「窓だ!」
私たちは裏手へ回って、光の溢れ出ているテラスへ出た。
テラスのガラス戸は開いたままになっていた。居間の明るさに目がくらんで、一瞬私たちは立ちすくんだ。しかし、目が慣れても、しばし、私たちは動くことができなかった。
信じ難い光景だった。——テラスへ出るガラス戸の近くに、西尾が倒れていた。腹部一面に血が広がって、虚ろな目が天井をにらんでいる。一目で死んでいるのが分った。傍に拳銃——あの南部式拳銃が落ちている。部屋の中央に、新田がうずくまっていた。左腕に傷を負っていて、肩が、あらい呼吸で上下しているが、その眼差しは、西尾のそれよりもさらに生気のないものだった。私たちにも気づいていない。
当然だったろう。新田の腕の中に、写真で見憶えのある少女が抱かれていた。長い髪を床へ流し、両腕を垂らして、青白い顔は瞼を閉じている。明るい色のブラウスの胸に血が無残に広がって——娘は死んでいたのだ……。
「——何てこった」
私は呟いた。
「神様……」
夕子が言った。——無神論者の彼女が、である。
「終戦直後の、あの混乱した時代でした。私は酒に酔って路上で突き当った男と喧嘩になり、相手を殺してしまったのです。それを見ていたのが西尾でした。私と同じ部隊にいた男ですが、ずる賢い奴で、みんなに嫌われていました。西尾は私に逃げろ、と言いました。事件のことは自分が巧くもみ消してやる、俺は警察の偉い奴と近づきがあるんだ。その言葉を、茫然としていた私はすっかり信じ込んでしまったのです。西尾は、ただし、万一俺が疑われるようなことになったら、俺も女房持ちだし、本当のことを言わない訳にいかなくなる。だからこの殺しをやったのは自分だと一筆書いておいてくれ、と言うのです。愚かな事に、私は言われるままに証文を書き、|拇印《ぼいん》まで押しました。西尾は、ぎりぎりの事態になるまでこの証文は使わない、と約束して、私たちは別れました。その後事件の方はどうなったのか、おそらく、ありふれた喧嘩としてろくに捜査もされなかったのでしょう。私もいつしかそんな事は忘れ去っていました。——それから二十年もたって、ある日突然西尾が私を会社へ訪れて来たのです。彼は就職口を世話してくれと言いながら、あの証文を取り出して見せました。恐喝だ、とすぐ悟りました。しかし、いずれにせよあの殺人は時効になっているし、私は法的には何ら責任を負わされる事はないのです。私は黙って彼を帰らせてしまえばよかったのです。……しかしその当時、私の失脚を狙う幹部との間に厳しい対立があり、また私は政界への進出を夢見ていました。軍隊時代、そんな話をした事があったので、西尾は知っていたのです。政治家になろうとする者にとって、殺人の経歴はやはり致命的です。——私は金を払いました。これ切りだ、と念を押して。それ以来十年間、私は払い続けて来たのです」
新田は言葉を切った。西尾の家の応接間である。部屋は私が西尾と話をした時そのままだが、失われたものが二つある。主人の西尾と、壁の南部式拳銃である。
新田は左腕に包帯を巻き、まだ青ざめた顔色をしていた。隣の居間には、まだ娘の雅子と西尾の、二つの遺体があるのだ。
「この家も」
新田は部屋を見回して、「私が買ったのです」
「毎月の支払いは、|本に挾んで《ヽヽヽヽヽ》いたのですね」
「そうです。彼は証拠が残らないように、と小切手などを使わせなかったのです。月に三度、私は西尾に本の名を連絡し、彼は私の留守中に本を取りに来ます。私は本のカバーにもう一枚カバーを重ねて、その間に金を挾んでおくのです」
私は肯いた。応接間には、私と新田の他には、夕子が少し離れて坐っているだけだった。彼女の表情にも苦悩の|翳《かげ》が色濃く|滲《にじ》んでいる。
「誘拐犯が西尾だという事は、初めから分っていらっしゃったんですか?」
新田は力なく肯いた。
「打明けておいて下されば」
私は嘆息した。
「——ま、今さら言っても仕方ない事ですが」
「申し訳ありません。まさか西尾が雅子を自宅に置いているとは思ってもいませんでしたから、もしお話しして、雅子に万一の事があっては、と……」
たとえ何が起ころうと、これほどひどくはなかったろう、と思った。
