虹之助はふいにがばと舟底に身をふせました。恐ろしく口から泡を吹いて、そこら中をのたうちまわりました。
「まあ、いや、あんたそんな真似しちゃいやよ。あたし気味が悪いわ」
「琴絵——琴絵——おれ、もう駄目だよ。おれ、もう死んでしまう。琴絵、おまえもおれといっしょに死んでくれ」
「いいわ、いいわ、あたしいっしょに死んだげるわ。だけど、どうしたら死ねるの。ねえ、どうしたら死ねるのよう」
「うむ、うむ、いま、教えてやる。おれ、薬を持っている。あいつらを殺した薬、まだ残っている。琴絵、ちょっと待っといで」
そういったかと思うと、ああ、なんということだ! 虹之助はやにわにおのれの眼玉をくり抜いたのでありました。
それから間もなく、ボートをあやつって追っかけて来たひとびとが、そこに発見したのは、なんとも名状することの出来ぬ、恐ろしい光景でありました。
漂うボートの舟底に、折り重なって倒れている琴絵と虹之助。——その虹之助の片眼は、黒いうつろとなって、無気味に空を睨んでいる。そしてそのかたわらには、くり抜かれた眼玉が、星のようにきらきらと輝いているのでありました。
「偽眼だよ」
由利先生は江馬司法主任をかえり見て、
「そしてあの中に、ストリキニーネをかくしていたのだよ」
そういったかと思うと、由利先生は、しばらくふるえがとまらなかったくらいでした。
二
「虹之助の片眼が偽眼であることは、私もまえから知っていたんですがねえ」
それから間もなく、虹之助と琴絵の屍体を運びこんで来た、ここは甲野の別荘なのです。
由美はまだ意識をとりかえしていなかったけれど、危険期はすでに通りすぎて、別室で看護婦のみとりを受けています。
綾子はすっかり元気を取り戻して、中御門から駆け着けていました。まだ血色も悪く、ほんとうの体ではなかったのだけれど、気丈な彼女は、家にじっとしていることが出来なかったのでしょう。それにここには恭三がいる。……
江馬司法主任と三津木俊助は、この陰惨な結末に、肉体よりも精神的な疲労が大きく、ぐったりとした顔色ですが、さすがに安堵のいろは争われない。ふたりとも愁眉をひらいたという顔色でした。
由利先生もやっと重荷をおろしたという顔付きで、ゆったりと愛用のパイプをくゆらしながら、さて、この事件について語りはじめるのです。
「虹之助の片眼が偽眼であることは、私もまえから知っていたんだが……」
由利先生はもう一度同じことを繰り返すと、
「それにも拘らず、そこにストリキニーネがかくされているということを、いままで気がつかなかったのは、何んといっても不明のそしりはまぬがれません。しかし……こういうと弁解めくが当然そこへ気がつかなければならぬところを、妨げている大きな要素がありました。それは虹之助を完全な盲聾唖であると信じきっていたこと。それだ。いや、これは私が信じていたばかりではなく、実際にそうだったのです。大阪における専門家たちの厳重な検査も、それを裏書きしていたのです。しかし、完全な盲聾唖でも、ひとと話をし得る。読唇術によって、話をする能力を習得し得る。——と、そこへ気がつかなかったのは、何んといっても私の大失態でした。しかも私は虹之助の視力が、かなりのちまで健全だったらしいということには、だいぶまえから気がついていたのですから、いよいよもって弁解の余地はありません」
由利先生にそう謙遜《けんそん》されると、恭三は穴があったら入りたいような気持ちになるのでした。恭三はもとよりそのことを知っていた。
だから一言かれが注意すれば、梨枝子夫人はやむを得ぬとしても、爾後《じご》の犯罪は未然にくいとめることが出来たかも知れないのです。恭三のおもてには忸怩《じくじ》たるものがあり、悄然として首うなだれたのも無理はない。
