「お兄さんの事はお気の毒でした」
「ああ……。兄貴が犯人だとはね。母親思いの、良くできた息子だったのに、分らんもんだね」
「話の腰を折るようで申し訳ないですが」
と私は口を挾んで、「お兄さんは、中野助手殺害の容疑者です」
孝治は面食らった様子だったが、すぐに笑って、
「同じ事じゃないか。当然、おふくろを殺したのも兄貴に決まってる」
「それはどうでしょうか……。ところで、あなたは賭け事がお好きなようですな」
「何の話だ?」
孝治の顔がこわばった。
「調べたところによると、競馬や競輪でかなりの額を損していたようですね。お母さんの会社の経理部に学生時代の友人がいたのを幸い、二人で会社の金をごまかしてはギャンブルに回していた」
「嘘だ!」
「三日の毎週定例の会議で、それがバレそうになって、あなたは、追いつめられた。そこでお母さんを殺そうと決心して——」
「嘘だ! 何の証拠があるんだ!」
孝治がむきになって叫んだ。その時、急に激しい|雨の音《ヽヽヽ》が部屋を満たした。孝治の顔から見る見る血の気がひいて、
「くそっ!」
と叫ぶと居間から飛び出そうとしたが、ドアの外には壁が——いや、原田刑事がたちはだかっていて、ゴムまりのようにはね返されてしまった。
「あれ、何です?」
原田は部屋の中へ入って来ると、「ここだけ雨なんですか? 外はいい天気ですよ」
「これよ」
夕子が居間へ入って来た。レコードのジャケットを手にしている。「さあ、孝治さん、あなたがおととい午前中に出かけて行って買って来たレコードよ。|自然効果音のレコード《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ね」
タクシーは大学へ急いでいた。
「そこで気が付いたの。青木さんのいた地下の書庫のすぐ上の教室では、レコードコンサートの準備が進んでいたでしょ。当然、音の状態を調べるために、かなりの音量でレコードがかけられていたはずよ。音の中でも、特に低音の振動というのは、よく伝わるもので、当然床から地下の書庫へと響いたはずだわ。書庫は地下二階になっていて、音も複雑に反響するから、あまり細かい事に注意を払わない青木さんが、それを聞いて、雨が降り出したと考えても不思議はないと思ったの」
夕子は説明を続けた。「川島孝治が、確かになかなか頭が切れる事は認めなきゃね。青木さんの奇妙な死について、川島先生から話を聞くと、すぐに真相を察したのね。あの家自体、方々にスピーカーが埋め込まれ、どこからともなく音楽が聞こえるよう工夫してあるので、容易に推察できたんでしょう。彼はそれを利用して、母親を殺し、遺産を手中にしようと思い立ったわけ。そこでレコード屋へ行き、自然の雨の音、雷鳴、川の流れる音などを収録したレコードを買って来ると、母親の出かけるいつもの時間に、それをかけたの。母親はてっきり雨が降っているものと思って雨支度をして玄関へ出る。そこを短剣で突き剌したのよ。母親も窓から外を覗いて見るぐらいの事はしたかもしれないけど、もう外は真っ暗だから、大して疑いもせずに、雨だと思い込んだでしょう。彼は、母親をそういう状況で殺せば、まず間違いなく、前の二つの事件と同一犯人の犯行と思われるだろうし、そうなれば、兄妹三人の中で、大学と全く関係ないのは自分だけなんだから、まず疑われるはずはないと考えていたのね」
「なるほどね……。しかしいやな事件だな」
「ねえ講演時間に、間に合うかしら? あと三十分しかないわ。運転手にもっとスピード出すように言ってよ」
「しかし速度制限が——」
「あなた刑事でしょ。緊急の場合じゃないの。何とか言いなさいよ!」
夕子は名探偵から一女学生に戻っていた。
話を終えると、どっと拍手が沸き上がった。私は何度も頭を下げて、壇を下りたが、とたんに、若い女子学生たちにワッと取り囲まれてしまった。何と、手に手に手帳やノートを持っていて、
「サインして下さい!」と叫んでいるのである。私は面食らってしまった。しかし、
「渋くてカッコいいわ!」
「コロンボより素敵!」
「ねえ、本を出してないんですか」
などと口々に言われると、なかなか悪い気はしない。次々に手帳にサインをしてやっているうちに、次第に頬もゆるみっ放しになって来る。
「まだ独身って本当?」
