由利先生の調子には、いつにない熱っぽさがありました。
まだ、ほのぐらい由比ヶ浜通り、潮気をふくんだくろい風が、ふたりのあいだを吹きぬけていく。空には速い雲脚のあいまから、びっくりするほど明るい星がひとつ、なにかの魂のようにキラキラ光っている。
「それにしても、先生、五郎はいったい、いつ毒を嚥まされたんでしょう。ストリキニーネというやつは、かなり早く徴候があらわれるということでしょう。してみれば、五郎が毒を嚥まされたのは、われわれがあそこへ行ってからのちということになりますね」
「そうなんだよ。五郎はわれわれの面前で、毒を嚥まされたんだよ」
「しかし、いつ……」
だが、そのとたん俊助は、思わずドキリと立ち止まると、
「ああ、あのコーヒー……」
「そうなんだ。三津木君、あのコーヒーなんだ。あのコーヒーは実に苦かったからね。だから五郎も、ストリキニーネの味がわからずに、嚥みくだしてしまったんだよ」
「しかし、じゃ、誰が……誰がコーヒーのなかに毒をほうりこんだのです。あの時五郎のそばにいたのは、静馬と由美のふたりきりでしたよ」
「そうだった。静馬と由美のふたりきりだった」
「先生、そ、それじゃ、毒殺魔というのは、静馬と由美、ふたりのうちのどちらかだとおっしゃるのですか」
「いいや、私にもまだわからない、わからないというよりほかはない」
由利先生は沈んだ声でそういったが、やがてふうッと顔をあげると、
「しかし、三津木君、考えてみると怖いことだよ。ねえ、恐いことだよ、だって、その時の五郎の行動をよく思い出してみたまえ。五郎は毒を嚥まされた。しかし、かれ自身は、そんな恐ろしい毒を嚥んでいることなど、少しも知っていなかった。そこでかれは何をしたか。琴絵のことが問題になって来ると、そっとその場をぬけだして、アルバムに貼ってある写真のなかから、琴絵の顔をえぐり取った。それからかれは表へ出て、窓の外から虹之助をおびき出したのだ……」
「しかし、先生、その時虹之助は、なぜおとなしく五郎についていったのでしょう。なぜ、助けを呼ばなかったのでしょう。盲聾唖とはいえ、虹之助は声が出ないわけじゃない。また、抵抗出来ないほど弱りきっていたわけじゃない。それだのに、虹之助はなぜ、むざむざと五郎のあとについていったんでしょう」
「そこだ! 三津木君」
由利先生は急に言葉を強めると、
「そこなんだよ。虹之助はわれわれが考えているほども不能者じゃないのかも知れない。どういう方法でか、他人の意志を理解し、また自分の意志を他人に理解させることが出来るのかも知れないのだ」
「するとつまりその方法で、五郎は虹之助をあざむき、外へ連れ出したというんですね」
「そうなんだ。そしてボートに連れこむと、かくし持ったヴァイオリンの第一絃で、やにわに虹之助の咽喉をしめようとした。ところがそのとき、さっき嚥んだ毒のききめが現われて来た。五郎は咽喉をしめおわらぬうちに、自分のほうが死んでしまったのだ。毒のために……」
ああ、それはなんという恐ろしいことでありましょう。
どんな恐ろしい連続的殺人事件でも、たいていの場合、そこに働いている犯人の意志というものは唯一つであるのがふつうなのです。
ところが今度の事件では、少なくとも二つの意志が交錯している。虹之助を殺そうとする五郎の意志と、五郎を殺したべつの犯人の意志と。……
それを考えると由利先生は、何かしら得体の知れぬ妖雲が、甲野一家におおいかぶさっているような気がして、ゾーッと鳥肌の立つかんじでしたが、そのときでした。まだほの暗い由比ヶ浜通りを、向こうからやって来たひとつの影が、ふたりの姿を見付けると、かくれるようにつと横町へ曲がるのが見えました。
「おや、あれは……?」
俊助も見たのにちがいない。どきりとしたように由利先生と顔を見合わせたが、つぎの瞬間、二人はいっせいに駆け出しました。
曲がり角まで来ると、相手はまた、向こうの角を曲がるところでした。ちらとこちらをふりかえった、その顔かたちまでは識別しかねたが、
「あれゃ、たしかに志賀恭三だね」
「ええ、そうのようでした」
