男たちの話は、声が反響して聞き取れないが、大分やり合っている。彼女をどうするかで、もめているのだろう。六人の顔も見たかったが、今は彼女の命が大事だ。——一か八か、やって見る事にした。
高校時代、野球部のエースだったのは、もう二十年も前の話で、まるで自信は無かったが、運を天に任せて投げた石つぶては奇跡的にカンテラに命中、ガチャンという音とともに、坑道は真っ暗になった。一瞬の静寂、ついで|恐慌《きようこう》状態になった。六人の男たちは、ワッと声を上げながら、飛び出して来た。入れ違いに中へ飛び込む。混乱に乗じて彼女を救い出す——。
ところが……何とも、あっけないことに、あの六人、坑道を飛び出すと、一目散に逃げて行ってしまったのである。ずいぶん気の弱い犯人たちだ。私は懐中電燈をつけて、そばの石の上に置き、彼女を照らし出すようにした。気を失った|ふり《ヽヽ》をしていただけらしく、目を開いて私を見つめている。急いで猿ぐつわを外してやると、ふうっと息をついて、
「助かった! 遅かったのね、ずいぶん!」
私はむっとして、
「何言ってる! こんな危い真似をして、尻をひっぱたいてやるところだ!」
「いやらしい。早く解いてよ」
——手足のしびれが直るまで、彼女を傍の岩に坐らせて、私はあの六人が戻って来ないか、と見に行った。
「大丈夫よ、帰って来やしないわ。てんで意気地がないんだもの」
「だが、あの娘を殺したじゃないか。それにあの八人……」
「あの八人はここよ」
彼女は坑道をふさぐ岩の山を示して、「さっき話してたわ」
「やっぱりか。……だが、あの男たち誰だったんだ?」
「聞きたい?」
にやりとして、「教えたげないっと」
「いいか、これは遊びじゃないんだぞ。いい加減にしないと……」
「そんなこわい顔しないでよ。分ったわよ」
と、ひょいと立ち上がると、「さて、それでは始めますか」
「何だい、一体?」
「いやね、推理小説につきものの、謎ときじゃないの。事件の関係者を一室に集めて、探偵が口を開く——『さて、皆さん』」
「のんびりしてる時じゃないぞ、あの連中を逃がしちまうかもしれないじゃないか。誰だったかだけ先に教えてくれ」
「あらそう。私の好きな様にやらしてくれないんなら、言わないわよ」
私は諦めて腰をおろした。畜生!
「さて」
すっかりいい気分の彼女、「私がこの事件を調べようと思い立ってやって来て、まずしたことは、あの走行中の列車から、どうやって八人が姿を消したかを調べる事でした。八人が実際に乗り込み、走っている列車に乗っていた事は、あの子供の証言によって疑う余地はありません。となると、どんなに不可能に見えても、何らかの物理的な説明が可能に違いありません。私はそれを着いた日の翌朝、発見しました」
「君が貨車に隠れてたときか?」
「そう。あの時、私にはあの八人がどうやって姿を消したか判っていました」
「まさか!」
「何よ」
むっとした様子で、「信じないならもうこれ以上——」
「判ったよ、信じる、信じるよ。一体どうやって消えたんだい?」
「それはね——。あの時、私、手が油で汚れてたの、憶えてる? ハンカチ借りたでしょ」
「ああ」
「あそこにあった手こぎの台車——あの手で押す、何ていうの、ポンプみたいなとこ、あそこに油がさしてあったのよ。ごく最近使われたってことだわ。それでいて台車全体は汚れ切って、錆びついていた」
「あの台車を……」
「それしか考えられないわ。あれを始めから列車の最後につないでおくの。そして走っている途中で客は車掌室を抜けて台車へ乗り移る。みんな乗り移ったところで車掌が台車を列車と切り離す。——台車はしばらく惰性で走るけど、すぐ速度は落ちるわ。そこでブレーキをかけ、今度は手でこいで岩湯谷駅へ逆戻りすればいいでしょ。勢いがつけば、ずいぶんスピードが出るものよ。みんなが騒ぎ出す前に帰り着くのも難しくないわ」
「あの台車の置いてある支線はずいぶん錆びついていたよ」
「レールは一週間も放っておけば錆びちゃうのよ」
「それはそうだ。しかし——」
