シャボン玉少年
1
静かな路地にひっそりと佇む木造アパートの前、二人の女子大生が立ち止まった。そのうち背の高い方の河合芙美加が、セミロングの髪に手をやりながら、三つ並んだ二階のドアを眺めて言った。
「ええと、楓の部屋は真ん中のドアだっけ? 確か二〇二号室やったのは覚えてるけど――」
「あ、一番右のドアやん。ほら、名前はないけどドアの脇に二〇二って書いてある」隣の関口綾乃が、階段側から一番遠いドアを指さして答えた。茶色く染めたストレートの髪が胸の前に降りている。
「ええっ、見えないよ。あんた一体視力なんぼなの?」驚いて芙美加が訊く。
「三.〇ぐらい」階段まで歩きながら綾乃が笑って答えた。
階段の幅は一人分しかない。まず綾乃が先に上がり、芙美加がそれに続いた。カンカンカンと音を立てながら階段を上りきり、一番奥のドアまで歩く。
「ほんとだ」芙美加が感心した顔を綾乃に向けた。「二〇二やね」
ドア付近を見回し、綾乃が思い出して言った。
「あ、ここ、インターホンないんだっけ」
仕方がないので芙美加がドアに向かって小さく呼ぶ。
「おおい、楓。いるー?」
しばらく待ったが反応がない。半分諦めながら、今度はドアをノックして呼んでみる。
「いないのー?」
数秒の沈黙の後、ドアがゆっくり開き、
「誰ぇ?」
部屋の住人、葉山楓が目をこすり、ドアの隙間から顔を覗かせた。
「んん? あら、ええと、なんて名前やっけ」黄色いフレームの眼鏡をかけながら、楓が二人の訪問者に尋ねた。
黒いジャージ上下というラフな格好、全く化粧気のない顔。金色に近い髪こそはつやつやであるが、櫛は通していないらしく、もしゃもしゃと頭のてっぺんでくせがついている様子から、どうやら平日の真っ昼間から寝ていたらしいことが推察される。芙美加も綾乃も、彼女のそんな姿を見るのは初めてだった。いつもお洒落にしていたイメージがあったため、会うのが久しぶりであるとはいえ、まるで別人のような印象だ。
しかしそれよりも、自分達の名前を忘れられていたことに、二人は少なからずショックを受けた。芙美加が言った。
「ちょっと、ひどいんじゃない? あたしが河合芙美加で、この子が関口綾乃。思い出した? あんた大学辞めて頭なまっちゃってるんじゃないでしょうねえ……」
「おお、久しぶり。思い出した。どした?」
「まあいいや。あたしたち、ちょっと相談に来たんだ。ね」芙美加は隣の綾乃に顔を向けながら言った。
「はあ、相談?」目を細くして楓が訊く。
その問いに綾乃が答えた。
「うん、実は昨日の夕方、子供が誘拐されてるらしいところを目撃したの……。それで――」
「意味がわからん。来るところが間違ってるやん、警察に行きなさい。もしかしたら、すでに子供の両親から届けが出てるかもしれないよ。綾乃の情報を提供すれば、警察も捜査が早くなるし」
眠りを妨げられたせいか、若干不機嫌そうに楓が答えた。そんな彼女になんとか話を聞かせようと、芙美加が慌ててなだめる。
「まあまあ、ちょっと聞いてよ。綾乃は本当に誘拐かどうかわからなくて、一日迷ってたのよ。それで実はね、さっき現場から一番近い警察に立ち寄って来たんよ、あたしら。でも『そんな話は来ていない』、『届出もない』って言われて。あたしはそこで、なんだ綾乃の勘違いじゃんってすんなり納得したんやけど、明らかに誘拐みたいな様子だったんで現場を見た綾乃はまだ気になってしかたないようで。どうかな、ちょっと不思議な話なんやけど、聞くだけ聞いてみてくれない?」
「解決? 何を解決するん。誘拐かどうかもわからん話に解決もくそもあるかい」訝しげに、楓が片眉を上げた。
芙美加が言う。
「うん、確かに。でも、事件の解決って言うより、綾乃の心の解決なのよ。綾乃にすっきりした解釈を与えてやって欲しいのよ」
「心の解決?」
すでに眠気は消え去り、頭がはっきりしてきたらしい。楓はじろりと綾乃に視線を向けた。
促された綾乃は心境を話し始める。
「……もしかしたら、子供の両親は犯人に脅されて、警察に言えないでいるのかもしれない。今こうしている間にも取引が行われているのかもしれない。子供を連れ去っていった男の顔は見たんやけど、そんな届出はないって警察は取り合ってくれないし。もしあたしの勘違いならもう忘れたいんだけど、自分の見たものが本当に誘拐事件やったらと思うと、気にかかって……」
