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作者: 当前章节:15360 字 更新时间:2026-6-23 06:52

「そうです、そうです。四方太老人もその時分はまだ若かった。表向きは綺麗に恋をゆずったものの、失恋のいたでは深刻だったのでしょう。久しく独身でとおしていたんですが、そのうちに梨枝子夫人が成長して、年頃になって来た。そこは姉妹ですから、昔の恋人によく似ている。そこでこれと結婚することになったのですね。幸い今度はなんの支障もなかったから……」

「なるほど、すると四方太老人は、姉に対する恋を、妹のほうで果たしたということになるのですね」

「まあ、そういうわけでしょうね」

「ところで、志賀氏のお父さんという人はどうしたのですか。志賀氏は子供のころから、四方太老人にそだてられたという話ですが」

 院長はそれに対して、しばらく無言のままひかえていました。暗いかおはいよいよ暗くなり、その質問にこたえたものかどうか、心のなかで迷っているふうでありました。

「いや、この質問が御迷惑ならば、おこたえいただかなくてもいいですよ。そこまできかせていただければ、後はこちらも、調査が容易ですから」

 院長はそれをきくとビクリと眉をふるわせて、

「いや、おこたえしないわけじゃないが……それにしても志賀がいったい何をしでかしたというのですか。よほど重大な事件ですか」

「そうです、たいそう重大な事件です」

 院長はじっと由利先生の顔を視詰めていたが、やがて心をきめたように、

「そう、それじゃお話しましょう。こんな事は私の口からいわなくとも、警察のほうで調べればすぐ知れることですし、同じ知れるのなら、私の口からいっておいたほうがよいと思う。志賀のお父さんという人は、たしか監獄でなくなったのだと憶えています」

 由利先生と三津木俊助は、思わず大きく息をうちへ吸いこみました。

 鈴木院長のこれから話す物語、その中にこそ、今度の事件の、おそろしい謎がかくされているのでありました。

[#小見出し]  第七編

[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]

 二人の良人とふたりの妻と——疑惑の双生児——二引く一は一残る——断崖での出来事

[#ここで字下げ終わり]

  一

「志賀のお父さんという人は気の毒な人でした。元来、そう悪い人じゃなかったと、私の父などもいっていましたが、それが俄かに狂い出したのは、志賀がうまれて間もなくのことだそうです」

 院長はくらい溜め息をつくと、

「人間の心ほど厄介なものはありませんね。こういう病院を経営していると、とくにそれを感ずるのですが、憎悪《ぞうお》、怨恨《えんこん》、嫉妬《しつと》、猜疑《さいぎ》、——本人が意識してそういう感情をいだいている場合もありますが、なかには無意識のうちに、いつの間にか、そういう悪魔の感情が、心のなかに入りこんでいて、本人にでもどうにもならないほど、強い根を張っていることがある。ことにそういう感情のうちでも、いちばん厄介なのは猜疑——それもいわれのない猜疑ですね。いわれのある猜疑だと、また、その原因を取りのけることも出来る。しかし、いわれのない猜疑は、本人の心にのみ原因があるのですから、余人にはどうすることも出来ない。志賀のお父さんという人は、そういういわれのない猜疑、悪魔の疑いに身をかまれ、ついには一身をほろぼすことになったひとです」

「いわれのない猜疑というと?」

「つまり四方太氏が自分の妻に親切すぎるというのですね。しかも、そういう疑いに油をそそいだのは、志賀が早くうまれすぎた。結婚後九ヵ月で志賀はうまれたのだそうです」

 由利先生は思わずひやりとしたように眼をすぼめた。俊助も茫然とした眼で、院長の顔を視詰めている。院長はぎこちなく椅子のなかで身動きすると、またぼつぼつとこの陰惨な物語をつづけるのでした。

「こういう疑いほど人間にとって悲惨なものはありませんね。一度こういう猜疑に身をかまれた人間、とりもなおさず地獄へおちたも同然なのです。しかもそれを露骨に口に出すことの出来る人間だとまだよかった。しかし、志賀のお父さんという人は、立派に教育もあるひとだし、元来が内気なひとだったそうですから、そういうあさましい疑いを、口に出して妻を詰問することが出来ない。口に出すことが出来ないから、疑いはますます心の中で内攻する。しぜん、夫婦なかも面白くなく、しだいに放蕩《ほうとう》に身を持ちくずしていくということになったんです」

