村の外れへ足を向けながら夕子が言った。
「そ、そんな事あるもんか!」
「あら、分るもんですか。私が襖から覗いてなくて、ぐっすり眠ってたら? それでも敢然と誘惑を退けた?」
「当り前さ!」
憤然と言ったものの、いささか良心にとがめる所がないわけでもなかった。
「まあ、いいじゃないか。何もなかったんだし、その後はしっくり行ったんだから……」
「ま、勘弁してあげる。昨夜の努力に免じてね」
夕子はそう言って笑った。「でも、歓迎もあれじゃ行き過ぎね」
「全くだ。客がある度に、ああやって奥さんを行かせるのかな」
「アラスカあたりに、昔、そんな習慣があったとかって聞いたことあるけど……」
「妙な風習だなあ。……あれ、何だろう?」
もう私たちは村の外れへ来ていた。そこは裏山への登り口で、ちょっとした広場になっており、男たちが、何やら材木を組んで綱で縛ったり釘で打ったり、大仕事の最中であった。
「何を作ってるのかしら?」
「さてね……」
それはちょうど野球場を超ミニサイズに縮小したような形で、二メートルばかりの高さの板で囲った、直径十メートルほどの円い土地を、階段状にしたベンチがまわりから見下ろすような格好になっている。
「きっと何かお祭の支度なのね」
「相撲大会でもやるのかなあ」
「——邪魔になっちゃ悪いわ。行きましょ」
私たちは細い山道をぶらぶらと登って行った。点々と白く雪の残る枯れた林の間をしばらく行くと、急に目の前に広々とした眺望が開けた。天然の展望台とでもいった場所で、澄み切った冷たい大気を通して重なり連なる山々の、木の一本一本まで手に取るように見分けられる。
「わあ、凄い崖」
夕子が歩いて行って|崖《がけ》っ|縁《ぷち》から下を覗き込んだ。私も恐る恐る覗いてみると、足下から、はるか下の岩だらけの渓流まで、たっぷり五十メートル以上の切り立った断崖になっている。足の裏がムズムズして来て、慌てて後へ退がった。近くにあった切株へ腰を下ろす。
「おい、危いぞ。あんまり端へ行くと」
「はいはい」
夕子は戻って来て、並んで坐ると、「自殺の名所にでもなりそうなとこね」
「しかし自殺なんてないんだろ、〈善人村〉だからな、何しろ」
「それもそうね。——こんな山奥の村で平和に生きるのも一生ね」
「都会の真中で、殺人犯を追っかけ回すのも一生だな。……君は春、大学を出たら、どうするんだい?」
「さあね、分らないわ。何か働かなきゃ……。探偵社でも開こうかな」
「危い真似はやめろよ。気が気じゃない」
「あら、自分はどうなの?」
「警官はそれが仕事だ。——死んだ女房は心配性でね。いつも、危険な仕事をするくらいならクビになって帰って来て、と言ってたよ。その女房の方が、交通事故で死んじまった」
「人間、いつどうなるか分らないわね」
夕子はえらく深刻ぶって言うと、「だから、私、したい事は後回しにせずに、すぐ実行する事にしてるの」
と笑顔になって、「——キスしてよ」
狭い切株の上で窮屈に身を寄せ合いながら、私は夕子を抱いて唇を重ねた。
「——あら!」
夕子が声を上げて身を離した。振り向くと、皮ジャンパーを着た長髪の若者が何とも間の悪そうな顔で立っている。あの、列車の中で私たちの話を聞いていた若者であった。
「すいません、邪魔しちゃって」
若者は頭をかきながら謝った。
「別に謝る事ないよ。こっちが軽犯罪法に違反してたんだから」
「あなた方、あの善人村に泊ってるんですね?」
「そうだよ。僕は宇野、こっちは永井夕子」
「こんにちは、東京の人ね?」
「そうです。山上といいます」
若者は手近な岩に腰を下ろすと、「お二人の邪魔するつもりはなかったんです。——実は一年前、兄がここで死んだもんですから」
「まあ! 善人村で?」
「いえ、文字通りここ——この崖から落ちて死んだんです」
「危険だなあ」
私は首を振って、「柵も何もないんだから」
