「——で、警部殿のご意見では、死因は何だと思われますか?」
「さあ、解剖の結果を待つ他はないが、致命傷になるような傷はないようだし、恐らく薬か何かだと思うね。しかし、それにしては苦しんだ様子はないが……」
私たちは、死んでいるのを発見した時、初めて色沼という男を近くから見たのだった。死体はサングラスを掛けていなかったが、いつも掛けているわけがよく分った。およそ凄味のない童顔なのである。目も鼻も口も、造作がすべて小さめで、ユーモラスでさえある。サングラスでも掛けていなくては、ゆすり屋稼業などやっていられまい。こんな顔で凄まれたら吹き出してしまう。
それにしても色沼の死顔は静かで、まったく眠っているようにしか見えなかった。苦悶の跡も、驚愕の表情も、そこには全く見当らなかったのである。傷らしいものといえば、裸足のつま先が、何かにつまずいた時のように、あざになったり、爪が割れたりしているだけだった。
「自殺でしょうかなあ」
深草刑事が首をひねった。「何かそれらしい様子がありましたか?」
「いや、気付かなかったね。全然そんな風には見えなかったよ」
「殺されるようなわけでもあるんですかねえ」
「身元をよく洗ってみた方がいいと思うね。僕の見たところ、まともな手合いではないようだよ」
「はっ、そうします」
深草刑事は早速手帳にメモをした。
「それから」
私は続けて、「なくなっているものが二つある」
「は?」
「一つはサングラスだ。いつも掛けて歩いていたのに、この部屋には見当らないようだ。もう一つはスリッパの片方」
「そういえば、右足しかスリッパをはいていませんでしたな」
深草刑事はまたメモを取って、「いや、さすが警部殿ですな。すばらしい目をお持ちで」
「深草さん」
若い刑事が私たちの方へやって来た。
「こんなものが|被害者《ガイシヤ》の足下に落ちてましたよ」
差し出した手に載っているのは、小さなビニール製のバラの飾りである。何かから取れて落ちたのだろう。私には何となく見覚えがあった。しかし、一体どこで見たのだろう……。
「やはり黙っているのはまずいよ」
「いいのよ」
夕子は首を振った。「ともかく死因がはっきりするまで待ちましょうよ」
「しかし——」
「私に考えがあるの。任せておいてよ」
こうなっては仕方ない。私は諦めて表へ目をやった。
私と夕子は、ラウンジで遅い朝食を取っていた。やっと深草刑事から解放されて眠ったのが四時半すぎ。今は十一時になるところだ。
「今日はちょっと泳ぐ気にはなれないわ」
「疲れたのかい?」
「海水浴より殺人事件の方が面白いもの」
「けしからんことを言うね」
ホテルでも事件の話で持ちきりだった。同時に私が警察の人間だということも知られて、何か面白い話を聞こうと、顔見知りでもない客までが話しかけて来たが、私は一切知らん顔を決め込んでいた。
「あら、奥さん、おはようございます」
夕子がにこやかに声をかけた。綾子夫人はひどく疲れた様子で、目の下の|くま《ヽヽ》が、昨夜一睡もしていないことを物語っている。それでも無理に笑顔をつくって私たちの方へやって来た。
「おはようございます」
「お子さん方は?」
「何だかゆうべ遊びすぎたのか、まだ眠ってますわ」
「そりゃ珍しい」
私が笑って言った。
「あの……何かゆうべ……事件があったとか……」
夫人がおずおずと言い出した。
「ええ。客の一人が死んだんですよ」
「こわいわ!」
夕子が眉をひそめて震えて見せた。このカマトトめ!
