饭饭TXT > 海外名作 > 《嘘の瞳/说谎的眼睛(日文版)》作者:[日]芹沢晶【完结】 > 说谎的眼睛.txt

文章简介

作者:日-芹沢晶 当前章节:15395 字 更新时间:2026-6-22 21:36

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1

「おい! おいって! 晶おらへんか?!」

 ドアを叩く音がする。昼寝をしていた芹沢晶は目をこすり、布団から這い出て立ち上がった。うんざりした声で「うるせえな! 叩くのやめろ」ドアに向かって怒鳴った。すると、とたんに音がやんだ。

 びんびんと耳に届くはりのある声で相手の見当はついた。同じ大学の友人、戸川登だろう。下宿しているのが近所なものだから、何かあるごとにしょっちゅうたずねてくる。本人にとっては真剣そのものなのだろうが、芹沢にとっては取るに足らないくだらない話が九割を占める。あとの一割は頭の体操になるかという程度の少しは手応えのあるものではあるが、今日はどちらだろう。どうせ前者に違いないな、とため息をつきながら芹沢は玄関の前に立った。

 ノブを回してドアを開けると同時に、芹沢は相手も確認しないうちに言った。

「あんまり強く叩くな。戸がぶっ壊れるやろうが!」

「わ、鬼の形相やな。寝起きやったか、そら悪かった」怒鳴られ目を丸くした男は、芹沢の想像どおり、戸川だった。

「やっぱり戸川か。人のこと言えるかよ。なんやお前のそのイライラした顔は」

「ちょっと嫌な事があってな。お前に聞いてもらいたくなってよ」

 声が高く童顔のこの男は、大学生には見えない。よく高校生に間違えられるらしいが、今日もぱさぱさした黒い髪を真っ直ぐ前に降ろし、手首には驚くほど幼稚なデザインの時計を着けている。

「いい迷惑だ、閉めるぞ」

 言うと同時に芹沢はドアを閉めようとした。が、登が慌ててドアの淵に手をやって言った。

「ちょ、ちょっと待ってくれや。聞いてくれてもええがな。どうせもう、頭は覚めてしまってるんやろう?」

「手短に話せや。ま、どうせ女にふられたとかいう、聞く側にしてみたらどうでもええ類いの話やろうけどな」

「まさにそれや!」

 どうしてわかったんだ、という表情で戸川が答えた。

「閉めるぞ」芹沢は呆れた顔でドアを引く。

「待てって。ほら、差し入れ持って来てんねん。どうです、晶はん?」わざと媚びるような表情を作って戸川が言った。

「ん、これは!」

 顔の前に差し出された箱に、今度は芹沢が目を丸くした。

「駅前のワッフルじゃ」

「あの最近できた店か」

「知ってるなら話は早い。グルメ雑誌にも載った。食べてみたくないか?」

「入りたまえ」閉めかけたドアを再び開けて芹沢が言った。

 靴が四足分置けるか否かという狭いスペースで靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れると、ぐるりと見回して戸川が言った。

「相変わらず汚いなあ、お前の部屋」

 芹沢の部屋は毎度のことながら散らかっていた。戸川も人のことが言えないくらい不精者だが、それでも二週間に一度は部屋を片付け掃除をする。芹沢は月に一度するかどうか、というレベルであるから戸川とは比較にならない。

 あたりには本が散らばっている。主に学術本が多いが、訪れるたびに、その散らばった本のジャンルが変わっている。テーブルの前で腰を降ろし、戸川は床にある本を適当に手にとって、パラパラとめくってみた。どうやら哲学に関する内容らしい。

「今度は哲学かいな。お前の興味は常にあちこちに移り変わるなあ。大学も突然辞めちまうし、お前の頭の中はよう理解できんわ」

「ヴィトゲンシュタインとキェルケゴールの神とか伝達に関する理解の類似性を確かめてたんや。ヴィトゲンシュタインがいかにキェルケゴールを意識したかってのは、本を読めば明らかだが――」