「ええ。僕も知らせを聞いて駆けつけて来た時、そう思いましたよ。村長の何とかいう人に、柵を設けてくれと頼んだんですがね」
「添田村長かい?」
「そうです、その人です。必ず柵を作ると約束してくれたのに、まだ放ってあるんですね」
「貧しい村だからな……」
「実は僕がまたここへ来たのはそれだけじゃないんです」
「というと?」
「どうも引っかかってる事があって……。もう一度ここへ来れば何かわかるんじゃないかと思ったもんですから」
「どういう事かね?」
山上という若者は、ちょっと間を置いて、
「兄は突き落とされたんじゃないかと思うんです」
私と夕子は思わず顔を見合わせた。山上は続けて、
「何か、列車の中のお話の様子では、警部さんとか……」
「まあ——ね」
「それじゃ、考えてみてもらえませんか? 兄は大変な高所恐怖症でした。二、三メートルの高さでも、もう足がすくんじまうんです。その兄がどうしてこんな断崖絶壁に近付いたのか、納得がいかないんですよ」
「なるほど。しかし、それだけに、下を覗き込んだりすると、クラッと目まいに襲われたりする事はあっただろう」
「それはそうです。でも大体、そんな所まで|行った事自体《ヽヽヽヽヽヽ》、僕には不自然に思えるんです」
夕子が口を挾んだ。
「お兄さんが殺されたと思ったのには、何かわけがあるの?」
「ええ……。実は兄の遺体を引き取って東京へ帰ってみると、兄が死ぬ直前——死んだのはちょうど今年の元旦だったんですが、十二月三十一日付で出した手紙が届いていたんです」
「そこに何か書いてあったわけだね、殺されそうだとか」
「そんな風にはっきりとは書いてありませんでした。——兄があの村に泊る事になったのは、兄がルポライターで、この付近の取材をしていたせいなんですが、何しろ村の人たちの歓迎ぶりにはとても喜んでいましてね、本当に善人村という名前がぴったりする、いい所だと書いてありました」
「それじゃ——」
「ええ、それだけなら僕も気にならないんですが、ただの歓迎にしては、ずいぶんと妙な事が書いてあって……」
「というと?」
「村長の奥さんが、毎晩、兄の相手をしに、兄の床へ入り込んで来る、というんですよ」
私は思わず夕子と顔を見合わせた。
「兄も兄です。そんな無茶な事、断ればいいものを、プレイボーイを自認していましたし、せっかく女の方から来るのを拒むものじゃない、といってすっかり楽しんでいたらしいんです。すばらしい体をした女だ、とも書いてありました。しかし、村長が自分の奥さんにそんな事までさせるなんて、ちょっと信じられないじゃありませんか」
「それで、どうしたの?」
「僕も夏休みなどを利用して、この地方の風習なんかを調べてみました。でも、客に妻を|貸す《ヽヽ》なんていう習慣はどこにもないんですよ。——そこで、ふっと思ったんです。あんな風に書いてはあったけど、要するに兄と村長の奥さんはいわゆる不倫な関係だったわけでしょう。村長の目を盗んで会っていて、それを村長が何かのきっかけで知ったとしたら……」
「村長が|嫉妬《しつと》にかられて、お兄さんをここから突き落とした——」
「その可能性があるんじゃないかと思ったんです」
「確かに考えられない事じゃないね」
と私は肯いた。「しかし、お兄さんの件は事故として処理を終ってるんだろう。今から再捜査させるには、よほど何かはっきりした証拠をつかまないとね」
「分ってます。自分でも確信があるわけじゃなし、難しいとは思うんですが、どうもこの一年ずっとそれが気になって……。ともかくもう一度ここへ来てみようと思ったんですよ」
その時、林の方の小径から、
「宇野さん」
と呼ぶ声がした。植村刑事の声だ。山上青年は慌てて立ち上がると、
「村の人に見られたくないんです。じゃ、失礼します」
と言うなり、別の方の林の中へ駆け込んで行ってしまった。
私と夕子が言葉もなく顔を見合わせていると、植村がやって来た。
「ああ、ここでしたか。姿が見えないんで、捜してたんですよ」