「待って、言いたいことは分ってるけど、ちょっと待って。ほら、あの子供の証言を聞いた時、私の仮説が崩れたって言ったの憶えてる?」
「憶えてるさ。——そうか、もし子供が列車を見たのなら……」
「そう。あの台車も当然見えたはずよ。それでショックだったわけ。ところが実際に、あの岩陰から覗いて見ると、|列車の上半分《ヽヽヽヽヽヽ》しか見えないのよ。だから当然、台車は目に入らなかったのね。で、安心したわけ。さて」
と一息ついて、「方法は分った。ところが、この方法だと、機関士はともかく、車掌と岩湯谷の駅長さんはどうしたって事の真相を知ってたことになるし、それどころか、共犯ってことになるわ」
「それが問題だよ。どうしてあの人たちが、そんな事をするんだ?」
「私だって、それはつい昨日、あの娘が殺されるまで分らなかったのよ。ただ一つ、気になってたのは、この事件の証人は、一人残らず、信用できる人ばっかりだったこと。駅長、車掌、機関士——みんなこの町となじみの深い人ばかり。それにゆけむり荘の主人の児島だって、町では実力者でしょ。|証人が立派すぎる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それが気になったの」
「それで?」
私は促した。
「で、考えたの。この人たちが、何か共通の目的で犯罪を犯すとしたら、その目的は何だろうって」
彼女は今や真剣そのものだった。
「その答えは——|この町そのもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》じゃないか、そう考えついたのよ。あの人たちが一緒になって何かをしたとすれば、それは町のためだったんじゃないか。そこで、あの植村美和が問題になるのよ。彼女は疑いもなく何かを知っていた。その何かとは、彼女があの晩見たものに違いない。とすると、〈ゆけむり荘〉で、何かがあったに違いない。……私ね、今日、他の旅館を訊いて回ったの」
「何を?」
「|食事のおかず《ヽヽヽヽヽヽ》」
「おかずだって?」
「そう。答は思った通りだった。山菜料理、きのこ、|精進《しようじん》揚げ……。コロッケやらフライを出してるのは、ゆけむり荘だけ。なぜかしら?」
「分らないね」
「——|きのこ《ヽヽヽ》だったと思うわ」
「きのこ?」
「あの八人は毒きのこに当って死んだのよ」
私は唖然とした。
「あの娘は、食事を下げに行って、八人とも死んでいるのを見つけたのよ。慌てて主人に知らせに行く。でも主人は警察へ知らせる前に考えたのね。これがどんな結果をもたらすか。ただでさえ大湯谷に押され気味のこの町で、八人もの客が中毒死。観光地には致命的だわ。で主人の児島はあの娘に固く口止めしておいて、俳句の会をやっていた町長のところへかけつけたわけ。俳句の会の人たちは、みんなして、何とかこの事件を隠し通して、町を守ろうと決めたのね。そして、たまたま、死んだ客は八人で、俳句の会のメンバーも八人だった」
「身代りだったのか!」
「そう。翌日列車に乗ったのは町長さんたちだったのよ。むろんそのためには駅長、車掌、機関士も、説得したのね。みんな町のためだと引き受けたわけ」
「しかし、どうしてあんな面倒なことをしなきゃならなかったんだ?」
「仕方なかったのよ。だって、まず|死体は発見されちゃいけなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。解剖されたら死因が分ってしまうもの。でもともかく|八人は町を出なくちゃいけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。町で消えれば、町の評判に傷がつく事に変りはないから。ともかく町を出たことにして、死体は見つからないように、となれば途中で消える他はないでしょ。大湯谷駅に着けば顔を知られてるから駅長に分ってしまう。となれば、ああいう方法以外になかったのよ。たぶん台車のトリックは駅長か車掌の案でしょうね」
「そうか。——すべてうまく行ったが、一つだけ、あの女中が……」
「そう。あれは完全な殺人ね。やったのは児島よ」