「講釈はええよ。それよりなんや、客が来たのにお茶も出んの?」

「欲しいなら自分で用意しろ。キッチンの左脇の戸棚に緑茶なり紅茶なり入ってる」無愛想に芹沢が答える。

「はあ、そうですか。ええと、ワッフルには紅茶やな」呆れたように立ち上がり、戸川はキッチンの戸棚を開いて言った。「砂糖はあったが、カップは? どこにあんねん」

「右脇の戸棚に入ってる。ああ、ついでに俺の分も頼むわ戸川君」ワッフルをもぐもぐを口にしながら芹沢が言った。

「へいへい」

 戸川が二人分の紅茶を持ってきて、片方のカップを芹沢の前に差し出した。

「はいよ」

「ご苦労。そういや今思い出したけどさ、お前飼ってた鼠が消えたって電話よこしたよな。一週間くらい前に。一緒に探してくれとかいう馬鹿げた電話。もちろん断わったけど」

 戸川が二ヶ月ほど前にハムスターを買い、マンションの管理人には内緒で飼い始めたことは彼の友人間では周知の事実だった。芹沢の記憶によると、何かテレビで見た影響だったと思うが、周りから見れば滑稽なぐらい可愛がっていて、その親馬鹿ぶりを戸川自身が友人たちに言い回っていたからだ。そのハムスターが突然消えたという話をなんとなく思い出して芹沢が訊いた。

「あほ、鼠と違うわ。ハムスター」

「どうなったんや。みつかったんか?」

「いや、みつからへんかった。結局どこかへ消えてしまった。未だに謎やな……」それなりにショックだったらしく、思い出したのか少し表情を曇らせて戸川が言った。

「ふうん。どんな話やったんだっけ?」

「ちょっと外に出てる間に、消えてたんや」

「ドアのカギは閉めて行ったんか?」

「もちろん。窓も閉めて行った。それなのに帰って来たらゲージから姿が消えていたんや」

「推理小説でいう密室状態やったということか」

「そうや」

「そのとき、お前は何しに外に出てたんや?」

「俺、その時は彼女の、愛子の誕生日にバラの花を買いに行ってたんや」

 そこで芹沢が声を上げて笑った。

「バラやと! お前そんな柄と違うやろう」

「男はカッコつけたくなる時があるんや。まあ、お前にはわからんやろうけどな」ふんと鼻を鳴らして戸川が返す。「駅前まで出て花屋で花を買い、部屋に帰って来た俺は、さっそく花を手作りの花瓶にセットして水を――」

「ちょっと待った」

 クククと笑いを押し殺した様子で芹沢が訊ねた。

「俺の聞き間違いか? 今、手作りの花瓶と?」

「そうや。俺は自分の手で花瓶を造ったのだ」

「あはは! すごい。いや、君、すごいよ!」腹に手を当て、目には涙を滲ませながら芹沢が言った。「そうか、ここ最近戸川が陶芸サークルに出入しているという噂があったが、これだったのか! これはちょっとしたネタやぞ。さぞかし不細工な壺ができたんやろうなあ。見てみたかったな」

「おい、ええ加減にせえ。まじで怒るぞ。涙まで浮かべやがって。それに壺やない、花瓶や」

「いや悪い。誤解せんどいてくれ。この涙は感動の涙や」

「話の腰を折るなや」

「悪い悪い。いやでも、そこまで情熱を注げる対象があるというのは素晴らしいことや」

「本心で言ってないやろ、お前。ふん、まあええわ。

 とにかくそれからハムスターがゲージの中からいなくなっていることに気づいたんや。でも、ハムスターが逃げ出したことは今までに何度かあったし、耳をすませば、大抵は爪で掻いたり、歯で何かを噛んだりするカリカリカリって音がして居場所がわかる。だから別段、慌てはしなかった。今までそうして見つけてきたし、今度もそうしてみつけようと思った。

 けれど、耳をすませても何も音は聞こえない。だいたい抜け出したらいつも同じところに隠れている。冷蔵庫の裏なんだけど、覗いてもいなかった。部屋のどこかにいるはずだと思って捜査を始めたが、その時ちょうど部屋は豚小屋状態でな、えらい散らかりようだった。この芹沢の部屋並に。自分で散らかしたのにもかかわらず、無性に腹立たしくなってきてな。片付けながら探していったが、いっこうに見つからないし、だんだんイライラしてきて探し方が荒くなった。うっかり花瓶を倒してしまいそうになって冷や汗ものだった。おい、笑うな」

「そんなに大事な壺なのかと思ってな」くすっと笑いながら芹沢が紅茶のカップに口を付けた。が、「うげえ! 砂糖入ってへんぞこれ。お前、自分の分だけ入れてきやがったな」舌を出して苦い顔をした。

