「調べるんじゃないの、この事件を」
と、さも当然という口ぶり。
「素人の助けはいらないよ」
「あなただって公の立場で来てる訳じゃないんでしょ? だったら私みたいな連れのあった方がいいカムフラージュになってよ」
「しかし——」
「もしどうしてもだめだって言ったら、ゆうべ私のお風呂を覗いた事、警視庁へ投書するわよ」
こんな厚かましい女の子は初めてだ。といっても、彼女にはどこか憎めない所があって、そのわがままも、|天衣無縫《てんいむほう》、怒るより笑い出してしまう|類《たぐい》のものだった。……
かくして十分後には、私は永井夕子とともに、岩湯谷警察の古ぼけた建物へ入って行った。
5
「いや、よく来て下さった。もうすっかりお手上げの状態なんですわ」
応接室——ドアにそう札がかけてなかったら、容疑者の取調室かと思えるような——の古ぼけてすり切れたソファに腰を下ろして、武藤署長は大げさに両手を上げて見せた。
おかしい位、本間警視に似ている。よれよれの背広、曲ったネクタイ、赤ら顔のおっさん、といった風采など、兄弟かと思うほどだ。ただ、本間警視の眼は、よく見ると冷たく、鋭く、ただ者でない事を感じさせるのだが、こちらの武藤署長の方は、小さくて気の優しい|柔和《にゆうわ》な眼をしている。私は象の眼を連想した。——この違いが、警視庁警視と田舎町の警察署長という違いになったのだろう。といって、どちらが高級というつもりはないので、いわばそれぞれが自分にふさわしい地位にいる、という意味なのである。
「こちらのお嬢さんは……」
という武藤署長に、
「はあ……」
ともぞもぞしていると、
「私、姪なんですの」
とにこやかに言ってのけて、「秘書役にって無理言って連れて来てもらったんです」
可愛い女の子に——まだ言っていなかったかもしれないが、彼女はなかなかの美人なのである——|微笑《ほほえ》みかけられて面白くない男は、たぶんいないだろう。この署長とて例外ではなく、さっそく欠けた茶碗でお茶なぞ出してくれる。
署長の話は、結局のところ、今まで私の聞いていた話を確認したにとどまった。
「雲をつかむような話ですわ」
最後に署長は言った。「それに困るのは証人が誰一人疑うなんて思いもよらん人ばかりってことなんです。——駅長の大谷さんはこの町に生れた人で、今の長尾さんの後、町長にしようって町の人に言われてるほどだし、車掌の森君も、この線の乗務は長いし、それに奥さんがこの町の人で、誰からも悪い評判一つたてられた事がないと来てる。機関士の関谷君というのは、親父さんの代からこの町にいて、親子二代の機関士、まあ若い頃は結構遊んでもいたようですが、今じゃいい嫁さんもいて、真面目にやってますしな。——連中が嘘をつくとはとても考えられません。しかし嘘でないとすると、あの八人はどこへどう消えたのか……」
「その八人ですが」
と私は言った。「身元は確認されたとの事でしたね」
「ええ、みんな大阪の問屋街の主人でして、あちらの警察でも手を尽くして身辺を洗ってくれたんですが、全く手がかりらしいものは……」
「分りました。この町へ来たのはただの骨休めということでしたね」
「そうです。それもここには一泊しただけで、翌日はもう発ってしまったんですよ」
「それでは、この町で何か起こった——事件の原因となるような何かが起こったと考えるのは難しいようですね。ま、旅館での様子は児島さんから伺ってみるつもりですが。……それでは、捜査の新しい進展は全く無かったんですね?」
「一つだけ、あるにはあったんですが……」
「何です?」
「子供ですよ」
署長はちょっと言いにくそうに、「走ってる列車を見たって子供が出て来たんですが……。ご存知の通り、子供ってのは、みんなの注意をひきたいばかりに、とんでもない嘘をつきますからなあ」
「ともかく聞かせて下さい」