「そうじゃないかと思ってた」
「八人の死体はあの晩のうちにここへ運んで埋めちゃったのね。翌朝、児島はわざと女中を使いに出して、自分で、死んだ八人の服に着替えた町長たちを送り出したのよ。朝早いといっても、町の人の目につかないとも限らない。顔を見られないように気をつけ、駅へ向かったわけね」
私は大きく息をついた。疑うには、彼女の話は余りに真実の重みがある。
「——今の男たち、誰だったんだ?」
「児島、それに町長さんでしょ、他の人がそう呼んでたから。それに森車掌、あとの三人は俳句の会の会員ね」
「何てこった……」
私は嘆息した。
町へ戻る道を急ぎながら、私は言った。
「それにしても、君はどうしてあんな無鉄砲な真似をしたんだ?」
「さあ……。いくらかは駅長さんや町長さんに同情したせいかしらね。あの車掌さん、とても実直そうに見えたんで、すべてを知ってるから、あそこの採石場で話したいって手紙を渡したの。自首を勧めようと思って。ところが、あんなに大勢来ちゃって」
「全く危い事をするよ。植村美和みたいに殺されてたかもしれないんだぞ」
「ずいぶんもめてたのよ、私をどうしようかって。私、縛られた時、あっさり気を失ったふりして話を聞いてたの」
「君をどうするつもりだったんだ?」
「児島は、あの水路——ほら子供の隠れたとこね——あの流れに放り込めば、死体はそう簡単に見つからないって主張してたわ。でも他の人はやっぱりためらってたわね」
まるで人ごとのような呑気な話し方に、私は呆れて彼女を見ていた。
「失敬な案を出したのがいたわ」
としかめっ|面《つら》で、「俳句の会のじいさんだと思うけど、あの坑道の一つの奥に私を閉じ込めておくの。そしてみんなで代る代る私を手込めにしようっていうのよ」
「何だって!」
「そしたら、いっそ今ここで、なんてのもいてね。見くびるなって。それしきの事で泣き寝入りしてる私じゃないわってのよ」
「だけど、おい——」
私は慌てて、「まさか——その——何か変なことされたんじゃ——」
「変なこと? いやね、よしてよ。まだ無事よ。どこかのおじさんにお風呂で覗かれたくらいのものよ」
口の減らない小娘だ。——私は少し置いて、言った。
「もう、おしまいだな、この町は」
「そうね。……でも、どうかしら。そんな事も無いような気がするけど……」
8
武藤署長は、にわかには私の話を信じ難いようだったが、永井夕子という証人もおり、納得した。ずいぶん辛い事であったろう。
だが、深夜の署内で逮捕のため署員が準備をしている所へ、他ならぬ長尾町長が自首して来たのである。町長の話は、永井夕子の話と寸分違わなかった……。
その夜のうちに、児島を除く全員が、逮捕され、または自首して来た。児島は一人夜道を逃亡したらしかったが、いずれにせよ逮捕は時間の問題であった。
三時近く、やっとゆけむり荘へ戻った私は、約束通り、記者の山岡を叩き起こして一足早くニュースを教えてやった。山岡が本社へ夢中で電話をしているのを背に、部屋へ戻ると、ふとんに服のまま横になった。
疲れてはいたが、興奮のせいか眠くなかった。先に帰した永井夕子は、たぶんすやすや眠り込んでいるだろう。不思議な娘だ。殺されそうな目に会ってもケロリとしている度胸、鋭い勘。こわいもの知らずの若さと、ベテラン刑事も及ばぬ観察力と——。全く妙な娘だ。
浴衣に着替えて明りを消し、床へ入ると、すぐ、誰かが明りをつけた。見れば浴衣姿の永井夕子である。
「どうした?」
「すんだの?」
「何もかもね。眠れないのかい?」
「ううん。待ってたの」
「僕を?」
「そう」
すると、彼女、おもむろに帯を解き出した。
「おい……何してるんだ?」
「お尻をぶってやるって言ったでしょ」
するりと浴衣が落ちると、白い裸身が立っていた。
「——ぶたれに来たの」
そう言うと、私の床へ勢いよく滑り込んで来た……。
寝入ったのは、ほとんど明け方近かったのに、七時半には目を覚ました。眠りが深かったのか、割合頭はすっきりしていた。——頭は? いや、それどころじゃ……
永井夕子はもういなかった。一緒に眠ったと思ったが、自分の部屋へ戻ったのか、それとも、もう起き出したのだろうか。