「奴さん、どうしてあの家を抜け出して来たんだろう、いや、それよりどこへいったんだろう」
「あと追っかけてきいてみましょうか」
「いや、まあ止そう、どうせ無駄だから。あの男、一筋縄でいく奴じゃない」
由利先生は苦いものでも吐き出すような口調でした。色の浅黒い、眉の秀でた、ひとをひととも思わぬ面魂を持つ志賀恭三、あの男は由利先生にとっても、かなりの苦手と思われるのです。
「いったい、志賀という男は、どうして大道寺の未亡人と結婚しないのかね。大道寺の未亡人、あの男にあうと、まるで小娘のようにわくわくしているじゃないか。別にふたりの結婚には、なんの障害もないわけだろ?」
「そうなんです。志賀のほうでうんとさえいえば、いつでも結婚出来る立場なんです。ところが……」
「ところが……?」
「ところが、あの男はあれで相当自尊心が強い人ですね。大道寺の未亡人のほうは、あのとおりの金持ちでしょう? ところが、志賀と来たらまるで無一文なんです。甲野の家の厄介者なんです。だから一儲けしてから結婚するという約束らしいんですが、その一儲けがいつのことやら、大道寺の未亡人、それでジリジリしているらしいんですよ」
「フーム、すると大道寺の未亡人が、あの男と結婚するためには、どうしてもあの男を金持ちにする必要があるわけだね」
由利先生はそういってから、急にぎょっとしたように立ち竦《すく》みました。
「三津木君、三津木君」
「先生、どうかしたんですか」
由利先生の顔色が、あまり悪かったので、俊助もはっとしたように唾を嚥みました。
「あのコーヒー……わしはたしかに憶えているが、女中が盆にのっけて持って来たね。それを先ずわれわれがひとつずつとった。すると、後に五つ残った。その中から大道寺の未亡人が、自分のぶんと志賀のぶんをとって、残りの三つを静馬と由美と五郎のほうに渡したね」
「先生、な、なんですって? するとあの時大道寺の奥さんが……? しかし、先生、それはあきらかに不合理ですよ。なぜといって、三つのこったコップのうち、どれを五郎がとるかわからないじゃありませんか」
「そうだ。どれが五郎に当たるかわからなかった。しかし、そのコップ、毒の入ったコーヒーのコップ、それは必ずしも五郎でなくともよかったのかも知れない。静馬でも由美でも、……甲野一家のものでさえあれば誰でもよかったのかも知れない」
「せ、先生! そ、それじゃ大道寺の未亡人が……」
「いや、三津木君、私はいま大道寺の未亡人が毒殺魔だといいきっているわけじゃないんだよ。これは可能性の問題なんだ。あの未亡人にも十分チャンスはあった。いや、チャンスのみならず、動機もはっきりあるわけだ。甲野一家がつぎからつぎへと死にたえていったら、当然、あそこの財産は、志賀恭三のふところにころげこむわけだからね」
俊助はそれに対してなんとも答えなかった。いや、言葉を口に出すには、あまりにも心が重かったのである。そこで二人は、何んともいえない、暗い、いやアな気持ちで、黙々として駅へむかって歩いていたが、
「あ、三津木君、わかった、わかった」
だしぬけに由利先生が立ちどまったので、俊助はびっくりして先生の顔を見直して、
「え? 何が……」
「志賀恭三だよ。あいつがどこへ行ったか……ほら、あいつはここへ来たのにちがいない」
由利先生が指さしたのは、ほの暗い灯のついた郵便局。
「三津木君、志賀は昨夜電報を受け取ったね。その返電を打ちに来たにちがいないぜ。とにかくなかへ入って調べてみようじゃないか。あいつがどんな電報を受け取ったか、またどんな電報を打ったか……」
ふたりは郵便局のなかへ入っていったが、そこで局員に事情を話して、やっと聞き出した電報というのは、つぎの二通でありました。
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コトエワルシスグ コイ
キョウイク」シガ
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そして志賀の打った電報の宛名というのは、千住にある鈴木という精神病院なのでありました。
