「だが、今度の件ではずいぶん心を痛めているようだよ」
「命にかかわる、となればね。……でも、これで雅子さんが無事に戻って、二人の間が巧く行けば、いうことないんだけど」
「そうなってくれればいいがね。いや、どうしてこの事を教えてくれなかったのかなあ、総監は」
「これは秘密なのよ。ほとんど誰も知らないはずよ。私は雅子さんからじかに聞いたんだけど」
私は肯いた。あの日記と、夕子の話から、孤独な少女の像が浮かんで来るようだった。
「ところで、警部さんには、お変りなくって?」
居間へ戻る途中で彼女が言った。
「ちっとも。君の方は?」
「まあ何とか来年、卒業できそうね。他にはとりたててニュースなし」
「探偵稼業の方は?」
「不景気ね、世相を反映して」
と微笑んで、
「面白い事件ってないもんね」
「そう度々あっちゃ困る」
——いいタイミングだった。居間へ入ったとたんに、電話が鳴りだしたのである。
私は素早く取りつけた電話へかけ寄った。
「新田さん、一、二、三で受話器を上げて下さい、いいですね」
「分りました」
落ち着いてはいるが、さすがにやや青ざめて肯く。
部屋にいる刑事たちが、映画のストップモーションのように、動きを止めて見守っている。新田と私は並んで二つの受話器に手をかける。私が数えた。
「一、二、三」
二つの受話器が同時に上がる。テープレコーダーが自動的に回り出した。
「もしもし、新田ですが……」
「新田さんだね。電話を待っていたはずだ」
送話口をふさいで、相手の声に聞き入る。故意にアクセントのない、平板な話し方をしている。声がひどくこもっているのは、送話口をハンカチで包んでいるのだろう。これでは判別は難しい。
「君は誰だ?」
新田が問い返す。
「そんなことはどうでもいい」
やや間を置いて相手が答える。「一度しか言わない。娘は無事だ。明日までに二千万用意しろ。同じ時間に連絡する。金は五千円札と千円札。一万円はだめだ。使った札で用意しろ。新券、通し番号のものは入れるな」
「しかし、娘は——」
切れた。
新田は、大きく息をついて受話器を戻した。私はすぐさまテープをプレイバックした。
「妙な声ですね」
原田が言った。
「特徴らしいものはないな。少しも震えていない」
「ということは、かなり計画的な犯行ってことですね」
「いずれにしてもテープを鑑識へ回しておけ。新田さん、どうなさいます?」
「金は惜しくありません。用意しますよ」
「明日までに?」
「できると思います。銀行の幹部に頼みましょう」
「では私もご同行します。事情を説明して極秘にしてもらえれば好都合です」
「お願いします」
夕子は居間の隅で何やら考え込んでいた。
「何を考えてるんだ?」
「あのテープの声……」
「どうかしたかい?」
「大した事じゃないけど。何だか妙な……」
「何が?」
「何となくよ。……考えすぎね、きっと」
私は、他の刑事たちのうち、一人を残して帰らせることにした。私はここへ泊り込みだ。指示をしている時、鑑識の早川が入って来た。
「何も出んよ、郵便受からは。まあ大体期待はしていなかったろうがね」
「ご苦労さん。それが犯人の声のテープだ。分析してみてくれ」
「あいよ。もう帰らしてもらうぜ」
「いいとも」
と帰りかけて、「ああ、郵便受に新聞が入ってた。置いとくよ」
新聞を二部、テーブルに投げ出して出て行った。全く変り者だ。
「君はもう帰った方がいいだろう」
私は夕子に言った。
「あなたは?」
「僕はここへ泊る」
「そう。じゃ明日」
「明日?」
「気になるもの。また夜来てみるわ。それに、あなたも私に会いたいだろうし」
私は慌ててあたりを見回した。彼女はいたずらっぽく笑い、それから真顔になって、
「雅子さん、無事だといいけど」
と呟いた。
「じゃ、さよなら」
「ああ、気をつけて」
居間を出ようとして、夕子はテーブルの傍で、ふと立ち止まった。さっき早川の持って来た新聞が置いてある。それをじっと見ていたと思うと、手に取って一部ずつ広げている。
「何してるんだい?」
私は歩み寄った。