顔を洗って服を着ながら、彼女の事を考えた。私が初めての相手ではなかったが、何といってもまだ学生だ。四十にもなろうという男——それも警官が、若い娘を請われるままに抱いてしまったとは、軽率のそしりを免れない。両親はいないと言ってたっけ。そうか。寂しいのかもしれないな。強がって見せてはいるものの、私の中に父親の面影でも見つけたのだろうか。
しかし、何のかのと言っても、私は満ち足りた気分だった。まあ、ともかく彼女の気持を確かめてみよう。枕元の手紙に気づいたのは、その時だった。昨日と同じ、結び文にした紙片で、はねるような字で走り書きがあった。
〈おはよう、警部さん! 私、学校をそうさぼれないので、一足お先に東京へ帰ります。お目ざめの頃には、もう列車に乗ってるでしょう。また、いつかお会いしましょう。そのうち、きっと警視庁へ訪ねて行きます。では、その日まで。
ゆうべは、とてもすてきでした。夕子〉
幽霊列車事件の解決は大変なセンセーションを巻き起こした。児島はすぐに逮捕され、植村美和殺しは自分の単独犯だと供述した。長尾町長、大谷駅長らは、死体遺棄などで、懲役刑となったが、執行猶予のついた極めて軽いものであった。
永井夕子が予言したように、岩湯谷の町は、おしまいにはならなかった。事件の後、物見高い観光客で町は溢れんばかりとなり、〈ゆけむり荘〉は二年先まで予約で埋まって、新しい経営者を仰天させた。あの採石場が今では、ちょっとした観光名所である。
むろん、事件解決の栄誉は岩湯谷の武藤署長に帰せられたが、武藤署長は謙虚に徹して、多くを語らなかった。真に事件を解決したのが二十一歳の女子大生だとは、私以外の誰も知らない。
私? 私は残された休暇を、官舎の部屋でごろ寝をしたり、夜の銀座をぶらついたりして楽しんだ。しかし、そうして雑踏の中を歩きながら、若い娘たちの笑い声を耳にすると、我知らず永井夕子の姿を捜して目を向けているのだった。
職業柄、彼女の居所を探し出す事も、決して不可能ではなかったが、私はそうしようとは思わなかった。今も私の定期入れに入っている彼女の手紙にあるように、いつか不意に私を訪ねてやって来るだろう、と思っていた。
何か奇妙な事件が起った時に、あの小生意気な微笑を浮かべて現われるだろう。なぜか分らないが、私はそう信じているのである。
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<a name=2>第二話 裏切られた誘拐
<h1 caption=" 裏切られた誘拐"></h1>
1
「岡本嘉子と申します。はい、新田様の所で働くようになりまして十五年になります。ただいま四十五歳でございます、申し遅れまして……。こちらのだんな様の奥様が亡くなられまして半年たって、女中としてやとわれたのでございます。——女中、でございます。私、最近の〈お手伝いさん〉などという呼び名は好きませんので。もう、今の若い人たちときたら、八時を過ぎたら茶碗一つ洗おうといたしません。雑巾がけも満足にできないのに、口だけは達者で。は? ——あ、今日の事件の事でございますね。はい、お嬢様がご無事だとよろしいのですが。本当に恐ろしい事で……。
「夕方の四時を少し回った頃でございました、私が買物から戻って参りますと、居間のドアが少し開いているのに気が付きました。|覗《のぞ》いてみますと、だんな様がソファでお手紙を読んでいらっしゃいます。こんなに早くお帰りになるのは珍しいので、具合でもお悪いのかと思いまして、居間へ入りましたが、だんな様はお手紙に夢中で、少しもお気づきになりません。