「そりゃ悪かったな」
「いいえ。——どうです、ここは、いい眺めでしょう?」
と得意げである。
「凄い断崖なのね」
夕子がさり気なく言った。「危くないのかしら? 柵か何かしないでも」
植村がちょっと面食らったような表情になって、
「そうですねえ。そう言われれば……。でも考えもしませんでしたね。今まで一人だってここから落ちた人間なんかいないんですよ」
「植村の言う通りだとすると、一体あの山上って若者は何者なんだろう?」
「嘘をついてるようには見えなかったけど」
「植村が知らないだけのことかもしれないな。前の正月に帰省していなかったら……」
「でも、こんな小さな村で、そんな大事件が起こったら、当然聞かされてるはずじゃないかしら」
「それもそうだ。……あ、ちょっと待ってくれ」
村の通りを歩いていた私は、村でただ一軒の雑貨屋へ入った。
「タバコあるかい?」
「はいはい」
赤ら顔の、でっぷり太った|逞《たくま》しいおかみさんが出て来た。
「セブンスター、ある?」
「ありゃ、それは置いてねえだ」
「じゃ他のでいいよ」
「すまねえな、ハイライトでいいかね?」
「ああ、結構だよ」
「すまねえな……」
しきりにすまながって詫びるので、こっちの方がきまり悪くなって、早々に店を出た。
「お待たせ。——何を見てるんだい?」
「え? ああ……。あの女の子」
「何の事だい」
「ほら、あそこの」
指さす方を見ると、一軒の家の軒下に、一人の若い娘が、うずくまるように坐っている。二十歳になるかどうかといった年頃だろう。やせて、異様なほど蒼白い。
「病人かな?」
「それにしても……。あの目つきは変よ」
のび切った髪が、まるで幽霊のように顔を覆い、その間から覗く大きな目は、じっと|虚《うつ》ろに正面を見据えたままで、微動もしない。薄汚れた、浮浪者のような服装といい、どことなく不気味な感じであった。
「——あの娘ですか? 可哀そうな娘でしてな」
昼食の時、添田村長は夕子の質問に答えて、ため息をつきながら言った。
「二年ばかり前、ここから少し山の方へ入った所で山崩れがありまして……。何日も雨が降り続いた後で、地盤がゆるんでおったんですな。あの娘は両親と三人暮しだったのですが、その時、土砂に家が埋って、生き埋めになってしまったのです。村の人間が総出で救助に駆けつけましたが、あの娘が辛うじて助かっただけで、両親は死んでしまいました。そのショックと、生き埋めになっていた怖ろしさとからでしょう、以来、あの娘はずっとあんな風に、昼間は道端に坐り込んで、ぼんやりとしておるんですよ。口もきかんし、誰が何を言っても分らないし……」
「なるほど」
平和な村にも悲劇はあるのだ。
「それはともかく、今夜は大晦日ですから、こんな貧しい村でも、年に一度のぜいたくな食事をすることになっとります。何かお食べになりたいものはありませんかな?」
「いえ、お任せしますよ」
「お客人のご希望があれば、ぜひ叶えてさしあげたいが——」
「いくら東京の人間だからって、こういう所へ来てステーキを食べようとは思いませんよ」
と私は笑って、「何も特別な事をしていただく必要はありません。どうか、心配なさらずに」
「分りました。いや、そう言っていただくと気が楽です」
「あの、さっき村の外れで、何か作ってましたけど、あれは何に使うんですの?」
「あれですか」
添田村長は微笑して、「ちょっとした気晴らしでしてね……。明日になればお分りになりますよ」
では忙しいので、と村長は席を立って行った。絢路夫人がお茶を淹れてくれる。そのお茶をすすりながら、私は、本当にこの物静かな人妻が、ゆうべ私の目の前で裸身をさらした当人なのだろうかと疑った。夫の命令であったとしても、見も知らぬ男に身を任せるのに、何の恥じらいも感じないのだろうか。まして、翌日にはこうして何事もなかったように振舞っている。——はたして添田村長は妻の所行を知っているのか?