「ざまあ見ろ。しかしあの時は本当にひやっとした。せっかくの手作りが粉々になったんじゃあ、たまたんからな。高いところに移動させてから捜査を続行した。机の引出しやら、小物入れやら、洗濯機の中やら、しまいには便所のタンクまで見た。結局夜中まで這いつくばって入念に探したんだが――」

「みつからへんかったわけやな」

「そうや、でも今日はその話をしに来たんやない」

「彼女にふられた話やろ」にやにやしながら芹沢が言った。

2

「ああ、それがな、わからんのや。俺はふられたんやろか」

「はあ? お前、自分がふられたかどうかもわからんのか?」呆れ顔で芹沢が訊く。

「わかってたらここには来てへん」まじめな顔で戸川が答えた。

「つまり話を聞いた上で、俺に判断しろと?」

「まあ、そういうことや。お前に恋愛のことがわかるかどうか疑問だが、冷静にモノや人を見る目は買ってるんでな」

「前の方は余計や。話してみろ」

 言いながら芹川は台所に砂糖を取りに立った。台所へ顔を向けて戸川は話を始める。

「ああ、花を買ったその次の日やな。愛子の家に花を持っていった。お前も知ってるやろう? このあたりでは一番大きなあの家。いつも緊張するんだよなあ。ただでさえ緊張するのに、プレゼントが気に入ってくれるかどうか気になって余計に緊張したわ」

「ああ、そんな貧乏くさいプレゼントじゃ、お気に召すか心配にもなるわな。お嬢さんと付き合っていると大変だろうねえ、戸川君」砂糖を入れながら皮肉っぽく芹沢が言う。「そもそもお前らがどうして知り合ったかが疑問やな。鼠が消えたのよりよっぽどミステリやないか」

「ある日、公園の芝生で寝転がって本を読んでたら眠ってもうてな。そしたらいきなり顔に気持ちの悪い感触があって飛び起きてみたら、こんな大きな犬が目の前にいたんや。どうやらこのいかつい犬が俺の顔をなめたらしい。なんて失礼で酷い犬や。見ると首輪をつけている。飼い主にひとこと言ってやろうと顔を上げたら綺麗なお嬢さんがくすくすと笑ってるやないか。俺は拍子抜けした。何かこのいかつい犬と飼い主の女の子の対比が可笑しくてな。まるで美女と野獣やな、と思って俺も笑ってしまった。それが俺と愛子のなれそめや」

 居間に戻ってきた芹沢に、戸川が自慢げに答えたが、

「あはは! 何がなれそめや。だいたい、美女と野獣って、その彼女とお前のことやろうが。幼い顔しながら、お前のその起伏の激しい性格はまさに野獣や」芹沢は思わず手元に落ちていた本を開き、顔に被せて笑いを抑えるしぐさをした。どうやらツボにはまったらしく、本当に笑いを抑えているようだ。

「うるさいわ。お前が知り合ったきっかけを訊くから教えてやったんやろう。失礼な!」

「オーケー、オーケー、登。それで花を届に行って、どうなった?」涙目で芹沢が先を促した。

「手作りの花瓶に入れた花を彼女に手渡すと、一度びっくりしたような表情になって、それから静かに微笑んで『ありがとう』と受け取ってくれた。あのリアクションはたまらなかったな。育ちの良いお嬢様の微笑みだ。お前は見たことないだろうな、そういうの」

「余計なお世話だ。それでどうなったんや。そこまでの話やと、全然ふられたように聞こえないぜ」目じりに指を当てて芹沢が訊く。

「彼女の部屋に花を置いて、そのまま部屋で少し話してすぐに帰ることにした。俺がその後バイトやったからな。玄関で、一週間後ならお互い予定があいていることを確認してデートの約束をした。それから愛子の家から直接バイトに向かった。

 そして、一週間後というのが今日やったわけや」

「なるほど。すると、本日めでたくふられたってことか」

 芹沢が茶化すのを無視して戸川が続けた。

「今日迎えに行った時、ついでに部屋の花を見せてもらおうと思いついて、上がらせてもらった。やっぱりちゃんと飾ってくれているのを見ると嬉しいしな。でも、愛子は浮かない様子で拒否した。『部屋が散らかってるから』と。なんだか変だぞ、と思った。今までそんなことはなかったから。半ば強引に説き伏せて部屋に入るとおかしなことになってた。