『あの……』と声をかけますと、ひどくびっくりなさいまして、手にしていた手紙を隠そうとなさいます。——だんな様は、それは冷静沈着な方でございまして、こんなに度を失っておいでなのを見たのは初めてでございました。これはただ事ではない、と感じまして、『だんな様、何のお手紙でございますか?』とお伺いいたしましたが、『いや、何でもないんだよ』と、手紙を握りつぶしてしまわれました。けれどもお顔は青ざめて、何でもないどころではございません。これは何か、よほど大変な事がもち上がったのだ、と思いまして、ぜひその手紙をお見せ下さいと重ねてお願いいたしますと、だんな様も、それは深いため息をもらされまして、手紙を渡して下さいました。それが、その、いま刑事さんがお持ちの手紙でございます。——ええ、よからぬ手紙である事は一目で分りました。新聞の文字を切りばりして作った手紙など、|まとも《ヽヽヽ》なはずがございません。
〈娘は預かった。例のものを用意しておけ。追って連絡する〉
私はもう息が止まるかと思うほど驚きました。『お嬢様が!……雅子様が!』と思わず声を上げました。『だんな様、この手紙はいつ?』と伺いますと、『さっき戻った時、郵便受に放り込んであった』というご返事です。でもさすがに落ち着きを取り戻されていて、お嬢様の部屋を見て来るように私に申されました。部屋へ行ってみましたが、やはりお嬢様はお帰りになっておりません。——はあ、いつもは大体三時半にはお帰りなんですが。
「で、私がそうご報告しますと、だんな様は学校まで行ってみる、とおっしゃって、車でお出かけになりました。中学校はここからそう遠くはございません。お嬢様はいつも自転車で通学なさっています。——だんな様がお出かけになりまして、しばらくして、お嬢様の家庭教師の方がみえました。これが若い女の方ですが、大変しっかりして、よくできた方で、お嬢様もだんな様もとてもお気に入りなのでございます。で、その方に事情をお話ししておりますうちに、だんな様がお戻りになりました。……お嬢様はとっくに学校を出ている、との事で、しかも戻る途中、道端の溝に、お嬢様の自転車が投げ出されてあった、と……。これはもう本当に誘拐されたのに違いない、というので、すっかり悲嘆にくれておられました。家庭教師の先生は、やはり警察へ届けなければいけない、とおっしゃって、だんな様も、迷った末、先生のお言葉に従うことに決めました。だんな様は、ご存知の通り、警視総監の梅宮様とお知り合いでいらっしゃいます。で、直接梅宮様へお電話をして、極秘で捜査をしてもらおう、と言われました。すると先生が、警視庁の警部さんで大変優秀な方を知っているから、とお言葉がありまして、だんな様も先生を大変高く買っていらっしゃいますので、梅宮様へ、その警部さんをよこすように、お電話をなさった訳でございます。
「……はい、お子様は雅子様お一人でございます。とても可愛い、優しいお嬢様で……。今、一体どうなさっているのかと思いますと……。一刻も早く誘拐犯人の手から取り戻して下さいませ!」
2
「いやあ宇野さん、懐しいですね」
熊のような|図体《ずうたい》を助手席に割り込ませて来たのは、原田刑事である。
「何だ、お前も仰せつかったのか?」
「はあ、よろしくお願いします」
原田刑事が私の部下だったのは、もう五年も前、私がまだ警部補だった頃だ。“クマキン”というあだ名で——熊のような大男で、金太郎のような童顔のせいだ——誰からも愛されたものだった。
「じゃ出かけるか」
私は車を走らせた。原田刑事を使える、というので、いくらか気は軽くなっていた。
「——話は聞いてるか?」
「何だか誰かが誘拐されたとかいうことですね」
「新田雅之の一人娘だ」
「誰です?」
「知らんのか。商社にデパートにスーパーに……ま、あれやこれやの取締役、一手|承《うけたまわ》りって奴だ」
「要するに金持なんですね」
「大物だぞ。今度は国会議員にも立候補しようって話だからな」
「でも、何で俺たちが呼び出されたんです?」
「総監が来年で退職だってのは知ってるだろ」
「はあ」
「で、総監も議員バッジに|憧《あこが》れてる。新田は総監の友人なんだ。その新田殿下のお嬢さまが誘拐されたってんじゃ、並の扱いはできない。特別優秀——かどうか知らんが、口が堅くて信用の置けそうなのを、あちこちから引っこ抜いて来て特にグループを作った訳だ」
「で、宇野警部がチーフってことで」
「らしいな」
「ま、事情はどうでもいいです。また宇野さんの下でやれるのは嬉しいですよ」