「だったらお嫁さんにして下さい!」
なんていう子もいて、こっちはヘラヘラ笑っているばかり。——と、突然、私の顔は恐怖に凍りついた。見た事もないような恐ろしいものが見えたのである。
夕子が離れた所から眉を逆立て、眼尻をきっとつり上げて、今にも歯をむき出さんとする女吸血鬼みたいな形相でこっちをにらんでいるのである。——と、急にクルッと背を向けて、さっさと出口ヘ歩き出した。
「お、おい! 待ってくれよ! おい!」
私は女の子たちの人垣をかき分けて夕子の後を追っかけた。
やっと追いついたのは、外の芝生の上だった。
「ねえ、待ってくれよ」
「知らないわ!」
夕子はずんずん歩いて行く。私は必死に足を並べて、
「怒らなくたっていいじゃないか。ちょっとサインしてやっただけなんだぜ」
「あら! 自分がどんな顔をしてたと思ってるの? あのシマラない顔ったら! ——もう見るのもいや! あっち行って!」
「ま、まあ、そんな事言わないで。何でも好きな物おごってあげるからさ。旅行にだって連れてくよ。だから、機嫌直してくれよ」
「ほんと?」
夕子は足を止めて、窺うように私の顔を見た。私は必死に肯いた。
「じゃ、いいわ。その代り——」
「何?」
「ここでキスして」
「ここで?」
私は学生の溢れている周囲を見回した。
「だって——こんなに大勢——それに、軽犯罪法違反だぜ!」
「あら、そう! じゃ、さよなら」
「ちょっと——ちょっと待ってくれよ! 分ったよ、分ったよ」
私は思い切って夕子を抱き寄せると、熱烈なキスをした。周囲に歓声が上がり、口笛が鳴り、やがて拍手が起こる。顔が火を吹くようだった。やっとの思いであたりを見回すと、アングリ口を開けている原田の顔が見えた。
——芝生に坐って、しばらく冷たい風に吹かれていると、やっと額の汗がひいて行く。
「綾子さんは気の毒だったな」
私は言った。「一度に母親と兄二人を失っちまった」
「でも、川島先生の方は、同情の余地もあるし、それに彼女、そうへこたれはしないわよ。さっき別れ際に、これからはちゃんと学校へ出て来る事にするって言ってたわ。——きっと今度から|まともな《ヽヽヽヽ》名画を描くようになるでしょ。私も何かと力になってあげるわ」
「それがいい。——ねえ、今、思い出したんだけど」
「何を?」
「講演料の代りに、君の家へ連れてってくれるはずだったろ」
「ああ、そうだったわね。でも、さっき、女の子に囲まれて鼻の下を長くしてた罰で、今回は延期」
「冷たいなあ」
「でも旅行になら付き合ってもいいわよ」
「そうかい?」
私は乗り気になって、「じゃ、暮れにでもどこかへ行こうよ」
「費用は持ってくれるわね」
「うん……まあ、ボーナスがあるから……」
「元気のない声ね」
と笑って、「ヨーロッパへ連れてけとは言わないわよ」
「ご親切に。しかし、ちょっと心配だな」
「何が?」
「君と旅行すると、また何か事件にぶつかりそうな気がしてね」
「そうよ。事件の起きた場所へ出向くんじゃなくて、事件の方が私を求めてくるの。それが名探偵っていうものよ!」
夕子は大見得を切った。
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<a name=5>第五話 善人村の村祭
<h1 caption=" 善人村の村祭"></h1>
1
「国境のトンネルを抜けると、雪国だった」
私は、いかにも小説朗読といった調子で言った。
「〈国境の|長い《ヽヽ》トンネル——〉よ」
と夕子が冷ややかに訂正する。
「そうだったかね」
私はせっかくの文学的|雰囲気《ふんいき》をぶち壊されて、しらけたが、ひょいと思いついて、
「|ながい《ヽヽヽ》なら、ここにいるから|省《はぶ》いたのさ」
|永井《ヽヽヽ》夕子は、くすくす笑って、
「凄い駄洒落ね!」
——私のセリフも決して場違いではなかった。というのも、私と夕子の乗った列車は正にトンネルの中にいたからである。ここで口やかましくも言う人がいるかもしれない。トンネルを通り抜けてる時には、うるさくて、こんな会話など交わしていられないはずだ、と。残念でした。列車はトンネルの中で停っていたのである。