「忘れたらええやん。たぶん、勘違い。誘拐事件なんてそんなに起こるもんじゃないよ。それに、仮にもし本当に誘拐事件で、現在被害者家族と犯人との間で取引が行われていて、結果的に交渉に失敗して子供の命が助からなかったとしても――」
楓にみつめられ、綾乃の顔が固まる。
「綾乃が罪悪感を感じるべき部分はひとかけらもない。スーパーヒーローじゃあるまいし」
嘲笑気味に放たれる楓の言葉に、それでも綾乃は黙ってうつむき首を振った。
腕を組み、楓は続ける。
「だいいち、あたしがすっきりした解釈を提示したところでさ、後になって誘拐事件だとわかった場合、その意味はなくなるやん。無事に子供が保護されれば良いけど、失敗した場合に綾乃が受けるダメージに変わりはないよ。もっとも、ダメージなんて受ける必要ない話なんやけどねえ」
「……それでもいい」と綾乃が答えた。「もし誘拐事件で、何日か後、救出に失敗したのを知るとしても、それまでの間だけでも不安から救われていたい」
「ああ、なんて人」楓はオーバーに呆れた表情を作る。「必要もないことを勝手に自分で気にして、救われたいだって? しかも、関係のないあたしに救ってくれだって? 理解できない。とにかく、あたしは綾乃の力にはなれんよ。まあ、ただの勘違いやろ。忘れること」
ますます聞く気を持たない楓に、芙美加が頼み込むように言った。
「忘れるにも、きっかけがいるわ。せめてきっかけとなる解釈をあなたの口から聞けたら良いと思って来たのよ。それに誘拐事件じゃなかった場合、その解釈で一応の納得ができるでしょ?」
必死の頼みにも答える様子はなく、再び眠気が誘ってきたのか、楓はあくびをかみ殺しながら黙ってドアノブに手をやった。
「あ、待って!」綾乃が慌ててハンドバッグから風呂敷を取り出した。
「ん、なにそれ」
「お菓子持ってきたの。話聞いてもらうなら、何か差し入れ持っていかなきゃと思って。せっかく持ってきたんで、食べて」
訴えるような眼差しで風呂敷を差し出す綾乃を前に、楓はため息をこぼした。
「外に出るのは面倒やから、あたしの部屋でいいよね?」
「わ」芙美加と綾乃は同時に声を上げた。
楓の部屋はまさに混沌状態になっていた。床を埋めているのが本や洋服など無機質な物ばかりであることが、唯一の救いかもしれない。さすがに布団の敷いてあるスペースには何も乗っていない。寝床は散らかさないように本能が働くのだろう。しかし、いずれにせよ女性の住む部屋の一般的イメージからはほど遠い。
楓は部屋の真ん中にあるテーブルの傍に腰を降ろし、上に乱雑に積み重なった書物をばさばさっと払い落とした。ファッション雑誌に紛れて、小難しそうな学術本も垣間見えた。
「あ、適当に座って。その辺の本寄せて」髪をヘアクリップで止めながら楓は二人に言った。言われた綾乃と芙美加は、戸惑いながらも自分で座るスペースを作り、楓と向い合う位置に腰を降ろした。綾乃は風呂敷をテーブルの上に置き、結び目をほどいてみせた。
「お、これは、和菓子?」
楓が言うのに、綾乃は肯いて答えた。
「そう。実家が和菓子屋さんやの。ときどき両親が送ってくれるの」
「へえー、いいな」一つつまんで包みをはがし、楓はぱくりと小さな口に放り込んだ。もぐもぐと食べながら、「うん、おいしい! 久しぶりやわぁ、和菓子なんて食べるの」
綾乃と芙美加も手を伸ばす。
芙美加はちらっと楓を見た。すっぴんのせいもあって幼くみえる微笑を顔に浮かべている。損なわれた機嫌はすっかり回復しているようだ。話を聞いてもらえそうだ。
同様に判断したらしい隣の綾乃が、おずおずと話を切り出そうとしたが、僅かに早く楓から口を開いた。
「ありがとう、ごちそうさま。それじゃあ今度はあたしがお礼をする番やね、話を聞くよ」
綾乃は頷き、話を始めた。
2
一ヶ月ほど前のある日の夕方。