[#小見出し] 第六編
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由利先生混乱す——ポンポン蒸気の冒険——跛の怪人のこと——志賀恭三の父
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一
琴絵が精神病院にいる。——
この発見ほど、由利先生を動顛させたものはありません。まったくこれこそ由利先生にとって何物にもましての大打撃なのでした。
虹之助が鳴門の渦にまきこまれようとしたあの日から、遠からぬ以前に、姿をくらました琴絵という少女に対して、由利先生はいままでずっとひとつの考えをいだきつづけていた。琴絵という少女と、虹之助という少年と、この二人は結局同じ人間ではあるまいか。——こういう考えは牢固《ろうこ》として、抜きがたい根を由利先生のあたまに張っていたのです。
それにはいろいろ理由がある。一方の失踪《しつそう》と、一方の出現が、ほとんど時日を同じゅうしていること、それからまた、虹之助のあの類《たぐ》いまれな美貌なのです。
あの少年なら、女装をしていても、誰ひとり怪しむ者はなかったろう。ことに小豆島の甲野の家は、どこか神秘な、曰《いわ》くありげな家だったというから、そういう秘密も、案外うまくたもたれたかも知れない。——
由利先生のそういう疑惑に、さらに油をそそいだのは、甲野一家の妙な素振り。琴絵のことに触れると、誰もかれも怯えたように言葉を濁すばかりか、五郎にいたっては、たった一枚しかない琴絵の写真を、警察官からかくすため、むしりとってしまったではないか。
それは即ち写真によって、琴絵と虹之助が同じ人物であることを、看破されるのを恐れたためではあるまいか。
更にもうひとつ、由利先生の疑惑をふかめるのは、虹之助の、虹のように断ちきられた過去のことである。
人間の過去の生活が、あんなふうにぼやけてしまうことは、どう考えても不合理である。人間が水のなかから湧き出して来るものでない以上、虹之助にも過去の生活があり、その生活はいろんな点で、世間と交渉をもっていた筈である。
それが全然わからないというのは、つまりその過去の生活というのは、虹之助としての生活ではなかった。——と、こう考えるよりほかはないのです。
以上述べたような理由から、由利先生の頭のなかには、虹之助イコール琴絵という仮説が、いつの間にやら出来上がっていたのだが、いま、二通の電報によって、その考えが木っ端微塵と打ち挫《くだ》かれたのだから、由利先生が眩《くるめ》くほど動顛したのも無理ではなかった。
琴絵という少女は、虹之助とは別に、立派にこの世に存在している。甲野一家があのように、それを秘しかくしていたのは、彼女の現在いるところが悪かったからである。即ち肉親のなかに、狂人のあることを恥じたからである。ことに、兄にあたる恭三としては、ひとしおそれに触れたくなかったのも無理はない。……
「三津木君、やり直しだ。やり直しだ。はじめからすっかり出直しだ」
鎌倉から東京へかえる電車のなか、由利先生はぐったりと、肩を落として呟いた。
「ああ、何んということだ。こんなに見事に背負投げを食わされたのは、わたしもこれがはじめてだ。ねえ、三津木君、そうすると虹之助という少年は、いったい何者なんだ。あいつは木の股からでもうまれて来たのか。それともぼうふらみたいに、水の中からわき出したのかい。ああ、あいつには親も兄弟も身寄りのものもないのかい」
「先生、まあ、そう落胆なさるには及ばないでしょう」
俊助も慰めかねた面持ちで、
「とにかく、琴絵という少女のいどころがわかっただけでも、何よりの収穫じゃありませんか。今日これから千住の鈴木病院へ出向いていって、その少女に会ってみたらどんなものでしょう」
「ふむ」
由利先生は窓から空を見上げながら、
「いよいよ、嵐が来そうだね。——これからすぐ行くか、それともひと眠りしてから出掛けるか、三津木君、君はどうだね。疲れてやあしないかね」