「最近、やや事業の方が不況のあおりで思わしくなかったのです。それで西尾へ一度支払いを三日ほどのばしてくれるよう言ったのですが……。西尾は私が何か企んでいるとでも思ったんでしょうか、ここで大金を取って姿をくらますつもりだったようです」
「しかし、また金に困れば、ゆすりに来たでしょう」
「おそらくは……。でも金は惜しくなかった」
新田は顔を両手で覆った。「二千万が何でしょう。雅子の命に比べれば。それが……それが……私自身のせいでこんな事になるとは……」
私は黙っていた。メモを取る鉛筆も動かなかった。
「『助けて!』という雅子の言葉を聞いたとたん、もう何が何だか分らなくなってしまったのです。助けに行かなくては、とそれだけを考えていました。いつの間にか裏手の林の中の道を抜けて、あのテラスへ来ました。西尾が雅子に銃を突きつけています。電話した事を知ったのでしょう、表情に殺意がはっきりと見えていました。私は中へ飛び込みました。西尾は私に向けて一発撃ちましたが、左腕をかすめただけでした。激しく銃を奪い合い、その時、一度銃が暴発しました。そしてもみ合いながら、銃口を西尾の腹へ向けて引金を引いたのです。西尾は崩れるように倒れました。『すんだよ!』と私は言いました。
『助かったんだよ、雅子』——雅子は倒れていました。胸に血が……そしてどんどん広がって……。暴発した一発が当ったのです。信じられない! 今でも信じられない!」
血を吐くような言葉だった。
私と夕子は表へ出た。救急車が停っていて、ちょうど遺体が家から運び出される所だった。
担架が白い布に覆われて出て来る。夕子が、初めの担架に歩み寄って布をめくった。新田雅子の十四歳の死顔は、静かで、寂しげだった。
〈とてもさみしい〉
あの日記の一節が胸にこだました。永井夕子は、布を戻して離れた。
「あまり自分を責めるなよ」
私は言った。
「あなたなら、責めずにいられて?」
「うむ。……分るよ。だがこの責任は僕にある。僕の手落ちだよ」
彼女が何か言いかけた時、もう一つの担架が出て来た。それが私たちの前を通りすぎようとした時だった。一人の娘が私たちの横をすり抜けて、担架に走り寄った。そして布をさっとめくると、叫んだ。
「父さん! ああ! 父さん——」
そして娘は崩れるように倒れた。私たちは慌てて駆け寄った。ぐったりと気を失っている娘は新田家の女中、井上町子だった。
「——父さん、と言ったわね」
「ああ。西尾の娘だったのか。彼女の香水がこの家で匂ったのも当然だ……。誘拐の共犯だったんだろうか?」
救急車の係員が、町子を西尾の家の中へ運んで行った。
「君はどう思う?」
私は振り返ったが、夕子の姿はなかった。遠くに、新田邸の方へ走って行く彼女の後姿がちらっと見えた。——どうしたというんだ。私は頭を振った。
新田邸には新聞記者とカメラマンが山とつめかけていた。新田は深い心痛を極力押えて、記者たちに会った。
「後にしては?」
私は気遣って言った。
「いえ」
新田は首を振って、「はっきり申し上げておいた方が。過去も、すべて……」
新田は過去の殺人から今回の悲劇に至るまでの話を、淡々と、細大洩らさず語り尽くした。聞き入る記者たちも、神妙な様子であった。
話を終ると、新田はさすがに疲れた様子で自室へ引き取って行った。続いて私が集中攻撃を受ける番だった。私は警察側に手落ちのあった事を認めぬ訳には行かなかった。新田については、過去の殺人は再調査してみることになろうが、時効になっていることでもあり、責任を問われることはあるまい。今回の件については、正当防衛の範囲か、過剰防衛とみなされるか、私では判断できない、と話しておいた。
誘拐事件の詳細な経過などの説明に手間どり、終ったのは明け方であった。
警察の失敗にはもう一つおまけがついた。あの失神していた女中、井上町子——実は西尾の娘が、西尾の家から姿をくらましてしまったのである。やはり誘拐の共犯だったのだろう。
翌日の新聞、テレビニュースなどの報道は、そろって新田に同情的だった。当然のことだろう。そしてまた当然のことながら、警察には手厳しかった。