絵画サークルに所属する関口綾乃は、大学の帰りに公園に寄り、次に書く絵のアイディアを思案していた。下宿の最寄駅近くにあるこの公園は、絵に関することに限らず、何かを考えるときに綾乃がいつも利用している場所である。その日もぼんやりと、絵の対象でもみつかれば良いな、という気分で立ち寄ってみた。デッサン画というものを描いたことがなかったので、思い切って初挑戦してみようと考えたものの、その対象がなかなかみつからないでいた。
園内を見回すと、今まで気がつかなかったが、幼稚園児くらいかと思われる小さな男の子の姿がふと目に入った。いつの間に現れたのだろう。独りブランコに座り、ゆらゆら前後に揺られながら、少年はシャボン玉を吹いている。左手に水色のプラスチックの容器、右手に先の広がった同色のストローを持っている。容器にはシャボン液が入っているのだろう。
ここから観ると、少年の横顔を眺める形になり、彼は左頬をこちらに向ける角度でシャボン玉を吹いている。その表情は妙にせつなく、こんな小さな子供がこんな表情を浮かべているということ自体に綾乃はちょっと寂しさを覚えた。
少年の右手のストローから、次々とシャボン玉が生まれていく。
たくさんの小さなシャボン玉がストローの口から勢いよく出てきて、すぐに速度を落とし、ゆらゆらと空へ舞っていく。ほとんどがある程度の高さで割れてしまうが、形を保ったまま生き残り、駅の方へと飛んでゆくものもある。そんなシャボン玉と少年の顔を、繰り返し交互に目を運び、綾乃はしばらく観察していた。
ひとしきりシャボン玉を吹くと、シャボン液を全部使い果たしたのか、少年はブランコからぴょこんと飛び降り、とぼとぼと公園を去っていった。その後ろ姿は、小さくて可愛らしかったが、それ以上になんとも言い難い、もの寂しさが漂っていた。
いつの間にあたりは暗くなっていて、腕時計に目をやると、針は五時をさしていた。園内に自分一人しかいなくなっていることに気づき、結局アイディアが浮かばないまま、綾乃はベンチから腰を上げた。
次の日も公園に寄ると、やはり同じ場所に少年がいた。昨晩、綾乃はこの少年をモデルにデッサン画を描こうと考えていた。昨日と同じベンチに腰掛け、文房具店で寄り道して買ってきた画用紙と鉛筆を取り出した。座る位置を少しずつずらし、角度を確かめて微調節する。アングルが決まると、さっそく綾乃はシャボン玉を吹く少年の姿を描き始めた。試しにやってみて感触が良ければこれで決めようと、軽い気持ちでとにかく手を動かしてみる。
しばらく夢中になって描いていると、少年がブランコから降り、公園を出ていってしまった。公園の時計は午後五時。昨日、少年が帰っていったのと同じ時刻になっていた。公園に来たのが四時過ぎだったから、約一時間ほど描いていたことになる。画用紙の中はそれほど描きこまれてはおらず、少年の姿が雑な輪郭でぼんやりと浮き出ている程度だった。だが綾乃は道具を片付けながら、このシャボン玉少年の絵を描いてみることを決心した。感触を確かめられただけでも、その日は満足だった。
それから綾乃は雨の日以外、毎日のように公園に足を運んだ。もちろん、そこに少年の姿が必ずしもあったわけではなかった。連日シャボン玉を吹きに来ることもあれば、しばらく姿をみせないこともあった。出現に規則性がみられないため、綾乃は公園に寄るたび賭けをしている気分になった。アルバイトのある日は早めに切り上げたが、ない日はなるべく少年が帰るまでの時間、つまり五時までベンチに座って絵を描くようにした。そして描いた日には、その進度を創作日記につけるようにした。
描き始めてから二週間ほどしたある日、綾乃は少年に話しかけてみた。絵の対象に接することで、描く絵が深まるというパターンはよくあるのだ。少年がいるブランコに近づき、「こんにちは」と綾乃は声をかけた。
「こんにちは。お姉ちゃん、ずっと僕の絵を描いてるのん?」シャボン玉を吹くのをいったんやめ、顔を上げて少年が言った。
まつ毛が長い子だなぁ、と綾乃は少し羨ましく思いつつ、答える。
「うん、気づいてた?」
「気づいてたー。だって、いつもこっちを見ながら描いてるんやもん」
のんびりした口調でそう言って、少年はあどけない笑みを浮かべた。独りでシャボン玉を吹いている時とは全く違う、子供らしい顔だ。
「幼稚園?」
