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ノブから手を放し、振り返る。
リンの視線とぶつかった。
腕も足も、今は血が止まっているようだが胸元の傷も。小さい身体は満身創痍だ。そのリンを放り出しては行けない。
「余計な心配すんな」
不機嫌そうな声。
「世界最高の美貌と英知を持つ魔女たる私に、失礼だと思わない?」
前半部分は冗談としても、確かにリンの力を常識で計るのは不可能だ。
「さっき言ったでしょ。アンタの力が必要な時は、ちゃんと言葉にして伝える」
「でも」
「アタシは弥生ちゃんのそばに居てあげて欲しいって頼んだつもりなんだけど」
語尾を強めてそう言った。
これ以上のくだらない問答をする気はない。暗にそういう空気を含んでいる。
「う、わかったよ。じゃあ、せめて救急車」
ポケットの携帯を掴む。
「要らないわ。魔法で治しちゃうから」
「でも」
「病院って嫌いなの、救急車とか呼んだらホンキで怒るわよ」
病院で科学治療を受けるよりも、魔法で治す方が手っ取り早いのかも知れない。
「ひょっとして、アタシの裸が見たいの?」
「へ」
まったく予想してなかった問い。
「治療するには服を脱がなきゃダメでしょ。だから、ここに居たいの?」
妙に大人びた口調で、胸元を隠す仕草をしてみる。
甲高い声に子供そのままの容姿では、あまりに滑稽に思えた。
「ったくしょうがないわね」
大げさに溜息をつくと、襟元に指を掛ける。
「うわっ。ちょっと待って!」
流石に驚いた。思わず背中を向ける。
「あはは。冗談よ。さ、早く行ってあげて」
「わかったよ」
こういうやり取りでは、まったく勝ち目がない。悔しいが老練な魔女には適わないとしておこう。
ドアを開く。
「ちゃんと家まで送ってあげるのよ。アタシも後始末したら帰るから」
「あ、うん」
「なによ。まだなんか文句あんの?」
「その、えっと」
猟犬の事。弥生の事。そして鳴海自身の事。
どう伝えればいいのか迷う。適当な言葉が見つからない。だからシンプルに。もう一度。
「リン、ありがとう」
リンの瞳が微かに大きくなった。
微かに頬が赤くなる。と、ぷいっと視線を外した。
「なによ。それ。アタシは自分のすべき事をしただけよ。礼なんて言われたくもないわ」
素直な感情表現が苦手な所は、見たままの通り。子供っぽくて微笑ましいと鳴海は思う。
「ったく! バカ言ってないで、さっさと行け!」
リンの怒声に押されて、慌てて駆け出す。
昇降口のドアが錆びた音を立てて閉まる。
大きく息をついた。
どうも調子が狂う。
外見でなく精神的にも子供の部分があるのだろう。
咄嗟の反応が子供っぽい。
「ありがとう……か」
ちょっと顔が緩んだ。見下した笑みではない。もっと素直な表情。正直、満更でもないかなと思う。もちろん、ホンの少しだけど。
「安っぽい言葉ね。まったく」
わざとらしく咳払いを一つ。
頬から体温が引くのを待った。
これだけ経てば、不意に鳴海が戻ってきたりしない。
両足は体重を維持するのも難しくなっている。
コンクリートの床にお尻をついて座り込んだ。
空に視線を向ける。
気の早い星が輝きつつあった。
夜空は薄く、星は軽くなった。
自分がこの地に来た頃は、奇妙な衣類に珍妙な髪型をしていたのを思い出す。
ここ数百年で大きく変わった。陳腐な表現をすると文明の進歩だろう。
魔法に比べると科学はあまりに不便で無力で非効率で幼稚だ。だが、その歩みは無限の可能性を秘めている。遥か未来、自分が辿りつた真理の世界に到達するのではないか。
時の呪縛から解き放たれ、永遠を生きられる自分なら、それを目にする事もできる。楽しみだ。
仰向けになった。傷を回復させるには、まだ魔力が溜まるのを待たなければいけない。
それにしても、今回は予想以上に苦戦した。
原因は浪費。いくつもの魔法を同時に使いすぎている。藤見野市を覆う結界。擬似空間の維持。そもそも蛇の目屋。そして鈴鳴 紅音という存在自体が強引に作り出した物。
これらだけでもかなりの魔力だが、それ以上に大きなのは擬似生命の維持。
死んだ人間の魂を無理やり身体に繋ぎ止めている。これには膨大な魔力が必要だ。
しかも、一人ではなく二人分も!