4
「今夜?」
「そう。もし、今夜も村長さんの奥さんが、あなたの所に来たら、どうする?」
「そうだなあ……。困るね」
二階の部屋でゴロッと横になって、私は考え込んだ。
「また君の寝ぼけでごまかすさ」
「一緒に寝てみたら?」
「何だって?」
「奥さんと寝てみたらって、言ったのよ」
と平然としている。
「おい! まさか本気で——」
と思わず起き上がった。
「あら、本気よ」
夕子は窓のへりに腰かけて、「あの|女《ひと》、なかなか美人じゃないの。あなただって悪い気はしないでしょ」
「冗談じゃないよ! 君はそれで平気なのか?」
「平気でもないわね。ちょっと嫉けるな。でも引っかき傷の三つもこしらえれば満足するから大丈夫よ」
「一体何のつもりだい?」
「あの奥さんから訊き出すのよ。一年前に死んだ人の事を」
「何だ。じゃそのために僕にそんな真似をさせようってんだな」
私はムクれて、「残念ながら、僕はジェームス・ボンドじゃないからね、敵と分ってる女スパイとよろしくやって楽しむような神経は持ち合わせてないんだ」
夕子は黙って窓の外を眺めている。
「聞いてるのかい? 僕はごめんだよ。自慢じゃないが、これでも女房と結婚するまでは女に手を触れた事もなかったんだ。君と知り合ってからだって、君以外の女性と寝た事なんかない。僕は——その——|貞操堅固《ヽヽヽヽ》なんだ! 君がどう言おうと——」
「ね! 来て!」
「何だい? 色仕掛で言う事をきかそうたって——」
「馬鹿! 早く来るのよ!」
夕子の真剣な口調に、びっくりして飛び起きる。夕子はじっと窓の下を見つめていた。
「何だ?」
「あれを見て」
窓からは、物置や鶏小屋の並んだ裏庭が見渡せる。その裏庭に立って、じっとこの部屋の窓を見上げていたのは、あの道端に坐り込んでいた娘だった。
「さっきの娘じゃないか」
「|目《ヽ》を見て!」
なるほど、あの遠くを見ているような、虚ろな目ではなかった。じっと私たちを見上げているのは、何か必死に訴えようとしている真剣そのものの眼差しだった。娘は近くに落ちていた小枝を拾い上げると、地面に大きな文字を描き始めた。そして書き終ると、すぐにそれを足でこすって消してしまい、たちまち逃げるように走り去って行った。
「あれは……何の意味だろ?」
「分らないわ。でも書かれた言葉ははっきり読めたわね」
確かに、その通りだ。娘はこう書いたのだった。——「|ころされる《ヽヽヽヽヽ》」と。
「誰が? なぜ?」
もう何度も同じ言葉をくり返して、夕子がうんざりしたように肩をすくめた。
「そして、いつ、だ」
と私は付け加えた。
「こうやって坐り込んでたって、何も分りゃしないわよ。何か行動しなきゃ」
「といって、どうするんだ?」
「それが分ってりゃ苦労はないわ」
夕子はため息をついた。「——それにしても、この平和な村で、こんな事件にぶつかるなんてね」
「といったって、まだ何も起こったわけじゃないぜ。あの娘、ちょっとこう、おかしいんだろ? ありもしない事を想像してるだけかもしれない」
「でもあの真剣な目……。さっき通りでぼんやり坐ってた時とは、まるで違ってたじゃないの。とても、村長さんの言うように、何を聞いても分らないようには見えなかったわ」
「それはそうだな。しかし、そうなると——」
「あの女の子はわざと人の言う事が分らないふりをしてるって事になるわ」
「しかし、一体なぜなんだ?」
答のあるはずもなく、夕子は首を振った。
「何かあるのよ。裏に何かが……」
「どうすればいいのかねえ」
「さっきの山上っていう人の話、あそこに鍵があるのかもしれないわね」
「しかし、植村は何も知らなかったぜ」
「地元の警察で調べられるでしょう」
「それはそうだな。——だけど、急に山を降りて調べに行くっていうのも、変なもんだろう?」