「それゃ、一睡もしていないのだから、疲れてることは疲れてますが、先生のお考えになるほどでもありませんよ。新聞記者というやつは、からだを無茶につかうしょうばいですからね」
健康そうな皓い歯を出して、俊助は元気に笑ったが、さすがに眼のふちの黒いくまや、顎に生えた無精髯に、疲労のいろは争われませんでした。
「それじゃ、ひとやすみしてから出掛けることにしようか。いったいわたしは、琴絵が精神病院にいるということがわかったら、何んだか急に、その娘に対する興味をうしなったような気がするんだよ。甲野の連中が琴絵のことを、ひたかくしにかくしている理由というのが、発狂という事実のせいだとすれば、どうせ大して得ることもなさそうな気がする」
「でも、先生」
俊助は力づけるように、
「琴絵が発狂したのは——事実発狂しているとしてですね——虹之助が出現する直前のことですぜ。そこに何か意味がありはしないか、それにまた、発狂という理由だけで、あの連中が琴絵のことをかくしているのだとすれば、なぜ、その顔まで、われわれに見せることを拒むのでしょう」
「ああ、そうだ!」
由利先生は、はじかれたように体を起こすと、
「その事がある。それじゃどうしても一度、鈴木病院というのへ行ってみる必要があるね。三津木君、わたしはこれから家へかえってひと眠りするが、午過ぎ、一時ときめておこう。一時には社へ君を誘いによるから、それまでに君は、鈴木病院というのを調べておいてくれたまえ。精神病院などには、おりおりとんでもないインチキなのがあるようだから、一応、予備智識を持っていたほうがいい」
「承知しました。よく調べておきましょう」
こうしてふたりが、有楽町でひとまず別れたとき、嵐の前触れのような雨が、ボツリボツリと降りはじめていました。
ああ、それにしても諺にもいうではありませんか。鉄は熱いうちに打てと。
もし、その時、由利先生がすぐその足で、千住へ駆けつけていたら、この事件はもっと早く解決し、そして、これから後に述べるような、あの数々の惨劇は、未然に防ぐことが出来たであろうに。——それもまことに止むを得ないことでありました。
二
嵐はとうとうやって来た。風はまだ吹きつのってはいなかったけれど、下界を圧する妖雲はひくく垂れさがって、車軸を流すような雨脚が、隅田の流れにたたきつけ、四界暗黒、観音様の五重の塔も、浅野セメントの煙突も、なすりつけたような薄墨の底に、小暗く、おののくようによどんでいる。
その隅田川を、よたよたと、喘《あえ》ぐようにのぼっていくのは、昔懐かしいポンポン蒸気。
これがお天気のよい日だと、ゆるやかな流れをポンポンポンと古風な音を立てて上下する、いわゆる一銭蒸気の風景は、まことにのどかなものですが、このような嵐の日は、見ているさえあぶなっかしい。
渦巻く奔流、たたきつける雨、そのなかを遡行《そこう》していくポンポン蒸気は、文字どおりの木の葉のようにゆれながら、吾妻《あづま》橋から言問《こととい》まで。時刻はお昼の三時ごろ。こういう風にもかかわらず、ポンポン蒸気は、満員|鮨詰《すしづ》めの乗客でした。
やがて、ポンポン蒸気が言問の桟橋に横付けになると、どやどやと、われがちに降りる人、それをまた掻きわけて乗ろうとする人たち。
そうでなくとも狭い桟橋は、洋傘と蛇の目傘、長靴と高足駄、レーンコートと防水マントがひしめきあって、危《あぶな》っかしいったらありません。
そういうひとたちを掻きわけながら、一番最後におり立った二人づれ、危うく洋傘をじょうごにしそこなって、
「やあ、これはひどい風だ」
いうまでもなくこの二人連れとは、由利先生と三津木俊助、これから千住の鈴木病院へ、琴絵を訪ねていく途中と見えました。風はようやくその頃から、吹きつのって来たようであります。
ところが、ちょうどその時なのです。
ポンポン蒸気のすぐあとから、波を蹴ってやって来た一艘のモーター・ボートがあります。乗っているのは、だぶだぶのレーン・コートの襟をふかぶかと立て、防水帽をまぶかにかぶり、しかも大きな煤色《すすいろ》眼鏡をかけた、どこか人眼をしのぶというふうな青年ですが、この嵐のなかでのこと、誰ひとり怪しむ者はありません。