 院長はそこでまずそうに煙草を吸うと、しばらく黙って窓外に吹きあれる、太い雨脚を視詰めていたが、ふたたび語をつぐと、

「ところで四方太氏ですが、この四方太氏や志賀のお母さんというひとが、もっと早く若い良人のこころに巣食っている猜疑に気がつけばよかった。良人の感情のとかくあらあらしくとがり立つ原因が、そういう疑いにあることを、せめて妻だけでも早く気づけば、なんとか手のほどこしようがあったのです。ところが身におぼえのないこととて、ふたりともまるで気がつかない。気がつかないから、妻はなんとなく不幸です。良人に幻滅をかんじた妻は、しぜん四方太氏に頼るようになる。四方太氏としてもそのひとを、志賀の家に縁づかせた責任はじぶんにあると思うから、何かと相談相手になってやる。困ったことがあれば助けてやる。ことに四方太氏がうまれた赤ん坊を可愛がることは非常なもので、それがいよいよ不幸な良人の疑いに、油をそそぐ結果になったわけです」

 由利先生はそこでぎこちなく咳をすると、

「ちょっとお訊ねしますが、その、志賀氏のお父さんの疑いというのは、ほんとうに根も葉もないことだったのですか。それとも、いくらかでも、根拠のあったことなんですか」

 院長はそこでほっと軽い溜め息をつくと、

「あなたでさえ、そういう疑問をいだかれる。だから、ましてや当事者の若い良人が、猜疑に胸をかまれたのも無理はありませんね。まったくこういうことは、当事者同志、四方太氏と志賀のお母さん以外には、誰にもわからない秘密ですが、しかし私の父など——私の父は四方太氏の親友で、誰よりも四方太氏をよく理解していたそうですが、その父の言葉では、絶対にそんなことはなかったろうといっています。四方太氏が志賀のお母さんをおもっていたことは事実です。志賀のお母さんのほうでも、四方太氏を憎からずおもっていたことも争えない。しかしふたりの間に、結婚前も結婚後も、いまわしい関係があったなどとは、考えられないことだと、少なくとも私の父などは主張していましたよ」

「なるほど、よくわかりました。では、さきほどの続きをどうぞ」

「四方太氏が志賀を可愛がったのは、おそらく犠牲者としてのおおらかな自己満足、かつての恋人のうんだ子供——と、そういう意味からで、別に他意はなかったろうと思われます。それに当時、四方太氏は生涯独身でとおそうというような、センチメンタリズムにおぼれていたのですから、いっそう自分の努力でまとめあげた夫婦のあいだに出来た子供に、満足と誇りとを感じていたのですね。ところがそういう友情や愛情が、ことごとく仇になっていった。しかもなぜ仇になっていくか少しもその理由に気付かないから、いよいよ志賀のお母さんには親切にするし、志賀をも可愛がる。とそういうわけで、志賀のお父さんはこの恐ろしい疑惑のためにすっかり自暴自棄となり、身を持ちくずし、家屋敷を手離してもまだ足りず、とうとう詐欺かなんかで牢舎にぶちこまれるような破目になったのです。それがたしか、志賀の五つか六つの頃だったと憶えています」

「なるほど」

「ところが、志賀のお父さんがまだ未決にいる時分かに、一度四方太氏が細君をつれて会いにいったことがある。そのとき、志賀のお父さんが二人にむかって毒づいた言葉によって、ふたりははじめて、相手の胸に巣食っている、恐ろしい疑いに気付いたのです。その時のふたりの驚き、これは察するにあまりあるものがありますな。ところが、ここが四方太老人の常人とちがっているところで、ふつうならば、そういう疑いを受けていることを知ったら、一応身をひくのがほんとうでしょうが、四方太氏はそれをしなかった。相手のいわれのない疑惑に対して、はげしい怒りをかんずると、以前よりもいっそう志賀の細君に親切にするし、また、子供の志賀も可愛がったそうです。私の父など、うすうすその間の事情を知っていたので、何度となく忠告したが、四方太氏は頑としてきかない。いまここで身を引けば、あいつの疑いが事実であったと承認するようなものだ。あいつが疑うなら勝手に疑うがいい。自分はどうしてもあの可哀そうな母子を見捨てるわけにはいかぬ。——そう頑張ってきかないのです。そこで私の父が、それじゃせめて君自身結婚したらどうだ、いつまでも独身でいるからこそ、ああいう疑いを受けるのだから、ここで思いきって結婚してしまえと重ねて忠告したそうです。四方太氏もこれまでは反対しきれなかったのか、それともその時分、梨枝子夫人がようやく年頃になって、だんだん姉に似て来ている。四方太氏はそれを憎からず思っていたのか、とうとう父の媒酌で結婚することになったんです。それは志賀が七つか八つ、志賀の父が牢から出て来る直前のことで、その時梨枝子夫人はまだやっと十七だったそうです」