「はあ。列車で来られる時に、気づかれたでしょうが、山の水路を鉄橋で渡る所がありますね。その男の子——山田健吉といって十歳になるんですが——その子のいうには、崖の上から水路のトンネルの入口近くまで、ちょっとした足がかりを|辿《たど》って、登り降りできる、というんです。で、列車の通るのを見るのが好きなんで、時々、このトンネルのわきにある茂みの陰から、すぐ目の前を列車が横切って行くのを眺めてたらしいんですな。で、その時も、たまたまそこから見ていたって訳で」
「しかしそれは、実際に調査されたんでしょうね」
「もちろんです。確かに登り降りできないことはないです。しかしとても難しい。身軽な子供ならともかく、中年すぎの大人が八人となると……。それに辺りの草や|こけ《ヽヽ》を調べましたが、全く踏み荒らされていませんでした」
「なるほど。それで、その子は列車に八人が乗っているのを見たんですか?」
「何人かは分らなかったけど、お客がいるのは見た、と言ってます。顔の確認はとれませんでしたが」
「ふむ。その証言が事実とすれば、ともかく鉄橋までは、客は乗っていた、という事になりますね」
「そうです。しかし」
と署長はため息をついて、「もしそうでも、何一つ分る訳じゃありません。あの八人はどうなったのか。自分たちで姿を消したのか、誘拐されたのか、殺されたのか、どこかに生きてるのか……。助けて下さい。もうお手上げですわ」
その時、永井夕子は急に口を挾んだ。
「その子は列車を見たんですね?」
「はあ」
署長は面食らった様子。
「列車には何も変った事は無かったんですの?」
「それは……いや何も言っていませんでしたね」
「そうですか……」
彼女は妙に考え込んでしまった。
「ね、その子供の話、本当だと思う?」
警察を出てゆけむり荘の方へ歩きながら、彼女が言った。
「本当だね」
私は即座に答えた。
「どうしてそう思うの?」
「子供の嘘は、もっと|突拍子《とつぴようし》もないものだよ。たとえば、あの八人が気球にぶら下がって飛んで行くのを見た、とかね。ただ客車に乗ってた、なんて嘘はつかない」
「なるほどね。さすが警部さんね」
「おだてるな。だけど何をそう考え込んでるんだ?」
「あの子の話の通りだと、私の仮説が崩れちゃうのよ」
と、すっかりくさった様子。
私は微笑んだ。——素人の仮説というやつほど面白いものはない。何か大きな事件が起こるたびに、どれだけ多くの「推理」が警察へ寄せられるか、一般の人には想像がつくまい。担当刑事のデスクには素人探偵からの|名推理《ヽヽヽ》の手紙がしばし山をなす。全部に一応目を通すのだが、それだけでも一仕事である。素人の目は、事件のどこか一点だけしか見ていないので、およそ理屈に合わないことが多い。時には吹き出したくなるような珍推理もあって刑事の眠気をさましてくれる。
今度の事件では、ヘリコプターで走行中の列車から乗客を吊り上げたのだ、という推理が相当数来ていたと聞く。あの狭い谷間で、そんな芸当が可能かどうか、それにそんな低空で飛べば、車掌、機関士が気づかぬはずはない。
「——で、どんな仮説を立てたんだね?」
私は礼儀上、訊いてみた。
「さあね」
ととぼけて、「エラリイ・クイーンにならって、確信が持てるまで言わない主義なの。あなた、何か考えはないの?」
「そうだね。少年の話が事実なら——僕は事実だと思うが——乗客が消えた謎を解くのは、ますます難しくなったね」
「と言うと、何か推理はあったのね?」
「うむ……。署長には悪いけど、やはり、車掌か駅長が嘘をついていて、八人は途中で飛び降りて戻ったものと、僕は思ってたんだ。ところが、あの鉄橋を通る時にまだ客が乗っていたとすると、とうてい不可能になる」
「なぜ?」