「うん、年長だよ。ねえねえ、絵を見せて!」
「いいよ。まだ途中だけどね」綾乃は画用紙を少年の前に広げて見せた。
「あれえ! のっぺらぼう!」
「ははは、違うよ。まだ顔の中身描いてないだけ」
「ふうん、最後の方に描くの? 僕はいつも最初に顔の中身描くのに、変なの」
「人によって違うもんねえ。お姉ちゃんは、あとから描くんよ」
「ふうん、ねえ、それ全部描けたら見せてくれる?」
「うん、いいよ」
「約束だよ。お姉ちゃんの名前、なんていうん? 僕、ミチル」
「綾乃、よろしくね」
小さな男の子に自己紹介することなど大学生の綾乃には経験がない。綾乃はなんとなく照れくさい気持ちになり、そんな自分が可笑しかった。
「ところでミチル君、どうしてずっとシャボン玉を吹いているの?」
これは綾乃が一番訊いてみたいことだった。毎日のように子供がシャボン玉を吹くのは、別段珍しいことではない。しかし、シャボン玉を吹くミチルの表情に、綾乃はずっと絵を描きながらひっかかっていたのだ。少年の後ろに、何か特別な深い背景があるような気がしていた。それに、もう一つ気になることがある。この公園にはブランコは二か所に設置されている。なのに、いつも決まってこのブランコに座り、ミチルはシャボン玉を吹いているのだ。まるでこのブランコに執着しているようにさえ思えるのだった。
しかし綾乃が尋ねたとたん、ミチルの表情は雲ってしまった。シャボン液とストローに目をやり、ぽつりとミチルが答えた。
「……うん。シャボン玉でパパを呼ぶんや」
「シャボン玉で?」
「うん、シャボン玉が、パパを連れてきてくれる。パパが迎えにくるまで、僕は吹くんや」
のんびりした口調に変わりないが、声のトーンが低くなった。
「どうしてシャボン玉なの?」
「よくパパとシャボン玉で遊んだんや。シャボン玉を吹くときはいつもパパがいたんや。だから、僕がシャボン玉を吹いたらパパが来てくれる……」
「でも、パパは今お仕事してるんじゃないの?」
「ううん、毎日お店でお酒を飲んでるんやって、ママが言ってた。でもずうっとパパがおうちに帰って来ない。だから僕はシャボン玉を吹いてるんや」
「ずうっと? 何日も?」
「うん」
再びミチルはシャボン玉を吹き始めた。もうそれ以上訊かないで、とでも言うように。
彼の横顔を眺めながら、綾乃は今のミチルの言葉を頭の中で繰り返してみた。いまいち要領を得ないが、自分なりに一つの解釈を考えてみる。
ミチルの父は、おそらくミチルがシャボン玉を吹き始めた日から家に帰っていない。初めてミチルを見た日の記憶を辿ってみると、三週間前からだ。仕事をせず、毎日酒を飲んでいるらしいが、自宅には帰っていない。単純に判断すると、仕事が嫌になったミチルの父が、突然家を飛び出し失踪したかのような想像が浮かぶ。あるいは夫婦喧嘩でもして別居しているのかもしれない。いずれにしても、そのような事情を幼いミチルは理解しておらず、父の帰りを待ち続けている。父親とシャボン玉で遊んだ記憶が、まだ新しいまま頭に残っているため、ミチルの中では『シャボン玉』『父』『ミチル』の三要素が一つの集合体となって焼きついているのかもしれない。そして、だから三要素のうち『シャボン玉』と『自分』がそろえば、おのずと『父』も現れるのだ、と思い込んでいるのではないだろうか。
「あ、もうなくなっちゃった。それじゃあ、さようなら」
ミチルがブランコからぴょんと降りたので、綾乃は考えるのをやめた。
「さようなら」と綾乃が声を返すと、こちらの方に手を振ってミチルは公園を出て行った。ミチルが降りたブランコがゆらゆらと揺れていた。
綾乃は、ミチルの姿を公園に見つけては画用紙を広げ、細かい線を入れていった。大学の帰りに公園を覗くのは綾乃の日課となっていた。ごくたまにミチルと会話をすることもあったが、絵を描き始めると集中するため、知らずのうちに五時が来てしまい、ひとことも言葉を交わさずに終わるのがほとんどだった。