身の振り方でも考えとかなきゃな。私は苦々しい思いで、新田邸を後にした。しかし何よりもあの少女の寂しい死顔が、胸に焼きついて離れなかった。
6
すでに日が落ちて、もつれ合う木々が黒い一つの影となって溶け込んでいる。——その中を、足音が抜けて行った。枝を騒がす風の音に混じって、ザッザッと規則正しく、落ちつもった枝や葉を踏む音が聞こえる。|その《ヽヽ》人影は、林を抜けて、山小屋風の家の庭へ進み出た。その家は、すっかり燈も消えて、人がいるとも見えなかったが、人影はそろそろと用心深い足取りで、テラスヘ歩いて来た。テラスから中へ入るガラス戸が、開け放たれている。ちょっとためらいを見せてから、人影は中へ入った。
室内はひっそりと闇の中に眠っている。人影は闇の中でどうしていいのか迷っている風だった。——急に明りがついた。
「来ましたね」
スイッチの所に、永井夕子が立っていた。
「この呼出しの手紙は……」
「私が出しました、新田さん」
「なぜかね?」
新田は眉をひそめた。「ずいぶん謎めいた手紙だが……。〈何もかも知っている〉というのはどういう意味かな?」
「文字通りです。今度の事件の真相を、私がすべて知っている、という事です。初めにご忠告しておきましょう。紙を完全に燃やそうと思ったら、きつくねじらない事です。ねじってあると、芯の部分が、しばしば燃え残ります」
「何の話か分らないね」
「あなたが、私と宇野警部の前で焼却炉にくべていた書類……。あの一番下に、丸めた新聞紙がありました。もちろん大部分は燃えてしまいましたが、ごく一部は残っていたのです。でもそれで充分でした。文字を切り抜いた跡がはっきり認められるからです」
新田は無表情のまま、黙っていた。夕子が、大型の封筒を取り出した。
「ゆうべ、あなたが記者会見をしている間に、私は焼却炉をかき回してこれを見つけました。そのまま警察に届けてもよかったのですが、雅子さんが、あなたを愛していたのを考えて、あなたに自首する機会を与えようと思ったのです」
新田が上着のポケットに手を入れた。その動作の性急さが、夕子に危険を直感させた。彼女がソファから、ばね仕掛の人形のように、飛び出して床に伏せた。同時に、轟音を響かせて、新田の手元から火が走ると、ソファの背に穴があき、中の詰め物が飛び散った。
「銃を捨てろ!」
鋭い声が飛ぶ。
新田ははっと室内を見回した。四人の刑事が拳銃を構えて自分を取り囲んでいるのを見ると、大きく息をついて、手にしていた南部式拳銃を捨てた。そして夕子をじっと見つめながら、言った。
「君の勝ちだ」
「私は盲目も同じでした」
夕子は言った。「雅子さんを救えなかったことで、私は一生自分を責め続けるでしょう。それはともかく、今はまず私が真相に気づくに至った筋道をご説明します」
新田邸の居間には、私と刑事たち、それに梅宮警視総監が同席していた。西尾の家での新田の逮捕からすでに五時間余、やがて空も白みかけようという時間だったが、居間には重苦しいほどの緊張が|漲《みなぎ》っている。その張りつめた絃をかき鳴らすように、永井夕子の声が続く——
「私は前に、この部屋で脅迫状が郵便受に外から入れられたはずのないことを説明しました。そして、脅迫状は内側から入れられた、と結論したのです。——それが大きな誤りでした。当然、結論はもう一つあるべきだったのです。それは、|脅迫状は初めから郵便受には入れられていなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という可能性です。
さて、新田の言葉によると、脅迫状は封筒にも入れず、折りたたみもせずに郵便受に入っていたとの事です。けれどそんな事がありうるでしょうか? たとえ内部の人間にせよ、郵便受まで、裸のままの脅迫状を持って歩くような危険を誰が|冒《おか》すでしょうか? 新聞の切り抜きを貼りつけた手紙など目立つに決まっているのに、です。それに脅迫状には新田と嘉子さん以外の指紋はありませんでした。とすると、その手紙を郵便受に入れた人間は、手袋でもはめていたのでしょうか? ——要するに脅迫状が郵便受に入れられていたとは、とても考えられない訳です。では事実はどうだったか?