「あの鉄橋は岩湯谷と大湯谷、二つの駅のほぼ中間にある。二つの駅は約十キロ離れているから、鉄橋を過ぎてすぐ客たちが飛び降りたとしても、五キロ近い距離を歩いて戻らなきゃならなかったはずだ。どんなに急いだって四十分はかかったと見ていい。ところが、列車の方は七、八分後に大湯谷へ着いて、乗客のいないのを知って大騒ぎになっている。岩湯谷駅へもすぐ知らせているんだから、駅にも人が集まって来ていたはずだ。そこへのこのこ八人が戻って行ける訳がない」
「そうね。でも——」
「でも——何だい?」
彼女は立ち止まって、ちょっと考え込む風だったが、やがてきっぱりと、
「行ってみるわ、鉄橋まで」
「ええ? 何しに?」
「その子供に|何が見えたのか《ヽヽヽヽヽヽヽ》、この目で確かめるの」
「崖を降りる気か? 危険だよ」
「あら、別に一緒に来てくれとは言ってないわよ。お年寄は無理よね」
憎まれ口をきいて、さっさと駅の方へ歩き出す。
「おい! 知らないぞ、どうなっても」
私の言葉など、完全に黙殺。
「おーい! 流れに落ちたらどうするんだ」
何て向う見ずだ! 死にたきゃ勝手に死ぬさ。全く、俺が親だったら平手の二つ三つでも食らわしてやるところだ。
「勝手にしろ!」
「なるほど……」
足下の崖から真下に豊かな水の流れ込むトンネルの入口を覗き込むと、高所恐怖症でもない私さえ、足の先に軽い|しびれ《ヽヽヽ》を覚える。
「これじゃ、あんな年寄たちはとても登って来られないな」
「あなたは?」
「馬鹿にするな、これでも刑事だ。体は鍛えてある」
先にたって降り始めたものの、見かけよりずっと難所である事をすぐに思い知らされた。小さな岩の出張りに足をかけ、露出した木の根っこをつかみながら、ようやく下へ辿り着いたときには、いささか息を切らしていたほどだ。永井夕子の方も、かなり緊張した面持ちで降りて来たが、それでも、若さというもので、最後には一メートル半位の高さからぽんと飛び降りて来た。
「危いじゃないか」
私は叱りつけた。「流れに落ちたらどうするんだ」
「|妬《や》かない、妬かない」
「え?」
「しょせんは|年齢《とし》の差よ」
頭に来るな、全く!——例の茂みはすぐに分った。子供一人隠れていられるような茂みは一箇所しかない。私たちは交互にその陰にかがんでみた。
「これなら列車は充分見えるな」
「でも実際通るのを見なきゃ」
「待ってる気かい? 一時間に一本しかないんだよ」
「たった一時間じゃないの、どんなに待っても」
処置なし。——諦めて手近な岩の平らな所に腰を下ろす。彼女は茂みの手前にしゃがんで、私の方を見ていたが、やがてちょっと笑うと、
「いい人ね、あなたって」
私は柄にもなくどぎまぎして、
「何だい、急に……」
「わっ、照れてる」
私は苦笑いして、タバコを取り出して火をつけた。
「君は東京から来たの?」
「ええ。ヒマな大学生よ」
「探偵ごっこが好きらしいね」
「あら、これでも少しは才能があると、うぬぼれてるのよ。タバコもらえる?」
「うむ?——ああ」
と一本渡して火を移させてやりながら、「僕が親ならタバコなんかよせ、と怒るところだ」
「うるさい親がいないせいで、このざまよ」
「いないって?」
「交通事故で死んだの。もう四年たつわ」
「ほう……」
私は改めて娘を見つめた。彼女の底抜けに明るい無邪気な笑顔からは、そんな寂しげな影は、少しも感じられない。
「以後、ずっと一人暮しよ」
「それじゃ僕と同じだ」
「え?」
「僕も一人暮しさ」
「うそ。……本当に?」
「女房を、やっぱり交通事故でなくしてね。三年になる」
「お子さんは?」
「いない。すっかり身軽ってわけさ」
「寂しいわね……」
彼女は自分に言い聞かせるように、「そんな身軽さって——何だか|空《むな》しいでしょ」
私は、ふっと考え込んだ。忙しさの中に自分を追い込んで、忘れようとした空虚な時の恐ろしさ……。だが、少しでもそれを忘れられただろうか。
「——ごめんなさい」
彼女が言った。「悪いこと、言ったわね」
「そんなことはないさ」
私は微笑んだ。「いつも何かが欠けてるような、そんな気分だね。毎日、たとえば——」