青年はモーター・ボートをポンポン蒸気のすぐうしろにとめると、ひらりと桟橋にとびあがる。全身濡れ鼠となって、帽子の廂《ひさし》から滝のように雨のしずくが垂れているので、いよいよ顔の識別はつかない。
と、その時でした。青年のすぐ脇のところで、
「うっぷ。これはひどい。——三津木君、その鈴木病院というのは、ここからよほどあるのかね。何しろこれじゃ……」
そういう声が雷のように青年の耳をうちました。
ちょうどそのとき青年は、モーター・ボートを桟橋に繋ぎとめるのに、夢中になっていたのですが、この言葉が耳に入った刹那、
「あっ!」
と低い叫びごえをもらしました。
幸いおりからの騒擾《そうじよう》で、誰ひとりその声を聞いたものがなかったからよいようなものの、そうでなかったら由利先生も、きっと驚いて振り返ったでしょう。青年はモーター・ボートのうえに腰を曲げたまま、ちらりと二人のほうに素速い視線を投げましたが、どうやらそのとき、皮肉な微笑が、煤色眼鏡のおくではじけていたようでもあります。
二人のほうでは、むろん、そんな事とは気がつかない。ごった返す改札口に行列をつくって、
「千住といってもひろいから、ここからだと、相当あるのかも知れません。とにかく急いでいってみましょう」
「さっきの電話では、しごく要領を得なかったが、ひょっとするとあの院長め、志賀の奴と同じ穴の貉《むじな》かも知れない。とすると、こいつちょっと厄介《やつかい》だが」
何しろ嵐にさからって口を利くのだから、勢い声は大きくならざるを得ない。そういう二人の話し声が耳に入るにつけ、煤色眼鏡の青年は、どうしたものかと、唇を噛んで思案の模様であります。
「どうともいえませんねえ。事情を知っていて、その娘を監禁しているのかも知れない。そうすると相当手ごわい相手であることを、あらかじめ覚悟していなければなりません」
「ふうむ。そうだとすると、さっき電話をかけたのは失敗だったね。またどこか、ほかへ移してしまうかも知れない」
「そうですよ。それを僕も心配しているんですが……」
ようやくそのとき、改札口がすきました。そこで俊助が先に立ってそこを出ると、何気なくうしろを振り返りましたが、とたんに、
「先生! 先生!」
早口で叫びながら、由利先生の腕をつかんだ。
「ど、どうしたんだ。三津木君、な、何かあったのかい」
「あれです。先生、あの娘をごらんなさい」
「あの娘——?」
何気なく、いま出て来た桟橋のほうを振り返って、由利先生思わず口あんぐりとその場に棒立ちになってしまったのです。
吹きっさらしの桟橋に、雨と風に揉みくちゃになりながら立っているひとりの娘——その娘の横顔を見たとたん、由利先生は夢ではないかと自分の眼をうたぐったくらいでありました。
娘の年は十九か二十、無雑作に髪をたばね、藍の濃い中形《ちゆうがた》を、どことなくくるった調子で着ているのです。白粉気《おしろいけ》とては微塵もないが、色白の、すきとおるような綺麗な顔——ただ、惜しいことには、その眼つきが気になる。
美しい、張りのある眼を持ちながら、どこかその瞳に冴えないものがある。
つまりうつろなのです。精神的なひらめきに欠けているのです。
宙にういているのです。
しかも、宙にういているのは瞳のみならず、足許にも、どことなくフラフラと定まらぬものがあり、しかも吹きつける風、降りしきる雨にも一切無頓着で、濡れ鼠になりながら、平然として立っているところ、気が狂っているらしい。——とは誰の眼にもすぐわかる。
しかし、由利先生や俊助が、ひと眼少女の顔を見て、あんなにも大きな驚きにうたれた理由は、もっと別のところにありました。
その少女の顔なのです。
ああ、その顔! そしてその表情! ぐっと抱きしめれば、そのまま春の淡雪のように、解けてしまいそうな、どこか頼りなげな、虚弱な美しさ。——その美しいかおかたちは、あの盲聾唖虹之助と、そっくりそのままではないか。まったくそれこそ、虹之助が女装して、そこに現われたのだと思われるばかりの相似なのです。
琴絵なのだ!