「なるほど、それでああいう年齢のちがう夫婦が出来たわけですね」

「そうです、そうです。梨枝子夫人とその姉とは、十以上も年齢のちがう姉妹でしたからね。さて、そうしているうちに志賀のお父さんが牢から出て来た。牢から出て来ると、四方太老人は結婚している。そしてそのうちに静馬君がうまれ、由美さんができた。こうなると志賀君のお父さんの疑いも解けて、ひとつ真面目に働こうというんですが、何しろ家も屋敷も手離してしまって、小豆島ではうだつがあがりそうにない。そこで、大阪へ出る決心をしたんですが、女房子供をつれていくほどの自信もない。そこで四方太氏にふたりのことを頼んで、単身大阪へ出ると、そこで三年ほど働いていた。しかし、大阪のほうもどうも思わしくないので、また小豆島へ舞いもどって来たんですが、するとそれから間もなく琴絵さんがうまれた。ところが、なんとその琴絵さんも、八ヵ月か九ヵ月、つまり大阪からかえって来て、夫婦生活をするようになってから、十ヵ月たたぬうちにうまれたんですね」

 由利先生は思わずシーンとした眼付きになった。三津木俊助も、なんともいえぬ暗い顔をする。院長は情けなさそうに溜め息をついて、

「まったく不幸なことですよ。志賀のお母さんというひとは、そういう体質だったんですね。しかし、志賀のお父さんにしてみればそうは思わない。自分の留守中に四方太氏と妻とのあいだに関係があった。そしてこの子もまた、四方太氏の子供である、とそう思いこんだものだから、そこでまたぞろ心の駒がくるい出して、ある晩、とうとう酒にくらい酔って、甲野の土蔵に火をつけたのです。この放火は、幸いたいしたことにならなかったが、それでも土蔵二棟を焼きました。そこでまた志賀のお父さんはつかまって、こんどは前科があるから刑罰も重い。十何年かの懲役を申し渡されて、監獄にいるあいだに、どうして手に入れたものか、麻紐で首をくくって死んでしまったのです」

 まったくそれは傷ましい話であった。悲惨な、呪わしい、心のドス黒くなるような物語でありました。由利先生はしばらく薄眼をとじたまま、じっと話のあとさきをかんがえていましたが、やがてやおら体を乗り出すと、

「それで、志賀氏のお母さんは……?」

「お母さん、そのひとも気の毒な人でしたよ。良人がそうして牢死すると間もなく、この人も傷心のあまり床について、三月もたたぬうちに死んでしまったのです。それは、琴絵さんがうまれてから、まだ半年にもならない頃でした」

「なるほど、すると、琴絵さんの下には、もう子供はなかったのですね」

「ありません。あるわけがありません。いまいったように、琴絵さんがうまれてから、半年もたたぬうちに、お母さんが死んでいるのですから」

 その時、俊助がふと横から口を出して、

「ひょっとすると、その琴絵さんというのは双生児じゃなかったのですか。琴絵さんのほかにもうひとり、子供がうまれたんじゃありませんか」

 院長はそれをきくと、驚いたように大きく眼を瞠って、俊助のかおを見直したが、

「どうしてあなたが、そういう考えを抱かれたのか知りませんが、そんな筈は絶対にないと思いますね。と、いうのは、私の父は医者だったんですが、琴絵さんのうまれるときには立ち会っている。だから、双生児がうまれたとしたら、父が知らぬ筈はなく、父が知っていれば、当然、私だってきいている筈ですからね」