状況はこうでした。新田は脅迫状を見ていた。嘉子さんがそれを見た。実は嘉子さんは新田がそれを|受け取った《ヽヽヽヽヽ》所を見たわけではないのです。もし私たちが折りたたんでもいない手紙を読んでいる人を見かけたらどう解釈するでしょう? ——そうです。その人は自分で書いた手紙を読み直しているのだ、と思うのではありませんか? この場合もそうだったのです。|新田は自分で作った脅迫状を見直して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いたのです。ところが、手紙を見た嘉子さんは、それを新田が|受け取った《ヽヽヽヽヽ》のだと思い込んでしまったのです」
「すると」
警視総監が口を挾んだ。「新田は自分の娘を誘拐するつもりだったのか」
夕子はテーブルに置いてあった証拠品の脅迫状を取り上げて、私たちの方へ示した。
「見て下さい。この手紙には|名前が一つも出て来ません《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。『娘は預かった』とあるだけで、雅子さんの名はないのです」
「しかし——」
総監が言いかけた。
「この事件には、もう一人、|娘《ヽ》を持っている人間が関係していました」
「西尾だな」
私が言った。
「そうです。新田はこの十年の間、西尾にゆすられ続けて来ました。それは新田自身の説明の通りです。最近の不況で支払いが思うに任せなくなった新田は、この辺で何とか片をつけたいと思っていたに違いありません。ところがそんな新田の気持を薄々感づいていた西尾は、新田の動きを見張らせようと、新田の全く知らない、娘の町子(と自称していた娘)をお手伝いとして送り込みました。新田は何かのきっかけでその事を知り、町子を誘拐して、西尾から証文を取り戻そうと考えついたのです。町子を誘拐するのはたやすい話です。そこでまず脅迫状を作り、あとは町子が休暇を終えて帰って来るのを待って誘拐し、手紙を西尾へ送る計画でした。
ここで、もう一度脅迫状を見て下さい。〈例のものを用意しておけ〉とあります。ところが電話をかけて来た犯人は金を要求して来ました。それなら、なぜ初めから〈金〉としなかったのでしょう。新聞に、〈金〉という字が見当らないはずはありません。それをあえて〈例のもの〉としたのはなぜか、不思議でしたが、真相が分ってみれば当然の事です。新田がほしかったのは、あの証文なのですから。
さて、考え抜いた新田の計画は、嘉子さんに脅迫状を見られてしまった事でご破算になってしまいました。それどころか、あの時、新田は何と言って嘉子さんに言い抜けたらよいか、焦りに焦ったことでしょう。冗談にこんな手紙を作る訳もありません。ところが、思いがけない事に、嘉子さんは雅子さんが誘拐されたものと勘違いしてしまいました。この瞬間、新田の頭に、全く別な計画がひらめいたのです。大胆で、危険な、けれど天才的な着想でした。——警部さん、新田の自供の内容を話して下さい」
私は一つ咳払いをして、話し出した。
「新田は学校へ行ってみる、と言い残して家を出ました。そして帰宅する途中の雅子さんと出会い、彼女に自分の計画を打ち明けたのです」
「打ち明けたって?」
梅宮総監が言った。
「新田はかなり事実を話したに違いないと思います。自分がずっと西尾にゆすられ続けて来たことを。そして雅子さんの誘拐事件を起こしてその容疑が西尾にかかるようにしむけ、それを種にあの証文を取り返す計画だ、と説明し、力を貸してほしいと頼んだのです。それを聞いた雅子さんは、喜んだに違いありません。いつも自分に冷淡だった父親が、過去のあやまちまで打ち明けて、自分に力を貸してくれと頼んでいる。それが何より嬉しかったでしょう。むろん若い|娘《こ》です。スリルヘの期待もあったに違いありません。新田は雅子さんを別宅へ行かせました。実業家には、時折姿を隠したり、内密の会合を開くための別宅がつきものです。新田も府中の方に持っていて、その場所を雅子さんに教えて、一人で行かせたのです。それから新田は自転車を道端の溝へ落とし、誘拐劇をでっち上げました」
夕子が後を続けた。
「さて、誘拐というからには、身代金の要求がなければなりません」
「そうだ」
総監が言った。「あの犯人からの電話はどうなんだね? あれは一体誰がかけたんだ?」
「あれは新田の指示で雅子さんのしたことです」
