「必ずお呼びするわ」
「じゃ、ご機嫌よう」
辰の後姿を見送って、
「気持のいい奴だ」
「ほんとにね。ところであの刑事さん、どうするかしら?」
「諦めるだろうよ。証拠の品を失くしたなんて、ばれたらクビだからな。しかし、僕がやったことだって、三回クビになって当り前ってところだぜ」
「良心のとがめを感じる?」
「いいや」
「そういうあなたが好きなのよ」
「ところで、さっきのは本気かい?」
「なに?」
「結婚式のことさ」
「さあ、どうかしら」
夕子はちょっと色っぽく流し目になって、「二晩おあずけだったから、今夜あたり、ゆっくり相談してみる?」
「いいね!」
夕子は笑って立ち上がると、きらめく海へ駆け込んで行った。
「警部殿! こちらでしたか」
振り向くと、深草刑事が砂地に靴をめり込ませながら額の汗をふきふきやって来る。
「警部殿はよせと言っただろう」
私は言った。「何事だね、一体?」
「はあ、それが色々とありまして……。えい、畜生、靴が砂だらけだ」
「裸足になればいいじゃないか」
「なるほど! いや、全くですな」
「そんなことに感心してないで、話があるなら早く言えよ」
「いや、全くで……。実は、大切な手がかりを紛失してしまいまして」
「そいつは大変だ」
私は大げさに驚いて見せた。
「はあ。ですがその大切な手がかりは、本当は大切ではない大切な手がかりだったので……」
「何だって?」
「その……つまり、それはどうでもいいので、もっと大変なことが持ち上がりまして」
「だったら、それを先に言えよ」
「全くで。……その、例のけしからん支配人ですが、奴が首を吊りまして……」
「何だって!」
私は思わず腰を浮かした。
「死んだのか?」
「いえ、手近にロープがなくて、使ったのが、古い女性のストッキングだったので、伸びて床に足が着いちまったものですから、少々首を痛めただけでした」
ストッキング? こいつは前代未聞だ!
「無事で良かったじゃないか」
私は笑いながら、「しかし、君もあまり気の弱い人間をいじめない方がいいぜ」
「はっ、心いたします」
と頭をかいている。
「で、話ってのは、それだけかい?」
「いえ、もっと大事なことが——」
私は国語教育の貧困を思って、ため息をついた。
「支配人が自殺しかけたという知らせを聞きまして、自首して来たのであります」
「誰が?」
「例の張り番のじいさんです」
「——そうか」
私は平静を装って、「で、何と言ってるんだね?」
「はあ、ゆうべ、外へ出て戻ってみると、少し扉が開いていたので、中を確かめずに、閉めて鍵をかけてしまったらしいのです。ですが、後でどうも気になるので、調べに行くと、色沼が|冷たく《ヽヽヽ》なっていたというわけで。……すぐ届ければいいのに、怖くなったんですな、死体を手押し車にのせて布で覆いをして部屋へ戻し、後は知らん顔を決め込もうと思ったんだそうで。時間がたてば、死因が分らずに済むかもしれないと、素人考えであてにしていたらしいです。ところが支配人が首を吊ったと聞いて、責任を感じて、申し出て来たという次第で……」
深草刑事は一息入れると、
「それにしても、色沼という奴はなぜ、あんな所へ入り込んだんですかなあ」
「物好きな奴ってのはいるものさ。でかい冷凍庫があると聞いて、覗いてみようと思ったのかもしれない。酔っていたかもしれんしね」
「そうですな。いや、全く、さすが警部殿で……」
「警部殿はよせと言ってるだろう」
事件は、こうして落着した。老人は結局あの三人組には一切触れなかった。無邪気な三人を事件に巻き込みたくなかったのだろう。しかし老人にも全責任があるわけではなく、支配人ともどもさんざん油を絞られて、事件は単なる過失として処理された。
綾子夫人は、やっと到着した夫君と子供たちとともに、私たちがホテルを引き揚げる日もまだ楽しく海辺を走り回っていた。あの子たちもやがて自分たちのしたことの重大さを悟る日が来るだろう。
「彼らは彼らなりに解決して行くわよ」
夕子が|預言者《よげんしや》めいた様子で言った。
私たちは残りの休暇を充分に楽しんだ。どういう風に? まあ、ともかく楽しんだのだ。帰りの車の中で大|欠伸《あくび》をするほどに!