 俊助はそれをきくと、失望したように肩をゆすった。

「なるほど、そうすると……」

 と、由利先生が二人の話をひきとって、

「琴絵さんは、赤ん坊のうちに孤児になったわけですね。その時、志賀氏は……?」

「たしか十二か十三だったと憶えています。だいぶ年齢のちがう兄妹ですが、つまりそのあいだ志賀のお父さんというひとが、牢へ入ったり、大阪へ出稼ぎにいったり、しじゅうふらふらしていたわけですね」

「なるほど、それで幼い兄妹は、甲野家へひきとられて、養育されたわけですね」

「そうです。梨枝子夫人にとっては、ほんとうの甥と姪ですから、ふたりを引き取るのになんの不思議もないわけです。しかし、世間では、それについてもとかく噂がたえなくて、やっぱりあのふたりは、四方太氏の子供だったのだなんていっていましたよ。ところが四方太氏というひとがそういう噂をきくと、かえって意地になるひとで、とてもふたりを可愛がるんです。ことに兄の志賀のほうは、自分の実子の静馬君や由美さんよりも、いっそう可愛がっていたくらいです」

「それじゃ、四方太氏のほうにも、由美さんのあとには、子供はなかったわけですね」

「ありませんでした」

 院長はキッパリ言ったが、やがてまた意味ありげに、

「ある筈がなかったんです」

「え? それはどういう意味ですか」

 院長の言葉が、あまり妙なひびきを持っていたから、由利先生は探るように、相手の顔を見直した。すると、院長はしばらくもじもじしていたが、やがて思いきったように咽喉の痰《たん》を切ると、

「いや、ここまでお話したのだから、ついでに何もかも話してしまいましょう。そのほうが四方太氏の濡衣をはらす所以《ゆえん》にもなるのですから。私の父が医者だったことは、さきほども話しましたね。だからこの話は、医者としての父以外、当人の四方太氏をのぞいては、誰一人知るもののない秘密なんですが、由美さんがうまれてから間もなく、四方太氏は大患にかかったことがあるのです。それをなおすには唯一つしか方法はなかった。それはある種の手術をすることですが、それをやると、いのちは助かるがそのかわり、将来、絶対に子供は出来なくなる。……」

 由利先生はそれをきくと、思わずぎょっと眼をすぼめました。そして、はげしく息をうちへ吸いながら、

「そして、……そして四方太氏はそれをやったのですか」

「やりました。子供はもういい、静馬と由美とあれば結構だというので……ところでその手術ですが、これをやっても、夫婦生活には別に大して差しつかえはないのです。それゃ、いくらかおとろえはありましょうが、全然駄目だということはない。だから梨枝子夫人なども、そのことを少しも知っていなかった筈です。四方太氏としても、男としては恥辱になりそうなそういう疾患を、たとえ相手が細君でも、話したくなかったのですね」

「なるほど、そしてそれは由美さんが出来て間もなくのことなんですね。すると琴絵さんは絶対に……?」

「そうです。そうです。だからこの事を、志賀のお父さんが知っていたら、琴絵さんの出生について、ああいう疑惑の起こる余地もなく、したがって、あのような悲劇も起こらずにすんだのでしょうがねえ」

  二

 三人はそのあと暫く、おもいおもいの考えを温めながら、無言のままひかえていたが、やがてまた、由利先生が口をひらくと、

「いや、有難うございました。おかげで志賀氏の甲野家における立場がよくわかりました。ところで、こんどは琴絵さんですが、それについてひとつお伺いしたいのですが」

「ところが、あの娘については、私もあまりよく知らないんですよ」

 院長は眉をひそめて、

「私が小豆島にいる頃は、あの子はまだほんのうまれたばかりの赤ん坊だったし、その後ときどき帰省をしたり、会ったこともあるんでしょうが、全然記憶にのこっていないんです、そうしているうちに、私はこっちへ移ってしまいましたしねえ。ところが先頃、そう六月のはじめ頃でしたが、突然、志賀のやつがつれて来て、面倒をみてくれというんです」

「急に発狂したんですね」

「そうだそうです。事情はよくわからないが、なにかよほど大きなショックを受けているらしいんですね。で、まあ、ほかならぬ志賀の頼みだから、面倒を見ているんですが……」