「犯人はつかまりまして?」
「いや、まだのようですよ」
「あの……進んでいるんでしょうか……捜査は?」
「まあやってはいるようですがね。私も別に関係している訳ではありませんので」
「ええ……そうですわね……」
綾子夫人は呟くように言うと、しばらく考え込んでいた。それから顔を上げて、
「あの……」
と何か言いかけた。
「ママ!」
ラウンジ中に響き渡る声を上げて、ベビーギャング三人組が突撃して来た。
「あらあら、あなたたち、いつ起きたの?」
「今だよ。ママいないんだもん」
一郎が不服顔で言った。
「ごめんなさい、じゃ朝ご飯ね」
「あのねえ、私が治郎にお洋服着せたのよ」
と由美が口を出す。
「あら、そう。偉かったわね。じゃ行きましょう」
綾子夫人が三人の子供を連れて行くのを見送りながら、夕子が言った。
「何か言おうとしたわね、奥さん」
「惜しかったな」
「それにしても変だわ……」
「何が?」
「何でもないの。ちょっとね」
夕子は曖昧に言って、アメリカンコーヒーをすすった。ウェイトレスがやって来て、
「あの、宇野様ですか?」
「ああ」
「深草様からお電話が……」
「分った」
私は席を立って、カウンターの電話へ出た。二、三分話してから戻ると、
「どうだった?」
と夕子が顔を上げる。
「どうもこうも——」
私は椅子にどしんと腰を下ろして、「こんなことってあるか!」
「何なのよ?」
「死囚が分ったそうなんだがね」
「それで?」
「何だと思う? 死因はね、|寒さ《ヽヽ》のせいだ」
「何ですって?」
「この真夏にだよ、奴は|凍死《ヽヽ》したんだ! こごえ死んだのさ!」
この夏のさなか、凍死するとしたら、そんな場所はただ一つである。
私は深草刑事に率いられた鑑識班の一隊とともに、ホテル地下の冷凍庫へと向かった。警視総監の|姪《めい》だ、と自称する夕子も一緒である。同行したホテルの支配人は何となくコウモリを思わせる小男で、三日も冷凍庫に入っていたような青白い顔に、サウナにでも入っていたような玉の汗を浮かべて、みちみち、必死に弁解に努めていた。
「いえ、管理にはもう万全を期しておりまして、決して人間が中へ閉じ込められるようなことは……」
「黙って案内しろ!」
深草刑事が怒鳴りつけた。
地下二階。エレベーターを出ると、コンクリートむき出しの通路である。大小のパイプが天井を|這《は》っている通路を奥へ奥へと辿るとさらに下へ階段があり、その降り切った所に、箱形の監視室があった。中には冷凍庫内の温度を制御する様々なツマミやメーターの並んだパネルがあって、その前の椅子に作業服姿の老人がうつらうつら居眠りをしている。
「これが万全の管理かね?」
深草刑事が冷ややかに言う。
支配人に叩き起こされた老人は、眠い目をこすりながら、質問に答えた。——ゆうべ? 誰も見なかった。冷凍庫の扉? 鍵はあんけどよ、いちいち面倒だで、かけちゃいねえよ。支配人さんも構わんとおっしゃったで。え? 何です? 誰が中に入れるかって? 誰だって入れまさ。だけど好きこのんで、あんな寒いとこへ誰が入るかね? 鍵はほれ、そこの入口のわきにあるで。ここに? そりゃ一日中誰かしらいなきゃなんねえって決まりにはなってるけど……。
「ゆうべはどうだった?」
深草刑事が訊いた。「じいさん、ここにずっといたのか?」
「冗談言っちゃいけねえや。じゃ、一体いつ寝りゃいいんだね、あっしは?」
要するに交替がいないので、夜はここは誰もいなくなり、従って誰でも冷凍庫へ出入りできるし、鍵もこの監視室からいつでも持ち出せる、というのである。深草刑事は支配人をジロリとにらんだ。
小柄な支配人はますます小さくなって、本当に消えちまうんじゃないかと心配になるくらいだった。
「業務上過失の責任は逃れられんな」
深草刑事が聞こえよがしに言うと、支配人は卒倒せんばかりのショックを受けたらしく、
「あ、あの……では……ケ、ケイムショに入らなくてはならないんでしょうか?」
「ああ、過失致死となれば当然だ」