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<a name=4>第四話 ところにより、雨
<h1 caption=" ところにより、雨"></h1>
1
「ふん」
と私は言った。
「どうしたの、一体?」
永井夕子がイライラを顔に出して、私をにらんだ。
「何が?」
「さっきから、『ふん』『ふん』って、そればっかりじゃないの。金魚のフンじゃあるまいし、そうずらずら続けないでよ」
しかし、これは不当な言いがかりというもので、実際、私は「ふん」と|言った《ヽヽヽ》のであって、せせら笑ったのでも、感心したのでもない。「ふん」一本|槍《やり》だったのは、他に言う事がなかったからで、何も言わないよりはいいだろうと思ったからだ。
え? ピチピチした可愛い娘と向かい合って話し込んでるのに、「ふん」しか言えないなんて、だらしがないって? しかし、まあ私の身にもなってほしい。誰だって、憎からず思っている女性が、他の男性の事をほめちぎるのを聞いたら、「ふん」とでも言うしかないではないか。|嫉妬《しつと》に狂ってわめき散らすには、私は四十歳でありすぎるし、今から行ってその野郎をブッ殺してやるには、警視庁捜査一課の警部でありすぎるのだ。
「ごめん、ごめん」
私は至っておとなしく言った。永井夕子は喫茶店の広いガラス窓越しに表を見て、
「でも、いいお天気ね、本当に」
と感に耐えないような声を出し、それから私の方に向き直って、
「だからね、テーマの選び方だと思うのよ、問題は」
まったく今の若者の話があちこちに飛ぶ事と来たら、変幻自在に出没する空飛ぶ円盤みたいなもので、こっちはついて行くのに息切れしてしまう。
まあ要するに、こういう話だった。——永井夕子は、現在T大学文学部の四年生で、明日、十一月三日から五日まで開催される大学祭の企画委員に選ばれている。夕子は教養部門(!)の担当なのだそうで、一日につき一件ずつの講演のテーマを考え出し講師を交渉して引っ張って来なくてはならない。楽ではなかったようだが、それでも初日は、ニヒルな顔立ちで、もっぱら女子学生に人気のある作家に〈小説の中の女性像〉というテーマで、二日目は最近離婚したばかりの結婚カウンセラーの某女史を呼んで、〈失敗した結婚の実例研究〉(!)をそれぞれしゃべらせる約束を取りつけた。ところが、もう一人が決まらない。いや、一旦は承諾したある旅行家が、突然思い立って北海道へ行ってしまったのである。何しろ大学祭は明日からなので、急いでその穴を埋めなければならない。そこで何と!——|私に《ヽヽ》何かしゃべらないかと言い出したのだから、こっちは仰天どころではない。
「こんなテーマでどうかしら? 〈殺人現場から犯人逮捕まで〉——何か具体的な面白い事件を一つ選んで、実録ふうにしゃべってくれればいいのよ」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
「他のテーマっていうとねえ……。あなたにしゃべれそうなのは、〈老人問題〉ぐらいかな」
「おい!」
私はいささか|憮然《ぶぜん》として、「君は僕が承知するもんだと決めてかかってるのかい?」
「あら、だって、それはそうよ。私を愛してるんでしょ?」
「そ、それは……まあ……」
私はぐっとつまった。四十男がいきなりそんな事を訊かれてどう答えられるというのか。
「じゃ、引き受けてくれるわね」
ああ、やれやれ……。
「それでひと安心だわ。——で、日は十一月五日、時間は午後一時から一時間ね」
「一時間も?」
「大丈夫よ、たった六十分じゃないの。——ああ、それから謝礼の事なんだけど……」
私は初めて熱心に身を乗り出した。|謝礼《ヽヽ》か! そいつは考えなかったぞ。
「実はねえ」