猟犬より手強い妖怪は沢山居る。
何か策を講じないと……。
「ま、なるようになるわよ。うん」
考えるのは、また暇な時でいいや。流石に疲れた。少し眠っておこう。
ゆっくりと目を閉じる。
あっという間に意識が遠のいていった。
小さく規則的な振動が、ゆっくりとリンの意識を現実に引き戻した。
優しく流れる風が微かに髪を揺らす。
ここはどこだろう。
眠り足りないのか、まだぼんやりする。
「起きた?」
すぐ耳元で聞こえた鳴海の声に、慌てて目を閉じる。
「違うか」
漏らした息が、頬に当たるのを感じた。
目を瞑ったまま、冷静におかれた状態を確認。だらしなく椅子に座ったような格好で、何かにもたれ掛かっている。
暖かい。全身が体温を感じる。
小さな掛け声と共に、身体が跳ねた。空間座標的に言えば、置かれていた高さがあがった。
鳴海におんぶされているようだ。
薄く目を開けて、様子を伺う。
やっぱり。すぐ近くに鳴海の顔。
額から汗を流し、完全に息が上がっている。
体力のないヤツ。女の子を少し担いだくらいで、こんなに消耗するなんて。最近のガキは軟弱だなとリンは思う。
視線を周囲に移動させる。ここはどの辺りだろう。
見慣れた景色。学校の近くだ。方向的には南に向かっている。
鳴海が立ち止まった。
目を閉じて息を潜める。
「もうちょっと先かな」
手に持ったメモを相手に呟いた。
再び微かに目を開けて、鳴海の手元を盗み見る。知ってる住所。リンの棲家として教えた場所だ。
なるほど。どうやら、リンを家まで負ぶっていくつもりらしい。
弥生の様子を確認してから、戻ってきたのだろう。
あれほど余計な心配すんなって言ったのに。
「オバカ」
「ん」
つい言葉が漏れた。慌てて寝たふりをする。
こそこそする必要ないのに。そう思いつつも鳴海の視線が外れるのを待つ。
「リン、起きてる?」
質問するな。
「目が覚めた?」
だから聞くなって。
「やっぱり寝てるの?」
寝てる人間が答えるわけないでしょ。
喉元まで上がってくる言葉を飲み込む。
鳴海が溜息をついた。頬に当たる息がくすぐったい。
笑いそうになるのをぐっと我慢した。
「こうして黙って寝てると可愛いのに」
卑怯な不意打ちだった。
微かに鼓動が早くなるのを感じる。体温が上がり、くすぐったい気分になる。頬が熱を持つのを、耳まで熱くなるのを止められない。
いきなり目を開けて、頭をぶん殴ってやろうかと思った。
「よいしょっと」
鳴海が身体をゆすってリンの位置を直す。
周囲が暗かったのもあって、リンの変化に気づかなかった。
手元のメモを見て、歩き始める。
危機を脱したリンが、安堵の息をつく。
なかなかのピンチだった。
今のは鳴海の勝ちにしておいてやる。
心の中で勝手に決める。しかし、負けっぱなしで終わるわけにはいかない。
即座に報復を考える。
周囲の空間配置を書き換えた。これで辿り着く事はできないだろう。
後は……。呼吸を整えた。
振動と体温が心地よい。
もう少しだけ眠る事にしよう。
「これは罰なの。うん」
甘えてるんじゃない。自分に小さく言い聞かせて眠りの世界に戻った。
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