由利先生と三津木俊助は思わず唸りました。そしてそれと同時に、甲野の一家が、あのような熱心さをもって、由利先生や警官たちの眼から、琴絵の写真をかくそうとした理由もはっきりわかりました。
かれらは琴絵の写真から、虹之助との相似を探り出されることを恐れたのにちがいない。かくも恐ろしい相似が、偶然に存在するとは思えないから、必ず琴絵と虹之助とのあいだに、血のつながりがあるにちがいない。
というのは、虹之助が甲野一家の血筋の者であることを意味している。——ああ、由利先生はいまはじめて、甲野一家とあの盲聾唖、虹之助とのあいだをつなぐ、鎖の環のたしかな証拠を発見したのでありました。
それにしても、琴絵はどうしてこんなところへやって来たのだろう。ほかにつれらしいものも見当たらないところを見ると、きっとひとりで病院を脱出して来たにちがいない。
そうなのだ。
昨夜の電報は、彼女の肉体的な病気を報らせて来たのではなく、精神状態の悪いほうへの進行を、意味していたにちがいない。おそらく、俄かにつのる発作から、琴絵はいま、ふらふらと病院を脱け出して来たのでありましょう。
由利先生は改札口からふたたびなかへ入ろうとする。だが、どっこいそうはいかなかった。
「もしもし、どこへ行くんです」
呼びとめたのは改札係りである。
「ああ、ちょっと、あの娘さんに用事があるんだ。すまないがここを通してくれたまえ」
「いけませんよ、ここを通るなら切符を買って来て下さい」
「いや、船に乗るんじゃないんだ。あそこにいる娘さんにちょっと用事があるんだ」
「どっちだって同じことです。切符のない人はここを通さないことになっているんです」
「わからない人だね。君は。……われわれはなにも船に乗ろうというのじゃない。ちょっとひとこと、あの娘さんと話をすればいいのだから……」
しだいにつのるこちらの声に、ふっと振りかえった狂女の眼に、由利先生と三津木俊助のすがたがうつりました。と、彼女の様子は急に不安らしくなって来る。
おそらく二人を、病院からの追手とでも思ったのでしょうか、さっと身をひるがえすと、タタタタタと桟橋をけって駆けおりていく。
「あ、お待ち、危ない!」
だが、狂人には恐ろしいものはない。
娘はそのまま、河の中へとび込みそうな勢いで、桟橋を突進していきました。事実、彼女はもう少しで、水の中へ顛落するところだったのです。もし、そのとき横合いから、あの煤色眼鏡の青年がとび出さなかったら。
その際の、青年の挙動は、眼にもとまらぬ敏捷《びんしよう》さで、モーター・ボートのかたわらから、むっくと起き上がると、タタタタタと娘のあとから追っていく。
だが、だが、……そのとき由利先生と三津木俊助は、はっきりそこに見たのである。その男、たしかに跛をひいている。
「あっ!」
跛——跛——かつて大道寺綾子が、大阪のホテルで目撃し、そしてまた、昨夜の惨劇の際にも見たという、怪人物はたしかに彼だったというではないか。
「あ、待て! その娘をどうする!」
「いけませんよ、いけませんよ、無断でここをとび出しちゃ……」
跛の男にはそれだけの隙《ひま》があったのです。琴絵のからだを横抱きにすると、タ、タ、タ、跛ひきひき、モーター・ボートのそばまで来ると、どーんと娘をなかへ投げ込み、自分もあとから跳び込むと、ダダダダダ、——エンジンを鳴らして、はや水際から五、六間。——あまりの早業に、その場にいあわせた人々も、手を出すひまがなかったのです。
「待て! 畜生!」
意地悪く、まだ引きとめようとする改札係りを突きのけて、由利先生と俊助が、桟橋へ跳び出していったときには、モーター・ボートは白い波を蹴立てて、いっさんに下流へむかって。——降りしきる雨、吹きすさぶ風のなかを、揉みに揉んで、みるみるうちに、薄墨いろのしぶきのなかへ消えていく。——
三
これがほかの日ならば、モーター・ボートで追跡することも出来たかも知れない。しかし、折りからのこの雨、この風、たとい追跡してみたところで、すぐ見失うことは火をみるよりも明らかです。由利先生も諦めるより仕方がなかった。
「三津木俊助君、いまの男を見たかい」
「顔は見えなかったが、たしかに跛をひいていましたね」
「そう、跛をひいていた」
由利先生はなにやら深くふかく考えている。