 花はそのままだったが、俺の造ってあげた花瓶は他のものに替えられていたんや。

 俺は、『お前、どういうことや? なんで俺のプレゼントした花瓶じゃないんや』そう問い質した。けれど愛子は浮かない顔をしたまま何も答えない。次に、『俺の花瓶はどないしたんや』と訊くと、おろおろとした口調で、『うっかり落して割ってしまった』などと言って返してきた。

 けど、あれは嘘や。俺にはわかるんや。愛子は嘘をつく時、伏し目がちに眼を左右に細かく動かす癖がある。その時もそうやった。嘘の眼や。

 ショックだった。まるで裏切られた気分やった。確かに出来は不細工やったかもしれへんけど、下手なりに頑張って造ったんや。それが彼女の部屋には置かれていない。どこで買って来たのか、他の綺麗で高そうな花瓶にとって変わっていた。

 愛子が何か弁解めいたことを言いかけたが、『もうええわ。その眼が嘘をついているやないか』と吐き捨て、舞い上がった俺は彼女を部屋に置いて出てきた。けど、歩いているうちになんだか自分に腹が立ってきてな。帰りがてらお前の部屋に寄ってみたんや」

「なんで腹が立ったらうちに来る」芹沢が苦笑する。「俺にしてみたら迷惑極まりない。眠りを妨げられたんやからな」

「ああ、悪かった」さっきまでの元気はもうなく、戸川は話しながら感傷的になっていた。芹沢が言うように、感情の起伏が激しいのは戸川の性格の一つである。それは自分でもわかっているようだった。

「なんだか勢いで出てきてしまって、実は少し後悔してる。もしかしたら、ほんまに割ってしまったのかもしれへんしな」首の後ろをさすりながら、やるせない表情で戸川が言った。

「まあ、ワッフルでも食え。最後の一つお前にやるからさ」

 残り一つワッフルの入った箱を芹沢が押しやると、

「俺が買ってきたんや。俺がいただくのは当然や」そう答えて戸川は少し笑った。

 芹沢が紅茶に口をつけ、戸川がワッフルに手を伸ばしかけたそのとき、コンコンと玄関のドアをノックする音がした。

「芹沢ーいるかー?」

 二人は顔を同時に見合わせた。二度目のノックが鳴ると、芹沢が「やれやれ」と重たそうに腰を上げた。

3

「次は誰だよ」とつぶやきながら芹沢が玄関のドアを開くと、やはり大学仲間の北野和也が立っていた。

「いつも思うけど、なんでここベルがないんや?」

「さあね、大家のみぞ知るだ。なんの用や?」

「なんの用、とはまたクールな返しやな。先月お前が突然大学辞めて以来、久々に顔合わせたのによ。

 借りてた線形代数学の教科書返しに来たんや。サンキュ」北野は教科書を鞄から取り出し、芹沢に手渡した。

「ああ、そういや貸してたな。なくしたお前の教科書はみつかったんか?」

「いや、みつからんかった。教室に置き忘れた気もするし、誰かに貸したきり返してもらってないような気もする。学生課に忘れ物がないか訊きにも行ったんやけどな。届いてないし、結局原因不明のまま行方不明や」

「ふうん」ハムスターの次は教科書か。なぜか俺の周りはモノをなくす奴ばかりだな、と芹沢は思った。

「これ、やるよ。俺はもう使わない」

「え、本当に? それじゃあ、遠慮なく」芹沢につき返された北野は教科書を受け取り、「あれ? なんやこの靴。お前のやないな、さては女か? これはお邪魔したな」

「こんなサイズのスニーカーを履く女は俺の知り合いにはいない。いるならぜひ会ってみたいな。登が来てる。お前も上がっていくか? 残念ながらワッフルはもうないけどな」

「え、登が? ちょうどいい、あいつに聞いてみたいというか、話しておきたい事があったんや。お邪魔するわ」

 戸川のスニーカーに重なるように靴を脱ぎ、北野が部屋に上がり込む。すると戸川がワッフルを食べ終えて紅茶口に運ぶところだった。戸川は顔を上げて、「一足遅かったな。ちょうど最後のワッフルがなくなったところや」

「そりゃ運が悪かった」たいして気にもしてない調子で北野が答える。「ところでお前さ、彼女の様子はどうよ? うまく付き合ってるのか?」

 訊かれた戸川は思わず紅茶をぶちまけそうになった。なぜ北野の口からそんな質問が出てくるのか。まだ今日のことは芹沢以外には話していない。だいいち、愛子の家を出てからそのまま直接この芹沢の部屋を訪れたのだ。ふと芹沢の顔に目をやると、彼は首を振った。「話してない」というジェスチャのようだ。