「暴れるんですか」

「いや、その反対なんです。つまり憂鬱症なんですな」

「発狂の動機については、全然お心あたりがありませんか」

「ありません。志賀も話したがらないふうだから、きかないことにしているんです」

「志賀氏はときどき見舞いに来るんですか」

「来ます。やはり肉親の妹だから……」

「静馬君や由美さんは?」

「このほうは一度も来たことはありません。しかし入院費一切、静馬君が負担しているんですから、むろん承知のうえですよ。由美さんも自分でこそ来ないが、おりおり見舞いの品など送ってよこす。あの兄妹が見舞いに来ないからって、責めるわけにはいきませんよ。ここは若いひとたちの来るところじゃありませんからね」

 院長はおだやかな微笑をうかべた。

「ほかに誰も、会いに来たものはありませんか」

「ありません。第一、あの娘がここにいることは、甲野家の人々と、志賀よりほかに知る者はない筈ですからねえ」

「いや、有難うございました。突然、参上しまして、どうもお邪魔をいたしました」

「どういたしまして」

 こうして鈴木病院訪問の結果は、だいぶ得るところはあったようなものの、しかし肝腎の謎の中心、あの虹之助については、結局、まだ一切が五里霧中なのです。

「先生はああいうけれど、虹之助と琴絵はやっぱり双生児ですぜ。でなければ、あんなに似ている筈がない」

 三津木俊助はまだ双生児説を捨てかねて、

「田舎じゃよく双生児をきらう地方がある。ことに男と女の双生児はとても忌みきらう地方があるんです。だから、虹之助はうまれるとすぐ、どこかへ里子にやられて、いままで一切秘密にされていたにちがいありませんぜ」

「そうかも知れない。いや、そうだといいんだが……その程度の秘密だったら、私もあえて恐れない。しかしねえ、三津木君、虹之助をつつむ秘密は、とてもそんな生やさしいものじゃないと思う。そこには、もっともっと陰惨な、眼をおおいたくなるような秘密がありそうに思えてならないんだよ」

 由利先生はそういって、深く心におそれを抱いているふうだったが、果たして先生の予想は当たっていたのです。

 最後に暴露された虹之助の秘密のおそろしさ、呪わしさ、それはとても俊助などの思いもつかぬ、いやな、ものすごい、無気味なものでありました。

 それはさておき、鎌倉の警察では、結局犯人をあげることが出来なかったようです。何しろ殺害されたのが梨枝子夫人ですから、子供であるところの静馬や由美を疑うわけには参りません。警察で手をまわして調べたところが、この親子には別に何んの葛藤《かつとう》もなかったようだから、殺人の動機というものが発見出来ない。それからつぎに志賀恭三ですが、これまた梨枝子夫人を殺害しなければならぬような動機は、何一つもないのです。

 こうして三人が嫌疑の外におかれると、あとは関係者として虹之助があるばかりですが、これはあのとおりの盲聾唖、第一、ストリキニーネなど持っている筈はありませんから、これまた疑うわけにはまいりません。

 で、結局、警察では、はじめに江馬司法主任がかんがえたとおり、五郎の犯行ということにして、しかし、それにもいろいろうなずけない節があるので、しばらく甲野一家を監視していようということになりました。

 かくて一週間。

 そのあいだ、由利先生や三津木俊助が、手をつくして、琴絵のゆくえを探しもとめたことはいうまでもありませんが、跛の怪人につれ去られた、あのあわれな狂女の消息は、その後、杳としてわからないのです。

 むろん、それとなく甲野家にのこった三人の、その後の動静などさぐってみるが、誰も琴絵のゆくえを知っていそうにありません。

 第一、琴絵が誘拐されたあの時刻には、三人ともたしかに鎌倉にいたという確証があり、また、かれらが怪しい男と、通信しあったような形跡もありません。

 これではさすがの由利先生も、手の下しようがなく、いたずらに奥歯にもののはさまったような気持ちで、事態を見送っておりましたが、するとここにはしなくも、またもや恐ろしい事件が起こったのであります。

 しかも、一つならず二つまで。

  三

 おや。——

 綾子はぎょっとしたように立ち止まりました。なんとなくばつの悪いものをかんじて、そのまま崖をおりて、砂浜のほうへとってかえそうかと思いました。ところが、そのまえに静馬がこちらの姿を見つけてしまったのです。