夕子は言いにくそうに、「二日目の結婚カウンセラーの女史が、凄くガメツイ人でね、こっちの言った謝礼じゃ承知しないのよ。他からも、その日、口がかかってるから、そっちにしますって言い出したんで、慌てて、それなら二倍払いますって言っちゃったの。で、まあ、予算の|枠《わく》が決まってるもんだから……」
私は、希望という名のバラ色の風船が|惨《みじ》めにしぼんで行くのを、じっと見つめた。
「別にいいさ、君のためなら、無料奉仕するよ」
と無理をする。
「そう言ってくれると思ってたわ。私の恋人ですものね!」
「何だか都合のいい時だけ恋人にされてるような気がするな」
ヘヘ……と夕子は舌を出してみせた。そのいたずらっ子のような所が何とも可愛い。私の如きいかつい警官を参らせたのは、そんな愛くるしさである。しかしこの娘が、ひとたび難事件を前にすれば、女シャーロック・ホームズに早変りして、私の度肝を抜く推理の|冴《さ》えを発揮するのだから、人は見掛けでは分らない。
「でも、それじゃあんまり申し訳ないわね」
夕子はコーヒーをすすりながら、「じゃ、こうしましょう。五日に、大学祭が終ったら、あなたを私の部屋へご招待するわ」
「本当かい?」
私の胸がティンパニを乱打した。文字通りの恋人であり、暇な週末などにはちょっとした旅行もする仲なのに、私は夕子の住んでいる場所も知らない。両親を事故で亡くして、一人暮しだとは聞いていたが、彼女の住むのが、バラックのアパートなのか、小粋なマンションなのか、一向に聞かされていなかったのだ。
「ボロ家だけど、がっかりしないでね」
「大丈夫さ。何なら今からでも——」
「だめ」
夕子は私をにらんで、「講演料は講演が終ってからよ」
「分ったよ」
私はため息をついて、「しかし、何をしゃべるかなあ。人前で話をするのは得手じゃないんだがね」
夕子は入口の方を見て、パッと顔を輝かせると、
「ほら! あれがさっき話した川島先生よ。——先生!」
振り向くと、なるほど若い女学生にもてそうな、三十代半ばの男が、魅力的な笑顔を見せながら、こっちのテーブルへやって来る。さっきから夕子がほめちぎっていたのは、この川島という文学部の助教授の事だったのである。長身で、いかにも仕立の良さそうな背広がよく身についている。やや長髪にした髪が、きれいに|撫《な》でつけられて、陽焼けした面長の端正な顔には、一種知的な上品さがあった。きっといい家の息子なのに違いない。
「やあ、永井君」
「先生、こちらが、五日の講演を引き受けて下さる宇野警部さんです」
「これはどうも。面倒をおかけして」
川島はていねいに言って、夕子の隣へ腰を下ろした。夕子が愉快そうに、
「先生、悪いんですけど、横の方へ椅子を持って行ってくれません?」
「え?」
「この人、とっても嫉妬深いんです」
私は真っ赤になって、いや、そんな事、と打ち消したが、川島は笑いながら席を移して、
「いや、気がきかなくって。——永井君には私もほれ込みましてね、食事に誘ったことがあるんですが、『私、警視庁に勤めてる恋人がいますから』と、きっぱりやられましたよ」
私は苦笑いして、額の冷汗を拭ったが、内心、なかなかいい気分だった。この手のキザな男は、通常最も私の嫌うタイプだが、まあ悪い人間でもなさそうじゃないか、と思い始めていた。実際、タイピンにヒスイが使ってあり、指には外人のように、貴石をはめ込んだ指環をしながら、それでいていや味にも見えないというのは、珍しい。
大学祭の顧問だという川島を加えて、私たちは、講演の内容について打ち合せを始めた,私が面白そうな事件をいくつか選んだ上で、明日、もう一度夕子に会ってそのうちのどれにするかを決めようということになった。
その後、最近の学生気質などについて、雑談をしていた時だった。ひどく慌てふためいて、店へ飛び込んで来た青年があった。
「あら、先生、中野さんですよ」
夕子が気付いて言うと、
「本当だ。どうしたんだろう。——おい、中野君! こっちだ!」
川島は私に、「私の研究室にいる助手なんですよ」と説明した。