 再び北野に視線を戻し、

「なんで?」と戸川が訊き返した。

「いや実はな、夜の公園でお前の彼女らしき人物を見かけたんだが、ちょっと怪しい行動をとってたんや」

「いつの、話や?」

「ええと、ちょうど一週間前かな」

 北野が答えると、戸川は目を丸くした。

「俺がプレゼントした日や……!」

「プレゼント?」

「ああ、花をプレゼントしたんや。手作りの花瓶にいけて」

 それを聞いて芹沢のように笑いはしなかったが、その代わり北野は眉をひそめた。

 戸川はさっきまで芹沢にしていた話を、再び北野にも話し始めた。その間、北野は「ふむふむ……」と肯きながら聞いていたが、やがて全て聞き終えると、

「そうか! あれは花瓶やったのか」と自分を納得させるように北野が言った。その言葉に、

「なんやと?」と戸川が訊く。

「最悪の事態ではなかったということや」

 北野の話によると、こういう事だった。

 一週間前、北野はバイト帰りに公園を通った。ファーストフードの夜の仕事だったから、時刻は十一時前になっていた。レンタルしていたCDの返却期限であり、バイトの後に返そうと思っていのだが、ぎりぎりになってしまった。十一時でレンタルショップは閉店である。延滞料金は払いたくなかった。なんとしてでも間に合わせるため、北野は公園を横切ってショートカットしようと思いついた。

 ひっそりとした構内を早足で歩いていたら、なにやら変な音が聞こえてきた。北野は足を止め、耳をすませた。音のする方に見当をつけ、目を凝らすと人影が見えた。しゃがみ込んでいるが、小柄なシルエットで、またスカートらしいのがわかる。女らしい。そして、ザクッザクッと、さっきから聴こえているのは、どうやらシャベルで土を掘る音のようだ。その音は硬質な緊張感を含み、決して穏やかな雰囲気ではない。

 興味本意で遊具の影に隠れながら、北野は人影に接近した。かろうじて姿が見られるかどうかという位置まできて息を潜めた。ゆっくり覗き見ると、やはり女性らしい。こちら側に背を向け、しゃがみこんで土を掘っている。肩甲骨のあたりまで髪が降りている。暗がりだから、その髪が不気味に黒々として見える。

 そして、女の脇には何か得体の知れない塊が置かれているのだった。

 北野は瞬時にそれが何か妄想し、その自分の妄想にぞっとした。

 その塊は直感的に人の頭と同じくらいの大きさを思わせる。もしかしたら、と北野は考えたのだ。殺人を犯したこの女が被害者の身体をバラバラにし、頭をここに埋めるつもりなのかもしれない。他の部分は見あたらないが、それは違う場所に埋めてきたのだろう。ああ、これは殺人事件を目撃しているのかもしれない。いくらじっくり目を見開いて観察してみても、その塊が何であるのかはっきりわからない。CDの返却時間などとうに忘れ、北野は食い入るようにその塊に目を集中させた。すると穴を掘り終えたらしい女の手が、その塊に触れた。

 ゆっくり両手で持ち上げる。その重量感も妙にリアルで、北野は自分の妄想が確かであるような気がしてきた。大体、こんな深夜に女が独りで公園に来て穴を掘るなど尋常ではない。

 一体何を埋めているのだ。北野の好奇心が刺激された。思わず身を乗り出したとき、野良猫が北野の目の前を横切った。「ニャア!」と鳴き声を上げながら、猫は一瞬で姿を消したが、その鳴き声は当然女の耳にも入った。作業をしていた女がびくっと動きを止め、さっと警戒心をあらわにして振り向いた。一瞬、北野と女の目があった。気づくと女とは反対の方向へ、北野は衝動的に走り出していた。

 そして下宿に戻って冷静に考えてみると、あの女の顔に見覚えがあるのだった。さてどこで見た顔だろう、と頭をめぐらせていると、数分もしないうちに思い出した。あいつの彼女の顔にそっくりじゃないか。いや、間違いない。普段から戸川に何度もしつこく見せられているだけに、写真の顔は深く刻まれている。そして、それとたった今公園で見てきた女の顔は酷似している。いや、一致していると言って間違いなかった。あの女は戸川の付き合っている彼女だった。