アルバイトのある日などは、三〇分ほどしかいられない。しかし、公園は駅のすぐそば、線路沿いにあるため、アルバイト先へ向かう電車の窓から、公園のミチルの様子を見ることができる。発車まで数分の間だが、独りでぽつんとシャボン玉を吹くミチルの姿を目にしては、五時までいられない自分の状況に、綾乃は歯がゆい気持ちになるのだった。綾乃には兄弟がいないので、無意識のうちに弟のように感じていたのかもしれない。弟を一人公園に残して去る感覚が、おそらくこんな感じなのだろうな、と綾乃は思った。それほど会話を交わしているわけではないのに、妙なせつなさを身に纏うミチルという対象は、絵が完成に近づくにつれ、綾乃の中で存在感を増していった。
ただ、彼のシャボン玉を吹き続ける理由については、何もわからないままだった。はじめに聞いたとき以来、その話を再びミチルに問いかけることもしなかった。ミチルの気持ちをつらくさせてまで訊きたいとは思わないし、おそらく聞いたところで自分にできることはないだろう。せめて絵を描いている期間、彼が事故などに巻き込まれないよう見守ってやるくらいだ。小さな幼稚園児が一人で公園にいるという状況は、思えば危険である。ただでさえ、この公園は人が少ない。五時の時点では、ほとんどいつも綾乃とミチルしか残っていない。綾乃がアルバイトで早く公園を去る日など、ミチルは一人でシャボン玉を吹いているのだ。電車の車窓から見るときは、たいていミチル一人だった。
ミチルと出会ってからひと月ほどが経った。綾乃は夕方からアルバイトの仕事が入っていたので、いつものように四時から三〇分ほど描くつもりで公園へでかけた。公園へ行くとミチルがいた。ブランコの方へ歩み寄り、ミチルに声をかける。こうやって話をするのは、かなり久しぶりだった。
「こんにちは」
「こんにちは。ねえ、お姉ちゃん、絵はまだできないの?」
「うん、もうすぐかな。ほら」
「わあ、ちゃんと顔もあるし、できあがりや!」
「まだ。もう少し、線に厚みを出さなきゃ。って、言ってもわからないか」綾乃が笑いながら言った。
「線が厚くなるの? 変なの」
「ミチル君、今日は何してたの?」
「ママとデパートに行ってきたんや。さっき帰ってきて、公園来たとこ」
「ふうん」
それから少し話をし、すぐに切り上げて、綾乃はベンチへ行った。アルバイトがある日なので、あまり話し込んではいられない。ミチルにも話したとおり、全体的に厚みを出す段階なのだ。つまり、仕上げ作業である。黙々と丁寧に繊細な線を入れていく。次回で完成させられるところまで進めておきたかった。
四時半が過ぎた頃、綾乃は作業を止め、ミチルに「それじゃね」と軽く挨拶してから公園を出た。振り返ると、ブランコからミチルが小さな手を振っていた。綾乃は軽く微笑んで手を振り返し、急ぎ足で駅へ向かった。
電車に乗り込み、ほっと一息ついた。この駅が始発の電車なので、発車までにはまだ時間がある。綾乃はいつもの車両の、いつもの車窓から公園に目をやった。
――と、不審な様子に、綾乃は動きを止めた。
ミチルが、大人の男ともみ合っている。
男がミチルをブランコから引き離そうとし、ミチルが必死に拒んでいるのだった。ミチルがこちらの方向を向いていつものブランコに座り、両手で鎖をにぎりしめている。一方、男はこちらに背を向け、ミチルの手を無理やり鎖から引き剥がそうとしている。角度的に男の顔はここからまっすぐ確認できないが、ちらっと窺える横顔からは、頬がこけて、どこか神経質そうな印象を綾乃は受けた。
ミチルが泣きながら何かを叫び、男がミチルの頬を打った。周りには、いや、公園の敷地内には二人以外の姿はない。鎖から手を離し、打たれたところに当てて泣きじゃくるミチルを、男は黙々と強引にかつぎ上げた。そして周りを見回し誰もいないことを確認すると、荷物を運ぶような淡々とした態度で公園を出て行く。
これは何か大変なことが起こっている。そう直感した綾乃はすぐに窓から顔を離し、電車を降りようとした。しかし、時すでに遅かった。ドアは閉まり、無情にも電車は動き出したのだった。動転し、再び窓にすがりつくようにして、徐々に遠ざかる公園に視線を向けたが、そこにはもう人の姿は一人もなかった。