「跛の男というと、大道寺未亡人がみたという、影のような男じゃありませんか。その男なら、虹之助と何か関係があるらしいから、琴絵に眼をつけるのも無理はありませんね」
「そうかも知れない。また、そうでないかも知れない」
由利先生は謎のような言葉を呟くと、
「いずれにしても、あれゃわれわれの知っている、甲野一家の者じゃなかったね」
「違います。静馬でも志賀でも、また由美の変装でもありませんでしたよ。第一、あの連中はいま、警察の監視のもとにある筈だから、とても脱出して来るわけにはいかないでしょう」
「ふむ。そのことなら、いずれ後で鎌倉の警察へ電話をかけて、たしかめて見ればわかる。いずれにしても、三津木君、これでまた、跛がひとつ殖えて来たわけだよ。だが……まあ、いいや。ここまで来たんだから、ともかく鈴木病院というのへいって見よう。院長がどんなことをいうか、それを聞くのも一興だろう」
だが、それから間もなく、嵐をおかしてたずねあてた鈴木病院というのが、思いのほかに立派なのには、二人もちょっと当てのはずれた感じでした。
近所で二、三きいてみても、悪い評判はないらしく、院長の鈴木博士というのも、会ってみると感じのいい、なかなか人柄な好紳士でありました。
「やあ、さきほどはお電話をどうも、……この嵐だからどうかと思っていましたが……」
院長は二人に椅子をすすめると、表の雨を気にしながら、
「ところで、あらかじめお断わりしておかねばなりませんが、実は、ここにちょっと困ったことが起こりましてねえ」
院長は当惑そうに眉をひそめた。
「いや、わかっています。困ったことというのは、例の患者が逃げたのでしょう」
「ええ? どうしてそれを御存じですか」
院長はビクリと眉をあげると、探るようにふたりの顔を見くらべました。
「なあに、実はここへ来る途中で出会ったのですよ」
と、由利先生が手短かに、さっきの話をきかせると、院長は眉をひそめてふむふむとうなずいていたが、やがてやおら椅子から乗り出すと、
「いや、それをきいて安心しました。と、いっちゃ悪いが、さっきああいう電話があったあとで、問題の患者がいなくなったなどといおうものなら、その間に、何かうしろぐらいことでもあるように思われやしないかと、それを心配していたんですがね。しかし、お話のようなことがあったとすれば、捨てちゃおけない。さっそく警察のほうへも知らせておかなければ……鎌倉の志賀君へも電報を打っておかなければならない」
「そうですね。そうなすったほうがよろしいでしょうねえ」
「ところで、患者をうばっていった人物ですがね、あなたがたはそれについてお心当たりはないのですか。もし、おありのようだったら、きかせて戴きたいですね。捜査の手懸りにもなろうと思うんですが」
由利先生は首を左右にふると、
「残念ながら、それについては少しも心当たりはありません、ただ、跛の男であった、——というよりほかに申し上げようはないのです」
「跛の男——? そうですか。いや、それだけでも手懸りになるかもしれません。志賀にもそのことを伝えておきましょう。ところで——」
と、そこで院長は改めて二人の顔を見直すと、
「どういう御用件でしょうか。患者がいなくなっちゃ、御期待に添いかねると思いますが……」
「いや、患者も患者ですが、実は志賀氏についてお訊ねしたいと思いましてね。あなたはあの人とよほど御懇意な間柄のようにきいていますが……」
「懇意——? まあ、そういえばいえるでしょうね。あの男とは同郷でした、中学もいっしょでしてね、小豆島ですよ。あの男はたしか私より三年か四年あとだったと憶えています。ところで、あいつが何かやらかしたのですか」
そういう口吻から察すると、この人はまだ昨夜の事件を知らないらしい。由利先生は三津木俊助と顔を見合わせました。
「いや、そのことについては、いずれお耳に入ることと思いますが、実は私の知りたいのは、あの人のひととなりについてなんです。いったいあの人は何をやっているんですか?」
「何んといって、別に——」
院長は俄かに警戒のいろをうかべたが、急ににやにやすると、
「ああ、そうそう、あなたは私立探偵でしたね」
「ええ、まあ、そうです」
「警察とは関係がないのですか」
「ないこともありません」
「なるほど」
院長は意味ありげにふたりの顔を見較べながら、