だが私の言葉など耳に入らないようすで、夕子はじっと目を見開いて新聞に見入っている。
「何か出てるのかね?」
「——ね、見て——これ、朝刊よ」
「ああ、そうだね」
「朝刊と夕刊が一緒に。でも、そんなことが……」
私はあっけに取られて彼女を見ていた。
「新田さん」
彼女は居間の奥にいた新田に声をかけた。
「何か?」
けげんな面持ちでやって来ると、新田は私と彼女の顔を見比べていた。
「新田さん」
彼女は興奮を押えた声で、「あなたが脅迫状を見つけたとき、新聞が一緒に入っていましたか?」
「いや。他には何も入っていなかったが……」
「脅迫状は完全に下に落ちていたんですね? つまり郵便受の箱の底に?」
「そうですよ。それが何か……」
「ちょっと!」
彼女はいきなり私の手を取ると、ぐいぐいと引っ張って歩き出した。
「おい! どうしたんだ」
「いいから、来て!」
|有無《うむ》を言わさず、私を連れて、彼女は食堂へ入って行った。岡本嘉子が食事の後片づけをしている所だった。
「嘉子さん」
「あら、先生ですか。何か?」
「ちょっと伺いたいんだけど」
「何でしょう?」
「ここでは新聞は誰が取ってくることになってるの?」
「町子さんですよ。新しい女中——お手伝いさんで、今日は休みですけど」
「じゃ今日は嘉子さんが?」
「いえ、朝刊は町子さんが出かける前に取っておいたようですよ」
「確かに?」
「と、思いますけど、今朝、八時頃前庭へ出たとき、郵便受を覗いてみると何もないんで、これはきっと町子さんが取っておいたんだな、と思ったんです」
「朝刊と夕刊が一緒になって入っていたのよ」
「まあ。それじゃ入れ忘れてたのかしら」
「そうかしら。ね、嘉子さん、新聞の販売所の電話を教えてくれる?」
彼女は電話番号を聞くと、さっさと居間へ戻り、電話をかけた。こっちはまるで立場なしだ。新田は物問いたげに私を見るし、他の刑事も、一体この娘、何してるんだ、とあっけに取られている。しかし私としても訳が分らないのは同様だ。それに彼女は|何か《丶丶》をつかんでいるらしい……。
「確かですね。……はい、分りました。ありがとう」
彼女は電話を切ると、私の方へ向いて、
「朝刊は六時半に、夕刊は夕方五時半頃に、ちゃんと配ったと言ってるわ」
「それがどうかしたのかい?」
「わからないの? 朝刊はちゃんと入れてあったのに、八時に嘉子さんが見た時、郵便受にはなくって、夕刊と一緒に入っていた。ということは……」
「何だい?」
「|朝刊が郵便受の差入口にはさまって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、郵便受の底に落ちていなかった、ということよ」
「……そうか」
「分った? 脅迫状は、朝八時、嘉子さんが覗いた時にはまだ郵便受に入っていなかった。そして夕方四時前に新田さんが脅迫状を見つけた時には、朝刊は郵便受の箱の中へ落ちていなかった。つまり、|脅迫状が入れられた時には《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|朝刊は差入口にはさまったままだった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のよ」
「しかし」
私は言った。「そんな事はありえない!」
「そう」
彼女は肯いて、「ありえないわ」
「それはどういう意味かね」
新田が口を挾んだ。「|脅迫状は確かに入っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》んですよ」
「と、すると、どういう事になりますか?」
不可解な沈黙が一瞬、居間を支配した。今にも|何か《ヽヽ》が起こりそうな、静寂——。
「結論はこうなります」
夕子が言った。
「|脅迫状は内側の取出口から郵便受に入れられた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです」
「センセーションだよ、ちょっとした」