支配人はもう何枚目かのハンカチで、額を拭った。どうもあの汗では、ダブルベッド用のシーツでも持って来なきゃ間に合わないんじゃないかな。
「まだそう決まったわけじゃないんだから」
と夕子が慰めると、
「いえ……もうだめです……」
支配人は絶望的な声を出した。「私はツイてない男なんです。……農家の五男に生れて、厄介者扱いされるし、中学校では一点違いでライバルに首席を取られるし、高校の時は、好きな女の子の目の前でプールへ飛び込んで|溺《おぼ》れかけるし……」
「何をウジウジ言っとるんだ!」
と深草刑事。「さあ、中へ入るんだ」
支配人は呟くように、
「私も中で冷凍してもらいたいです」
「さて、じいさん、我々は中へ入るよ」
「へえ、物好きなこって」
じいさんが言った。「零下三十度ですぜ。そんな|なり《ヽヽ》で大丈夫ですかい?」
「しかしこれ以上着る物がないよ」
「まあちょっとの間だ……」
ともかく入ってみよう、ということになって、私たちは夏の上衣だけで、冷凍庫へ入ることになった。
冷凍庫の扉は、普通のドアを横へ二つつなげたくらいの大きさがあり、自動車のハンドルみたいな丸い|把手《とつて》がついている。刑事の一人がそれを軽く引っ張ると、厚さ三十センチの扉がゆるゆると開いて来た。
中はちょっとした倉庫ほどの広さがある。想像と違って、白い寒気が渦巻いてはいなかった。ただ無数のパイプが天井や壁を走っているだけで、ブーンというかすかな音以外、何も聞こえない。私たちはぞろぞろと中へ入った。
零下三十度の中へ入ったことがおありだろうか。初めのうちは大したことはない。なんだ、こんなものか、という程度である。外の寒さと違って風がないので、それほど寒くは感じないのである。しかし、十五秒くらいたってから、寒さが急に身にしみ込んで来る。本当に、全身が一時にスーッと冷えて来るのだ。服を着ている部分も出ている部分も関係なく、表皮から内部へ向かって寒さが急激に浸透して来る。
この棚は生肉で、あちらは調理済のもので……と支配人が整然と並んだ棚の説明をしている間に、私たちはみんな真っ青になっていた。
「ね、あれ!」
夕子が鋭い声をあげた。庫内の片隅、入口の横手の奥に、小型の空の手押し台車が置いてある。その側に落ちているのは、色沼のスリッパの一方とサングラスである。やはりここが現場なのだ。
寒さに震えながら、鑑識班が仕事にかかる。
「け、け、警部殿……い、いかがですか?」
深草刑事が歯をガチガチいわせている。
「こ、ここに閉じこめられたんだ……い、色沼は……」
私も同様に返事をする。色沼のつま先の傷は、閉じた扉を必死に蹴飛ばした時にできたのだろう。
「あ、あ、あの男ですが……や、やはり……|前科《マエ》のある……や、奴でした。……ゆ、ゆ、ゆすりの常習だったよ、ようで……」
「な、なるほど」
「あの台車は?」
と夕子が言った。
「ここの肉などを運ぶんです」
支配人が答える。
「ねえ」
夕子が私の方へ向いて、「犯人はたぶん被害者をあれに乗せて部屋まで運んだんじゃない? その時、スリッパとサングラスが落ちたのよ」
「さ、早速指紋を採らせましょう……」
仕事を続ける深草刑事たちを残して、私と夕子は早々に零下三十度から逃げ出した。
「——さて、と」
ラウンジで熱いコーヒーをすすってやっと生き返ると、夕子が言った。
「何とも妙な事件ね」
「どういうところが?」
「殺し方は巧妙だと思うの。被害者が中へ入るように仕向けておいて扉を閉め、鍵をかける。後は何時間か待つだけで、殺人者は手を汚す必要がないわけですもの。分らないのはその先。——だってそうでしょう? |どうして死体をわざわざ台車に載せて部屋まで運んで行った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のかしら?」
「なるほど」
「ね? どうして閉じ込めたまま放っておかなかったのかしら? 部屋で死体が見つかっても、凍死と分れば、冷凍庫が調べられるぐらい、誰だって見当がつくでしょう。それに犯行現場が冷凍庫だって知られたくなかったのなら、なぜサングラスとスリッパを残しておいたのかしら?」