中野と呼ばれた青年は急いで駆け寄って来ると、息を切らして、
「よかった! 捜してたんです、先生!」
「どうしたんだ?」
「大変な事になったんです。来て下さい」
「何だ? 頼んであった本の事かね?」
「いいえ。実は、青木君が——」
「青木君が? どうしたんだ」
「その——死んじゃったようなんです」
あまり突然「死んだ」という言葉が出て来たので、私たち三人は、お互い聞き違いではないかと顔を見合わせた。
「|死んだ《ヽヽヽ》って?」
川島は訊き返した。中野は頭をかいて、
「ええ……たぶん……」
「たぶん? 一体何を言ってるんだね?」
「いえ、それがえらく妙なんです。——あんな妙な事が——」
「川島先生」
私が話に割って入った。「どうも私の領分かもしれませんね。ご一緒しましょうか」
「ありがたい! お願いしますよ。よし、行こう」
喫茶店は大学の正門の目の前だ。長い|銀杏《いちよう》並木に挾まれた道を|辿《たど》って、広いキャンパスの芝生の間を抜けて行く。明日からの大学祭に備えて、どこでも学生たちが忙しく走り回っている。
私たちは四階建の建物の中へ入って、階段を降りて行った。
「地下室なんです」
川島が階段を降りながら、私に説明した。
「書庫になっていましてね」
階段を降りると、両開きのドアがあった。中野がドアを開けると、
「階段の下です」
と言って、傍へどいた。中は、やや薄暗く、|埃《ほこり》っぽい匂いがした。背の高い書架がずっと狭い間隔で立ち並び、分厚い本がびっしり棚を埋めている。
「あそこだわ」
夕子が押し殺したような声で言った。声がやや響いて大きく聞こえる。——入って来たドアのすぐ横手に、さらに下へ降りる急な階段があった。
「地下二階まであるんです」
川島が私に言った。
ビルの非常階段によくあるスチール製の急な階段だった。その降り切った所に、一人の男が仰向けに倒れている。
「医者は?」
と私は中野青年の方へ向いて言った。
「いいえ……死んでると分ったんで……」
「君は医者か? 早く呼んで来るんだ!」
私が怒鳴りつけると、中野は飛び上がって、部屋を走り出て行った。私は言った。
「失礼しました。えらく動転していたようですからね。ああ言った方が気分が落ち着くんです。降りてみましょう」
私たちは急な階段を、そろそろと降りて行った。倒れているのは長身の、やせた男で、三十歳前後だろう。私はかがみ込んで脈を取り、胸に耳を当ててみた。
「確かに死んでいます。まだ死後間もないと思いますが」
「何て事だ!」
「気の毒に……。いい人だったのに」
夕子が|呟《つぶや》いた。
「どういう人なんですか?」
「私の助手です。本の虫、というか、この書庫に閉じこもっているのが一番好きだと言っていました。優秀な学者になれる男だったのですが……」
川島は、やや青ざめた面持で頭を振った。
「落ちたのかしら?」
夕子が階段の上を見上げながら言った。
「おそらくね」と私は肯いた。「急な階段だ。足を滑らせたんだろう。見た所、首の骨が折れているようだ」
「メガネがそこに落ちてるわ」
死体から一メートルばかり離れた所に、粉々にレンズの割れたメガネが落ちていた。
「この人のものですか?」
「ええ。青木君のだと思います」
と川島は肯いて、「上に行っていて構いませんか? どうもこういう事には慣れていないもので……」
「ああ、ごもっともです。どうぞご自由に」
夕子は私と一緒に残ると、しばらく死体を眺めていたが、やがて私の顔を見ると、
「どういう事?」
私は肩をすくめた。夕子はかがみ込んで、死体を調べ始めた。彼女の目が輝いている。何か奇妙な謎に出合った時の興奮が彼女を捉えているのだ。一人の女学生が今は探偵に変身している。
実際、わけが分らなかった。川島は死体を見ただけで気分が悪くなったようで——普通の人間なら当り前のことだ——何も気付かなかったが、死体の服装が何とも奇妙であった。くたびれた|レインコート《ヽヽヽヽヽヽ》、そしてゴムの|長靴《ヽヽ》、手には大きな|傘《ヽ》を持っているのだ。