「それじゃ、ひとつ御自分でお調べになったらいかがですか、そういう事を調べるのが、お仕事なのでしょう」
「いや、御尤《もつと》もです」
由利先生はにやりとわらいながら、
「だから、こうして推参しているしだいなんですよ。と、いうのは、志賀氏については、鈴木院長にきくのがいちばんちかみちだという評判ですからね」
「ははははは、これは一本参りました。誰がそんなことをいったのか知りませんが、事実かも知れません。ところが、それでいて、私もあの男が何をやっているか、ハッキリ知らないんですよ」
「でも、多少は御存じでしょう」
「それはいくらか知っています。いったい、あの男は独立心の強い男でしてね。一種毅然としたところのある、義侠心にとんだ、なかなか偉いところのある男ですよ。ところがこのまえ会ったときには、金を儲けたい、大至急、まとまった金をつくらねばならんというようなことをいっていましたよ」
由利先生はまた俊助と顔を見合わせました。
「しかし、あの人、金を持っているんじゃないのですか。少なくとも、あの人の従弟の甲野というのは、相当の資産家のように聞いておりますがねえ」
「そう、甲野は金持ちですね。あれは小豆島一番の醤油の醸造元だから、しかし志賀は無一物ですよ。素寒貧《すかんぴん》の浪人ですよ」
「でも。……志賀は甲野家とは親戚でしょう。いまの主人の静馬君とは従兄弟同志の筈ですね。だから、もし、いま甲野の人たちにもしものことがあったら……不吉なことをいうようだが、静馬君たちが死にたえたら、甲野家の財産は、志賀氏のふところに転げこむわけじゃないのですか」
院長は眼を細めて、興味深げにまじまじと由利先生の顔を眺めていたが、やがて薄ら笑いを口もとに浮かべると、
「なぜあなたがそんなことをおっしゃるのか、それからまた、志賀が何をやらかしたのか、私には見当もつかないが、いまおっしゃったような事で、あなたがたが、何か志賀について疑いを抱いていらっしゃるとしたら、それは大きな間違いですよ」
「間違い? どうしてですか」
「どうしてといって、甲野の一家が死にたえたとしても、甲野家の財産は、志賀のものにはならない筈です」
「なぜ? どうして? 志賀氏はこの間亡くなった、四方太老人の甥《おい》じゃありませんか」
院長はそこでまた眼を細めて、興味ふかげに由利先生の顔を見守りながら、
「だいぶ詳しく調べていらっしゃるようですね。しかし、遺憾ながらその調査は間違っているようです。志賀はなるほど四方太老人の甥ということになっています。四方太老人の妹が他へ縁づいて、そこでうまれた子供ということになっています。ところが、その妹というのは、実際は四方太老人の肉親の妹ではなく、梨枝子夫人の姉にあたるひと、それを四方太老人が自分の妹分として縁づかせたのです。だから志賀は甲野家の財産相続については、なんの順位も持たないわけですよ」
由利先生は思わず大きく眼を瞠《みは》った。三津木俊助もいきをひそめて院長の顔を視詰めている。かれの調査は間違っていたのだろうか。
「しかし、四方太老人はなぜそんな妙なことをしたのです。姉のほうを自分の妹分として他へ縁づかせ、妹のほうと結婚する。それには何かわけがなければなりませんねえ」
「そうです。わけがありますよ」
院長は顔色をくもらせると、
「小豆島へいってお調べになれば、どうせわかることだから、ここで申し上げてもいいのですが、四方太老人は、ほんとうはその姉、つまり志賀君の母にあたる人ですね、その人と結婚するつもりだったのです。その人は貧しい家にそだったが、たいへん綺麗な人だったそうですよ。ところがそこに競争相手があらわれた。それが志賀のお父さんになる人ですね。その人も小豆島では相当の家の息子だったんですが、そこにいろいろ事情があって、志賀のお母さんはそっちのほうへ縁づくことになった。ところが、いざとなって志賀家の親戚のほうから、その結婚について苦情が出たんです。田舎というところは、そういうことが面倒なところで、つまり嫁の実家が貧しすぎるというんですね。そこで四方太老人が義侠心を出して、その人を自分の妹ということにして、支度なども一切して志賀の家へ縁づかせたのです」
「なるほど。……そしてそれから後で、恋人の妹と結婚したというわけですね」