私は原田と笑顔を見かわした。昨日、山奥から出て来たばっかり、という感じの実直さ。ちっとも変らんな、こいつは。
総監に呼ばれて直接命令を受けたのは、四時を少し回った頃だった。今は六時半。三月も半ばで、昼の陽射しは暖かいが、陽が落ちればまだまだ冬の寒さだ。外はすでにかなり暗い。車は武蔵野の木立を縫って走っていた。
「——宇野さん」
原田が妙に深刻な声で言い出した。
「うむ?」
「晩めし、食いましたか?」
「いいや」
「向こうで出ますかねえ?」
「たぶんな」
「そうですね。金持なんだからなあ……きっと……」
|やせ《ヽヽ》の大食い、などという文句があるが、原田の場合、食欲は体の二乗くらいに比例しているのである。「金持」に安心したのか、原田はシートにどっしりもたれると、例のやつを始めた。これだけは昔から閉口なのである。これがなければ原田を養子にしてやったっていいくらいだ。
想像してみたまえ。三十五にもなる大男が、何とか兄弟から何とかヒロミまで、歌謡ヒットパレードを調子外れにくり広げるところを。私は必死で前方に注意を集中した。
新田邸は、小金井を抜けていくらか小平市へ入った所にある。まだまだ|木立《こだち》の目立つ環境に、真新しい住宅が色鮮かである。新田邸に着いたのは七時を少し過ぎていた。門柱にもたれて刑事が一人立っている。私を認めると、ちょっと待てと手で合図して、門柱に取付けられたインタホンに呼びかけた。鉄の|格子《こうし》扉がするすると開く。私は車を乗り入れた。
モダンな近代住宅の見本のような邸宅である。直線と曲線で幾何学的に構成された白い巨大なコンクリートブロックとでも言おうか。
玄関のドアの真中で青銅のライオンがこっちをにらんでいる。口からさがった輪っかを引くと、厚いドアの向こうでチャイムの鳴るのが聞こえた。豚が風邪をひいたような官舎の玄関のブザーとは違って、こちらはヨーロッパの教会の鐘でも鳴らしているのかと思う、深い、いい響きだ。「いい音だな」
「はあ」
原田が肯く。「うちのアパートにつけたいですな」
「あれは鳴り響く空間があるから、いいんだ。公団住宅じゃ無理だよ」
ドアが開いて、修道女——いや、家政婦とおぼしき女性が立っていた。
「警視庁から参りました。ええと……」
「女中の岡本嘉子です」
「捜査一課の宇野です。これは原田刑事」
「お入り下さい」
きびきびとした動作のせいか、ぴんと張った背すじのせいか、ほころびてなるものかときつく結んだ口元のせいか——どう見ても彼女は女学校の生活指導担当教師だ。
厚い|絨毯《じゆうたん》を踏んで私たちは居間へ通された。
「ここだけでうち全部の三倍はありますね」
原田が豪勢な室内を眺め回し、目を丸くして言った。
先に到着していた刑事たちが、居間の奥の電話機に、親子電話と録音用のテープレコーダーをセットする作業をしていた。
「やあ、宇野警部」
顔見知りが気づいて、「もう十分ほどで終りますよ」
「なあ」
原田が、電話の取付けをやっている刑事に声をかけていた。「晩めし、出たかい?」
新田雅之が入って来た。
想像していた実業家タイプとは似ても似つかなかった。もっともこれが現代的な実業家なのかもしれない。どちらかといえば細身で、顔は健康に陽焼けしており、実際は五十代も後半のはずだが、四十七、八にしか見えない。強い意志を感じさせる顔立ちは、どこか人を魅了するものがある。——これなら選挙へ出ても当選するだろう、と思わせた。
私はソファの一つに腰をおろし、新田から脅迫状を見つけたいきさつをきいた。
「すると三時四十分頃、お帰りになると、郵便受に脅迫状が入っていたわけですね」
「そうです」
新田の声は低く、それでいて|張り《ヽヽ》があった。内心は動揺しているのだろうが、顔にも声にも、そんな様子を現わすまいとしている様だった。
「封筒は?」
「封筒には入っていませんでした」
「|裸のまま《ヽヽヽヽ》ですか? 手紙だけが?」
「そうです。折りたたんでもいませんでした」
「それは珍しい。変っていますね」