それはどう見ても、今からどしゃ降りの戸外へ出て行こうとする所だったとしか思えない。だが、外は|快晴《ヽヽ》で、雲一つない天気なのだ。朝から、にわか雨一つなかったというのに、一体、この格好は何のためだろう?……
「妙ね。——確かに事故死かしら?」
「そうでないという証拠はないね」
「でも誰かが上から青木さんを突き落としたら?」
「それは分らないさ。だが、殺人だとはっきりしない限りは、事故死と考えざるを得まいね」
「でも、このスタイル、どう思う?」
「それは僕も妙だと思うさ。でも、だからってそれが人殺しには結びつかないよ。それとも、この仏が人に恨まれてでもいたのかい?」
「いいえ」
と夕子は渋い顔で、「こんなに誰からも恨まれていなかった人もないでしょうね。もう勉強の虫、本の虫で、他の事には一切興味がなかったの。たぶん大学祭があるなんて事も知らなかったんじゃないかしら。研究の事以外は何を聞いても右から左——。一度、家へ帰るのにどの駅で電車を降りていいか忘れちゃって、駅員に『僕の家へ行くにはどこで降りるんでしょう』って尋ねたくらいですものね。|世事《せじ》に|疎《うと》い学者タイプの最たるものだったわ」
「そんな人間が今時いるのか。もうとっくに博物館行きかと思ってたよ。——家族は?」
「それがね、とってもきれいな奥さんがいるのよ」
「へえ」
「やっぱりこの研究室にいた人なんだけど、とても飾り気のない美人でね、いい人なの。二年前に結婚したのよ。仲人は川島先生のご両親だったわ」
「両親?」
「川島先生のお父さんは、やっぱりこの大学の教授だったの。去年亡くなっちゃったけど、偉い学者だったのよ。——青木さんの奥さん、お気の毒だわ」
そこへ大学の医者があたふたと駆けつけて来た。私は自分の身分を説明し、一応変死事件だから、警察へ連絡を取ってくれるように頼んで上へ行った。川島は書架にもたれて、私たちを待っていた。
「終りましたか?」
「ええ。後はあのお医者さんが処置してくれるでしょう。とんだ事でしたね」
「助かりました。青木君には私も一番期待をかけていたので、ショックですよ、全く。——そうだ、彼の奥さんにも知らせなくてはいけない」
「私、知らせましょうか?」
夕子が言った。川島は首を振って、
「いや、辛い仕事だが、私がやらなければ……」
「一つお訊きしたいことがあるんですが」
と私が口を挟んだ。
「何でしょう?」
「青木君は、レインコートやらゴムの長靴やらを書庫に置いていたんですか?」
川島は質問の意味が分らない様子で、いぶかしげに私を眺めていたが、やがて、
「そうか……。妙ですね、あの服装。今やっと気が付きましたよ」
と肯いた。「——いや、青木君は研究となると、時間の見境などなくなる男でしてね、気が付くと真夜中、っていう事も年中で、あの書庫に泊ってしまう事もよくあったんです。傘やレインコートや長靴も確かに置いていたようですね。——しかし妙ですね、こんな日に」
「全くです」
一階へ上がると、すぐ目の前の教室から女学生が一人飛び出して来た。
「ああ、川島先生、よかった! 捜してたんですよ」
「何だね?」
「どうしても低音がすっきりしないんです。何とかして下さい」
見れば、教室の入口に、〈レコード・コンサート〉と書いてある。明日の準備なのだろう。
「何度もスピーカーの位置や椅子を動かしてみたんですけど、だめなんです」
その娘は今にも泣き出しそうだった。
「空のビールびんを三十本ばかり集めて両側の壁際に並べてみるといいよ。それできっとすっきりすると思う」
「分りました、やってみます!」
娘はパッと顔を輝かせて、「やっぱり先生だわ。もうみんな|諦《あきら》めてたんです。ありがとう!」