「美貌ゆえだといいんだけど」
「みんなが君のことを何者か不思議がってるよ。説明にひと苦労だ」
「シャーロック・ホームズの遠縁だとでも言っておいてちょうだい」
私は永井夕子を送って、夜道に車を走らせていた。最寄りの駅まで、歩けば二十分の道のりだ。
「しかし、君は犯人かその共犯者が、あの家の人間か、あそこに出入りした人間だ、とほのめかしたんだよ」
「ほのめかしてなんかいないわ」
彼女は抗議した。「断言したのよ」
車は黒い林の中を縫って走っていた。遠くにちらちらと黄色い灯が見え隠れする。
「あれが駅だな」
「ね、嘉子さんの話の中で、新田さんが脅迫状を嘉子さんに見せたがらなかった、っていう所があったわね」
「ああ。まあ、とっさのことで、無意識に、だったんだろうがね」
「かもしれないけど……」
「そうじゃないって言うのかい?」
「としたら?」
「うむ。——そうか、もし内部の者が、あの脅迫状を作ったのなら、新田さんにはそれが|誰か《ヽヽ》分っていたのかもしれないな」
「だから隠そうとした」
「あり得ることだね」
夕子はため息をついてシートに身を沈めた。
「いやな事件ね、誘拐なんて」ぽつりと、呟くように言った。
車を駅の少し手前へ停める。
「ここでいいかい? 駅前まで行くとUターンできなくなる」
「うん。ありがとう」
彼女は自分でドアを開けて、表へ片足を降ろしたが、ふと思い直した様に振り向くと、シートに体を戻し、私の方へわずかに寄って来た。何だい? と訊く間もなく、彼女の唇が私の唇をふさいでいた。
柔らかなその感触に、私は以前、一夜だけこの腕に抱いた彼女の若々しい、信じられないほどしなやかな身体を、昨日のもののようにまざまざと思い起こした。
腕をのばし、肩を抱こうとすると、彼女はすっと身をひいて、
「変らないわね、|これ《ヽヽ》も」
とにっこり笑った。「また明日」
夜道を足早に去って行く後姿を眺めながら、私は頬が少年のように上気しているのを感じた。——何だ、いい|年齢《とし》して。全く!
帰り道、私はやたらに威勢よく、車をすっとばした。
4
小ぢんまりとした、山小屋風の家だった。玄関の呼鈴を押すと、少したってから、ずんぐりと太った赤ら顔の男が顔を出した。年齢は五十を少し越したくらいだろう。警察の者ですが、と告げると、珍しげに私を眺め回しながら、中へ入れた。どことなく人を食ったような、小馬鹿にした様子がある。
広くはないが、様々な調度で埋った応接間へ通された。勤務中ですから、と勧められたウイスキーを断ってソファへ浅く腰をかける。
「西尾真治さんですね」
「そうですが、何か?」
「新田さんをご存知ですね、この少し先の」
「もちろん。ちょくちょくお邪魔もしてるし、お付合願ってますがね」
「実はこれは絶対に秘密にしておいていただきたいのですが、昨日、新田さんのお嬢さんが誘拐されたのです」
「何ですって!」
西尾は目を見張った。
「で、犯人は?」
「まだ分っていません」
「娘さんもまだ戻らないのですか?」
「残念ながら」
「それは心配ですな。金目当てでしょうか」
「おそらくそうだと思います」
「で、私に何か?」
「はあ。実は昨日、あなたが新田さんのお宅に立ち寄られたと聞いたので、何か変ったことや、妙な人間にお気付きにならなかったかと思いまして伺った次第です」
「ああ、なるほど、そうですか。いや、しかし……」
としばし眉を寄せて考え込んで、
「残念ですが、何も思い当りませんな」
私は昨夜、岡本嘉子に、その日の訪問客について訊いた時のことを思い出していた。——そうですね、と彼女は言った。お昼すぎに、西尾様がおみえになりました。はい、ここから五分ほどの所にお住いで。だんな様の軍隊時代からのお知り合いだとか……。どこかそっけない口ぶりに、私は気づいて、あなたはあまり好感を持っておられないようですね、と言った。彼女はちょっとぎくりとした様だったが、すぐに固い表情に戻って、あの方はだんな様のお客様ですから、と答にならない答をした……。