私は言葉を切った。「ついてるじゃないか。列車が来たようだよ」
レールを伝って、かすかな唸りが聞こえて来た。彼女もその音のする方を見て、
「岩湯谷からの列車ね。同じ方向のが見られるわ」
と、茂みの陰で身を縮めて、早くいらっしゃいよ、と私に声をかけた。
「どこへ?」
「ここによ、決まってるじゃない」
「そんな狭いとこに二人も隠れられるかい」
「じゃそこに突っ立ってるの? お客が見たら、消えた八人の亡霊が出たって大騒ぎになる事請け合いよ」
言われてみればその通りだ。しかし……。列車の音がどんどん近づいて来る。私はタバコを流れに投げ捨てて、茂みの彼女の脇へ身を縮めた。それにしても窮屈で、参った。子供一人が隠れて、ちょうどいい場所なのだから、当り前だが。もっと参ったのは、どう頑張っても彼女とぴったり身を寄せ合わなくてはならない事で、東京のラッシュの国電なら気にもならないが、こんな茂みの陰で、となると、気恥ずかしいような、苛立たしいような、妙に落ち着かない気分になってしまう。何だ、女房持ちだった男のくせに、今さら照れくさいでもあるまい。
列車が頭上をゆっくりと通り過ぎて行く。下から見上げる格好になるので、車体の下半分は見えないが、窓は完全に視界に入るし、中の乗客も、顔はともかく、乗っている事を確認するには充分だった。
列車が行ってしまうと、立ち上がって、腰をのばした。
「さて、気がすんだかね」
「ええ」
驚いた事に、彼女は嬉しそうに笑っている。
「どうかしたの?」
「やっぱり間違ってなかったわ」
「子供の証言通りだったってことかい?」
「いいえ、私の仮説が正しかったってこと」
「しかし、君はさっき——」
「ええ、でも実際に見て分ったの。子供の証言と私の仮説は矛盾しないって」
「どんな仮説なんだね?」
いくらか興味を覚えて、私は訊いた。
「そのうち、教えてあげるわよ、ワトスン君」
やれやれ——。
6
「彼らは殺されたんだ、と思うかね?」
駅前にある、みやげもの屋兼用の喫茶店で、昼食を取ったあと、何ともひどいコーヒーを飲みながら、私は言った。
「その辺は分らないわ。あなたはどう思うの?」
「残念だが、おそらく殺されているだろうね」
「そうね、二週間もたってるんですものね」
「生きていれば、必ず何らかの消息があるはずだ。誘拐されたのなら、脅迫状が来るとか……」
「でも死体をどこへ?」
「そこだな。……で、こう考えたんだ」
「どう?」
どうして俺はこんな娘に自分の考えを話してやったりするんだろう……。
「つまり、彼らがどうやって列車から消えたか、それは本質的な問題じゃない。みんなその謎にばかり気を取られているが、問題は八人がどうなったか、だ。もし殺されたとしたら、死体はどこか? 遠くへ運び出す事はとても無理だ。あれ以来、この一帯は日本中の注目の的なんだからな。この辺で、死体のありそうな所はどこか? まずそれを捜すんだ。死体さえ見つければ、どうやって彼らが列車から姿を消したかも、きっと分る」
彼女は、子供のように好奇心をむき出しにした目でじっと私を見ていた。
「で、心当りがあるの?」
「ないこともない」
私はちょっと気取って、
「行ってみるかい?」
「首に縄つけてでもついていくわ」
「そりゃ逆だろ、言い方が」
私たちは喫茶店を出て歩き出した。
「どうして私を連れて行く気になったの?」
「さあね」
私は言った。「悪者に囲まれた時は、君のような強そうなのがいてくれると心強いからね」
「まっ!」
彼女は目をむいた。
そう、私の目指すのは採石場——あの大谷駅長の話していた、古い採石場の跡である。|竪穴《たてあな》や、坑道もある。入口をふさぐ大きな石も、ごろごろしていよう。死体を隠すには、もってこいではないか。
私は武藤署長から、この付近の|詳《くわ》しい地図をもらっていたので、別段迷うこともなく、採石場へと辿り着いた。