 静馬は三脚に腰をおろし、画架にむかっておりました。赤い絵筆をななめにかまえ、入り日の色に眼をやったとたん、かれの眼はふと、坂をあがって来る綾子と、綾子に手をひかれた虹之助のうえに落ちたのです。そのとたん、静馬ははげしく身顫いをしたようだが、さすがにそこまでは綾子の眼もとどきませんでした。すでに相手に見られた以上、きびすをかえして、あともどりをするわけにはまいりません。

 そこで、綾子は虹之助の手をひいたまま、坂をあがっていきました。

「お珍しいこと、御精が出ますのね」

 そこは稲村ヶ崎の崖ぶちなのです。崖下には濃い藍色の波が岩をかんで、すぐその向こうには、つい眼と鼻のあいだながら、江の島が模糊《もこ》として、夕靄のなかにけむっている。

 綾子は虹之助の手をひいたまま、三脚のそばへちかづきました。あの恐ろしいことがあった夜以来、お葬《とむら》いのお手伝いやなんかで、綾子はたびたび静馬と顔をあわせたが、こうして誰もいないところで二人きりになるのははじめてでした。

「いや、なに、あまりくさくさするもんですから、ひさしぶりにこんなものを担ぎ出してみたんですよ」

「よほどお出来になりまして?」

「なに、いま手をつけたばかりです。御散歩ですか」

「ええ」

 覗いてみると、なるほどカンバスのうえには、まだ海とも山ともわからぬ色が、ほんのちょっぴりなすりつけてあるばかり。

「その後、由美さんはどうなすって?」

「ぼんやりしていますよ」

「そうでしょうねえ。お見舞いもしないで……」

 二人とも、それでしばらく話の継穂《つぎほ》をうしなったかたちです。静馬はなるべく、虹之助のほうを見ないようにしている。

 綾子もそのことを知っている。

 しかし、それについて綾子はなんとも申しませんでした。虹之助は枯れ木のように、しいんと静かに、綾子のそばに立っている。墓標のような無表情、それでいて、見えぬ眼が妙にパッチリ、ひらいているのも無気味です。静馬のタッチがかすかにふるえます。

「おやつれになりましたわね」

 しばらくして、綾子がボツリと申しました。

「ええ、やつれました。由美はもっとやつれていますよ」

 静馬は吐き出すようにそういったが、急に何かに憑《つ》かれたように、せわしく絵筆を動かしながら、非常ないきおいで喋《しやべ》りはじめたのです。

「奥さん、お聞きになったでしょう。解剖の結果を。——母も鵜藤も同じ毒で死んでいるんですってさ。で、警察では鵜藤が母を毒殺して、自分も同じ薬で死んだのだという意見だそうです。ところで、そんなこと、ほんとうに信じているのですかねえ。あるいは信じているようなふうをしてわれわれを監視しているのですかねえ。どちらにしたって構いはしないが、鵜藤が犯人でないことだけはたしかですよ。僕は自分を信用するより、あの男を信用したほうが楽です。ところで、そうするとどういうことになりますかね。われわれ一家には、まだ毒殺者がいるということになる。われわれ一家、——つまり由美と僕です。ところで由美と来たら、このあいだから、こんどは自分のばんだって、泣いて聞かないんです。そうすると、二引く一は一残る——でつまり僕が毒殺者ということになりますね」

「まあ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんわ」

 綾子は身ぶるいしながら、虹之助の手を握りしめました。

「いや、これは僕がいうんじゃありません。近所の評判がそうなんです。しかし——いや二引く一じゃなかった、もう一人いましたね、恭三さんが」

 静馬はそこで思い出したように、

「そうそう、奥さんはあの男が、ちかいうちに旅に出たいって、いっていることを知っていますか」

「志賀さんが、旅へ?……」

「ええ、そういっていますよ。いつまでもこんなもやもやとした空気のなかに、ひっかかっていたくないというんです。あの男のことだから、決心するとほんとうに跳び出さないものでもない。そうすると、ほら、二引く一は一残る。——」

「あの、あたし失礼いたします」

「おや、もうお帰りですか。さようなら、その少年に気をつけてあげて下さいよ」

 綾子は虹之助の手をひいて、逃げるように崖をおりると、やがてぐったりと、砂浜に横坐りになりました。何かしら寒いものが背筋をはう気持ちで、われながら顛倒《てんとう》しているのがはっきりわかります。