「念のために伺いたいのですが、新田さんのお宅へいらしたのは何時頃です?」
「ええと」
西尾はちょっと天井を見上げて、
「一時か……二時にはなってなかったと思いますな」
「失礼ですが、何のご用で?」
「ああ、本を借りに行ったんです。新田さんはずいぶん本を持っておられる。で、留守中でも、好きな時にお邪魔して本を借りて行っていいと言われてますのでね」
それは岡本嘉子も言っていた。しかし、その後、彼女はこう付け加えた。それにしても妙な方で。——何が? という私の問いに、彼女はちょっと肩をすくめて、本をお借りになるのはいいんですが、ちっとも読まずに返して来られるんです。本当ですよ。新刊本など、返って来たのをめくってみると、|まだページの切れてない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》所があるんですもの。
「本はお好きですか」
「他に楽しみもないのでね。働いていないので、時間は余るし……」
「うらやましい話ですな」
「いや、年金と株の配当で食ってるんですが、楽ではありませんよ」
「分りますよ」
私は肯いてみせた。「あなたと新田さんは軍隊時代からのお知り合いだとか」
「そうです、陸軍でしたな。一緒に死の一歩手前まで行ったものですよ。あれはその記念品です」
と指さした所を見ると、壁に旧陸軍の南部式拳銃がかけてある。
「まさか実弾を撃てるのでは?」
「いや、むろん弾は入っていませんよ」
「そうですか。失礼しました。つい警官というのは気を回しましてね」
と苦笑いして、「ではこれで失礼します」
「何かあればご連絡下さい」
「かしこまりました」
私は席を立ったが、その時、応接間の奥のドアがカチッと音をたてて閉じるのを視界の隅に捉えた。そして微かに香水の匂い——。
私は内心ニヤリとした。このじいさん、なかなかお盛んだわい。
血圧にお気を付けて、とは言わずに、表へ出たのは、もう二時を少し回った頃。この日は朝九時に新田と二人で銀行を訪れて、身代金について打ち合せをし、昼には警視庁へ戻って、誘拐された新田雅子について、誘拐現場付近、学校近辺での聞き込みが全く何の成果もあげていないことを聞いて来たのである。そして今度はここだ。
まだ昼食も取っていない。原田ならとてもがまんしかねるだろう。私は新田邸への道を急いだ。——一つ、気になる事があった。昼食のことではない。あの西尾という男、一体何で食べているのだろう。年金とか配当とか、そんなもので、あれだけの暮しができるだろうか? それに女……。岡本嘉子の話では、西尾は一人暮しのはずだ。
あの男、どうもひっかかる。|つり針《ヽヽヽ》なみだ。
「なんだ、もう来てたのか」
食堂へ入ると、永井夕子がサンドイッチをパクついていた。
「落ち着かなくって。どう、様子は?」
「腹ぺこだよ。話は食べながらにしよう」
「欠食児童ね」
彼女は笑った。
岡本嘉子が大皿に山と作ってくれたサンドイッチをつまみながら、私は身代金が夕方銀行から届くこと、他の捜査に進展のないこと、そして西尾のことを話した。
「昨日、この家にやって来たのは西尾一人だったというからね。よく洗ってみる必要があるよ」
「嘉子さんがそう言ったの?」
「そうさ。どうして?」
「別に。ただ、嘉子さんも|内部《ヽヽ》の人間だっていうことよ」
「まさか君は……」
「疑ってるんじゃないの。ただ可能性を言ってるだけよ。私たちの知らないどんな事情があるか分らないんだし」
「それはそうだがね」
「それに、昨日お休みしたお手伝いさん……ええと、町子さんだったわね。私もあまり見てないんだけど。いつも私が来るのと入れ違いに自分の部屋へ戻っちゃうから。……その人だって、勝手を知ってるんですもの、疑えば疑えないことはないわ」
私は思わず笑って、
「君にかかると一人残らず容疑者だね」
「名探偵の常識よ」
と真面目な顔で言ってのけて、「それに……そうね、|私だって《ヽヽヽヽ》いつもこの家に出入りしてるんですもの。うん、これは面白い推理ね」
自己陶酔型名探偵を残して、私は居間へ行った。三時へもう十五分というところだった。