「これは……」
私たちは立ち止まって目を見張った。これほど——これほど広大なものだとは思ってもいなかったのだ。
荒々しく削り取られた山はだが、眼前に立ちはだかり、それは百メートル近くもの幅に渡っていた。その前にはサッカーグラウンドほどもある敷地に、錆びたレールが縦横に走っていて、坑道の入口となると、一体いくつあるのか、見当もつかなかった。
「ちょっとした、この世の|涯《はて》ね」
と彼女が言った。
正に|荒涼《こうりよう》という言葉がぴったりだ。古びたトロッコがあちこちに放置され、今にも倒れそうな木の|やぐら《ヽヽヽ》が三つ、立っていた。ちょっとした一軒家くらいの小屋がある。
「ともかく、あの小屋を覗いてみようか」
人間の頭ほどもある石が足元にごろごろころがっているのを縫って、小屋へ行ってみた。——中はもぬけのからで、長い間、誰も使った跡がない。ドアもすっかり錆びついている。これでは話にならない。私たちは表へ出た。
「一応、端から端まで歩いてみるか」
山の断面に沿って私たちは歩き出した。坑道が暗い空ろな口を開けているのを横目で見ながら、
「この坑道を一つ一つ調べようと思ったら、大変だ。人手と日数を覚悟しなくちゃならない。それだけの確証もないしな」
「難問ね」
「それにこういう所は、廃坑にする時には、坑道をごく浅い所で全部爆破してふさいでしまうのが普通なんだ。後で誰か入り込んで事故でも起こさないようにね。もし、そのふさいだ所へ死体を置いて、もう一度ハッパをかけたら、もう跡はさっぱり分らなくなる」
「となると、全部の坑道の、入口をふさいでる岩を取り除かなくちゃいけないわけね」
「無理な相談だな。たとえ——」
「しっ!」
鋭く、彼女が言った。
「どうした?」
「何か、聞こえたのよ。あの坑道から」
彼女は声をひそめて、今通り過ぎた坑道の入口を指した。私たちは、足音を忍ばせて、入口へと近づいた。入口の脇に身をひそめて、じっと中の暗がりに、耳を澄ます。——確かに、何か、かすかな音が切れ切れに聞こえて来る。しばらくは、それが何か分らなかった。やがて思い当ったとき、私と彼女は顔を見合わせた。お互い、寒気が背を走るのが分った。——それは、低い、すすり泣きの声だった。
「……何かしら?」
「誰かいるんだ」
私は坑道の中を覗き込んでみたが、光の届くのは入口からほんの数メートルで、その奥はただ闇があるばかりだった。すすり泣く声は休むことなく聞こえて来る。ともかくも、声をかけてみる事にした。
「おい、誰かいるのか?」
ぐわん、と声が短く坑道の中に響いて、中から、きゃっという悲鳴が返って来た。
「……だ……だれ!……だれです!」
若い娘の声らしい。
「心配しなくていいよ、旅行客だ。……声がしたんで、どうかしたのかと思って。出て来ないか?」
しばらくたって、岩を踏む音がすると、土地の娘らしい、十八、九の少女が出て来た。色の白い、ひ弱な感じの娘で、着古したセーターにスカートという、地味ななりをしている。
「驚かしたかな、悪かったね」
私は努めて気軽に話しかけた。「この町の人?」
娘は黙って肯いた。
「泣いてたんだね。……どうかしたの?」
「いいえ!」
娘は|怯《おび》えた様子で激しく首を振った。「泣いてなんかいません! なんでもないんです! なんでも——」
娘は急に駆け出して、止める間もなく、町の方へと走り去ってしまった。
「泣きはらした眼だったな」
「この坑道に何かあるのかしら?」
「いまの娘が事件に関係あるとは限らないさ」
私は笑って、「ただ彼氏の心変りを嘆いてたのかもしれんしね」
「でも——」
彼女はゆっくり言った。「あの|娘《こ》、ゆけむり荘で働いてるのよ」
「本当かい?」
「ゆうべ夕食を運んで来たのは、あの娘だったわ。確かよ」
何かあるのだろうか? こんな人気のない、薄気味悪い廃坑へ若い娘が一体何の用事でやって来るのだろう?