「しかし、男の声だったが……」
「あれは|新田自身の声《ヽヽヽヽヽヽ》だったのです」
当惑が室内に広がった。夕子は続けた。
「あの電話のやりとりを聞いていて、私はどこか不自然なものを感じました。受け答えの|内容《ヽヽ》に食い違いはありません。けれど、その|間《ヽ》が——タイミングがどこか変だったのです。なぜだろう。私は気になってしかたありませんでした。そして気が付きました。|あれはテープに吹き込んだ声《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのだ、と。——新田はテープレコーダーに犯人のセリフを自分で録音し、それを雅子さんに渡して、時間になったら電話をかけて、そのテープを聞かせるように言っておいたのです。自分で録音したのですから、受け答えもできます。ただし、|やりとりのタイミング《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がずれることだけは避けられなかったのです」
「しかし」
刑事の一人が言った。「新田はいつそれを雅子さんに渡したんでしょう?」
「新田は部屋に引きこもると言っては姿を見せない時間がかなりありました。裏から出れば誰にも見つからなかったでしょう。この近くで、雅子さんと落ち合って、テープレコーダーを渡す事など簡単です」
「さて、新田の計画は、これから一番難しい段階に入ります。新田はまず、西尾の家が山小屋風であることを知っている、私と宇野警部が邪魔でした。そこで|私《ヽ》を金の運び役に指定し、宇野警部が護衛について行くように仕向けました。そして雅子さんには予め、決まった時間に助けを求める電話をかけるように言っておいたのです。
「雅子さんは別宅を出て、このすぐ近くまで来ていたと思われます。公衆電話から救いを求める電話をかけ、その足で西尾の家へ行きます。西尾は雅子さんを見て驚いたでしょうが、雅子さんが、犯人の所から逃げて来たとか適当な話をしてごまかしていたのです。西尾は雅子さんをともかく中へ入れます。雅子さんを介抱してやれば、また新田から金をせしめられる、と思ったかもしれません。ともかく居間へ雅子さんを連れて行きます。そこへ、新田が現われたのです」
夕子は、一旦言葉を切って、疲れたように、肩で息をつき、それから続けた。
「おそらく新田は、この計画を思いついた時から、西尾を殺すつもりだったでしょう。凶器となった拳銃は、西尾の家の応接間にあったものではありません。新田自身も、軍隊時代の思い出に同じ銃を持っていて、それを用意して行ったのです。壁にかかっている銃が、使えるかどうか分りませんし、まして実弾を込めてあるはずもないでしょう。西尾を殺した後、新田は壁の銃を外して、庭へでも隠しておいたのです。——それが今日、私を狙った銃なのです」
総監が肯きながら、
「しかし新田も、自分の計画から手痛い仕返しを受けた訳だな。西尾と争っているうちに、娘を射ってしまったのだから」
「そう思いますか?」
夕子は、不思議に寂しげな表情で総監を見つめた。
「計画が狂ったのだ、と。——違います」
彼女は首を振った。「違います。——|すべては計画通りに運んだのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
誰もが無言だった。
「いいですか。雅子さんが、いくら父親思いだったとしても、目の前で|人殺しまで《ヽヽヽヽヽ》するのを許せるでしょうか? 雅子さんを少しでも知っている人間には答は明らかです」
「だが——」
総監が喘ぐように、「すると、君は——新田が自分の娘を——」
「信じ難い事です。信じたくもない事です。けれど……|新田は西尾を射殺し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|雅子さんを射ち《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|そして自分の左腕を射ったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
夕子は一同をゆっくり見回した。