居間へ入って行くと、灰皿を片付けている若い娘が顔を上げた。夕子と同じ年頃だろう。小太りで色の浅黒い、丈夫そうな娘である。町子というのはこの娘だろう。
「君は……」
「私、ここで働いてるんです」
と早口に言った。「昨日お休みしてて、何も知らなくって……」
「町子さん、だね?」
「はい」
「姓は?」
「あ、あの——井上です」
「僕は警視庁の宇野だ」
「はあ」
井上町子というその娘、ずいぶんと緊張している様子である。まあ警官と話をするとなれば誰でも固くなるのは当然だが。
「いつ来たのかな、今日は?」
「ついさっきです」
「そう、事件のことは嘉子さんから聞いたね」
「はい!」
「昨日は休みだったそうだね」
「はい、ゆうべは|実家《うち》に泊って来ました」
「そう。昨日は何時頃ここを出たの?」
「ええと……七時半ごろ……だと思います」
「ここを出る時、妙な人影や車なんかを見かけなかったかね?」
「いいえ、何も」
——返事が早いな。私は内心呟いた。
「君の部屋は?」
「あ、あの……この一階の奥です。裏庭へ出る口のそばで……」
「ここの待遇はどうだね?」
「と——とても結構です」
「ここへ来たのは誰かの紹介で?」
「いえ。|斡旋《あつせん》所で言われて。でもそれが何か……」
「いやいや、訊いてみただけさ。まあ、この事件のことはまだ一般には伏せてあるんだ。君も口外しないように頼むよ」
「はい!」
熱を込めて肯くと、「もう、よろしいでしょうか?」
「ああ、ご苦労さん」
汚れた灰皿を手に、井上町子は逃げるように私の脇をすり抜けて出て行った。私はその後を目で追った。こいつは……。
こいつは面白くなりそうだ。豪華なソファに腰をおろして——というより体を沈めて考え込んでいると、夕子がやって来た。
「やあ、ちょっと面白いことがあるんだよ」
「へえ、なに?」
「さっき西尾の家で香水の匂いがしたって言ったろ」
「うん」
「今、井上町子と話したんだがね。——彼女の香水は、西尾の家でかいだ匂いと同じだよ」
「八時ですよ」
刑事の一人が言った。犯人からの電話は八時半。待つ身には長い三十分だ。
「新田さんは?」
永井夕子が訊いた。
「さっき出て行ったけど」
「お庭においでです」
岡本嘉子が言った。
「何をしてらっしゃるの?」
「さあ……」
夕子と私は、廊下の突き当りのドアから、夜の庭へ出た。昔のガス燈に似たデザインの水銀燈が、いくつか輝いて、よく手入れされた広い芝生を青白い光で照らしている。庭の一隅にレンガ造りの焼却炉があって、新田はその前に立っていた。何か書類でも焼いているのか、黄色い炎が炉の口からちらちらと覗いて、新田の顔を照らし出していた。
私たちが近づいて行くと、新田は顔を上げた。
「やあ、警部さん」
「何をしておいでです?」
「ただ待っているのが堪えられなくて……無用な書類を焼き捨てていた所です」
「なるほど」
「こんな事でもしていないと……。今、何時です?——いや、結構、知っています。さっきから、五分と置かずに腕時計を見ているんですから」
新田は深いため息をついた。——肩を落としたその様子は、ひどく疲れて見えた。
「きっと無事に戻りますわ」
永井夕子の言葉に、新田は初めて微笑んだ。
「警部さん、あなたももうご存知かもしれないが、雅子は私の妻の子ではないのです……」
半ば呟くように低い声で、新田は言った。
「私は雅子のことを、その存在しか知らなかったのです。顔を見たこともないままに、ずっと生活の補助をしてやっていました。ところが五年ほど前、あれの母親が死に、そのまぎわに、私に雅子を|委《ゆだ》ねて行ったのです。私は雅子を引き取りました。しかし雅子はその時、九つ、もう訳も分らぬ子供ではありません。なかなか私になじもうとはせず、私も仕事の多忙さにかまけて、雅子と無理に話そうともしませんでした。いつしか五年がたちました。……学校へやり、いい服を着せ、高い自転車を買ってやって、これで父親の義務は果たしているのだ、と思っていたのです。——けれど、間違いでした! 雅子を捜しに行って、溝に落ち込んでいる自転車を見つけた時、それに気づいたのです。私の買ってやった物が、雅子にとっては一体何だったのでしょう? 服も自転車も、雅子を守ってはやれませんでした。父である私が、学校まで、ほんのわずかの距離を、迎えに行ってやっていたら、こんな事にはならなかったのです。……|悔《くや》んでも遅いとは分っていても、残念でなりません。今の私にはあの子が必要なのです。あの子が戻って来たら……今度こそ、前のような私たちではなくなるでしょう!」