この先生は、よほど人気があるんだな、と私は微笑した。川島は、青木助手の死を奥さんに知らせるために立ち去って、夕子も企画委員会があるから、と明日会う約束をして行ってしまった。
私は一応、警察が来るまで待つ事にして、その辺をぶらついた。できるだけこのニュースが学生の間に広まらないようにしたかった。せっかくの大学祭なのだ。それに事故にすぎないのだろうし……。
しばらくして、所轄署の刑事が到着したので、私は簡単に状況を説明した。やや奇妙な点があるので、本庁(警視庁)から検視官を呼んではどうかと提案すると、刑事もすぐに同意して、三十分後には顔なじみの検視官が鑑識の連中とともにやって来た。
検死はいつも通りの手順で行なわれたが、極力目立たないように気を配ったので、明日からの準備に忙しい学生たちには、ほとんど気付かれなかっただろう。検視官の所見でも、他殺を|示唆《しさ》する発見はなく、階段からの転落死だろうと推定された。
そこまで確かめて、私は大学の構内を出た。校門を出ると、ちょうどタクシーが停って、川島助教授が降りて来た。そして続いて降りて来たのは、小柄ながら、芯の強そうな、美しい女性だった。顔は青ざめ、目は明らかに泣きはらして赤くなっていたが、しっかりと唇を結んで、川島の先に立って大学へ入って行く。——死んだ青木助手の夫人に違いない。いささか重い気持で私は駅へ向って歩き出した。
2
その夜、私は官舎の一人暮しのむさ苦しい六畳間に、過去のいくつかの事件の資料を広げて、講演するのに向いた事件はどれかと、一つずつ検討していった。十二時近くまでかかって最終候補を三つに|絞《しぼ》り、さて、眠ろうかと欠伸をした所へ電話が鳴った。
驚いた事に相手は川島助教授だった。
「夜分、申し訳ありません。永井君からそちらの電話を伺って、ご迷惑とは思いましたが……」
「いや、構いません。何のご用です?」
「実は今夜、十時頃、中野君から電話がありまして——例の、青木君が死んだと知らせて来た助手です」
「憶えていますよ。それで?」
「何か大事な話があると言うんです。訊いても電話ではだめだと言うだけで、今から行っていいかと訊くので、構わんと返事をしたんですが、今まで待っても、さっぱり現われないものですから、ちょっと気になりまして」
「中野君の家は?」
「下宿なんです。電車を使って一時間もあれば来るはずなんですが」
「下宿に電話は?」
「あるとは思うんですが、取り次いでくれないらしくて、番号を聞いていないんです」
「何か青木君の死と関係のある話のようでしたか?」
「さあ、それが……。何しろ電話では話せませんとくり返すだけでしたから」
「なるほど」
「何でもない事かもしれないんですが、何しろ今日の事故の後だったもので、つい気になりまして……」
「いや、ごもっともですよ。こちらで手を打ちましょう。中野君の下宿の場所は?」
どうも、どうも、と互いにくり返して電話を切ると、私は、署で中野助手の下宿にほど近い交番を調べてもらい、そこの巡査に一応、その下宿に足を運んでもらうよう手配してから床についた。
——しつこく鳴り続ける電話に目を覚ましたのは朝の六時だった。布団からもぞもぞ這い出すと、受話器を取って、「あーん」と唸り声を出す。
「宇野警部ですか!」
間違いようもない、原田刑事の|だみ《ヽヽ》声である。しかも、やたらに張り切っている所からみて、何か事件に違いない。
「原田か。何だ?」
「殺しです。すぐ来ていただきたいんですが」
「俺が行かなきゃだめなのか?」
私は、ともすればくっつきそうになる瞼を必死で押し開けながら言った。「何か問題があるのか?」
「はあ……。どうも訳が分らんのです」
「何がだ?」
「状況が実に奇妙でして。何が何やらさっぱり分らなくて……」
実に良く分った説明だ。私はため息をついて、
「分った、すぐ行く」
「助かります! お待ちしてます!」
「それで——おい!——おい!」
私は受話器をにらみつけた。現場がどこかも言わずに切っちまうなんて!