大体、トンネルというものは、出た所が雪国であるか否かにかかわらず、ともかく出なければお話にならないもので、こうして闇の|洞窟《どうくつ》にじっと閉ざされているのは、乗客にとってあまりいい気分ではない。駄洒落が出たのも、そんな重苦しさを払いのけようという気持が働いたせいだろう。
列車が停った時、乗客たちは「どうしたどうした」「故障か」「飛込みか」……トンネルの中で飛び込む物好きがいるとは思えないが、ともかく興味の方が先に立って、面白半分ザワザワ騒いでいた。そのうち、それが静まって、妙に間の悪い沈黙が広がり、やがてイライラとあちこちでため息が洩れ、それがしばらく続くと、再び「何だ」「どうした」が始まったのだが、今度はもう本当に不安と焦りが濃い、切迫した雰囲気である。
「何かあったのかしら?」
夕子が暗い窓の外へ目をやった。
「何にせよアナウンスすればいいんだ」
と私は言った。「何も知らされないとみんなかえって不安になる」
そのとたん、打てば響くように車内放送がキンキンと甲高い声音で、この先に崖崩れがあって列車が進めません、と告げた。一瞬シンとなった所へ、誰かが、
「おい! じゃトンネルに閉じ込められちまったのか!」
と言い出したから、たちまち車内は大騒ぎになってしまった。
「助けてくれ!」
「逃げ出すんだ! おい、荷物!」
「窒息するぞ!」
こうなるとパニック状態、一歩手前だ。夕子が私の顔を見る。仕方ない。こういう場合は、若い女子大生の魅力より、四十男のドラ声が効果を発揮する。私は座席の上に立つと、
「静かに!」
と叫んだ。自慢じゃないが、これでも警視庁は捜査一課の警部である。前科何十犯のワルも震え上がる|ドス《ヽヽ》の効いた声が、さしもの騒ぎをパタッと鎮めた。
「よくアナウンスを聞くんだ!」
「くり返して申し上げます。このトンネルの先一キロの地点で崖崩れがあり……」
ああ、やれやれ——。ほっと安堵の声が上がって、みんな席に落ち着く。
「ご苦労さん」
夕子が微笑んで、「ちょっと見直しちゃった」
「そうかい?」
と私もまんざらでない。
「顔に似合わず可愛い声出すのね。少年合唱団でボーイソプラノだったの?」
「………」
暮れも押し詰った十二月三十日、正月休みをどこかひなびた温泉で過ごすべく、私は恋人の永井夕子とともに、奥秩父の古ぼけたローカル列車に乗り込んだ。車内は帰省の若者や、湯治の老人たちで満員の盛況。各駅停車ののんびりした旅に、久々の解放感を味わっているところだった。大学卒業を来春に控えた夕子は、卒論も提出して、後は卒業証書をもらうばかり。卒論のテーマに取り上げたのは、〈マザー・グースとアガサ・クリスティの象徴的関連〉だそうで、いかにも彼女にふさわしい。
「温泉に行こうよ」
と言い出したのは夕子の方である。考えてみれば、私たちが初めて顔を合わせたのは、岩湯谷というひなびた温泉町だった。そこの湯治客が、走っている列車から|忽然《こつぜん》と姿を消した事件は、〈幽霊列車〉事件と呼ばれて、全国を騒がせたものだが、それを解決したのが、このうら若き女子大生永井夕子だったのである。夕子と四十歳の男やもめの私とは、どういうわけか、気が合って、難事件には良きパートナーとしてぶつかり、休日には恋人として時を過ごして来た。今、卒業を前に、また田舎の温泉で正月休みを過ごすのは、正に名案というべきだったろう。
「——いつになったら動き出すのかしら」
さっぱり動く気配のない列車に、夕子が少々苛立ち始めた時だった。
「宇野警部じゃありませんか!」
若い男の声が頭上から降って来た。体をひねって見上げると、三十歳前の若々しい顔が笑っている。
「何だ、植村君か」
「珍しい所でお会いしますね」
植村は警視庁捜査四課に所属する刑事だ。課が違うので、一緒に仕事をする事はなかったが、前途有望な切れ者だという|噂《うわさ》は耳にしていたし、たまに言葉を交わしても、エリートぶらない、謙虚な人の好さが大変に気持のよい青年だった。
「君も旅行かい?」
「帰省ですよ」
「へえ、こっちの方なのか? 初耳だね」
「次の駅で降りるんです」
「おやおや、一歩手前でおあずけって訳だな」
「苛々したってどうなるもんでもないでしょう。……お連れさんですか?」
と夕子に目を止めて訊く。私は夕子の事を何と説明しようか、と一瞬迷った。一課の連中はみんな夕子の事を良く知っているが、他の課となると話は別だ。上司の本間警視の|顔《ヽ》もあるし……。と、夕子が察したのか、
