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距離は約三メートル。
リンはこの化け物を『猟犬』と呼んでいた。それに対し自分は獲物という事になる。
皮肉だがぴったりな表現だと鳴海は思う。
押し付けられるような緊張感。じっとりと嫌な汗をかいている。
ここからでは弥生の状態を知る事はできないが、まだ助けられるかも知れない。
ありえない希望にすがりつく事で、恐慌に陥りそうな自分を繋ぎとめていた。
まずはこいつを引き放さないと。
保健室のドアは鳴海の右後方。逃げるチャンスはある。
だが、ここで背を向けて駆け出せば、ドアに手を掛けるよりも早く、餌食になって
しまうだろう。
漫画や小説の主人公なら、こんな時はあっと驚く方法で危機を脱する物なのだが。
頭部にあるいくつもの目がギロギロと油断なく周囲を伺っている。
相手は動物ではない。化け物なのだ。
知能は獣より遥かに高く、そう簡単に出し抜けそうにない。
じわりと猟犬が進む。それにあわせて鳴海が下がる。
大きく右に回りこむような動き、距離をあけるにはどうしても左側に下がるしかない。
確実に鳴海を出口から遠ざけようとしている。
このまま、じりじりと回り込まれたら、助かる術はない。
どうする? どうする?
猟犬が右前に、鳴海が左後ろに下がる。
鳴海の背中に何かが触れた。猟犬の動きに注意しつつ、ちらりと目を向ける。
棚だ。薬品棚に背中が当たったのだ。
こいつを引き倒し、猟犬を下がらせる。その隙にドアを開けて外に出る。
博打にしては分が悪いが、このまま追い詰められるよりも、無策に背を向けるより
オッズは高い。
今朝の星座占いでは運勢は星三つだったハズ。大丈夫!
後ろでに手を伸ばし、棚を掴む。
裂帛の気合と共に力を込める。
「あ、あ、あれれ」
間抜けな声を上げてしまった。薬品の詰まった棚は鳴海一人の力くらいでは、
びくともしない。
アクション映画みたいにはいかない。それが鳴海にとっての現実だ。
逆にバランスを崩し、膝をついた。
もちろん、その隙を猟犬が見逃すわけはない。後ろ足にぐぐっと力が加わるのが解る。
一気に跳躍、間合いを潰し、その鋭い爪で。
何か身を護る物は!
棚の足元。手の届くギリギリの範囲に薬瓶が一本。
猟犬が地を蹴った。
薬瓶を掴む。
ずしりと重い。
投げつけた。できるだけの力を込めて。
くるくると回りながら猟犬の頭部、目に埋め尽くされた部分に命中した。
小さな音を上げて、瓶が砕け、中から液体が散る。
だが、怯む様子はない。
ダメだ。
両手を前に翳し、全身に力を込める。
無駄な防御姿勢。なんの効果もないだろう。
それでも目を見開き、視線を逸らさないのは、せめてもの抵抗だ。
と、猟犬がバランスを崩した。
鳴海のすぐ横に頭から落ちる。
呻きを漏らしながら、前足で顔を抑え、身を捩じらせる。
何が?
キツイ刺激臭。この匂い。アンモニアだ。
鳴海の掴んだのは薬用のアンモニアの瓶だった。
犬と呼ばれるくらいなのだ。おそらく嗅覚は人よりは強いだろう。
それに頭にはあれほどの目があった。
鋭い感覚器が逆にアダになった。この不意打ちは効いたようだ。
今しかない。
背を向けて、ドアまで駆ける。
わずか数メートルが恐ろしく長い距離に思えた。
ドアに手が触れる。力一杯、開け放った。
瞬間、室内に残る弥生の事がよぎる。
だが、今はどうにもできない。
迷いを隅に押し込み、保健室を出た。
と、足が絡まった。倒れそうになるところを、辛うじてこらえる。
胸ポケットから携帯とジッポライターが転がった。
急いで拾い上げる鳴海の頭上を何かが掠める。
巨大な影が鳴海の前に着地した。
確認するまでもない。猟犬だ。体勢を立て直して、鳴海の背後から跳び
かかったのだ。
もし、身体を低くしていなければ。
ぞっとする。
猟犬が首を左右に振った。牙を剥き出し、唸りを漏らす。
ぴくぴくと耳が動いている。
アンモニアのダメージは残っているようだ。
音だけでは正確な攻撃はできないのだろう。
全力で逃げれば大丈夫。
鳴海の直感がそう告げていた。
今までの偶然を考えれば、幸運は自分にある。
背を向けて駆け出す。
どこに逃げる?
まず頭に浮かんだのは部室だ。リンが居れば、助けてもらえる。
だが、この化け物を引き連れて走るのは良いと思えない。
犠牲者を増やす可能性があるし、途中でバテて捕まったらお仕舞だ。
ちらりと後ろに視線を投げる。猟犬が追ってきている。
距離は徐々に詰まってきていた。
携帯とジッポライター。握ったままの手にようやく気が付く。
このライターは魔神を呼び出す。リンはそう言っていた。それがどんな物なのか
解らないが、これを使うしかない。
蓋を開け、ホイールに指を掛ける。落とさないよう慎重に。
力を込め。はっと止めた。
ここはマズい。もっと開けた場所がいい。
魔神が無差別に暴れたら、大惨事になる可能性がある。
屋上。
不意にその単語が浮かんだ。直感に従い。階段を駆け上がる。
息がどんどん荒くなる。
首だけで振り返った。階段を駆け上がるのは得意ではないらしい。
胸が痛い。心臓がないハズなのに。休みたい。
昇降口のドアが見える。
屋上に出た。
なんとかここまで来れた。幸運に感謝し、天を仰ぐ。青く高い空。駆け抜ける風。
振り返った。
昇降口。
濃い影の中。
キラキラと輝く無数の。
目。
「はは早く来いよ」
震えている。
ゆっくりと漆黒の身体がドアをくぐる。
鋭い牙が覗く。
追い詰めた。
そう言いたいのが解る。
ライターのホイールに指を掛けた。
「魔神よ! 出て来い!」
ホイールを滑らせる。フリントが擦れる。ジャッと火花が散った。
だが。
「え?」
ホイールに指を掛け。
ジャッ! ジャッ! ジャッ! ジャッ! ジャッ!
虚しく火花が散るだけだ。
「なななななんで点かないんだよ!」
ゆっくりと猟犬が近付いてくる。
異常に赤い舌が、口の周りをちろちろと舐める。
「点けよ! 点けよ! 点けよ!」
じりじりと下がる。
ライターと猟犬の間を、視線が何度も往復する。
鳴海の背中をフェンスが押し返した。
安全のために周囲に張り巡らされたフェンス。これ以上は逃げられない。
猟犬が大きく吠え、跳躍した。
大振りのナイフを思わせる爪が光を反射し、ギラリと凶悪な色を浮かべる。
身を庇う事も、避けようとする事もできない。
「うわぁぁぁ!」
ただ狂ったように、ホイールを擦り続けた。
爪が。容赦の無い。致命的な一撃が。
寸前で火が点った。
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