本庁に問い合わせて、現場は杉並の上井草の一角だと分った。
七時過ぎ、十一月の朝はもう底冷えのする寒さである。住宅街の中にぽっかりと雑木林が残り、自動車道路から林へ数メートル入った所に、警察の人間たちが集まっていた。茂みに足を取られながら踏み込んで行くと、原田刑事の、石壁のようにでかい背中に突き当った。
「おい、原田、どうした」
「やっ、宇野さん、どうも!」
「|被害者《ガイシヤ》は?」
「ここです」
〈壁〉がどくと、布で覆った死体があった。
死体を見るために布をめくる瞬間というのは、私のように多々経験を積んだ者でも、思わず目をつぶりたくなるものだ。私はいつでも最悪の状態を予想して布をめくる事にしている。
「これは——」
と絶句して目を見張る。——といってもご心配なく。首のない死体、といった残酷場面ではない。私が驚いたのは、それがあの中野青年だったからだ。いや、それだけではなく、その死体が、レインコートを着て、ゴムの長靴をはき、手に傘を持っていたからなのである。
「妙でしょう? ね、宇野さん」
原田刑事が大きな図体に似合わぬ、甘ったれ声を出す。「昨日も今日も、雨なんか、これっぽっちも降ってないんです。それなのに、この格好と来たら……。どうなってんです?」
こっちが訊きたいよ。どうなってるんだ!
T大学のキャンパスは、大学祭の初日で、大変な賑わいを見せていた。あちこちにテント張りの模擬店なども出て、陽の当る芝生に腰を下ろした学生たちは、おでんだの焼そばだのを食べながら、おしゃべりに余念がない。
私と原田刑事が、昨日とすっかり様子の変ってしまった構内で、昨日の建物を捜してうろうろしていると、
「大きな迷子が二人!」
と背後から声がして、夕子が笑いながら芝生をやってくる。
「やあ、お嬢さん」
いつぞやの事件で夕子の働きをつぶさに見て、すっかり心服している原田刑事が、相好を崩して|挨拶《あいさつ》した。
「わざわざ見に来ていただいたの? 悪いわね」
「そうじゃないんだ。——川島先生は?」
「さあ、さっきはオーディオ研究会の展示室にいたけど。先生、あそこの顧問してるの」
「案内してくれないか」
「いいわ。——仕事なのね?」
「そうだ」
夕子が、ちょっと表情を引き締めた。歩きながら、私は中野助手が殺された件を話した。
「凶器は?」
「近くに血のついた石が転がっていたよ。後頭部を殴られたんだ」
「死亡推定時間は?」
「十一時前後ってことだったよ」
「それで……中野さんの、レインコートや雨具は、中野さん自身の物だったの?」
「そうだ。レインコートには、ネームが縫い取ってあるし、傘には、ローマ字で名前のテープが貼ってあった」
「そう」と夕子は肯いて、「殺された時、中野さんはそのレインコートを着ていたのかしら? それとも、後から着せられたのかしら?」
「飛び散った血がコートにも付いていたからね。殺された時、コートをすでに着ていたんだよ」
「すると、中野さんが自分でコートを着たっていう事ね……。分らないわ」
「お嬢さんにも分りませんか」
原田が難しい顔で言った。「それじゃ、私にゃとても無理だ」
「でも、そうなると、昨日の青木さんの死も、単なる事故とは思えなくなるわね」
「そうなんだ」
私は肯いた。「殺人の可能性が濃くなって来た。その線で調査してみなくてはならんだろうね」
オーディオ研究会と書いたポスターのある教室へ入ると、私は思わず目まいがした。|音《ヽ》などというものではない。振動がじかに体を揺さぶり、ずらりと並んだ巨大なスピーカーから押し寄せる音に、本当に部屋から押し戻されそうな気がした。
私は原田に|何か《ヽヽ》言った。いや、言ったと思うのだが、何も聞こえないので、自分でもいささか自信がないのである。聞き取れたはずはないが、私の口がパクパク動くのを見て、原田も何やら口をパクパクやった。特大の金魚が呼吸困難に陥ったというところだ。