「では、虹之助が話が出来ると否とでは、どういうふうにちがって来るか、——それはまず梨枝子夫人の場合からかんがえていかなければなりません。あのとき梨枝子夫人と虹之助は二人きりで、向こうの離れにとり残された。ある時間、二人だけでそこにいたわけです。しかも、この二人のあいだになにか関係があるらしいことは、私もまえから気がついていた。だから、私の疑いはともすれば、虹之助のほうに向かいそうだったのですが、それをいつも食いとめたのは、虹之助が完全な盲聾唖であるということ。二人のあいだにどのような関係があるとしても、虹之助がどうしてそれを知りえたか、いま自分といっしょにいるひとが、自分の憎いかたきであるということを、どうして覚りえたか。——それが私には不可能に思われたからです。いや、かりに一歩譲って、嗅覚や触覚によって、うすうすそれを感じたとしたところで、あたりに誰もいないということや、いまが絶好の機会であるということなど、わかる筈がない——、と、そう私が考えたからです。しかし、虹之助が話が出来るとなると、これは根本からちがって来る。……」
「すると、あの時、梨枝子夫人と虹之助は話をしたのですか」
警部は思わず眼を瞠った。
「そうです。話をしたのです。梨枝子夫人は虹之助の手をとって、自分の唇を読ませたのです。自分が誰であるかいってきかせたのです。いや、そればかりではない。ここがどこであるか、どういうひとたちがこの家にいるか、そして、そのひとたちはいまどこへいっているか。——そういうことをことごとく虹之助に話をしたのです。まるで盲目の手引きをするように。そして、いまが絶好のチャンスであることを教えこむように。——」
つめたい悪寒が一同の背筋をはしった。綾子は寒そうに襟をかきあわせます。警部は不思議そうに眉をひそめて、
「いったい、梨枝子夫人と虹之助——いや、虹之助とこの家とは、どういう関係があるのですか」
「いや、そのことについては、もっとあとで話をしましょうよ。志賀君の説明をきかなければ、私にもまだハッキリ分かっていないのだから。さて、そういうふうに梨枝子夫人の話によって、虹之助は必要なことをすっかり知った。いまが絶好の機会であることを覚った。それのみならず梨枝子夫人は、チョコレートまでむいて食べさせたから、虹之助はそこに、ストリキニーネを仕込むに絶好の品があることまで知ったのです。そこで夫人と話をしながら、偽眼のなかのストリキニーネをチョコレートのなかにいれて、夫人に食べさせたのです」
「しかし、眼のまえでそんなことをするのを、夫人は気がつかなかったのでしょうか」
「むろん、虹之助に殺意があると知ったら、夫人も警戒するからそんなチャンスはなかったろう。しかし、夫人は全然なにも知らない。夢にもそんなこと考えていない。おそらく夫人は泣き伏したり、泪を拭いたりするのに忙しかったろう。更にもっとよく考えれば、虹之助が小便に立ったかも知れない。そして便所へいくまえに、チョコレートをひとつだけかくしていって、便所のなかでそういうからくりをやって、何気なくかえって来ると、毒入りチョコレートを夫人に食べさせたのかも知れない。要するにチャンスはいくらでもありましたよ」
「なるほど、それで夫人は毒入りチョコレートを食べた。苦しみ出した。すると虹之助もさすがに怖くなって、羽子板でめちゃめちゃに乱打したということになるのですね」
「そう。——しかし、怖くなったというのはどうだろう。虹之助は悪魔のような少年だから、おそらく怖くなるというようなことはなかったろうと思う。あれはやはりその場をカモフラージする。——と、いう意味じゃなかったろうか。とにかくあいつは恐ろしい奴だから、一応自分がなぐり殺したように見せておいて、調べてみると毒殺である。——そうなれば疑いは完全に自分から遠ざかる、と、そういう逆手をちゃんと心得ていたんじゃないでしょうか」
「ふうむ。恐ろしい奴ですな」
と、警部は唸りごえをあげると、
「そうするとわれわれは、完全にあいつの手に乗っていたんですね」
「そうですよ。いや、あいつの手に乗っていたのはあなただけじゃないから御安心なさい。われわれ全部が、あの盲聾唖に完全に翻弄されていたんですからね」
「しかし、チョコレートの鉢をかくしたのは誰なんです。あれもやはり虹之助がかくしたのですか」
「いや、あれをかくしたやつはほかにある。その犯人はどこかそこらにいる筈ですがねえ」
由利先生の皮肉な視線をまともに受けて、真っ赧に頬をそめたのは綾子でした。警部は眼を丸くして、
「えっ? それじゃあれは大道寺の奥さんですか」