ちょうど鑑識の早川がふらりと居間へ入って来た。この道二十年のベテランで、もう四十代も半ば、上司は何度も昇進させようとしたのだが、その度に断り続けて来た変り者だ。いつか私に言った事がある。
「いいかい、若いの(彼にかかると警視総監だって『若いの』になる)、鑑識の人間はな、|鼻《ヽ》を失くしちゃおしまいなのさ。何でもかぎ分ける|鼻《ヽ》をな。それにゃ毎日、現場を足で歩き回るこった。|ほやほや《ヽヽヽヽ》の仏さまや足跡と、いつもお付合い願ってなきゃいけねえのさ」
ちょっと見たら、公園のベンチで寝ている浮浪者かと思うような、よれよれの服装で、片手に脅迫状をぶら下げていた。
「よお、早川さん」
「何だ、お前さんか。こいつはそっちへ任せたぜ」
と脅迫状を渡してよこす。
「何か出たかね?」
「こちらのだんなと、あのおばさんの指紋だけだ。後は署へ戻ってからでねえと」
「切り抜いた新聞は?」
「A新聞だね、大体は。三つばかしM新聞も混ってる」
「ありがとう」
「じゃ、俺は表の郵便受を見て来るぜ。無駄だと思うがね」
私は脅迫状を眺めた。ごく普通の上質紙に新聞から切り抜いた文字がはりつけてある。新田が一度手で握りつぶしたせいで、しわになっているし、そのためにはがれかけていたり、ねじれている文字もあるが、落ちた文字はないようだ。
「なぜあの方——ええと——岡本嘉子さん、でしたね、あの人に隠そうとなさったのですか?」
「分りません。……嘉子はもう十五年、この家にいますし、打ち明けるのが当然でしたが……気が転倒していて……」
確かにこんな手紙を平気で読める人はあるまい。
「〈例のものを用意しておけ〉とありますが、例のものとは?」
「金のことでないとすれば見当がつきません」
新田は戸惑った様子で首を振った。
「犯人から連絡があれば分るでしょう。今、他の班が学校付近で目撃者がないか聞き込みを続けています」
「どうもお手数を……」
「いや、あなたもご心配でしょうが、あまり気を張りつめない様に。体が持ちませんよ」
「いや、私は大丈夫です。雅子がどこでどんな目に|遭《あ》っているか知れないのに、私だけが楽をしてはいられません」
きっぱりとした口調ゆえに、余計胸に迫るものがあった。
「お嬢さんは、おいくつですか?」
「十四歳です」
「写真がありますか? できるだけ最近のものがよろしいんですが」
「そうですね。……上の雅子の部屋にあると思います。机の上の写真立てに、ボーイフレンドと撮ったのが入っていますよ」
「拝見してよろしいですか?」
「ええ、構いませんとも」
原田と二人で、教えられた通り、二階の取っつきのドアを開けた。
「ねえ。宇野さん、晩飯は……」
「もうちょっと待てよ」
明りをつけると、まず正面の壁に目を奪われた。
「こりゃすげえ!」
原田が声を上げた。壁につくりつけた棚のいく段にもわたって、あらゆる大きさと色と種類のぬいぐるみが並んでいるのだ。犬、猫、タヌキ、熊、パンダ……。四十はあろう。デパートの売場がそっくり引っ越して来たような観があった。
「宇野さん、これ一つでどれくらいするもんか知ってますか!……|凄《すご》い!……大したもんだなあ」
感心する方は原田に任せて、私は部屋を見回した。若い女の子の部屋らしく、カラフルで、雑多で、適当にロマンティックである。机の上の写真はすぐ見つかった。髪を長く肩に垂らした、ほっそりした少女が笑っている。肩を寄せ合っているのは、少女に劣らず髪の長い少年で、すごい|のっぽ《ヽヽヽ》だ。
私は写真を写真立てから外してポケットに入れると、机の引出しを開けてみた。プライバシーの侵害と言われそうだが、何かの手がかりが見つかるかもしれないのだ。
日記帳があった。ややためらったが、一番新しいページをめくってみた。|一昨日《おととい》の日付になっている。
「×月×日(火)
今日は久しぶりでパパが早く戻って来たので学校で作ったワンピースを見てもらおうと思ったのに、忙しいからと追い払われた。
とてもさみしい。嘉子さんもパパの味方ばかりしているし、新しいお手伝いさんはつんとすましている。——パパは私を嫌いだ。でも、だからって、私はどうすればいいんだろう。誰か私に教えて下さい」