「私、|姪《ヽ》の永井夕子です」
と自己紹介した。植村は愛想良く会釈して、
「こんなに素敵な姪御さんがいらっしゃるなんて、それこそ初耳でしたよ、宇野さん」
「そうかい……」
と、曖昧にごまかす。——そこへ再びアナウンスがあった。前方の崖崩れは当分回復の見込みが立たないので、列車は次のN駅まで行って運転を中止するというのである。車内のあちこちに不平の声が上がったが、怒った所で相手が土砂では仕方がない。やがて列車はゆっくりと動き出した。
「参ったな! ともかく今夜は駅の近くの旅館にでも泊るより仕方ないね。もう八時過ぎだからな」
私は植村に、
「駅前に旅館か何かあるかい?」
「ええ、あるにはありますが……」
と何やら思案している表情だったが、やがて、何か思いついた様子で、
「どうです? どうせ次で降りるなら、僕の田舎へ来ませんか?」
「だって——近いのかい?」
「すごい山の中でしてね、かなりかかりますが」
「それじゃ明日出て来るのが大変だよ。ありがたいけど……」
「いや、正月休み、ずっと過ごされたらいいじゃありませんか」
「ずっと? まさか、そんなに図々しくないぞ、いかな一課の人間だって」
「いえ、遠慮には及びませんよ。何しろ、めったにお客なんか来る事がないから、村の連中、大喜びで歓迎しますよ」
「しかし……」
渋る私を植村は熱心に説得した。それでも少しも押し付けがましいところがない。本当に善意で言っているのだという事はよく分った。
「ま、どうせどこかひなびた温泉にでも、と思っていたんだが……」
私は夕子を見た。夕子は楽しげに植村と私のやりとりを眺めていたが、
「私、お言葉に甘えてもいいと思うわ」
と微笑んだ。
「決まった! 宇野さん、いいですね?」
「分ったよ」
私も植村のほとんど子供じみた喜びように、思わず微笑を誘われた。「——で、何という所なんだい?」
「|善人村《ヽヽヽ》」
「え?」
「善人の集りで、善人村。いや、本当にそういう名前なんですよ」
「楽しそうね。何だかワクワクして来るわ」
夕子は、もう少々はしゃいだ感じである。
「ええ、そりゃもう素朴で、いい連中ばかりですよ。——何しろ、村人同士のいざこざやもめ事なんか、僕の知ってる限り一度もありません。どこかの家で急に金が必要になれば、ワッと村人たちから充分な金が集まりますし、金をもらった方も、それを返す必要がないんです。つまりみんなお互い、困った時に助け合うわけで、それをいちいち返す事はないんです」
「へえ。何だかどこか遠い国のお話みたい」
「おいでになれば分りますよ」
「そんな所で育ったくせに刑事稼業とはどうなってるんだい?」
と私がからかうと、植村は笑って、
「犯罪ってものが珍しいんですよ。——あ、もうすぐ駅だ。用意して下さい」
植村が自分の席へ戻って行くと、私は、
「いいのかい?」
と訊いた。「何も刑事仲間だからって——」
「いいじゃないの。これも旅の楽しみよ」
夕子はボストンバッグを降ろしながら、「それに、その村でなら事件に出くわす事もなさそうだし」
「それはそうだ!」
その時、私はふと誰かの視線を感じて頭をめぐらした。二十四、五歳の、皮ジャンパー、長髪の若者がこっちを見ている。目が合うと、急いで窓の方を向いたが、何となくいわくありげである。夕子に低い声で言うと、
「ええ、知ってるわ。私たちと植村さんの話をずっと聞いてたみたいよ」
「へえ」
「特に、善人村って名前が出た時は、はっとした様子だったわ」
「同じ村の人間なのかな?」
「でも帰省するって感じじゃないわ」
それもそうだ。いかにも都会育ちらしいその長髪の若者の顔には、何やら思いつめたような表情が浮かんでいる……。
「——やあ、迎えが来てる!」
駅前に店らしい店さえない、小さな駅の改札口を出ると、植村が声を上げた。私と夕子は足を止め、アングリと口を開けて、目の前にある|物《ヽ》を見つめた。——|馬車《ヽヽ》なのだ。中年太りか、腹の出た馬が一頭つながれていて、白い息を鼻から吐き出している。馬車とはいっても荷馬車に近く、四角い荷車みたいなものに、低い木の腰掛がついているだけだ。しかし、いくら山の中だって、馬車とは!