「でも、本当に殺人が起ころうとしているとしたら?」
「うむ……。そんな事も言っていられないか」
「何か理由をつけて行ってらっしゃいよ」
「そうだな。——よし、そうするか。君はどうする?」
「私はあの女の子と何とか話をしてみるようにするわ。二人きりになれば、きっと何か打ち明けてくれるでしょう」
「ともかく下へ行ってみよう。村長が戻っていたら、適当な話をデッチ上げて、町へ行かせてもらおう」
私たちが階下へ降りて行くと、ちょうど添田村長は居間でくつろいでいるところだった。
「いや、どうも忙しくて、お構いもできませんで、申し訳ありません」
「とんでもない」
私は腰を下ろすと、「ところで、実はちょっとお願いが——」
「あ、そうそう」
村長は傍に脱いであったコートのポケットを探ると、〈セブンスター〉を三箱取り出して私の方へよこした。
「お好みの銘柄だそうで」
「はあ……」
手品でも見せられたように、呆気に取られていると、村長は笑顔で、
「いや、雑貨屋のかみさんから、あなたのお好みのものを切らしていたと聞いたものですからな。ちょうど町へ行っている者があったので、電話をかけまして、買って来させたのですわ」
「いや……全く、恐れ入ります」
「なに、お客様にはできるだけの事をするのが、この村の|しきたり《ヽヽヽヽ》ですからな」
「それにしても、驚きましたね」
「当り前の事をしたまでで。——で、何かお話とか?」
「はあ。——実は、その——」
と言いかけた時だった。
「そ、村長さん! 村長さん、おらっしゃるかね!」
と|泡《あわ》を食った声が玄関から飛び込んで来た。
「こっちだよ! 一体何事かね?」
「た、大変だ! |狼が《ヽヽ》——あ、こいつは」
と駆け込んで来た村の男は、私たちに気付いて、おどおどと、「どうも、失礼しまして。お客だと知らねえで」
「狼が出るんですか?」
夕子が目を丸くして、「もうとっくに絶滅したんだと思ってましたけど」
「狼なぞ出るわけがない。何を寝言いってるんだ」
村長が叱りつけると、男は頭をかきながら、
「へえ……」
と小さくなっている。
「それで、何があったんだ?」
「それが、旅の人らしいんですが、裏山で——」
「怪我でもしたのか?」
「死んでるんです」
さすがに村長の顔がこわばった。
「すぐ行く。案内しろ」
「へい!」
「私もお供しましょう」
と私は立ち上がった。
「しかし、お客人に——」
「私も刑事です。こういう事には馴れていますから」
「そうでしたな。ではお願いしますか」
表へ出ると、もう知らせは村中に伝わっているようで、男たちは続々と裏山へ向かっていた。女たちも不安げに通りへ出て、ひそひそ|囁《ささや》き合っている。私と夕子も村長について、さっき登った山道を辿った。道の途中、道から外れた林の中に、集まっている数人の男たちの姿が見えた。
「あ、村長さん」
「どうだ?」
「ひどいもんだよ。見てくれ」
村長の肩越しに覗き込んだ私と夕子は、息を呑んだ。喉に無残な血まみれの傷口がぱっくりと口を開けた死体は、あの山上青年だったのである。
「偶然かね? それとも——」
「殺人か。二つに一つね」
「傷口からみると、確かに何か動物にやられたらしいね。刃物の傷ではない」
「でも、あの女の子が『ころされる』と書いた直後に人が死んだのよ。しかも、去年ここでお兄さんが死んで、その事件に疑問を持って調べに来た人が、よ。——偶然というには、ひっかかりがありすぎるわ」
「それはそうだな……」
部屋へ戻った私たちは、すっかり考え込んでしまっていた。私たちがキスしているのを見て照れていた若者が、いま死体になって、馬車に乗せられているのだと思うと、どうにもじっとしていられない気持に駆られる。
「——まあともかく、僕も死体について馬車に乗って行くんだからね、下の警察でよく事情を聞いてくるよ」