焼却炉の残り火が、一瞬明るく燃え上がって、新田の顔を照らし出し、消えて行った。
電話が鳴った。八時半ちょうどである。
「いいですか!」
私は新田と並んで受話器に手をかけた。「一、二、三!」
「新田さんだね」
声は言った。「金はできたか?」
「できている」
「よし」
やや間を置いて声が続ける。「金を紙袋に入れて、今夜一時、北ノ池公園へ持って来い。公園の中央の池のほとりにベンチが並んでいる。そこのくずかごに袋を入れて立ち去れ。持って来るのは一人。警官の姿が見えたら、娘の命はない」
「分った。私一人で行く」
「……持って来るのはお前ではない」
声が言った。「娘の所へ来ている家庭教師がいるそうだな。その女に持って来させろ」
私は息を呑んだ。
「待ってくれ!」
新田が言った。「彼女は——」
電話が切れた。——新田と私は顔を見合わせた。
「どうでした?」
刑事の一人が訊いた。
「うむ。今夜一時、北ノ池公園……」
「この近くです」
新田が言った。「歩いても二十分でしょう」
「じゃ私が行きます」
その刑事が言った。「新田さんとは私が一番体つきも似ているし」
「いや、だめだ」
「は?」
新田は、ソファにかけて、じっと見守っていた夕子の方へ歩み寄ると、
「犯人は金を持っていく役に、|あなた《ヽヽヽ》を指名しています」
5
零時半。金を入れた紙袋を下げた私と夕子は、新田邸を出て、教えられた道を、北ノ池公園へ向かった。霧が出て、冷たい夜だ。
「寒くないか?」
彼女は黙って首を振った。私は嘆息した。行っちゃいかん!——つい感情的になる私に、彼女は冷静そのもので|相対《あいたい》した。お金を置いてくるだけですもの、危険はないわ。それに婦人警官をやるといっても、犯人が私を知っていたらどうなるの? 脅迫状が内側から入れられたことを忘れないで。
三十分の押し問答の後、私は折れた。
「大丈夫か?」
「平気よ。私のことなら心配しないで」
「無理な話だ」
「そう怒らないの。怒ると可愛いけどね」
「冗談言ってる場合じゃないぞ」
「ごめんなさい。だって……本当に大丈夫よ。危険な事なんてないじゃないの」
「夜の公園なんて、大体危険さ」
私は的外れな苦情を言った。
「私なんか誘拐したって一銭も取れやしないもの。大丈夫よ」
「しかし……可愛い娘を見て、妙な気を起こすかも……」
「負けやしないわよ、そうなったら」
と、にっこり笑って、「もし、負けたら……」
「え?」
「もし、負けちゃったら……そうね、|愛《いと》しのあなたに|操《みさお》を立てて、|入水《じゆすい》自殺でもするわ。池もあるしね」
「変なこと言うな!」
街燈もまばらな暗い道が続いて、やがて目指す公園が闇の中にほの白い照明に照らされて、浮き出して見えた。
「あそこね。その袋、私が持つわ」
私は金の入った紙袋を彼女に渡した。
「さ、もうここから一人で行くわ」
「もう少し近くまで」
「だめよ、これ以上は。大丈夫ってば、安心して待っててちょうだい。今、零時四十五分ね」
「ああ」
「じゃ、行ってくるわね」
まるで学校に行ってきます、とでもいうように、気楽に言って、すたすた歩き出す。彼女の後姿がどんどん小さくなって、公園の中へ消えるのを、じっと見守りながら、私はこんな仕事を押しつけた警視総監を呪い続けた。これだけ呪えば明日まで生きちゃいまい、と思えるほどだった。
実際にはむろん今でも至って健在だが、後で聞いた所によれば、この日、総監は風邪をひいたそうである!