「見落としたんだろう」
「あんなに目につく所に落ちてたのよ」
「うむ……」
私は唸った。「分らんね」
「ともかく妙なことだらけよ、この事件は」
5
どんな一日だろうと、夜は必ず来るものと決まっている。
深草刑事とその一行が、くしゃみを連発しながら帰って行ったのは、もう夕方だった。殺人事件の話で大騒ぎの夕食の席を早々に離れて、私たちは部屋へ戻った。
「やれやれ、やっと逃げられた」
「仕方ないわよ。みんな、殺人事件なんてめったにお目にかかれないんですもの」
「ちっとも楽しいもんだとは思わないがね」
「これからどうする?」
「さてね……。バーへ行っても事件の話を聞かせてくれとせっつかれそうだしな」
「何なら、おとといの晩の続きでも?」
私はまじまじと夕子を見つめて、
「本気かい?」
「ええ。……気が進まない?」
「進むもいいとこだよ!」
「じゃあ……まずは……」
私は夕子を抱いて接吻した。
「……ちょっと時間が早いかしらね」
夕子が微笑みながら言った。
「いいや、ちっとも」
私は慌てて言った。
「いい時間だよ」
私は夕子を抱き上げると、今度はかなりしっかりした足取りで(夕食を食べたばかりだからか)、ベッドへ運んだ。唇や首筋にいくつか接吻を置いてから、彼女の背中へ手を入れて、ワンピースのファスナーを降ろしにかかる……。
〈運命はかくの如く扉を叩く〉
その|ノック《ヽヽヽ》は運命よりも非情に響き渡った。
「お客様のようよ」
夕子が|囁《ささや》いた。
私はドアをにらんだ。レントゲン並みにドアの向こうの人間を透視できたら、その視線で相手は黒焦げになっただろう。
ドアを開けると、黒焦げになっていない綾子夫人が立っていた。
「夜分申し訳ありません。……お話ししたいことがありまして」
「どうぞ、どうぞ」
昼間のような、おずおずしたところはなかった。何かはっきりと、心に決めたものがある様子だ。
「あなたにまずお話ししておこうと思いまして……」
夫人はソファに掛けると言った。
「色沼を殺したのは私です」
私も夕子もしばらく黙ったままだった。
「でも私、少しも後悔しておりません。あの男はこれからも何人もの人を泣かせていたでしょう。私がやれば、その人たちが救われるのだ。そう思ったのです」
「ねえ奥さん」夕子が口を挾んだ。「色沼を|どうやって《ヽヽヽヽヽ》殺しました?」
「どうやって……」
夫人は意外そうな表情で私たちの顔を眺め、「ご存知だと思いましたわ。もちろん毒殺です。青酸カリですわ。部屋へ入ると、テーブルにウイスキーのボトルが置いてありましたので、それに入れたんです」
「色沼はバルコニーの椅子に坐っていた?」
と夕子。
「ええ、眠ってましたわ」
「ドアの鍵はどうしました?」
私が訊いた。
「ドアは開いてましたの、細く」
私は夕子と顔を見合わせた。
「もし、できましたら」
綾子夫人が続けて、
「自首するのについて行っていただけません? 知っている方が一緒だと心強くて……」
私が口を開きかけると、ドアがまたノックされて、返事もしないうちに、辰見が入って来た。
「だんな、ちょっとお話ししたいことがあるんですがね」
綾子夫人は辰の顔を見ると、しばし口を開いたまま|唖然《あぜん》として、
「辰さん! ……まあ、辰さん!」
「お久しぶりで、綾さん」
辰は照れくさそうに頭をかいた。「いや、このホテルへ着いた日に、綾さんが、子供さんたちに囲まれて楽しそうに遊んでるのを見付けましてね、ああ、幸せに暮らしてるんだな、と思って、まあ、あっしなんかが顔を見せちゃ、ろくなことにゃならねえと、ずっと顔を合わせないようにしていたんでさ」
もっとあっけに取られたのは私と夕子だ。
「おい辰、竹中さんの奥さんを知ってるのか?」
「だんな、綾さんはね、俺が昔、スリ稼業の頃、顔なじみだった飲み屋にいたんでさ。綾さんは、色沼と一緒に暮らしたことがあったんですよ」
そうだったのか!