「一応死体も解剖した方がいいと思うけど……」
「心得てるよ。任せといてくれ。しかし、村長は無関係のような気がするね」
「どうして?」
「僕が死体と一緒に町へ行きたいと言っても、嫌な顔一つせずに、ぜひお願いします、と言ってほっとしてたようだったぜ。何かやましい所があったら、ああは行かないだろう」
「そうね……」
そこへ、障子の外から、絢路夫人の声がした。
「夕食の支度ができました」
「早いですね」
と、廊下へ出て言うと、
「はい。馬車で町へ行かれると伺いましたので、その前に夕食をと……」
「それはどうも……」
下へ降りて、食卓を見た私たちは目を丸くした。都心のレストランでも余りお目にかかれないような、分厚いステーキが、鉄板の上でジュージュー音を立てている。
「いや、都会の方に、私どもの精進料理はお気の毒ですからな」
添田村長が言った。
「町の肉屋から、一番いい所を取り寄せました。まあ、味付けや焼き具合はお好みに合うかどうか、分りませんがな。どうか召し上がって下さい」
「これはどうも……。そんなお気遣いは——」
「いやいや、これが村のしきたりですからな。ご心配なく」
私と夕子は、もう呆れる他はなく、|はし《ヽヽ》で、ビーフステーキに取り組んだ。
山上青年の死体を後ろに積んで、馬車が村を出たのは、もうとっぷりと日が暮れてからだった。
「気を付けてね」
「そっちも、危い真似はするなよ」
「分ってるわ。それじゃ、よいお年を!」
そう言えば、大晦日の夜なのである。
馬車の手綱を取るのは、昨日、駅へ迎えに来てくれていた、耕介じいさんである。私も今度は村の人に借りた毛皮を最初から着込んで、御者席にじいさんと並んで腰を下ろした。後には、死体のそばに村の若者が二人乗り込んでいる。
夜道をのそのそと進んで、二十分ばかりたった時、急に馬車がガクンと停った。
「どうしたんだね?」
と私が訊くと、
「どうも車が溝にはまったようだで。——おい! おめえら、降りて押してくれや」
「僕も手伝おう」
私も飛び降りて、馬車の後ろへ回る。「押せばいいんだね? よし」
よいしょ、と力を入れて、馬車を押そうとした時、頭に一撃を食らった。何だ? 一体誰だ? そう思ったのが最後で、そのまま何も分らなくなってしまった。
5
目を開けて、まず見えたのは、満天の星——ではない、目の前をチラチラする光だった。それは現実の光でなく、要するに、目から火花が出るという、あの火花だった。激しい頭の痛みに、思わずうめき声を上げる。
「あ、気が付いたのね」
急に耳もとで聞き慣れた声がして、びっくりして体を起こそうとする。とたんに激しい痛みに、顔をしかめた。
「あ……いて……」
「大丈夫? すごいコブよ。痛いでしょう」
夕子が心配そうに覗き込んでいる。
「ああ……。ここは……?」
やっと周囲を見回して、自分のいるのが、狭い小屋のようなものの中だと分った。しかし、明りもなく、わずかに板で閉ざされた窓の隙間から洩れて来る光で、夕子の顔がやっと分る程度だ。地面に寝かされていたので、足腰も冷え切って、痛む。
「君はどうしてこんな所へ——」
「あなたを見送って部屋へ戻ったら、とたんに誰かに襲われて——」
「お、襲われた?」
「いきなり頭に布をかぶせられたの。暴れる間もないうちに、お腹をいやっていうほど殴られて、気を失って……気が付いたらここにいて、すぐ横では、あなたがノビてたってわけ。私もついさっき気が付いたばかりなの。あなたの方はどうしたの?」
私は事情を簡単に説明した。もっとも、詳しく説明しようにも、何も分らないのだ。
「畜生! 一体ここはどこなんだろう?」
「よくは分らないけど、たぶん村長さんの家の裏庭じゃないかしら。こんな物置小屋があったもの」
「村長の? じゃ、奴はやっぱり——」