「考えてみて下さい。新田は西尾を殺す決心をした時、それが自分の過去と、西尾にゆすられ続けて来たことを世間に明らかにする結果になると承知していたはずです。それは取りも直さず、政界への野望を断念する事に他なりません。西尾を正当防衛と見せかけて殺し、しかも政治への夢を捨てずに済むような方法があるでしょうか。——一つだけあります。それは|悲劇の主人公になって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|世間の同情を集める事です《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
——長い沈黙が続いた。
「馬鹿な!」総監が立ち上がった。「こんな——こんな話は聞いておられん!」
怒りとも興奮ともつかない感情のせいで、顔が青ざめている。「宇野君! 君がどうしてもと言うから、この小娘の話を聞きに来たんだぞ。こんなでたらめを聞かされるとは思わなかった! 帰るぞ!」
総監はこぶしを固めた手を震わせて出て行った。残った連中の間には、ほっとした空気が流れた。
「いつ君は真相に気づいたんだ?」
私は訊いた。
「町子が西尾の娘だと知った時に。前から、|何か《ヽヽ》がおかしいとは感じてたんだけど、はっきりつかめなかったの。それが、脅迫状の『娘』が町子の事だとしたら、と考えてみると、すべてがぴったり事実に当てはまって……」
「よく分らないんだが……新田は学校帰りの雅子と運よく途中で出会ったが、もし出会わなかったら、どうするつもりだったんだろう?」
「その時は、ただその手紙はいたずらだったという事にしてしまえばいいのよ。むろん計画はご破算だけど、それで彼が疑われる心配は全くないんですもの」
しばし、沈黙があった。
「それにしても切り抜いた新聞紙が燃え残ったのは幸運でしたね」
原田刑事が言った。「正に動かぬ証拠ですからなあ」
私は夕子と顔を見合わせた。彼女はちょっと微笑んだきり黙っていた。
「原田、お前、焼却炉ってのは内部がどれくらいの熱になるか知ってるか?」
私は言った。「少なくとも紙なんかは跡形もなくなる」
原田はあんぐり口を開けて、
「は?……じゃ、あれは……」
夕子が手にした大封筒を逆さにして振って見せた。チリ一つ落ちなかった。
「だから、あんな危い真似をしたのさ」
「それにしても——」
原田刑事はまだ信じられないという顔で夕子を眺めていたが、やがて、ふうっと息をついて言った。
「いや、全くあなたは素晴らしい人ですね」
朝の道を、車で駅まで送って行く。夕子は、憂いの眼差しで、じっと前方を見つめている。
「そうだ、訊き忘れてた。あの公園にいた男はやはり浮浪者かい?」
「だと思うわ」
「ちぇっ。池に突き落とされた仕返しをしてやろうと思ってたのに」
夕子はほっと息をついた。
「あの家はどうなるかしら」
「さあ……。誰か親戚が継ぐんだろう」
「気の毒だわ、嘉子さん」
「あの人ならずっといられるだろう」
「鈍いのね」
彼女が小馬鹿にするような口調で、「あの人は新田を愛してたのよ」
「なるほど。後妻になろうと思ってたのか」
「夢見ていたでしょうね。それが……。きっとあの人もいなくなってしまうわ」
事実、岡本嘉子は、その後間もなく、新田邸を去ったのである。
「それにしても、君も危い事をしてくれたよ。弾丸が当っていたら、今ごろ巧く行っても半身不随だ」
「何としても新田に罪を|償《つぐな》わせなくちゃ、と思ったのよ。雅子さんのためにもね」
「山勘が当ってよかったな」
「そうね」
彼女が微笑んだ。「もし新田が実際に新聞紙を焼却炉で焼いたのでなかったら、脅しは空振りだったんですものね」
「悪事は大地が覆い隠そうと、いつか現われる……」
「ハムレットね」
「学生時代に演劇部で|演《や》ったんだ」
「ハムレットを?」
「僕は槍持って立ってる兵士だったがね」
——車を駅の近くに停める。
「あまり考えすぎるなよ。君のせいじゃないんだ」
「ええ、分ってるわ。ただね、雅子さんが可哀そうで」
「うん……」
「やっと父親が自分を愛してくれてる、と信じられたのに、その父親が自分に銃を向けるなんて、きっと、こわいよりも悲しかったと思うわ」
「寂しそうな顔だったな……」
夕子は車を降りると、「さよなら」と言って足早に去って行った。
——新田邸へ車を戻しながら、気がついた。また、彼女の住所を訊くのを忘れた。
新田は全面的に自供した。夕子の推理は全く正しかった。梅宮警視総監は、風邪をこじらせて(私の呪いのせいか?)、しばし自宅で静養、となった。