「私も若くて、馬鹿だったんですわ」
綾子夫人が首を振りながら、言った。「彼との生活は、ひどいものでした。あの青酸カリも、その時、自殺しようと思って手に入れたものなんです。でも、ちょうど色沼は、土地の暴力団といざこざを起こして、逃げ出してしまい、私はやっと自由になりました」
「なるほど」
私は肯いた。「色沼はそれを種に、あなたから金をゆすり取っていたんですね?」
「|私を《ヽヽ》ゆすった?」
綾子夫人が不思議そうに、「ゆすられていたのは私じゃありませんわ」
「何ですって!」
私は声をあげた。「あなたは色沼にゆすられていたから彼を殺したんじゃないんですか?」
「いいえ、彼は私に、昔の関係を夫に|暴《ばら》すと脅して、私を——その言うなりにしようとしたんですわ」
私は何が何だか分らなくなって夕子を見た。
「そういうことだったの……」
夕子が呟くように言った。「ね、辰さん、あなたが色沼と話した時、彼はゆすっている相手の名前は言わなかったのね、そうでしょう?」
「ええ、ただ『あの女』とだけ……」
「それであなたは私たちの話から、それが竹中さんの奥さんだと思い込んだのね」
「しかし、それじゃ一体ゆすられていたのは誰なんだ?」
私が言った。
「考えてごらんなさいよ」
夕子が言った。「あの時、実際に約束の場所へ来たのは誰だったか」
「しかし……」
そこへ別の声が、
「|私なんですのよ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、警部さん」
ドアが開いて——辰が閉めておかなかったのだろう——織田女史が立っていた。いつもと少しも変らず、にこやかに微笑んでいる。
「私はずっとあの色沼という男にゆすられ続けて来ました」
織田女史が言った。「もう十年近くにもなるでしょうか」
誰も口をきかなかった。織田女史が続ける。
「私の秘密というのはこうですの。私をイギリス古典文学の研究者として有名にした、チョーサーについての論文、あれは私のものではなかったんです」
夕子がそっとため息をついた。
「私は留学したイギリスで、ある日本人女子学生と一緒に生活していました。彼女は病弱でしたが、天才的な頭脳を持った女性でした。あの論文は彼女のものなのです。——ある学会へ彼女の論文を私が代って郵送した時、学会の方で誤って差出人の私の名を論文の著者として発表してしまったのです。その頃彼女は肺炎を患って床についており、私はつきっきりで看病していました。彼女は二カ月ほどして死にました。ご遺族との連絡、一時の帰国など、様々な用事に追われてやっと落ち着いた時、私はその論文の著者として有名になっている自分に初めて気がついたのです。
「すぐに誤りを申し出ればよかったのですが、それがとてもでき辛い状態で、そのまま私はイギリスの学校に教師の職を与えられました。それからの私は、彼女によって与えられた自分の名声に追いつくために必死でした。そしていつの間にか年齢を取って……。でもいずれにせよ、私が彼女の論文を盗んだ事実は変りません。私はそれを親しい研究者のほんの数人に打ち明けたことがあるのです。あるホテルで、研究者の会合が開かれて、その話題の中で、誰かが他人の論文を無断で借用したという問題が取り上げられ、その討論を聞いていた私は心苦しくなって、会合の後、ホテルのラウンジで、親しい人に話したのです。みんな、今さらそんなことを気にしなくてもいいと言ってくれました。……ところが、すぐそばの席に、たまたま色沼がいて、話を耳にしたのです。何日かたって、彼は私へ電話をかけて来ました。
「私としては、もうこの年齢でもありますし、事実が分ったところで一向に構わないのですけども、子供たちや孫たちが可哀そうですし、あの男も心得たもので、決して法外な大金を要求しては来なかったものですから……」
「プロのゆすり屋はそういうものです」
私が言った。
「織田さん」
