえども、そこになにか意味がありはしないかと、一応かんがえてみる必要があると思うんだよ」
由利先生はそこでふかい溜め息をついたが、先生のこの言葉にあやまりはなかったのである。なんでもない、小猫の出入りするくらいの障子の破れ、——そこにこそ、なんともいえない物凄い謎がかくされていたのでありました。
三
ほのかな暁の光。——
水平線のかなたはようやく白んで、江の島が見果てぬ夢のようにぼんやり浮んでいる。外海には嵐がちかづいているのか、波の音はいよいよ高く、風の気配にもただならぬものがありましたが、昨夜一睡もしなかった由利先生や三津木俊助にとっては、かえってそのほうが快いのです。
あの悪夢にも似た、恐ろしい甲野の別荘をあとにした二人は、いま黙々として駅への道を歩いている。さくさくと鳴る砂まじりの土の音が、熱しきったふたりの頭に、爽快《そうかい》な響きをつたえ、寝足らぬ頭もいよいよ冴えかえって来るようです。明けかかったとはいえ、鎌倉の町はまだほの暗く、どの家もしいんと寝しずまって、ところどころについている軒燈の灯が、夢を追うように淡くわびしいのでした。
「先生、警部はあれでまだ、五郎の自殺説を捨てかねているんですぜ」
由比ヶ浜の通りへ出たところで、ポツンと三津木俊助がそんなことをいい出した。
「ふむ」
と、由利先生もうなずいて、
「そのほうが万事、納得しやすいからね。梨枝子夫人を殺したのは五郎である。そして犯罪の発覚をおそれて、五郎は自殺したのである——と。そういうふうに説明してしまえば、なんの苦労もいらないわけだからね」
「しかし、警部がそういうふうな、イージーゴーイングな考えかたに傾いていくというのも、考えてみると無理はありませんね。奴さん、今度の事件の底を流れている無気味な暗流、即ち、甲野一家と虹之助とのあいだにある、薄気味悪いつながりを、少しも知っていないのだから」
「そうなんだ。それなんだよ。それが警部の最大の弱点なんだ。あの男はこの事件の序曲を知らないで、いきなり本題に突入しているのだから、いろいろ理解しがたい節の多いのも無理はないのだ。それを打ち明けて注意しようとしないわれわれも、たしかにフェヤーじゃない。しかし、いまのところわれわれに何が話せるというのだ。天神祭りの夜の出来事、虹之助がかいて見せた鬼の絵、それだってみんな偶然だの暗合だので、説明してしまえば出来ないことはないのだ。われわれはひょっとすると、疑心暗鬼に悩まされているのかも知れないのだ」
「しかし、先生はそれが疑心暗鬼でないこと、いまおっしゃったような些細な出来事が、今度の事件に深いつながりを持っているという、確信を持っていらっしゃるんでしょう」
「もちろん」
由利先生は言葉を低めて、
「三津木君、事件は今夜はじめて突発したんじゃないのだぜ。この事件はずっと過去から、陰惨な尾をひいて来ているのだ。われわれが瀬戸内海の波のうえから、虹之助を拾いあげたとき——いやいや、それよりももっと旧い昔から、何かしら、強い、執念ぶかい呪いみたいなものが、幽霊のように尾をひいているんだ」