私たちは、暗く、吸い込まれそうな坑道の奥の闇を、そっとのぞき込んだ。
「……で、児島さん、あなたも、あの八人の客については、よく憶えてらっしゃるんですね」
ゆけむり荘の支配人室のソファに、私は児島公平と向かい合っていた。
「はい、憶えております」
「これほど人の出入りが多いのに、一泊しただけの客のことを憶えているとは、よほど何か印象に残ることでも?」
「いえいえ」
児島は愛想笑いをして、「こういう商売をしておりますと、お客様の顔を憶えるのは、一つの習性のようなもので……。あの方たちとも、お着きになった時と、お発ちになった時しかお会いしてはおりませんが」
「泊った晩に何か変ったことは?」
「いえ、特に何も」
「そうですか。今、発った時に、とおっしゃいましたね。あんな早朝に、あなたが自分で送り出したんですか?」
「はい。早番の女中をちょうど使いに出しておりまして、他に誰もいなかったものですから……。それに私は毎朝遅くとも六時には起きるようにしておりまして」
「それは大したものですね」
その時、ドアが開いて、白髪の背広姿の男が顔を出した。
「ああ、ちょうどよかった」
児島が声を上げた。「町長さん、こちらが東京からいらした宇野警部さんです」
「おお、これは……。町長の長尾です」
年齢の頃は六十五、六といったところか。|垢《あか》抜けした老紳士で、好感の持てる相手だった。風格があるというか、国会議員といってもおかしくない落ち着きがあって、なかなかの人物と見えた。挨拶の後、話に加わった町長は、
「ともかくこの町の名誉にかけても事件を解決していただきたいと思います」
「努力します」
と私は答えて、「事件のことをお聞きになったときは驚かれたでしょうね」
「ええ、それはもう。……ちょうど前の晩、町の公民館で俳句の会がありまして、終ったのが夜中過ぎになりましてね、公民館に近い会員の一人の家に泊ったものですから、事件の話を耳にしたのは翌日、家へ帰ってからでした」
「なるほど。いいご趣味ですな」
ろくに俳句など分りもしないくせに。
「いや、素人の集りですが、素人でも作る楽しみは、他に換え難いものです」
「そうでしょう」
「〈四季会〉といいまして……。四人で始めたものですから、そう名付けたのですが、今では人数も倍に増えてしまいまして、何か会の名前を新しく考えにゃならんと思っておる所です」
長尾町長は苦笑した。
「この町の方ばかりの会なんですか?」
「そうです。昔からここに住んでる、まあ老人ばかりの集りでして」
俳句談義以外には別段長尾町長の話に聞くべきものはなかった。私は児島に、当夜、八人の部屋を受け持った女中に会いたいと言った。すぐに寄こしますからと、児島が町長と一緒に支配人室を出て行くと、一人残った私はのんびりとタバコをくゆらした。言い忘れたが、永井夕子は、一風呂浴びて来るわ、と昼日中から温泉につかっているのである。今の所、手がかりらしいものは、何一つつかめていないと言ってもいいのに、なぜか心は軽かった。それにはあの生意気な探偵気取りの娘のせいもあったかもしれない。
「失礼します」
女中が入って来た。顔を見合わせ、お互いぎょっとする。——そうだ。あの廃坑で泣いていた娘だったのだ。
「——で、その娘の話、どうだったの?」
濡れた長い髪をタオルで拭いながら、永井夕子が訊いた。
「何もつかめなかったよ。彼女は植村美和といってね、この町の農家の三女だそうだ。児島の話では、とても素直な、おとなしい娘だということだったよ」
「で、まるで何も?」
「そう。——ちょっと引っかかったのはね、僕があの八人の顔をよく憶えてるかって訊くと、『暗くてよく見えませんでした』って答えたんだ」
「暗くて? 部屋が?」
「そうさ。僕もそれを問い詰めてみたんだが、結局、何のことはなかったよ」
「というと?」
「例の八人、部屋でフィルムを見てたのさ」
「フィルムって……」
「ブルーフィルムって奴さ。こういう温泉町にはつきものだよ」
「まあ!」
憤然として、「いやらしい。男って、どうしていやらしいんだろ」
「僕に怒っても仕方ないよ。ま、そんな所さ」
「で、差し当り、どうするの?」
「差し当り、そうだね——夕飯にしよう」
女中が丁度夕食を運んで来た。もうそんな時間か。窓の外は暮れかかって、冷え冷えとして見えた。彼女は立ち上がって、ひょいと私の部屋を出て行くと、すぐに自分の膳を持って戻って来た。