彼女の姿が見えなくなると、公園まで行ってみようかという衝動にかられた。彼女が何か危険に遭遇したら、ここからかけつけて間に合うだろうか? 彼女が悲鳴を上げても、ここまで聞こえるだろうか? 人間の声の届く距離は何メートル、とかいうコマーシャルがあったっけ。それに茂みにひそんだ犯人に、いきなり背後から口をふさがれたら、悲鳴だってあげる暇はないかもしれない。
こうしている間にも、太い指が彼女の喉をしめあげているかもしれない。数人の男たちが彼女を縛り上げて運んでいく所かもしれない。
様々な想像が眼前にちらついて、私はいても立ってもいられなくなった。
よし! 私は断固、公園へ向って歩き出した。一方、私の中には冷静沈着な警察官がいて、眉をひそめていた。いかんな、そんな事をしては、とその男は言う。犯人がお前を見て刑事と気づいたらどうなる? 誘拐された娘の命が危くなるのだぞ。お前は優秀な警察官のはずだ。私情で動いてはならんことはよく分っているだろう。
お説教はごめんだよ! もう一方の私がやり返す。俺は優秀な警察官なんかでいたくはないんだ。あの夕子って娘に万一何かあったら、俺は一生自分を許せないだろう。俺にとってあの娘は……大事な人間なんだ。何より大事な女性なんだ。職を棒に振ったところで、それが何だっていうんだ!
一人二役、白熱の名演技のうちに公園の入口を入る。細い道を少し回って、すぐに小さな池に出た。池をめぐって遊歩道があり、例のベンチは池をはさんで向う側である。しかし、そう呑気にあたりを眺めている暇はなかった。実際のところ、池が見える所まで出て来て、私は一瞬、はっと立ちすくんだのである。
夕子が男に追われて走って来る! 心配した通りだった! 二つの人影は照明を背後から受けてシルエットとなり、私の方へ走って来た。彼女を助けるんだ! 身構えてから、私は錯覚していた事に気がついた。彼女が追われているのではない。彼女の方が追っかけているのだ。
私は走って来る男の前へ、両手を広げて飛び出した。
「待て!」
男は大柄で、がっしりした体つきだった。私のことなど目に入らないように、真っすぐ突っ走って来て私を突き飛ばした。まるで牛か馬にでもぶつかった様だった。私は横へはじき飛ばされて、あっと思う間もなく池の中へと落ち込んでいた。
「大丈夫?」
やっと池から這い上がると、夕子が心配そうに見下ろした。
「大丈夫だよ」
と無理をして、「奴は?」
「逃げたわ」
「顔を見たか?」
「見えなかったわ、逆光で」
「僕もだ。でも一体何で|君が《ヽヽ》追っかけてたんだ?」
「私にもよく分らないのよ」
と首をひねって、「紙袋をくずかごへ入れて、歩き出したら、後ろの茂みで、ガサゴソ音がしたの。びっくりしてキャッって言ったら、いきなりあの男が飛び出して来て、逃げ出しちゃったのよ。で、何となく私も駆け出したわけ」
「気の弱い犯人だな」
「本当に犯人かしら?」
「というと?」
「ただの浮浪者か何かかも」
「そうだな。どうもそう考えた方がよさそうだ……ハクション!」
寒い。当り前だ。全身ずぶ濡れなのだから。
「ね、戻りましょう。こんな騒ぎじゃ、犯人だって出て来ないわよ」