夕子が微笑みながら、「私、あなたがその方の論文を盗んだ、などとは思いませんわ。あなたはもうそれを遙かに|凌《しの》ぐ業績を上げてこられたんですもの」
「ありがとう、お嬢さん」
織田女史もにこやかに応じた。「ところで、今ドアの外で伺っていたんですけど、あの男を殺したのは奥さん、あなただとか?」
「はい」
「じゃそれを|私が《ヽヽ》やったことにしましょうよ」
「あなたが?」
「あなたはまだお若いし、子供さんもご主人もいらっしゃるのよ。私は老人だし、主人にも先立たれて、子供たちも立派にやっていますからね」
「でも……」
「それにゆすられていたのは|私《ヽ》なんだから、私が殺した方が筋が通るでしょう?」
「いけませんよ!」
辰が口を挾んだ。「あんな奴を殺したくらいで、こんな立派な人たちが罪に問われる必要なんかありませんぜ。ねえ、だんな」
「そういうわけにも行かんがね」
私は一つ咳払いをして、「一つみなさんの誤解を解いてさし上げないといけませんな。警察はまだ死因を公表していないのですが、色沼は毒殺されたのではないんです」
私は色沼の死因を説明して聞かせた。綾子夫人は目を見開いて、
「では……あの……私が行った時、色沼は……」
「そうです、彼はもう死んでいたんです」
「神様!」
織田女史が言った。「ではもう何の心配もないわけですのね」
「まあたまたま死んでいたとはいえ、殺意はあったわけで、厳密にはいろいろとありますが、私としては何も言うつもりはありません」
まだ夢でも見ているような綾子夫人と織田女史と辰の三人を送り出すと、夕子が言った。
「私もうすうす感じていたのよ。ゆすられているのが織田さんじゃないかってね」
「君が?」
「そう。だって考えてごらんなさいよ。色沼は辰さんに、その女に食いついていれば食いっぱぐれることはないって言ったんでしょう? でも竹中さんの奥さんはあの通り地味な人ですもの、理由の分らない出費が続けば、きっとご主人が気付くはずだと思うの」
「なるほど」
「長くゆすり続けるには、相手がお金を自分で自由にできる女性でないとね。それに当てはまりそうなのは織田さんぐらいのものじゃない?」
「それもそうだ。しかし、こうなるとますます分らないね。一体、色沼を冷凍庫へ閉じ込めて殺したのは誰なんだ?」
「私、分ってるわ」
私は思わずソファから腰を浮かした。
「本当かい?」
「一緒にいらっしゃいよ」
夕子が得意そうに先に立ってドアを開けた。
一階へ降りると夕子はラウンジの脇を抜けてゲームセンターへ向った。
「ここにいると思うんだけど……」
夕子はフロアを見回して、「あ、いたいた」
見れば例のベビーギャング三人組が棒の先についた大きなアメをなめなめ、ゲームを覗いて歩いている。夕子が近づいて行くと、三人の方も彼女を見つけて、かけ寄って来た。
「やあ、お姉ちゃん」
「おじちゃん、今晩は」
「もう遅いから部屋へ帰りなさい」
夕子が言った。
「まだいいんだい」
一郎がふくれっ|面《つら》で、「ママがゆっくり遊んどいでって言ったんだ」
「それならいいわ。ね、ちょっとみんなにお姉ちゃん、お話があるんだ」
夕子と私は三人を連れてラウンジへ行き、ソフトクリームをおごってやった。
「ね、みんな」
夕子が頃合を見て口を開いた。「あなたたちでしょ、あのサングラスのおじさんを寒い所に閉じ込めたのは?」
三人がちょっと困った顔を見合わせた。
「——どこで見てたの?」
一郎が訊いた。
「見なくても、お姉ちゃんにはみんな分っちゃうのよ」
「嘘だい」
「じゃ言っちゃいましょうか? みんながサングラスのおじさんを閉じ込めて鍵をかけ、外でしばらく待ってから、見張りのおじいさんを呼びに行った。おじいさんはあなたたちから話を聞いてびっくり。急いで中へ入ってみた。するとサングラスのおじさんは手押し車の上で小さくなって眠ってたのね」
「ぐっすりね」
由美が肯いた。