気がかりなままアルバイトを終え、駅に戻ってくるとなんだかお酒が飲みたくなった。今日見たことを忘れてしまいたかった。しかし今から友人を誘うにしては迷惑な時間であるし、それにこの街には学生向けの飲み屋が存在しない。大人向けのバーが一つあるくらいで、そんなところで独り飲む気にもならない。しかたなく下宿のマンションに戻ると、綾乃はさっそく大学の友人である河合芙美加へ電話した。
二人で話しているうちに葉山楓の名が挙がった。楓が大学から突然姿を消してから半年ほどが経つが、彼女は在学中、頭の切れる美人として特に男子からの評価が高かった。問題に対する解釈や発想が人よりするどく、事実、多くの学生が彼女の世話になった。頼れる存在として慕われていたが、彼女自身はそういった相談事を疎ましく感じていたらしい。そもそも楓は人当たりが良い方ではなく、近づいてきては相談を持ちかけてくる人間に対し、そっけない態度をとることの方が多かった。相談事に対し、ある程度の重みを持つ問題に対してのみ、彼女は答えていたようだ。楓には特別親しい友人はいないようだったが、綾乃や扶美加とは比較的よく話す仲だった。
もちろん楓が相談に乗ってくれる保証はないが、どうしているのか気になっていたし、久しぶりに会ってみたくなった。決心し、綾乃は電話口で「楓に会ってみる」と芙美加に告げた。
3
綾乃が話し終わっても、楓は「ふうん」と鼻で返事を返しただけだった。それも這いつくばった体制で、今日の新聞を読みながらである。真剣な人の話を聞くどころか、話の途中から新聞を読み始める始末。その様子に不安を感じて、芙美加が言った。
「ねえ、楓。ちゃんと聞いてくれてたん?」
「聞いてたよ。それより綾乃、描いた時にはいつもつけてたっていう創作日記は持ってきてる?」
「うん、いちおう。でも、役に立つかなあ」綾乃はハンドバッグからノートを取り出す。
楓は身を起こしながらノートを受け取り、最初のページを開いた。そこには、日付とその日の作品の進行具合、次に描く時のためのメモなどが、一日あたり五行程度のスペースで書かれている。パラパラと軽く目を通してから、
「ええと……」突然楓は部屋を見回した。隅に置いてある古い新聞の束をみつけるとそれに手を伸ばし、縛っていたビニール紐を解き始めた。そして、新聞を一つ一つ手にとっては、ノートと照らし合わせ何かを確認している。その結果選ばれた新聞はテーブルの上へ置かれ、選ばれなかったものは元の場所へ積まれていく。
楓の作業を、綾乃と芙美加は黙って見守っていた。見ているうちに、綾乃が少年の絵を描いた日の新聞を選び出しているのに二人とも気がついたが、しかし一体これから何をするのだろう。彼女の考えていることが二人にはまるっきり理解できない。
数分後、作業を終えた楓は、テーブルの上にピックアップした新聞を再度読み始めた。具体的に何を読んでいるのか、向かい合っているこちらからは見られない。読む時間が少し長いし、目線が若干下の方なので、日付欄ではないことだけはわかる。一面だけ見て、次の新聞へ移った。その新聞も一面だけ目を通して終わり、また次の新聞もそうだった。途中で、「へ~、なるほどね」とひとこと言ったが、それっきり楓の口から言葉は発せられなかった。結局最後まで同じ動きを繰り返していき、ばさっと最後の新聞を積まれた束の上に投げて、楓が言った。
「なんとなく見えてきたよ。まだ想像、いや妄想の域を出ないけれどね」
「ほんとに?」
「ただ、あたしの妄想どおりなら、これはあたしたちの介入する問題ではなさそう」
「え」
「さて、ちょっと出かける。あんたたち、ちょっと先出ててくれる? アパートの下で待ってて。すぐ行くから」
その言葉にきょとんとしている綾乃と芙美加に向かって、楓は付け加える。
「外に出るなら化粧くらいさせてくれ」
「ああ、うん。それじゃ、下で待ってる」
芙美加は立ち上がり、慌てたように玄関に向かった。綾乃もテーブルの上にある風呂敷をたたんでバッグに詰め込み、芙美加に続いた。
十数分、階段を降りたところで、今回のことについて二人が話し合いながら待っていると、二階のドアの開く音がした。コツコツとこちらに向かう足音が聞こえ、間もなく二人の頭上に女性が姿を現し、ゆっくりと足を運びながら階段を降りてきた。胸の開いた黒いVネックニットに、ロウライズジーンズ、階段を下りる足に目をやると薄ピンクのミュール。ミディアムロングで、カールしている髪が、うつむき加減の顔の横で揺れている。