またまたハンバーグに焼魚と、まるでこれじゃ社員食堂のA定食、B定食ってところだ。
「あら」
彼女が声をあげた。
取り上げた茶碗の下に、小さくたたんだ紙片があった。——広げて見ると真顔になって私に寄こす。走り書きで、こうあった。
〈あの刑事さんにお話があります。十二時に、石切り場にいらして下さい〉
「……持って来たのはあの|娘《こ》だったのね」
初めての手がかりらしい手がかりだ。私たちは顔を見合わせて、思わず微笑んだ。
「楽しみね。私も行っていいんでしょ?」
「どうせ来るんだろ」
まずは腹ごしらえ、と〈定食〉を平らげ、時の過ぎるのを、トランプに紛らしながら待った。十一時半になると、私たちは身支度をし、懐中電燈を手に、ゆけむり荘を出た。
一体、あの植村美和という娘は何を見たのか。何かを知っている。そんな印象は、彼女と話をしている間中、ずっと私の心にあった。ともかくこれで事件解決への糸口がつかめるかもしれない。冷たい夜気も、暗い道も、少しも苦にならず、浮き浮きした足取りで、私たちは、あの採石場へ急いだ。
彼女はいた。だが話を聞くことはできなかった。——あの、昼間、彼女がすすり泣いていた坑道の前で、重い石に頭を割られて、娘は死んでいたのだ。
7
朝の光がほのかににじんで来る頃、私と永井夕子は、ようやくゆけむり荘へと重い足を運んでいた。
武藤署長以下、十人余りの全署員を動員して、闇夜にライトをつけ、付近一帯を調べ回ったものの、手がかりらしいものは何も見つからなかった。判明した事といえば、植村美和が頭部を、近くに転がっていた重い石で強打されて死んだ——つまり殺された、という判りきったことだけであった。
夜が明けて、町の人々にこの件が知れ渡ると、私の名が表へ出ることになりかねないので、ひとまず私たちは宿へ引き取る事にしたのである。
二人ともあまり口をきかない。思いは同じである。
「——先を越されたわね」
彼女が呟いた。
私は、ゆけむり荘の支配人室で植村美和と話したときのことを思い出していた。あの八人が部屋で映画を見ていた、と聞いて、私がどんな映画だった? と訊ねると、本当に消えてなくなりそうな様子で、黙ったまま顔を火のように赤くした何ともいじらしいさまが、まざまざとよみがえる……。
「気のいい|娘《こ》だったのに」
彼女が続ける。「ゆうべ——いえ、おととい夕食を運んで来たときも、『こんなもんですみません』って、まるで自分のせいみたいに謝って……」
「必ず犯人は挙げてやるさ。口をふさぐための殺しは、いわば予定外だ。犯人も慌ててる。きっと手がかりを残しているさ。僕の経験では——」
気がついてみると、彼女が横にいない。振り返ると、数メートル後ろで立ち止まったきり、目を見開いて、茫然とした様子。
「おい、どうしたんだい?」
「——え?」
居眠りからさめたように、はっとして、「あ——ごめんなさい。考えごとしてて……」
妙な娘だ。私は首を振った。何を考え込んでいるのか、ゆけむり荘に着くまで、彼女はついに一度も口を開かなかったのである。
彼女は少し眠りたいからと部屋へ戻り、私は武藤署長の連絡を待った。ゆうべは一睡もしていない。
ここの主人、児島公平は、私にはますます怪しく思われて来た。植村美和が|何か《ヽヽ》を知っていた以上、その|何か《ヽヽ》とは、ここ、ゆけむり荘で起ったことであろうし、彼女が私たちと会おうとしていたことも、児島は容易に知ることができたであろう。だが、推論だけで下手に手は出せない。児島もこの町では有数の名士なのである。
だが、期待は空しく裏切られた。手がかりらしいものは何一つ見つからなかったのである。
昼頃から少し眠って、目がさめると三時になろうとするところだった。——これからどうすればよいのか。児島を訊問するのがまず常道と思えたが、こちらには何一つ確実な物証も、証言もない。ただのはったりをきかせたおどしで、口を割る男とはとても思えない。
消えた八人が、この町に滞在した、たった一晩に、何があったのか。それが鍵だ、と私は思った。ブルーフィルムを見たことは、別段珍しい事でもない。それとも——そのフィルムに、|何か《ヽヽ》あったのだろうか? 八人の男たちにとって重大な何かが……。
大して可能性はない。だが、今は何でもまずやってみることだ!