——てんやわんやの十日間が過ぎた昼休み、夕子から電話があって、私は近くの喫茶店へ出かけて行った。明るいオレンジ色のワンピースの彼女は、男まさりの名探偵とはとても見えない。若々しさが匂うような「女の子」だ。
私が事件の処理について話していると、原田刑事がのっそり入って来た。
「宇野さんがここだと聞きまして」
「何か用か?」
「はあ、それが……その……」
そばに立って、やたらもじもじしている。今度はクッキーでなくて何を狙ってるんだろう。
「はっきりしろよ」
私はいらいらして、「何が言いたいんだ?」
「はあ……実は、宇野さんにお詫びしようと思いまして……」
「お詫び? 何の?」
「あ!」
声を上げたのは夕子だった。「あれはあなただったのね! 今、近くで見てて初めて気が付いたわ」
「それなんです。で、お詫びを……」
「おい、何の話なんだ?」
「ほら、例の公園の浮浪者よ」
「何?」
私は大男の原田を見上げた。「あれが……お前だったのか?」
「申し訳も……」
「俺は言いつけておいたぞ。お前は邸へ残れと」
「分っておりますが、宇野さんや、こちらのお嬢さんが心配で、一足先に邸を出まして……」
「で、私に見つかっちゃって」
「いかん、と思って逃げ出したんです。よく考えると、別に逃げなくてもよかったんですが」
「それでついでに俺を池に突き落としたのか」
「いえ、まさか、その——」
「いいじゃないの、別に肺炎になったわけでもないし」
「そんな事じゃない! 問題は俺の命令を聞かなかった事だ。いいか、警官が勝手に動き回る事は——」
彼女が大きく「エヘン」と咳払いした。私は考え込んだ。そうだ。俺も彼女が心配で、のこのこと公園まで行ったんだ。あれだって警官らしからぬことだ。
「まあいい。怒っちゃいないよ。しかし今度からは気を付けろよ」
「ありがとうございます!」
喜んでステップを踏むような足取りで店を出て行く。店が揺れそうな気がして、慌ててコーヒーカップを押えた。
「ところでね、今夜、晩飯をおごりたいんだがね」
「結構ですわ、優しい方。でも一つ条件があるの」
「おごられるのに条件が付くのかい?」
「Tホテルのフルコースのディナーにして」
一瞬、胃のあたり——正確には財布のあるあたりがキュッと痛んだ。しかし、まあ、たまには仕方ないか……。
「いいじゃないの、今日は給料日でしょ」
彼女は得意気に微笑んだ。「名探偵は何だって知ってるんだから!」
[#改ページ]
<a name=3>第三話 凍りついた太陽
<h1 caption=" 凍りついた太陽"></h1>
1
休暇とは、こうでなくてはいけない。
頭上にぎらりと白熱の太陽、けだるく眠りを誘う波の合唱、息を吸う度に胸一杯に満ち溢れる潮の香り、そして傍にビキニの水着と小麦色の肌の美女……。
そううまくいくものか、と思われるだろうが、それは今や現実となったのである。
真夏に一週間の休暇。私が警視庁へ勤めて以来、初めての幸運であった。特に、警部になってからは、真夏に限って大きな|事件《ヤマ》にかかりきりとなって、日曜も返上、という年が続いたので、いざ休みをもらってみると、何をすればいいのやら、途方に暮れる始末。かくして永井夕子の提案のままに、南伊豆の海を眼下に望む〈伊豆シーサイドホテル〉のサンデッキの長椅子に寝そべって、強烈な太陽に余り見ばえのしない四十歳の肉体をさらすこととなったのである。
ホテルの二階から海岸へ向って張り出したサンデッキでは、この昼下り、私と夕子の他に数人の客が日光浴を楽しんでいた。下の砂浜では子供たちが金切り声を上げながら波打ち際を駆け回っている。その向こうはもう限りなく深いエメラルドグリーンの海だ。この海岸は、岩に囲まれた小さな入江で、このホテル専用、といった格好になっているので、混雑することもない。ま、ちょっとした別荘気分を味わえるというわけだ。
「全く」
私は声に出して言った。「休暇ってのはこうでなくちゃ」
「よかったでしょ、ここに来て」
派手な原色のビキニをつけて、すっかりいい色に焼けた夕子が得意そうに私を見る。
この若さそのもののような二十二歳の女子大生と、少々腹の出た四十歳。他の客の目にはどう見えるのだろう、とふと思った。まさか父娘でもあるまいが、兄妹というのも少々無理がありそうだ。富豪と若い愛人? まさか!