と言いかけて、「しかし、僕を殴ったのは、耕介ってじいさんか、でなきゃ、一緒にいた村の若い奴に違いないんだが……」
夕子はしばらく押し黙っていたが、やがて考え考え、口を開いた。
「私ね、さっきから考えてたんだけど……」
「それで?」
「何だか分って来たような気がするのよ」
「何が?」
「この村の歓迎の意味が」
「——どういう事だい?」
「ねえ、考えてもごらんなさいよ。どんなにお人善しの村だって、たかがあなたの吸ってるタバコがないからって、わざわざ取り寄せたり、都会人向きにって、ステーキの肉を買ったりするなんて、およそまともじゃないわよ」
「それはそうだ」
「あなたの所に村長さんが奥さんをやったのだって、歓迎というには異常なやり方だわ」
「確かにね」
「何か特別な意味があるのよ、この歓迎ぶりには」
「しかし……さっぱり分らんな」
「思い当らない? 何でもその人の望みを叶えてやる——好きな食物も、タバコも、女も、何でも与えてやる——そこから、何かを連想しない?」
「どうも——このコブのせいで、頭の血のめぐりが悪くなってね。何の事を言ってるんだい?」
夕子は一寸間を置いて言った。
「死刑囚」
私が口を開きかけた時、表に足音がした。鍵のガチャガチャ鳴る音が聞こえて、小屋の扉が開くと、一人の男が入って来た。
「植村君! 植村君じゃないか! 助かったよ!」
私が飛び上がるように立って歩み寄ろうとすると、植村が言った。
「動かないで下さい、宇野警部」
植村の手には、散弾銃が握られ、銃口は私へピタリと向けられていた。
「何の真似だ!」
「冗談じゃありませんよ。さ、退がって。坐って下さい」
「おい——」
「やめて! 本気よ」
夕子が私の腕を引っ張った。
「そうです、姪御さんの言う通りですよ」
私は悪い夢を見ている思いで、元の場所へ腰を下ろした。植村は開けたままの扉にもたれて、油断なく銃を構えている。外は薄暗く、夜明け前の気配だった。
「声を上げても無駄ですよ。誰も助けには来ません」
「村の連中はどうなってるんだ?」
夕子が代りに答えた。
「村中が共犯者なのよ。そうでしょ?」
私は呆気に取られて夕子の顔を見た。
「どうやら、姪御さんの方が頭がいいようですな」
と植村が微笑した。夕子は続けて、
「正月のお祭のために私たちが必要だったのね。いけにえとして」
「何だって!」
「その通りです。私たちの村にとっては、この年に一度の祭は、何よりも重要な儀式なのです。この祭があるからこそ、この貧しい村は、滅びる事もなく、絶える事もなく、大きな災害にも遭わずに済んでいるのですよ」
「馬鹿げてる! 君はそんな迷信を本気で信じているのか!」
「信じちゃいませんよ、むろんね」
植村はあっさりと言った。「けれど、重要なのは、村の連中がそれを信じてるって事です」
「じゃ何か? ——毎年、正月に、ここで誰かがいけにえとして殺されているっていうのか?」
「その通りです」
私は自分の耳を疑った。
「君は——君は警官だぞ! それなのに、殺人を黙認しているのか!」
「郷に入りては郷に従え、と言いますよ、警部。実際、子供の時から、毎年祭を見て育って来てごらんなさい。それを『殺人』だなどとは、考えもしませんよ」
「だが今は分るだろう?」
「もちろん、法律的にはね」
「それなら、なぜやめさせない!」
「警部。無理はおっしゃらんで下さい」
植村は悲しげにため息をついて、「何十年か、何百年か——ともかく、いつ、どうして始まったのか、誰も知らない祭なんです。僕の一言ぐらいで終らせるのは不可能な話ですよ。——実はね、以前、といっても、つい二年前の話ですが、村の人間で、東京の大学で勉強して来た男が、この祭をやめようと提案した事があったんです。人をいけにえにするのは間違っている。これは単なる迷信なんだ、とね。ともかく熱心に村人一人一人に説いて回ったので、みんなも心を動かされましてね、その年は祭を中止したんです。ところがその夏、この一帯は記録破りの豪雨に見舞われ、崖崩れで村人が十人近くも死にました。みんなは、祭をやめたから、こんな事になったんだと信じました。やめるように言い出した男は、怒り狂った村の連中に崖へ追いつめられ、突き落とされたのです。——それ以来、もう誰も祭をやめようなどと言い出さなくなりましたよ……」