私は、ヘッドホンに聞き入っている川島を見つけると、そばへ寄って肩を叩いた。川島は私の顔を見ると、肯いて、外へ出ようと手ぶりで示した。パントマイムが終ったのは、建物の入口のホールへ出てからのことだった。
「——いや、全く、凄い音ですね」
私は頭を振りながら言った。
「大丈夫ですか?」
川島は笑いながら、「初日なので、少し景気づけにと思いましてね。——それはそうと、昨晩は失礼しました。今朝、様子を伺おうと思って警察の方へお電話したのですが、出られているとのことで……。何か分ったんですか?」
「実は大変なことになりましてね。中野君が殺されたのです」
|愕然《がくぜん》としている川島へ、私は大体の状況を説明した。
「何と! 奇怪な話ですね!」
「まったくです。——現場は、ちょうど中野君の下宿と先生のお宅の中間に当りましてね。おそらく、お宅へ向かう途中で殺されたんでしょう」
「何て事だ……。二人までも……」
「そこで当然、昨日の青木君の死についても、殺人だったのではないかという疑いが出て来ましてね」
「そうですね。しかし、本当に、二人とも人から恨まれる男ではなかったんですよ」
「中野君は、青木君の死について、何か知っていたのでしょう。だから犯人に消された」
「せめて、昨日の電話で何かしゃべっていてくれたらなあ……。もっと打つ手もあったでしょうに」
「今となっては手遅れです。一応私どもは、青木君が殺されたものと考えて捜査を進めて行くつもりです。——で、青木君の奥さんにお会いしたいんですが」
川島は手帳を破って、青木の住所と電話をメモすると私に手渡し、
「一刻も早く解決されるように祈ります」
と、すでに落ち着きを取り戻して言った。
私は、一応昨夜の事情について、調書を取るので、夕方にでも警察へ出向いてくれるように頼んで、川島と別れた。
「若いのに、しっかりした人だな」
「スタイリストなのよ」
「何です?」
と原田刑事が耳をそばだてる。「ファッションモデルか何かですか?」
「まあ、そんなもんだ」
私は受け流した。本気で答えているときりがない。夕子が、ふっと足を止めて、
「あ、ここなのよ。覗いて行く?」
「何が?」
「あなたが話をする所よ」
すっかり忘れていた。私は頭をかいて、
「しかしなあ……こんな事件があったんじゃ、とても時間が取れないと思うよ」
「だめ」
と夕子はにべもない。「私に恥をかかそうっていうのね? 私が、プログラムに穴をあけた責任を負って首を吊ってもいいっていうのね?」
「分ったよ、分ったよ。何とかするよ」
私は慌てて弁解した。「——じゃ、ちょっと中を見せてもらおうか」
そこは校舎とは離れた二階建のレンガ色の建物で、ガラス張りになった半分は図書館であった。残る半分が、三百人収容の階段状の講義室で、ここで話をする事になるのだ。今はまだ午前中なので、中には誰もいなかった。
「こんな広い所で話ができるかなあ」
私は入口から中を見渡して、「自信がないよ」
「だって、宇野さん、マイクを使うんでしょ?」
と原田が見当外れなことを言い出す。
「当り前だ。俺が言うのは、こんな大勢の人間の前で話をするのは初めてだから、心配だってことさ」
「なるほど」
原田はえらく真剣に考え込んでいたが、やがてパッと顔を明るくして、
「でも、大丈夫ですよ、宇野さん。だって、満員になるとは限らないでしょ。ガラガラで、数えるほどしかいないかもしれません。それなら平気でしょ」
私は氷のような感謝を込めて、原田をにらみつける。
「ありがとう……」
「ね、ちょっと練習してみたら?」
「まだ何を話すか決めてないのに」
「話す練習じゃないわよ。ステージに立つ練習よ」