「よお、えれえ遅かったでねえか」
手綱を取っている老人が植村に言った。
「耕介じいさん、元気そうだね」
「当りめえだ」
「この先で崖崩れがあってね、列車が遅れたのさ」
「そうか。汽車なんて不便なもんだなあ」
「父さんは?」
「今、宴会でな。手が離せねえだで、おらが代りに来たんだ」
「そうか。あのね、お客なんだ……」
植村が私と夕子を紹介すると、すり切れた毛皮にくるまったその老人はしわだらけの顔をますますしわくちゃにして、
「そりゃええ! ぜひ、おいでなせえ! さ、乗った、乗った!」
と、降りて来て、夕子が乗るのに手を貸してくれる。やがて、馬車は老人の、「それ!」という掛け声とともに、ポックリポックリ|蹄《ひづめ》の音をたてながら、凸凹道を辿り始めた。
「素敵ねえ! ナナハンなんかより断然決まってるわ」
と夕子は大喜びである。私は遠ざかって行く駅舎の方へチラリと目をやって、おや、と思った。さっきの長髪の青年が、駅の前に立って、じっと私たちを見送っていたのである。ただ馬車が珍しかったからだろうか。どうも、それだけではなさそうだ、と私の直感が呟いた。
2
馬車は一時間以上も、真暗な山道を辿って登り続けた。何日か前に降った雪が、両側に白い塀のように続く。次第に気温も下がって来て、厚いオーバーを着ていても凍えるような寒さである。
「寒くないですか?」
植村が夕子に訊いた。
「私は平気よ、若いから。でもオジサンはどうかな?」
カチンと来て、
「平気だよ、これしきの寒さ!」
と無理したとたん、派手なクシャミが三発連続した。耕介じいさんと呼ばれた老人が振り返って、
「おや、下の人にゃ寒かろう。こりゃ気が付かねえで……」
と言うと、何と自分の着ている毛皮を脱ぎ始めた。慌てて、
「い、いや、僕は大丈夫……」
「無理するでねえ。おらはこれなどなくったって、ちっとも寒くねえだよ。さ、これを着なせえ」
老人の物をずっと若い私が着るなんて話が逆だ。いらないと頑張ったのだが、
「いいから、いいから」
と耕介じいさんに押し切られてしまって、ついに古ぼけた毛皮に身をくるむはめとなった。いくら土地の人間とはいえ、耕介じいさんはもう見た所六十五、六にはなっていそうで、この寒さ、|応《こた》えないはずはないと思えるのだが、それでも平気な顔で毛皮を譲る所が「善人村」の|善人《ヽヽ》たるゆえんなのだろうか。
そうこうするうち、深い木立の奥にやっとちらちら明りが見えて来た。
「さあ、村ですよ」
と植村が言った。数えるほどの家々が本当に、ひっそりと山間に身を寄せ合って、村というよりは集落といった方がいいほどだ。馬車は村を抜ける、ただ一本の通りをのろのろと進んで、やがて少し大きめな木造の建物の前に停った。
「おめえのおやじさんはこん中だ」
と耕介じいさんが言う。私が毛皮を返して、地面へ飛び降りると、夕子と植村が続いて降りて来た。建物の入口には、〈善人村公民館〉と看板があって、奥からいやに|賑《にぎ》やかな笑い声が響いて来る。
「お客かい?」
と植村が耕介じいさんを見た。
「ああ。何か知んねえけど、テレビ局の人間だちゅうて、何日か、三、四人で来とったんじゃ。今日で帰るいうんで、別れの盃だ」
植村に奥へ案内された私たちは、三十畳ほどの広間での宴席へ飛び入りする事になった。
植村の父親は村のいわゆる年寄の一人らしく、もうかなり出来上がった赤ら顔で愛想よく私たちを迎えてくれた。いや愛想よくといえば、席に連なっている二十人ほどの村人たちのうち、誰一人、ぶすっと仏頂面をしている者などなくて、まるで久しく会わなかった親戚か何かのように、急いでしつらえてくれた私たちの席の前に入れ替り立ち替りやって来ては盃を満たし、