私は、そっと日記帳を引出しへ戻した。十四歳の少女の日記か、これが。何かあるのだ。何か。——急に、この明るい部屋が、寒々として来た。
「いやあ、大したもんだなあ」
原田はまだ感心している。
「おい、行くぜ」
「はあ。……宇野さん」
「うむ?」
「晩飯はまだですかね」
——階段を降りて、居間へ行こうと向きを変えたとたん、大きな盆を持った娘とぶつかりそうになって、つんのめりながらあやうく立ち止まった。
「おっと!」
「あ……」
「いや、どうも失……」
念のために申し上げておくと、この「失……」の後には「礼」がつづく所なのである。これがなくては「礼」を「失」した事になるのかもしれないのだが、この場合、そんな事はお互い、どうでもいいのである。
「君は!」
|唖然《あぜん》とする私。
永井夕子はにっこり笑って、
「お久しぶり、警部さん」
3
あの〈幽霊列車〉の事件からもう半年近くになる。当節の女子大生などおよそ私の理解を絶した生物なので、〈そのうち警視庁へ訪ねて行きます〉という手紙の文句を当てにもせずに、それでも手紙を定期入れにしまって持ち歩いていたのだが、それがこんなところで会うことになろうとは……。
「君は……何してるんだい?」
「ご挨拶ねえ、懐しの恋人に。もう少し嬉しそうな顔できないの?」
私は傍でこのやりとりを目を丸くして見ている原田に気がついた。
「おい、ちょっと先へ行ってくれ」
「はあ……ですが、その……」
「ちょっと個人的な用事なんだ」
「はあ、ただ……」
「何だ、一体?」
「その盆のクッキー、一ついただいても……」
「さっさと持ってけ!」
原田が行ってしまうと、
「さて、と。——君はどうしてここに? アルバイトにお手伝いでもやってるのか?」
「失礼ね。私、雅子さんの家庭教師なのよ」
「そうか。いや、しかし偶然だな」
「そうでもないのよ」
「——なるほどね」
階段に腰を下ろした私は夕子の説明を聞いて、少々ふてくされた。「総監が僕を選んだのは、優秀だからだと思ってた」
「あら、同じ事じゃないの。|私が《ヽヽ》優秀と認めたんですもの」
「まあね……」
私は立ち上がって、「ま、君に訊きたい事もあるし、ちょうどいい」
「あら」
と私の顔を見つめて、「私、まだ独身よ」
「?」
「それが訊きたかったんじゃないの?」
私は咳払いして、
「ま、それはともかくだね……」
そこへ岡本嘉子がやって来た。
「あ、警部さんも先生もこちらで。あの、お食事の支度ができましたので。食堂の方へ」
「私、お手伝いするわ」
「まあ、先生すみませんね。町子さんが今日お休みなので……助かります」
夕子は食堂へ行き、岡本嘉子は居間へ顔を出すと、
「だんなさま」
「ああ、できたかね?……皆さん」
と居間にいる刑事たちへ、「簡単なものですが夕食を用意しました。どうぞ」
ソファから真っ先に立ち上がったのは、言うまでもなく、原田刑事である。
犯人から電話がいつかかって来るかも知れないので新田本人と刑事一人が居間に残って食事をとることになった。私は夕子と並んで食卓についた。
「簡単な食事」は、さしもの原田の名物胃袋をも充分に満たしたようだ。みんなが居間へ戻って行った後、私は夕子と二人で残って、食後のコーヒーをわざとゆっくり飲んでいた。他に誰もいなくなると、私は彼女に雅子の日記のことを話した。
「なぜなんだ? どうして新田は自分の娘を嫌ってるんだ?」
「雅子さんは正式の奥さんの子供じゃないのよ」
私ははっと胸を|衝《つ》かれる思いだった。そうだったのか。
「新田さんの奥さんが亡くなって確か十五年でしょ。雅子さんは十四よ」
「そうか。気がつかなかったよ」
「雅子さんは、新田さんが、どこかのホステスに生ませた子なのよ。その人が事故で死んで、雅子さんは五年くらい前にここへ引き取られて来たの。でも新田さんにすれば体面上の問題もあって、余り愉快じゃなかったのね。もちろん学校にもやり、小遣いも充分に与えてはいたけど、父娘として打ち解けて話すことを決してしないの。雅子さんにはそれが一番辛いことなのに……」