 恭三からいつもきいている静馬という青年は、いたって口数の少ない、もの静かな性質だというのに、さっきのお喋りはどうしたのだろう。

 何かが取り憑《つ》いている。

 そうなのだ。窪んだ眼窩《がんか》のおくから、ギラギラと熱気をおびてかがやく眼つきは、たしかに尋常ではなかったのです。綾子はそこに、ふいと死影をかんじて、しばらく身顫いがとまらなかったのでありました。

 それにしても——

 と、綾子はかんがえる。——恭三さんが旅に出るというのはほんとうだろうか。ほんとうだとすれば、なぜあの人はそれを言いに来てくれないのだろう。

 そういえば、ちかごろあのひとは、ちっとも自分にあいに来てくれない——

 と、ぼんやり、悲しげにそんなことをかんがえているうちに、綾子はふと、身のまわりのかげっているのに気がつきました。

「あら!」

 うしろをふりかえってみると、そこに立っているのは恭三でした。

「崖のうえで甲野にあったら、君がいまこっちのほうへ降りていったというので、急いであとを追って来たんだよ」

 恭三はさびしい顔をしていたが、それでも、綾子のなにかをうったえるような瞳を見ると、思わずあたたかな微笑になって、

「綾さん」

「ええ」

「今日は僕、君に折り入って頼みがあるんだが——きいてくれる?」

「まあ、どんなことですの」

「僕、ちかいうちに旅に出ようと思う」

「ええ、いまそのこと、甲野さんから伺いましたわ」

「そう、それゃ好都合だ。それでそのまえに是非きいてもらいたいことがあるんだ」

「だから、どういうことですの」

 綾子の耳たぶがかすかに染まって、美しい瞳が情をふくんできらきらと輝きました。しかし、彼女の期待ははずれたのです。

「頼みというのはほかでもない。そこにいる、その少年を君のそばから遠ざけて貰いたいのだ」

「あら!」

「君が面倒を見るのはさしつかえない。ほんとうをいうと、それもいやなんだが、そこまでは君にいえない。だからね、そいつをどこか病院へ入れるとか、ひとに預けるかして、とにかく君の身辺から遠ざけてもらいたいのだ」

「あら、だって、どうして……?」

「理由はきいてもらいたくない。綾さん、僕の眼をみたまえ」

「ええ?」

「僕がやきもちを焼いているように見えるかい?」

「あら!」

「僕が悪いやつに見えるかい」

「いいえ、いいえ、そんな……」

「それじゃ、僕のいうことをきいてくれるね」

「あなた」

「うん?」

「あなたの頼みというのはそれだけなの?」

「…………」

「あなた、なぜ旅になんかお出になるの、どこへもいかないで。いつまでもいつまでも、あたしのそばにいて……」

「綾さん」

「え?」

「僕だってそうしたいさ。だけど……だけど……綾さん、君が金持ちでなきゃあよかったんだ」

「あら、またそのことをおっしゃる。あなた、そんな詰まらないことを考えないで、……ねえ、そんな意地を張らないで……あたしも連れてって。どこへでもいいから、あなたのいらっしゃるところへつれてって……」

 ふいに綾子は恭三のからだに身を投げかけた。両腕を恭三の首にまきつけました。

 双の瞳は燃ゆるように輝いて、ぬれぬれとした唇が、なにか求めるようにふるえている。恭三も思わず綾子を抱き寄せました。

「あなた」

 しばらくして、恭三の耳に囁いた綾子の声は、夢のように甘く香ぐわしくうっとりしている。

「いまの、嘘じゃないでしょう」

「嘘……? なぜ、そんなことをいうんだ」

「だって、あなたは由美さんを……」

「由美?」

 恭三は大きく眼を瞠って、綾子の顔をのぞきこんでいたが、急に、声をあげて、何んともいえぬほど愉快そうに、はればれと笑いました。

「なんだ、それじゃこのあいだから、妙に君がこだわっていると思ったら、由美のことが気にかかっていたのか」

 恭三はそこでまた、世にもはればれとした笑いをあげました。ああ、その笑い。——綾子の心にどのようにドス黒い疑いが巣食っていたとしても、おそらく、その明けっぱなしな、わだかまりのない笑い声で、いっぺんに吹っとんでしまったでありましょう。