「よう来なすった。ぜひ|家《うち》にお泊りなせえ」
と熱心に勧めてくれる。これには弱った。まさか全部の家に泊るわけにもいかない。酒を注ぎに来た植村に言うと、植村は笑って、
「村長の家に泊っておけば無難ですよ。僕から父に言っておきましょう」
「よろしく頼むよ」
やれやれ。私は盃を置いて息をついた。
「本当に人なつっこい、というのか、いい人たちね」
夕子がチビリチビリと飲みながら言った。ほんのりと頬が桜色で、なかなか色っぽい。
「やあ、新しい客人ですか!」
一見して都会の人間らしいツイードにタートルネック姿の男がやって来て、私の肩を叩いた。夜だというのにサングラスを掛けて、いかにも芸能関係者といった様子である。
「テレビ局の方なんですか?」
と夕子が訊いた。
「ええ。この村のドキュメンタリーを放送するんでね、撮影に来たんです。三日間いましたが、いやあ、実にいい所ですねえ! 村の人たちの親切なことと来たら……。全く、こんな素朴さが現代に残ってるのが不思議なくらいですなあ。——ま、一杯いきましょうや。いつまでここに?」
「いや、正月休みを過ごそうと思ってましてね」
「そりやいい! |羨《うらやま》しいなあ。こっちもそうしたいのはやまやまで、村の人もそう勧めてくれるんですが、正月早々仕事が待ってましてね。祭の様子も撮りたいんですが、他の仕事でこれ以上いられないんですよ」
夕子がびっくりして、
「祭? 今頃、祭があるんですか?」
「知らないんですか? ここはあまり裕福な村とは言えませんからね、やせた畑と狩猟で細々と暮らしてて、年に何度も祭をやる余裕はないってんで、正月の一日に一年一度の村祭をやるんだそうです。どんな祭なのかは知りませんがね」
「そりゃ楽しみだな」
「ま、ゆっくりするんですね」
ちょうどそこへ、白髪の、静かな物腰の老人がやって来た。
「やっ、村長さん、どうも」
テレビ局の男は頭を下げて、「大変お世話になりました」
「いやいや、少しはお役に立てましたかな」
「ええ、おかげさまでいいものが撮れましたよ」
「そりゃよかった。——表に馬車の用意ができています。夜道ですから、あまり急げませんが、今出れば夜中前には町へ着きましょう」
「いやあ、恐縮です。何から何まで。——一応番組の放映日などが決まりしだいお知らせしますよ。それと、もしかしてこの村の全景が必要になりましたら、また、ヘリで空中撮影させていただくかもしれませんので、よろしく」
「そりゃもう構いませんとも。ですが、あまり高い所から撮ると、小さすぎて見えないかもしれませんよ」
と村長は笑った。テレビ局の男が帰り支度に席を外すと、村長は改めて私たちに挨拶した。
「村長の添田です。よくおいで下さった」
「いや、突然お邪魔して……」
「なに、お客人を迎えるのは、私どもの唯一の楽しみでしてな。遠慮などなさらず、大きな気持で、ゆっくりご滞在下さい」
人品卑しからぬ、風格ある村長であった。なまじの国会議員などより、よほど押しだしのよい感じだ。
宴会は、テレビ局のロケ隊三人を送り出してから、十一時過ぎにやっとお開きとなった。私と夕子は、いささか飲み過ぎて足もとが覚つかないまま、添田村長の自宅へ向かった。
ひっそりと寝静まった村の中を行くと、立ち並ぶ家々が、そこここに残った雪明りにほの白く照らし出されていて、まるでおとぎ話の世界のようだ。
「——お正月までいらっしゃるのでしょう? では祭をご覧いただけますのね。それはようございました」