「と、私は睨んでいるんですがねえ。あの際、チョコレートの鉢をかくすチャンスのあったのはこの人よりほかにない筈ですから。この人は私に電話をかけて来るといって、離れ家から跳び出している。そのときあの離れ家は電気が消えてまっくらだったし、みんな梨枝子夫人や虹之助に気をとられていたから、人知れず鉢をかくす機会は十分ある。その鉢を持ったまま離れ家から跳び出したのだ。——と、私ははじめからそう睨んでいるのだが、どうです、奥さん、ここらで泥を吐いてしまっちゃ……」
「すみません」
「これは怪しからん」
と、警部は冗談とも本気ともつかぬ口吻で、
「しかし大道寺の奥さんがどうしてそんなことを……」
「それは分かっているじゃありませんか。婦人が危険を冒してそんなことをする場合、動機はきかずともわかっている。愛するものをかばおうとしたんです。ということは、奥さんが志賀君を疑っていたということになる」
恭三はそれをきくと、驚いたように眼を瞠って、綾子の顔を見直した。
「綾子さん、どうして君は僕を……?」
「すみません。だってあたし……」
と、綾子は小娘のように頬を赧らめて、
「小母さんの死顔をひとめ見たとき、羽子板でなぐり殺されたのじゃない。毒を嚥まされていらっしゃるのだと気がついたんです。そう気がついて、死体のそばを見るとチョコレートの鉢がある。しかも、そこにあるチョコレートは、あのまえの日、あなたが東京から買っていらっしゃったものだってこと、あたし知っていたんです。だって、あれと同じのを、あたしにも買って来て下すったんですもの。……」
「それで君は僕をかばうために……」
「いや、こちらの奥さんが、君をかばうためにやったことはそれだけではないんですよ。もっとほかに細工をしている。たとえばあの跛の男を捏造《ねつぞう》したり……」
「まあ! それじゃ先生は、あれが嘘だってこと、御存じでしたの」
綾子は思わず眼を瞠りました。由利先生はにこにこしながら、
「知っていましたよ。何故といって、跛の男など、はじめから奥さん、あなたの空想の産物だってこと、私はちゃんと知っていましたからね」
由利先生は、いかにも愉快そうにからからと笑いました。
「いったい、跛の男がはじめて跳び出したのは、大阪のホテルでしたね」
と、由利先生はゆっくりパイプを詰めかえながら、
「ところで、あのときの情景を、もう一度ここで思い出してみようじゃありませんか。あのとき私は口を酸っぱくして、虹之助のような少年を引き取ることの危険をあなたに忠告していた。ひょっとすると、虹之助を水葬礼にした人間が、いまでも虹之助を監視しているかも知れないと私はいった。ところが、その直後ですよ。あなたが人の気配をかんじたといって廊下へとび出し、跛の男のうしろ姿を見たと言い張ったのは。……あのとき、私はすぐこの奥さん、お芝居をしているのだと直感したんです。私があまりムキになって忠告するものだから、お芝居をして、私をからかっているのだ……と、そう気がついていたのです」
「まあ!」
「世のなかには、ときどきそういう婦人があるものだ。才弾《さいはじ》けて、男を男とも思わないで、芝居気たっぷりで、……この奥さんはそういう人なのだと知っていたんです」
「あら、あら、あら!」
「だから私はそれに乗って、騙されたようなかおをしていたんです。別に事荒立てて詮議するほどのことではない。まあ、そんな大人げないまねをするより、騙されたようなかおをして、相手を満足させておこう。そういう肚でいたんです。——ところが、その跛の男が、梨枝子夫人の事件の場合、またとび出して来たから私もちょっと驚いた。しかし、よくよく聞いていると、こんどの場合も、それを見たのは大道寺の奥さんだけだということがわかった。そこで私はははあ、大道寺の奥さん、またお芝居をやってるなと気がついたんです」
「しかし、先生」
と、その時横から口を出したのは三津木俊助。
「大道寺の奥さんが、跛の男を見たといったのは、まだ事件を知らないまえのことですよ。それだのにどうして……?」
「いや、そのことについては、私にきくより、ここに当の本人がいられるのだから、直接伺ったらいいだろう。奥さん、そのときの気持ちをひとつ説明していただきましょうか」
「先生、あたしほんとうに恐れ入ってしまいましたわ、女の浅智慧とはまったくこの事ですわねえ。ええ、こうなったら、潔く兜をぬいで、何もかも申し上げてしまいますわ」
綾子はてれたような、極まり悪げな、そして驚異と讃嘆の眼で由利先生の顔を視詰めながら、