「いや、いや、笑っちゃいや。だって、あの方、あんなに若くて美しい人ですもの。そして、あなたと子供のときから……」

 だが、その言葉はおわりまでいうことが出来なかった。西洋の諺《ことわざ》にも、女を黙らせるには、唯一つより方法はない、それは接吻で相手の唇をふさぐことである。……綾子は頬をほてらせて、幸福に酔った気持ちです。

「綾さん」

「ええ」

「僕と由美とはね、おそらく男と女が撰ぶ最後の相手だろうよ。僕たちは兄妹のように愛しあっているが、結婚となるとこれほど不似合いな相手はないのだ。由美はおそらくそんなことを考えただけでも悪寒が走るだろうよ。僕だって同じことだ」

「まあ、どうして?」

「それはいまいわないことにしよう。いずれ君にも話すときがあるだろうが……」

 恭三はそういうと、ちらと虹之助のほうを視やったが、急に気がついたように、綾子の顎に手をかけると、

「どうしたの、綾さん、何故泣くのだ」

 と、ぐいと顔をあげさせました。綾子は眼にいっぱい泪《なみだ》をうかべて泣いているのです。

「あなた。……」

「うん?」

「すみません、すみません。あたしあなたに悪いことをしているの。いいえ、あなたばかりじゃないわ、甲野さんの御兄妹にも、すまないことをしているの」

「なにを……? 君が何をしたというのだ」

「あたし、由美さんが憎らしかったの。由美さんが憎らしいから、甲野さん一家が憎らしかったの。それで……それで……なんとかして虹之助さんと甲野一家の関係を、突き止めてやりたいと思ったものだから、琴絵さんを……琴絵さんを……」

 ふいに恭三が大きく呼吸をうちへ吸って、

「琴絵を……? 琴絵を君がどうしたのだ」

「ええ、琴絵さんをあたし……」

 だが、綾子はその言葉を終わりまでいうことが出来なかった。ふいに彼女は恭三の指をつかむと、

「あっ、あなた! あなた! あれは……あれは……静馬さんはいったいどうしたの?」

 たまぎるような綾子の声に、恭三も驚いて崖のうえをふりかえったが、ああ、これはどうしたというのだろう。崖のうえに突っ立った静馬のかおには、物凄い苦悶のいろがうかんでいる。いまにもとび出しそうな両眼、唇をまげ、舌を出し、何かに抵抗するように、両手ではげしく虚空をひっかいていましたが、つぎの瞬間、クラクラと頭をさげて前にのめると、崖のうえからまっさかさまに顛落したのでありました。

 崖の下では虹之助が、余念なく砂を掌のうえにこぼしている。

[#小見出し]  第八編

[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]

 まぼろしの盲聾唖——志賀恭三拘引さる——断ち切られたフルートの音——蔵の中の惨劇

[#ここで字下げ終わり]

  一

 麹町土手三番町。——市ヶ谷のお濠《ほり》を見下ろす高台に、由利先生の住居があります。気のきいた和洋折衷の建物で、二階が応接室になっている。

 その応接室にいま客がひとりありました。

「そういうわけで、あのときはついうっかりしていたのですが、後で新聞を見ると、鎌倉の甲野の事件が大きく出ている。しかも、その事件の際に、盲聾唖の少年がいあわせたということが載っていたので、ふと思い出したのですがねえ」

 客というのはほかでもない。千住にある精神病院の院長鈴木博士。さっきから、無言のまま院長の話をきいていた由利先生は、ここにいたって急にからだを乗り出すと、

「ほほう、すると、あなたはなにか、盲聾唖の少年に心当たりがおありなのですか」

「いや、私に心当たりがあるというわけじゃない。しかし、ひょっとすると、あれがそれを意味しているのじゃないかと思いましてね」

 院長はなんとなく不安らしく、ハンケチで額の脂汗を拭《ぬぐ》いながら、

「実は、このことは私にも、最近までなんとも判断がつきかねていたのです。いや、いまでもハッキリそうだとは申し上げかねる。それでいままで躊躇していたのですが、やはり一応あなたのお耳に入れておいて、このことがどういう意味をもっているか、よく考えていただいたほうがよかろうと思ったので、きょうは思いきってやって来たわけです。そのことというのはほかでもない、志賀の妹の琴絵のことですがね」

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