私は年齢のいった女中から、その類のフィルムを映しに来る男を聞き出し、さっそく出かけて行った。
柏原というその男は、冴えない小間物屋の親父で、五十がらみのはげ頭であった。私が身分を明かすと真っ青になって、あんな仕事は二度といたしませんからご勘弁を、と土下座しかねない様子。私はそんなつもりはない、と説明し、あの晩、例の八人の客に見せたフィルムを見せてほしいと言った。ところが、その親父、すっかり当惑顔で、どれだったか憶えていないというのである。そう言われてみれば、そうかもしれない。何しろ多い日は三つ四つの旅館から声がかかる。どこへどれを持っていったかなど、いちいち憶えてはいられないだろう。フィルムは8ミリなので、素人でも映せる。柏原は旅館の帳場の人にフィルムを預けるだけで、後は翌朝回収して回るのだ、というのであった。
どうしたものか、迷ったあげく、私はフィルム全部を見る事にした。見ずに帰れば、いつまでも気になるだろう。
二十本からのフィルム、それもチカチカと露出の悪い8ミリを四時間も見続けるのは、正に|拷問《ごうもん》に等しい。私は映倫の委員の苦労が少しは分ったような気がした。カット前の映画が見られるから、などと、うらやむ|輩《やから》がいるが、知らぬが仏、であろう。
柏原の所を出た時は八時近かった。頭がくらくらして、目がかすんでいた。——何も得る所はなかった。フィルムに、あの八人の誰かが映っているのではないか、と漠然と考えていたのだが、完全に外れた。八人の顔写真は署長から手に入れて憶え込んでいたのだ。
ゆけむり荘へ急ぎながら、これをあの永井夕子に知られてなるものか、と思った。さんざん冷やかされて、「いやらしい!」とやられるのがオチだ……。
冷えた夕食をかっこんで、永井夕子の部屋を覗いてみると、手をつけていない膳が置いてあるきりだった。あんな食いしん坊が、妙だな、と思いつつ部屋へ戻ると、女中が膳を下げに来ていて、私の顔を見ると、
「あ、お客様、あちらの女のお客様が、これをお渡ししてくれ、と……」
|結《むす》び|文《ぶみ》にした手紙である。何事か、と開いてみる。
〈警部さん。お出かけなので、私、一人で犯人に会って来ます。一時間して戻らなかったら、あの採石場へ来て下さい。夕子〉
犯人に? 会って来ます、だって?
「ちょっと!」
と女中を呼び止め、「あいつ——いや、この女の子、いつ出てったね?」
「ええと……夕ごはんをお持ちした時ですから、六時ごろで……」
いつの間にか懐中電燈を持っていた。そして夜の道を猛然と突っ走っていた。何となく、女中を突き飛ばしたような、階段から誰かが転げ落ちたような記憶はあったが、定かでない。ただ、走っていた。
あの娘が嘘をついているのかもしれない、とか、探偵ごっこの早とちりをやっているのでは、とか、そんな考えは、不思議なことに一度も思い浮かばなかった。目の前の闇を突き破らんばかりに走りながら、脳裏に、頭を岩で砕かれて死んでいる永井夕子の映像が何度もフラッシュした。
——|喘《あえ》ぎ喘ぎ、採石場を見渡した私は、あの、植村美和の殺されていた坑道から、明りが洩れているのに気づいた。懐中電燈を消して、そっと近づいて行く。——坑道の入口のわきへ身を寄せると、男たちの話し声が聞こえて来た。複数、それも二人や三人ではない。私はそっと中を覗き込んだ。
明りは坑夫の使うカンテラで、傍の大きな岩にのせてある。男たちは明りの手前に、こちらへ背を向けているので、顔は分らなかったが、数えると六人もいる! ——彼女は? しばらく目をこらして、やっと男たちの合間から彼女が見えた。重なり合った石の上に、手足を縛られて横たわっている。気を失っているらしい。猿ぐつわをかまされているところを見ると、殺されてはいない。間に合った、と|安堵《あんど》はしたが、さてどうするか。相手は六人、こっちは拳銃もない、と来ている。