「なぜ、あたしがあんな嘘をついたか、それを理解していただくためには、あのときの雰囲気をお話しておかねばなりません。あの晩あたし虹之助——さんをつれてここへ参りました。そしてあの子を小母さんのそばへ残しておいて、みなさんを探しに浜へいったのです。そしてそこで由美さんにあってその事を話したのですが、そのときの由美さんの驚き——。ええ、あたし、いまでもはっきり憶えていますが、それはなんともいいようのない怖れと不安——そして由美さんは物もいわずに駆け出したんですが、途中でぱったり出会ったのが志賀さんです。さあ、そこなのです。あたしには由美さんがなぜあのように怖れていらっしゃるのか、なぜあのように不安におののいていらっしゃるのか少しもわからない。ところが、志賀さんにはそれがわかっている。あたしにはそれが口惜しいのですわ。ええ、もうこうなったらハッキリ申し上げますわ。あたし、妬《や》けるのです。あたしの知らない秘密を、志賀さんと由美さんがわかちあっている。そう考えるとあたし口惜しくて口惜しくてたまらないのです。だからあの場合、少しでもお二人の注意を、あたしのほうに惹きもどそう。あたしだってそんなにのけものにしたものじゃありませんよ。とそういう代わりに咄嗟にあんな嘘をついてしまったのです。あたしって人間はそういう女なんですわ」
あけすけな、思いきった綾子の告白は、一同からはかえって好感をもって迎えられたらしく、由利先生もにこにこしながら、
「つまり自我が強過ぎるんだな」
「ええ、じゃじゃ馬なんですわ。あたしだって、よい性質とは思いませんけれど、いまになってなおりはしないし、またなおそうとも思いません」
「いや、改める必要はないでしょう。そのかわりに、よい騎手を見つける必要はありますな、なにしろこの奥さん、駻馬《かんば》みたいなものだから、よほどうまく乗りこなす人を見つけなければいけませんな」
「あら、ひどいことをおっしゃるのねえ」
綾子はちょっと睨むまねをしましたが、その顔には案外かえって嬉しそうな色がうかんでいました。
「いや、失礼、失礼。それで咄嗟のあいだに、大阪で私を欺いた跛の男を持ち出したわけですね」
「ええ、そうですの。あのとき、なぜ跛の男を持ち出したのか、それはあたしにもよくわかりませんが、多分おふたりの何んともいえぬ不安、おそれ——それが、咄嗟に大阪で先生を欺いたときと同じような気持ちに、あたしをさせたせいだと思います」
「いや、なるほど、それでよくわかりました。そうしてあなたは跛の男を、さも実在の人間らしく仕立ててしまった。そこで琴絵さんを誘拐するときも、それを利用したんですね。ところであの事ですが、あれは志賀君に頼まれてやったんですか」
「いいえ、あれはこちらちっとも御存じないのです。あたしが勝手にやったのですわ」
「しかし、奥さんは琴絵さんがあそこにいることをどうして知っていたのです」
「あら、それならあたし先生にお訊ねしますわ。先生はどうして御存じになったのです」
「あっ」
由利先生は思わず眼を瞠ると、
「それじゃ、奥さんも電報で……?」
「ええ、そうですわ。志賀さんのところへ電報が来たこと、あたしだって気になっていましたわ。そこでつぎの日、郵便局へいって調べたのです。すると、先生もやっぱり調べていらっしゃる。さて、そこでまたぞろ、あたしの病気が出て来たのですわ。あの琴絵さんのこと、あれが志賀さんと由美さんの共通の秘密なのでしょう? それがあたしには口惜しくてなりませんの。そういうふうに仲間はずれにされると、あたしって人間は妬けてたまらないのよ。そこでまた横からちょっかいを出したくなったのです。あの日、ユクとは電報うってあるものの、志賀さんの行けないことはわかりきっている。しかし、由利先生はきっといらっしゃるにちがいない。そう思ったものだから、あたし、男装していったんですけれど、まさかあんな際どい芸当を演じようとは思わなかった。何しろ先生や三津木さんの眼のまえから、琴絵さんをうばうのですから、たとえ成功するとしても、あたしだと看破られたらなんにもならない。そこでまた、咄嗟に思いついて跛の真似をしてみせたんです」
由利先生と三津木俊助は顔を見合わせると、舌をまいて驚歎した。
「いや、恐るべきひとですな、あなたは……?」