しかし誰も私たちを、名探偵と警察官だと見抜くことはできないだろう。ついでに、ちょっと親しい仲だということも……。
「何年ぶりかな、こうして日光浴なんかするのは」
「でも少し泳いだ方がいいわよ。少々お腹の肉が|ゆるんで《ヽヽヽヽ》らっしゃるようだから」
「言いにくいことを、はっきりおっしゃいますな」
私は、腹をポンと手で叩いた。
「私、狸と一緒に来た覚えはありませんけど」
夕子が冷ややかに言った。
その時、背後から「キャーッ」という叫び声が入り乱れながら近づいて来た。
「ほら、ベビーギャングのお出ましよ」
と夕子が微笑む。ひょいと体を起こして振り向いた私の顔へ、
「ダーン」
いたずら小僧の水鉄砲が命中。
「いけませんよ!」
慌てて子供に声をかけたのは竹中綾子——ほっそりと色白の婦人で、三十代半ばというところだろうか、数日前から三人の子供と一緒に、このホテルに泊って、仕事の都合で遅れて来るご主人を待っているのだ。
「すみません、一郎がとんでもないことをして」
「なに、いいんですよ」
私は傍のタオルで顔を拭いながら、「この陽射しで、すぐ乾きます」
「本当にどうも……」
すっかり恐縮している竹中夫人の後ろで、三人のギャングは早くも何か面白いいたずらはないかと、あたりをきょろきょろ見回している。綾子夫人は全く物静かな女性で、なかなか日本的な美人なのだが、派手なところがないので、いつもいるかいないか分らないような存在である。それにしては三人の子供のやんちゃなことと来たら、一体この母親とどこか似た所が一つでもあるんだろうかと思わせるほどだ。
「おじちゃん、ごめんよ」
ちっともすまなそうでない顔で言うのは長男の一郎で九歳。
「お兄ちゃん、馬鹿ね」
口を出したのは、赤いセパレーツの水着を着た妹の由美、八歳である。「そういうときは、『お兄さん、ごめんなさい』って言うのよ。若く見られて喜んで怒るのなんか忘れちゃうから」
「お姉ちゃんだって馬鹿だよ」
後ろから声を上げたのは弟の治郎、六歳。「そういうことは聞こえないとこで言うもんだよ」
この三人を本気で怒れる人間なんているもんか!
「ごめんよ」
一郎が言った。
「二度も謝らなくてもいいよ」
と私。
「後の分だよ」
「後の分?」
ひょいと差し出した手からゴムのカエルが飛び出して私の顔へペタリ!
「ワーイ!」
一斉に建物の中へ逃げ込む三人。母親の方は、もう消えてしまいたいような顔で、
「あの……本当に……どうも……」
と口ごもっている。
「いいんですよ」
私は笑って、「可愛いお子さんじゃないですか」
「主人が来ましたら、よく叱ってもらいますので——」
そこまで言った綾子夫人の言葉が急に跡切れた。それがあまり唐突だったので、私は思わず夫人の顔を見た。そして隣の夕子の方へちらっと目をやる。綾子夫人は色白の顔をさらに死人のように青白くして、目を見開き、激しい驚きにうたれた表情のまま、じっとサンデッキへ出入りするガラス扉の方を見据えている。そこには初めて見る男が立っていた。一見して柄の悪い、やくざ風の中年男である。派手なアロハにサングラス、スポーツ刈の頭。商売柄、私にはその男がまともな仕事をしている奴ではないと分る。