熱いお茶を|淹《い》れながら、|絢路《あやじ》夫人が微笑んだ。——もう六十にはなっていると思える添田村長には不つりあいなほど若く、やっと三十七、八というところだろう。色は抜けるほど白く、細面に整った顔立ちの大変な美人である。
「お祭って、何があるんですか?」
夕子が茶をすすりながら訊く。
「いやいや、大したもんじゃありませんよ、お嬢さん」
添田村長が笑いながら、「東京の方がご覧になったら、こんなものが祭かと思われるかもしれません」
「本当ですわ」
夫人も肯いて、「がっかりなさらないとよろしいんですけど……」
「おや、もうそろそろ十二時になる。お疲れでしょう。絢路、お部屋の支度を」
村長の言葉に、夫人はすぐ立って部屋を出て行った。
「二階は全部空部屋でしてな。|専《もつぱ》らお客をお迎えするのに使っております。ご遠慮なくどうぞ。何しろ古い家ですからな。ちょっと寒いので、お風邪を召さんように気を付けて……」
本当に、廊下へ出ると冷蔵庫なんか必要ないと思える寒さだった。古い庄屋、といった趣の家屋で、廊下はほの暗く、一部屋がやたらにだだっ広い。夫人に案内されたのは二階の隣り合わせの二間で、それぞれが八畳間。ストーブも何もないのだから、ガタガタするほど寒い。
夕子、私の順に階下の古風な桶風呂につかって体を温めると、|冷《さ》めないうちにと早々に布団へもぐり込む。しかし恋人との旅で一人寝とは少々空しいものである。村長の言葉では、二階は全部空部屋だというんだから、隣をちょっと|訪問《ヽヽ》したって悪い事はあるまい。布団を脱け出すと、仕切りの|襖《ふすま》をそっと細く開けて覗く。——襖の陰から夕子の顔がヒョイと飛び出して、ギョッとした。
「何だ! びっくりさせるなよ」
「何してるの?」
「いや……つまり……ちょっと、寒くないかと思ってね。様子を見ようと……」
「へえ」
花柄のいやに可愛らしいパジャマを着た夕子は小馬鹿にした様に、「それにしては飢えた狼みたいな顔してるじゃないの」
「こんなに大人しい狼がいるもんか」
「何とか言っちゃって。——でも本当に寒いわね」
「そうだよ。だから少し暖めてやろうと思って——」
「暖めるなんて、だめよ」
言いながら、夕子は私の部屋へさっさと入って来て、布団の傍に立つと、パジャマを手早く脱いだ。
「熱くしてくれなきゃ……」
体を熱くするには、運動が一番である。それも体をじかに触れ合うような運動が。——私は日頃の持論を実践すべく、早速協力態勢に入った。
宴席での酔いが、風呂につかって、また残り火を上げて来たようで、いくらか頬の上気した夕子は、旅先という環境のせいもあってか、いつになく色っぽく見える。こちらも四十歳の|若さ《ヽヽ》に物を言わせて、大いに張り切って……
「——待って!」
夕子が耳元で鋭く|囁《ささや》いた。今まさに、という所だった私は少々むっとして、
「何だい、今は大丈夫な時期だって言ってたじゃないか」
「シッ! 聞こえないの?」
ふっと耳を澄ます。——階段のきしむ音。そして廊下を、静かに誰かがやって来る。
「誰だろう?」
「誰にしたって、叔父と姪がこんな事してちゃうまくないでしょ」
それもそうだ。夕子はパジャマをひっかかえると、裸のまま隣の部屋へ飛び込んだ。私も慌てて服を着る。着終えると同時に、廊下の障子がすっと開いて、
「もうお寝みでしたか?」
と絢路夫人が寝衣姿で坐っていた。慌てて布団の乱れを直す。
「い、いえ、まだ起きています」
「そうでございますか。お寒いでしょう」
夫人は立入って来て障子を閉めると、「寒くてお寝みになれないのではございません?」
「いえ、そ、それほどでも……。ちょっとやる事があって、今から寝ようと思っていた所でして」