「あら、そのお言葉ならこちらから返上しますわ。だってはじめから跛の男の存在など、嘘だと看破られていたとしたら、あれ、ほんとうにお茶番だったのねえ」
綾子はさすがに感慨ふかげに呟いたが、そのとき横から膝を乗り出したのは江馬警部。
「いや、これでだいたい大道寺の奥さんが、この事件で受け持っていた役割はわかりましたが、さて話を本題にもどして、鵜藤青年の場合、あれはどう説明するのですか。静馬君と由美さんの場合は、さっきもうかがってだいたい分かりましたが……」
「鵜藤君の場合、あれには私も悩みましたよ」
由利先生は憮然《ぶぜん》とすると、
「静馬君と由美君は、さっきもいったように、絵と洋笛に塗ってあった毒でやられたのですね。いまから思えばあの部屋へ、虹之助をぶち込んだのがそもそも間違いのもとだったんです。さっきもいったように虹之助は、梨枝子夫人からこの家が誰のうちか、そこにどういう人たちがいるか聞かされていた。そしてあたりを探ってみると、絵筆や洋笛が手にさわった。それが誰のものであるか、虹之助はよく知っていたから、さてこそ毒を仕込んでおいたのですね。ところが鵜藤君の場合はそれとはちがう。鵜藤君はあきらかに、あのとき嚥んだコーヒーでやられたにちがいないが、虹之助がいつ、そのコーヒーに毒を投ずることが出来たか——そう考えているうちに、はっと私が思いうかべたのは、あの障子の破れなんです。高さといい、大きさといい、ちょうど手を出すに好都合な穴だった。……と、そう気がついたものだから、さっきここへ来るや否や、女中さんに聞いてみたのだが、すると果たして私の考えたとおりだった。台所でコーヒーを入れた女中さんは、座敷へ運ぶまえに、一度あそこの廊下へ盆をおいて、台所へかえるとほかの用事をしていたのです」
「なんですって? それじゃそのとき虹之助が……」
「そうです。あいつはね、眼も耳も駄目だけれど、嗅覚だけは健全なのです。だからコーヒーの匂いを嗅《か》ぎわけることは十分出来たわけですよ」
「しかし……?」
と、三津木俊助は眉をひそめて、
「それは先生、おかしいですね、虹之助はそのとき、どのコップが五郎君にあたるか、知っている筈はなかったでしょう?」
「そうなのだよ。三津木君、そして、この事件で一番恐ろしいのはそこのところだよ。虹之助は誰でもいい、甲野一家の者さえたおせばよかったのだから、別にコップを選ぶ必要はなかったのだ。しかし……しかし、あのときこの家にいたのは、甲野家の人たちばかりじゃなかった。警察の人たちもいたしわれわれもいた。だからひょっとするとあのコップは、君に当たっていたかも知れないし、あるいは私に当たっていたかも知れないのだ!」
三
あっ。——と、いう叫びが一同の唇からもれました。何んともいえぬ恐ろしさが胸もとにこみあげて来て、しばらく一同は口も利けなかった。
「恐ろしい奴ですね」
よほど暫くたってから、やっと警部が溜め息とともにそういいました。
「そうです。恐ろしい奴でした」
由利先生も身ぶるいしながら頷きました。それからまたしばらく、一同は黙りこくって恐怖の影を追うていましたが、やがて警部が膝をすすめると、
「さて、では、最後にいよいよ虹之助の素性をきかせて戴きましょうか」
「それについては志賀君にきくのが一番いいのです」
しかし、志賀が悄然とうなだれているのを見ると、
「だが、志賀君としてはいいにくかろうと思うから、私が代わって申し上げましょう。但し、これは想像だから間違っているかも知れない。間違っていたら志賀君が訂正してくれるだろう」
由利先生はいかにも傷ましげに顔をくもらせると、
「あいつはね。志賀君のお父さんと、梨枝子夫人の間に出来た子供なんだ。どうです、志賀君、ちがいますか」
恭三はギクリと眉をふるわせましたが、そのままいよいよ深く首をうなだれました。由利先生は言葉をついで、
「志賀君のお父さんという人は気の毒な人だった。人生のはんぶんを猜疑と嫉妬の地獄のなかをのたうちまわって来たひとなのです。志賀君のお母さんと結婚した刹那から、自分の妻と甲野四方太——つまり静馬君や由美さんのお父さんですね。——とのあいだに不倫の関係があるという妄想に悩まされつづけたのです。ことに琴絵さんがうまれたときは、てっきりそれを四方太氏の子供だと信じた。そこで、その復讐として、——妻を盗まれた仕返しとして、相手の妻をぬすんだのです。それが合意のうえであったか、暴力の結果であったかは知らないが、とにかくそうして、志賀君のお父さんと、梨枝子夫人のあいだにうまれたのが、あの虹之助なのです。だから琴絵さんと虹之助が、あんなによく似ているのも不思議はない。ふたりは父を同じゅうし、そして母同志は姉妹——それも非常によく似た姉妹だったそうですから」