二人の前に降りてくると、彼女は形の良い唇で僅かに微笑し、「さ、行くか」と二人を促した。大学にいた時の楓がそこにいた。
「ねえねえ、どこに行くの?」
綾乃が訊くのに、
「公園―」
そっけなく答える楓の横顔を見て、ふと芙美加はずっと思っていた疑問をぶつけたくなった。なぜこの子は大学を辞めたのだろう。男の子にも人気があったし、成績も良かった。確か家柄も良かったはずだし、学費に困っての退学ではない。すると、この子自身の中に潜む理由からだろうか。
「ねえ、楓。なんで辞めたの? 大学」
「さあね」とすぐに彼女は芙美加の質問を切り捨てた。あらかじめ予測していたのかもしれない。しかたないな、と芙美加も諦めた。いろいろと事情があるのかもしれない。あるいは楓は頭が良いから、自分たちには理解できないような理由なのだろう。
「あのアパートさ、大学辞めた人たちばかりが住んでるって噂があるんだけど――」と大学での噂を綾乃が切り出すと、それには、
「あ、それほんと」と楓は可笑しそうにくすくす笑って答えた。「しかもね、隣の芹沢君の部屋なんて、あたしの部屋とそっくりなくらい荒れてるんだわ。生活のスタイルも自ずと似てくるもんなのかも」
「あんた、男の部屋にそんな軽く入るのは――」
「いやいや、あの子はそんな奴じゃないって」
芙美加の言葉をさえぎり、ふふんと鼻をならして、何か満足そうに言った。彼女が大学にいた頃は、男の話でこんな機嫌の良さそうな顔を見せる事などなかった。
公園に着き、問題のブランコの前へ来ると、楓は園内の時計を見て言った。
「今の時間は……五時前か。ミチルは、公園に来る日は五時きっかりまで吹いていたん?」
綾乃が、うん、と肯く。
「ということは、やっぱり今日は来てないな」
と楓はブランコに腰掛け、足をぶらぶらさせながら言った。そしてそのまま前を観てぼうっとしている。
芙美加と綾乃も楓の視線の先にある駅に目をやった。このブランコは腰掛けると駅を眺める形になる。視界の右から左に、左から右にと電車が通過し、あるいは真ん中に位置する駅に停車する様子をミチル少年は眺めていたのだろうか。
「やっぱりあれは誘拐やったのかな……」綾乃がつぶやくと、
「いや、大丈夫。問題ない」楓はスタッとブランコを降りて言った。
「え?」
芙美加が訊き返したが、楓は何も答えずに公園を出て行く。
4
それから黙々と早足で進む楓の後ろを、綾乃と芙美加の二人は半分走るようなスピードで追いかけた。
駅前まで来て楓が足を止め、コツコツとアスファルトを鳴らす足音が止まる。そして彼女は駅周辺の案内図を見上げた。何かを探すような彼女の視線をたどり、その先に目をやる。木製の大きな薄い板の上に白地のペンキが塗ってあり、その上に地図が書かれている。病院、警察署、郵便局、学校ばかりでなく、美容室や花屋、八百屋、スーパーなども板の上に細かく書き込まれている。
綾乃と芙美加は再び楓の眼を見た。そしてその先に何があるのかを探ったが、二人とも楓が何を見つけようとしているのかわからなかった。駅付近の店の賑わうエリアからはすぐに視線をはずし、徐々に離れた場所へと移していく。
「ねえ、何を探してるの? 今度はどこに行くつもり?」
芙美加が話し掛けると、
「あった、あった」看板に背を向け、彼女は再び歩き出した。
二人は顔を見合わせ、無言で肯く。彼女にはもう自分たちの存在など見えていないらしい。彼女の後を黙って追跡するしかない。
駅の構内を抜け、線路の向こう側へ抜けた。目的地への道順は頭にインプットされているのだろう、楓はややこしい路地も迷うことなく進んでいく。駅からずいぶん歩き、やがて、路地の一角にぽつんと構えたバーらしき店が現れ、そこで「あそこ」と二人に振り向き楓が言った。そう言われたところで、二人は全く要領を得ず、やはり顔を見合わせ互いに首をかしげた。