 それからなんとなく、戸川の彼女が人殺しなのではないか、という少々誇大妄想気味な想像が北野の頭から離れなかった。もしそうなら北野に知らせるべきか。それともあいつはすでに知っているだろうか。なんでも大袈裟に膨らませてしまうのは良くも悪くも北野の癖なのである。しかし、北野がそのように頭を働かせるのにも無理はなかったかもしれない。最近この近くで人が行方不明になる事件があったからだ。

 ちょうど北野の下宿の裏手にあるアパートの一室で、独り暮らしをしている老人がいなくなったのである。息子が久々に訪れたのだが、前もって約束をしていたのにも関わらず、ベルを鳴らしても反応がない。不審に思った息子がドアノブを回すとカギが掛かっていなかった。何かあったかと思い、慌てて中に入ったが、老人の姿はなかった。一晩待ったが、老人は帰ってこない。夜が明けて、どこかへ出かけたきり事故にでもあったのだ、と見切りをつけ、息子は警察に連絡した。捜索願を出したが、それ以来みつかったという話は北野は聞いていない。町内ですぐに話題になったので、この辺りでは誰でも知っている事件となった。そして重要な事実は捜索願が出されたのが一〇日前だということだろう。つまり、北野が夜の公園で奇妙な女の行動を目撃する少なくとも三日前に人が一人この辺りで行方不明になっているのである。北野の想像は日を重ねるごとに少しずつ大きくなっていた。

 そして今日、借りていた物を返しに芹沢の部屋を訪ねると、戸川がいるという。勝手に想像を膨らませていたとはいえ、それを抱え込んだままの北野は荷が重くなっていた。話しづらいこともあって学校で戸川を見かけても話さずにいたが、もうこの際あいつに話してしまおう。戸川の反応次第では真相がわかるかもしれない、と芹沢の部屋にお邪魔したという話だった。

 4

「つまり、お前の彼女は人を殺したのではなく、お前の恰好悪い花瓶を処分したかっただけなんやな」肩の荷が降りたのだろう。北野がほっとしたように言った。

「なんでやねん。なんで俺の花瓶を処分する?」必死に否定しようと戸川が訊く。

「あきらめろ。お前はもうお嬢さんに捨てられたのさ。そうやな、そしてその取って代わっていた高そうな花瓶というんは、きっと新しい彼氏にでももらった物やろう」

「ふん、なるほどね」と芹沢。

「それじゃあなんで花はそのままやったんや! もし俺がふられたんやとして、普通、花も一緒に処分するもんちゃうんか」

「花は植物や。生き物やから、可哀相やったんやろう。花に罪はない。それに女ってそんなもんやぞ」

「うんうん」と肯き、「さすが和也、女をよく知ってますな」芹沢が北野をひやかした。

「芹沢も姉さんがいるからわかるやろう。女は変なところで理性を働かすんや。かと思えば、何も考えずに動いたりもするしな。ところで、お前の美人な姉さんは元気か?」

「ああ、元気だよ。そろそろ結婚するらしいがね。

 まあ、女がどうこうって一般論は置いておいて、話を戻そう。登の彼女が埋めていたものってのが、登のプレゼントである不細工な花瓶やという、おまえの推測は真面目な話か? つまり、今ここで登をへこまそうとからかっているのではなく、真面目に思い返してみた上で言っていることかという意味だが」

「いや、真面目な話や。重量感が人間の頭みたいにリアルで気持ちが悪かったといっても、実際の人間の頭がどんなものか知ってるわけやないしな。それに形が少しいびつだった気がするんや。今思い出してみると物体の上のところにこう、タコの口みたいな突起があった感じもする。物体自体もちょっとひょうたんのような形やった」