しいんと沈黙のなかに、突然、志賀の鋭い溜め息があたりの空気をふるわせた。志賀は蒼白になった面をあげると、
「先生がそこまで御存じだとすれば、かくしていても無意味なことです。そのあとは私から申し上げましょう。私の父は気の毒な人だった——と、いま先生はおっしゃって下さったが、気の毒な人間だからといって、父のあの、言語道断な行為には弁護の余地はありません。だから、甲野の叔父四方太老人があれ以後、一種の狂人のようになったのも無理はないのです。梨枝子夫人がみごもっている——そうわかったときから四方太老人は人が変わってしまいました。老人は夫人を九州の山奥の温泉へつれていって子供をうませると、うまれた子供は、そのまま付近のものにくれてしまった。それを貰って育てたのは、山窩《さんか》というような人種だったらしいのです。虹之助がそのままそこに朽ちてしまっていてくれたら、われわれはどんなに助かったか知れない。ところがいまから三年まえ、突如その虹之助が山窩の仲間につれられて、小豆島へかえって来たのです。いまから思えば虹之助は、甲野家へ禍をもたらし、復讐するためにかえって来たとしか思えない。叔父も叔母も驚いた、狼狽した、しかし、追い出すわけにはいかないので、それを奥の土蔵のなかで、ひそかに養育することにしたのです。言い忘れましたが、虹之助はうまれながらにして聾だったのですが、三年まえにかえって来たときには片眼だけはまだあいていたそうです。ただもう一方の眼だけは、その時分から偽眼をはめていたんですが、思えばその頃からすでにストリキニーネを用意して、甲野の一家をねらっていたんですね」
志賀はほっと溜め息をついたが、由利先生は眉をひそめて、
「しかし、三年も家にいて、よく人に知られなかったものですね」
と、不思議そうに訊ねました。
「いや、その疑問は御尤もですが、それは先生が甲野の家を御存じないからです。小豆島の甲野のいえというのは、ずいぶん古い、大きな、土蔵の十幾棟とあるような家なんです。その気になればひとりや二人、世間に知られずに養うぐらい、大して苦労ではないのです。第一、静馬や由美や私でさえもずっと後になるまでこの事を知らなかったくらいなんですよ。ところがそのうちに恐ろしい問題が起こった。その問題のために叔父から相談をうけて、私ははじめてそういう呪わしいものが、われわれの間に存在していることを知ったのです」
「問題というのは……?」
志賀は苦汁をのむようなかおをして、
「虹之助と琴絵が恋に落ちたこと。……」
一同はどきりとしたように眼を見交わせる。ああ、それはなんという陰惨なことだろう。虹之助と琴絵は姉と弟にあたるのではありませんか。
「そうなんです。物事というものは一度呪われると、その呪いははてしなくひろがっていく。それを聞いたときの私の驚き、私はなんともいえぬ暗澹たる気持ちでした。御存じのとおり静馬や由美は、虹之助が来る前後から東京へ出ていましたし、私はしじゅう旅行がちだったから、知らなかったのだけれど、琴絵はいつも家にいるものだから、早くから虹之助の存在に気がついており、座敷牢同様の生活に、娘らしい同情を寄せていたのが、いつか妙な感情にかわっていったんですね。私は叔父から話をきいて、琴絵をいさめましたが、まさか若い娘にほんとうのことを打ち明けるわけにはいかぬ。だから、われわれが反対すればするほど、琴絵のほうではいこじになり、はてはとうとうあのとおり気が狂ってしまったのです。虹之助と来たら、はじめから禍《わざわい》をまくためにやって来たのだから、鼻の先でせせら笑って取りあわないのです。幸い二人のあいだはまだ淡い恋心——琴絵のほうだけですよ。虹之助になんの恋がありますものか——だけで、それ以上すすんでいなかったが、私はそのときよっぽど虹之助を殺してしまおうかと思ったのです。ところが突然その虹之助の、たった一つ残っていた眼が潰れてしまった。即ち、ここに完全な盲聾唖が出来上がってしまったのです」