「で、みんなはおじいさんに、車を押してサングラスのおじさんを部屋まで返しに行こうって言ったんでしょ」
「やっぱり、どっかで見てたんだ」
「部屋へ戻してテラスの椅子へ坐らせて、それからあなたたちとおじいさんは、このことを誰にも言わないって約束したのね」
「そうだよ。でもあのおじいさん、おかしかったよ。いくら僕らが|大丈夫《ヽヽヽ》なんだって言っても、青くなってびくびくしてんだもの」
「どうしてみんな、あんなことしたの?」
「だってあいつ、悪い奴なんですもの」
「ママを泣かしたんだ!」
と弟の治郎。
「ママの様子がおかしいんで、昨日、ママが出かけた時、後をつけてみたら、ママがあいつに会って泣かされてたんだよ」
「それでこらしめてやることにしたの」
由美が言った。「治郎が地下の寒い部屋の見張りのおじいさんと仲が良くて、下にも何回か行ったことがあったの。で、私が電話でママのふりをして、あいつを下へ呼び出したの、私の声ってママの声とそっくりなのよ」
「エレベーターのそばで、僕が隠れて待ってたんだ」
一郎が続けて、「あいつが降りて来たんで、飛び出してって、サングラスをかっぱらったんだよ。あいつ、怒って追っかけて来た。で、あの寒い部屋の扉を開けて中にサングラスを放り込んでおいて、少し扉を開けたままにして、見張り小屋の中に隠れたの。あいつ僕を捜しにやって来て、開いてた扉の中を覗き込んで、『こんな所にあった』って中へ入ってったんだ。で、みんなで飛び出して行って、扉を閉め、鍵を掛けちゃったのさ」
「とっても巧く行ったね」
治郎の言葉に、三人は顔を見合わせ、得意気に肯き合った……。
「何てこった……」
三人が行ってしまうと、私は思わず呟いた。
「君はどうして気付いたんだい?」
「大体が、この事件は|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》なところが多すぎたのよ。巧妙な方法で殺しておいて、死体をわざわざ戻しに来る。まず考えてごらんなさいよ。死体を手押し車にのせて、エレベーターに乗り、廊下を通って部屋まで運んで行くなんて、およそ危険じゃない。ホテルでは相当夜遅くまで客の出入りがあるのよ。人目につかなかったのは全くの偶然としか考えられないでしょう。そんな無謀なことをあえてするなんて、|普通の大人《ヽヽヽヽヽ》では考えられないことだわ」
「それにしても……」
「それから妙だと思ったのは、ほら今日の昼前、ここで竹中さんの奥さんに会った時、あの三人がまだ寝てるって言ってたでしょ」
「憶えてるよ」
「子供ってね、どんなに前の日に遊び疲れても昼までも眠るなんてことは絶対ないものよ。だからきっと親の知らない事情で夜遅くまで起きてたんだな、と思ったわけ。あやしいなと思ったのは、その時なの」
「子持ちみたいなこと言うじゃないか」
「茶化さないでよ。……それで今夜、奥さんの話を聞いて、すべてが分ったの。奥さんは色沼を殺そうとして部屋にいなかった。子供たちは自由に計画を実行できたのね」
「それにしても分らないよ。あの子たちは、一体なぜ色沼を部屋へ連れ戻したりしたんだい?」
「それはね、|凍らせた色沼を溶かして元に戻すため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》よ」
「何だって?」
「憶えていない? 夕食の席で、あの子たちが冷凍食品について訊いてたのを。あの時、奥さんは『|温めれば元通りになる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のよ』って答えてたわ。あの子たちは|どんなもの《ヽヽヽヽヽ》でもそうなんだ、と思い込んだのよ」
「じゃ、色沼のことも——」
「殺そうなんていう気持はなかったし、今でもそうは思ってないわよ。ただこらしめに一時凍らしちゃおう。そういうことだったのよ。だから、大変なことになって気の転倒している監視のおじいさんに言って、わざわざ|陽当りのいい《ヽヽヽヽヽヽ》バルコニーへ運ばせたわけ。早く溶けるだろうってね」