 そこで芹沢が口を挟んだ。

「どうや、登。お前の造った花瓶はそんな形なんか?」

 すると唇を噛んで登が反論する。

「……ああ。そうや、和也のいう形に近いわ。けど、おまえは俺の花瓶を見ているやろ」

「見たんか?」北野に芹沢が訊く。

「ああ、そういや見たな、前に登の部屋に遊びにいった時に。忘れてたわ」

「となると、和也の頭に潜在的にインプットされた造形物の記憶が、その時公園で見た物体のシルエットに無意識に関連付けしてしまった可能性もあるな」

「いやでも、そういうことにしてもらわんと、あれが人間の首や思うと気持ち悪い」

 北野は表情を堅くして応えたが、それに対して戸川はさらに気色ばんだ。

「俺はそんなん認めへん。嫌や! 首やった方がましや!」

「物騒なこと言うなや、登。まるで子供やないか」

 芹沢がなだめるが、戸川は一向に落ち着く気配を見せない。それどころか顔をゆがめて二人を睨み返した。

「お前らにはわからへん。人を好きになるという事がどんなことか、お前らにはわからへんのや!」

「ふん。自分の惚れた相手にふられるくらいなら、殺人者であった方が良いなんて本気で言ってるんか? そんな気持ち、少なくとも俺にはわからんね」呆れたように北野は立ち上がった。「それじゃ、そろそろ帰るわ」

 北野が玄関で靴を履いても、芹沢と戸川は座ったままだったが、

「おい、晶。ちょっと」と北野が手を招くので、芹沢が立った。玄関で、

「なんや?」と芹沢が訊くと、

「ちょっと言い過ぎた。あいつに謝っといてくれ」

「ふん、自分で謝れ」

「わかった。けどな、現実は現実や。俺は自分の推理した通りやと信じてる。花瓶やと思えば確かにあれは花瓶であってもおかしくはなかった。いや、今思えば花瓶で間違いないやろうとさえ思える。俺の思い込みの激しい癖を差し引いても、や」

 北野が真剣に話すのに対し、

「まあ、少なくとも人間の首よりは確率的に高いわな」笑って芹沢が応えた。

 北野を見送ると、ドアを閉めて芹沢が戻ってきた。戸川は頭を垂れている。

「和也が謝ってた」

 芹沢がそう声をかけても、こくんと肯くだけで、戸川はやはりうつむいたままだった。そんな様子に芹沢はやれやれ、というふうに頭をぽりぽりと掻きながら、戸川の向いにどすんと腰を降ろした。そしてテーブルの上で指を組み、場違いにも明るい口調で話し始めた。

「さあ、冗談はここまでにして、と。真面目に話そうか、戸川君」

「今さら何を話そうと言うんや」

 頭のてっぺんをこちらに向け、ぼそりと戸川が訊いた。

「うん。もちろん、事の真相をだよ」

「真相だって? そんなのわかりきってるやないか。愛子は俺のプレゼントした花瓶を処分し、俺も捨てたんや。悔しいけど、それが現実やろう」

「おしい。でも、俺の解釈はそうじゃないな」

「なんやって?」戸川が顔を上げた。

「少しは救いのある解釈はあるということや。その前に、とりあえず彼女が少なくとも殺人犯ではないという事を証明しておこう。

 実は昨日の晩、隣のおばさんが煮物をおすそ分けしてくれてな。その時に聞いたんだが、行方不明やった老人はみつかったそうや」

「え?」

「昨日の夕方、ふらっと戻ってきたらしい。老人の隣の部屋の住人が、ドアの開く音を聞いてな。もしやと思い、ベルを鳴らすと何事もなかったような顔で玄関から顔を出したらしい。隣人が『どこへ行ってたんですか?』と尋ねてみると、『いやあ、ちょっと川辺の橋の下でホームレスの人とお話していたら、意気投合しちゃって、しばらくテントの中で一緒に暮らして語り合ってたんですよ』などという答えが返ってきたんやと。すごいオチやと思わんか?

 まあ、そういうことで、万が一にもそのおじいちゃんが戸川君の愛しの愛子ちゃんに殺されたなんて可能性はゼロなわけ。全く無関係やったということや」

「そうか……」

「少しは安心したか?」

「ああ……でも、それは最初からないと信じてたしな」

「ないと信じてたのに、そうであってくれた方が良いだなんて矛盾してやいないかい?」

「それが人間や。それにな、やっぱり、手作りのプレゼントが埋められてたなんて考えたくもないよ。だいいち、なんで埋めるなんてことをしたのかも、いまいち理解できへん。気に入らなかったんなら捨てればええことや。それに『割ってしまった』って見え透いた嘘をつかれた事もショックやな……。