「まあ、ちょうどようございましたわ」
私は目をむいた。——絢路夫人が端然と坐ったまま、帯を解き始めたのである。
「あの……何を……してらっしゃるんで?」
「お寒うございますから」
するりと寝衣が肩から落ちて、白く輝くような肌と、豊かな乳房が現われる。「少しでも暖まっていただこうと……」
立ち上がって、足元に寝衣がふわりと重なると、みごとに成熟した裸身が立っていた。夕子の、若々しく引き締った体とはまた違った、|熟《う》れた肉体が、まさに芳香を漂わせるばかりだ。茫然と眺めていた私は、夫人が近付いて来るとやっと我に帰った。
「お、奥さん! ご主人が下で——目をさまされたら、どうするんです!」
「ご心配には及びません、主人の言いつけで参ったのですから」
言葉を失っているうちに、夫人は布団の中へ入り込んで来た。私は慌てて、布団からピョンと飛び出した。
「待って下さい! い、いけませんよ! こんなことは……その……|不道徳《ヽヽヽ》です!」
我ながらつまらない事を言ったものだ。
「これはこの村の歓迎の気持の示し方なんですから、そんなお気遣いはご無用ですわ。それとも、私ではお気に召しませんか?」
「い、いや、とんでもない!……つまり、その、大変魅力的だと思いますよ、はあ」
「でしたら、どうぞ、おいでになって」
私はふと隣室との仕切りの襖が細く開いて、夕子の片目が覗いているのに気付いた。こいつは、下手な事を言うととんでもない事になるぞ!
温泉旅行の終点が病院のベッドって事にもなりかねない。しかし、何と言えばいいのだろう? 二人の女性に振られた経験はあっても、言い寄られた事は初めてである。それに、心の底に「惜しい」という気持が動いたのも事実だ。絢路夫人の妖艶な魅力はどうにも否定できない。どうすればその魅力を退けられるだろう。絢路夫人の方は私を待ち受けている。
「あ、あのですね、実は……」
その時だった。仕切りの襖がガラリと開いて、夕子が入って来た。
3
「いや、ごちそうさまでした」
朝食を終えて、熱い茶をすする。
「少し村の中を歩かれますか? といってもアッという間に端から端まで行ってしまいますがね」
と添田村長は笑った。
「はあ。適当に二人でぶらぶら歩きますから。大晦日で、何かとお忙しいでしょう」
——穏やかな朝だった。改めて、何と小さな村だろう、と驚く。道を挾んで、両側に並ぶ家々の裏手は、すぐ林になって、そのまま山へと入ってしまうのだ。
それでも大晦日のせいだろうか。通りには結構忙しそうに村人たちが行き交っている。その誰もが、私たちとすれ違う時には、にっこりと笑顔になって|会釈《えしやく》して行くのには、少々面食らってしまった。
「僕らの来た事は知れ渡ってるんだなあ」
「ちょっとした有名人ね」
と夕子が笑顔で言う。
「——それにしても」
私は息をついて、「|昨夜《ゆうべ》の君の寝ぼけた演技は抜群だったよ」
夕子はいたずらっぽく肩をすくめた。全く、夕子が襖を開けて入って来た時は、どうなる事かと顔から血の気がひいたのだったが、夕子はくっつきそうな瞼で、
「叔父さん……寒いから、一緒に寝ていいでしょ」
と、舌足らずな甘え声で言って、絢路夫人が裸で寝ている私の床の中へ、モゾモゾともぐり込んで、たちまち静かな寝息をたて始めたのだ。絢路夫人も、
「まあ……可愛いこと。まだ子供なのね」
と微笑むと、「では、失礼いたしますわ。姪御さんと寝てあげて下さいませ」
と寝衣を着て、部屋を出て行った。ホッとして肩を落とすと、パジャマの夕子がパチッと目を開けたのは言うまでもない。
「だってああでもしなきゃ、あなた、喜んであの奥さんと寝そうだったんですもの」