「あのじいさんの方は」
「いくらあの子たちでも色沼を部屋へ運ぶだけの力はないわ。となったら、あのおじいさんしか考えられないじゃない」
「さっき君は色沼が自分で車に乗ってたと言ったね」
「ああ、あれ? 寒くてこごえそうな人間の心理として、少しでも隅にちぢこまっているんじゃないかと思ったの。あの手押し車は隅にあったし、色沼が自分から乗って、その時にサングラスとスリッパを落としたと考える方が自然だと思ったの。運ぶ時に落ちたら、いくら気が転倒してても気付くでしょうからね」
私は肯いた。
「それにしても……参ったな!」
「どうする気?」
「どうしたもんかね、深草刑事に教えてやっても信じるかどうか。それに、あの子たちの責任を問う訳にはいかんしなあ。そうなると母親の過去は明るみに出ることになる」
「じゃ、このまま?」
「やむを得んね」
「じゃ、事件解決に乾杯しましょう」
甚だすっきりしない気分だったが、私は夕子と一緒にバーへ行って、水割りで乾杯した。喉へぐっと流し込んだとたん、ぎょっとした。
「おい! ——忘れてたぞ!」
「何を?」
「ウイスキーのボトルさ。綾子夫人が青酸カリを入れた。あれは——」
「ああ、あれなら私が処分しといたわ」
「——何だって?」
「死体に外傷がなかったんで、きっと竹中さんの奥さんが毒薬を盛ったんだと思ったの。それで部屋を出る時、持って行ったのよ」
「それは証拠隠滅だ! 重罪だよ。分ってるのかい?」
「あら、結局関係なかったんだからいいじゃないの」
夕子は涼しい顔で言った。
6
翌朝、二人で浜辺へ出て腰を下ろしていると、辰見がやって来た。
「だんな、あの刑事ですがね」
「深草かい?」
「深草だかぺんぺん草だか知りませんが、さっきからホテル中をうろつき回って、オモチャの花みたいなのを客に見せて歩いてますぜ」
「そうだ、忘れてたよ」
「何の話?」
と夕子。
私は警察が色沼の部屋で見つけた、ビニールの花飾りのことを話した。夕子はしばらく眉を寄せて考え込んでいたが、やがて、
「——もしかして、竹中さんの奥さんのサンダル靴についていたのと違うかしら?」
突然、私も思い当った。そうだ、間違いない。
「確かにそうだ。畜生! どうして気が付かなかったんだろう!」
「男の人って、だめね」
夕子は馬鹿にするように言うと、首を振った。「まずいわね。そんな大事なこと、今まで忘れてるなんて」
「うっかりしてたんだよ」
「どうしても奥さんの過去が明るみに出ることになりそうね」
「——失礼しますよ」
辰がひょいと立ってホテルへ戻って行った。十分ほどして、またやって来ると、いやに神妙な顔つきで、
「だんな」
「何だい」
「自首しに来ました」
「自首?」
「へえ。昔の|あれ《ヽヽ》をやらかして来ましたんで」
「何だって? まさか……」
「深草とかいう刑事のポケットから、例の証拠の花飾りを失敬しましたんで」
「たった十分の間にかい?」
「だんな」
辰はいたく自尊心を傷つけられた様子で、「見くびらないで下さいよ。すり取るのには三分とかからなかったんで。その後女房に電話をしたんでさ。こういう事情でまたやらかしたから、ムショへ行くはめになるかもしれねえってね」
「奥様はなんて?」
夕子が訊いた。
「そういうわけなら、いいことをした。ゆっくり行っといで、ってね」
「素敵な方ね」
「それで、どうせ捕まるなら、だんなに、と思いましてね」
私は嘆息して、
「お前、盗った花飾りは持っちゃいないんだろ」
「そりゃもちろん始末しました」
「じゃお前の自白しかないわけだ。自白だけじゃどうしようもないよ」
辰はにやりと笑って、
「さすが、だんなだ! ねえ、お嬢さん、いい人を見つけましたぜ、あんたは」
「私もそう思うわ」
「じゃ、だんな、俺はこれで発ちますんで。お二人の結婚式には呼んで下さい」