「ああ、ちょっと待って下さい。虹之助はそのまえから読唇術は出来たんですね」
「そうです。山窩がつれて来たときから、読唇術はかなり達者で、向きあっていれば、唖とは思えぬくらい自由に話が出来たそうですよ」
「そして、両眼失明してから、指で唇を読む方法を教えたのは?」
「梨枝子夫人、即ち叔母です」
志賀はにがにがしげに、
「これは無理もないことかも知れないけれど、叔母はまたあの悪魔が可愛くてたまらなかったのです。静馬や由美を犠牲にしても、あの虹之助が可愛かったのです。亡くなった人を悪くいってはすまないが、いったいあの叔母という人は不心得な人で、虹之助をうんだのも、決して父の暴力に屈したのではなく、叔母はまえから母に対して嫉妬していた。叔父に対していつも不満を抱いていた。そこを父に乗じられて、手もなく誘惑に乗ってしまったんです。そういうわけで、叔父に対する面当てからも、静馬や由美より、虹之助のほうを可愛がったのです。そういうわけで叔父が急死した際なども、われわれはよほどあいつを警察へ引き渡そうかと思ったのですが、叔母が泣いて掻きくどくものだから……」
由利先生は急に大きく眼を瞠って、
「それじゃ、四方太老人は……?」
「そうです。医者はそういう悪魔がうちにいることを知らないものだから、簡単に卒中と診断しましたが、毒殺の疑いは濃厚だったのです。いや、叔父のみならず、叔母自身、腰が立たなくなったのは、やはり怪しい中毒に悩んだ結果なのです。叔母もあいつを恐れているが、しかも盲目的な愛情をどうすることも出来なかったのです」
無智で、愚かで、女にありがちの一種の偶像崇拝狂の母には、あの美しい虹之助が、このうえもなくいとしいものに思われたのでしょう。そしてそのためには静馬や由美を犠牲にすることさえあえていとわず、ひいては自分の身さえそいつのためにほろぼしてしまう結果となったのでありましょう。
「しかし、私はそのときはっきり心を決めたのです。このうえあいつのために、甲野の家に迷惑を及ぼしてはならぬ。静馬や由美のこれからさき長い生涯に負担をおわせては可哀そうだ。——そう思ったものだから、私はあいつを殺してしまうつもりでした。ところが、叔母は早くもそれを察して、私が東京へいっているあいだに、静馬と鵜藤を掻き口説き、あいつをああいう方法で水葬礼にしたのです。ひと思いに私に殺されるより、誰かに救われ、またどこかの空で、生きているかも知れぬ。——と、そういういちるの望みを持っていたかったのでしょう」
「それを……それをお節介にも、あたしがまた連れてかえったのね。そして、あなたがたにこんな大きな迷惑をかけてしまったのね」
気まぐれな未亡人の綾子も、さすが自責の念にたえかねてか、そこでとうとう泣き出してしまいました。
「いいや、綾さん、それは君の罪じゃないのだ。みんな呪わしい運命なのだよ。いや、それとも悪魔のようなあいつの執念が、どうしてももう一度甲野の家へかえって来て、陰険な、邪智ぶかい復讐をしなければおさまらなかったのかも知れない。しかし、もう何もかも過ぎ去ってしまったことなのだ。われわれは君に対して、決して悪い感情を持っていないのだよ」
「そうです。志賀君」
由利先生はそこで厳粛な顔をすると、最後にこんな事をいったのであります。
「何もかも過ぎ去ったことなのだ。忌わしい過去は嵐のむこうに消えていった。そして、あとに残った君たちの使命は、新しい、健全な、何者にも呪われない生活をきずきあげていくこと、唯それだけなんだ。聞けば君が大道寺の奥さんと結婚することを躊躇しているのは、君が無一物だからという。しかし、そういう思想は健全ではないね。むしろ、旧い、型にはまった、間違ったヒロイズムだよ。金はなくとも金以上のものを持っている、と、そういう自信が持てないのかね。とにかく一日も早く、大道寺の奥さんの希望をみたしてあげるんだね」
そこで由利先生は急にいたずらっぽい眼付きになり、にやにや二人を見較べると、
「そうでもしてもらわなければ、この駻馬は、いつまた何をしでかすか分からないからね。はっはっはっ!」
先生はそういって、いかにも快げに哄笑《こうしよう》したのでありました。