私は言うべき言葉もなかった。
「その男の婚約者だった娘は、恋人が崖から落ちるのを見て、発狂しました。ご存知でしょう。あの道端に坐っていた娘ですよ」
私ははっとした。そうか! あの娘が「ころされる」と書いたのは、|私たちへの《ヽヽヽヽヽ》警告だったのだ。発狂したふりをして、いけにえの犠牲者に、危険を知らせていたのだ……。
「しかし、そんなに毎年、誰かが死んでいたら、警察が気付くはずだ!」
「いけにえにはできるだけ旅行客を選ぶんです。それに、その死体はかなり月日をおいて発見した事にして町の警察へ届け出ますからね。いつ死んだのかは、正確には分らないし、身元不明のままで終る場合も少なくありません。——あなた方にしても、ここへ来た事は、家族の方など、一人も知らないでしょう?」
言われてみればその通りだ。予約しておいた旅館だって、私たち二人が行かなくとも、ただのキャンセルとして扱うだけだろうし、私たちが行方不明になっても、捜すすべはないに違いない。
「しかし——しかし、変死なら死因を調べるはずだ!」
「調べたところで、ただ野犬に殺されたと思うだけですよ。じつはあれは|狼《ヽ》なんですけどね」
「狼だと?」
「もう狼はほとんど死に絶えてしまいましたが、村では祭のために、ずっと林の中の小屋で飼いつづけているんです。昨日死んだ若者は、林の中を歩いてて、狼の小屋を見つけて中を覗き込んでやられてしまったんですよ」
植村は肩をすくめた。「運が悪かったんですね」
その時、一番鶏が鳴いた。植村はチラリと外へ目をやって、
「時間のようです。悪く思わないで下さい。できるだけ、好きな事をさせてあげたつもりですよ。その誠意は認めてほしいですね」
「何が誠意だ!」
私は吐き捨てるように言った。
「村長の奥さんと寝なかったそうですね」
植村はいやらしい笑みを浮かべて、「惜しい事をしましたね。すばらしい女だって評判なのに」
表に足音がして、逞しい村の若者が二人、戸口に姿を現わした。
「おい、植村! 考え直せ! 今からでも遅くないぞ!」
私は必死に言ったが、植村は黙って首を振ると、二人の男に、
「娘を連れて行け」
と指示した。私は二人の男の前に立ちはだかった。
「待て! 殺すなら、俺だけにしろ!」
「そういうわけには行かないんです、警部。お二人とも死んでいただきますが、やはり若い娘さんを先にした方が、祭が盛り上がります」
「貴様!」
「待って」
と夕子が私を抑えた。「どっちが先でも同じよ。そうでしょ? 私、あなたが死ぬのを見たくないわ」
「君は……」
夕子は二人の男に腕を取られて出て行きかけたが、戸口で振り返ると、
「忘れてたわ。ハッピー・ニューイヤー」
と微笑んで見せた。がっしりした男の腕に捉えられて、彼女が出て行ってしまうと、植村が感心した様子で、
「大した度胸だ。死なすにはもったいないですね」
「おい! 一体何をする気なんだ?」
「ご覧になったでしょう? 村の外れに作ってあった、丸い囲いを。——あそこへ彼女を入れましてね、そこに例の狼を放すんです。三日間、えさをやってありません。一撃で喉を食い破るでしょう。ほんの一瞬ですよ、苦しいのは」
「貴様……それでも人間か!」
「何とでもどうぞ」
その時、小刻みな太鼓の響きが遠く伝わって来た。単調で、どこか無気味な音だ。
「祭の始まる合図ですよ。みんなを呼び集めてるんです」