楓が扉を開き、店の中に入っていくので、二人も続いた。中に入ると意外にもカジュアルなバーだった。決して広くはないスペースに目を巡らすと、テーブルには楓たちと同年代であろう学生らしきグループが席を陣取り、カウンタの奥には二十代後半くらいの歳と思われる男が一人座って飲んでいた。
楓はドア寄りのカウンタ席に着いた。楓の右隣に綾乃、その右隣に芙美加が並んで座った。
髪をきちっと後ろに流した若いバーテンダーが近寄って、「いらっしゃいませ」と微笑みかけてきた。その笑顔に少しぎこちなさを感じる。新人なのかもしれない。
「良い店ですね」と楓が言い、この店のオリジナルカクテルを注文した。彼女たちもそれにならった。
バーテンダーは慣れた手つきで三人分のカクテルを造り、三人の前へ一つずつ上品に置いた。楓はグラスを手に取り、ブルーのカクテルを少しの間眺めてから、一口飲んで「おいしい」と微笑み返した。女子二人も、おいしい、と感嘆の声をもらした。
「僕の自慢のカクテルなんですよ。飲みやすくて、でも大人の味がするでしょう? マスターは認めてくれないけれど」苦笑してバーテンダーが言った。
「うん、あたしはあまりカクテルを飲まないけれど、こんなカクテルは初めて。エレガントとカジュアルが共存している感じ。少しでも狂えばこの調和は崩れるでしょう。精密な仕事ですね」
楓の言葉に気を良くしたのか、バーテンダーは微笑み肯く。
「三人さん、初めてですか? ここで勤めて実はまだ一か月でして、お客さんの事を把握していないんです」
「ええ、初めてです」と芙美加が答えた。
「そうでしたか、ありがとうございます。ところで、どうしてここを知ったんです? こんなにこじんまりとした場所にあるバーなのに。この辺に住んでらっしゃるんですか?」
「人を探しに来たんです」
楓の答えに、意外な顔をしたバーテンダーだったが、それは綾乃と芙美加も同様だった。人探し? まさか、ここにあのシャボン玉少年がいるとでもいうのだろうか。楓の隣に並ぶ二人はお互いに顔を見合わせては首をかしげる。この動作を今日一日で何回しただろう。そしてあと何回するのだろう。
「何という方をお探しですか? この店のお客様でしょうかね?」
「名前はわかりません。ただ、ここ最近この店に通い続けてるお客さんで、奥さんと離婚あるいは別居なさっているという男性はおられませんか?」
「あ、それなら……」バーテンダーはカウンタ隅に一瞬目をやった。その先には、先ほど来店時に目にした男性が、ちびちびウイスキーを飲んでいた。
「あの方が?」と楓が訊くのに、
「しまった」と彼が小さくこぼした。客のプライバシィを他の客に漏らしてしまうのは禁止事項として、先輩から教えられているのだろう。彼は自分のミスに舌打ちをした。そんな様子を察してか楓は、
「わかりました、ありがとう。大丈夫です」と軽く笑いかけた。
楓は男性へ近づき、「すみません、よろしいですか?」とひとこと断りを入れ、隣の席に着いた。楓に合わせてまたぞろぞろと続く気にはならなかったので、綾乃と芙美加は今の席に留まり、彼女の様子を見守ることにした。
「ちょっとお話しても?」
「は?」と男は訊き返したようだった。楓の声は大きかったが、男の声は店内の音にかき消され、口の動きしかわからない。楓が今度は声のトーンを落してまた何か言うと、男は一度少し驚いた顔をし、それから静かに肯き、ウイスキィのグラスを傾けて口へ運んだ。
綾乃と芙美加は彼らの会話に耳を傾けたが、やはり店内に流れるジャスの音楽ばかり耳に入ってくる。芙美加は、よほどカウンタにいるバーテンダーの青年に、「音量を小さくしてくれ」と頼もうか迷ったが、おそらくこれも、客の会話を周囲に漏らさぬようプライバシィに気を利かせた結果なのだろう。楓たちの会話は非常に気になるが、芙美加は我慢した。あとで訊けば良い。バーテンダーの青年と会話を楽しみ、時間をつぶすことにした。
5
それから三〇分ほどしてようやく、楓と男の会話は幕を閉じた。
楓は彼女たちの横に戻ってくると、軽い口調だが、ひどく真面目な顔で言った。
「これで全部明らかになったよ」
そして前髪をかき上げてから、ふうっと息をついた。
楓の部屋に戻ってきて、一番に口を開いたのは芙美加だった。
「ねえ、どういうことだったの? 全部わかったって言ってたけど」