さて、この陰惨な物語を、せめて明るくするために、最後につぎのようなことを、皆さんにお報らせして筆をおくことに致しましょう。
志賀と綾子はそれから間もなく結婚しました。
そして由美と三人でパリへたちました。この旅行は二人にとってはむろん新婚旅行の意味もありましたが、それと同時に、なにもかも忘れて、声楽の修業をしたいという由美の請いをいれて、彼女の後見をするためでもあったのです。由美の修業がおわるまで、何年でも三人はヨーロッパにとどまるのだそうです。
由利先生は神戸まで三人を見送りましたが、やがて船中から来た綾子の第一信には、つぎのようなことが書いてあったということです。
——淡路島の沖、鳴門のほとりを通るとき、あたしたちはめいめい船中から花輪を海に投げました。これがあの人へ対する最後の手向《たむ》けであり、今後あたしたちはもう二度と、あの恐ろしい名前を口に出さぬと誓いあったのでございます。——
[#改ページ]
[#見出し] 猫と蝋人形
蝋人形の屍体
諸君はだれでも、きっといちどは時計の裏蓋《うらぶた》をひらいて、あのふしぎなゼンマイじかけをのぞいてみたいという、欲望にかられたことがあるだろう。そして世にも精巧な、大小無数の歯車がかみあって、規則正しく、コチコチと時間をきざんでいるのを見ると、まるで夢の国の、幻の工場をでもみるようなふしぎな魅力を感じたにちがいない。どうしてまあ、あのような小さな歯車が、一分一厘の狂いもなく、正確にかみあい、回転することが出来るのだろう。——
しかし、これは正確な時計のことである。精巧な機械ほどしばしば狂うものはないし、また狂ったがさいご、これほど手のつけられぬ代物はないのである。進みすぎたり、遅れすぎたり、いくらゼンマイをまいてもすぐとまったり、そうかと思うと、自鳴鐘が鳴りはじめたがさいご、ゼンマイが切れるまで鳴りやまなかったり。——まったく、十二より時を打つはずのない時計が、どうかすると五十も百も、つづけざまに打っているのをきくと、きいているほうで頭が狂いだしそうな気がすることがあるものだ。
人間の頭脳がちょうどこの時計と同じことで、世の中にこれほど精巧に出来たふしぎなからくり[#「からくり」に傍点]は、またとほかにないのであるが、それと同時に、これほど狂いやすいものも、ほかにありえないのである。われわれはしばしば、数時間にわたって鳴りやまぬ、気違い時計とおなじように、狂った例を人間の頭脳にも見ることが出来る。そういう頭脳から考えだされたえたいの知れぬ気味悪さ、常軌を逸した陰険さ。——これからお話しようとする、この風変わりな事件というのが、ちょうどその人間の気違い時計なのである。
それは連日の霖雨《りんう》に、大川の水位が急にたかまったある朝のこと。
清洲橋《きよすばし》のすぐちかく、隅田《すみだ》の流れを寝ながらの枕《まくら》のしたにきこうという、中洲《なかす》の河岸《かし》っぷちにある洋館から、いまめざめたばかりとおぼしい美人がひとり、なんとなく底冷えのする朝風をいといながら、鉄格子の裏木戸をひらいて、石段づたいに降りてきた河っぷち、見わたせば水の上にはいちめんの深い靄《もや》が立ちこめて、その中をこぎのぼるだるま船も、櫓《ろ》の音がギチギチときこえるばかり、姿もそれとみわけかねるくらいの深い朝靄なのである。
美人はなんとなくそわそわとあたりを見まわしながら、ヒタヒタと上げ潮の寄せている石段をおりていった。石段の右手にはクリーム色の洋館が、河のうえまではみだしていて、そのしたはちょうど、おおきな縁のしたのように空洞になり、よどんだ水がどんよりと、うすぐらい淵《ふち》をかたちづくっているのである。
美人はしばらく身をかがめ、くらい淵の中をのぞきこんでいたがふと足もとに流れよっている小さな空瓶《あきびん》に眼をとめた。マヨネーズ・ソースの空瓶なのである。たわむれるように、洋館を支えている太いコンクリートの柱の根元に、コツコツと頭をぶっつけている。
美人はそれを見るとちょっと体をかたくして、息をのむような表情をみせたがすばやくあたりをみまわすと、身をかがめて瓶のほうへ手をのばした。と、そのひょうしに彼女の眼は、うすぐらい洞穴《ほらあな》のような縁下の、ずっと奥のほうにゆらゆらと浮いている、ふしぎな、白い物体のうえに落ちたのである。