 お前、これから救いのある解釈を聞かせてくれるんか?」

「聞きたいか? ただの想像だが」

「それでもいい。俺を少しでも楽にさせてくれ」

「まあ、今の状態よりはましになる」

5

「俺の想像どおりであれば、お前がしなけりゃならない事は、そんなふうにうじうじと落ち込むことやない。今すぐにでも彼女の家を訪れ頭を下げることや」

「なんやって? ふられた俺がなんで頭を下げる理由がある。『どうか考え直して欲しい』とでも頼むのか? 俺だって男や。そんな女々しいことするなら、諦めるわ……」

「そういう意味やない。お前は、ふられてへん」

「どういうことや。それならどういう意味や」

「それを今から話してやる。

 全ては、彼女が花瓶を埋めた理由を理解することによって、簡単に説明がつく。そして埋めた理由を理解するには、すなわち彼女の部屋の花瓶が違う物に取って代わっていた、という事実から背理的に考えれば良い」

「さて、花瓶が変わっていた事実に対して、北野は『彼女が新しい恋人に花瓶をプレゼントされたから』というような解釈を話していたが、実際のところどうやろう。登、お前もそう思うか?」

「……いや、思わない。というより、そんなこと信じたくないわ」力なく戸川が答える。

「ふむ。俺もそれは違うやろうと思う。北野の言うように、ある日いきなり彼女の前に素敵な王子様が現れ、彼女に高価な花瓶をプレゼントしたなんてな、笑える話ではあってもちっとも現実味がない」

「そうかな? 俺なんかより恰好ええ奴が現れて、そいつに彼女が惚れてしまった、なんてあってもおかしくはないと思うんやが……」

「おいおい、肯定するのか? だいたい彼女が外見で判断するような人なら、初めからお前など眼中にないやろう」

「言い過ぎやぞ!」

「お前だって、彼女がそんな人じゃなかったから惚れたんじゃないのか?」

「まあ、そうや」

「それに、すぐに他の男に目移りするような子やったのか、その子は」

 という芹沢の質問に、とんでもない、というふうに戸川は首を振った。

「しかし愛子にその気がないとしても、彼女を一方的に好きになった男がいたとしてもおかしくはないやろ。そいつがプレゼントしたのかもしれへん」

「そんなことはどうでもよろしい。とにかくや、仮に彼女が気安く物を受け取るような人やとして――おいおい、そんなに恐い顔をしないでくれ。言葉のあやだ――やっぱり好きな相手へのプレゼントに花瓶ってのはおかしいんじゃないか?

 お前のように花瓶と花をセットでプレゼントするというのでさえあまり聞く話ではないやろう。花だけならまだしも、花瓶だけというのは常識的に不自然や。受け取る側にしたら花瓶だけもらってどないするんやって話になるしな。

 そういうわけでお前に代わる新恋人、もしくわ一方的に彼女に惚れ込んだ男がプレゼントしたのだ、という北野の説は可能性として薄すぎる。

 それなら、花瓶はもともとそのお嬢さんが持っていたものか、自分で調達したものだと素直に考えた方が現実的なんや」

「ああ、わかった。うん、それじゃあ、そうだとして、なぜ愛子は俺の花瓶をその花瓶に変えてしまったんや。その行為が、俺を拒否しているという解釈にはつながらんか。それとも愛子はほんまに俺のプレゼントした花瓶を割ってしまったんやろうか」

「質問が多すぎる」芹沢が少し優しく笑いながら言う。「気持ちはわかるが、一つずつしてくれや」

 言われて初めて気づいたように、

「ああ、すまん」と戸川が苦笑した。

「そうやな、『なぜ』から少し頭を離して、彼女の側に視点をおいてみようや。彼女はお前に『俺の花瓶はどないしたんや』と訊かれた時、『うっかり落して割ってしまった』と答えた。けれどお前によれば、嘘が見え見えで本当のことを話している様子ではなかったという。お前たちが付き合ってどれほど経つのか知らないが、彼女が嘘をつく時にするしぐさはかなりわかりやすいようやな」

「そうなんや。こう、伏し目がちに眼を左右に動かすんや。そんなふうに話すのは、いつも嘘をついている時やった。嘘の眼や」

「確率的にどのくらい?」

「俺が気づいて尋ねると十中八九」と、戸川は額に手を当て悩ましそうに答える。「大抵、小さなかわいい嘘で許せるものばかりなんやけどな。今回はショックやった」

「ふむ。それならば、きっとその時も嘘をついていたのやろうと考えて間違いないな」冷めた紅茶を芹沢がひと口飲んだ。そしてもうひと言、

「同時に、嘘の眼の裏には隠された真実があるということも、忘れてはならないよ」

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