「そうだな」
それでも念のため、一時二十分まで待ってから、私たちは、紙袋を持って帰路についた。
「風邪ひいたんじゃない?」
「なに、これくらいで……」
「でも、どうして公園に来たの?」
「それは——」
君が心配で、と言いかけて、
「何となくね」
彼女は微笑んだ。
「風邪がよくなるおまじないをしてあげる」
彼女は立ち止まると、私の肩に両腕をかけて、接吻した。
「君の服が濡れるよ」
「いいわよ」
私は小柄な、しなやかな体を抱いた。冷たく濡れた服を通して、若々しいぬくもりが伝わってくるような気がした。
「——ね」
唇が離れると、彼女は言った。
「何だい?」
「今度飛び込むときは、保険に入っておいてね」
私たちは夢にも思わなかったのだ。この時、想像もしなかった悲劇が起っていようとは……。
「宇野警部!」
ただならぬ声だ。濡れた服も、水が入ってゴボゴボ音を立てている靴も頭から消し飛んだ。
「どうした?」
新田邸の門の前で待っていた刑事は、私の姿を認めて駆け寄って来た。
「大変です!」
すっかりうろたえている。
「だから何だ!」
「あ、あの、誘拐された娘さんから電話が……」
「雅子さんから?」
夕子がはっとした。
「犯人の目を盗んでかけてるんだ、と。山小屋にいるから助けて……そう言って切れちまったんです」
「山小屋?」
私は言った。「何の事だろう?」
「ところが」
刑事が続けて、「それを聞いて新田さんが一人で飛び出して行っちまったんですよ」
「一人で? なぜ止めなかった?」
「止めるも何も、あっと言う間に駆け出して……。慌てて後を追ったんですが、裏口から出て林の中を抜けて行ったもので、この暗がりですぐ見失ってしまって……」
「貴様たちそれでも刑事か!」
私は怒鳴りつけた。
「はあ……」
「いつの事だ?」
「十分ほど前で」
「十分!」
「今、他の連中が手分けして捜してますが」
「新田さんも新田さんだ。一人で飛び出して行っちまうなんて。山小屋っていうのがどこか分らんのか?」
「それが岡本さんもご存知なくて」
「飛び出して行ったからには、新田さんは知ってるんだ。今ごろ犯人と対決してるかもしれん」
「待って!」
夕子が鋭く言った。「山小屋ね。雅子さんに聞いた事があるわ」
「知ってるのか!」
「はっきりとは……」
と額にこぶしを当てて、
「確か少し先の家が……」
急にはっとして、「|西尾《ヽヽ》っていったわね、新田さんの友だち」
「西尾?」
私も思い当った。「そうだ! 西尾の家は山小屋風の造りだぞ!」
「その家のことだわ、きっと。雅子さんが山小屋って呼んでたのを憶えてるわ」
「急げ!」
私と彼女と刑事の三人は夜道を全力疾走した。たちまち遠くに|山小屋《ヽヽヽ》風の西尾の家が見えて来る。
あと五十メートルばかりという時、銃声が闇を裂いて響き渡った。
「しまった!」
続いて一発——また一発。
最後の一発の轟音が響き終えるより早く、私たちは玄関へ達していた。だがドアは開かない。
「ぶち破るんだ!」
私と刑事が力任せにドアへ体当りする。肩の骨が砕けるかと思う勢いでぶち当っても、ドアは|びく《ヽヽ》ともしない。